西近江路(にしおうみじ)は、近江国(滋賀県)から越前国へ通じる街道で、古代・ 中世の古北陸道、北国海道、北国脇往還、北国往還、北国脇道とも言われていた。 1887年(明治20年)に西近江路として県道となりこの名称が定着した。 古来より都と北陸を結ぶ道として人の往来が多いだけでなく、壬申の乱、藤原仲麻呂 の乱、治承・寿永の乱(源平合戦)、織田信長の朝倉攻めなどでは大軍が移動 している。また、平安時代の遣渤海使もこの道を通るなど、交流の道でもあった。 別名北国海道と呼ばれているが、なぜ「街道」ではなく「海道」の字が
使用されたのか。 『図説滋賀県の歴史』によれば、「江戸時代の古絵図をはじめ街道筋に散在する石造 道標のほとんどに「北国海道」と刻まれているところから海の字を用いている。」とあ る。 『近江の街道』でも、同じく石造道標の記載をあげたうえで、「それだけこの道が、 北国の海へのイメージが強かったのであろう。」とあり、『図説近江の街道』でも
同様の見解が示されている。しかし、『近江の道標』には、「街道でなくて、海道
という名前がついたのは、北国の海をさす道か、あるいは、びわ湖に沿うてある
からか明確ではない」 とある。 1)古北陸道の概観 古代を通じて、志賀町域は、律令国家の官道の一つである北陸道が通過する要所で あった。北陸道とその枝路には、駅(うまや)が置かれ、公用をおびた役人が乗り 継ぐ馬が用意された。 更に、その駅制度は一層整備される。和邇駅は本町域の、和邇川の三角州に位置する、 和邇中にその遺跡が残っている。 近江の北陸道は、平安時代から江戸時代に至るまで平安の都と北陸をつなぐ最短距離 の道として重要な機能を有していた。 平安時代の法令集と言うべき「延喜式」の兵部省の「諸国駅馬条」によれば、北陸道の 駅馬はすべて五疋である。 しかし伝馬数は穴太五疋、和邇七疋、三尾七疋、鞆結九疋の四駅が設置された。 (古代) 小関越え → 穴多(太)駅(大津市穴太) → 和邇駅(大津市和邇中浜) → 三尾駅 (高島市安曇川町三尾) → 鞆結駅(高島市マキノ町小荒路・海津・浦・石庭) → 愛発関(敦賀市疋田か) 2)交通の要路である西近江路 古代からの官道の駅家がその核となり、荘園の中心集落と一体となった新しい 要路となっている。この山側には、途中、朽木を経由する花折街道もあった。 平家物語、源平盛衰記には、軍隊の動きが書いてあり、それにより、当時の 交通路の概要が掴める。 源平の戦い、足利氏の新政府のための戦いなどが繰り返れることにより、 堅田は港湾集落としての機能を高めていく。更に、14世紀以降は、本福寺 の後押しもあり、湖上の漁業権の特権も活かし、最大の勢力となって行く。 本町地域での陸路と水路の集落にも、役割が出てくる。 陸路でもあり、各荘園の中心集落としては、 南小松、大物、荒川、木戸、八屋戸、南船路、和邇中、小野があった。 これらの中でも、木戸荘は中心的な荘園であった。 水路、漁業の中心としては、北小松、北比良、南比良、和邇の北浜、中浜、 南浜があった。 和邇は、天皇神社含め多くの遺跡があり、堅田や坂本と並んで湖西における 重要な浜津であり、古代北陸道の駅家もあった。古代の駅家がその後の 中心的な集落になる事例は多くある。現在の和邇今宿が和邇宿であったことが 考えられる。 (近世) 大津宿・札の辻(大津市札の辻) → 衣川宿(大津市衣川) → 和邇宿(大津市 和邇中) → 木戸宿(大津市木戸) → 北小松宿(大津市北小松) → 河原市宿 (高島市新旭町安井川) → 今津宿(高島市今津町今津) → 海津宿(高島市 マキノ町海津) → 敦賀宿(敦賀市元町) 西近江路は大津町のやや西よりをまっすぐ湖岸に向かって出て、湖岸よりの道を 下阪本まで北上する。この付近で古北陸道と合流して、湖岸沿いにかっての 古北陸道を踏襲しながら北へ進む。海津から七里半越を経て敦賀へと通じていた。 道筋について享保一九年(1734)編述の「近江輿地誌略」によれば、 西近江路 大津より坂本へ二里、坂本より衣川(大津市)へ一里半、衣川より木戸(志賀町) へ一里、木戸より小松(志賀町)へ二里、小松より新庄(新旭町)へ三里半、 新庄より今津へ一里半、今津より海津へ三里、海津より山中へ三里半、 山中より駄口へ一里、駄口より疋田(敦賀市)へ一里、疋田より二つ屋へ 二里、二つ屋より今庄へ二里あるなり とある。 これによれば、滋賀県内を通る西近江路の距離は、およそ72キロとなる。 この間の宿場は、いつ設置されたかは不明であるが、衣川、和邇今宿、木戸、 北小松、河原市、今津、海津の7宿であった。 堅田から和邇への道 司馬遼太郎の「街道をゆく」の第1巻は、この地から始まっている。 「近江」というこのあわあわとした国名を口ずさむだけでもう、私には詩が 始めっているほど、この国が好きである。、、、 近江の国はなお、雨の日は雨のふるさとであり、粉雪の降る日は川や湖まで が粉雪のふるさとであるよう、においを残している。 「近江からはじめましょう」というと、編集部のH氏は微笑した。 この湖岸の古称「志賀」に、「楽浪さざなみの」というまくらことばをつけて よばれるようになったのは、そういう消息によるものにちがいない。 車は、湖岸に沿って走っている。右手に湖水を見ながら堅田を過ぎ、真野を過ぎ、 さらに北へ駆けると左手ににわかに比良山系が押しかぶさってきて、車が 湖に押しやられそうなあやうさを覚える。大津を北に走ってわずか20キロと いうのに、すでに粉雪が舞い、気象の上では北国の圏内に入る。 とその書き出しに始まっている。とても喜ばしいが、なぜ、冬の日なのか、ちょっと 気に入らない。白洲正子や井上靖などの作品で、多くは冬の情景が描かれている ことが多い。万葉集などの歌にもよく読み込まれているように春や秋の情景も 多く描いてほしいものだ。 西近江路は、JR堅田駅を通り抜けるとあたらしい東西に走る広い道路に出る。 左の道をとれば、真野から伊香立を経て途中峠へ、更に京都へと通じている。 旧街道は、再び国道161号線と合流し、真野川をこえ真野の集落に入る。 春は桜が川沿いを走り、ピンクの彩を映えて、湖まで続いている。 右側の湖岸べりには、真野川によって大きな砂洲ができ、長く松林が続いている。 夏には水泳場としてにぎわう。 この真野周辺は、古くは湖岸線が今より深く入り込み、それを「真野の入り江」 といわれ、歌枕として著名な風光の地であった。平安時代末期の歌人、源俊頼 は、 「うずらなく真野の入り江の浜風に、尾花すすきなみよる秋の夕暮れ」 の歌を詠んでいる。また、街道沿いにある正源寺の梵鐘には、鎌倉時代に真野 庄人々が願主となって梵鐘を神田社へ奉納、その二百年後に野洲郡中主町の 兵主神社へ移り、さらに約三百七十年後に地元に帰ったことなど、珍しい 銘文が刻まれている。 道は大きく左へ曲がり西へ進むが、正面に大規模な団地があり、その背後に 標高百八十七メートルの曼陀羅山が見える。この山頂には、全長七十二メートル の前方後円墳の形態を有する和邇大塚山古墳がある。ところで、道は右へ 曲がりしばらく行くと、国道161号西近江路の分岐点がある。左側の道を とれば、志賀町小野の集落にさしかかる。この小野の里は、古代近江を 代表する豪族小野氏の本貫の地であった。JR湖西線の下をくぐると、 左側の道脇に「外交始祖大徳冠小野妹子墓是より三丁余」と刻まれた石造 道標がある。この道標に導かれて進めば、団地に囲まれるように妹子公園 がある。その頂上部分には、小野妹子の墓と伝えられる石室の露出した円墳 がある。妹子は六百七年、六百八年と日本最初の遣隋使として活躍した人であった。 小野の集落は、西近江路を挟んで形成されている。その真ん中辺りの左側を 少し入ったところに小野道風をまつった道風神社がある。静寂の中に三間社 流造りの美しい本殿の形姿を見せている。道風はいうまでもなく平安時代 末期の書家で、藤原佐理すけまさ、藤原行成とともに天下の三蹟といわれた。 この地の情景は白洲正子の「近江山河抄」にも描かれている。 「小野神社は2つあって、一つは道風、1つは「篁たかむら」を祀っている。 国道沿いの道風神社の手前を左に入ると、そのとっつきの山懐の丘の上に、 大きな古墳群が見出される。妹子の墓と呼ばれる唐臼山古墳は、この丘の 尾根つづきにあり、老松の根元に石室が露出し、大きな石がるいるいと 重なっているのは、みるからに凄まじい風景である。が、そこからの眺めは すばらしく、真野の入り江を眼下にのぞみ、その向こうには三上山から 湖東の連山、湖水に浮かぶ沖つ島もみえ、目近に比叡山がそびえる景色は、 思わず嘆息を発していしまう。その一番奥にあるのが、大塚山古墳で、 いずれなにがしの命の奥津城に違いないが、背後には、比良山がのしかかるように 迫り、無言のうちに彼らが経てきた歴史を語っている」。 だが、現在はその様相をかなり変えていた。 さらに、街道を北へ進むと、白壁に囲まれた上品寺の手前にある左側の参道 の突き当りには2つの小野神社がある。県下一と言われるムクロジの大きな木 を見ながら石の鳥居を過ぎると小野神社と小野篁が並び立つような形である。 小野神社は、小野の鎮守であるが、その境内には小野篁たかむら神社がある。 これも道風と同じ様式で切妻平入三間社流造りでいずれも重要文化財に
指定されている。 篁は平安時代前期の漢学者、歌人として著名である。いずれにせよ、小野の集落は 古代社会の文化に貢献した小野氏を生んだ土地らしく、いまもそれを物語る貴重な 遺跡が多く残されている。 しかし、小野氏より早くからこの地を支配してきたといわれる和邇氏同族の 和邇部氏の遺跡がほとんどないのが、不思議だ。 小野の集落をあとにして和邇川をわたると、和邇中の家並みにはいる。 その真ん中あたりに三叉路があり、かっては西近江路の宿駅がおかれ、交通の 要衝にあたっていたところだ。左側の道をとれば、竜華から還来(もどろき) 神社前を通り伊香立途中町へ。ところで、この三叉路のちょうど真ん中には、 地名の由来にもなった榎の大木があったが、枯れてしまったので明治百年記念 に大きな石に「榎」と記した碑が建てられている。榎はかって神木として 仰がれていたので、いまも注連縄がめぐらされている。この石碑は私たちに 歴史的足跡を教えてくれる好例であろう。また、その角には木下屋という 旅館があり榎の大木があったことをしのばせていた。その旅館もいまは 跡形もない。この交差路を左に行けば、天皇神社から途中峠と向かう。 天皇神社は、元天台宗寺院鎮守社として京都八坂の祇園牛頭天王を奉還して 和邇牛頭天王社と呼ばれていましたが、1876年にに天皇神社と改称された。 祭神は、素盞嗚尊(スサノオノミコト)、三宮神社殿、樹下神社本殿、若宮神社 本殿もあり、近世では、五か村の氏神となっている。 現在の本殿は、隅柱や歴代記等から鎌倉時代の正中元年(1324)に建立された と考えられており、本殿は流造の多い中、全国的にも稀な三間社切妻造平入の 鎌倉時代の作風を伝える外観の整った建物だ。 5月8日には旧六か村の和邇祭が行われ、庄鎮守社としてこの天皇神社(天王社) の境内には、各村の氏神が摂末社としてあります。天王社本社(大宮)は和邇中、 今宿、中浜は樹下(十禅師権現)、北浜は三之宮、南浜は木元大明神、高城は 若宮大明神があり、夫々の神輿が出て、中々ににぎわう。 西近江路には、江戸時代の思想家で、近江聖人といわれた中江藤樹所縁 の伝承がおおい。この榎の宿にも、いまも語り継がれている話がある。 和邇中の集落をあとにして道は、湖西線の下をくぐり湖岸に向かい、そこで 国道161号と合流して、中浜、北浜の細長い家並みを通る。 近世では、西近江路の街道筋を中心に「和邇九が郷」といわれ、それには 小野、栗原、中村、高城、今宿、南浜、中浜、北浜、南船路の各村が含まれた。 そのうち、北浜、中浜、南浜は、琵琶湖岸に接し和邇浜と呼ばれていた。 ここでは、琵琶湖特有のいさざが捕れる浜となっていた。江戸時代初期に あたる寛永年間にできた「毛吹草」にも諸国名物の一つとして「和邇崎の イサザ」とあり、すでにこの地の名産として知られていた。 イサザはうきごりの幼魚にあたり、体長約5センチぐらいの淡水魚で、 飴煮や汁にする。その淡水魚独特の素朴な味覚は、いまも捨て難いものがある。 ビワマス、氷魚などとともに琵琶湖八珍として親しまれている。 北浜の集落から西近江路を北へ進むと、目の前に高い比良の山並がたちはだかる。 この比良山系は、南から蓬莱山、鳥谷山、堂満岳、釈迦岳、武奈ヶ岳など 千メートルを越す山々で形成されている。眼下に琵琶湖をもつ比良山系は、 それぞれ山容が変化に富むとともに、四季折々異なった景色を見せ、 登山者に親しまれ愛されてきた。 一方、それを眺める山としても著名であった。春になっても山並の頂上部に まだ雪を残したその景観は素晴らしく、「比良の暮雪」として近江八景の 一つに数えられ、江戸時代の名所や浮世絵版画に登場している。 また、「比良の高嶺、比良の山嵐、比良の山」といった歌枕として万葉集、 新古今和歌集など多くの歌集にも見ることが出来る。 「恵慶集」に旧暦10月に比良を訪れた時に詠んだ9首の歌がある。 比良の山 もみじは夜の間 いかならむ 峰の上風 打ちしきり吹く 人住まず 隣絶えたる 山里に 寝覚めの鹿の 声のみぞする 岸近く 残れる菊は 霜ならで 波をさへこそ しのぐべらなれ 見る人も 沖の荒波 うとけれど わざと馴れいる 鴛(おし)かたつかも 磯触(いそふり)に さわぐ波だに 高ければ 峰の木の葉も いまは残らじ 唐錦(からにしき) あはなる糸に よりければ 山水にこそ 乱るべらなれ もみぢゆえ み山ほとりに 宿とりて 夜の嵐に しづ心なし 氷だに まだ山水に むすばねど 比良の高嶺は 雪降りにけり よどみなく 波路に通ふ 海女(あま)舟は いづこを宿と さして行くらむ これらの歌は、晩秋から初冬にかけての琵琶湖と比良山地からなる景観の微妙な 季節の移り変わりを、見事に表現している。散っていく紅葉に心を痛めながら 山で鳴く鹿の声、湖岸の菊、波にただよう水鳥や漁をする舟に思いをよせつつ、 比良の山の冠雪から確かな冬の到来をつげている。そして、冬の到来を予感させる 山から吹く強い風により、紅葉が散り終えた事を示唆している。これらの歌が 作られてから焼く1000年の歳月が過ぎているが、現在でも11月頃になると 比良では同じ様な景色が見られる。 万葉集では、 楽浪(さざなみ)の比良山嵐の海吹けば釣する海人の袖反(かえ)る見ゆ このほかに、本町域に関する歌には、「比良の山(比良の高嶺、比良の峰)」 「比良の海」、「比良の浦」「比良の湊」「小松」「小松が崎」「小松の山」 が詠みこまれている。その中で、もっとも多いのが、「比良の山」を題材に して詠まれた歌である。比良山地は、四季の変化が美しく、とりわけ冬は 「比良の暮雪」「比良おろし」で良く知られている。 このように、比良の山々は、古代の知識人に親しまれ、景勝の地として称賛 されていたのである。 鎌倉時代以降は、旅を目的とした古代北陸道としての活用が高まり、 多くの歌人が名勝や情景に歌を綴った。 西近江路は文化面のほかにも、その特徴の1つに湖上交通の物資輸送の集散地 となっていった港との深い関係がある。 「延喜式」には、能登や越中の日本海沿岸の諸物資が敦賀から塩津、海津、 に輸送され、湖上を大津へ廻漕されて都へと運ばれたと記述されている。 江戸時代にはさらに開発され、「淡海録」には、 大津212艘、堅田133艘、今津125艘、塩津121艘、北小松35艘、 和邇33艘、南比良27、南小松13、木戸10艘などとなっている。 これをみても西近江路にある港には、合わせて919艘という多くの船 を所持していたことがわかる。 しかし、西近江路の名称は、古絵図には「北国海道」、「北国道」と書かれている 場合が多い。さらには、石造道標にも「北国海道」、「北国道」の名称が 多く刻まれている。これらから当時の人々は西近江路と呼ぶよりも、北国海道 という呼称で親しんでいた。 北国海道の前身となる古代、中世の北陸道は、日本の官路都市て畿内あるいは平安の 郡と北陸を最短距離でつなぐ重要な道として長い歴史を刻んできた。 和邇から木戸へむかう 西近江路は、JR湖西線を再びくぐり、蓬莱駅前の北船路の八所神社の前へ出る。 この八所神社の由来は、日吉社の神官祝部行丸が、織田信長の比叡山 焼き討ちの時、その難をのがれて、日吉社七体のご神体をこの地に 運び、元来の地主神と合わせて八神をまつったことによると言われている。 ところで、北船路は比良の山上にある小女郎池への登り口にあたる。 蓬莱山と権現山とのほぼ中間にあるこの池は、およそ千メートルも高い ところにあって、今も水をたたえている。この池を見るにつけ比良の 山のもつ神秘性をうかがわせる。小女郎池は、竜神の住む池として地元の 人々から畏敬され、干ばつになると、かっては雨乞いの行事が行われた。 今も山麓の集落との結びつきが強い池である。 道は、八屋戸守山の集落の手前で、左に入り右へ曲がるが、その角には 「左京大津」と刻まれた自然石の道標がある。 この守山は、明治7年に隣りの北船路村と合わせて、八屋戸村となった ところだ。守山は、比良山系の一つ蓬莱山への登り口として知られている。 この集落の真ん中を通る石畳を中心にした道を上がれば、標高500メートル 付近に文政11年に勧請した湖上航行の安全の神をまつる金毘羅神社がある。 更に進むと金毘羅峠を越えて蓬莱山へと道は続く。 また、守山の集落は、湖岸の八屋戸浜に接しているが、この浜から江戸時代 には薪炭、石材などが湖東、大津方面まで舟で運び出されていたのである。 この地域は石の文化が生活に根付いている、といえる。 比良を中心としたこの地域から産する石材を利用した多くの歴史的な構造物が今も 残っている。これらは、河川や琵琶湖の水害から地域を守るための百間堤などの 堤防、獣害を防ぐしし垣、利水のための水路、石積みの棚田、神社の彫刻物など であり、高度な技術を持った先人たちが、長い年月をかけて築き上げてきた 遺産である。 さらには、個人の家の庭や道には、石畳として使われたり、生活用水のための 石造りのかわとなど生活の一部に溶け込んでもいる。神社の狛犬、しし垣、 石灯篭、家の基礎石、車石など様々な形でも使われて来た。 古くは、多数存在する古墳にも縦横3メートル以上の一枚岩の石版が壁や天井に 使われている。古代から近世まで石の産地としてその生業として、日々の生活の 中にも、様々に姿を変え、関わってきた。 また、南小松は江州燈籠と北比良は家の基礎石等石の切り出し方にも特徴があった ようで、八屋戸地区は守山石の産地で有名であったし、木戸地区も石の産地と しても知られ、江戸時代初期の「毛吹草」には名産の一つに木戸石が出ている。 コンクリートなどの普及で石材としての使われる範囲は狭まってはいるが、石の 持つ温かさは、我々にとっても貴重な資源である。
「旧志賀町域の石工たち」の記述では、 明治十三年(1880)にまとめられた「滋賀県物産誌」に、県内の各町村における 農・工・商の軒数や特産物などが記録されている。ただ、「滋賀県物産誌」の 記述は、滋賀県内の石工を網羅的に記録している訳ではない。 「滋賀県物産誌」の石工に関する記述の中で特筆すべきは、旧志賀町周辺の状況 である。この地域では「木戸村」の項に特産物として「石燈籠」「石塔」などが 挙げられているなど、石工の分布密度は他地域に比べて圧倒的である。 木戸村・北比良村では戸数の中において「工」の占める比率も高く、明治時代初めに おける滋賀県の石工の分布状況として、この地域が特筆されるべき状況であった。 江戸時代の石造物の刻銘等の資料では、その中で比較的よく知られている資料と ・「雲根志」などを著した木内石亭が郷里の大津市幸神社に、文化二年(1805)に 奉納した石燈籠の「荒川村石工今井丈左衛門」という刻銘。、、、」ともある。 さて、道は守山の集落を跡にすると、再び国道161号と合流して北へ進む。 道の左側には比良山系が屏風のように立ちはだかり、右側には琵琶湖を眼下に 見下ろし、その景観は素晴らしい。 道は、びわ湖バレイの道路の前を越えると、左側の少し高台に相撲技の始祖という 志賀清林をまつる墓と相撲公園がある。清林は、木戸に生まれ、聖武天皇の勅命 を受けて相撲の四十八手の基本作法を編み出したといわれる。 道は、再び北へ木戸川を越え、左側の旧道に入る。木戸の集落が続き、樹下神社 山道と交差する。この辺が木戸集落の真ん中で、かっては木戸の宿があった。 いまも、当時の旅館の屋号や常夜燈が残されている。ここは、志賀の中枢部であり、 樹下神社の祭礼も「五ヶ祭り」と言われ、周辺の大物、荒川、木戸、守山、北船路 の旧木戸荘の人々によって行われている。 木戸の樹下神社は、御祭神は、玉依姫命タマヨリヒメノミコト。 創祀年代不詳であるが、木戸城主佐野左衛門尉豊賢の創建と伝えられる。 永享元年社地を除地とせられ、爾来世々木戸城主の崇敬が篤く、木戸庄 (比良ノ本庄木戸庄)五ヶ村の氏神として崇敬されてきた。 ところが元亀二年織田信長の比叡山焼打の累を受け、翌三年社殿が焼失する。 当時織田軍に追われて山中に遁世していた木戸城主佐野十乗坊秀方が社頭 の荒廃を痛憂して、天正六年社殿を再造し、坂本の日吉山王より樹下大神を 十禅師権現として再勧請して、郷内安穏貴賤豊楽を祈願せられた。 日吉山王の分霊社で、明治初年までは十禅師権現社と称され、コノモトさん とも呼ばれていた。しかし類推するところ、古記録に正平三年に創立と あるのは、日吉山王を勧請した年代で、それ以前には古代より比良神を産土神 として奉斎して来たもので、その云い伝えや文献が多く残っている。 当社境内の峰神社は祭神が比良神で、奥宮が比良山頂にあったもので今も 「峰さん」「峰権現さん」と崇敬されている。この比良神は古く比良三系を 神体山として周辺の住民が産土神として仰いで来た神であるが、この比良山 に佛教が入って来ると、宗教界に大きな位置をしめ、南都の佛教が入ると、 東大寺縁起に比良神が重要な役割をもって現れ、続いて比叡山延暦寺の勢力 が南都寺院を圧迫して入って来ると、比良神も北端に追われて白鬚明神が 比良神であると縁起に語られ、地元民の比良権現信仰が白山権現にすり 替えられるのである。(比良神は貞観七年に従四位下の神階を贈られた) 当社の例祭には五基の神輿による勇壮な神幸祭があり、庄内五部落の立会の 古式祭で古くより五箇祭と称され、例年5月5日に開催され、北船路の 八所神社の神輿とあわせ五基の神輿が湖岸の御旅所へ渡御する湖西地方 で有名な祭である。この地域、神社も様々な変転がある。 木戸の集落をすぎると、国道161号と合流し、荒川の集落から大物の家並みに入る。 この集落には、歴史的に有名な二つの寺院がある。一つは右側の道を下った所にある 超専寺であり、親鸞が流罪となり越後に向かうとき大物の三浦義忠が一考を泊めた。 そのとき、各地から親鸞を慕って多くの人がきて、義忠も親鸞の人柄に惚れ、 出家した。これにより「明空」の縫合を授かった。 このため、親鸞ゆかりの旧跡とみられ、参拝者も多い。 また、左側の道を登れば、薬師堂がある。 比良から北小松へ 大物をすぎると道は、ほぼまっすぐに北へ延び、右側には琵琶湖岸に位置する南比良 北比良の集落を見下ろす事が出来る。 この湖岸線は比良浦、比良湊とよばれ、「新拾遺集」の 「ふけゆけば嵐やさえてさざ波の比良の湊に千鳥鳴くなり」をはじめ、多くの 詩歌が詠まれている。 さらには、木戸には、宿駅跡と石垣近くに常夜燈があり、守山の旧街道の横に地蔵菩薩 とともに道標がある。大物の旧街道横に二つほど残っており、白髭神社への道標と ともにそれらを味わって歩くのもよい。比良湊については、志賀町史にも以下の様な 記述がある。「古来、比良の湊がおかれ、北陸地方との交易を中心に水運にも従事して いた。中世には比良八庄とよばれ、小松荘と木戸荘がその中心であったという。、、、 比良湊は万葉集にも見られる。ほかにも、「比良の浦の海人」が詠まれ、「日本書紀」 斉明天皇5年三月条には、「天皇近江の平浦に幸す」ということがあった。万葉集巻三 (二七四)には、 わが船は比良(ひら)の湊(みなと)に漕ぎ泊(は)てむ沖へな離(さか)りさ夜更( よふ)けにけり (わが乗る船は比良の湊に船泊りしよう。沖へは離れてゆくな。
夜も更けて来たことだ。 高市連黒人(たけちのむらじくろひと)が旅先で詠んだ八首の歌のうちの一首がある。 この時代、海は異界との境目だと信じられていた。また、夜は悪しき魔物たちが最も 活発に活動する時間だとも考えられていたようで、そんな魔物たちの活発に活動する
夜の時間が近づいてくる前に「湊に船泊りしよう(湊へ戻ろう)」と言霊として
詠うことで、黒人は夜を前に動揺する自分自身の心を鎮めようとしたのであろう。
また港近くの福田寺(浄土真宗 北比良)には、蓮如が北陸に向かうためにここに
立ち寄った時に渡った橋を蓮如橋と呼んでいる。近くには、比良観音堂があり、
天満天神の本地仏十一面観音がある。面観音を祀る寺として創建された。
北比良城跡の石碑もある。 比良周辺は、城跡の15ほどあるが、形を残しているものはない。さらに神社仏閣が多 くある。 その寺院宗派には、天台真盛宗、浄土宗、浄土真宗、臨済宗、日蓮宗などがある。 いずれも寺院の規模は小さく、本殿と鳥居、拝殿、御輿庫、などの付属建物で構成され る。 とくに、拝殿は三間もしくは二間の正方形平面で入母屋造り、桧皮葺(ひわだぶき)で ある。 街道沿いには、多くの寺や寺院の瓦屋根が見受けられる。 すこし、列記しておくと、西福寺(浄土真宗 北比良)、福田寺
(浄土真宗 北比良)、本立寺(真宗 南比良)超専寺(浄土真宗 大物)は覚如上人
や蓮如上人がこの寺を参詣された。 さらに長栄寺(日蓮宗 大物)、萬福寺(真宗 荒川)、西方寺(浄土宗 木戸)、 安養寺(浄土宗 木戸)、正覚寺(真宗 木戸)、光明寺(浄土宗 北船路)、 西福寺(天台真盛宗 守山)など比良三千坊と言われた名残りなのであろう。
さらに街道の脇には神社も多くあり、樹下神社(北小松)、八幡神社(南小松)、
天満神社(北比良)、樹下神社(南比良)、妙義神社は比良三千坊と称され、この地
が山岳信仰の中心地の1つであった 事を偲ばせる神社である。湯島神社(荒川)、樹下神社(木戸)十禅師権現社と称し、 コノモトさんとも呼ばれていた。五か村の氏神である。若宮神社(守山)、
金毘羅神社、八所神社(北船路)、八所神社(南船路)などまさに軒を
連ねる状態だ。 福田寺から湖に向かうと、そぐら浜がある。そぐら浜から北へ延びる浜辺一帯を 「ジョネンバ」と呼び、かっては石屋小屋(石きり加工場)が軒を連ね、
浜辺では氷魚、ハス、モロコなどの地引網が盛んに行われていた。今はその面影
はなく一部を児童公園となっているジョネンバから南側のそぐら浜辺りは上納
する年貢米や特産の石材、木材、薪、および壁土、葦、瓦などの集積場で、これらの
保管する蔵が集まっていたが、いまはその跡すらない。そぐら浜 という地名は、
当時、交易で運ばれて来た物資を保管・保存するための蔵が、立ち並んでいたこと
から付けられたという。 ちなみに、そぐらは、「総蔵」からきていると言われている。ここの常夜灯は、大きく 立派な造りだ。湖上が交易に使われていた頃に、船主や船頭衆によって航行の安全を 祈願して建てられたもの。昔は毎年、当番が四国の金比羅宮に、航行の安全祈願に 参拝したことから、常夜灯のびわ湖側には、「金比羅大権現」とう文字が、刻まれてい る。 道は、湖岸から参道が続く天満宮社の前を通り、坂道を登るようにして水のない 比良川をわたる。この比良川の下流にあたるところは、大きな三角州が形成され、 その中に内湖をだいている。内湖と琵琶湖の間には細長い浜が数キロも続く。比良川系 から流し出された白い砂と緑の松とが好対照をみせ、独特の景観をみせている。 古くから西近江路の景勝地として知られていた。 昭和25年選定の琵琶湖八景では、「雄松崎の白汀」とよばれ、近年では琵琶湖随一 の水泳場として最もにぎわうところである。 「比良の山嵐が吹き降りる湖岸に眼をやると、近江国與地志略には、比良北小松崎 則比良川の下流の崎なり。往古よりふるき松二株有り。湖上の舟の上下のめあてにす」 と、 その由緒を記す小松崎がある。現在の近江舞子、雄松崎付近にあたるのであろう。 この小松崎も大嘗祭の屏風歌に詠みこまれるほどの歌枕であった。 六条天皇の大嘗祭の折には、平安時代後期の代表的な歌人である藤原俊成が悠紀方 の屏風歌を勤め、梅原山、長沢池、玉蔭井とともに小松崎を詠んでいる。 「子ねの日して小松が崎をけふみればはるかに千代の影ぞ浮かべる」 子の日の遊びをして小松が崎を今日みると、はるかに遠く千代までも栄える松の影が 浮かんでいる。というのが、和歌の主旨で、天皇の千代の代を言祝いだ和歌である。 子の日の遊びと言うのは、正月の初の子の日に小松を引き、若葉を摘んだりして、 邪気を避け、長寿を祈った行事である。小松崎と小松引きとが上手く掛けられている。 松を含む地名自体、めでたいとされたのであろう。 また、平安時代後期の歌人としても、似顔絵の先駆者としても著名な藤原隆信も小松崎 を 「風わたるこすえのをとはさひしくてこまつかおきにやとる月影」と詠んでいる。 この和歌には、こまつというところをまかりてみれは、まことにちいさきまつはらおも しろく 見わたされるに、月いとあかきをなかめいたしてという詞書が記されており、隆信が 実際に小松崎を訪れて詠んだ歌であることが察せられる。 隆信の和歌が小松を訪れて詠んだ和歌ならば,小松に住む人にあてた和歌もあった。 「人のこ松というところに侍りしに、雪のいたうふりふりしかば、つかしし、朝ほらけ おもひやるかなほどもなくこ松は雪にうづもれぬらむ」 作者の右馬内侍は平安時代中期の歌壇で活躍した女流歌人、小松に近づく雪の季節に 対して、そこに住む友人をおもんばかる気持がよくあらわれている。 小松あたりの冬の厳しさは有名であったと察せられる。 道を少し山側にとると、石燈籠と石の大きな鳥居に導かれ、八幡神社へと入る。 古来より西近江路の交通の要衝としての志賀周辺は様々な道標があった。 そんな中ででも、白髪神社の道標が7つほど現存している。 古来白鬚神社への信仰は厚く、京都から遙か遠い当社まで数多くの都人たちも 参拝した。その人たちを導くための道標が、街道の随所に立てられていた。 現在その存在が確認されているのは、7箇所(すべて大津市)で、建てられた 年代は天保7年、どの道標も表に「白鬚神社大明神」とその下に距離 (土に埋まって見えないものが多い)、左側面に「京都寿永講」の銘、右側面に 建てられた「天保七年」が刻まれている。 二百数十年の歳月を経て、すでに散逸してしまったものもあろうと思われるが、 ここに残されている道標は、すべて地元の方の温かい真心によって今日まで受け 継がれてきたものであり、その最後の道標が南小松八幡神社の参道の手前にある。 八幡神社は、南小松の山手にあり、京都の石清水八幡宮と同じ時代に建てられた。 木村新太郎氏の古文書によれば、六十三代天皇冷泉院の時代に当地の夜民牧右馬大師 と言うものが八幡宮の霊夢を見たとのこと。そのお告げでは「我、機縁によって この地に棲まんと欲す」と語り、浜辺に珠を埋められる。大師が直ぐに目を覚まし 夢に出た浜辺に向うと大光が現れ、夢のとおり聖像があり、水中に飛び込み引き上げ、 この場所に祠を建てて祀ったのが始まりとされる。祭神は応神天皇、創祀年代は 不明だが、古来、南小松の産土神であり、往古より日吉大神と白鬚大神の両神使が 往復ごとに当社の林中にて休憩したと云われ、当社と日吉・白鬚三神の幽契のある所 と畏敬されている。春の祭礼(四月下旬)には、神輿をお旅所まで担ぎ、野村太鼓 奉納や子供神輿が出る。また、この辺りは野村と呼ばれ、特に自家栽培のお茶が 美味しい。八朔祭(9月1日)が行われ、夜7時ごろからは奉納相撲が開催される。 八幡神社の狛犬は、明治15年に雌(右)、明治 17 年に雄(左)(名工中野甚八作) が作られ、県下では一番大きいといわれており、体長180センチ弱だが、左右違い、 そのたてがみや大きな眼が印象的だ。また、神社の横を流れる水は裏の念仏山の 湧水を引き入れたもので透明な光となって神社の周辺を流れる。 道は、南小松の集落をあとに国道と合流して北へと進む。 西近江路は、楊梅の滝に水源を持つ滝川を越え、樹下神社の前辺りで国道と 分岐する。右側の狭い旧街道に入る。旧街道には、北小松の集落の家並みが 細長く続き、道の左に溝をとるなど街道の面影をよくとどめている。 この集落の右側には、すぐに琵琶湖に接し、古くから小松津とよばれ、 湖上輸送の船着場として知られる。「堀川後百首」にも「さざなみや 小松にたちて見渡せば、みほの岬に田鶴むれてなく」の歌がある。 そして北小松は水陸の輸送の便に恵まれ、明治13年当時は船63隻 旅籠が七軒もあった。 国道のすぐ横に大きな石碑と石の鳥居が悠然と立っている。北小松の樹下神社である。 湖から続く参道を行くと、境内社には、比較的大きな社務所があり、天滿宮、金比羅宮 、 大髭神社が仲良く一線に鎮座している。本殿の前には石造りの社があり、天保時代の 石燈籠など8基ほどあり、この神社への信仰の篤さを感じる。珍しいのは大きな石を くり抜いたであろう石棺や緑の縞が明瞭に出ている2メートルほどの守山石。 この地域の石文化の一端が感じられる。湧水も豊富であり、3箇所ほどの湧き口から は絶えることなくなく流れ、竜神像の口からも出ている。 神社の鳥居を湖へと向い、北小松の集落に入る。ここは、伊藤城跡(小松城跡)
といわれ、集落をめぐる石の水路が城下の面影を見せる。戦国期の土豪である
伊藤氏の館城、平地の城館跡の余韻を残している。現在の北小松集落の中に位置し、
「民部屋敷」「吉兵衛屋敷」「斎兵衛屋敷」と呼ばれる伝承地があるが、
十分な形ではない。集落は湖岸にほど近く、かっては水路が集落内をめぐりこの
城館も直接水運を利用したであろうし、その水路が防御的な役割を演じていた
であろうと思われる。集落を歩くと、幾重にも伸びている溝 や石垣の造りは堅牢で苔生したその姿からは、何百年の時を感じる。旧小松郵便局の前 の道は堀を埋めたもので、その向かいの「吉兵衛屋敷」の道沿いには、土塁の上に欅が 6,7本あったと言われているし、民部屋敷にも前栽の一部になっている土塁の残欠が あり、モチの木が植えられている。
土塁には門があり、跳ね橋で夜は上げていたと伝えられる。 前述の司馬遼太郎の「街道をゆく」では、 「北小松の家々の軒は低く、紅殻格子が古び、厠の扉までが紅殻が塗られて、その赤は 須田国太郎の色調のようであった。それが粉雪によく映えてこういう漁村がであった ならばどんなに懐かしいだろうと思った。、、、、私の足元に、溝がある。 水がわずかに流れている。村の中のこの水は堅牢に石囲いされていて、おそらく何百年 経つに相違ないほどに石の面が磨耗していた。石垣や石積みの上手さは、湖西の特徴の 1つである。山の水がわずかな距離を走って湖に落ちる。その水走りの傾斜面に田畑が 広がっているのだが、ところがこの付近の川は眼に見えない。 この村の中の溝を除いては、皆暗渠になっているのである。この地方の言葉では、 この田園の暗渠をショウズヌキという」とある。 いまでも、それらは残っている。 この志賀周辺には、15か所ほどの城跡があるという。半分が山城であり、 あとは昔の村ごとに湖辺近くに建っていたようだ。だが、今はいずれもその影 すら見えない。ほとんどが織田信長の比叡山攻めのときに消えた。交通の要路としての 重要性を示すものだが、北小松と比良の平城跡以外はその残香さえない。 集落の外れには、小松漁港がある。志賀町史では、「北小松、北比良、南比良、和邇の 北浜、中浜、南浜があった。和邇は、天皇神社含め多くの遺跡があり、堅田や坂本と 並んで湖西における重要な浜津であった」とあるが、今も港として残っているのは、 和邇と湖の小松漁港だけだ。 小松漁港も石造りの防波堤や港周辺の様々な造りに石が上手く使われている。 漁港を出て、さらに北へと進むと、左側の比良山系に一筋の滝を見ることが出来る。 この滝は、天文23年(1554年)に足利13代将軍義輝が比良小松に遊んだ時に 「楊梅の滝」と名付けたと伝えられている。「楊梅」とは、高さ十数mにもなる 「ヤマモモ」の木を意味し、山中を堂々と流れ落ちる滝の水柱をその大木にたとえて、 「楊梅の滝」と名付けられたといわれている。この「楊梅の滝」は、県下一の落差 を誇る滝で、雄滝、薬研滝、雌滝の三段に分かれ、落差は雄滝で40m、薬研の滝で 21m、雌滝で15mほどあり、合わせて76mになる。湖上船やJR湖西線の 車窓など遠くからでも眺める事が出来、その遠景は白布を垂れかけたように見える事 から「白布の滝」や「布引の滝」とも呼ばれている。 また、この滝を更に登ったところには、昔氷室があり、冬に切り出した氷を保存
していたとも言われている。 江戸時代の享保19年に編纂された「近江興地志略」には「滝壺5間四方ばかり
滝の辺、岩に苔生じ小松繁茂し、甚だ壮観なり」とあり、滝の状況を記すとともに、
比良山系のなかでも景勝地の1つであった事を示している。 揚梅の滝への道は、北小松の集落の外れが登り口になっている。 その道筋に楊梅滝道の道標があるが、それには児童文学者の巌谷小波の 「涼しやひとあしごとに滝の音」の句が刻まれている。 鎌倉時代以降になると、京都と東国を往還する人々も多くなってくる。 京都の公家たちも、鎌倉幕府の要請やみずから鎌倉幕府との人脈を求めて 鎌倉へ下向していった。 また、東国への旅が一般化すると、諸国の大寺社や歌枕を実際に見聞しに行く 者たちも増えていった。 「宋雅道すがらの記」を記した飛鳥井雅縁もそんな一人である。宋雅とは出家後の 号、飛鳥井家は和歌,蹴鞠の家として知られ、家祖雅経の頃から幕府、武家との 関係が親密であり、雅縁も足利義満の信任が非常に厚かった。そんな雅縁が 越前国気比大社参詣に出立したのが、応永三十四年2月23日、70歳の時である。 実は、この紀行文も旅から帰った後、将軍義教より旅で詠んだ和歌があるだろと まとめの要請があって記したものである。旅の路順は湖西を船で進んでいたようで、 日吉大社を遥拝し、堅田を過ぎて、真野の浦、湖上より伊吹山を眺め、比良の宿に 宿泊している。そこで、 比良の海やわか年浪の七十を八十のみなとにかけて見る哉 と自分の年齢をかけた和歌を詠んでいる。翌日は小松を通っている。小松の松原を 目の当たりにして、 小松と言う所を見れば名にたちてまことにはるかなる松原あり 我が身今老木なりとも小松原ことの葉かはす友とたに見よ 同じく長寿を保つ松原に呼びかけるような和歌である。次は、白鬚、ここでも、 神の名もけふしらひけの宮柱立よる老の浪をたすけよ と、長寿をまもるという白鬚神社に自分の老いを託している。そして、竹生島を 船上より眺め、今津、海津、そこから山道をとって、29日には気比大社 に詣で、参籠して3月17日に帰京している。 将軍などの見聞旅行に随行の記録もある。 冷泉為広が細川政元の諸国名所巡検の同行記録では、 出立は延徳3年京を山中越えで坂本へ、比叡辻宝泉寺に宿泊。翌日は船に乗り 湖上を行った。東に鏡山、三上山、西に比良山,和邇崎を見ながらの通航 であった。そして、船中であるが和邇で昼の休みを取っている。 次に映ったのが、比良あたりの松である。 ヒラノ流松宿あり向天神ヤウカウトテ松原中に葉白き松二本アリ 「向天神」とは現在も北比良に鎮座する天満神社のことであろう。「ヤウカウ」は 影向で、「近江国與地志略」などにいう、社建立の際に生じたという神体的な要素 を持つ松のことである。 また、小松のところでは、「コノ所ニワウハイノ瀧ト伝瀧アリ、麓に天神マシマス」 として「ワウハイ、楊梅瀧」について記している。 コノ瀧については、「近江国與地志略」でも、 ・楊梅瀧 小松山にあり、小松山はその高さ4町半あり。瀧は山の八分より流る。 瀧つぼ五間四方許、たきはば上にて三間、中にては四間,下にては亦三間ばかり、 この瀧、長さ二十間、はばは三間許、水は西の方より流れて東へ出、曲折して 南へ落、白布を引きがごとし、故にあるひは布引の瀧といふ。瀧の辺り,岩に 苔生じ,小松繁茂し、甚だ壮観なり。 とみえ、近世には名所となっていたことがわかるが、冷泉為広の時代にもすでに 注目に値する名勝であったらしいことがうかがえる。そして、一向は湖上の旅 を続け陸路で敦賀,武生と進み、越中,越後をめぐり4月28日に京都へ帰っている。 北小松には、柴刈の時に唄う囃し歌がある。 昔は、柴と米とは生活するのに一番大切なもので、「米炭の資」と言って生活に 大切なものと言う喩えもあった。 「柴刈りうた」 山へ行くならわし誘とくれ 山はよいとこ気が晴れて 涼みむき上げて花一越えて どんどと下がれば畑の小場 大滝小滝は唄で越す どんどと下がればしたえ松 したえ松からかきの小場までも まだも待つのか弁当箱 さらに、少し山側にそれると、徳勝寺(大津市北小松)の境内に咲く枝垂桜があり、 種徳禅寺は「弘法大師堂」は安産祈願を司り、庭園は、大きな坐禅台があり、 枯れ池と大きな石橋、池端の雪見灯篭、小ぶりの山灯篭が配置されている。 琵琶湖の景観が素晴らしい。 小松漁港を通り過ぎると再び国道と合流する。この付近から比良山地と湖が
接近している。 道は湖の際を通り、やがて志賀町と高島町の境をなす鵜川にさしかかる。 このあたりは、かって鵜を使っていたところから川名と旧村名のその名が
ついたといわれている。
とりあえず、旧志賀町まで進めた。