2016年8月24日水曜日

比良の自然、思うがままに書き綴る

楽浪(さざなみ)志賀の里では、湖水を見て、鳥の声を聞き、野辺の草花を触り、
森の匂いを嗅ぎ、せせらぎの水を味わう、五感がフルに活かせる。
見慣れた風景ではあるが、朝日の中で、少しづつ輝いているようでもある。

春の季節では、自然界に新たな成長の季節が訪れるころである。
松尾芭蕉も詠んでいる。
山々にかこまれた春の琵琶湖の大観を一句に納めたものとして、
「四方より花吹き入れて鳰の海」、春の琵琶湖である。
木々や草花はいっせいに華やかな色彩とかおりをまき散らし、トチノキの
枝は小刻みに震えながら、円錐形の花キャンドルを支えていた。
白いヤマニンジンの花笠が道端をびっしりと覆っている。つるバラが
庭塀を這いあがり、深紅のシャクヤクがテッシュペパーのような花弁
開いている。りんごの木は花びらを振り落としはじめ、その後にビーズ
のような小さな実をのぞかせている。
また、少し奥へと入れば、比良山系の自然の作品、精神風土の名残にもにも会える。
比良山系は、千メートル以上の山々が連なっており、冬の雪景色
(比良の暮雪と言われているが)、春のみずみずしい青さ、秋の紅葉と常緑の緑
のパッチワーク的な山肌、夏の深い緑と多面的な顔を持っている。
ここは、山岳信仰の場でもあり、今は廃墟と化しているが、比良三千坊と呼ばれた
寺院、修行場の跡も含め、修養の場としても最適であったのだろう。
森に入れば、その一端を味わえるのではないだろうか。  

比良山系に「日本の滝百選」にも選ばれている名瀑である八淵(やつぶち)
の滝がある。比良最高峰・武奈ヶ岳の北東に端を発する鴨川源流にかかる名瀑
として有名。その名前のとおり、八つの淵(滝)があり、下流から、魚止の滝、
障子の滝、唐戸の滝、大摺鉢、小摺鉢、屏風の滝、貴船の滝、七遍返しの滝と
なっている。八つの中でも、障子の滝と貴船の滝は大きくスリルに富んでおり、
夏には、その滝めぐりは清涼感の漂う、気持ちのよい山歩きとなる。
だが、冬には違う味わいもできる。真冬には数10センチとなる雪の中の
雪白な美しさと身を絞める寒さが生きていることへの証左を見せてくれる。
夏から秋の初めに集落を歩くと、細い石畳が続き、石で囲まれた3面水路を
水が踊りながら下へと流れていく情景によく出会う。

側壁の石にその煌めくしぶきがはね何十という黒い水あとを残すが、それは
暑さの中で、すぐに消える。苔にかかりその緑色を一段と輝かせるが、
それも一瞬のこととて、すぐに黄色味を帯びた苔の帯に変わる。
黒い水跡と苔の色の変身、これらが私たちの前で幾重にも重なり繰り返される。
一か月近く雨が降らないこの季節であっても、この水の流れは信じられない
くらい早くそして澄み切っている。どこからこのような水が湧き出てくるのか、
そんな疑問を頭の片隅で反芻しながら何軒か連なる家々を通り過ぎる。
木戸、八屋戸は昔から石材を対岸の寺や神社、城の石垣造りのため送り出していた。
通り過ぎる庭には、様々な形の庭石が置かれ、家々に一つのアクセントを
もたらしている。さらには、平板の石をいくつかまっすぐにに立てて、囲い
としている家もある。石畳の道、石を敷き詰めた庭など、今も石の街である。

井上靖が描いた「夜の声」という小説がある。
この退廃していく社会を憂い、交通事故で神経のおかしくなった主人公を通して
その危機を救える場所として近江を描いている。
神からのご託宣で文明と言う魔物と闘うが、自分はそのために刺客に狙われている
と思い込んでいる。魔物の犯してない場所を探して、近江塩津、大浦、海津、
安曇川から朽木へと向う。朽木村でその場所を見つける。
「ああ、ここだけは魔物たちの毒気に侵されていない、と鏡史郎は思った。
小鳥の声と、川瀬の音と、川霧とに迎えられて、朝はやってくる。漆黒の
闇と、高い星星に飾られて、夜は訪れる。、、さゆりはここで育って行く。
、、、レジャーなどという奇妙なことは考えない安曇乙女として成長していく。
とはいえ、冬は雪に包まれてしまうかもしれない。が、雪もいいだろう。
比良の山はそこにある。、、、さゆりは悲しい事は悲しいと感ずる乙女になる。
本当の美しいことが何であるかを知る乙女になる。風の音から、川の流れから、
比良の雪から、そうしたことを教わる。人を恋することも知る。季節季節
の訪れが、木立ちの芽生えが、夏の夕暮れが、秋白い雲の流れが、さゆりに
恋することを教える。テレビや映画から教わったりはしない」
舞台は朽木としているが、この比良地域も同じであろう。井上靖が願望する
自然がまだ多くみられる。

さらには、比良のしゃくなげ(井上靖)詩集北国からもその情景が読み取れる。
「むかし写真画報と言う雑誌で、比良のしゃくなげの写真を見たことがある。
そこははるか眼下に鏡のような湖面の一部が望まれる北比良山系の頂で、
あの香り高く白い高山植物の群落が、その急峻な斜面を美しくおおっていた。
その写真を見たとき、私はいつか自分が、人の世の生活の疲労と悲しみを
リュックいっぱいに詰め、まなかいに立つ比良の稜線を仰ぎながら、
湖畔の小さな軽便鉄道にゆられ、この美しい山嶺の一角に辿りつく日が
あるであろう事を、ひそかに心に期して疑わなかった。絶望と孤独の日、
必ずや自分はこの山に登るであろうと。
それから恐らく10年になるだろうが、私はいまだに比良のしゃくなげを
知らない。忘れていたわけではない。年々歳々、その高い峯の白い花を瞼に
描く機会は私に多くなっている。ただあの比良の峯の頂き、香り高い花の群落
のもとで、星に顔を向けて眠る己が眠りを想うと、その時の自分の姿の
持つ、幸とか不幸とかに無縁な、ひたすらなる悲しみのようなものに触れると、
なぜか、下界のいかなる絶望も、いかなる孤独も、なお猥雑なくだらなぬものに
思えてくるのであった。」
多くの開発と言う行為の中には、自然への畏敬と尊敬の念が欠落していることが
多く、我々の知らないうちに自然がその生命を終えて行くことが見られる。
比良と琵琶湖の織り成す清々しい魅力を次代へと伝えて行く必要がある。

この里山を、さらに比良の山端に近づく。途中道案内に加わった老人が
ぽつりと言った。
「今日は満月だ。夜見る湖はとぎすましたような晴れた空を水面に沈め、
森閑と横たわっている。ここからのぞむ対岸の島々とその山の連なりは湖の
南から北に走りながらくっきりと空をかかげ、圧倒的に力強く、生命力に
みちあふれている。琵琶湖と中天の月は渾然と一体化して、それを切り離す事
の出来ない完璧な1つづきの風景を形成している。一度見るよい。
さらに、冬には湖に薄く舞い落ちる雪が満月の光に染められ、金粉をまいている
ように湖水の面に映っている。湖面も月光に染められ金波がひろがる上に雪が
休みなく降り続いている。それは不思議なこの世ならぬ幻想的な光景だ。
琵琶湖は私たちに色々な姿を見せてくれるよ」

里山の道々では、目を潤すような草花、樹々にはあまり出会わない。
せまる比良の山並みがその緑をここまで押し流してきているようだ。
愛想のない小道を湖から吹き渡ってくるわずかの風のすずとした装いを
感じながら歩を進める。大谷川の水音が聞こえるほどになると、道の集落側に
堤防のような5段ほどの石積みをなして、数100メートルほど続いていた。
苔むした石の1つ1つが時代の流れを感じさせる。この地域では、昔は
あちらこちらにこのような堤防があり、集落の出入り口にもなっていたが、
往時の姿は今はない。しし垣の役目もになっていたのであろう。2メートル
の高さで集落の周囲を囲むような形になっている。大谷川などの氾濫に
備えて江戸時代には水防ぎの石垣としてその役目を果たしていた。
この大谷川を三キロほど遡ると、湯島の地に弁財天が祀られた湯島神社があり、
昔この地域は大谷川の氾濫が多々あり、竹生島の宝厳寺から弁財天の分霊を
いただき、祀ったという。少し奥にある百閒堤と合わせ、この辺は水との
戦いの場所でもあったのだろう。自家製のお茶の栽培でもしているのだろう、
茶畑からひょっこり老婆が顔を出し、にこりと笑ってまた消えた。

黒ずんだ茶の葉と千地たる光こもれる林、神社を押し込むような小さな森、
野辺の草叢、色調豊かな緑の世界だが、それ以外は石が主役のようだ。
川に沿って、下り始めると今まで目はじにあった琵琶湖が正面に来た。
平板とした青の中に3筋ほどの白い線が右から左へと航跡を残し、沖島の
上には櫛で引いたような薄雲が数条航跡に合すかのようにたなびいている。
道野辺の濃い緑が目に届き、左の水田や右の竹藪の青さばかりが目立った。
畑のひしめく緑の煩瑣な葉は、日を透かした影を重ねていた。さらに進むと
日は下草の笹にこぼれるばかりで、そのうちの一本秀でた笹だけが輝いていた。
その横には幼さがまだ残る地蔵さんが紅い首かけをかけて小さな石の祠の中で
笑っていた。その先にこの辺でも見られなくなった茅葺きの家が強い日差しに
萱の一筋一筋を細かく見せながらあった。久しぶりに見る茅葺きの家だった。
ガラスの引き戸を開けると、中は黒く光る土間の中に外からの光を受けて
様々な陰翳を見せていた。黒ずんだ梁には右手からの光と左手の庭に通ずる
入り口からの光が光の濃淡をつけている。奥の居間には左手の廊下から差し込む
光が黒い陰となって畳の上に2筋の線を作っている。ここに住むという
女性の顔も左右からは入り込む光を浴びてその陰翳に深さが増し、髪もまた
弱い光を帯びて白く混じる白髪が黒髪の中に消えていた。梁や天井の煤による
黒き光映えがこの家の200年以上という古さをさらに古くさえ見せている
ようでもある。
庭の横にあるかわとの水のきらめきが薄黄色の暖簾を通して家の中まで
届いている。庭から土間へそして裏庭へと抜ける風が涼しい。これが
先人たちの知恵なのであろう。冷房のいらない生活、今は遠い昔のような
気がしていたが、ここは違った。
境があるとは言えない野菜畑や茶畑が切れると小さく区切られた水田が現れ、
左手に大きな寺の瓦屋根が日を浴びて光っている。少し歩けば、超専寺、長栄寺、
本立寺等寺が多くある。さらには、比良城、南比良城、北比良城跡が
あったとされるが、この暑さに歩を止める。

白洲雅子の「近江山河抄」の比良の暮雪にある冬の季節もまた味わいがある。
ちょっと長いが、味わってほしい。

ある秋の夕方、湖北からの帰り道に、私はそういう風景に接したことがあった。
どんよりした空から、みぞれまじりの雪が降り始めたが、ふと見上げると、薄墨色
の比良山が、茫洋とした姿を現している。雪を通してみるためか、常よりも一層大きく
不気味で、神秘的な感じさえした。なるほど、「比良の暮雪」とは巧い事をいった。
比良の高嶺が本当の姿を見せるのは、こういう瞬間にかぎるのだと、その時
私は合点したように思う。
わが船は比良の湊に漕ぎ泊てむ沖へな離りさ(さかりさ)夜更けにけり
比良山を詠んだものには寂しい歌が多い。
今もそういう印象に変わりはなく、堅田のあたりで比叡山が終わり、その裾に
重なるようにして、比良山が姿を現すと景色は一変する。比叡山を陽の山とすれば、
これは陰の山と呼ぶべきであろう。、、、、

都の西北にそびえる比良山は、黄泉比良坂を意味したのではなかろうか。、、、、
方角からいっても、山陰と近江平野の間に、延々10キロにわたって横たわる
平坂である。古墳が多いのは、ここだけとは限らないが、近江で有数な大塚山
古墳、小野妹子の墓がある和邇から、白鬚神社を経て、高島の向こうまで、大
古墳群が続いている。鵜川には有名な四十八体仏があり、山の上までぎっしり
墓が立っている様は、ある時代には死の山、墓の山、とみなされていたのではないか。
「比良八紘」という諺が出来たのも、畏るべき山と言う観念が行き渡って
いたからだろう。が、古墳が多いということは、一方から言えば、早くから
文化が開けたことを示しており、所々に弥生遺跡も発見されている。小野氏が
本拠を置いたのは、古事記によると高穴穂宮の時代には早くもこの地を領していた。
、、、、、

小野神社は2つあって、一つは道風、1つは「たかむら」を祀っている。
国道沿いの道風神社の手前を左に入ると、そのとっつきの山懐の丘の上に、
大きな古墳群が見出される。妹子の墓と呼ばれる唐臼山古墳は、この丘の
尾根つづきにあり、老松の根元に石室が露出し、大きな石がるいるいと
重なっているのは、みるからに凄まじい風景である。が、そこからの眺めは
すばらしく、真野の入り江を眼下にのぞみ、その向こうには三上山から
湖東の連山、湖水に浮かぶ沖つ島もみえ、目近に比叡山がそびえる景色は、
思わず嘆息を発していしまう。その一番奥にあるのが、大塚山古墳で、
いずれなにがしの命の奥津城に違いないが、背後には、比良山がのしかかるように
迫り、無言のうちに彼らが経てきた歴史を語っている。

小野から先は平地がせばまり、国道は湖水のふちを縫っていく。
ここから白鬚神社のあたりまで、湖岸は大きく湾曲し、昔は「比良の大和太」
と呼ばれた。小さな川をいくつも越えるが、その源はすべて比良の渓谷に
発し、権現谷、法華谷、金比羅谷など、仏教に因んだ名前が多い。、、、、
かっては「比良3千坊」と呼ばれ、たくさん寺が建っていたはずだが、いまは
痕跡すら止めていない。それに比べて「小女郎」の伝説が未だに人の心を
打つのは、人間の歴史と言うのは不思議なものである。

白鬚神社は、街道とぎりぎりの所に社殿が建ち、鳥居は湖水のなかに
はみ出てしまっている。厳島でも鳥居は海中に立っているが、あんな
ゆったりした趣きはここにない。が、それははみ出たわけではなく、祭神が
どこか遠くの、海かなたからきたことの記憶に止めているのではあるまいか。
信仰の形というものは、その内容を失って、形骸と化した後も行き続ける。
そして、復活する日が来るのを域を潜めて待つ。と言うことは、
形がすべてだということができるかもしれない。
この神社も、古墳の上に建っており、山の上まで古墳群がつづいている。
祭神は猿田彦ということだが、上の方には社殿が3つあって、その背後に
大きな石室が口を開けている。御幣や注連縄まで張ってあるんのは、ここが
白鬚の祖先の墳墓に違いない。小野氏の古墳のように半ば自然に還元
したものと違って、信仰が残っているのが生々しく、イザナギノ命が、
黄泉の国へ、イザナミノ命を訪ねて行った神話が、現実のものとして
思い出される。山上には磐座らしいものが見え、明らかに神体山の様相を
呈しているが、それについては何一つ分かっていない。古い神社である
のに、式内社でもなく、「白鬚」の名からして謎めいている。猿田彦命
は、比良明神の化身とも言われるが、神様同士で交じり合うので、信用は
おけない。

白鬚神社を過ぎると、比良山は湖水すれすれの所までせり出し、打下
(うちおろし)という浜にでる。打下は、「比良の嶺おろし」から起こった
名称で、神への畏れもあってか、漁師はこの辺を避けて通るという。
そこから左手の旧道へ入った雑木林の中に、鵜川の石仏が並んでいる。
私が行った時は、ひっそりとした山道が落椿で埋まり、さむざむした風景に
花を添えていた。入り口には、例によって古墳の石室があり、苔むした
山中に、阿弥陀如来の石仏が、ひしひしと居並ぶ光景は、壮観と言う
よりほかはない。四十八体のうち、十三体は日吉大社の墓所に移されているが
野天であるのに保存は良く、長年の風雪にいい味わいになっている。この
石仏は、天文22年に、近江の佐々木氏の一族、六角義賢が、母親の
菩提のために造ったと伝えるが、寂しい山道を行く旅人には、大きな慰めに
なったことだろう。古墳が墓地に利用されるのは良く見る風景だが、
ここは山の上までぎっしり墓が立ち並び、阿弥陀如来のイメージと重なって、
いよいよ黄泉への道のように見えてくる。

さらに、正法眼蔵という道元の書いた本の中に「渓声山色の巻」がある。
この中で道元は
 「峯の色 谷のひびきもみなながら わが釈迦牟尼の 声と姿と」
と山水の功徳を詠っている。峯の色も、谷川を流れる水の音もみなことごとく、
天地自然の道理の体現であり、自己本来の面目であり、わが釈迦牟尼の
声であり、姿であるという。
これは宋の蘇東坡居士の詩を思い浮かべられて詠まれた詩である。
蘇東披居士の詩は
「渓声便是広長舌 山色豈非清浄身 夜来八萬四千偈 他日如何挙似人」
であり、谷川の水の流れる音も仏の声であり、姿である。清浄身とは法身の仏
さまということであり、法をもって身とする仏さまである。
それが山であり川であるという。
私たちは自然の中にあるとき、自分の生命が自然の生命の本質と一致し
一体化する瞬間がある。
「正修行のとき、渓声渓色、山色山声、ともに、八万四千褐げをおしまざるなり。
自己もしく名利身心を不借すれば、渓山もまたいんもの不借あり」
正しく修行していれば、谷川のせせらぎの音も、谷川の姿、景色も、山の景色も、
山の声、山の音、風の音、様々な音、あるいは静けさそのもの、それらのものは
皆すべて八万四千げを惜しまない。八万四千はありとあらゆるものものであり、
褐げは詩句の説法を言い、すべてが数知れぬ説法の詩を語っている。
さらに、自分が名声や利益を捨て、体や心を惜しまずなg出せば、谷川や山もまた
同じように真理を語ることを惜しまない。利欲、エゴなどを捨てることことで、
初めて本当の自分というものが見えてくる。
真の自分が谷や山と一致してくる。人間が天地自然と一体化するのには、死力を
尽くして自分を捨て去ったときに向こうから訪れてくるもの、その瞬間がある。

これらを体現できる環境がここにある。比良とはそう言う処だ。

2016年8月14日日曜日

立秋、ある朝の情景

早いもので、既に立秋である。初めて秋の気配が現れてくる頃とされる。
「暦便覧」では「初めて秋の気立つがゆゑなれば也」と説明している。
夏至と秋分の中間で、昼夜の長短を基準に季節を区分する場合、この日から
立冬の前日までが秋となる。暦の上ではこの日が暑さの頂点となる。
翌日からの暑さを「残暑」といい、手紙や文書等の時候の挨拶などで用いられる。
秋の気配を感じ始めるとは言うものの、実際は1年で一番暑い日が続くこの頃である。
京都では精霊送り五山の送り火が催される。街の灯りが消え、夜空の黒を彩る。
この頃食されるのが、水羊羹。寒天に奈良県吉野産の「吉野葛」を加えて、
より滑らかさを増している。そのみずみずしい質感とほんのりした舌触りがこの
暑さを忘れるひと時かもしれない。
しかしながら、最近の天候不順は、それが定着したか如く、季節の移ろいが
二十四節気のいう季節よりも早いか極端な天候となって現われる。
今も、残暑どころではなく、正に夏真っ盛りの暑さである。人も猫も、ついでに
犬もこの暑さには閉口気味。
琵琶湖も比良の山々も、そして田畑の稲や野菜たちも、今暑さにあるものは、
燃え立つ空気の中に立ちすくみ、あるものは頭を垂れ、緑の中に黄色の斑点
なぞも目立ち始めている。
彼は、一瞬自分の目がおかしくなったのか、と思った。いつもは、紺青の水を
静かにたたえている琵琶湖が見えない。朝日を浴びながら、坂をゆっくりと
下りつつこの強烈な暑さで、身体も頭もおかしくなったのでは、と思った。
春霞ならぬ夏霞の朝であった。道路には影一つ無く、まるで砂漠が如き様相である。
汗が容赦なく顔に幾筋もの流れをつけていく。2ヶ月ほど前に味わっていた
朝の清清しさは影を潜め、灼熱と化した太陽が中天にどっしりと居座っている。
後ろを振り返れば、比良の緑の稜線が透き通った青さの中に、まるで太い毛筆の
線で引いたように描かれている。
孫娘のような犬のルナを息子が飼ってから約1年、そのルナを家に連れてくるのが
毎朝の日課となった。やや寒さの残った3月から正に百花繚乱の春の草花を
味わいながらの4月から6月、そして時は確実に過ぎ行きて、今は暑さの真っ盛り、
連日の猛暑である。秋の気配が忍び寄るころというが、全くそんな気配は微塵もない。
志賀周辺は比良の山並みが湖までせり出していることもあり、多くは山麓を切り崩した
り
して家々が並んでいる。そのため、多くの家々にたどり着くには、急な坂を上がる
しかない。それでも、若いルナは彼を先導するかのようにどんどん先に行く。
若さの違いであろうか、彼が衰えたのか、いずれにしろ、後ろから刺し込むように
朝日が2人を押し包んでいる。
ふと、見れば淡いピンクの色を付けた百日紅の木々が彼を和ましてくれる。
彼はいつも思う、志賀の夏は全く愛想がない、と。
だが、味気ない緑一色の中にそのピンクの花は、真珠の粒のごとききらめきと優しさを
道行く人に与えている。一段と増した汗の流れが顔全体を覆っているが、
先行するルナの影を見る形で、右の足をだし、そして左の足を出すという単純な行為
に更ける彼であった。ルナはこの暑さを感じているのか分からないほどに
歩く先々の様々な匂いを感じ取ろうと一生懸命である。顔見知りの老人が
花に水をやりながらこちらに挨拶を送っている。彼もルナもそれに応えるが、
暑さがその間を裂くがごとく、会話もなく、一段と増す暑さに我が身を委ねる。
角を曲がった先に長く白く光る道が続いている。この一番先に我が家があるのだが、
まるで数キロもあるように、彼には見えた。街は静かである。いつも聞こえる
子供たちの声は聞こえない。皆が押し黙ってこの暑さから逃れようとしている様に思え
る。
これが明日も続く、そして明後日も、人生とは終わりのない道、そんな思いで
我が家の扉を開き、元気なママの声を聞く。