2016年10月1日土曜日

南小松、八朔祭

八朔(はっさく)とは八月朔日の略で、旧暦の8月1日のことである。
新暦では8月25日ごろから9月23日ごろまでを移動する(秋分が旧暦8月中なので、
早ければその29日前、遅ければ秋分当日となる)。
この頃、早稲の穂が実るので、農民の間で初穂を恩人などに贈る風習が古くから
あった。このことから、田の実の節句ともいう。この「たのみ」を「頼み」
にかけ、武家や公家の間でも、日頃お世話になっている(頼み合っている)
人に、その恩を感謝する意味で贈り物をするようになった。

比良の山並みが薄雲に隠れ、その稜線が橙色に染まり始めていた。
西近江路を少し外れ、更に小道を歩くと、石の道標がやや薄い闇が迫る中で、
出迎えた。地元の古老の話では、古来白鬚神社への信仰は厚く、京都から
遙か遠い神社まで数多くの都人たちも参拝したという。その人たちを
導くための道標が、街道の随所に立てられたが、現在その存在が確認されて
いるのは、七箇所ほど(すべて大津市)。建てられた年代は天保七年で、
どの道標も表に「白鬚神社大明神」とその下に距離(土に埋まって見えない
ものが多い)左側面に「京都寿永講」の銘、右側面に建てられた「天保七年」
が刻まれている。二百数十年の歳月を経て、すでに散逸してしまったものも
あろうが、ここに残されている道標は、すべて地元の方の温かい真心に
よって今日まで受け継がれてきたものだ。その最後の道標が八幡神社の参道の
手前にある。その道標の先にある家の庭には敷き詰められた石と淡然とした
趣のある石灯篭がこちらに向かってにこやかな笑いを帯びた風情で置かれていた。
子供連れの親子やはかま姿の古老たちが何人も脇を通り過ぎていく。見えない
靴音がやや朽ちた壁と石畳の道の間に強く響いていく。その先には、
八幡神社との刻銘がある常夜灯の大きな石の影が参道を寸断するかのように、
一直線に伸びていた。その常夜灯の先に提灯に照らされた八幡神社があった。
古老の話と説明文から、
「南小松の山手にあり、京都の石清水八幡宮と同じ時代に建てられたとされます。
木村新太郎氏の古文書によれば、六十三代天皇冷泉院の時代に当地の夜民牧右馬
大師と言うものが八幡宮の霊夢を見たとのこと。そのお告げでは「我、機縁
によってこの地に棲まんと欲す」と語り、浜辺に珠を埋められる。
大師が直ぐに目を覚まし夢に出た浜辺に向うと大光が現れ、夢のとおり聖像があり、
水中に飛び込み引き上げ、この場所に祠を建てて祀ったのが始まりです。
祭神は応神天皇です。
創祀年代は不明ですが、古来、南小松の産土神であり、往古より日吉大神と
白鬚大神の両神使が往復ごとに当社の林中にて休憩したと云われ、当社と
日吉・白鬚三神の幽契のある所と畏敬されています」と説明する。
大きな狛犬が、本殿を守るかのように鎮座していた。
右のそれのタテガミは、やや逆立つように大きな目は怒りを含んで本殿に向かう
ものへの畏敬を望んでいるようであり、左のそれは緩やかな鬣にあわすかのように
目や口の造作から穏やかな空気が流れ出てくるようだ。ともに180センチ
ほどの大きな体を悠然と台座の上に横たえ、周囲を圧した情感を発している。
静かな空気を剥ぎ取るようにどこからか水音がした。
本殿の横、石の水路からその音は出ていた。水路は小さいものの、水しぶきが
水路にそって伸びる苔の帯に降り注いでいる。小さな光の筋がその緑に絡み
つくように映え、水の強さをさらに深くしているように見えた。
水音をたどれば、後背の杉の群れの中に消え、念仏山といわれる比良の前面に
ある小山へと続いているのであろう。また下へとたどれば、神社の石垣に沿って、
正面の鳥居の下へとそれは続いている。小さいながらも、まるでこの神社を
守るかのように水音が周囲を覆っている。
春の祭礼(四月下旬)には、神輿をお旅所まで担ぎ、野村太鼓奉納や子供神輿
がこの地域を巡るという。拝殿の前には、土俵の堤があり、八朔祭(9月1日)
が行われ、夜七時ごろからは奉納相撲が開催される。子供たちが裸電燈の下で
勢いよくぶつかり合い、周囲からの声援で踏ん張り、そして投げを打つ。
そんな様が自身の少年時分の思い出と重なって古いトーキー映画のごとき
緩やかなモノクロの映像の流れにしばらく身を置く自分がいた。
昭和といわれた時代の名残香が一瞬鼻をつく、しかしそれは五十年以上の
古き香りなのであろう。
さらさらという水音に、沖天の光の中にいる自分、引き戻された。
狛犬の目が一瞬、お前はここで何してんねん、と言っているようでもある。
石と水の里、そんな想いがさらに強まった。


八朔(はっさく)とは八月朔日の略で、旧暦の8月1日のことである。新暦では8月25日
ごろから9月23日ごろまで。この頃、早稲の穂が実るので、農民の間で初穂を恩人など
に贈る風習が古くからあった。このことから、田の実の節句ともいう。今でも各地で八
朔祭としてある。南小松八幡神社では稲穂が実り始めた9月1日に、稲作豊年を祈願する
「奉納子供相撲」が行われます。神事では祝儀袋が土俵に投げ入れられ、小学生の男児
が真剣に戦う姿に大喝采でした。今年のお米の出来はどうでしょうか?新米が楽しみで
すね。


八朔(はっさく)とは八月朔日の略で、旧暦の8月1日のことである。
新暦では8月25日ごろから9月23日ごろまでを移動する(秋分が旧暦8月中なので、早け
ればその29日前、遅ければ秋分当日となる)。
この頃、早稲の穂が実るので、農民の間で初穂を恩人などに贈る風習が古くからあった
。このことから、田の実の節句ともいう。この「たのみ」を「頼み」にかけ、武家や公
家の間でも、日頃お世話になっている(頼み合っている)人に、その恩を感謝する意味
で贈り物をするようになった[1]。
目次  [非表示] 
1 各地の行事
1.1 熊本の八朔祭
1.2 福井の八朔祭
1.3 その他の地域の行事
2 ゆかりの食品
3 関連文献
4 脚注
5 外部リンク
各地の行事[編集]
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熊本の八朔祭[編集]
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Wikipedia:大言壮語をしないを参考に修正して下さい。(2014年8月)

八朔祭の大造り物(熊本県山都町)
熊本県上益城郡山都町の浜町では、野山の自然素材を豊富に使った巨大な「造り物」が
名物の「八朔祭(はっさくまつり)」が、毎年、旧暦8月1日の平均に近い、9月第1土曜
日日曜日の2日間にわたって開催されている。この祭りは江戸時代中期から始まったと
され[誰によって?]、田の神に感謝し収穫の目安を立てる日とされ、NHKなど全国ニュー
スにも毎年取り上げられているほど有名な祭りである。
町の中心街を高さ3?4m、長さ7?8mにもおよぶ大造り物(山車 他にお囃子隊が同行)
が数十基、引き廻される光景は実に壮観で、内外より多くの観光客や写真家を呼び込ん
でいる。
祭りに合わせて放水する国の重要文化財、通潤橋(つうじゅんきょう)の姿は見事で、
夜には通潤橋の近くで花火も打ち上げられ、日頃は閑散とした山の町が遅くまで大勢の
観光客で賑わう。
造り物には順位が付けられ、浜町内の各町や団体が長年培ってきた技術、作品のテーマ
や形にアイデアや知恵を絞り、競い合っている[2]。祭りの本格的な準備は約1ヶ月前か
ら始まり、町内各地に、造り物の山車を作る小屋や番屋が立つ。
福井の八朔祭[編集]
福井県美浜町の新庄区では、五穀豊穣と子孫繁栄を願っておこなわれる。太鼓や笛のお
はやしのなか、樽神輿をかついだ行列が田代公会堂を出発し、日吉神社まですすむ。こ
の行列に続いて、男性のシンボルをかたどったご神体を持ったてんぐが進み、見物客の
女性をご神体(長さ約60センチの木製)でつつく。このご神体でつつかれた女性は子宝
に恵まれるといういわれがある。 [3]。
その他の地域の行事[編集]
京都市東山区の祇園一帯など花街では、新暦8月1日に芸妓や舞妓がお茶屋や芸事の師匠
宅へあいさつに回るのが伝統行事になっている。
福岡県遠賀郡芦屋町では、「八朔の節句」として長男・長女の誕生を祝い、男児は藁で
編む「わら馬」、女児は米粉で作る「だごびーな(団子雛)」を家に飾る行事が行なわ
れており、300年以上続く伝統行事として、国の記録作成等の措置を講ずべき無形の民
俗文化財の選択を受けている。
香川県丸亀市では、男児の健やかな成長を祈り、その地方で獲れた米の粉で「八朔だん
ご馬」を作る風習がある。讃岐藩出身で馬術の名人として名高い曲垣平九郎に因んでい
る。
香川県三豊市の旧仁尾町や兵庫県たつの市御津町室津地区など、歴史的経緯によって本
来は旧暦3月3日に行われる雛祭りを八朔に延期する風習を持つ地域も存在する。
徳川家康が天正18年8月1日(グレゴリオ暦1590年8月30日)に初めて公式に江戸城に入
城したとされることから、江戸幕府はこの日を正月に次ぐ祝日としていた[4]。明治改
暦以降は、新暦8月1日や月遅れで9月1日に行われるようになった。
山梨県都留市では八朔祭りが行われている。都留市の八朔祭りは毎年8月1日の八朔に行
われていたが、現在では9月1日に実施されている。都留市四日市場の生出神社(おいで
じんじゃ)の例祭が発展した祭りで、本祭では神輿が渡御し、附祭では大名行列や屋台
が巡行する。江戸後期の天保年間にはすでに実施されており、現存する屋台後幕は浮世
絵師の葛飾北斎が手がけたとする伝承がある。

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