早いもので、既に立秋である。初めて秋の気配が現れてくる頃とされる。 「暦便覧」では「初めて秋の気立つがゆゑなれば也」と説明している。 夏至と秋分の中間で、昼夜の長短を基準に季節を区分する場合、この日から 立冬の前日までが秋となる。暦の上ではこの日が暑さの頂点となる。 翌日からの暑さを「残暑」といい、手紙や文書等の時候の挨拶などで用いられる。 秋の気配を感じ始めるとは言うものの、実際は1年で一番暑い日が続くこの頃である。 京都では精霊送り五山の送り火が催される。街の灯りが消え、夜空の黒を彩る。 この頃食されるのが、水羊羹。寒天に奈良県吉野産の「吉野葛」を加えて、 より滑らかさを増している。そのみずみずしい質感とほんのりした舌触りがこの 暑さを忘れるひと時かもしれない。 しかしながら、最近の天候不順は、それが定着したか如く、季節の移ろいが 二十四節気のいう季節よりも早いか極端な天候となって現われる。 今も、残暑どころではなく、正に夏真っ盛りの暑さである。人も猫も、ついでに 犬もこの暑さには閉口気味。 琵琶湖も比良の山々も、そして田畑の稲や野菜たちも、今暑さにあるものは、 燃え立つ空気の中に立ちすくみ、あるものは頭を垂れ、緑の中に黄色の斑点 なぞも目立ち始めている。 彼は、一瞬自分の目がおかしくなったのか、と思った。いつもは、紺青の水を 静かにたたえている琵琶湖が見えない。朝日を浴びながら、坂をゆっくりと 下りつつこの強烈な暑さで、身体も頭もおかしくなったのでは、と思った。 春霞ならぬ夏霞の朝であった。道路には影一つ無く、まるで砂漠が如き様相である。 汗が容赦なく顔に幾筋もの流れをつけていく。2ヶ月ほど前に味わっていた 朝の清清しさは影を潜め、灼熱と化した太陽が中天にどっしりと居座っている。 後ろを振り返れば、比良の緑の稜線が透き通った青さの中に、まるで太い毛筆の 線で引いたように描かれている。 孫娘のような犬のルナを息子が飼ってから約1年、そのルナを家に連れてくるのが 毎朝の日課となった。やや寒さの残った3月から正に百花繚乱の春の草花を 味わいながらの4月から6月、そして時は確実に過ぎ行きて、今は暑さの真っ盛り、 連日の猛暑である。秋の気配が忍び寄るころというが、全くそんな気配は微塵もない。 志賀周辺は比良の山並みが湖までせり出していることもあり、多くは山麓を切り崩した り して家々が並んでいる。そのため、多くの家々にたどり着くには、急な坂を上がる しかない。それでも、若いルナは彼を先導するかのようにどんどん先に行く。 若さの違いであろうか、彼が衰えたのか、いずれにしろ、後ろから刺し込むように 朝日が2人を押し包んでいる。 ふと、見れば淡いピンクの色を付けた百日紅の木々が彼を和ましてくれる。 彼はいつも思う、志賀の夏は全く愛想がない、と。 だが、味気ない緑一色の中にそのピンクの花は、真珠の粒のごとききらめきと優しさを 道行く人に与えている。一段と増した汗の流れが顔全体を覆っているが、 先行するルナの影を見る形で、右の足をだし、そして左の足を出すという単純な行為 に更ける彼であった。ルナはこの暑さを感じているのか分からないほどに 歩く先々の様々な匂いを感じ取ろうと一生懸命である。顔見知りの老人が 花に水をやりながらこちらに挨拶を送っている。彼もルナもそれに応えるが、 暑さがその間を裂くがごとく、会話もなく、一段と増す暑さに我が身を委ねる。 角を曲がった先に長く白く光る道が続いている。この一番先に我が家があるのだが、 まるで数キロもあるように、彼には見えた。街は静かである。いつも聞こえる 子供たちの声は聞こえない。皆が押し黙ってこの暑さから逃れようとしている様に思え る。 これが明日も続く、そして明後日も、人生とは終わりのない道、そんな思いで 我が家の扉を開き、元気なママの声を聞く。
大津の北に位置する旧志賀町は、楽浪(さざなみ)の里とも呼ばれ、真近いに比良山系を仰ぎ、琵琶湖の蒼き面に静けさを感じる里です。農事からの七十二候をその季節に応じて感じることで、この里の素晴らしさを味わってほしいものです。
2016年8月14日日曜日
立秋、ある朝の情景
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