2016年10月7日金曜日

秋の情景

樹齢
朝の光は、土手の隙間からはじけ、刈田の表面をなめるように照らし出す。
ふと見ると、柿の実があちこちに落ちて散らばっている。無造作に転がった
柿の実たちは熟れるには少し早い色をしていて、傷がついたり穴が開いたり
して痛々しい。行儀の悪いカケスの仕業か、それともかぜのいたずらか。
柿の古木は、そんなことを気にもしない様子で、ゆっくりとのぼっていく
太陽の光をうけてただ立っている。
腰をふって踊っているような姿の柿の幹は、こけを宿してごつごつしている。
樹齢は何年だろう。まえに、老婆に尋ねたことがある。その答えは、
自分の小さなころからこの木は、ここで同じ大きさで立っていた、というのである。
となると、おそらくこの古木は、100歳を超えているだろう。
陽が少しづつ高くなり、果実の匂いにひかれてやってきたハチの羽音が聞こえ始める。

刈田
秋の田んぼは、一面黄金色というより、ところどころ刈り取られたところがあって、
パッチワークのようになっているのが一番美しいと思う。刈田には藁が干してあって
それを見るのがまた楽しい。藁は、農家の人によってまとめ方が違う。束ねた
藁を3つに割ってテントのように立てる人もいれば、頭をそろえて規則正しく
あぜ道に並べていく人もいる。ここの田んぼの持ち主は、又兵衛さんだったか、
それとも五平さんだったか。刈田を見ていると、人の顔が浮かんでくるから
面白い。小さい田んぼの味わいは、何といっても藁の匂いとともに農家の人の
個性がうかがえることだ。

展覧会
雑木林の中は、いろいろな植物たちの晴れの展覧会。赤、青、紫、結実した
作品の数々は、見事というほかはない。
実のなる植物は、どれもそうだが、雑木林のすみずみに均等にちらばっている。
よくこんなにうまく種がこぼれるものだと思っていたら、実は、鳥が運んでいる
のだという。ヒヨドリ、メジロ、ツグミなど、いろいろな鳥がついばんでは
飛び去り、離れたところで小休止して糞をすr。鳥の胃袋を通過して糞と
ともに排泄される種は、不思議と生命力を持っていて、地上に落下すると
勢いよく発芽する。植物たちは、そのことをお見通しで、鳥を呼ぶために
目の覚めるような美しさを披露する。

山は水の塊
山を仰ぐと、まぶしいばかりの紅葉。沢を伝って山の嶺まで上るにはもってこいの
季節だ。赤や黄色に染まった落葉樹の森と、深い緑が色褪せない杉の林を
ぬうようにして、山道は続く。山頂までたどり着けば、そこはブナの森。
今頃は、人里より紅葉が一段と進んでいるに違いない。
くねくねした尾根道は、ふった雨が山の背をさかいにわかれていく分水嶺。
青々とした湖面を見渡せる尾根道の左側と幾重にも重なる山の頂が遠望
出来る右側の景色とでは、全く趣が違う。そこは、天から落ちてくる
水が、山に沁み込んで森を育み、沢が出来る始まりの場所。
青空の下で堂々としている山面をながめていると、「山は水の塊」とだれかが
いったのをふと思い出した。


大切な時間
人家の外れの畑で紫苑の花を見つけた。あわい紫と黄色が、たおやかな風を誘う。
幾匹かの蝶が舞っては止まり、翅をゆっくりと開閉させている。黒褐色の地に
紅色と白斑、何ともシックなアカタテハと言う蝶である。この蝶は、夏場は
もっぱら雑木林にこもって樹液ばかり吸っているが、秋になると花の蜜を
もとめて日当たりのよい所に出てくる。翅は新鮮で傷1つ無いので、今日の朝
羽化したのだろう。もう2,3週間もすれば、冷たい北風が吹いてくるというのに、
なんというのんびり屋の蝶なのだろう。そのとき、アカタテハは、親の姿
のままで冬を越して、春になって卵を産み始めることに気が付いた。
えいようをたくわえて、過酷な季節に挑むこの蝶にとって、今はすごく
大切な時間なのだろう。

香りの渦
あぜ道を上っていくと、秋の匂いがした・見ると、農家の人が土手を焼いている。
草が焼ける匂いは、体をリラックスせてくれる。なぜだかわからないけど、
眼を閉じて香ばしい香りを吸い込むと、体の中の緊張感が急に溶けてしまう
ようである。何千年もの遠い昔に森を開き、鍬を振るって棚田を作ってきた
気の遠くなるような時間と労働。草の焼ける匂いは、自然の力に負けぬように
頑張ってきた人の汗の匂いなのかもしれない。
赤い炎は、土手の上を走り、枯草を炭にして白い煙をたちのぼらせる。
午後の光を浴びて刻々と白さを増す香りの渦は、大気の中に静かに浸透していく。


共存の知恵
彼岸花の炎のような花のつぼみにとまるのは、ナツアカネ。このとんぼは
自分が全身真っ赤な色をしていて、ここがお似合いであることをよく知っている
かのようだ。彼岸花は、稲を刈り取る時期を教えてくれる大切な花だ。
この花の成長にはそつがない。農家の人が土手を草刈りすると、植物たちの
背丈は一時的に低くなる。そんな時を見計らって竹のごとくまっすぐ生えてくるのが、
彼岸花だ。その後数日のあいだに花を咲かせ、ほかの植物たちが背比べに
挑んできたときには、すでに種子を実らせている。
こんなに完璧に農家の人の暮らしと歩調を合わせる植物が、大陸からやってきた
外来種だと聞くと意外な気がしてしまう。きっと彼岸花は、もともと共存の
智慧を授かっている植物なのだろう。土手の向こうから農家の人の笑い声が
聞こえてきた。いよいよ収穫がはじまる。


細い道
旧家のなかのほそい道は、なかなか風情があっていい。土壁の蔵や苔むした石積み、
そのどれもに歴史が感じられる。そういえば、この村は数年前に、稲作を始めてから
千年という節目を祝うお祭りがあったばかり。燻し色に輝く金箔の御神輿は、
あでやかで美しく、はるか昔の物語を今に伝えている。
道の角ごとにお地蔵さんがあったり、祭壇に花が生けられていたりするのもいい。
生け花は、旧家の庭に生えているものばかりで心が和む。これらのあつい信仰
もまた、長い歴史の中で確実に生き続けてきた。
ほおかぶりのお婆さんがこしをかがめながら、野菊をだきかかえて歩いてきた。
野仏に甘い香りが供えられると、村は一段と秋らしくなっていく。

演奏会
黄ばみかけた空を背に、あぜ道を歩く。普通ならそのまま家に帰ろうとするところだが
、
秋の日だけは寄り道をしてしまう。夕刻の時が刻まれるにつれて、土手や刈田の
草の茂みから虫の鳴き声が聞こえてくるからだ。たくさんの才能豊かな演奏家
たちに出会えるのは、一年の内でこの季節だけ。この叢の音色観賞が、
ちょっとした楽しみになっている。
チリチリチリ、ササキリの細かい声が闇に沈んでいくと、今度はジーンジーンという
脳の髄にしみるようなウマオイムシの声。それと同時に、チンチロリンというマツムシ
ガチャガチャというクツワムシ、リリリリリというカンタンなど、待ってましたと
いうように一斉に翅をふるわせはじめる。ススキの穂をそっと見上げると、
小さな黒い影。今日の演奏会はどうやらツユムシからはじまるらしいい。


萌木の国
157
ほんの30年前までは岸で洗濯をしたり、野菜を洗ったりしたもので、湖というのは、
地元のものにとってはそれこそ家の一部だといってもいいほど親しみのある存在だった
。
ところが、旧家と湖とのあいだに、幅の広い舗装道路が出来た。遠浅の砂浜は
ほかからもってきた土砂で埋められ、岸辺はコンクリートで固められてしまった。
そのことによって、湖と人々の間に深い溝が出来てしまった。別に工事によって
岸辺が何キロも、離れてしまったわけではない。距離で言うと、たった30メートル
ほど後退しただけだ。それなのに、湖岸に住んでいた私たちは、湖が全く手の届かない
ところへ行ってしまったような寂しい気持ちになってしまった。
「タップン、タップン」という波のささやきを失った私たちは、不安ですらある。
人の心のなかに溶け込んだ潤沢な湖は、早くも昔の語り草のようになってしまった。

割り木はよく使われていた。それは、お風呂をたくときにだ。そのころ、釜に割り木を
入れる仕事をさせられた。黄昏のほの暗い庭と、深い紺色をした空、そして、油煙
という黒い煤と、香ばしい割り木の香りをはっきりと覚えている。このとき、
大津界隈の家は、割り木をまとめて買っていた。毎年秋の終わりになるころ、何百、
いや何千束という割り木を大型トラックに積んで行商のおやじがもってきた。
割り木はすべてクヌギやコナラだった。

私は、眼を閉じて昔の湊風景を想像してみた。
木の桟橋がいくつも張り出した静かな港に、丸子舟が何艘モ停泊しており、長い
桟橋を人々がせわしなく行き来している。湖岸の際まで続く畑や水田にも人の姿
があり、黄緑色をしたセキショウモがなびく小川が音を立てて湖に流れ込んでいる。
その風景のそこここに、木造りの「にう」が狐色の屋根を光らせている。
採られた割り木は藁で屋根を作ったこの「にう」の中ニびっしりと並び、
しばらく乾燥されてから丸子舟であちこちに運ばれた。
湖の周辺の街で子供のころから親しんできた木の木片がこのような形で運ばれていた。
初めて知った心持だった。割り木は、帆を張って揺れる丸子舟に身を任せ、
青く澄んだ湖面を旅していたのだ。だが、そのような雑木林の最盛時代は、
湖周りの開発とともに終わった。

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