2016年2月16日火曜日

万葉の世界から志賀の里を見る

時代の風情を見直すのは中々に難しい。江戸時代に隆盛を極めた浮世絵は、現在の
風景写真や人物写真にもあたろうか。それを更に遡れば、和歌であろう。
都に近かった志賀の里では、その季節に応じた多くの歌が詠まれている。
そこから、この里を知るのも、中々に楽しいものだ。

万葉集に旋頭歌がある。
青みづら依網(よさみ)の原に人も逢はぬかも石走淡海県(いはばしるあふみあがた)
の物語せむ
依網の原で誰か人に逢わないかな、近江県の物語をしたいもの、と言う意味。
これも柿本人麻呂の歌らしいが、伝承歌的なものなのであろう。

近江大津京の廃墟に立ち寄ったときに、人麻呂が今は草に埋もれ、霞の中に無残な姿を
晒しているかっての都の跡をみて詠じた歌である。知られるように大津京は
壬申の乱で廃墟となった。喪失の感情と傷ついた心の内にあるかなしみが
これらの歌から伝わってくる。

楽浪(さざなみ)の志賀の唐崎幸くあれど大宮人の船待ちかねつ
楽浪の志賀の大わだ淀むとも昔の人にまたも逢はめやも

唐崎は今も変わらずにあるが、いくら待ってももう大宮人たちの乗った舟はやって
こない、また志賀の大曲おおわだ(入り江などの地形が湾曲しているところ)は
人待ち顔に淀んでいても、旧き都の人たちに逢うことは出来ない、と喪われて
しまったものの重さ、大きさに焦点をあてて詠っている。

さらに、和邇の湖岸は古歌に平浦、湊と詠われたところとも当たられて
今の中浜、北浜、南浜一帯を言われまた、南北比良あたりともされているが、
南浜の樹元神社は天暦8年創建ともいわれ北浜の住吉神社は寛政7年創始
といい、南船路の八所神社は神護景雲二年(768)創建と伝えられ
真宗慶専寺は元天台で恵心の創立といい、北浜の真光寺は伝教大師の創立
と言え早くから開け北国街道、龍華街道の和邇駅への湖上の湊として比良とは
すこし隔たっているが相応しく想定される。

わが船は比良の湊に漕ぎ泊(は)てむ沖へな離(さか)りさ夜ふけにけり  万葉集 
高市連黒人
ふゆゆけば嵐やさえて漣の比良の湊に千鳥なくなり     新拾遺集 宗尊
ふねとむる比良の湊に浮きねして山郭公枕にぞきく     家集  頓阿

他には、
におの海霞める沖に立つ波を花にぞ見する比良の山風   藤原為忠
嵐吹く比良の高嶺の嶺わたしにあはれしぐるる神無月かな  道因法師
桜咲く比良の山風吹くなべに花のさざ波寄する湖      藤原長方
比良山の小松が末にあらばこそわが思ふ妹に逢はずなりせば  柿本人麻呂
子の日して小松が崎を今日見れば遥かに千代の影ぞ浮かべる 藤原俊成

古歌を聞くと、当時の景観や風情が何と無くわかる。浮世絵のような視覚的な
ものがあれば、さらに当時の情景がわかるのであろうが、歌だけでも、
この地域の自然の姿、そして当時の人の想いが伝わってくる。

時代を大分遡った昭和の初めに発刊されたこの地域を紹介している本の
冒頭の言葉は、これらと相通ずるものがあるのではないだろうか。
「自分の眼前に、神秘の謎を秘め、朝日夕陽に照らされて、こうごうしく
輝く偉大な母なる琵琶湖。琵琶湖が、木戸からでは一望でき、他の町村では
味わえないよさがある。
湖面に波一つなく、朝の静寂を破り、あかね雲とともに、母なる琵琶湖の
対岸の彼方より上り来る、こうごうしい朝日に向かい、手を合わすたびに
「ああ、ありがたい。今日も一日、幸せでありますように。」と祈る、
このすがすがしいひととき、この偉大なる母なる琵琶湖も、風が吹きくれば、
きばをむき、三角波を立て、悪魔のようにおそいかかり、鏡のような静かなる
湖も、荒れ狂い、尊い人命を奪い去る事もある。」

出来る限り、この万葉の世界は残って欲しいもの。

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