2017年5月1日月曜日

和風月名

カレンダーには1月・2月...という数字のほか、睦月・如月...という旧暦の和風月名が記されているものも多いですね。
和風月名に風情を感じるのは、その月にふさわしい呼び名だからこそ。月の異称には様々なものがありますが、最も一般的なものを覚えておくとよいでしょう。

睦月(むつき) 1月

仲睦まじい月。正月に家族や親戚でなごやかな宴を催し、むつみあうことからつきました。「生月(うむつき)」が転じたという説もあります。

如月(きさらぎ) 2月

「如月」という漢字は、中国最古の辞書『爾雅(じが)』の「二月を如となす」という記述に由来しますが、中国では「きさらぎ」とは読みません。旧暦の2月は現在の3月半ばなので、寒さがぶり返しいったん脱いだ衣を更に着る月という意の「衣更着」が「きさらぎ」の語源になったという説が有力です。

弥生(やよい) 3月

暖かな陽気にすべての草木がいよいよ茂るという意味の「弥生(いやおい)」がつまって「弥生(やよい)」になったとされています。

卯月(うづき) 4月

卯の花(ウツギの花)が盛りになる月。また、田植えをするから「植月(うづき)」という説もあります。

皐月(さつき) 5月

早苗を植える「早苗月(さなえづき)」が略されて「さつき」となり、後に「皐月」の字があてられました。「皐」という字には水田という意味があります。

水無月(みなづき) 6月

旧暦の6月は梅雨明け後で夏の盛りであることから、水が涸れて無くなる月であるという説と、田んぼに水を張るので「水月(みなづき)」が変化したともいわれています。

文月(ふみづき/ふづき) 7月

短冊に歌や字を書く七夕の行事から「文披月(ふみひろげづき)」、稲穂が膨らむ月ということで「ふくみ月」、これらが転じて「文月」になったといわれています。

葉月(はづき) 8月

葉の落ちる月「葉落月(はおちづき)」が転じて「葉月」。現代感覚では葉が生い茂る様子を思い浮かべますが、旧暦では7月から秋となるため、秋真っ盛りだったのです。

長月(ながつき) 9月

秋の夜長を意味する「夜長月(よながづき)」の略で「長月」になりました。また、秋の長雨の「長雨月(ながめづき)」、稲穂が実る「穂長月(ほながづき)」からという説も。

神無月(かんなづき/かみなしづき) 10月

神々が出雲の国に行ってしまい留守になるという意の「神なき月」が転訛して「神無月」。神々が集まる出雲の国では「神在月(かみありつき)」といいます。

霜月(しもつき) 11月

文字通り霜が降る月という意の「霜降月(しもふりつき)」の略で「霜月」となりました。

師走(しわす) 12月

12月は僧(師)を迎えてお経を読んでもらう月でした。師が馳せる月という意の「師馳す」が転訛し、走るという字があてられるようになりました。

2017年3月3日金曜日

つるし雛

長寿を願う桃や厄除けの猿、神の遣いの白うさぎ──「つるし雛」は、絹の端切れでつくった可憐な布細工をつるし、娘や孫の初節句を祝うという、日本独自の風習です。発祥は江戸後期。今では、山形県の酒田(さかた)、静岡県の伊豆稲取(いなとり)、福岡県柳川(やながわ)の3か所でしか見られないのだとか。遠く離れたこの3つの町で、なぜ同じ文化が育まれたのでしょう?
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「つるし雛」のルーツを求めて春の旅へ

雛祭りの「つるし飾り」という風習の始まりは早咲きの河津桜(かわづざくら)が美しい、静岡県の稲取温泉。母や祖母が手づくりした飾りで女の子の初節句を祝おうという、素朴な庶民文化だったのです。雛人形をつるすのではなく、着物の端切れ(はぎれ)を縫い合わせて綿を入れた布細工を、雛壇の両側に飾りつけたのが原点。現在では、直径約25㎝の下げ輪に、11個の飾りを付けた赤い糸を5本つるし、これを対で飾るのが基本の形になっています。
つるし飾りは本来、嫁ぐころに“どんど焼”に納めて焚き上げるもの。しかし、思い出の飾りをどうしても納めきれず、大事にしまっておく人もいたそうです。
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ところ離れて福岡の美しい城下町。川下りで知られる水郷(すいごう)柳川にも、つるし飾りで桃の節句を祝う庶民の風習「さげもん」があります。こちらの発祥は諸説あり、ひとつは高価な雛人形が買えない代わりに古着の端切れで小物をつくって祝ったという説。もうひとつは、城の奥女中が着物の裂(きれ)で琴の爪を入れる袋物をつくり、腰にさげて飾ったのが始まりという説。いずれにせよ、伝統工芸の“柳川まり”とともに伝承されたといわれます。
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さげもんは、雛段の両脇に左右対称で飾るのが正式。まず、一尺三寸(約40㎝)の竹の輪に赤布を巻き、7個の飾りを付けた糸を7本つるします。さらに大きな柳川まりを2個加えて飾りは51個。これを対でつるすのです。
さげもんと、稲取のつるし飾り。形は似ているものの、つながりは定かではありません。ただ、江戸時代に物流を支え、伊豆を寄港地のひとつとしていた廻船(かいせん)「北前船」が、近畿以南へ廻る西海道として、肥前国(今の柳川に近い佐賀や長崎)に寄っていた史実もあり。いつかどこかで、船を介した交流が行われたとしても不思議ではないのです。

つるし飾りをめぐる、不思議な文化交流。鍵を握るのは、江戸時代の“北前船”?

北前船の港町として発展した山形県の酒田。のどかな水田が広がるこの町では、まだ肌寒い2月下旬から、ひと足早い雛祭りが開かれます。赤い幕を張った大きな傘に、手づくりの飾り物をつるした「傘福」がその主役。町中が、赤い傘の飾りで賑わいます。
現在も昭和50年代の傘福が奉納されている海向寺の観音堂。地元の女性が家族の幸せを願ってつくった傘福の下で、お寺の方のお話をうかがいました。「本来の傘福は、個人の家に飾るものではなく、女性たちが力を合わせてつくり奉納するものです。祈りを込めると同時に、手仕事に集中することで心が穏やかになり、隣人同士のコミュニケーションにもなる。とてもいい信仰の形ですね。伊豆や柳川のつるし飾りと相似点があるともいわれていますが、同じ国のこと、どこかで文化交流はあったのでしょう。各地に似たものがあるのもうなずけます。むしろ、それだけ人が心を寄せやすく、心惹かれる祈りの形なのだと思いますよ」
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雛のつるし飾りまつり

伊豆稲取温泉
2017年1月20日(金)〜3月31日(金)

さげもんめぐり

柳川雛祭り
2017年2月11日(土)〜4月3日(月)

酒田雛街道

酒田
2017年3月1日(水)〜4月3日(月)

2017年2月26日日曜日

春の山菜

春は芽吹きの季節。そして山菜の季節でもあります。
山菜は鮮度が落ちやすいため、遠方では味わえないことが多かったのですが、最近ではスーパーなどで簡単に手に入るようになりました。この季節ならではの旬の味を楽しみましょう。
山菜イメージ

山菜の味の秘密

春の山菜には独特の苦味があり、この苦味が春を感じさせてくれます。実は、この苦味やえぐみが、からだにとてもよいものなのです。山菜を食べると、天然の苦味や辛味が冬の間に縮こまっていたからだに刺激を与えて、体を目覚めさせ、活動的にしてくれるといいます。「春の料理には苦味を盛れ」ということわざもあるそうです。
この苦味成分は、抗酸化作用のあるポリフェノール類で、新陳代謝も促進してくれます。
ポリフェノールは、活性酸素を除去し、老化の進行を遅らせる働きがあります。
また、山菜にはビタミンも豊富なものが多いのも特徴です。昔は、冬場は葉もの野菜が不足するため、春にビタミン補給をするという効用もあったのでしょう。

山菜をおいしく食べるコツ

香りや苦味が苦手な人も、次のような調理方法でおいしく食べられます。

油であげる

山菜は油と相性がよいものが多く、天ぷらにすると苦味が程よくぬけ、香り高い山菜の風味が増します。山菜が苦手な人は天ぷらがおすすめ。

茹でる

さっと茹でて水気を絞って切るだけのおひたしにします。しょうゆとかつお節をかけたり、ごま和え、ぽん酢和え、味噌和え、マヨネーズ和えなど、好みの味付けで。それぞれの山菜の風味が味わえる食べ方です。

下茹でしてアク抜きしてから調理

アクの強い山菜は、下茹でしてアクを抜いてから、煮物や和え物に使うとよいです。

さまざまな春の山菜

地域や時季にもよりますが、比較的ポピュラーで、手に入りやすい山菜をピックアップしてみました。手に入れるチャンスがあれば、ぜひ一度味わってみてください。

ふきのとう

春を待ちかねたように雪の下からちょこんと顔を覗かせ、最も早くから収穫できるのがふきのとうです。天ぷらにして、塩でシンプルに食べるのが定番。
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たらの芽

たらの芽はアクが強く、香りも高く食べごたえがあります。小さいものは天ぷらで、少しひらいて大きくなってしまったものは、ゆでてごま和えなどに。
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山うど

山うどは、捨てる部分は全くなく、葉や新芽の部分は天ぷらに、茎は酢水に浸してアク抜きし、そのまま食べられます。サッと湯がいて酢みそ和えに。煮物、炒め物などにも。
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わらび

わらびはアクが強いのでわら灰などでアク抜きをし、水にさらしてから使います。おひたし、みそ汁の実、和え物などに。
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ぜんまい

ぜんまいはアクが強すぎるので、ゆでてから天日で干して、干しぜんまいにします。干すことで風味が増し、おいしくなります。昔は山里の大切な保存食でした。
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青こごみ

アクや臭みがないので、下準備の手間がかからず、おいしくい食べられます。天ぷらはもちろん、程よいぬめりがあるのでゴマやクルミ、マヨネーズなどを使った和え物に。
青こごみイメージ

よもぎ

昔、よもぎの香りには邪気を払う力があるといわれていました。そのよもぎの香りと風味を生かしたよもぎ団子や草もちなどがポピュラーですが、生を天ぷらにして食べるのもおいしいものです。
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のびる

ツーンとする香りとちょっとヌルッとした食感があり、球根の部分を生のまま味噌をつけて食べるのがおすすめ。天ぷらにしてもおいしく、茎の部分もニラやネギのようにして食べられます。
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せり

おひたしやごま和えがおすすめですが、茹ですぎると硬くなり、味が落ちてしまうので注意。春の七草の一つとして七草粥にも用いられます。
せりイメージ

うるい

くせやアクはないので食べやすい山菜です。独特の歯ざわりとぬめりが特徴で、歯触りを楽しむならおひたしやサラダ、浅漬けに。ぬめり感を生かすならみそ汁の実や和え物に。
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こしあぶら

苦みが強く香りもあるので、天ぷらが一番。苦みが油で和らぎ、コクとなります。炒め物にも適しています。バター炒めもおすすめです。
こしあぶらイメージ

行者にんにく

にんにくのような香りがあり、山奥で修行する行者たちが好んで食べたことが名前の由来です。炒め物での調理がおすすめですが、刻んで薬味としても使えます。
行者にんにくイメージ

根曲がり竹

雪国の山に生える竹の子で、根本から横に伸びて弓なりに曲がる様子から根曲がり竹と呼ばれます。皮をむいて茹でたあと、煮物や炒め物に。皮付きのまま焼いて皮をむき、しょうゆや味噌をつけてもおいしいです。
根曲がり竹イメージ

山菜を採るときはご注意!

山菜をおいしく食べるには、とにかく新鮮な物を選ぶことです。スーパーなどの店頭でも手に入りやすくなった山菜ですが、本来の味を求めるなら、やはり山菜の採れる地域に足を運んで食べたいものです。山菜採りで注意したいのは山菜と毒草を間違え、うっかり食べて中毒を起こしてしまうことです。初心者は必ず経験者に同行してもらって、安心して楽しみたいものです。 また、山菜は全部採らず、必ず1、2本は残しておきます。そうしないと翌年に芽が出なくなってしまうからです。春が来るたびに自然の恵みを楽しむためには、自然を大切に守っていくことも必要です。

2016年11月18日金曜日

西近江路をゆく

西近江路(にしおうみじ)は、近江国(滋賀県)から越前国へ通じる街道で、古代・
中世の古北陸道、北国海道、北国脇往還、北国往還、北国脇道とも言われていた。
1887年(明治20年)に西近江路として県道となりこの名称が定着した。
古来より都と北陸を結ぶ道として人の往来が多いだけでなく、壬申の乱、藤原仲麻呂
の乱、治承・寿永の乱(源平合戦)、織田信長の朝倉攻めなどでは大軍が移動
している。また、平安時代の遣渤海使もこの道を通るなど、交流の道でもあった。
別名北国海道と呼ばれているが、なぜ「街道」ではなく「海道」の字が
使用されたのか。
『図説滋賀県の歴史』によれば、「江戸時代の古絵図をはじめ街道筋に散在する石造
道標のほとんどに「北国海道」と刻まれているところから海の字を用いている。」とあ
る。
『近江の街道』でも、同じく石造道標の記載をあげたうえで、「それだけこの道が、
北国の海へのイメージが強かったのであろう。」とあり、『図説近江の街道』でも
同様の見解が示されている。しかし、『近江の道標』には、「街道でなくて、海道
という名前がついたのは、北国の海をさす道か、あるいは、びわ湖に沿うてある
からか明確ではない」
とある。

1)古北陸道の概観
古代を通じて、志賀町域は、律令国家の官道の一つである北陸道が通過する要所で
あった。北陸道とその枝路には、駅(うまや)が置かれ、公用をおびた役人が乗り
継ぐ馬が用意された。
更に、その駅制度は一層整備される。和邇駅は本町域の、和邇川の三角州に位置する、
和邇中にその遺跡が残っている。
近江の北陸道は、平安時代から江戸時代に至るまで平安の都と北陸をつなぐ最短距離
の道として重要な機能を有していた。
平安時代の法令集と言うべき「延喜式」の兵部省の「諸国駅馬条」によれば、北陸道の
駅馬はすべて五疋である。
しかし伝馬数は穴太五疋、和邇七疋、三尾七疋、鞆結九疋の四駅が設置された。
(古代)
小関越え → 穴多(太)駅(大津市穴太) → 和邇駅(大津市和邇中浜) → 三尾駅
(高島市安曇川町三尾) → 鞆結駅(高島市マキノ町小荒路・海津・浦・石庭) → 
愛発関(敦賀市疋田か)

2)交通の要路である西近江路
古代からの官道の駅家がその核となり、荘園の中心集落と一体となった新しい
要路となっている。この山側には、途中、朽木を経由する花折街道もあった。
平家物語、源平盛衰記には、軍隊の動きが書いてあり、それにより、当時の
交通路の概要が掴める。
源平の戦い、足利氏の新政府のための戦いなどが繰り返れることにより、
堅田は港湾集落としての機能を高めていく。更に、14世紀以降は、本福寺
の後押しもあり、湖上の漁業権の特権も活かし、最大の勢力となって行く。

本町地域での陸路と水路の集落にも、役割が出てくる。
陸路でもあり、各荘園の中心集落としては、
南小松、大物、荒川、木戸、八屋戸、南船路、和邇中、小野があった。
これらの中でも、木戸荘は中心的な荘園であった。
水路、漁業の中心としては、北小松、北比良、南比良、和邇の北浜、中浜、
南浜があった。
和邇は、天皇神社含め多くの遺跡があり、堅田や坂本と並んで湖西における
重要な浜津であり、古代北陸道の駅家もあった。古代の駅家がその後の
中心的な集落になる事例は多くある。現在の和邇今宿が和邇宿であったことが
考えられる。
(近世)
大津宿・札の辻(大津市札の辻) → 衣川宿(大津市衣川) → 和邇宿(大津市
和邇中) → 木戸宿(大津市木戸) → 北小松宿(大津市北小松) → 河原市宿
(高島市新旭町安井川) → 今津宿(高島市今津町今津) → 海津宿(高島市
マキノ町海津) → 敦賀宿(敦賀市元町)

西近江路は大津町のやや西よりをまっすぐ湖岸に向かって出て、湖岸よりの道を
下阪本まで北上する。この付近で古北陸道と合流して、湖岸沿いにかっての
古北陸道を踏襲しながら北へ進む。海津から七里半越を経て敦賀へと通じていた。
道筋について享保一九年(1734)編述の「近江輿地誌略」によれば、
西近江路
大津より坂本へ二里、坂本より衣川(大津市)へ一里半、衣川より木戸(志賀町)
へ一里、木戸より小松(志賀町)へ二里、小松より新庄(新旭町)へ三里半、
新庄より今津へ一里半、今津より海津へ三里、海津より山中へ三里半、
山中より駄口へ一里、駄口より疋田(敦賀市)へ一里、疋田より二つ屋へ
二里、二つ屋より今庄へ二里あるなり
とある。
これによれば、滋賀県内を通る西近江路の距離は、およそ72キロとなる。
この間の宿場は、いつ設置されたかは不明であるが、衣川、和邇今宿、木戸、
北小松、河原市、今津、海津の7宿であった。

堅田から和邇への道
司馬遼太郎の「街道をゆく」の第1巻は、この地から始まっている。

「近江」というこのあわあわとした国名を口ずさむだけでもう、私には詩が
始めっているほど、この国が好きである。、、、
近江の国はなお、雨の日は雨のふるさとであり、粉雪の降る日は川や湖まで
が粉雪のふるさとであるよう、においを残している。
「近江からはじめましょう」というと、編集部のH氏は微笑した。
この湖岸の古称「志賀」に、「楽浪さざなみの」というまくらことばをつけて
よばれるようになったのは、そういう消息によるものにちがいない。
車は、湖岸に沿って走っている。右手に湖水を見ながら堅田を過ぎ、真野を過ぎ、
さらに北へ駆けると左手ににわかに比良山系が押しかぶさってきて、車が
湖に押しやられそうなあやうさを覚える。大津を北に走ってわずか20キロと
いうのに、すでに粉雪が舞い、気象の上では北国の圏内に入る。

とその書き出しに始まっている。とても喜ばしいが、なぜ、冬の日なのか、ちょっと
気に入らない。白洲正子や井上靖などの作品で、多くは冬の情景が描かれている
ことが多い。万葉集などの歌にもよく読み込まれているように春や秋の情景も
多く描いてほしいものだ。

西近江路は、JR堅田駅を通り抜けるとあたらしい東西に走る広い道路に出る。
左の道をとれば、真野から伊香立を経て途中峠へ、更に京都へと通じている。
旧街道は、再び国道161号線と合流し、真野川をこえ真野の集落に入る。
春は桜が川沿いを走り、ピンクの彩を映えて、湖まで続いている。
右側の湖岸べりには、真野川によって大きな砂洲ができ、長く松林が続いている。
夏には水泳場としてにぎわう。
この真野周辺は、古くは湖岸線が今より深く入り込み、それを「真野の入り江」
といわれ、歌枕として著名な風光の地であった。平安時代末期の歌人、源俊頼
は、
「うずらなく真野の入り江の浜風に、尾花すすきなみよる秋の夕暮れ」
の歌を詠んでいる。また、街道沿いにある正源寺の梵鐘には、鎌倉時代に真野
庄人々が願主となって梵鐘を神田社へ奉納、その二百年後に野洲郡中主町の
兵主神社へ移り、さらに約三百七十年後に地元に帰ったことなど、珍しい
銘文が刻まれている。

道は大きく左へ曲がり西へ進むが、正面に大規模な団地があり、その背後に
標高百八十七メートルの曼陀羅山が見える。この山頂には、全長七十二メートル
の前方後円墳の形態を有する和邇大塚山古墳がある。ところで、道は右へ
曲がりしばらく行くと、国道161号西近江路の分岐点がある。左側の道を
とれば、志賀町小野の集落にさしかかる。この小野の里は、古代近江を
代表する豪族小野氏の本貫の地であった。JR湖西線の下をくぐると、
左側の道脇に「外交始祖大徳冠小野妹子墓是より三丁余」と刻まれた石造
道標がある。この道標に導かれて進めば、団地に囲まれるように妹子公園
がある。その頂上部分には、小野妹子の墓と伝えられる石室の露出した円墳
がある。妹子は六百七年、六百八年と日本最初の遣隋使として活躍した人であった。
小野の集落は、西近江路を挟んで形成されている。その真ん中辺りの左側を
少し入ったところに小野道風をまつった道風神社がある。静寂の中に三間社
流造りの美しい本殿の形姿を見せている。道風はいうまでもなく平安時代
末期の書家で、藤原佐理すけまさ、藤原行成とともに天下の三蹟といわれた。

この地の情景は白洲正子の「近江山河抄」にも描かれている。
「小野神社は2つあって、一つは道風、1つは「篁たかむら」を祀っている。
国道沿いの道風神社の手前を左に入ると、そのとっつきの山懐の丘の上に、
大きな古墳群が見出される。妹子の墓と呼ばれる唐臼山古墳は、この丘の
尾根つづきにあり、老松の根元に石室が露出し、大きな石がるいるいと
重なっているのは、みるからに凄まじい風景である。が、そこからの眺めは
すばらしく、真野の入り江を眼下にのぞみ、その向こうには三上山から
湖東の連山、湖水に浮かぶ沖つ島もみえ、目近に比叡山がそびえる景色は、
思わず嘆息を発していしまう。その一番奥にあるのが、大塚山古墳で、
いずれなにがしの命の奥津城に違いないが、背後には、比良山がのしかかるように
迫り、無言のうちに彼らが経てきた歴史を語っている」。
だが、現在はその様相をかなり変えていた。

さらに、街道を北へ進むと、白壁に囲まれた上品寺の手前にある左側の参道
の突き当りには2つの小野神社がある。県下一と言われるムクロジの大きな木
を見ながら石の鳥居を過ぎると小野神社と小野篁が並び立つような形である。
小野神社は、小野の鎮守であるが、その境内には小野篁たかむら神社がある。
これも道風と同じ様式で切妻平入三間社流造りでいずれも重要文化財に
指定されている。
篁は平安時代前期の漢学者、歌人として著名である。いずれにせよ、小野の集落は
古代社会の文化に貢献した小野氏を生んだ土地らしく、いまもそれを物語る貴重な
遺跡が多く残されている。
しかし、小野氏より早くからこの地を支配してきたといわれる和邇氏同族の
和邇部氏の遺跡がほとんどないのが、不思議だ。

小野の集落をあとにして和邇川をわたると、和邇中の家並みにはいる。
その真ん中あたりに三叉路があり、かっては西近江路の宿駅がおかれ、交通の
要衝にあたっていたところだ。左側の道をとれば、竜華から還来(もどろき)
神社前を通り伊香立途中町へ。ところで、この三叉路のちょうど真ん中には、
地名の由来にもなった榎の大木があったが、枯れてしまったので明治百年記念
に大きな石に「榎」と記した碑が建てられている。榎はかって神木として
仰がれていたので、いまも注連縄がめぐらされている。この石碑は私たちに
歴史的足跡を教えてくれる好例であろう。また、その角には木下屋という
旅館があり榎の大木があったことをしのばせていた。その旅館もいまは
跡形もない。この交差路を左に行けば、天皇神社から途中峠と向かう。

天皇神社は、元天台宗寺院鎮守社として京都八坂の祇園牛頭天王を奉還して
和邇牛頭天王社と呼ばれていましたが、1876年にに天皇神社と改称された。
祭神は、素盞嗚尊(スサノオノミコト)、三宮神社殿、樹下神社本殿、若宮神社
本殿もあり、近世では、五か村の氏神となっている。
現在の本殿は、隅柱や歴代記等から鎌倉時代の正中元年(1324)に建立された
と考えられており、本殿は流造の多い中、全国的にも稀な三間社切妻造平入の
鎌倉時代の作風を伝える外観の整った建物だ。
5月8日には旧六か村の和邇祭が行われ、庄鎮守社としてこの天皇神社(天王社)
の境内には、各村の氏神が摂末社としてあります。天王社本社(大宮)は和邇中、
今宿、中浜は樹下(十禅師権現)、北浜は三之宮、南浜は木元大明神、高城は
若宮大明神があり、夫々の神輿が出て、中々ににぎわう。

西近江路には、江戸時代の思想家で、近江聖人といわれた中江藤樹所縁
の伝承がおおい。この榎の宿にも、いまも語り継がれている話がある。
和邇中の集落をあとにして道は、湖西線の下をくぐり湖岸に向かい、そこで
国道161号と合流して、中浜、北浜の細長い家並みを通る。
近世では、西近江路の街道筋を中心に「和邇九が郷」といわれ、それには
小野、栗原、中村、高城、今宿、南浜、中浜、北浜、南船路の各村が含まれた。
そのうち、北浜、中浜、南浜は、琵琶湖岸に接し和邇浜と呼ばれていた。
ここでは、琵琶湖特有のいさざが捕れる浜となっていた。江戸時代初期に
あたる寛永年間にできた「毛吹草」にも諸国名物の一つとして「和邇崎の
イサザ」とあり、すでにこの地の名産として知られていた。
イサザはうきごりの幼魚にあたり、体長約5センチぐらいの淡水魚で、
飴煮や汁にする。その淡水魚独特の素朴な味覚は、いまも捨て難いものがある。
ビワマス、氷魚などとともに琵琶湖八珍として親しまれている。

北浜の集落から西近江路を北へ進むと、目の前に高い比良の山並がたちはだかる。
この比良山系は、南から蓬莱山、鳥谷山、堂満岳、釈迦岳、武奈ヶ岳など
千メートルを越す山々で形成されている。眼下に琵琶湖をもつ比良山系は、
それぞれ山容が変化に富むとともに、四季折々異なった景色を見せ、
登山者に親しまれ愛されてきた。
一方、それを眺める山としても著名であった。春になっても山並の頂上部に
まだ雪を残したその景観は素晴らしく、「比良の暮雪」として近江八景の
一つに数えられ、江戸時代の名所や浮世絵版画に登場している。
また、「比良の高嶺、比良の山嵐、比良の山」といった歌枕として万葉集、
新古今和歌集など多くの歌集にも見ることが出来る。

「恵慶集」に旧暦10月に比良を訪れた時に詠んだ9首の歌がある。

比良の山 もみじは夜の間 いかならむ 峰の上風 打ちしきり吹く
人住まず 隣絶えたる 山里に 寝覚めの鹿の 声のみぞする
岸近く 残れる菊は 霜ならで 波をさへこそ しのぐべらなれ
見る人も 沖の荒波 うとけれど わざと馴れいる 鴛(おし)かたつかも 
磯触(いそふり)に さわぐ波だに 高ければ 峰の木の葉も いまは残らじ
唐錦(からにしき) あはなる糸に よりければ 山水にこそ 乱るべらなれ
もみぢゆえ み山ほとりに 宿とりて 夜の嵐に しづ心なし
氷だに まだ山水に むすばねど 比良の高嶺は 雪降りにけり
よどみなく 波路に通ふ 海女(あま)舟は いづこを宿と さして行くらむ

これらの歌は、晩秋から初冬にかけての琵琶湖と比良山地からなる景観の微妙な
季節の移り変わりを、見事に表現している。散っていく紅葉に心を痛めながら
山で鳴く鹿の声、湖岸の菊、波にただよう水鳥や漁をする舟に思いをよせつつ、
比良の山の冠雪から確かな冬の到来をつげている。そして、冬の到来を予感させる
山から吹く強い風により、紅葉が散り終えた事を示唆している。これらの歌が
作られてから焼く1000年の歳月が過ぎているが、現在でも11月頃になると
比良では同じ様な景色が見られる。
万葉集では、
楽浪(さざなみ)の比良山嵐の海吹けば釣する海人の袖反(かえ)る見ゆ

このほかに、本町域に関する歌には、「比良の山(比良の高嶺、比良の峰)」
「比良の海」、「比良の浦」「比良の湊」「小松」「小松が崎」「小松の山」
が詠みこまれている。その中で、もっとも多いのが、「比良の山」を題材に
して詠まれた歌である。比良山地は、四季の変化が美しく、とりわけ冬は
「比良の暮雪」「比良おろし」で良く知られている。
このように、比良の山々は、古代の知識人に親しまれ、景勝の地として称賛
されていたのである。
鎌倉時代以降は、旅を目的とした古代北陸道としての活用が高まり、
多くの歌人が名勝や情景に歌を綴った。

西近江路は文化面のほかにも、その特徴の1つに湖上交通の物資輸送の集散地
となっていった港との深い関係がある。
「延喜式」には、能登や越中の日本海沿岸の諸物資が敦賀から塩津、海津、
に輸送され、湖上を大津へ廻漕されて都へと運ばれたと記述されている。
江戸時代にはさらに開発され、「淡海録」には、
大津212艘、堅田133艘、今津125艘、塩津121艘、北小松35艘、
和邇33艘、南比良27、南小松13、木戸10艘などとなっている。
これをみても西近江路にある港には、合わせて919艘という多くの船
を所持していたことがわかる。

しかし、西近江路の名称は、古絵図には「北国海道」、「北国道」と書かれている
場合が多い。さらには、石造道標にも「北国海道」、「北国道」の名称が
多く刻まれている。これらから当時の人々は西近江路と呼ぶよりも、北国海道
という呼称で親しんでいた。
北国海道の前身となる古代、中世の北陸道は、日本の官路都市て畿内あるいは平安の
郡と北陸を最短距離でつなぐ重要な道として長い歴史を刻んできた。

和邇から木戸へむかう
西近江路は、JR湖西線を再びくぐり、蓬莱駅前の北船路の八所神社の前へ出る。
この八所神社の由来は、日吉社の神官祝部行丸が、織田信長の比叡山
焼き討ちの時、その難をのがれて、日吉社七体のご神体をこの地に
運び、元来の地主神と合わせて八神をまつったことによると言われている。
ところで、北船路は比良の山上にある小女郎池への登り口にあたる。
蓬莱山と権現山とのほぼ中間にあるこの池は、およそ千メートルも高い
ところにあって、今も水をたたえている。この池を見るにつけ比良の
山のもつ神秘性をうかがわせる。小女郎池は、竜神の住む池として地元の
人々から畏敬され、干ばつになると、かっては雨乞いの行事が行われた。
今も山麓の集落との結びつきが強い池である。

道は、八屋戸守山の集落の手前で、左に入り右へ曲がるが、その角には
「左京大津」と刻まれた自然石の道標がある。
この守山は、明治7年に隣りの北船路村と合わせて、八屋戸村となった
ところだ。守山は、比良山系の一つ蓬莱山への登り口として知られている。
この集落の真ん中を通る石畳を中心にした道を上がれば、標高500メートル
付近に文政11年に勧請した湖上航行の安全の神をまつる金毘羅神社がある。
更に進むと金毘羅峠を越えて蓬莱山へと道は続く。
また、守山の集落は、湖岸の八屋戸浜に接しているが、この浜から江戸時代
には薪炭、石材などが湖東、大津方面まで舟で運び出されていたのである。
この地域は石の文化が生活に根付いている、といえる。
比良を中心としたこの地域から産する石材を利用した多くの歴史的な構造物が今も
残っている。これらは、河川や琵琶湖の水害から地域を守るための百間堤などの
堤防、獣害を防ぐしし垣、利水のための水路、石積みの棚田、神社の彫刻物など
であり、高度な技術を持った先人たちが、長い年月をかけて築き上げてきた
遺産である。

さらには、個人の家の庭や道には、石畳として使われたり、生活用水のための
石造りのかわとなど生活の一部に溶け込んでもいる。神社の狛犬、しし垣、
石灯篭、家の基礎石、車石など様々な形でも使われて来た。
古くは、多数存在する古墳にも縦横3メートル以上の一枚岩の石版が壁や天井に
使われている。古代から近世まで石の産地としてその生業として、日々の生活の
中にも、様々に姿を変え、関わってきた。
また、南小松は江州燈籠と北比良は家の基礎石等石の切り出し方にも特徴があった
ようで、八屋戸地区は守山石の産地で有名であったし、木戸地区も石の産地と
しても知られ、江戸時代初期の「毛吹草」には名産の一つに木戸石が出ている。
コンクリートなどの普及で石材としての使われる範囲は狭まってはいるが、石の
持つ温かさは、我々にとっても貴重な資源である。

「旧志賀町域の石工たち」の記述では、
明治十三年(1880)にまとめられた「滋賀県物産誌」に、県内の各町村における
農・工・商の軒数や特産物などが記録されている。ただ、「滋賀県物産誌」の
記述は、滋賀県内の石工を網羅的に記録している訳ではない。
「滋賀県物産誌」の石工に関する記述の中で特筆すべきは、旧志賀町周辺の状況
である。この地域では「木戸村」の項に特産物として「石燈籠」「石塔」などが
挙げられているなど、石工の分布密度は他地域に比べて圧倒的である。
木戸村・北比良村では戸数の中において「工」の占める比率も高く、明治時代初めに
おける滋賀県の石工の分布状況として、この地域が特筆されるべき状況であった。
江戸時代の石造物の刻銘等の資料では、その中で比較的よく知られている資料と
・「雲根志」などを著した木内石亭が郷里の大津市幸神社に、文化二年(1805)に
奉納した石燈籠の「荒川村石工今井丈左衛門」という刻銘。、、、」ともある。


さて、道は守山の集落を跡にすると、再び国道161号と合流して北へ進む。
道の左側には比良山系が屏風のように立ちはだかり、右側には琵琶湖を眼下に
見下ろし、その景観は素晴らしい。

道は、びわ湖バレイの道路の前を越えると、左側の少し高台に相撲技の始祖という
志賀清林をまつる墓と相撲公園がある。清林は、木戸に生まれ、聖武天皇の勅命
を受けて相撲の四十八手の基本作法を編み出したといわれる。
道は、再び北へ木戸川を越え、左側の旧道に入る。木戸の集落が続き、樹下神社
山道と交差する。この辺が木戸集落の真ん中で、かっては木戸の宿があった。
いまも、当時の旅館の屋号や常夜燈が残されている。ここは、志賀の中枢部であり、
樹下神社の祭礼も「五ヶ祭り」と言われ、周辺の大物、荒川、木戸、守山、北船路
の旧木戸荘の人々によって行われている。
木戸の樹下神社は、御祭神は、玉依姫命タマヨリヒメノミコト。
創祀年代不詳であるが、木戸城主佐野左衛門尉豊賢の創建と伝えられる。
永享元年社地を除地とせられ、爾来世々木戸城主の崇敬が篤く、木戸庄
(比良ノ本庄木戸庄)五ヶ村の氏神として崇敬されてきた。
ところが元亀二年織田信長の比叡山焼打の累を受け、翌三年社殿が焼失する。
当時織田軍に追われて山中に遁世していた木戸城主佐野十乗坊秀方が社頭
の荒廃を痛憂して、天正六年社殿を再造し、坂本の日吉山王より樹下大神を
十禅師権現として再勧請して、郷内安穏貴賤豊楽を祈願せられた。
日吉山王の分霊社で、明治初年までは十禅師権現社と称され、コノモトさん
とも呼ばれていた。しかし類推するところ、古記録に正平三年に創立と
あるのは、日吉山王を勧請した年代で、それ以前には古代より比良神を産土神
として奉斎して来たもので、その云い伝えや文献が多く残っている。

当社境内の峰神社は祭神が比良神で、奥宮が比良山頂にあったもので今も
「峰さん」「峰権現さん」と崇敬されている。この比良神は古く比良三系を
神体山として周辺の住民が産土神として仰いで来た神であるが、この比良山
に佛教が入って来ると、宗教界に大きな位置をしめ、南都の佛教が入ると、
東大寺縁起に比良神が重要な役割をもって現れ、続いて比叡山延暦寺の勢力
が南都寺院を圧迫して入って来ると、比良神も北端に追われて白鬚明神が
比良神であると縁起に語られ、地元民の比良権現信仰が白山権現にすり
替えられるのである。(比良神は貞観七年に従四位下の神階を贈られた)
当社の例祭には五基の神輿による勇壮な神幸祭があり、庄内五部落の立会の
古式祭で古くより五箇祭と称され、例年5月5日に開催され、北船路の
八所神社の神輿とあわせ五基の神輿が湖岸の御旅所へ渡御する湖西地方
で有名な祭である。この地域、神社も様々な変転がある。

木戸の集落をすぎると、国道161号と合流し、荒川の集落から大物の家並みに入る。
この集落には、歴史的に有名な二つの寺院がある。一つは右側の道を下った所にある
超専寺であり、親鸞が流罪となり越後に向かうとき大物の三浦義忠が一考を泊めた。
そのとき、各地から親鸞を慕って多くの人がきて、義忠も親鸞の人柄に惚れ、
出家した。これにより「明空」の縫合を授かった。
このため、親鸞ゆかりの旧跡とみられ、参拝者も多い。
また、左側の道を登れば、薬師堂がある。

比良から北小松へ
大物をすぎると道は、ほぼまっすぐに北へ延び、右側には琵琶湖岸に位置する南比良
北比良の集落を見下ろす事が出来る。
この湖岸線は比良浦、比良湊とよばれ、「新拾遺集」の
「ふけゆけば嵐やさえてさざ波の比良の湊に千鳥鳴くなり」をはじめ、多くの

詩歌が詠まれている。
さらには、木戸には、宿駅跡と石垣近くに常夜燈があり、守山の旧街道の横に地蔵菩薩
とともに道標がある。大物の旧街道横に二つほど残っており、白髭神社への道標と
ともにそれらを味わって歩くのもよい。比良湊については、志賀町史にも以下の様な
記述がある。「古来、比良の湊がおかれ、北陸地方との交易を中心に水運にも従事して
いた。中世には比良八庄とよばれ、小松荘と木戸荘がその中心であったという。、、、
比良湊は万葉集にも見られる。ほかにも、「比良の浦の海人」が詠まれ、「日本書紀」
斉明天皇5年三月条には、「天皇近江の平浦に幸す」ということがあった。万葉集巻三
(二七四)には、
わが船は比良(ひら)の湊(みなと)に漕ぎ泊(は)てむ沖へな離(さか)りさ夜更(
よふ)けにけり
(わが乗る船は比良の湊に船泊りしよう。沖へは離れてゆくな。
夜も更けて来たことだ。
高市連黒人(たけちのむらじくろひと)が旅先で詠んだ八首の歌のうちの一首がある。
この時代、海は異界との境目だと信じられていた。また、夜は悪しき魔物たちが最も
活発に活動する時間だとも考えられていたようで、そんな魔物たちの活発に活動する
夜の時間が近づいてくる前に「湊に船泊りしよう(湊へ戻ろう)」と言霊として
詠うことで、黒人は夜を前に動揺する自分自身の心を鎮めようとしたのであろう。
また港近くの福田寺(浄土真宗 北比良)には、蓮如が北陸に向かうためにここに
立ち寄った時に渡った橋を蓮如橋と呼んでいる。近くには、比良観音堂があり、
天満天神の本地仏十一面観音がある。面観音を祀る寺として創建された。
北比良城跡の石碑もある。

比良周辺は、城跡の15ほどあるが、形を残しているものはない。さらに神社仏閣が多
くある。
その寺院宗派には、天台真盛宗、浄土宗、浄土真宗、臨済宗、日蓮宗などがある。
いずれも寺院の規模は小さく、本殿と鳥居、拝殿、御輿庫、などの付属建物で構成され
る。
とくに、拝殿は三間もしくは二間の正方形平面で入母屋造り、桧皮葺(ひわだぶき)で
ある。
街道沿いには、多くの寺や寺院の瓦屋根が見受けられる。
すこし、列記しておくと、西福寺(浄土真宗 北比良)、福田寺
(浄土真宗 北比良)、本立寺(真宗 南比良)超専寺(浄土真宗 大物)は覚如上人
や蓮如上人がこの寺を参詣された。
さらに長栄寺(日蓮宗 大物)、萬福寺(真宗 荒川)、西方寺(浄土宗 木戸)、
安養寺(浄土宗 木戸)、正覚寺(真宗 木戸)、光明寺(浄土宗 北船路)、
西福寺(天台真盛宗 守山)など比良三千坊と言われた名残りなのであろう。
さらに街道の脇には神社も多くあり、樹下神社(北小松)、八幡神社(南小松)、
天満神社(北比良)、樹下神社(南比良)、妙義神社は比良三千坊と称され、この地
が山岳信仰の中心地の1つであった
事を偲ばせる神社である。湯島神社(荒川)、樹下神社(木戸)十禅師権現社と称し、
コノモトさんとも呼ばれていた。五か村の氏神である。若宮神社(守山)、
金毘羅神社、八所神社(北船路)、八所神社(南船路)などまさに軒を
連ねる状態だ。

福田寺から湖に向かうと、そぐら浜がある。そぐら浜から北へ延びる浜辺一帯を
「ジョネンバ」と呼び、かっては石屋小屋(石きり加工場)が軒を連ね、
浜辺では氷魚、ハス、モロコなどの地引網が盛んに行われていた。今はその面影
はなく一部を児童公園となっているジョネンバから南側のそぐら浜辺りは上納
する年貢米や特産の石材、木材、薪、および壁土、葦、瓦などの集積場で、これらの
保管する蔵が集まっていたが、いまはその跡すらない。そぐら浜 という地名は、
当時、交易で運ばれて来た物資を保管・保存するための蔵が、立ち並んでいたこと
から付けられたという。
ちなみに、そぐらは、「総蔵」からきていると言われている。ここの常夜灯は、大きく
立派な造りだ。湖上が交易に使われていた頃に、船主や船頭衆によって航行の安全を
祈願して建てられたもの。昔は毎年、当番が四国の金比羅宮に、航行の安全祈願に
参拝したことから、常夜灯のびわ湖側には、「金比羅大権現」とう文字が、刻まれてい
る。

道は、湖岸から参道が続く天満宮社の前を通り、坂道を登るようにして水のない
比良川をわたる。この比良川の下流にあたるところは、大きな三角州が形成され、
その中に内湖をだいている。内湖と琵琶湖の間には細長い浜が数キロも続く。比良川系
から流し出された白い砂と緑の松とが好対照をみせ、独特の景観をみせている。
古くから西近江路の景勝地として知られていた。
昭和25年選定の琵琶湖八景では、「雄松崎の白汀」とよばれ、近年では琵琶湖随一
の水泳場として最もにぎわうところである。

「比良の山嵐が吹き降りる湖岸に眼をやると、近江国與地志略には、比良北小松崎 
則比良川の下流の崎なり。往古よりふるき松二株有り。湖上の舟の上下のめあてにす」
と、
その由緒を記す小松崎がある。現在の近江舞子、雄松崎付近にあたるのであろう。
この小松崎も大嘗祭の屏風歌に詠みこまれるほどの歌枕であった。
六条天皇の大嘗祭の折には、平安時代後期の代表的な歌人である藤原俊成が悠紀方
の屏風歌を勤め、梅原山、長沢池、玉蔭井とともに小松崎を詠んでいる。
「子ねの日して小松が崎をけふみればはるかに千代の影ぞ浮かべる」
子の日の遊びをして小松が崎を今日みると、はるかに遠く千代までも栄える松の影が
浮かんでいる。というのが、和歌の主旨で、天皇の千代の代を言祝いだ和歌である。
子の日の遊びと言うのは、正月の初の子の日に小松を引き、若葉を摘んだりして、
邪気を避け、長寿を祈った行事である。小松崎と小松引きとが上手く掛けられている。
松を含む地名自体、めでたいとされたのであろう。

また、平安時代後期の歌人としても、似顔絵の先駆者としても著名な藤原隆信も小松崎
を
「風わたるこすえのをとはさひしくてこまつかおきにやとる月影」と詠んでいる。
この和歌には、こまつというところをまかりてみれは、まことにちいさきまつはらおも
しろく
見わたされるに、月いとあかきをなかめいたしてという詞書が記されており、隆信が
実際に小松崎を訪れて詠んだ歌であることが察せられる。
隆信の和歌が小松を訪れて詠んだ和歌ならば,小松に住む人にあてた和歌もあった。
「人のこ松というところに侍りしに、雪のいたうふりふりしかば、つかしし、朝ほらけ
おもひやるかなほどもなくこ松は雪にうづもれぬらむ」
作者の右馬内侍は平安時代中期の歌壇で活躍した女流歌人、小松に近づく雪の季節に
対して、そこに住む友人をおもんばかる気持がよくあらわれている。
小松あたりの冬の厳しさは有名であったと察せられる。

道を少し山側にとると、石燈籠と石の大きな鳥居に導かれ、八幡神社へと入る。
古来より西近江路の交通の要衝としての志賀周辺は様々な道標があった。
そんな中ででも、白髪神社の道標が7つほど現存している。
古来白鬚神社への信仰は厚く、京都から遙か遠い当社まで数多くの都人たちも
参拝した。その人たちを導くための道標が、街道の随所に立てられていた。
現在その存在が確認されているのは、7箇所(すべて大津市)で、建てられた
年代は天保7年、どの道標も表に「白鬚神社大明神」とその下に距離
(土に埋まって見えないものが多い)、左側面に「京都寿永講」の銘、右側面に
建てられた「天保七年」が刻まれている。
二百数十年の歳月を経て、すでに散逸してしまったものもあろうと思われるが、
ここに残されている道標は、すべて地元の方の温かい真心によって今日まで受け
継がれてきたものであり、その最後の道標が南小松八幡神社の参道の手前にある。

八幡神社は、南小松の山手にあり、京都の石清水八幡宮と同じ時代に建てられた。
木村新太郎氏の古文書によれば、六十三代天皇冷泉院の時代に当地の夜民牧右馬大師
と言うものが八幡宮の霊夢を見たとのこと。そのお告げでは「我、機縁によって
この地に棲まんと欲す」と語り、浜辺に珠を埋められる。大師が直ぐに目を覚まし
夢に出た浜辺に向うと大光が現れ、夢のとおり聖像があり、水中に飛び込み引き上げ、
この場所に祠を建てて祀ったのが始まりとされる。祭神は応神天皇、創祀年代は
不明だが、古来、南小松の産土神であり、往古より日吉大神と白鬚大神の両神使が
往復ごとに当社の林中にて休憩したと云われ、当社と日吉・白鬚三神の幽契のある所
と畏敬されている。春の祭礼(四月下旬)には、神輿をお旅所まで担ぎ、野村太鼓
奉納や子供神輿が出る。また、この辺りは野村と呼ばれ、特に自家栽培のお茶が
美味しい。八朔祭(9月1日)が行われ、夜7時ごろからは奉納相撲が開催される。
八幡神社の狛犬は、明治15年に雌(右)、明治 17 年に雄(左)(名工中野甚八作)
が作られ、県下では一番大きいといわれており、体長180センチ弱だが、左右違い、
そのたてがみや大きな眼が印象的だ。また、神社の横を流れる水は裏の念仏山の
湧水を引き入れたもので透明な光となって神社の周辺を流れる。

道は、南小松の集落をあとに国道と合流して北へと進む。
西近江路は、楊梅の滝に水源を持つ滝川を越え、樹下神社の前辺りで国道と
分岐する。右側の狭い旧街道に入る。旧街道には、北小松の集落の家並みが
細長く続き、道の左に溝をとるなど街道の面影をよくとどめている。
この集落の右側には、すぐに琵琶湖に接し、古くから小松津とよばれ、
湖上輸送の船着場として知られる。「堀川後百首」にも「さざなみや
小松にたちて見渡せば、みほの岬に田鶴むれてなく」の歌がある。
そして北小松は水陸の輸送の便に恵まれ、明治13年当時は船63隻
旅籠が七軒もあった。

国道のすぐ横に大きな石碑と石の鳥居が悠然と立っている。北小松の樹下神社である。
湖から続く参道を行くと、境内社には、比較的大きな社務所があり、天滿宮、金比羅宮
、
大髭神社が仲良く一線に鎮座している。本殿の前には石造りの社があり、天保時代の
石燈籠など8基ほどあり、この神社への信仰の篤さを感じる。珍しいのは大きな石を
くり抜いたであろう石棺や緑の縞が明瞭に出ている2メートルほどの守山石。
この地域の石文化の一端が感じられる。湧水も豊富であり、3箇所ほどの湧き口から
は絶えることなくなく流れ、竜神像の口からも出ている。

神社の鳥居を湖へと向い、北小松の集落に入る。ここは、伊藤城跡(小松城跡)
といわれ、集落をめぐる石の水路が城下の面影を見せる。戦国期の土豪である
伊藤氏の館城、平地の城館跡の余韻を残している。現在の北小松集落の中に位置し、
「民部屋敷」「吉兵衛屋敷」「斎兵衛屋敷」と呼ばれる伝承地があるが、
十分な形ではない。集落は湖岸にほど近く、かっては水路が集落内をめぐりこの
城館も直接水運を利用したであろうし、その水路が防御的な役割を演じていた
であろうと思われる。集落を歩くと、幾重にも伸びている溝
や石垣の造りは堅牢で苔生したその姿からは、何百年の時を感じる。旧小松郵便局の前
の道は堀を埋めたもので、その向かいの「吉兵衛屋敷」の道沿いには、土塁の上に欅が
6,7本あったと言われているし、民部屋敷にも前栽の一部になっている土塁の残欠が
あり、モチの木が植えられている。
土塁には門があり、跳ね橋で夜は上げていたと伝えられる。

前述の司馬遼太郎の「街道をゆく」では、
「北小松の家々の軒は低く、紅殻格子が古び、厠の扉までが紅殻が塗られて、その赤は
須田国太郎の色調のようであった。それが粉雪によく映えてこういう漁村がであった
ならばどんなに懐かしいだろうと思った。、、、、私の足元に、溝がある。
水がわずかに流れている。村の中のこの水は堅牢に石囲いされていて、おそらく何百年
経つに相違ないほどに石の面が磨耗していた。石垣や石積みの上手さは、湖西の特徴の
1つである。山の水がわずかな距離を走って湖に落ちる。その水走りの傾斜面に田畑が
広がっているのだが、ところがこの付近の川は眼に見えない。
この村の中の溝を除いては、皆暗渠になっているのである。この地方の言葉では、
この田園の暗渠をショウズヌキという」とある。
いまでも、それらは残っている。

この志賀周辺には、15か所ほどの城跡があるという。半分が山城であり、
あとは昔の村ごとに湖辺近くに建っていたようだ。だが、今はいずれもその影
すら見えない。ほとんどが織田信長の比叡山攻めのときに消えた。交通の要路としての
重要性を示すものだが、北小松と比良の平城跡以外はその残香さえない。

集落の外れには、小松漁港がある。志賀町史では、「北小松、北比良、南比良、和邇の
北浜、中浜、南浜があった。和邇は、天皇神社含め多くの遺跡があり、堅田や坂本と
並んで湖西における重要な浜津であった」とあるが、今も港として残っているのは、
和邇と湖の小松漁港だけだ。
小松漁港も石造りの防波堤や港周辺の様々な造りに石が上手く使われている。

漁港を出て、さらに北へと進むと、左側の比良山系に一筋の滝を見ることが出来る。
この滝は、天文23年(1554年)に足利13代将軍義輝が比良小松に遊んだ時に
「楊梅の滝」と名付けたと伝えられている。「楊梅」とは、高さ十数mにもなる
「ヤマモモ」の木を意味し、山中を堂々と流れ落ちる滝の水柱をその大木にたとえて、
「楊梅の滝」と名付けられたといわれている。この「楊梅の滝」は、県下一の落差
を誇る滝で、雄滝、薬研滝、雌滝の三段に分かれ、落差は雄滝で40m、薬研の滝で
21m、雌滝で15mほどあり、合わせて76mになる。湖上船やJR湖西線の
車窓など遠くからでも眺める事が出来、その遠景は白布を垂れかけたように見える事
から「白布の滝」や「布引の滝」とも呼ばれている。
また、この滝を更に登ったところには、昔氷室があり、冬に切り出した氷を保存
していたとも言われている。
江戸時代の享保19年に編纂された「近江興地志略」には「滝壺5間四方ばかり
滝の辺、岩に苔生じ小松繁茂し、甚だ壮観なり」とあり、滝の状況を記すとともに、
比良山系のなかでも景勝地の1つであった事を示している。
揚梅の滝への道は、北小松の集落の外れが登り口になっている。
その道筋に楊梅滝道の道標があるが、それには児童文学者の巌谷小波の
「涼しやひとあしごとに滝の音」の句が刻まれている。

鎌倉時代以降になると、京都と東国を往還する人々も多くなってくる。
京都の公家たちも、鎌倉幕府の要請やみずから鎌倉幕府との人脈を求めて
鎌倉へ下向していった。
また、東国への旅が一般化すると、諸国の大寺社や歌枕を実際に見聞しに行く
者たちも増えていった。
「宋雅道すがらの記」を記した飛鳥井雅縁もそんな一人である。宋雅とは出家後の
号、飛鳥井家は和歌,蹴鞠の家として知られ、家祖雅経の頃から幕府、武家との
関係が親密であり、雅縁も足利義満の信任が非常に厚かった。そんな雅縁が
越前国気比大社参詣に出立したのが、応永三十四年2月23日、70歳の時である。
実は、この紀行文も旅から帰った後、将軍義教より旅で詠んだ和歌があるだろと
まとめの要請があって記したものである。旅の路順は湖西を船で進んでいたようで、
日吉大社を遥拝し、堅田を過ぎて、真野の浦、湖上より伊吹山を眺め、比良の宿に
宿泊している。そこで、
比良の海やわか年浪の七十を八十のみなとにかけて見る哉
と自分の年齢をかけた和歌を詠んでいる。翌日は小松を通っている。小松の松原を
目の当たりにして、

小松と言う所を見れば名にたちてまことにはるかなる松原あり
我が身今老木なりとも小松原ことの葉かはす友とたに見よ

同じく長寿を保つ松原に呼びかけるような和歌である。次は、白鬚、ここでも、
神の名もけふしらひけの宮柱立よる老の浪をたすけよ

と、長寿をまもるという白鬚神社に自分の老いを託している。そして、竹生島を
船上より眺め、今津、海津、そこから山道をとって、29日には気比大社
に詣で、参籠して3月17日に帰京している。
将軍などの見聞旅行に随行の記録もある。
冷泉為広が細川政元の諸国名所巡検の同行記録では、
出立は延徳3年京を山中越えで坂本へ、比叡辻宝泉寺に宿泊。翌日は船に乗り
湖上を行った。東に鏡山、三上山、西に比良山,和邇崎を見ながらの通航
であった。そして、船中であるが和邇で昼の休みを取っている。
次に映ったのが、比良あたりの松である。
ヒラノ流松宿あり向天神ヤウカウトテ松原中に葉白き松二本アリ
「向天神」とは現在も北比良に鎮座する天満神社のことであろう。「ヤウカウ」は
影向で、「近江国與地志略」などにいう、社建立の際に生じたという神体的な要素
を持つ松のことである。

また、小松のところでは、「コノ所ニワウハイノ瀧ト伝瀧アリ、麓に天神マシマス」
として「ワウハイ、楊梅瀧」について記している。
コノ瀧については、「近江国與地志略」でも、
・楊梅瀧  小松山にあり、小松山はその高さ4町半あり。瀧は山の八分より流る。
瀧つぼ五間四方許、たきはば上にて三間、中にては四間,下にては亦三間ばかり、
この瀧、長さ二十間、はばは三間許、水は西の方より流れて東へ出、曲折して
南へ落、白布を引きがごとし、故にあるひは布引の瀧といふ。瀧の辺り,岩に
苔生じ,小松繁茂し、甚だ壮観なり。
とみえ、近世には名所となっていたことがわかるが、冷泉為広の時代にもすでに
注目に値する名勝であったらしいことがうかがえる。そして、一向は湖上の旅
を続け陸路で敦賀,武生と進み、越中,越後をめぐり4月28日に京都へ帰っている。

北小松には、柴刈の時に唄う囃し歌がある。
昔は、柴と米とは生活するのに一番大切なもので、「米炭の資」と言って生活に
大切なものと言う喩えもあった。
「柴刈りうた」
山へ行くならわし誘とくれ
山はよいとこ気が晴れて
涼みむき上げて花一越えて
どんどと下がれば畑の小場
大滝小滝は唄で越す
どんどと下がればしたえ松
したえ松からかきの小場までも
まだも待つのか弁当箱

さらに、少し山側にそれると、徳勝寺(大津市北小松)の境内に咲く枝垂桜があり、
種徳禅寺は「弘法大師堂」は安産祈願を司り、庭園は、大きな坐禅台があり、
枯れ池と大きな石橋、池端の雪見灯篭、小ぶりの山灯篭が配置されている。
琵琶湖の景観が素晴らしい。

小松漁港を通り過ぎると再び国道と合流する。この付近から比良山地と湖が
接近している。
道は湖の際を通り、やがて志賀町と高島町の境をなす鵜川にさしかかる。
このあたりは、かって鵜を使っていたところから川名と旧村名のその名が
ついたといわれている。

とりあえず、旧志賀町まで進めた。

2016年11月15日火曜日

秋の日、城跡を歩く

この志賀周辺には、15か所ほどの城跡があるという。半分が山城であり、
あとは昔の村ごとに湖辺近くに建っていたようだ。だが、今はいずれもその影
すら見えない。ほとんどが織田信長の比叡山攻めのときに消えた。
城跡歩きはなぜか秋の終わりから冬近くまでが似合う。秋の持つ侘しさと城
としての滅び消えた時の流れが心に同期するからなのだろう。
北小松と比良の平城跡をめぐるが、わずかな残滓が見られるだけであった。

まさにこれは「春 望  <杜 甫>」の世界かもしれない。
國破れて 山河在り 城春にして 草木深し
時に感じて 花にも涙を濺ぎ 別れを恨んで 鳥にも心を驚かす
峰火 三月に連なり 家書 萬金に抵る
白頭掻いて 更に短かし 渾べて簪に(すべてしんに)勝えざらんと欲す

戦乱によって都長安は破壊しつくされたが、大自然の山や河は依然として変わらず、
町は春を迎えて、草木が生い茂っている。時世のありさまに悲しみを感じて、
(平和な時は楽しむべき)花を見ても涙を流し、家族との別れをつらく思っては、
(心をなぐさめてくれる)鳥の鳴き声を聞いてさえ、はっとして心が傷むのである。
うちつづく戦いののろしは三か月の長きにわたり、家族からの音信もとだえ、
たまに来る便りは万金にも相当するほどに貴重なものに思われる。
心労のため白髪になった頭を掻けば一層薄くなり、まったく冠を止める簪(かんざし)
もさすことができないほどである。

北小松の集落は、伊藤城(小松城跡)があったとされ、その石の水路の
織り成す城下の面影が残っている。細い国道を少し湖側に入り込むと、
白壁と大きな松にかたどられた瓦屋根の家々がその姿をとどめている。
戦国期の土豪である伊藤氏の館城、平地の城館があった。
北小松集落の中に位置し、「民部屋敷」「吉兵衛屋敷」「斎兵衛屋敷」
と呼ばれる伝承地があるが、多くはただの空き地と往年の面影さえ残っていない。
湖岸にほど近く、かっては水路が集落内をめぐりこの城館も直接水運を
利用したであろうし、その水路が防御的な役割を演じていたであろう。
街は静かに秋の陽に照りかえっていた。この足音さえ、幾重にも伸びている
溝や石垣の堅牢な造りと苔生したその中に吸い込まれていくようだ。
何百年の時を感じる、そんな小景が彼の眼に映り込む。

苔むした川は、三面水路で造られ、春ともなると小鮎がいくつ
もの群を作り遊びに興じており、石畳の道、そこにも黄緑色の苔
が顔を見せている。すでに人気を感じない「かわと」がひょこりと
叢の枯れた部分から顔を見せる。少し前まで、家の中に比良の
湧き水が川となりその川の水を引き込み生活用水として利用していた。
山からの湧水が小川となり、それがこの街を幾重にも重なりつながり
ながら静かな水の流れを作り上げてもいる。彼方此方にその残滓は
残っているが、多くは数段の石積みが川に延びた状態で、今は
ほとんど使われていないようだ。水はこの地の案内役だ。
水の流れに沿って歩けば、家々の間に透かすかのように顔を出す湖の碧さと
白地の強い砂浜がある。白壁にやや色の褪せた板塀の家の横を、少し行けば
やがて小松漁港に出る。まだそこには石造りの防波堤や港周辺の様々な造り
に石が上手く使われて、苔むした石垣は時代の長さを感じさせる。
かってはこの地が水運の街であったことをそれとなく教えてくれる。
白く広がる砂と青く光る湖を先にたどれば、薄雲の中に沖ノ島が卵を半分に
来たような形で浮いていた。
彼はそこで頬に風を感じるが、思えば、1人の人とも会わなかった。
始めてそれに気づく自分がいた。

山城や砦あるいは平地の館城跡など、滋賀県下の城郭総数はおよさ1300箇所
にも上るいうが、彦根城や大溝城あるいは膳所城など、近世城郭として確立した
遺跡は数箇所にすぎず、大多数の城郭が中世後期の室町時代の後半から戦国期
にかけて築かれたことが知られている。
この伊藤氏の城もそうであり、少し足を延ばした比良でもその盛衰は同じような
モノであろう。
この築城の歴史は、応仁の乱辺りから本格化し、元亀天正年間頃(1570~92)
に終息するころから、15世紀後半から16世紀後半までの100有余年の短い
期間に築かれたものであることが分かる。
城郭遺構とは、四周に土塁や堀、帯郭あるいは犬走りなどを設けて、戦闘に
備え防御する施設である。通常さらに外回りを、堀切や竪堀あるいは切り岸や石垣
時には武者隠しなどによっていっそう堅固なものにしている。現況からはほとんど
土からなる城と思われているが、今は朽ちて認め難い板塀や竹矢来、あるいは
木梯子や木樋、竹樋さらには小屋や櫓や屋敷などの多様な建築物があったに違いない。
城の出入口である木戸も、次第に虎口として複雑な構造をとるようになった。
だが、この地域の城跡はそのような構造を確認できるものは残っていない。

比良の山端を右に見て、西近江路を南へ下ると、湖岸に田中坊城(北比良城、
福田寺城)が館城として存在し、平地には西近江路に面して同じく比良城が館城
としてあったという。湖岸近くに館城である南比良城があり、その詰城として
野々口山城があり、両者の間は約2キロほど離れていた。比良城ー田中坊城ー
南比良城はほぼ一直線上にあったと言われるから、連動して戦に備えていた
のであろう。
さらに下がれば、西近江路に面して木戸城や荒川城が平地館城となって、山端
に作られていたという歓喜寺城がこれらの詰城であった。
その築城は、大規模な土塁を削り出し方法で屋敷を城塞化した時期であり、1520
年頃から起きた足利氏、佐々木六角氏、伊庭氏などの抗争の激化に対応した。
時代が進み、浅井氏や信長の侵攻が活発化し、1540年代以降は本格的な山城
の築城と合わせた平地館城との連携をしていたという。
だが、山城も平地館城も、時の流れの中で、すべてが自然に帰っている。

もっとも、山城は、中々に行けない。今回は、比良城周辺の残滓を少し見たかった。
比良城は北比良の森前に存在したと伝えられる。湖西地域を南北にはしる西近江路
がこの場所で折れ曲がっている。街道を挟み、樹下神社が隣接している。
大きな石の鳥居の奥では、黒さの増したブナの木に囲まれた本殿が佇んいた。
その姿は、周辺の神社と変わらない。すでに朽ち果てた城の面影を思い描こうとする
が、明確な形となって現れてこない。それは、昔の友を呼び起こそうとするが、
かすみの中に茫洋とした形が見えるのと変わらない。ただ、古老にもこの場所に
城があったとの伝承が残っているという。北比良村誌によると「元亀二辛未年
九月織田信長公延暦寺を焼滅の挙木村の山上山下に之ある全寺の別院より兵火
蔓延して」とあり、この時期他の城郭と同様破滅したしたものであろう。
比良には、比良城、南比良城、北比良城があったとされる。
南比良城は、家並みの先に見える瓦屋根の下にあろう本立寺より数100メートル
西北西とされるが特定できていない。樹下神社天満宮からまっすぐ琵琶湖へ
と伸びている道路を行くと、左手に白壁に囲まれた福田寺がみえた。
小ぶりの門をくぐり、石畳の境内を進むと、本堂の横に城跡の石碑が建っていた。
それ以外何もない、寂しいきもちで寺を去る。



ーーーー

これらの城郭遺構を構造的、機能的に類型化していく。
南北に細長い比良山麓での、民衆の日常における生業活動は、水系を軸にして
河川ごとにまとまっている。この視点で城郭群をみると、やはり湖岸、平地、
山麓、山頂と一直線上にまとまりを示している。これを町域の北から
地域区分によって示すと以下のようになる。
1)地域1
湖岸に複郭式の平地館城である伊藤氏城が営まれていた。そしてこれと対に、
背後の山上に涼峠山城が築かれる。この山城の位置は、小松から高島の背後を
経て朽木方面へ通じる山道に面する。なお、両城郭の間は山そでが迫って
平地はなく、伊藤氏城のごく背後山中には城郭はない。このような伊藤氏城
(小松城、湖岸)-涼峠山城の関係をもって小松地域を設定する事が可能である。
2)地域2
湖岸に田中坊城(北比良城、福田寺城)が館城として存在し、平地には西近江路
に面して同じく比良城が館城としてある。この地域では背後の山城はないが
二つの平地館城の対の役目のような形で、ダンダ坊城がある。
ここに山寺城ー里坊城の関係が見出される。
3)地域3
湖岸近くに館城である南比良城があり、その詰城として野々口山城がある。
両者の間は約2キロである。ただ比良城ー田中坊城ー南比良城はほぼ
一直線上にあり、野々口山城、歓喜寺山城ー歓喜寺城が扇形となって
展開していた事もありうる。
4)地域4
旧北国街道に面する木戸城もしくは荒川城が平地館城となり、歓喜寺城がこれらの
詰城である。木戸城を扇の要にして、背後の南北位置に歓喜寺山城と木戸山城
を配置して展開したとも考えられる。また、木戸城は木戸十乗坊の城と言う
伝承もある。
5)地域5
湖岸の木戸城と詰城の木戸山城と対と考えられる。

町域南部では、その城郭群の構成が不明であるが、南部では木戸川と比良川の
間に10城が密集しているが、比良川から鵜川までには2城しかなくかなりの
不均等さを見せる。
その理由として以下の点が考えられる。
①平地の館城と背後の詰城といった戦国期の単純な構成をとらず、両城郭の間の
山麓付け根に館城を構築する事。これらは比良の大規模山岳寺院に隣接して
平地館城を元に山容あわせた山寺城とした。
②山岳寺院内の館城と対をなす詰城が背後の山頂部に築城されている。
歓喜寺山城や野々口山城に見られる。これは他の地域では見られない特質である。
③比良山麓付け根に築かれていた山岳寺院が平地や湖岸に寺坊を移し、肥大化
変質する寺院経済の運営に利便を図った。田中坊城がそれである。
④主戦場となる歴史的な経緯があり、それへの対処として行われた。
⑤各城郭の築造が幾つかの時期に行われたため、多くの城郭が造られた。

城築城の年代は白の出入り口の虎口の構造の複雑さと土塁の完成度によるとされる。
さらに築城の契機により本町域の勢力分布も推定が可能となる。
この点から北小松の伊藤氏の勢力は増して来たことが考えられる。
複郭式の館城群を営み、北小松の港を抱え湖上交通の掌握、さらに比良山麓から
朽木方面への山路の監視などからそれがうかがえる。
なお、城郭機構の特徴から本町域での城郭は二期に別れて発達したと思われる。
第1期は大規模な土塁を削り出し方法で屋敷を城塞化した時期であり、1520
年頃から起きた足利氏、佐々木六角氏、伊庭氏などの抗争の激化に対応した。
第2期は浅井氏や信長の侵攻が活発化し、本格的な山城の築城と合わせた
平地館城との連携が必要となった1540年代以降である。


①寒風峠の遺構(北小松、山腹にあり、現在林)
②涼峠山城(北小松、山腹、林)
③伊藤氏城または小松城(北小松、平地、宅地や田、堀切土塁あり)
④ダンダ坊城(北比良、山腹、林)
⑤田中坊城(北比良、湖岸、福田寺)
⑥比良城(比良、平地、宅地)
⑦南比良城(南比良、湖岸、宅地)
⑧野々口山城(南比良、山頂、林)
⑨歓喜寺城(大物、山腹、林)
⑩歓喜寺山城(大物、尾根、林)
⑪荒川城(荒川、平地、宅地や墓地)
⑫木戸城(木戸、湖岸、宅地)
⑬木戸山城、城尾山城とも言う(木戸、尾根、林)
⑭栗原城(栗原、不明、宅地)
⑮高城(和邇、不明、宅地)


志賀町史第4巻からは、
1)小松城跡
戦国期の土豪である伊藤氏の館城、平地の城館跡である。現在の北小松集落の中
に位置し、「民部屋敷」「吉兵衛屋敷」「斎兵衛屋敷」と呼ばれる伝承地が残る。
当該地は町内でも最北端の集落で、湖岸にほど近く、かっては水路が集落内をめぐり
この城館も直接水運を利用したであろうし、その水路が防御的な役割を演じて
いたであろう。
旧小松郵便局の前の道は堀を埋めたもので、その向かいの「吉兵衛屋敷」の道沿い
には、土塁の上に欅が6,7本あったと言う。また、民部屋敷にも、前栽の一部に
なっている土塁の残欠があり、モチの木が植えられている。土塁には門があり、
跳ね橋で夜は上げていたと伝えられる。

2)比良城跡
比良城は北比良の森前に存在したと伝えられる。湖西地域を南北にはしる北国街道
がこの場所で折れ曲がっている。街道を挟み、樹下神社が隣接している。在所の
古老にもこの場所に城があったとの伝承が残っている。北比良村誌によると
「元亀二辛未年九月織田信長公延暦寺を焼滅の挙木村の山上山下に之ある全寺の別院
より兵火蔓延して」とあり、この時期他の城郭と同様破滅したしたものであろう。
比良には、比良城、南比良城、北比良城があったとされる。
南比良城は、本立寺より数100メートル西北西とされるが特定できていない。
北比良城は、比良樹下神社天満宮から湖側に進んだ福田寺にあったとされ、
境内には城跡の石碑が建っている。詳細は不明。

3)歓喜寺城跡
大物の集落より西の比良山の山中に天台宗の古刹天寧山歓喜寺跡がある。今では
そこに薬師堂だけが残り、わずかに往時ここが寺であった事を偲ばせる。
歓喜寺城は比良山麓に営まれた比良三千坊の1つである天寧山歓喜寺跡の前面
尾根筋上に営まれた「土塁持ち結合型」平地城館である。
この遺構は三条のとてつもなく大きい深い堀切によって形成され、北側の中心主郭
はきり残された土塁を基に四周を囲郭し、この内側裾部や内側法面に石垣積みが
認められる南側の郭は北に低い土塁が残り、近世になって修復、改造がなされた
と思われる。また、背後、前面の歓喜寺山に山城が築かれており、L字状の土塁や
北東を除く三方には掘り切りなどが認められる。

4)荒川城跡
荒川城は荒川の城之本と言うところにあったとされる。この城に関しての
文献資料はほとんど見当たらないが、絵図が残っており、それには城之本の地域の中に
古城跡と書かれている。また、ここの城主が木戸十乗坊という記録があり、
同氏は木戸城の城主でもあり、木戸城の確定とともに確認をする必要がある。

5)木戸山城跡
現在の木戸センターより西北西の比良山中腹の尾根部分にあったとされる。この地域は
古くから大川谷に沿って西に向かい、木戸峠より葛川の木戸口や坊村にいたる木戸
越えの道が通る。このため、この城の役目は木戸越えの道の確保であったとも推測され
る。城としては、堀切りを設け、東を除く三方に土塁を築いていた。
しかし、この城も「元亀三年信長滅ぼす、諸氏山中に隠れる」とあり、その時に
破壊されたのかもしれない。



滋賀県中世城郭分布調査報告書9にも記述あり。


だが、街を囲むように続いている散歩道から一歩山側に足を向ければ、そこは
まだ人の影が見えない世界である。鬱蒼たる笹の葉におおわれた地面に
いくつもの気が寄り添い、多くのつる草を身にまとい、薄暗き別の世界を
世界を作り出している。
比良山麓といっても、様々な木々が育ち、群れを成している。
多く見られるのは、いま彼の行く手にも多く見られるブナの木々である。
絶えず緑のマントを着るか如く四季を通じてその葉は落ちない。
高さ10メートルほどのもので、太さも1メートルもある樹がミズナラや
アシウスギとともに一面を支配している。それにかしづくような形で、ツツジ
系草花のイブキザサ、アクシバイワカガミなどが入り乱れるように我が身を
見せ、コアアジサイ、クロモジ、タンナサワフタギが地表を埋め尽くしている。
少し目を上げれば、渓谷斜面にはフサザクラ、チドリノキ、トチノキ、
ミズキなどの落葉樹の群れが湿生林を形作っている。

当然彼を含め多くの人がこれらの名前を知っているとは思えないが、その
様相から人の顔かたちの違いと同じ様なものと思っているのであろうか、
時になくオオルリのポピーリ、ピーリ、ピースと啼く声にあわせ、薄明るさの
中に立ちこめる木々の姿を見ている。
今、彼が進む中は、覆いかぶさるように茂るカエデやクスノキ、コナラなどが
支配する世界であり、ヤマドリゼンマイやシモツケソウ、トキソウが時には
小さなピンクの花をつけ地面近くを支配していた。
その世界を切り裂く様に、一直線に土と小石のある山道が奥へと伸びている。
そんな世界をかき分け、まだ残る陽射しを強さを感じながら、彼は道の水溜りを
気にしながら歩いている。時に近寄る秋の気配を、その空気、その風、
木々の小枝のさざめき、通り過ぎるヤマガラ、シジュウカラのさえずり、
から感じつつ、比良山に向かうが形で進んでいた。

このような山道を歩くのは、初めてかもしれないが、彼の遠くおぼろげな
記憶の中には、なぜか懐かしさのような感情が伴っていた。
遠くからアオゲラのキョッ、キョッと甲高い鳴き声がチャトたちを後押しする
かのように聞こえてくる。時折、その方向に目を向けるが、その姿は確認
出来ない。やがて、それらの音をかき消すかのように力強い水音が木々の間から
聞こえてくる。山道が厚い茂みに消されたような場所を右に曲がったときに
それは見えた。両側から笹が、その黄緑の葉を茂らしている真ん中を銀色に
光る水が勢いよく走っていた。少し上の苔に覆われた石には、ミソサザイが
チリチリチリという震え声で啼いている。笹の間をぬうようにして、1つ要領の
分からない彼は笹の葉をかき分けるように進んでいく。

小さな雲の塊があたりにいくつもの陰を落としながら走りすぎていく。
かなたの山麓に指す光はすすけている。強い陽射しののせいではなく、
前方に横たわる拾い空間のせいだ。彼は頭の中で、深い緑に取り込まれた人の
姿と、そして、その中間にあるはずの様々な人やものに想いをはせた。
彼の知らない、だから、想像するしかないたくさんのものを思い描いた。
道路、畑、森、街そして、隣人も含む大勢の人びと。その全てがつながっている
と思った。ジックリと考える必要など毛頭ない。理由をつける必要もない。
ふと止めたその先には、木洩れ日にその光りを映えるように水面を見せている
渓流の淀みがあった。それは池と言うには大きすぎるが、周りの木々と
斜めに差し込む光の中で映える水面はさざなみ一つなく鏡のような表を見せ、
湿潤な場所に咲くオオイタヤメイゲツの木々とともに、斜めにさす光りがスポット
ライトの様に水面を照らし、緑と水の舞台を作り上げている様でもある。





二十四節気「処暑(しょしょ)」

・綿柎開(わたのはなしべひらく)8月23日頃
綿を包むガクが開き始める頃。綿の実がはじけ白いふわふわが顔をのぞかせた様子。
→すだち、綿花。かさご。
・天地始粛(てんちはじめてさむし)8月28日頃
天地の暑さがようやくおさまり始める頃。「粛」は縮む、しずまるという意味です。
野分のわき。
→ぶどう。ぐち。
・禾乃登(こくものすなわちみのる)9月2日頃
いよいよ稲が実り、穂を垂らす頃。「禾」は稲穂が実ったところを表した象形文字。
→無花果いちじく、きんえのころ。まつむし。鰯。

二十四節気「白露(はくろ)」

・草露白(くさのつゆしろし)9月7日頃
草に降りた露が白く光って見える頃。朝夕の涼しさが際立ってきます。
→秋の七草(萩、すすき、葛、なでしこ、おみなえし、藤袴、桔梗)。島鯵。
秋の野に咲きたる花を指および折り かき数ふれば七種ななくさの花 山上憶良
・鶺鴒鳴(せきれいなく)9月12日頃
せきれいが鳴き始める頃。せきれいは日本神話にも登場し、別名は「恋教え鳥」。
→梨、オシロイバナ(夕化粧ともいう)。あわび。鶺鴒せきれい チチィとなく。
・玄鳥去(つばめさる)9月17日頃
燕が子育てを終え、南へ帰っていく頃。来春までしばしのお別れです。
→鶏頭、なす。昆布。


俳句 秋
風雲や時雨をくばる比良おもて  大草
夕焼けの比良を見やりつ柿赤し  惣之助
楊梅の瀧見失う船の秋      虚子
有明や比良の高根も霧の海    白堂
名月やひそかに寒き比良が嶺   歌童

和歌  秋
・ち早ふる比良の御山のもみぢ葉に
 ゆうかけわたすけさの白雲    安法
・宿りするひらの都の仮庵に
 尾花みだれて秋風ぞ吹く     光俊朝臣
・小浪や比良の高嶺の山おろしに
 紅葉を海の物となしたる     刑部卿範

2016年10月19日水曜日

霜降の里山

時の移ろいは早いものだ。
ほんの30年前までは岸で洗濯をしたり、野菜を洗ったりしたもので、
湖というのは、地元のものにとってはそれこそ家の一部、生きていく上
での仲間だといってもいいほど親しみのある存在だった。
ところが、人は便利と効率を求めて、家と湖とのあいだに幅の広い舗装
道路を作った。遠浅の砂浜はほかからもってきた土砂で埋められ、岸辺は
コンクリートで固められてしまった。そのことによって、湖と人々の間に
深い溝が出来てしまった。別に工事によって岸辺が何キロも、離れて
しまったわけではない。距離で言うと、たった数10メートルほど湖から
離れただけだ。それなのに、湖岸に住んでいた私たちは、湖が全く手の届かない
ところへ行ってしまったような寂しい気持ちになってしまった。
日常的に体を支配してきた波のさざめきを失った私たちは、不安でさえあった。
人の心のなかに溶け込んだ潤沢な湖は、日常から離れ、人の心根からも
遠くなり、早くも昔の語り草のような存在となった。洗濯や野菜を洗うために
湖に突き出しておかれた「橋板」もほとんど姿を消した。そこで交わされた
会話に代わり今は寄せる波の小さなさざめきのみとなった。

比良の地域でも、この地域の木戸石や守山石の産出とともに山で枯れ木と
なった枝を取り出しそれらを燃料として船で周辺に積みだしていた。
その割り木はお風呂をたくときや生活燃料としてよく使われていた。
何処の家の子たちも、そのころ、釜に割り木を入れる仕事をさせられた。
黄昏のほの暗い庭と、深い紺色をした空、そして、油煙という黒い煤と、
香ばしい割り木の香りをはっきりと覚えているだろう。
このとき、大津の家々は、割り木をまとめて買っていた。毎年秋の終わり
になるころ、何百、いや何千束という割り木を大型トラックに積んで行商
のおやじがもってきたという。
割り木はすべてクヌギやコナラだった。
湖近くの古老は思い出すように眼を閉じ話すのだった。
私もまた、眼を閉じて昔の湊風景を想像してみた。
木の桟橋がいくつも張り出した静かな港に、丸子舟が何艘モ停泊しており、長い
桟橋を人々がせわしなく行き来している。湖岸の際まで続く畑や水田にも人の姿
があり、黄緑色をしたセキショウモがなびく小川が音を立てて湖に流れ込んでいる。
その風景のそこここに、木造りの「にう」が狐色の屋根を光らせている。
採られた割り木は藁で屋根を作ったこの「にう」の中にびっしりと並び、
しばらく乾燥されてから丸子舟であちこちに運ばれた。
湖の周辺の街で子供のころから親しんできた木の木片がこのような形で運ばれていた。
初めて知った心持だった。割り木は、帆を張って揺れる丸子舟に身を任せ、
青く澄んだ湖面を旅していたのだ。だが、そのような雑木林の最盛時代は、
生活の進化で様々な燃料が世に出始めると終わった。しかしながら、その数は
減ったもの、昭和30年代まで割り木の積み出しは行われたという


浜から30分ほど歩けば、旧家が寄り添うように若い杉木立の中に建っている。
そのなかのほそい道は、なかなか風情があっていい。白い土壁の蔵や苔むした石積み、
四方にささやかな水音を残して流れる小川が見える。そのどれもに歴史が感じられる。
道の角ごとにお地蔵さんがあったり、祭壇に花が生けられていたりするのもいい。
生け花は、旧家の庭に生えているものばかりで心が和む。黄色い菊の花が緑の中に
2差しほど見える。これらのあつい信仰もまた、長い歴史の中で確実に
生き続けてきた。
ほおかぶりのお婆さんが腰をかがめながら、野菊とズイキの太い幹を
だきかかえるようにして歩いてきた。ズイキは干していろいろに使える。
細身にまかれた巻き寿司は秋の匂いがして美味しい。
ちらりと彼を見て、そのしわくちゃな顔を緩めながら小藪の先へと消えた。
その道すがらに大きな柿の木があった。紅く熟れた実が青空にちりばめられたように
黒い枝から四方に広がっている。この実も1つの歴史を見せる。
初夏、白黄色のやや地味な4つの花弁が艶やかな緑の葉の中に彩り、
縁先や庭にこぼれ落ちる。日増しに強くなる陽ざしとともに葉が広がり始め、やがて
実がふくらみはじめると葉が黄色へと色づき、一夜、疾風が過ぎ去ると大半の黄色が散り、
あとには赤だけが蒼空を彩る。
野仏に菊の黄色が映え、さらには赤や緑が加わり甘い香りが満ちると、集落は一段と
秋らしくなっていく。

人家の外れの畑で紫苑の花を見つけた。まだ咲いていた、そんな驚きがあった。
薄紫と黄色の可憐な花、細くしなやかな茎とともにたおやかな風を誘う。
幾匹かの蝶が舞っては止まり、翅をゆっくりと開閉させている。黒褐色の地に
紅色と白斑、何ともシックなアカタテハと言う蝶である。この蝶は、夏場は
もっぱら雑木林にこもって樹液ばかり吸っているが、秋になると花の蜜を
もとめて日当たりのよい所に出てくる。翅は新鮮で傷1つ無いので、今日の朝
羽化したのだろう。もう2,3週間もすれば、冷たい北風が吹いてくるというのに、
なんというのんびり屋の蝶なのだろう。そのとき、アカタテハは、親の姿
のままで冬を越して、春になって卵を産み始めるらしい。
栄養ををたくわえて、過酷な季節に挑むこの蝶にとって、今はこの蝶には、
残された最後の時なのでろう。優雅さの中に必死さが放たれていた。

さらに、あぜ道を上っていくと、秋の匂いが漂ってきた。
見ると、数人の農家の人が薄く映える煙の中に見えた。土手を焼いているのだった。
草が焼ける匂いと刈り上げた稲の藁積みの匂いは、体をリラックスせてくれる。
遠い昔無邪気にその日を過ごした安寧の気持ちが湧いてくるからだろうか、
眼を閉じて香ばしい香りを吸い込むと、体の中の緊張感が急に溶けてしまう
ようである。何千年もの遠い昔に森を開き、鍬を振るって田や畑を作ってきた
気の遠くなるような時間と労働の蓄積がそこにある。草の焼ける匂いは、
自然の力に負けぬように頑張ってきた人の汗の匂いと人としての生業の姿を
思い起こさせるのかもしれない。彼の妻も昔街中で落ち葉を焼いているのを
見ながら、その煙りにしばし立ち止まってその匂いを楽しんだそうだ。
赤い炎が土手の上を走り、枯草を黒い炭に変身させ、その上を白い煙がゆっくりと
たちのぼっていく。少し赤みの増した光を浴びて刻々と白さを増す香りの渦は、
大気の中に静かに浸透していく。

紅に燃え始めた空を背に、あぜ道を歩く。夕刻の時が刻まれるにつれて、
土手や刈田の草の茂みから虫の鳴き声が聞こえはじめる。
シリシリシリシリシリ、ササキリの細かい声が闇に沈んでいくと、
今度はジーンジーンという脳の髄にしみるようなウマオイムシの声。
それと同時に、チンチロチンチロチンチロリンというマツムシ、
ガチャガチャというクツワムシ、ルルルルルルルという連続の
カンタンなど、一斉に翅をふるわせはじめる。
秋は虫たちもうれしそうだ。ススキの穂がその音に合すかのようにゆらりと揺れている。

歩きながら昔聞いた童謡が心に流れてきた。
「あれ松虫が 鳴いている ちんちろ ちんちろ ちんちろりん
あれ鈴虫も 鳴き出した  りんりんりんりん りいんりん
秋の夜長を 鳴き通す
ああおもしろい 虫のこえ

きりきりきりきり こおろぎや
がちゃがちゃ がちゃがちゃ くつわ虫
あとから馬おい おいついて
ちょんちょんちょんちょん すいっちょん
秋の夜長を 鳴き通す
ああおもしろい 虫のこえ」

いつの間にか口ずさむ彼がいた。

比良の山並みを仰ぐと、赤や黄色に染まりはじめた落葉樹の森と、深い緑が
色褪せない杉の林をぬうようにして、里まで続いている。山頂にある緑はそこはブナ
の林かもしれない。人里より紅葉が進んでいるに違いないが、まだ多くの緑
が支配している。そこは、雨が山の背をさかいにわかれていく分水嶺であり、
尾根道の東側からの紺青の湖面を見渡せる情景と幾重にも重なる山の頂が遠望
出来る西側の景色とでは、全く趣が違う。天から降り落ちてくる水たちが、
山に沁み込んで森を育み、沢が出来るはじまりの場所出もあり、豊かな湧き水の
源でもある。ここは水を生み、育てる場所でもあるのだ。数は減ったものの、
ホンモロコやビワマス、手長エビが捕れ、9月ごろのホンもロコは「秋モロコ」
と言われ、美味しい。手長エビは料亭でも一品料理として出されたり、添え物として
珍重される。四季を通じた湖魚の味は清涼感を含み、舌の上で踊る。
昭和時代になっても砂浜では地引網の漁がおこなわれ、子供たちの声も響いていたという。

ふと、先日食べた料理グループの作った料理が浮かんできた。
今回は秋の収穫物が満載だった。落花生、カボチャ、ズイキ、アズキ、
ダイズ、シソ、もち米、等々すべて地元産。緑、黄色、褐色様々な彩が
テーブルに並び、野の香りを放っている。目まぐるしく立ち働く料理会の
メンバーの手で、それらが、落花生しょうゆおこわ、カボチャ羊羹、
干しズイキの巻き寿司、鶏つくねバーグ、なかよし豆、シソの実つくだ煮、
ズイキのすみそ和え、カボチャスープ、きゅうりの贅沢煮、に変身する。
さらには前日作ったという自家製パンもあった。特に落花生おこわは
秋の味がじっくりと口の中を支配し、しばしの幸せに包まれた。
その時の櫛を梳いた雲と比良の山並みのまだ深い緑が思い出された

2016年10月8日土曜日

寒露の里山風情

二十四節気「寒露(かんろ)」


今は、寒露(かんろ)のころ、定気法では太陽黄経が195度のときで10月8日ごろ。
期間としての意味もあり、この日から、次の節気の霜降前日までである。
露が冷気によって凍りそうになるころなのだ。雁などの冬鳥が渡ってきて、
菊が咲き始め、こおろぎなどが鳴き始めるころ。「暦便覧」では、
「陰寒の気に合つて露結び凝らんとすれば也」と説明している。
七十二候に言う。
・鴻雁来(こうがんきたる)10月8日頃
雁が渡ってくる頃。清明の時期に北へ帰っていった雁たちが、再びやってくる。
・菊花開(きくのはなひらく)10月13日頃
菊の花が咲き始める頃。旧暦では重陽の節供の時期で菊で長寿を祈願する。
・蟋蟀在戸(きりぎりすとにあり)10月18日頃
戸口で秋の虫が鳴く頃。昔は「こおろぎ」を「きりぎりす」と呼んだそうだ。

日が落ちるのも早くなり、風が冷たくなる頃。夕暮れに聞く虫の声も次第に
色を帯びてくる。チリリリリリリ・・・とヒゲシロスズの声、これは昼間も聞こえた。
リー 、リー 、リーと鈴虫の声、コロコロコロ、コロ、コロ、コロとそれは
エンマコオロギ。チッ、 チリリッと鳴くのはマツムシ。
比良の稜線も赤く描いていたが、すでに黒い薄墨の線となってこの里山も暗闇に
包まれはじめる。夕日に変わり、家々の灯が琵琶湖へと伸びている。
だが、猫我が家の達が一番輝くのがこの季節でもある。
夏の暑さにその精力を抜かれた猫、冬と春の寒さの中で眠り呆けてきた緊張力
の著しく欠けた猫、それぞれ猫としての美しさが発揮できない季節である。
秋は食べ物の美味しさと適温、清清しさの満ちた空気が否が応でも、猫たちに
その輝きを与えるのだ。我が家でも、毛並みが落ち歳を全面に感じさせている
19歳のナナでも身体全体から発する力が若い猫の如き輝きを見せている。

我が家のポーチには、リクラインの椅子がある。肘掛のところのニスは剥げ、
やや疲れきった風貌であるが、我が家の全員が愛する椅子でもある。四季を
感じつつ、二十四節気の音を聞きながらこの10年ほどを過ごしてきた。
そこに座ると二階のベランダと張り出した梅ノ木やさくらんぼの木々から蒼く
澄む空と櫛をすいたような軽やかな雲たち、時には厚く黒々とした雲、飛び交う
小鳥たちが一片の額の絵の様に広がり、そこに集う人を優しく包み込み、休息
と自然の優しさを与えてきた。その揺らすたびに鳴るギコギコという音とともに。

眼前の白い壁が薄く光り始め、橙色を帯び、徐々にその明るさを増し、やがて
純白の光となって周囲を照らし出す。その白さと対比する様に、主人のいる椅子
からは、薄青色の布をかけたかのように空の蒼さが天上に広がっている。
その蒼さを切り取るように四、五枚の枯れ葉が足下に落ちてきた。枯葉の音は
近くの家の金木犀の香りとともに彼を包む。ススキの和毛のような穂先が風に揺らいで
いる。
ふと、2年前、病院で見た雲清の変化を思い出す。ガラス窓の向こうで繰り
広げられる光と雲の協奏は、茜色から金色に変わり、やがて澄んだ青色へとその
世界を変えていった。静寂の中に広がる街の朝の顔がそこにあった。
活気に満ちた世界を繰り広げる前の静けさが街を覆っていた。
今、この椅子からみる情景もそれに似た空気を醸し出している。静けさの中に
ある一抹の希望。希望と言う言葉からは、以前のような心の躍動はないものの、
心は不思議と満たされている。頭の上では、ひつじやうろこ状の雲たちが広がり
始め、やがてその下を灰色の雄牛の如き灰色の雲が二つほど左から右へと
流れ去っていく。俺もあと何年かな、そんな想いが彼の心を過ぎる。

ふと、昨日、刈田の横で見た情景を思い出す。
朝の光が細く光る竹林の隙間からはじけ、刈田の表面をなめるように照らす。
茶色に支配された地面に、橙色の点がいくつも見えていた。柿の実があちこちに
落ちて散らばっていた。何のためらいもない様子で無造作に転がった柿の実
たちは熟れるにはまだ早い青い色のものもあれば、その橙色の中に黒く点描が
見える朽ち行くものもあった。柿の古木は、そんなことを気にもしない様子で、
その大きくくびれた腰回りを冷えた空気と光をうけてただ立っていた。
その踊っているような姿の柿の幹は、緑と白の苔をまとい、やや不細工な姿だ。
この木の年はどれほどなのだろうか、老い行く猫や私と同じような歳を重ねて
きたのであろう。多分、それ以上だ。そしてまた春の光を受けているのかもしれない。
足元の影が少し短くなった。果実の匂いにひかれてやってきたのだろうか、
ハチの羽音が聞こえはじめ、白いまだら模様の蝶の姿が舞っていた。

田んぼは、その一面黄金色から、ところどころ刈り取られたところがあって、
パッチワークのようになっている。それは金色の世界とは違う美しさがある。
刈田には藁が長い竹竿に等間隔に干してあって、それを見るのがまた楽しい。
少し先の刈田からは、薄い紫の煙が風にゆらめいている、この匂いを嗅ぐと
誰もが、秋を感じる。そして、あぜ道を赤く染め、彼岸花の炎のような花のつぼみ
と白い茎が続いている。小ぶりのトンボ、ナツアカネが数匹翅を休めている。
このとんぼは自分が全身真っ赤な色をしていて、よく見逃す。
彼岸花は、稲を刈り取る時期を教えてくれる大切な花だ、と古老が言って
いたのを思い出す。
確かに、あぜ道は赤い線に彩られ、すでに稲毛の消えた横に鮮やかな縞模様を
見せている。線香花火に似たその立ち姿は、秋の風情そのものだ。
華やかさと侘しさが混在している。黄色い胸と黒い体の鳥が、その華やかな色と
ピヨーピヨーという明るく少し甲高い鳴き声で赤みをました楓の木々へと飛んでいく。
キビタキなのだろうか、彼らの季節ももう終わったのかもしれない。



ーーーーーーー
展覧会
雑木林の中は、いろいろな植物たちの晴れの展覧会。赤、青、紫、結実した
作品の数々は、見事というほかはない。
実のなる植物は、どれもそうだが、雑木林のすみずみに均等にちらばっている。
よくこんなにうまく種がこぼれるものだと思っていたら、実は、鳥が運んでいる
のだという。ヒヨドリ、メジロ、ツグミなど、いろいろな鳥がついばんでは
飛び去り、離れたところで小休止して糞をすr。鳥の胃袋を通過して糞と
ともに排泄される種は、不思議と生命力を持っていて、地上に落下すると
勢いよく発芽する。植物たちは、そのことをお見通しで、鳥を呼ぶために
目の覚めるような美しさを披露する。

山は水の塊
山を仰ぐと、まぶしいばかりの紅葉。沢を伝って山の嶺まで上るにはもってこいの
季節だ。赤や黄色に染まった落葉樹の森と、深い緑が色褪せない杉の林を
ぬうようにして、山道は続く。山頂までたどり着けば、そこはブナの森。
今頃は、人里より紅葉が一段と進んでいるに違いない。
くねくねした尾根道は、ふった雨が山の背をさかいにわかれていく分水嶺。
青々とした湖面を見渡せる尾根道の左側と幾重にも重なる山の頂が遠望
出来る右側の景色とでは、全く趣が違う。そこは、天から落ちてくる
水が、山に沁み込んで森を育み、沢が出来る始まりの場所。
青空の下で堂々としている山面をながめていると、「山は水の塊」とだれかが
いったのをふと思い出した。


大切な時間
人家の外れの畑で紫苑の花を見つけた。あわい紫と黄色が、たおやかな風を誘う。
幾匹かの蝶が舞っては止まり、翅をゆっくりと開閉させている。黒褐色の地に
紅色と白斑、何ともシックなアカタテハと言う蝶である。この蝶は、夏場は
もっぱら雑木林にこもって樹液ばかり吸っているが、秋になると花の蜜を
もとめて日当たりのよい所に出てくる。翅は新鮮で傷1つ無いので、今日の朝
羽化したのだろう。もう2,3週間もすれば、冷たい北風が吹いてくるというのに、
なんというのんびり屋の蝶なのだろう。そのとき、アカタテハは、親の姿
のままで冬を越して、春になって卵を産み始めることに気が付いた。
えいようをたくわえて、過酷な季節に挑むこの蝶にとって、今はすごく
大切な時間なのだろう。

香りの渦
あぜ道を上っていくと、秋の匂いがした・見ると、農家の人が土手を焼いている。
草が焼ける匂いは、体をリラックスせてくれる。なぜだかわからないけど、
眼を閉じて香ばしい香りを吸い込むと、体の中の緊張感が急に溶けてしまう
ようである。何千年もの遠い昔に森を開き、鍬を振るって棚田を作ってきた
気の遠くなるような時間と労働。草の焼ける匂いは、自然の力に負けぬように
頑張ってきた人の汗の匂いなのかもしれない。
赤い炎は、土手の上を走り、枯草を炭にして白い煙をたちのぼらせる。
午後の光を浴びて刻々と白さを増す香りの渦は、大気の中に静かに浸透していく。


共存の知恵
彼岸花の炎のような花のつぼみにとまるのは、ナツアカネ。このとんぼは
自分が全身真っ赤な色をしていて、ここがお似合いであることをよく知っている
かのようだ。彼岸花は、稲を刈り取る時期を教えてくれる大切な花だ。
この花の成長にはそつがない。農家の人が土手を草刈りすると、植物たちの
背丈は一時的に低くなる。そんな時を見計らって竹のごとくまっすぐ生えてくるのが、
彼岸花だ。その後数日のあいだに花を咲かせ、ほかの植物たちが背比べに
挑んできたときには、すでに種子を実らせている。
こんなに完璧に農家の人の暮らしと歩調を合わせる植物が、大陸からやってきた
外来種だと聞くと意外な気がしてしまう。きっと彼岸花は、もともと共存の
智慧を授かっている植物なのだろう。土手の向こうから農家の人の笑い声が
聞こえてきた。いよいよ収穫がはじまる。


細い道
旧家のなかのほそい道は、なかなか風情があっていい。土壁の蔵や苔むした石積み、
そのどれもに歴史が感じられる。そういえば、この村は数年前に、稲作を始めてから
千年という節目を祝うお祭りがあったばかり。燻し色に輝く金箔の御神輿は、
あでやかで美しく、はるか昔の物語を今に伝えている。
道の角ごとにお地蔵さんがあったり、祭壇に花が生けられていたりするのもいい。
生け花は、旧家の庭に生えているものばかりで心が和む。これらのあつい信仰
もまた、長い歴史の中で確実に生き続けてきた。
ほおかぶりのお婆さんがこしをかがめながら、野菊をだきかかえて歩いてきた。
野仏に甘い香りが供えられると、村は一段と秋らしくなっていく。

演奏会
黄ばみかけた空を背に、あぜ道を歩く。普通ならそのまま家に帰ろうとする
ところだが、秋の日だけは寄り道をしてしまう。夕刻の時が刻まれるにつれて、
土手や刈田の草の茂みから虫の鳴き声が聞こえてくるからだ。たくさんの才能
豊かな演奏家たちに出会えるのは、一年の内でこの季節だけ。この叢の音色観賞が、
ちょっとした楽しみになっている。
チリチリチリ、ササキリの細かい声が闇に沈んでいくと、今度はジーンジーンという
脳の髄にしみるようなウマオイムシの声。それと同時に、チンチロリンというマツムシ
ガチャガチャというクツワムシ、リリリリリというカンタンなど、待ってましたと
いうように一斉に翅をふるわせはじめる。ススキの穂をそっと見上げると、
小さな黒い影。今日の演奏会はどうやらツユムシからはじまるらしいい。





春の梅ノ木を横目で見ながら冬の寒さから開放された喜びを感じつつ甘い香りに
包まれている主人の姿が多く見られ、猫たちは温かさがその陽射しとともに高まる
昼からは先ずハナコが寝そべり、そこへレトがハナコを追い出しに現れる。
その取り合いは、春から秋へと続く。ライはこの2人にお構いなく好きなときに
現れ、先住の猫たちを追い出し悠然とそこに納まる。ただ、夏は夕暮れ時にしか
その椅子にはだれも現れない。時が進み、空の蒼さと流れる風、さらに近くの
金木犀の甘い香りが庭を支配し始めると、主人とハナコ、レトの取り合いが
始まる。もっとも、最近のハナコは夜遊びが慣れたのか、夜抜け出し、朝
主人が雨戸を明けるとノンビリと椅子の上で御睡眠している。冬、雪の中で
端然とその冷たい空気に抗うかのように椅子は一人そこにいるときが多くなる。
やがて来る春の木々の音とそれに群れるほととぎすなどの鳥たちの合奏の日々
を待ち続けている。しかし、彼のあるべき姿も後数年であろう。無生物である
彼にも寿命はある。彼のそこにいる価値もやがて失われる。主人やチャトが
そうであるように忽然と消え、人々、猫たちの記憶からも消えて行く。