2016年10月8日土曜日

寒露の里山風情

二十四節気「寒露(かんろ)」


今は、寒露(かんろ)のころ、定気法では太陽黄経が195度のときで10月8日ごろ。
期間としての意味もあり、この日から、次の節気の霜降前日までである。
露が冷気によって凍りそうになるころなのだ。雁などの冬鳥が渡ってきて、
菊が咲き始め、こおろぎなどが鳴き始めるころ。「暦便覧」では、
「陰寒の気に合つて露結び凝らんとすれば也」と説明している。
七十二候に言う。
・鴻雁来(こうがんきたる)10月8日頃
雁が渡ってくる頃。清明の時期に北へ帰っていった雁たちが、再びやってくる。
・菊花開(きくのはなひらく)10月13日頃
菊の花が咲き始める頃。旧暦では重陽の節供の時期で菊で長寿を祈願する。
・蟋蟀在戸(きりぎりすとにあり)10月18日頃
戸口で秋の虫が鳴く頃。昔は「こおろぎ」を「きりぎりす」と呼んだそうだ。

日が落ちるのも早くなり、風が冷たくなる頃。夕暮れに聞く虫の声も次第に
色を帯びてくる。チリリリリリリ・・・とヒゲシロスズの声、これは昼間も聞こえた。
リー 、リー 、リーと鈴虫の声、コロコロコロ、コロ、コロ、コロとそれは
エンマコオロギ。チッ、 チリリッと鳴くのはマツムシ。
比良の稜線も赤く描いていたが、すでに黒い薄墨の線となってこの里山も暗闇に
包まれはじめる。夕日に変わり、家々の灯が琵琶湖へと伸びている。
だが、猫我が家の達が一番輝くのがこの季節でもある。
夏の暑さにその精力を抜かれた猫、冬と春の寒さの中で眠り呆けてきた緊張力
の著しく欠けた猫、それぞれ猫としての美しさが発揮できない季節である。
秋は食べ物の美味しさと適温、清清しさの満ちた空気が否が応でも、猫たちに
その輝きを与えるのだ。我が家でも、毛並みが落ち歳を全面に感じさせている
19歳のナナでも身体全体から発する力が若い猫の如き輝きを見せている。

我が家のポーチには、リクラインの椅子がある。肘掛のところのニスは剥げ、
やや疲れきった風貌であるが、我が家の全員が愛する椅子でもある。四季を
感じつつ、二十四節気の音を聞きながらこの10年ほどを過ごしてきた。
そこに座ると二階のベランダと張り出した梅ノ木やさくらんぼの木々から蒼く
澄む空と櫛をすいたような軽やかな雲たち、時には厚く黒々とした雲、飛び交う
小鳥たちが一片の額の絵の様に広がり、そこに集う人を優しく包み込み、休息
と自然の優しさを与えてきた。その揺らすたびに鳴るギコギコという音とともに。

眼前の白い壁が薄く光り始め、橙色を帯び、徐々にその明るさを増し、やがて
純白の光となって周囲を照らし出す。その白さと対比する様に、主人のいる椅子
からは、薄青色の布をかけたかのように空の蒼さが天上に広がっている。
その蒼さを切り取るように四、五枚の枯れ葉が足下に落ちてきた。枯葉の音は
近くの家の金木犀の香りとともに彼を包む。ススキの和毛のような穂先が風に揺らいで
いる。
ふと、2年前、病院で見た雲清の変化を思い出す。ガラス窓の向こうで繰り
広げられる光と雲の協奏は、茜色から金色に変わり、やがて澄んだ青色へとその
世界を変えていった。静寂の中に広がる街の朝の顔がそこにあった。
活気に満ちた世界を繰り広げる前の静けさが街を覆っていた。
今、この椅子からみる情景もそれに似た空気を醸し出している。静けさの中に
ある一抹の希望。希望と言う言葉からは、以前のような心の躍動はないものの、
心は不思議と満たされている。頭の上では、ひつじやうろこ状の雲たちが広がり
始め、やがてその下を灰色の雄牛の如き灰色の雲が二つほど左から右へと
流れ去っていく。俺もあと何年かな、そんな想いが彼の心を過ぎる。

ふと、昨日、刈田の横で見た情景を思い出す。
朝の光が細く光る竹林の隙間からはじけ、刈田の表面をなめるように照らす。
茶色に支配された地面に、橙色の点がいくつも見えていた。柿の実があちこちに
落ちて散らばっていた。何のためらいもない様子で無造作に転がった柿の実
たちは熟れるにはまだ早い青い色のものもあれば、その橙色の中に黒く点描が
見える朽ち行くものもあった。柿の古木は、そんなことを気にもしない様子で、
その大きくくびれた腰回りを冷えた空気と光をうけてただ立っていた。
その踊っているような姿の柿の幹は、緑と白の苔をまとい、やや不細工な姿だ。
この木の年はどれほどなのだろうか、老い行く猫や私と同じような歳を重ねて
きたのであろう。多分、それ以上だ。そしてまた春の光を受けているのかもしれない。
足元の影が少し短くなった。果実の匂いにひかれてやってきたのだろうか、
ハチの羽音が聞こえはじめ、白いまだら模様の蝶の姿が舞っていた。

田んぼは、その一面黄金色から、ところどころ刈り取られたところがあって、
パッチワークのようになっている。それは金色の世界とは違う美しさがある。
刈田には藁が長い竹竿に等間隔に干してあって、それを見るのがまた楽しい。
少し先の刈田からは、薄い紫の煙が風にゆらめいている、この匂いを嗅ぐと
誰もが、秋を感じる。そして、あぜ道を赤く染め、彼岸花の炎のような花のつぼみ
と白い茎が続いている。小ぶりのトンボ、ナツアカネが数匹翅を休めている。
このとんぼは自分が全身真っ赤な色をしていて、よく見逃す。
彼岸花は、稲を刈り取る時期を教えてくれる大切な花だ、と古老が言って
いたのを思い出す。
確かに、あぜ道は赤い線に彩られ、すでに稲毛の消えた横に鮮やかな縞模様を
見せている。線香花火に似たその立ち姿は、秋の風情そのものだ。
華やかさと侘しさが混在している。黄色い胸と黒い体の鳥が、その華やかな色と
ピヨーピヨーという明るく少し甲高い鳴き声で赤みをました楓の木々へと飛んでいく。
キビタキなのだろうか、彼らの季節ももう終わったのかもしれない。



ーーーーーーー
展覧会
雑木林の中は、いろいろな植物たちの晴れの展覧会。赤、青、紫、結実した
作品の数々は、見事というほかはない。
実のなる植物は、どれもそうだが、雑木林のすみずみに均等にちらばっている。
よくこんなにうまく種がこぼれるものだと思っていたら、実は、鳥が運んでいる
のだという。ヒヨドリ、メジロ、ツグミなど、いろいろな鳥がついばんでは
飛び去り、離れたところで小休止して糞をすr。鳥の胃袋を通過して糞と
ともに排泄される種は、不思議と生命力を持っていて、地上に落下すると
勢いよく発芽する。植物たちは、そのことをお見通しで、鳥を呼ぶために
目の覚めるような美しさを披露する。

山は水の塊
山を仰ぐと、まぶしいばかりの紅葉。沢を伝って山の嶺まで上るにはもってこいの
季節だ。赤や黄色に染まった落葉樹の森と、深い緑が色褪せない杉の林を
ぬうようにして、山道は続く。山頂までたどり着けば、そこはブナの森。
今頃は、人里より紅葉が一段と進んでいるに違いない。
くねくねした尾根道は、ふった雨が山の背をさかいにわかれていく分水嶺。
青々とした湖面を見渡せる尾根道の左側と幾重にも重なる山の頂が遠望
出来る右側の景色とでは、全く趣が違う。そこは、天から落ちてくる
水が、山に沁み込んで森を育み、沢が出来る始まりの場所。
青空の下で堂々としている山面をながめていると、「山は水の塊」とだれかが
いったのをふと思い出した。


大切な時間
人家の外れの畑で紫苑の花を見つけた。あわい紫と黄色が、たおやかな風を誘う。
幾匹かの蝶が舞っては止まり、翅をゆっくりと開閉させている。黒褐色の地に
紅色と白斑、何ともシックなアカタテハと言う蝶である。この蝶は、夏場は
もっぱら雑木林にこもって樹液ばかり吸っているが、秋になると花の蜜を
もとめて日当たりのよい所に出てくる。翅は新鮮で傷1つ無いので、今日の朝
羽化したのだろう。もう2,3週間もすれば、冷たい北風が吹いてくるというのに、
なんというのんびり屋の蝶なのだろう。そのとき、アカタテハは、親の姿
のままで冬を越して、春になって卵を産み始めることに気が付いた。
えいようをたくわえて、過酷な季節に挑むこの蝶にとって、今はすごく
大切な時間なのだろう。

香りの渦
あぜ道を上っていくと、秋の匂いがした・見ると、農家の人が土手を焼いている。
草が焼ける匂いは、体をリラックスせてくれる。なぜだかわからないけど、
眼を閉じて香ばしい香りを吸い込むと、体の中の緊張感が急に溶けてしまう
ようである。何千年もの遠い昔に森を開き、鍬を振るって棚田を作ってきた
気の遠くなるような時間と労働。草の焼ける匂いは、自然の力に負けぬように
頑張ってきた人の汗の匂いなのかもしれない。
赤い炎は、土手の上を走り、枯草を炭にして白い煙をたちのぼらせる。
午後の光を浴びて刻々と白さを増す香りの渦は、大気の中に静かに浸透していく。


共存の知恵
彼岸花の炎のような花のつぼみにとまるのは、ナツアカネ。このとんぼは
自分が全身真っ赤な色をしていて、ここがお似合いであることをよく知っている
かのようだ。彼岸花は、稲を刈り取る時期を教えてくれる大切な花だ。
この花の成長にはそつがない。農家の人が土手を草刈りすると、植物たちの
背丈は一時的に低くなる。そんな時を見計らって竹のごとくまっすぐ生えてくるのが、
彼岸花だ。その後数日のあいだに花を咲かせ、ほかの植物たちが背比べに
挑んできたときには、すでに種子を実らせている。
こんなに完璧に農家の人の暮らしと歩調を合わせる植物が、大陸からやってきた
外来種だと聞くと意外な気がしてしまう。きっと彼岸花は、もともと共存の
智慧を授かっている植物なのだろう。土手の向こうから農家の人の笑い声が
聞こえてきた。いよいよ収穫がはじまる。


細い道
旧家のなかのほそい道は、なかなか風情があっていい。土壁の蔵や苔むした石積み、
そのどれもに歴史が感じられる。そういえば、この村は数年前に、稲作を始めてから
千年という節目を祝うお祭りがあったばかり。燻し色に輝く金箔の御神輿は、
あでやかで美しく、はるか昔の物語を今に伝えている。
道の角ごとにお地蔵さんがあったり、祭壇に花が生けられていたりするのもいい。
生け花は、旧家の庭に生えているものばかりで心が和む。これらのあつい信仰
もまた、長い歴史の中で確実に生き続けてきた。
ほおかぶりのお婆さんがこしをかがめながら、野菊をだきかかえて歩いてきた。
野仏に甘い香りが供えられると、村は一段と秋らしくなっていく。

演奏会
黄ばみかけた空を背に、あぜ道を歩く。普通ならそのまま家に帰ろうとする
ところだが、秋の日だけは寄り道をしてしまう。夕刻の時が刻まれるにつれて、
土手や刈田の草の茂みから虫の鳴き声が聞こえてくるからだ。たくさんの才能
豊かな演奏家たちに出会えるのは、一年の内でこの季節だけ。この叢の音色観賞が、
ちょっとした楽しみになっている。
チリチリチリ、ササキリの細かい声が闇に沈んでいくと、今度はジーンジーンという
脳の髄にしみるようなウマオイムシの声。それと同時に、チンチロリンというマツムシ
ガチャガチャというクツワムシ、リリリリリというカンタンなど、待ってましたと
いうように一斉に翅をふるわせはじめる。ススキの穂をそっと見上げると、
小さな黒い影。今日の演奏会はどうやらツユムシからはじまるらしいい。





春の梅ノ木を横目で見ながら冬の寒さから開放された喜びを感じつつ甘い香りに
包まれている主人の姿が多く見られ、猫たちは温かさがその陽射しとともに高まる
昼からは先ずハナコが寝そべり、そこへレトがハナコを追い出しに現れる。
その取り合いは、春から秋へと続く。ライはこの2人にお構いなく好きなときに
現れ、先住の猫たちを追い出し悠然とそこに納まる。ただ、夏は夕暮れ時にしか
その椅子にはだれも現れない。時が進み、空の蒼さと流れる風、さらに近くの
金木犀の甘い香りが庭を支配し始めると、主人とハナコ、レトの取り合いが
始まる。もっとも、最近のハナコは夜遊びが慣れたのか、夜抜け出し、朝
主人が雨戸を明けるとノンビリと椅子の上で御睡眠している。冬、雪の中で
端然とその冷たい空気に抗うかのように椅子は一人そこにいるときが多くなる。
やがて来る春の木々の音とそれに群れるほととぎすなどの鳥たちの合奏の日々
を待ち続けている。しかし、彼のあるべき姿も後数年であろう。無生物である
彼にも寿命はある。彼のそこにいる価値もやがて失われる。主人やチャトが
そうであるように忽然と消え、人々、猫たちの記憶からも消えて行く。

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