2016年4月3日日曜日

志賀町史より

今回は志賀町史から、再度古代楽浪の里を見てみたい。
過去を懐かしむわけではないが、当時の歴史的な動きを理解して
置くこともこの地に住む人として必要なのでは、と思う。

近江国は以前から都の貴族から真に重要な大国と認識されていた。
すなわち、「近江国は、宇宙有名の地也。地広く人衆く、国富み家給る。
東は不破と交わり、北は鶴鹿に接す。南は山背に通じ、此の京都に至る。
水海は清くして広く、山木は繁りて長し。其の土は黒土、其の田は上々、
水旱災い有りと雖も曾て不穫の憂いなし」といわれた国である。

そして、滋賀郡の「古津」は、遷都の詔と同時に出された詔により、
近江京時代の旧号を追って、「大津」と改称され、湖の道には東と北
を抑える要点として真野郷は」陸の道には北を抑える要点として、
古市郷、織部郷、大友郷とともに従来より以上に重要性を増すことになった。
そうした位置付けのもとで、真野郷に現われた無視できない変化は、高島郡界
と接する真野郷北方域の重要性である。というのは、郷内を通る湖岸の道は
もとよりだが、安曇川中流から朽木谷を通る裏道とともに、和邇川沿いに
山道を越えて平安京へ北から入る道として、北からの人とものを受け止める
ことになったからである。
沿道の田野や山林で働く人々と其の集落の点在する地域は、いままでと
打って変わった重要性を持つことになった。このことは、やがて、ことに
十世紀後半から延暦寺の勢力がこの地域に及んでくる前史として、十分に
留意しておく必要がある。

このような真野郷の地位の重要化は、郷の人々以上に平安京の政府が
認識していた。
平安京に先立つ長岡京の時代に滋賀郡に新造された梵釈寺には、延暦7年
に下総越前両国から各50戸の封土が与えられたし、すでに旧大津京の時代
以来の伝統を持つ崇福寺では、大同元年には京内の左比寺、鳥戸寺と共に
四七斎が六七斎は崇福寺で執り行われた。
なお、崇福寺と梵釈寺は、平安時代含め10大寺とされていたが、度重なる
被災と延暦寺の隆盛により、壬申の乱以後、衰退していく。
しかし、日本書紀などの記述から大津京の西北に崇福寺が建てられていたこと
が分かっているので、その東南が大津京となる。崇福寺は志賀寺とも呼ばれていた。

また、霊峰比良山だけでなく、坂本とともに真野郷からも通じる比叡山は、
最澄の「一切衆生、悉皆有仏性」とする新しい理念に基づく鎮護国家論の発祥の
地として、急速に重要さを示し始めた。そして、比良神には、貞観7年、無位
から一躍して従4位下の神階があたえられたのであった。神階とは、有力神
に国家によって奉授された位階を言う。比良の神もここに国家的な高い神階
が与えられたのである。

大津北郊で大津京時代ごろの建物の立地できるのは、錦織、南滋賀、滋賀里、
穴太の扇状地で、いずれも西高東低の傾斜の強い地形で、夫々東西に長い舌状
を呈している。さらに、南滋賀ではそのうちの西半分は大津京時代の寺院である
南滋賀廃寺が占めており、滋賀里でも宮がここにあったとすればすでに
この時、削平されていたはずである古墳群その西半分広がっている。
また、穴太も同時代の寺院跡がかなりの地域を占めているようである。
こうみると左右対称の建物を配置するため比較的まとまった平坦地の要求される
宮域としては南滋賀、滋賀里、穴太の地域は適地とは言えず、中でも
最も平坦地の広がっているのが錦織であり、地形から見れば、宮の所在地
としては錦織がもっとも相応しいことが分かる。

万葉集にある高市古市の歌

古(いにしえ)の ひとにわれあれや ささなみの 故(ふる)き京(みやこ)
を見れば悲しき

ささなみの 国つ御神(みかみ)の 心(うち)さびて 荒れたる京(みやこ)
見れば悲しも

すべて廃墟と化した荒れたる都を偲んでいる。大津の宮時代は、鎌足につぐ天智
の死を経て壬申の乱へつながり、5年数ヶ月の歴史の終焉を迎える。
 
 
2015年9月メモ
万葉集に、
「山見れば 高く貴し 川見れば さやけく清し 水門(みなと)なす 海も広し」

これを「海」から「湖(うみ)」とすれば、ここ、さざなみの里志賀でもある。
文明のあり難さを十分に、感じた昨今としては、伊勢神宮など、自然の豊かな
場所での自然循環の中で、自給自足という伝統を守っている人々の智慧を活用
したいもの。

志賀町について、その町誌から、概観してみたい。
1)志賀町史第1巻より
かって滋賀県は、近江国と呼ばれた。
「近つ淡海の国」である。
静岡県の西部を浜名湖にちなんで「遠つ淡海の国」と呼ぶが、
それに対して近江国は、琵琶湖によってその名がついた。
古代の湖西地方には2つの特徴がある。交通の要所である
ことと鉄の産地であることである。ともに、ヤマト王権や
ヤマト国家の中心が、奈良盆地や大阪平野にあったことと関係する。

近江は、日本列島における水上及び陸上の交通路の要であったと
言える。まず陸路から述べよう。旧いヤマト国家の時代には、
近江は「北」の国、海路で「越」(北陸地方)につうじる国と
見られていた。ならの平城京の時代には、東山道・北陸道の2つの
幹線道路(官道)が近江をとおっていた。実際には、伊勢湾がいまより
もはるかに深く湾入し、三重県桑名郡多度町と愛知県津島市との間の
渡しが難所であったため、東海道の諸国を往還する人も、しばしば
近江をとおって不破関(岐阜県不破郡関ヶ原町)を越えた。
官道には国家が管理する交通の拠点「駅(うまや)」が置かれ、
常時、緊急事態の通信連絡に備えていた。

志賀町域の古代の特徴は、なんと言っても、ヤマト政権・ヤマト王権
の中心地と北陸地方とを結ぶ大動脈が通っていたことである。
奈良盆地から後のなら街道を北上し、逢坂山をこえて湖西に入り、
本町の和邇などを経て音羽(高島郡高島町)あたりにでる。そのあと
上古賀(高島郡安曇川町)・追分などをとおって水坂峠(高島郡今津町)
を越え、若狭を回って鶴賀に至った。この道をとおる人は極めて多く
本町域最大の豪族和邇部氏が運営する休息や宿泊の施設もたくさん
おかれていたはずである。
ヤマトの文化に触れることもあったので、早くから開けていたが、
それよりも北陸地方、特に、若狭・越前とのつながりが強かった
こと、それが当地の一番大きな特徴である。

次に水上交通路であるが、敦賀港と琵琶湖とを結ぶ山道は、平安時代
以後は海津へと出る「7里半越え」が最も栄える。塩津に出る「5里半
越え」は古くは湖東の陸路を通る人々が主に利用した。
琵琶湖の湖上交通のいちばん重要な津は、若狭を経由する「9里半越え」
で到着する勝野津(高島郡高島町)であった。湖上を運送する場合は、
塩津から勝野津を経て、湖西の湖岸沖をとおって大津に向かうことに
なっていた。

その後は、瀬田川、宇治川、また木津川、淀川を使う水上交通路である。
この交通路は、5世紀後半には、開かれていた。6世紀後半からは国家
管理となった。その頃湖南の要港は、唐崎の南の方の「志賀津」(現在
の唐崎、西大津)であった。そこから京都府設楽郡の木津や大阪の難波津
に下っていった。船は再び琵琶湖に戻すのだが、「狭狭波山に控き引した」
とある(日本書紀)。宇治川、瀬田川の急流は、崖っぷちで足場が悪く、
とても船を引いてさかのぼることなど出来ない。そのため、巨椋池の
6地蔵あたりから山科川に入って船を引き、四ノ宮付近で陸揚げし、
逢坂山をこえて琵琶湖に戻していたのである。

この水上交通路の運営には、船大工や船頭などのほか、多くの人々の
労働が必要である。本町域の古代の人々も多数駆り出されたことであろう。
この様な労働は、無償ではなかったので、6世紀前半以前は、湖西北部
の「製鉄王」がその費用を支出していたと思われる。6世紀後半に国営
となってからは、「ミヤケ制支配」によってまかなわれた。「ミヤケ制
支配」とは、国家の企画で開拓した水田の経営と結びついた、労働力
と必要現物との国家的調達システムである。近江のミヤケの水田はほとんどが
湖東に開拓されたが、その小作料としての収入は湖西の交通労働者にも
使われた。
以上のように、古代の近江は、日本海と瀬戸内海とを連絡する、本州横断の
「道の国」であった。その道が本町域とその沖合いを通っていたのである。

■湖西の製鉄
古代近江は鉄を生産する国である。
湖西や湖北が特に深く関わっていた。大津市瀬田付近に近江における国家的
地方支配の拠点(国衡)が置かれたことにより、7世紀の末以後には、
大津市や草津市など湖南地方に製鉄所が営まれるが、それよりも古くから
湖北、湖西では、鉄生産が行われていた。
いつから行われていたかははっきりした文献に載っていないが、技術が
飛躍的に向上するのは5世紀後半であろう。それを説明するには、
この時期の日本史全体の流れをみわたさなければならない。

鉄は、武具、工具、農具などを作るのになくてはならない。それだけでなく
稲や麻布と並んで代表的な等価交換物としても通用していたばかりか、
威光と信望をとをあらわす力を持つものとされた。権力の世界でも生産の
次元でも、すでに、すでに4世紀後半の需要は大きかった。当時の製鉄方法の
詳細はまだよくわかっていないが、原始的な製鉄は古くから行われていた。

しかし、ヤマト政権に関わらる政治の世界で大量に使われた鉄は、大半が
朝鮮半島洛東江河口の金海の市場で塩などと交換され輸入された慶尚道
の鉄挺であったとみられる。3世紀半ばのことを書いた「魏志」東夷伝
に、慶尚道地方の「国は鉄を出す。韓、倭など皆従いてこれを取る」とある。
韓、わい、は朝鮮半島の住民であり、倭は日本列島の住民である。

ところが、5世紀の初頭以来、朝鮮半島北部の強大な国家の高句麗は、
軍隊を朝鮮半島の南部にまで駐屯させ、金海の鉄市場にも介入したことから
鉄の輸入がむずかしくなった。5世紀半ばごろにヤマト王権に結びつく
西日本の有力首長の軍隊が朝鮮半島で活動するのは、鉄の本格的な
国産化を必要とする時代となっていたことを示す。
(鉄の生産については、和邇の周辺にも、その名残と見られる「丹出川」
とかあるが、その遺跡そのものは発見されていない?ただし、この地域を
支配していた佐々木氏の財力などを考えると、かなり盛んではなかったのか
との推測も成り立つ)

西暦460年代から480年代にかけて君臨した王は、「古事記」
「日本書紀」に登場する「雄略天皇」である。生前の実名は「ワカタケル」
という。埼玉県行田市の稲荷山古墳から発見された剣(471年)
や熊本県玉名郡菊水町の江田船山古墳から発見された太刀にはこの王の
名が象巌されていた。中国の歴史書「宋書」倭国伝には、「倭王武」
とある。

5世紀後半の王雄略の時代は、王の権力が確立した時代として、日本の
古代史上に大きな意味を持っている。その具体的事実の1つに、5世紀
代に朝鮮半島から移住してきた先進技術者を、主に大阪平野に定住させ
王直属の手工業生産組織に編成したことである。そのような手工業生産組織
のなかに、ほかの技術者に部品を提供したり、みずから武器や工具、農具
を作ったりする鉄器生産集団がいた。彼らを「韓鍛冶(からかぬじ)」という。
韓鍛冶は単なる鍛冶師ではなく、鉄の素材(ケラを小割りにしたもの)を
繰り返し鍛えて精錬する技術ももっていた。この中央の韓鍛冶に鉄素材を
供給していた有力な候補地として近江と播磨がある。
日本列島では、弥生時代から鉄が作られていた。砂鉄を原料としてごく少量の
しかも低品質の鉄が作られていたと考えられている。砂鉄はチタン磁鉄鉱
であるため、場所によっては、成分に差があるが、製鉄にあたっては
含有されているチタン分を濃縮して分離する必要がある。これに対して、
岩鉄(磁鉄鉱の鉱石)はもともとチタン分をほとんど含まず、資源に
かぎりがある欠点を別にすれば、砂鉄よりも勝れた原料であると言える。
朝鮮系技術が入ってきた5世紀後半からは採掘も行われていたようだが、
湖西や湖北ではもっと古くから餅鉄(河川に流れ落ち流れで丸くなった
磁鉄鉱の小石)を拾い集め原料としていた可能性が高い。

8世紀後半には、播磨や近江において岩鉄を採掘をしていた(播磨国
風土記、続日本記)。中国地方の美作、備前、備中、備後、伯き、筑前
野以上6カ国は、官人への給与あてる税として、鉄、鉄製品を貢納していた。
それに対して優良な鉄素材を生産していた播磨、近江は直接に中央政府や
王族に供給したらしく、税として徴収される国からは除かれていたのである。
(延喜式)この違いが生じたのは、ヤマト国家時代までさかのぼると考えられる。
ヤマト王権は、播磨と近江から二大続けてヤマト王権の聖なる女性に婿入り
させているからである。この2台の入り婿には、播磨と近江との鉄生産体制
を王権の直接支配下に吸収するという意図が秘められている。

「続日本記」には、近江の「鉄穴」に関する記事が3箇所出てくる。
他の地域では「鉄穴」の記事はなく、近江が優れた鉄を生産していたことが分かる。
この時代の「鉄穴」は鉄鉱石の採掘場だけを指すものではない。
木炭の生産、精錬や製錬の作業を含む鉄生産を一貫して行う、いわば、
製鉄工場であった。
5世紀後半には、鉄の本格的な大規模生産がはじまり、比良山地で操業
が始まった。志賀町小野、比良山地の「タタラ谷や金糞峠」などの地名が
かって製鉄工場であったことを示す。
製鉄関連遺跡分布図は、「志賀町誌第1巻の235ページにある。

■志賀町の古墳文化
近江における最古の前方後円墳は、志賀町小野の不ヶ谷1号墳である。
近江の古墳には、様々な様式があり、和邇地域の古墳がその発生時期から
重要な位置付けになる。
その1つに、「和邇大塚山古墳」があり、膳所の「茶臼山古墳」がある。
古墳群の詳細は、志賀町誌第1巻の190ページと192ページにある。

2)湖西の古代部族
有力豪族は以下の二つがあった。
・北部  角山君
・南部  三尾君

■和邇部氏
志賀町域を中心に湖西中部を支配していた。ヤマト王権の「和邇臣」に所属し、
ヤマト王権と親密な関係があった。和邇臣は奈良県天理市和邇を中心に奈良盆地
東北地域を幾つかの親族集団で支配していた巨大豪族であり、社会的な職能集団
でもあった。和邇部氏は後に春日氏に名を変えた。
また、和邇部氏も、製鉄に関係していたようである。小野神社の祭神である「
タガネツキ大使主命は、元来、鍛冶師の神であり、鉄素材(タガね)を小割にして、
和邇臣配下の鍛冶師に供給していと思われる。
和邇部氏が奈良を中心とするヤマト王権にいた和邇氏と結びついたのは、和邇
大塚山古墳時代の4世紀後半であり、比良山系の餅鉄などから鉄素材を生産し、
和邇氏配下の鍛冶師集団に供給していた。
中央の和邇氏も和邇部氏と同様に、呪的な能力を持つ女系であり、その立場を
利用して、和邇部氏は、滋賀郡の郡司長官となったり、和邇氏は、ヤマト王権
での地位を高めたと思われる。

■小野氏の系譜
小野氏本流の旧い本拠地は、京都の上高野辺りであり、本町小野へは、妹子
誕生前に、古くから交流のあった和邇部氏の元に来た可能性がある。
このためか、本町小野の古墳は、石釜古墳群が7基、小野神社、石神、道風
神社の古墳群は、3基前後であり、分散的でその数も少ない。
妹子が官人として最高の位階となるまでは、本町域の小野氏は小さな勢力
であったと推測される。
真野臣と真野首(おびと)は、百済系移住氏族であり、春日山古墳群の大きさ
などから考えると、和邇部氏から独立して、その地位を高めたと思われる。

■遣隋使小野妹子
近江は天皇(大王)家の成立と深く関わっている。
後に「継体天皇」とよばれる人物がこの近江から誕生する。継体天皇崩御後の混乱
を欽明天皇が収拾したが、欽明の末子の代に至り、崇峻天皇が暗殺される(592)
という大事件が起こった。その後を受けて即位した推古天皇の摂政となった
聖徳太子は、天皇を中心とする中央集権国家建設の必要性を痛感し、範を大陸に
求め隋の統治技術と文物を導入すべく図った。

「日出づるの処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」の国書を携えて
入隋したのが小野妹子であり、607年であった。
翌年、隋の答礼使・裴世清(はいせいせい)とともに帰国した。聖徳太子は同年、
再び妹子を隋に派遣した。その後帰国して大徳冠(第一階)に昇進した。
これは遣使・妹子が高く評価された証といえる。
官位十二階の制定は、この遣隋使による文物導入の成果の一つであった。
妹子を出した小野氏は、本拠地の小野が和邇と接することもあって、大和の豪族・和邇
氏の一族かとも推測される。「新撰姓氏録」には妹子が「近江滋賀郡小野村」に
住したため小野臣を称したとある。しかし、「延喜式」神名帳の滋賀郡八座に、
日吉社(ひえ)と並んで小野神社も名神大社とされており、「続日本後紀」
承和元年(834)の条には、小野社春秋の祭礼に、五位以上の小野氏は官府を持たず
に往還することを許されている。これらの点から、小野氏は和邇氏といちおう別個に
小野を本貫(ほんがん 本拠地)とする土豪とみるのが有力な説とされる。

奈良時代から平安時代にかけて、小野妹子・毛人・毛野の子孫の中から、歴史に名
を残すような人物が排出し、特徴ある4つの分野ですなわち第一に対外交渉、第二
に太宰府の政治、第三に東北地方支配、第四に学術・芸術の分野で活躍している。

■小野神社とその祭神
官撰のひとつ「続日本後記」(承和元年834)によると小野氏の氏神の社は近江国
の滋賀郡に在り。「勅すらく、彼の氏の五位巳上は、春・秋の祭り至らむ毎に、
官符を待たずして、永く以って行き還(かえ)ることを聴す(ゆるす)」。とあり、
また同4年(837)の条には「 勅すらく、大春日・布瑠(ふる)・栗田の三氏
の五位巳上は、小野氏の准い(なずらい)、春・秋二祠のときに官符をまたずして、
近江国の滋賀郡にある氏神の社に向く(おもむく)ことを聴す」とある。
当時の皇族や上流貴族は、「畿内」と「畿外」との境、この場合は逢坂山
を越える時は、事前に天皇に奏請し、許可を伝える太政官符を携行する必要があった。
上の二度にわたる勅は、小野氏やその同族に対する適用除外の特例措置である。

上記の勅は、古い和邇氏同族が、当地の小野神社を氏神の社とし、祭礼を行って
きたことを示す。「布瑠」は奈良県天理市石上神宮付近の豪族で、和邇や柿本
の一族と祖先を同じくしていた。「大春日」は「春日」、もっと古くは「和邇」
である。「古事記」孝昭天皇段の和邇氏同族の中心グループで、もとから奈良
盆地東北地域を本拠地とした和邇臣(春日臣)・大宅臣・檪井臣(壱比韋臣)
や、京都に起こり奈良盆地東北地域に拠点を持った粟田臣・小野臣など、
これらのすべてが小野で氏神を祀っていた。

■志賀の漢人(あやひと)の移住
5世紀代になって朝鮮半島から多くの移住民が西日本の各地に移住してきたが、
大半は一般の庶民であった。6世紀後半になるとその当時の東アジア世界でも
最先端の知識人が志賀津に移住してきた。その人々を一括して「志賀の漢人」という。
漢人は中国系の人という意味であるが、百済の聖明王から倭国の欽明天皇に提供された
移住民で、国家と国家との間で行われた移住である。
百済王は、倭王の要請にこたえて国家の形成を指導する人材を派遣した。数年間滞在し
た後に帰国する学術・技術の専門家や「漢人」のように倭国に定住した人々である。

移住した後は、国家の形成を指導するテクノクラートとして、今の奈良県や大阪府
あたりに住み着いた。大和と河内の2つの飛鳥に花開いた仏教文化の真の創造主体は
彼らなのである。それらの一部が570年ごろ唐崎の南にあった志賀津に配置された。
この周辺には、群集古墳が多くあるが、その多くは、「志賀の漢人」の墓であり、
文化的な交流、高句麗人との直接対応など、本町域への影響が察せられる。

なお、天皇家の別荘であった比良宮には、天皇が3度も行幸しており、
琵琶湖、特に志賀津を中心とする周辺は、天下の絶景との思いが強いようであった。
近江大津宮は、667年に天智天皇が移り、唐、新羅、高句麗、百済との
激しい動乱の中で、天皇に権力を集中する官僚制と全国的な軍事組織のとの樹立
によって、ヤマト国家が律令国家に根本から転換し始めた時代であった。
古代の行政区画では、滋賀郡というのはなく、古市郷、錦部郷、大友郷、真野郷
の4つの郷で構成されていた。今の志賀町は、ほぼ真野郷と一致する。
また、度重なる政変や動乱によって、4つの郷は、陸道としての重要性を更に
高めることになる。これに伴い、比良の神も国家的な高い神階を与えられる。

古北陸道の概観
古代を通じて、志賀町域は、律令国家の官道の一つである北陸道が通過
する要所であった。北陸道とその枝路には、駅(うまや)が置かれ、公用を
おびた役人が乗り継ぐ馬が用意された。更に、その駅制度は一層整備される。
和邇駅は本町域の、和邇川の三角州に位置する、和邇中にその遺跡が残っている。

10世紀からは、律令制も確定し、近江国も滋賀郡和邇荘、滋賀・高島両群
比良牧、高島郡太田荘、高島郡朽木荘、野洲郡明見荘であった。
和邇荘と比良牧の大部分は、本町域にあり、寂楽寺の所領であった。
各地は園城寺円満院などの寺としての荘園支配機構を形成していた。
和邇荘は、都への「鬼気」の進入を防ぐ和邇海という場所があり、四角四境
の祭祇があった。

平安時代後期には、多くの寺院が建てられている。「比叡山3千坊、比良山
七百坊」言われた。

平安時代は、多くの仏像が作られた。
・天満神社(北比良)の神将形立像は日本の天神信仰を考えるに重要。
・千手院(北浜)の千手観音立像
・真光寺(北浜)の地蔵菩薩立像
・徳勝寺(北浜)の薬師如来坐像
・報恩寺(高城)の等身大の阿弥陀如来坐像
・安養寺(木戸)の阿弥陀如来立像
・八屋戸の千手観音立像
・観音堂(小野)の聖観音立像と毘沙門天立像

■比良山地における山岳信仰
朝廷は、近江国に妙法寺と景勝時を建立を認め、官寺とした。
最澄の天台宗と空海の真言宗は、朝廷から公認され、特に、天台宗の勢力拡大
にともない比良山地はその修行地となり、多くの寺院が建てられた。
その様子は、「近江国比良荘絵図」でも山中に、歓喜寺、法喜寺、長法寺などが
描かれている。
比良山地はその周辺も加えて、近畿内では、最も、修験に相応しかった。それらの
寺院跡には、鵜川長方寺遺跡、北比良ダンダ坊遺跡、大物歓喜寺遺跡、栗原大教寺野
遺跡などがある。

■志賀町の四季
本町は木と緑に恵まれた自然景観の美しいまちであり、古代以来、多くの歌人
によって、歌われてきた。

「恵慶集」より、
比良の山 もみじは夜の間 いかならむ 峰の上風 打ちしきり吹く
人住まず 隣絶えたる 山里に 寝覚めの鹿の 声のみぞする
岸近く 残れる菊は 霜ならで 波をさへこそ しのぐべらなれ
見る人も 沖の荒波 うとけれど わざと馴れいる 鴛(おし)かたつかも 
磯触に さわぐ波だに 高ければ 峰の木の葉も いまは残らじ

これらの歌は、晩秋から初冬にかけての琵琶湖と比良山地からなる景観の
微妙な季節の移り変わりを見事に表現している。散っていく紅葉に心を
痛めながら、山で啼く鹿の声、湖岸の菊、波に漂う水鳥や漁をする船に
想いをよせつつ、比良の山の冠雪から確かな冬の到来を告げている。
そして、冬の到来を予感させる山から吹く強い風(比良おろし)により、
紅葉が散り終えたことを示唆している。

2)志賀町史第2巻
鎌倉時代になると湖東や比叡山の影響が強く出てくる。
佐々木氏は、近江守護となり、その息子がそれぞれ、大原氏、京極氏(後に
京極氏は、惣領家となり、滋賀群含めた地域の一台勢力となり、六角氏
と争うようになる)、六角氏、高島氏を名乗った。
しかし、実質的には、滋賀群は比叡山延暦寺の圧倒的な勢力下にあった。
この地域では、天台宗の寺院が多いのと延暦寺関係の寺院の持つ領地
が点在していた。
和邇荘、木戸荘、比良荘は延暦寺寺領でもあった。しかし、応仁の乱以後、
六角氏が湖西への進出を図り始める。
滋賀郡でお城郭数は約1300ほど合ったらしいが、いずれも、簡単な
山城程度であり、41ページにその分布図がある。

・荘園の形成と崩壊
本町地域は、交通の要衝であり、有力貴族や自社にとっての重要な采地でも
あった。この地域の多くは、延暦寺、園城寺、日吉神社の寺領であり、小松荘、
比良荘、木戸荘、和邇荘などの荘園があった。特に、中世以降、御厨(みくりや)
が荘園運営に組織化されていったことは見逃せない。
しかし、農業の集約化、生産の多様化、生産余剰分の発生、貨幣経済の浸透等
の新しい動きが、田畑の売買や寄進を更に推し進め、荘園的土地所有やその領主
支配の崩壊を内部から起こし始めた。
これにより、「惣」「村」という新しい形の荘園組織が進み、その運営組織
として、宮座と呼ばれる執行機関が神事や祭礼を行うと供に、その役割を担っていく。
和邇荘では、天皇神社であり、木戸荘には樹下神社、比良荘では天満神社などが
行っていた。

・交通の要路である西近江路
古代からの官道の駅家がその核となり、荘園の中心集落と一体となった新しい
要路となっている。この山側には、途中、朽木を経由する花折街道もあった。
平家物語、源平盛衰記には、軍隊の動きが書いてあり、それにより、当時の
交通路の概要が掴める。
源平の戦い、足利氏の新政府のための戦いなどが繰り返れることにより、
堅田は港湾集落としての機能を高めていく。更に、14世紀以降は、本福寺
の後押しもあり、湖上の漁業権の特権も活かし、最大の勢力となって行く。

本町地域での陸路と水路の集落にも、役割が出てくる。
陸路でもあり、各荘園の中心集落としては、
南小松、大物、荒川、木戸、八屋戸、南船路、和邇中、小野があった。
これらの中でも、木戸荘は中心的な荘園であった。
水路、漁業の中心としては、
北小松、北比良、南比良、和邇の北浜、中浜、南浜があった。
和邇は、天皇神社含め多くの遺跡があり、堅田や坂本と並んで湖西における
重要な浜津であり、古代北陸道の駅家もあった。古代の駅家がその後の
中心的な集落になる事例は多くある。現在の和邇今宿が和邇宿であったことが
考えられる。

・本町地域を眺望する絵図
地域をより具体的に見ていくには、地図の存在が大きい。
中世に書かれた比良荘絵図が3点ほどある。
北小松図、北比良図、南比良図である。
こられの裏書などからその地域を領有していたものが分かる。多くは、比叡山
の山徒であった。また、これら絵図の目的の多くは、各荘との境界を明確に
するものであったようで、直接関係が少ない山の名前では、違いがある場合が
少なくない。境界争いや水利権争いでは、どの時代でも、これらの絵図を基本
として、使っているようであり、境界近くの正確性が求められていた。
境界争いでは、「小松荘と音羽、比良荘」との争いや「木戸荘と比良荘との葛川」
「和邇荘と龍華荘との境界争い」など多くあるようであり、幕府や延暦寺など
に残る古文書からもそれが覗える。
また、中世の時代以後書かれた「正徳絵図、寛文絵図」でも、現在使われている
地名とは違う点も多くあり、地図の正確性も、書いたときの絵師にもよるのでろうが、
少しづつズレがある。正確性を高めるのは、伊能忠敬の全国的に実施した測量地図
となる。しかし、土地の正確性は増すものの、「和邇荘と龍華荘」の様な
昔あったとされる龍華寺の存在を示すのがその地域の伝聞であったり、縁起、
伝承の一般民衆に関わる世界が具体的な境界争いになる場合は、その解決は
中々に難しい。

■宗教と生活
日本には、古くから山岳を神霊、祖霊の住む世界とする観念がある。白山信仰、
などは、その代表的なものであろうか。水や稲作を支配する霊は山に籠り、
生を受けるのも、死んでいくのも、山であった。超自然的な神霊が籠る霊山
と認識された「七高山」の1つである比良山にも、比良山岳信仰が盛んであった。
北比良のダンダ坊遺跡、高島鵜川の長法寺遺跡、大物の歓喜時遺跡、栗原の
大教寺野遺跡などがある。しかし、仏教の浸透が深まるに連れて、天台宗の本山系、
真言系の当山系などのように、宗教集団を形成していった。

比良八講
「北比良村天神縁起絵巻」にも、そのときの様子が書かれている。また、「日次
紀事」にも以下の様な記述がある。
比良の八講 江州比良明神の社 古今曰く 比叡山の僧徒、法華八講を修む
この日湖上多く烈風し、故に往来の船は急時非ずんば即ち出ず

比良山岳信仰の名残は、山ろくの神社にも残っている。
北小松の樹下神社、北比良の天満神社では、菅原道真を祭神としている。
しかし、本願寺の蓮如が8代宗主になると、浄土真宗が近江では、急激な
広がりを見せる。浄土宗は、阿弥陀仏に念仏を唱えれば、誰でも極楽浄土に
いける事を説いた。蓮如は、その布教に対して、木像よりも絵像、絵像
よりも、十字名号(紺地の絹布に帰命尽十万無碍光如来の十字を書いた
もの)を重視した。
本町地域での真宗の基盤は、堅田本福寺であった。

浄土真宗が拡大した要因の一つに、2回の大飢饉がある。寛喜と寛正の大飢饉である。
12世紀以降には、鉄製農具が普及していたが、天候不順に対しては無力であった。
また、名主層の分化、作人の自立化、などが進み、集約した村落共同体の「惣村」
が結成されるようになった。
慢性的な飢饉のため、米を常食とすることは少なかったが、一日三食の習慣が定着し,
衣服も木綿が主となった。

■志賀の文化、芸術
比良の雪世界と山嵐の存在は、文学他にも、影響している。
万葉集では、
楽浪(さざなみ)の比良山嵐の海吹けば釣する海人の袖反(かえ)る見ゆ

また、西行と寂然との和歌のやりとりでも、

大原は比良の高嶺の近ければ雪ふるほどを思ひこそやれ
おもえただ都にてだに袖冴えし比良の高嶺の雪のけしきを

とある。
この雪の様を描いたのが「比良の暮雪」として近江八景で、有名である。
また、春の季節には、

ひらの山はあふみ海のちかければ浪と花との見ゆるなるべし
花さそう比良の山嵐吹きにけりこぎゆく舟の踏みゆるまで
風わたるこすえのをとはさひしくてこまつかおきにやとる月影

鎌倉時代以降は、旅を目的とした古代北陸道としての活用が高まり、
多くの歌人が名勝や情景に歌を綴った。

浄土真宗の浸透は、平安、鎌倉時代と更に進み、広範な支持を民衆に受ける。
しかも、阿弥陀如来信仰のような極楽浄土への道を説く教義では、
仏像、仏画も盛んに作られている。本町域では、
西岸寺の阿弥陀如来立像(和邇中)
上品寺の阿弥陀三尊像と地蔵菩薩立像(小野)
いずれもメリハリのきいた明確な表情をした鎌倉時代の作品である。
安養寺の本尊である阿弥陀如来立像(木戸)と銅像の阿弥陀三尊像がある。
大物薬師堂の本尊像である阿弥陀如来像がある。
徳勝寺の薬師堂に安置されている釈迦如来座像がある。(北小松)
などがある。
また、仏の世界を守護するための狛犬も多く見られる。
狛犬は、口を開いた阿行と口を閉ざしたうんぎゅうの一対からなる。
野洲の御神神社の狛犬が最古のものとされ、さらに、大津の若松神社、
栗東の大宝神社、湖北の白鬚神社のものがある。
この近くでは、
和邇中樹下神社と本殿にあり、小野道風、たかむら神社にも、一対の狛犬が
安置されている。

仏画と経典について
絵画は、材質面での脆弱性もあり、仏像類ほど多く残っていない。
ここでの最古の仏画は、上品寺の仏涅槃図である。
大幅な画面に、沙羅双樹の木立の下、床台に横たわり、入滅を迎える釈迦と
その周囲に集まって悲嘆にくれる多くの菩薩や動物を描いている。
木戸の安養寺には、阿弥陀如来来迎図がある。阿弥陀如来図には、
聖衆来迎図と阿弥陀、観音などの三尊を描いたものがある。
北小松樹下神社には、釈迦十六善神像がある。この図には、宝珠と玄しょう
法師が描かれている。
また、古経典では、小野道風神社の大般若経がある。北小松の樹下神社には、
大般若経と五部大乗経がある。

石造り品と神殿について
滋賀県は、石造物の豊富な地域である。特に、中世の石塔が多数遺存する。
反面、関東などに広く分布する庚申塔、道祖神などの近世の民間信仰
石仏は少ない。本町域の場合も、同様の傾向を示している。
町内には、宝塔、宝きょ印塔、石仏が多く見られる。
宝塔は、天皇神社、北小松樹下神社、小野たかむら神社、北小松天満神社、
栗原の水分(みくまり)神社にも遺存する。
また、宝きょ印塔は樹下神社にある。これは「宝きょ印陀羅尼経」を塔内に
納置するために名づけられたもの。
石仏としては木戸の大行事社の毘沙門天像がある。
神殿は、切妻造り本殿があるが、小野道風、小野たかむら、天皇神社の
三本殿に見られる。全国的には、珍しい造りでもある。
  

小野神社他メモ
1.小野神社について
祭神:天足彦国押人命(あまたらしひこくにおしひと) ・米餅搗大使主命(たかねつき
おおおみ) ・小野妹子命
旧道に接した上品寺の塀角に小野神社の石碑が建っている。その横は小野篁神社へ向う
幅広い参道である。
しかし、ここで言う「たかね」は鉄のことも指しており、この辺一体が、鉄を生産
していたことに還元があるのかもしれない。   

参道右脇に生育するムクロジは、胸高周囲4・19mもの大樹で県下最大である。樹勢
もあり、秋には多くの実をつける。参道左脇にある川溝には、山から染み出した
清らかで、指がきれそうな冷たい水が流れ、昔から生活用水として使われている。
鳥居をくぐりさらにすすむと、途中、左側に小野神社へ向う細い参道があらわれる。右
側には石塔が建つ。
鳥居をくぐると本殿が正面に見える。狛犬と燈籠が建つのみである。横には小野篁神社
の本殿が建つ。



小野神社は、古代氏族である小野一族の始祖を祀り、飛鳥時代の創建と伝わる。
小野妹子・篁(たかむら 歌人)・道風(書家)・などを生んだ古代の名族小野氏の氏
神である。推古天皇の代に小野妹子が先祖を祀って創建したと伝える。
境内に小野篁神社(本殿:重文)がある。また近くの飛地境内に道風神社(本殿:重文
)がある。道風は、書道家として、当時は著名3人の1人に数えられた。埼玉の春日井
も関係がある。
平安時代には、小野氏同族の氏神として春秋に祭祀が行われており、平安京内に住む小
野氏や一族がこの神社に参向していた。
境内から石段で高くなった本殿前の空いたスペースに、この神社の祭神・米餅搗大使主
命にちなんで、お餅が飾られている。
毎年10月20日には、全国から餅や菓子の製造業者が自慢の製品を持って神社に集まり
「ひとぎ祭」が行われる。米餅搗大使主命は応神天皇の頃、わが国で最初に餅をついた
餅造りの始祖といわれ、現在ではお菓子の神様として信仰を集めている。
参道入口に「餅祖神 小野神社」と刻まれた道標がある。
これにちなんだ祭りが行われる。
   
中門・幣殿
本殿
神明造 間口一間二尺 奥行一間一尺
本殿の南側に、コジイトツクバネガシを交えた林がみられる。本殿の裏には県下でも珍
しいタマミズキの大樹が生育する。
八幡神社 松尾神社
石造宝塔 参道の上り口に建つ(大津市指定文化財)。小野篁が般若経を埋納した所
とも、小野小町が調度を埋納した所とも伝える。銘文には「康永22年・・」とある。(
1363)
    
しどき祭
11月2日 7代目米餅揚大使主命(たがねつきおおみかみのみこと)は餅つくりの始祖
とされ、毎年秋に全国の菓子製造業者が集まり、餅を形作った御輿を巡幸する。
境内の神田で穫れた新穀の餅米を前日から水に浸して、生のまま木臼で搗き固める。
それを藁のツトに包み入れる。納豆のように包まれたこれを「しとぎ」と呼んでいる。
そして他の神饌とともに神前に供える。
祭典が終わると、注連縄を張り渡した青竹を捧げ持ち、小野地区(神座)を北、中、南
の順で廻り、各地点で「しとぎ」を吊り下げて礼拝し、五穀豊穣・天下泰平を祈念する
。 

由緒
明細書では創立年代不詳であるが、社記によると当社は延喜式名神大社で、御祭神天足
彦国押人命は孝昭天皇の第一皇子で、近江国造の祖である。
また米餅搗大使主命はその七世の孫でもとの名を日布礼大使主命と呼んだ。
応神天皇の時代にはじめて餅を作ったことから日本餅造の始祖とされる。

推古天皇の時代に小野朝臣妹子がこの地に住んで氏神社として奉祀したと伝えられる。
小野神社の文献上の初見は、「続日本書紀」宝亀3年(772)で、大和国の西大寺の西塔
が震えたので占ったところ、近江国滋賀郡小野社の木を伐採して塔を構えたこと
による祟りであることがわかったとある。
鎌倉時代にも小野氏の末裔が歴代奉仕し、古来の神領を守り続けたが、建部3年(1336
)神主小野好行が南朝側に加担したため、家職を奪われ、小野氏は衰退し、神領も
大半没収された。延元2年(1337)近江国守護佐々木高頼が新たに摂社を設けて
篁・道風を祀ることにした。
境内社の小野篁神社は平安初期の漢学者で詩人、歌人としても名の高かった小野篁を祀
った神社で社殿は暦応三年に佐々木六角により建立されたと伝えられる、三間社流造
で重文である。また飛地境内社の小野道風神社は小野道風を祀り、社殿は同じく三間社
流造であり興国二年鎮座と伝えられる。
小野?(たかむら)神社も小野神社の摂社で、祭神は平安時代に官僚・学者・歌人とし
て活躍した小野?。
社殿は、暦応4年(1341頃の造立で、三間社流造・切妻造平入、桧皮葺である。


2.小野妹子と小野一族
5世紀代になって朝鮮半島から多くの移住民が西日本の各地に移住してきたが、
大半は一般の庶民であった。6世紀後半になるとその当時の東アジア世界でも
最先端の知識人が志賀津に移住してきた。その人々を一括して「志賀の漢人」という。
漢人は中国系の人という意味であるが、百済の聖明王から倭国の欽明天皇に提供された
移住民で、国家と国家との間で行われた移住である。
百済王は、倭王の要請にこたえて国家の形成を指導する人材を派遣した。数年間滞在し
た後に帰国する学術・技術の専門家や「漢人」のように倭国に定住した人々である。

近江は天皇(大王)家の成立と深く関わっている。
後に「継体天皇」とよばれる人物がこの近江から誕生する。継体天皇崩御後の混乱
を欽明天皇が収拾したが、欽明の末子の代に至り、崇峻天皇が暗殺される(592)
という大事件が起こった。その後を受けて即位した推古天皇の摂政となった
聖徳太子は、天皇を中心とする中央集権国家建設の必要性を痛感し、範を大陸に
求め隋の統治技術と文物を導入すべく図った。

「日出づるの処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」の国書を携えて
入隋したのが小野妹子であり、607年であった。
翌年、隋の答礼使・裴世清(はいせいせい)とともに帰国した。聖徳太子は同年、
再び妹子を隋に派遣した。その後帰国して大徳冠(第一階)に昇進した。
これは遣使・妹子が高く評価された証といえる。
官位十二階の制定は、この遣隋使による文物導入の成果の一つであった。
妹子を出した小野氏は、本拠地の小野が和邇と接することもあって、大和の豪族・和邇
氏の一族かとも推測される。「新撰姓氏録」には妹子が「近江滋賀郡小野村」に
住したため小野臣を称したとある。しかし、「延喜式」神名帳の滋賀郡八座に、
日吉社(ひえ)と並んで小野神社も名神大社とされており、「続日本後紀」
承和元年(834)の条には、小野社春秋の祭礼に、五位以上の小野氏は官府を持たず
に往還することを許されている。これらの点から、小野氏は和邇氏といちおう別個に
小野を本貫(ほんがん 本拠地)とする土豪とみるのが有力な説とされる。
 
奈良時代から平安時代にかけて、小野妹子・毛人・毛野の子孫の中から、歴史に名
を残すような人物が排出し、特徴ある4つの分野ですなわち第一に対外交渉、第二
に太宰府の政治、第三に東北地方支配、第四に学術・芸術の分野で活躍している。
①第一分野
・小野馬養(うまかい) 年号の由来となった慶雲の発見者、平城京造営
官司の次官、718年遣新羅大使
・小野田守(たもり ) 太宰府の官人として長い。753年に遣新羅大使、
758年遣渤海大使
小野石根(いわね ) 776年遣唐副使 帰路難破で死去
小野滋野(しげの ) 遣唐使
②第二分野
小野老 (おゆ  ) 神亀年間(724~729)にはすでに太宰府に赴任。
遣唐使の南島路を整備。万葉歌人としても知られる。
小野岑守(みねもり) 陸奥国守、学者・詩人、太宰府 管内九国に国家の
公営田を立案・建議した。
小野恒柯(つねえ)  名筆家 844年から太宰府 円仁の「入唐求法巡礼行記」
にある「小野少弐」は恒柯、「小野宰相」は小野?である。        
小野好古(よしふる) 藤原純友の乱の際、「追捕山陽南海凶賊使」に任命され純友の
軍を破った。大宰大弐として太宰府勤務
③第三分野
東北地方支配に貢献した人が多い。都から派遣され武将として征服した人、
陸奥国・出羽国の国司となった人が多い。
小野牛養・竹良・永見(以上は奈良時代)岑守・石雄・?・興道・春枝・春風・滝雄・
宗成・千株・恒柯・春泉(以上は平安時代)
④第四分野
学者・詩人としては、小野永見・岑守・?らが有名。特に岑守は嵯峨天皇の信任厚く、
「凌雲集」や最古の宮中儀式書「内裏式」の編纂者である。最澄も「外護(げご)
の檀越(だんおつ)」27人の一人に岑守を揚げている。
小野美材(よしき)は文華抜群とされる。
名筆家として、小野?・恒柯・道風・美材が著名。歌人には小野小町・美材・好古らが
いる。
小野小町は、仁明・文徳朝(833~858)ころ活躍した王朝女流歌人の先駆者で、六歌仙
・三十六歌仙の一人。
「花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに」
は百人一首に選ばれている。
すでに平安時代から、絶世の美女小町の老衰零落伝説があり、謡曲の「七小町」が小町
の虚像を確立した。
しかし経歴は未詳で、小野?の孫で美材・道風の従妹とする説や、出羽国出羽郡の郡司
小野良真の娘とする説、仁明天皇の更衣小野吉子に比定する説などがある。

■小野神社とその祭神
官撰のひとつ「続日本後記」(承和元年834)によると小野氏の氏神の社は近江国
の滋賀郡に在り。「勅すらく、彼の氏の五位巳上は、春・秋の祭り至らむ毎に、
官符を待たずして、永く以って行き還(かえ)ることを聴す(ゆるす)」。とあり、
また同4年(837)の条には「 勅すらく、大春日・布瑠(ふる)・栗田の三氏
の五位巳上は、小野氏の准い(なずらい)、春・秋二祠のときに官符をまたずして、
近江国の滋賀郡にある氏神の社に向く(おもむく)ことを聴す」とある。
当時の皇族や上流貴族は、「畿内」と「畿外」との境、この場合は逢坂山
を越える時は、事前に天皇に奏請し、許可を伝える太政官符を携行する必要があった。
上の二度にわたる勅は、小野氏やその同族に対する適用除外の特例措置である。

上記の勅は、古い和邇氏同族が、当地の小野神社を氏神の社とし、祭礼を行って
きたことを示す。「布瑠」は奈良県天理市石上神宮付近の豪族で、和邇や柿本
の一族と祖先を同じくしていた。「大春日」は「春日」、もっと古くは「和邇」
である。「古事記」孝昭天皇段の和邇氏同族の中心グループで、もとから奈良
盆地東北地域を本拠地とした和邇臣(春日臣)・大宅臣・檪井臣(壱比韋臣)
や、京都に起こり奈良盆地東北地域に拠点を持った粟田臣・小野臣など、
これらのすべてが小野で氏神を祀っていた。

その理由として
第一に、古い和邇氏同族が、8世紀の初め以来、小野氏同族となったことによる。
遣隋使小野妹子の「大徳冠」という政治的遺産が小野氏繁栄の端緒で、それを
継受する孫の毛野の時代に、小野氏の勢いは頂点に達した。
毛野は、父毛人の遺業を顕彰し、それとともに、祖父妹子が誕生し、その墓
(唐臼山古墳)もある小野を、小野氏同族(旧和邇氏同族)全体がよって
立つ聖地とした。

第二に、小野神社の本来の祭神であるタガネツキ大使主命(おおおみのみこと)
は、「新撰姓氏録」という8世紀末から9世紀初めに編纂された書物に
「米餅搗(春)」と「鏨着」とふたとおりの文字であらわされている。
「米餅搗大使主」の場合は、神事用の「粢(しとぎ 水に浸した米を搗いで粉にし、こ
ね固めた餅)」または丸餅をつくって天皇に仕えた人餅搗の神で、現在の
小野神社の「しとぎ祭」や信仰はこの用字から成立した。
「鏨着」の場合、タガネは金属や石を割ったり彫ったりする道具である。
「鏨着タガネツキ」の用字が「鏨衝 たがねつき」に通じるとすれば、神名は
タガネで鉄を断ち切る人の意味になる。ただ、遅くとも平安時代の初めには
餅搗の神と思われていたとされる。
タガネツキはもともと鍛冶の神で、和邇部一族の神格化された始祖であって、
おそらくは和邇大塚山古墳の被葬者のことであろう。
なお和邇部の首長の娘は古くから宮中に出仕していた。弘仁4年(813)10月28日
付で中央政府が伝えた天皇の命令には
「 ?女(さるめ)の養田は近江の和邇村、山城国の小野郷にあり。
今、小野臣・和邇部臣等は既に其の氏に非ずして、?女を供らる。(中略)
両氏の?女は永く停廃に従い、?女公氏の女一人を定めて縫殿寮に進め、
闕(か)くるに随い即ち補え。以って恒例とせよ」とある。
「類聚三代格」8世紀初め以後は、「古事記」「日本書紀」のアメノウズメノ
ミコトの神話を根拠にして、伊勢の?女公(君)から宮廷の?女を出すのが
正式なのである。
ところがその伊勢出身の女官の収入として届けるべき水田が和邇と京都の
小野(京都市左京区上高野付近)とにあって、和邇部臣・小野臣がその経営
を管理して、かつ?女を出していた。これは、もともと和邇部氏と小野氏とが
宮廷に巫女を出していたことをうかがわせる。

なお、小野の神には、836年従五位下の神階が授けられた。その後も昇進し、
862年に正五位上から従四位下になっている。
「延喜式」臨時祭式や神名帳では名神大社に列している式内社である。
式内社は10世紀前半ごろ選ばれて国家的に認定され、神祇官の官社帳に
搭載されていた各地の崇敬著しい神社である。
其の中でも特に霊験あらたかで有名、かつ社格も高いものが名神大社である。
湖西では日吉大社、北の水尾大社(高島市)、が小野大社と同格の名神大社である。

粢は餅だけでなく、菓子の始めともされており、小野神社は、古くは餅や菓子の商人の
位である「匠」・「司」などの免許を授与していたという。今でも古い菓子屋さんの看
板に、「○○菓子司」とあるのは、その名残である。


3.小野篁神社
小野神社の境内社として小野神社本殿の前に位置しす。建築年代を示す史料
はなくて、様式の切妻造平入(国の重要文化財)から小野道風神社本殿と同じ南北
朝時代前期の歴応年間(1338~1342)の建築と考えられています。
祭神:小野篁(おののたかむら)
小野篁は、平安時代初期の公卿で漢詩文「令義解(りょうのぎげ」の撰修に参画
した漢詩人で、学者・歌人としても知られています。  
・小町供養塔(小野小町)
 小野篁の孫にあたる平安時代前期の女流歌人六歌仙・三十六歌仙の一人である小野小
 町の供養塔もあります。  
 
4.小野道風神社  
小野神社飛地境内社の小野道風神社本殿は、小野篁神社や天皇神社と同じ、切妻造平
入(国の重要文化財)で南北朝時代・歴応四年(1341)に建てられ、小野篁神社より規模は
少し小さいですが、重量感があふれています。
祭神:小野道風(おののとうふう)
小野道風は、平安時代中期の書家で小野篁の孫。醍醐、朱雀、村上三朝に歴任。柳に
飛付く蛙の姿を見て発奮努力して、文筆の極地に達せられ、藤原佐理、藤原行成と共に
日本三大文筆、三跡の一人として文筆の神として崇められています。  
 
小野道風神社からは、参道入口の正面に見える住宅街の中に残された唐臼山古墳がある
。 
 
5.小野妹子神社  
小野妹子の墓といわれている唐臼山古墳の上に祀られています。
祭神:大徳冠位小野妹子
推古天皇の時代、遣隋使として中国隋に聖徳太子より国書を託された小野妹子は大国
隋へ対等の外交交渉を拓り開き日本の力を示されました。現在も神社へは外交官、駐在
員の参拝者があり、華道の創始者でもあります。華道関係の訪問者も多い様である。
社殿裏の石垣の跡は、古墳の巨大な箱型石棺状の石室が露出したものです。  

この周辺には、私有地で普段は、見られない古墳がある。かなり保存状態が良く、中は
、
高さ3m、奥行き4mほどの長方形である。天井は、ほぼ1枚の岩石で覆われている。
 
  
■「今昔物語」の中に、琵琶湖の鯉と大海から上がってきたワニが戦ったという話があ
る。戦場は近江の国、志賀郡の古市の郷(現在の滋賀県大津市膳所石山付近)の瀬田川の
河口付近で、心見の瀬と呼ばれている急流である。最初はワニが優勢に攻めていたが、
最後には鯉が勝ち、ワニは山城国まで逃げて石になってしまい、鯉はその後もずっと竹
生島に棲んでいるという。近江の古代豪族であった和邇氏と山城の小野氏との勢力争い
を示している説話だとされるが、小野氏は和邇氏と同族であり、勢力争いというのはシ
ックリ来ない。瀬田川は忍熊王が入水自殺した場所で、忍熊王と後の応神天皇を奉じる
神功皇后の争いを示す説話かもしれない。また、大昔、琵琶湖が海に続いていたことを
示す民話でもあるのではないかとの説もある。サメが石になるという話は各地に残され
ていて、風土記の淀姫などがその例。

6.榎の宿(榎 顕彰碑)  
JR湖西線の和邇駅から南へ西近江路を歩いて行くと十字路の真ん中に石垣の上に注
連縄が巻かれ「榎」と彫られた大きな石があります。この場所は、古代北陸道・和邇の
宿駅として平安朝以降、湖西の交通の要拠でした。
江戸時代、徳川幕府は全国の街道に一里塚を設けるように指示し、ここの一里塚にも
榎の木を植えられ、「榎の宿」と呼ばれ、また近くの「天皇神社」ご神木として噂宗さ
れていましたが、樹齢360年余で朽ち、昭和43年に神木榎と榎の宿を偲ぶ有志によ
り「榎の顕彰碑」として建立されたとのことです。  
 
7.天皇神社  
社伝によれば、創建は康保3年(966)と伝えられ、元は天台宗寺院鎮守社として京都
八坂の祇園牛頭天王を奉還して和邇牛頭天王社と呼ばれていましたが、明治9年(1876)
に天皇神社と改称されました。
祭神は、素盞嗚尊(スサノオノミコト)。
現在の本殿は、隅柱や歴代記等から鎌倉時代の正中元年(1324)に建立されと考えら
れており、本殿は流造の多い中、全国的にも稀な三間社切妻造平入の鎌倉時代の作風を
伝える外観の整った建物で、滋賀県内では隣接の小野篁神社本殿、小野道風神社本殿の
3棟にすぎません。  

なお、デスクトップには、2つの関連PDFがある。
「志賀漢人と大津」「志賀の遺構」

補完
猿田彦と和邇氏

右欄の記事でも分かるようのに、猿田彦と和邇氏との縁は深い。 船(和邇)を操る技
術に優れた海神族である和邇氏の祖先が、 猿田彦であることは間違いないところだろ
う。
猿田彦は、伊勢の松坂の海で漁をしている時に、比良夫(ひらぶ)貝に手を挟まれてお
ぼれ死んだというが、 この比良夫貝の意味は、猿田彦が琵琶湖西岸の比良の地で死ん
だと言う意味ではないのか。
猿田彦は、出雲系であるから、出雲の国譲りの話とも関係がある。
因幡の白兎の話

和邇とは船のこと

稻羽之素菟(いなばのしろうさぎ)が、淤岐島(おきのしま)から稻羽(いなば)に渡
ろうとして、 和邇(ワニ)を並べてその背を渡ったが、和邇に毛皮を剥ぎ取られて泣
いていたところを大穴牟遲神(大国主神)に助けられる、 というのが因幡の白兎の話
のあらすじである。
ここで、和邇(ワニ)の解釈が問題であり、「サメ」「海ヘビ」「鰐」など色々な解釈
があるが、 和邇とは船のことを意味すると解釈するのが妥当ではないだろうか。
例えば、滋賀県大津市、JR蓬莱駅近くの天川から以北、高島市鵜川近辺までの比良山麗
一帯を指す古い呼称で比良と言う地域がある。
比良は、古代海族とされる比良一族の居住地としてひらかれ、平安時代に隆盛となり、
比良三千坊と称する寺院群があったという。
古来、比良の湊がおかれ、北陸地方との交易を中心に水運にも従事。中世には比良八庄
とよばれ、小松荘と木戸荘がその中心であったという。
そのJR蓬莱駅の南にJR和邇駅があり、1651年の丸船(丸小船)改帳によれば、 和邇3
8艘、木戸25艘、南比良23艘、南小松14艘、北小松33艘を有すと言う記録があり、 明治
11年の調査では、和邇南浜でイサザ・エビ・ハス・アユ、北比良でヒウオ、北小松でシ
ジミなどの漁獲があったと言う。
となると、和邇と言う地名は、丸船(丸小船)が多い場所と言う意味に由来していると
思われる。 つまり、和邇とは船のことを意味すると解釈するのが妥当ではないだろう
か。
または、和邇と言う地名から、古代海族とされる比良一族は、和邇一族と呼ばれていた
のかも知れない。
因幡の白兎だって、爬虫類の鰐の背中を渡って行くよりも並べた船を渡って行く方が現
実味があると言うものだ。
和邇と言う地名の場所の南には、小野妹子を輩出した小野と言う地名の場所がある。
ここにある小野神社は、古来当地の産土神米餅搗(タガネツキ)大使主命を祭り、 菓
子の神様として崇められ、現在でも全国の菓子製造組合から参拝者が多いそうだ。
一説にはタガネツキは、鏨とも見られ製鉄関係の鍛治師(和邇一族)との、関連も考え
られる。 特にこの地が、和邇一族の支配していた地域であり、比良山麓には製鉄遺跡
も、数多く出土しているそうだ。
和邇川を渡り、少しさか上った処に、皇神社があ天る。 この神社は、かって牛頭天王
社と呼ばれており、八坂神社同様、 素戔鳴尊=牛頭天王を祭っており、最勝寺の鎮守
社として、祀られたと言う。
和邇は、平安京への北の入口 和邇堺として重要視され、四堺祭(疫病・疾疫など都城
への侵入防ぐ祭祀)等が、 都から勅使・陰明師等が来てなされた。天皇神社は、これ
と同じ鬼門鎮守の役割を果たしていたのだろう。
素戔鳴尊=牛頭天王と言えば出雲を代表する神様(支配者)ではないか。 ならば、和
邇族=素戔鳴尊=牛頭天王と言う関係でではないのか。
和邇は海上ルート、白兎は陸上ルート

因幡の白兎の話は、和邇は海上ルートから日本に来た支配者で、白兎は陸上ルートから
日本に来た支配者を示しているのではないだろうか。 もちろん、和邇族=素戔鳴尊=
牛頭天王の系統は、海上ルートから日本に来た支配者である。
海上ルートから日本に来た支配者(和邇)は、航海が得意で対馬海峡を北上し出雲の国
に上陸した。 陸上ルートから日本に来た支配者(白兎)は、航海が不得意で朝鮮半島
から対馬や壱岐など島伝いに北九州に上陸した。
出雲の国譲りの話は、海上ルートから日本に来た支配者(和邇)が、 陸上ルートから
日本に来た支配者(白兎)に負けたことを意味するのではないだろうか。
陸上ルートから日本に来た支配者(白兎)の後裔である神功皇后が、 やたらに朝鮮半
島(新羅)のことを懐かしがったり、新羅を攻めようとしたのは、 白兎一族(神功皇
后)の先祖が朝鮮半島(新羅)にいたからではないだろうか。
大国主神とは、どんな神様か

大国主神は、プレーボーイだった

大国主神を祀る出雲大社は、日本一の縁結びの神様でもある。 その理由は、大国主神
は、日本一のプレーボーイだったからである。
大国主神は、素戔鳴尊の娘婿であった。素戔鳴尊には須勢理毘売(スセリビメ)と言う末
娘がおり、 どうも大国主神にゾッコンだったらしいのだ。
大国主神の素性は、はっきりしていないが、外国人風のカッコイイ男だったようで、 
須勢理毘売(スセリビメ)が大国主神に一目惚れしたのも無理はない。
例によって、須勢理毘売の父親である素戔鳴尊の色々な嫌がらせがあり、 大国主神も
苦労したようだが、眠っている素戔鳴尊の髪を部屋の柱に縛りつけ、 生大刀と生弓矢
と天詔琴を持って須勢理毘売を背負って逃げ出したと言うから、 かなり強引な結婚だ
ったようだ。
どこの馬の骨かも知れない大国主神にとって、須勢理毘売を得ることが政略結婚であり
権力への最短の道だと言うことを知っていたのだろう。
大国主神の子供の数は、古事記では180人で、日本書紀では181人であるから、 大国主
神は稀代のモテ男だった訳だ。
大国主神と大黒様

七福神は、インドのヒンドゥー教、中国の仏教、道教、日本の土着信仰が入り混じって
形成された神仏習合からなる日本的な信仰対象である。
大黒天は、元々はヒンドゥー教のシヴァの憤怒の化身であるらしい。 本来はマハーカ
ーラといい、マハーは「偉大な」をカーラは「時」もしくは「暗黒」を意味するため「
大暗黒天」とも呼ばれ、 青黒い身体に憤怒の表情をした神であった。
大黒天は、後に仏教や密教に取り入れられ、 日本においては仏教の伝来と共に日本古
来の神である「大国主」と習合され、独自の神となったらしい。
大国主神と恵比寿様

大国主神の家来に少彦名神よ呼ばれるか一寸法師の元型とされる小人神がいる。 恵比
寿様を祀る神社は、東日本には少彦名神系が多いとされている。
大国主神の子供に託宣を司る神である事代主神がいて、天照大神のお使いが来て日本の
国土を天照大神に譲るよう言われた時、 交渉に当たった神の一人としても有名である
。 恵比寿様を祀る神社は、西日本には事代主神系が多いとされている。
いずれにしても、恵比寿は大国主神の家来か子供らしい。
大国主神と八幡信仰

八幡信仰と宇佐八幡宮

八幡信仰のルーツは、宇佐八幡宮だ。八幡は、本来は「ヤハタ」と読んで、幡(秦氏)
が多いと言う意味だろうから、 宇佐八幡宮のあたりは、秦氏が多い地帯だったと想像
される。
つまり、「八幡様=秦氏の氏神」と言う解釈が妥当だろう。 秦氏の氏神と言えば、武
内宿禰が最適だろうから、「八幡様=武内宿禰」と言うことができる。
応神天皇は、武内宿禰と神功皇后との間の子供と考えられるから、 宇佐八幡宮は、天
皇家の氏神とも考えられるようになった。
武内宿禰を氏神様とする秦氏は、エンジニア集団であったから、イオンのバカ息子の岡
田のように、 政治の前面に出るような愚は犯さず、八幡神社と言うチェーン店を増や
すことに徹した。 なにせ、八幡神社は天皇家の氏神扱いだから権威がある訳である。
イオンのように、バカ息子の岡田がチョロチョロして人様の反感を買うようなこともな
く、 天皇家公認の八幡神社は日本全国で愛される存在になって行った訳だ。
ちなみに、宇佐八幡宮の地は、畿内の大和政権の西端の拠点であったと思われる。 大
和政権は、ここに新羅からの外来人を集め、その技術力を活用して北九州の政権(邪馬
台国?)に対抗した筈だ。
神功皇后と武内宿禰のコンビは、大和政権から派遣された遠征軍であり、 北九州の政
権(邪馬台国?)を破った勢いで、新羅を攻めて英雄であった。
しかし、敵を破った英雄は、源義経と同様に味方の妬みに会い、ヒドい目に合うのが常
である。 味方に追われた神功皇后と武内宿禰のコンビは、鹿児島の鹿児島神宮(霧島
市)あたりに逃げた。 そして、鹿児島神宮(霧島市)から反撃(東征)の狼煙を上げ
ることになる。
大国主神と八幡信仰

兎を助けた大国主神は、白兎族(神功皇后)の先祖と考えられる。 一方、武内宿禰は
、和邇族出身であろうから、神功皇后と武内宿禰の結婚は、 白兎族と和邇族の融合(
仲直り)とも言える。
融合(仲直り)の条件は、白兎族が政治(天皇)を担当し、和邇族が経済(八幡神社チ
ェーン店の経営)を担当すると言うものであったろう。 そして、和邇族は天皇の后を
提供し続けることで、白兎族と和邇族の永遠の融合を狙ったものと考えられる。
バカ息子の岡田がチョロチョロして人様の反感を買うイオンとは違って、 八幡神社チ
ェーン店の経営者(秦氏、和邇族など)は、頭がよかった訳だ。
一般の人々は、神功皇后と武内宿禰の結婚を祝って、仲のよい道祖神を作ったのだろう
。 神功皇后と武内宿禰の結婚は、政略結婚ではなく、今で言う自由恋愛に近いもので
はなかったのか。 そのため、なおさら一般の人々に愛され続けているのだろう。
政略結婚と言えば、神功皇后と仲哀天皇の結婚は政略結婚だったのだろう。 しかし、
神功皇后は仲哀天皇の結婚が嫌で、仲哀天皇が死んだ時に、その前で 武内宿禰とHをし
たと言うAVみたいな話は、自由恋愛の証として当時の一般の人々に愛された筈だ。
好きな皇后とHをするなんて願望は、昔、「皇后陛下と何とかで・・・」と飲み会の歌
にもあったが、 武内宿禰も大国主神なみのプレーボーイだった訳で、「武内宿禰=大
国主神」と言う仮説も成り立ちそうだ。
武内宿禰は300歳(実際は75歳)まで長生きしたと言われるが、「プレーボーイ=長生
き」であったのだろう。 確かに大国主神のように180人もの子供ができれば、ボケるこ
ともなくホルモンの分泌も旺盛で病気もせず、 最後まで健康で青春を全うできたのだ
ろう。
まさに、神功皇后と武内宿禰は日本人の理想であった。 楽天的な日本人と単細胞な西
洋人との違いは、この辺にありそうである。
 
堅田他のメモ
小野周辺古墳
http://katata.cocolog-nifty.com/blog/2013/09/post-44d8.html
http://katata.cocolog-nifty.com/blog/2013/09/post-8b46.html
幻住庵
http://katata.cocolog-nifty.com/blog/2013/04/post-0b62.html
高島安曇川
http://katata.cocolog-nifty.com/blog/2013/11/post-7419.html

松尾芭蕉
http://katata.cocolog-nifty.com/blog/2013/04/89-2469.html
芭蕉が初めて大津を訪れたのは1685年の春、『野ざらし紀行』の旅の途中でした。
『山路来て何やらゆかし菫草』『唐崎の松は花より朧にて』の二句を詠んだのもこの時
でした。
大津の美しい景観が気に入った芭蕉は木曽塚の草庵(現・義仲寺)に仮住まいし、
その後「奥の細道」の旅に出ました、旅を終え、旅の疲れを癒すため、芭蕉は
再度大津を訪れ、大津市国分にある幻住庵で4ヶ月程過ごしました。
幻住庵からの眺望と山中での生活が気に入り、ここでの体験をもとに書いたのが有名な
「幻住庵記」で、「奥の細道」と並ぶ傑作と言われています。
以後も大津を第二の故郷のように愛した芭蕉は、
「鎖(じょう)明けて月さしいれよ浮御堂(堅田)」
「やすやすと出でていざよう月の雲(堅田)」
「病雁の夜寒(よさむ)に落ちて旅寝かな(堅田本福寺)」
「海士(あま)の屋は小海老にまじるいとどかな(堅田漁港)」
「朝茶飲む僧静かなり菊の花(堅田祥瑞寺)
「比良三上雪さしわたせ鷺(さぎ)の橋(本堅田浮御堂)」
「海晴れて比叡(ひえ)降り残す五月かな(新唐崎公園)」
「唐崎の松は花より朧にて(唐崎神社)」
「行く春や近江の人とおしみける」
「大津絵の筆のはじめは何佛」
「石山の石にたばしるあられかな」
「古池や蛙飛び込む水の音」など、大津で多くの句を
詠み、その数は芭蕉の全発句の約一割にあたる89句にものぼります。

志賀町史第4巻より
①北小松古墳群
写真では石室などはしっかりとしている。
②南船路古墳群
③天皇神社古墳群
④石神古墳群
小野神社と道風神社の中間、形は残っていない
⑤石釜古墳群
和邇川沿いの井の尻橋付近
⑥ヨウ古墳群
ゴルフ場と和邇川の中間
⑦前間田古墳群
⑥の隣り
⑧曼陀羅山北古墳群
小野朝日の西側
⑨大塚山北古墳群
⑧の北側
⑩ゼニワラ古墳
⑨の北側。玄室の写真あり
⑪唐臼山古墳
小野妹子公園の中

①ダンダ坊遺跡
北比良タンタ山中。比良管理事務所付近


小野神社と古墳紹介
白洲正子「近江山河抄」より
国道沿いの道風神社の手前を左に入ると、そのとっつきの山懐の丘の上に、
大きな古墳群が見出される。妹子の墓と呼ばれる唐臼山古墳は、この丘の
尾根つづきにあり、老松の根元に石室が露出し、大きな石がるいるいと
重なっているのは、みるからに凄まじい風景である。が、そこからの眺めは
すばらしく、真野の入り江を眼下にのぞみ、その向こうには三上山から
湖東の連山、湖水に浮かぶ沖つ島もみえ、目近に比叡山がそびえる景色は、
思わず嘆息を発していしまう。その一番奥にあるのが、大塚山古墳で、
いずれなにがしの命の奥津城に違いないが、背後には、比良山がのしかかるように
迫り、無言のうちに彼らが経てきた歴史を語っている。

大津の神社
http://achikochitazusaete.web.fc2.com/chinju/otsu2/otsu.html


大津市古墳群紹介
http://mj-ktmr2.digi2.jp/p25om/pom25201kokubu.htm
百穴古墳群はその数に圧倒される。
滋賀県大津市滋賀里。何とも鄙びた郷愁を感じる町名ではありませんか。考古学や古代
史、それに民族学に興味のある方には意外と知られている地名で、実は滋賀里周辺は遺
跡や古墳の宝庫なのです。特に崇福寺跡や倭姫塚、南滋賀廃寺や穴太廃寺、高穴穂宮跡
など名前がある遺跡だけではなく、無名の大小様々な古墳や遺跡が出土しており、ヤマ
ト朝廷が大和を拠点とする以前から、数々の渡来人が住み着いたと言われる近江国の歴
史を鑑みると、これらの遺跡群も何となく納得できますね。

京阪電車滋賀里駅正面の八幡社の左側道路を比叡山に向かって急な勾配の坂道を上り
人家が途切れた先の右側に鬱蒼とした竹林が見えますが、ここが百穴古墳群と言われる
地域です。正確な墳墓は不明ですが大凡150基の墳墓が在るとされ、現在までに60基以

が発掘されています。

墳墓や建立様式からは6世紀後半のモノとされていますので、
天智天皇の大津京より100年前ということになり、この古墳群からもこの周辺が渡来系
豪族の拠点だったとされる所以です。この直ぐ北側の滋賀里二丁目では昭和40年代前半
の宅地造成に際にやはり広大な竪穴式古墳が出土し、かなりの勢力を誇った氏族が居た
事を裏付けています。 百穴古墳群の先には地元の人が「オボトケさん」と呼ぶ石仏が
祀られ、そこを過ぎると崇福寺跡に至ります。
山道は今も残っていて比叡山を越えて京都白川に至りますので、興味のある方は是非!

大津歴史博物館
http://www.rekihaku.otsu.shiga.jp/bunka/index.html
和邇や周辺文化財の一覧が参考となる。

堅田周辺、春日山古墳群や真野郷の史跡
http://japan-geographic.tv/shiga/otsu-kasugayamakofun.html

かすがやまこふんぐん【春日山古墳群】
滋賀県大津市真野谷口町にある古墳群。琵琶湖の西岸、堅田(かたた)地区背後の滋賀丘
陵の先端部に位置し、約220基からなる湖西地方最大で古墳時代後期の古墳群。5世紀代
に始まって6世紀後半に集中的に形成され、7世紀初頭に築造が終わったが、古墳群の中
心をなす春日山古墳以外はほぼ6世紀後半の円墳である。古墳群が所在する地域は、和
珥部臣(わにべのおみ)(壬申(じんしん)の乱で大海人皇子(おおあまのおうじ)側につい
て活躍した豪族)、小野臣(おののおみ)、真野臣(まののおみ)など和邇(わに)氏につな
がる氏族の居住地で、彼らとの関連が強いと考えられる古墳群である。古墳は6群に分
けられ、これまでE支群と呼ばれてきた1群は23基の古墳からなるが、5世紀代の全長65m
の前方後円墳である春日山古墳に始まって、2基の大型円墳が築造され、2小群に分かれ
ると、6世紀後半に横穴式石室墳がこの2小群に継続して造られ、新たに1小群が誕生す
るという推移を見せる春日山古墳群における中枢群である。埋葬の形式は、横穴式石室
や箱式石棺、木棺直葬とバラエティに富んでいる。1974年(昭和49)に国の史跡に指定
された。JR湖西線堅田駅から徒歩約15分。


曼荼羅古墳
http://katata.cocolog-nifty.com/blog/2013/09/post-44d8.htm

歩きながら思ったのは、たとえば霊山やスピリチュアルなものを探して
人は遠くへ行こうとするけど、
素晴らしい場所が意外な足元にあったりする。

それを掘り起こして撮っていこうというのが、このシリーズの始まりだった。

白洲正子さんの「近江山河抄」を手がかりに歩いてみようと思ったのは、なぜだろう。
この風景を、今のうちにきちんと撮影しておきたいと思ったことが大きい。
・・・
「近江山河抄」の風景は、現に消え行く風景になっていないだろうか。
消え行くことさえ気付かれないまま、静かに消えようとしている風景があるとしたら。
この風景を撮っておきたいと思った。近江(滋賀)は、私の故郷でもある。

木の岡古墳
http://c-forest.cocolog-nifty.com/blog/2012/02/2-e0f0.html

堅田観光協会
http://katatakankokyokai.com/mano.php

大津市南部の古墳
http://obito1.web.fc2.com/ootuminami.html

参考
http://www.sunrise-pub.co.jp/%E5%85%B6%E3%81%AE%E5%9B%9B%E5%8D%81%E5%9B%9B%E3%

80%80%E6%B6%88%E3%81%88%E3%82%86%E3%81%8F%E3%83%A4%E3%83%8A/
やな漁
10月も下旬頃になると、朝夕はめっきり気温が下がって、時折、湖上を北西の強風が吹
き抜けるようになる。12月の始めにかけて、こんな荒れた日やその翌日には、体を紅色
に染めたアメノウオが、琵琶湖から産卵のために川を上ってくる。アメノウオとは、万
葉の昔からのビワマスの呼称で、この魚を捕獲するために川に仕掛けられるのが「ます
ヤナ」である。また、ビワマスとは、成長すると全長60㎝にもなる琵琶湖だけに生息す
るサケ科の魚である。
 琵琶湖のヤナというと安曇川河口に設置されるアユのカットリヤナがよく知られてい
るが、おそらく古代から近世に至るまで、川の河口や内湖の出口にはどこでも、サイズ
や構造が異なるさまざまなヤナが仕掛けられ、湖と川や内湖の間を移動する魚類が漁獲
されていたものと思われる。ヤナという漁具は、魚が獲れるかどうかは魚まかせのとこ
ろがあるが、ヤナを設置する権利を得ると、待っているだけで魚が手に入るという便利
なものである。そのために、ヤナの漁業権を得ることは、その地域のかなりの実力者で
その時代の権力者と結びつきをもった者でないとかなわなかったものと考えられる。写
真は、安曇川の南流に北船木漁業協同組合によって今も設置されている「ますヤナ」で
ある。北船木漁業協同組合では、毎年10月1日に、京都の上賀茂神社へビワマスが現在
でも献上されており、古代の結びつきの名残がうかがわれる。
 ところで、安曇川の「ますヤナ」が「今も設置されている」と断ったのは、かつて琵
琶湖では各所で見られたこのヤナが、どんどん消えているからである。小さな川のヤナ
はほとんど消えたし、大きい川でも私が知っているだけでもこの20年ほどの間に犬上川
、愛知川、知内川、百瀬川などのアユやマスのヤナが消えている。
 時代の流れとは言え、ヤナに限らず恐らく数千年の歴史をもち、その権利を得るため
にどれほどの犠牲や労力が払われたか知れないヤナなどの漁業権やそれを行使する漁労
文化・技術がなくなってきていることは寂しい限りである。アメノウオを獲るための「
ますヤナ」も、もう写真の安曇川の南流のものしか残っていない。魚の減少にともなっ
て、生業としてのヤナ漁が成り立たなくなってきているのである。琵琶湖の在来種を増
やし、漁業としてのヤナ漁が存続するようにすることが必要である。
滋賀県水産試験場 場長 藤岡康弘

日吉大社と宇佐山
http://uminohakata.at.webry.info/201409/article_1.html

訪問の城跡は、
北比良、小松、衣川、壷坂山、坂本、細川、生津、宇佐山の8つがある。
他には、大津、膳所なども近くにあるが、浜大津から東であり、対象外。

滋賀の城跡
http://www.oumi-castle.net/bunrui/ootu.html

日本城郭大系という本がある。

滋賀の城郭
http://maro32.com/%E6%BB%8B%E8%B3%80%E7%9C%8C%E3%81%AE%E5%9F%8E/

志賀町史第4巻からは、
1)小松城跡
戦国期の土豪である伊藤氏の館城、平地の城館跡である。現在の北小松集落の中
に位置し、「民部屋敷」「吉兵衛屋敷」「斎兵衛屋敷」と呼ばれる伝承地が残る。
当該地は町内でも最北端の集落で、湖岸にほど近く、かっては水路が集落内をめぐり
この城館も直接水運を利用したであろうし、その水路が防御的な役割を演じて
いたであろう。
旧小松郵便局の前の道は堀を埋めたもので、その向かいの「吉兵衛屋敷」の道沿い
には、土塁の上に欅が6,7本あったと言う。また、民部屋敷にも、前栽の一部に
なっている土塁の残欠があり、モチの木が植えられている。土塁には門があり、
跳ね橋で夜は上げていたと伝えられる。

2)比良城跡
比良城は北比良の森前に存在したと伝えられる。湖西地域を南北にはしる北国街道
がこの場所で折れ曲がっている。街道を挟み、樹下神社が隣接している。在所の
古老にもこの場所に城があったとの伝承が残っている。北比良村誌によると
「元亀二辛未年九月織田信長公延暦寺を焼滅の挙木村の山上山下に之ある全寺の別院
より兵火蔓延して」とあり、この時期他の城郭と同様破滅したしたものであろう。

3)歓喜寺城跡
大物の集落より西の比良山の山中に天台宗の古刹天寧山歓喜寺跡がある。今では
そこに薬師堂だけが残り、わずかに往時ここが寺であった事を偲ばせる。
歓喜寺城は比良山麓に営まれた比良三千坊の1つである天寧山歓喜寺跡の前面
尾根筋上に営まれた「土塁持ち結合型」平地城館である。
この遺構は三条のとてつもなく大きい深い堀切によって形成され、北側の中心主郭
はきり残された土塁を基に四周を囲郭し、この内側裾部や内側法面に石垣積みが
認められる南側の郭は北に低い土塁が残り、近世になって修復、改造がなされた
と思われる。また、背後、前面の歓喜寺山に山城が築かれており、L字状の土塁や
北東を除く三方には掘り切りなどが認められる。

4)荒川城跡
荒川城は荒川の城之本と言うところにあったとされる。この城に関しての
文献資料はほとんど見当たらないが、絵図が残っており、それには城之本の地域の中に
古城跡と書かれている。また、ここの城主が木戸十乗坊という記録があり、
同氏は木戸城の城主でもあり、木戸城の確定とともに確認をする必要がある。

5)木戸山城跡
現在の木戸センターより西北西の比良山中腹の尾根部分にあったとされる。この地域は
古くから大川谷に沿って西に向かい、木戸峠より葛川の木戸口や坊村にいたる木戸
越えの道が通る。このため、この城の役目は木戸越えの道の確保であったとも推測され
る。城としては、堀切りを設け、東を除く三方に土塁を築いていた。
しかし、この城も「元亀三年信長滅ぼす、諸氏山中に隠れる」とあり、その時に
破壊されたのかもしれない。


まさに之は「春 望  <杜 甫>」の世界かもしれない。
國破れて 山河在り 城春にして 草木深し
時に感じて 花にも涙を濺ぎ 別れを恨んで 鳥にも心を驚かす
峰火 三月に連なり 家書 萬金に抵る
白頭掻いて 更に短かし 渾べて簪に(すべてしんに)勝えざらんと欲す

戦乱によって都長安は破壊しつくされたが、大自然の山や河は依然として変わらず、
町は春を迎えて、草木が生い茂っている。時世のありさまに悲しみを感じて、
(平和な時は楽しむべき)花を見ても涙を流し、家族との別れをつらく思っては、
(心をなぐさめてくれる)鳥の鳴き声を聞いてさえ、はっとして心が傷むのである。
うちつづく戦いののろしは三か月の長きにわたり、家族からの音信もとだえ、
たまに来る便りは万金にも相当するほどに貴重なものに思われる。
心労のため白髪になった頭を掻けば一層薄くなり、まったく冠を止める簪(かんざし)
もさすことができないほどである。

さらには、
6)衣川城跡
細川高国に滅ぼされた湖西の城塞跡としては、JR湖西線の堅田駅からほぼ路線沿い
に進んだ先にある住宅地の中に衣川(きぬがわ)城がある。
現在は児童公園となっており石碑と解説板がそれぞれ設置されている。日本城郭大系
では山内駿河守宗綱の居城で、朝倉勢と戦ったとのみしか紹介されていませんので、ま
ず歴史背景は現地の解説板を元に紹介する。
衣川城を築城したとされるのは、文暦元(1234)年の「粟津の合戦」で武功をたてた
山内義重がこの地を賜り築城したとされる。
先ほど名前を出した山内駿河守宗綱は11代目に辺り、浅井公政、京極高清らと共に永正
5年(1508年)から8年もの間、近江、坂本、石山らの戦いで朝倉貞景らを
相手に取り、勝利を収める、大永6(1526)年に細川入道高国に攻撃され落城した。
その後の歴史に関しては記載されていませんが、廃城となった。
現在の公園は琵琶湖から見ると随分と高台に位置する。また二段構えのような構造に
なっており、当時の郭の跡を利用しているのかと勘ぐってしまう構造。また一部に土塁
のような土盛を確認できますが、これも当時の遺構かどうかは分からない。
見所は正直多くありませんが、周辺も舗装されており、年中時期や天候を問わずに訪問
できる城跡。

7)宇佐山城 
現地の状況 宇佐山城へは近江神宮に隣接する宇佐八幡宮の参道から登ること約20分
で尾根に出るが、道は少々判り難い。
宇佐山城は3つの曲輪から構成されており、テレビ塔の建っているところが本丸で、南
側の一段下がった曲輪の南斜面には20メートルにわたって高石垣が築かれている。
雑木のために展望は北方しかきかないが、この方面には今道越え(山中越え又は県道30
号線)があり、雑木を刈り取れば今道越えを一望できることは間違いない。
また、少し距離はあるが、逢坂越え(東海道)をも押さえることは十分可能であり、織
田信長が京への街道を確保するためにこの宇佐山城を築いたことが窺える。
元亀元年(1570)4月、越前・朝倉攻めの際、浅井長政に背後を衝かれ、あわてて京都
へ逃げ帰った織田信長は、京都から岐阜城へ帰陣に先立ち築いた城が宇佐山城で、
配下の森可成(よしなり)に守備させた。
元亀元年9月、石山本願寺攻めをする信長の隙を衝いて、浅井・朝倉軍は宇佐山城を
攻めた。浅井・朝倉軍は2万、これに対し宇佐山城を守る森可成の配下は500人余り、
城兵は奮戦するも、9月11日に落城した。
宇佐山城の落城を知った信長はすぐさま摂津より引き返し、宇佐山城を奪回し、比叡山
壺笠山城に楯籠もる浅井・朝倉連合軍と対峙したが、比叡山からの援助を受ける浅井
・朝倉軍に対し四方に敵を抱えた信長は、勅命を仰ぎ和議を結ぶと岐阜に帰陣した。
翌元亀2年9月、信長は浅井・朝倉に味方した比叡山に対し焼き討ちをかけた。元亀3年
(1572)に坂本城が築城されると、宇佐山城も廃城となった。

8)大津陣屋
大老堀田氏の子孫が統治した大津の陣屋
大津市堅田の浮御堂のすぐ隣の駐車場に堅田陣屋の案内板などが残ります。
元禄11(1698)年に、徳川幕府大老の堀田正俊の三男正高が、下野国から堅田に移り、
堅田藩の中心として陣屋を建設したと日本城郭大系に説明されています。
文政9(1826)年に、当主の正敦が再び下野佐野に移転されると、堅田藩は廃止になり
徳川幕府が直接治める天領となったそうです。
目だった遺構はありませんが、近くの伊豆神社へ繋がる舟入遺構など水路はよく確認で
きます。あと、有料(300円)ですが冒頭の浮御堂から、陣屋方向を眺めてみるのがオ
ススメです。
城跡として見所は決して多くはありませんが、JR堅田駅から琵琶湖方面へ歩き、周辺に
は中世の城塞跡とされる伝承地も少なくない場所なので、天気のいい日に、湖畔をじっ
くりと散策してみると楽しめると思います。ちなみに浮御堂ですが、正式名称は満月寺
といい、その歴史は古く平安時代に遡るそうです。
江戸時代の俳人・松尾芭蕉も訪れたそうで、その句が記念碑として境内に設置されてい
ます。
琵琶湖に浮かぶ情緒ある建物は昭和初期に再建されたもので、堅田陣屋の頃の建物では
ありませんが、堀田氏もこの景色は楽しんだでしょうね。
当サイトだけでなく、日本城郭大系などでも堅田陣屋の写真として紹介されていますが
、こちらは陣屋と直接の関係はありませんが、こちらも合わせて訪問したい観光スポッ
トです

9)大溝城(滋賀県)
明智光秀が縄張りした信長の甥・津田信澄の城
滋賀県高島市。2005年に合併新設された街で、そのため市域が相当広大になったため、
管理人のようにしばらく関西から遠ざかっていた方には、旧高島町といったほうが場所
がイメージしやすいと思います。
JR湖西線の近江高島駅で降りると、目の前にガリバーの像が建っている広場があり、そ
の右手に総合病院があります。その病院の駐車場部分と隣接した場所に大溝城の天守台
などが残ります。
明智光秀の縄張りとされ、城主は若かりし織田信長に叛き、殺害された実弟の信行の嫡
男・津田信澄(父の一連の事件の関係で織田氏を名乗らず、津田氏を名乗った
そうです)。
しかし、信澄は信長には大変気に入られ重宝されていたようです。
浅井長政を滅ぼした後、信長は信澄を、高島を治めていた磯野員昌の養子に入れ、その
後、信長が員昌を追放するような形で信澄に、高島の地を与え、この大溝城が完成した
とされます。
天正10(1582)年に「本能寺の変」で信長が斃れると、光秀の娘を妻にしていた信澄にも
嫌疑がかけられ、四国征伐の副将の一人として大阪にいた際に、丹羽長秀らの軍によっ
て野田城(大阪城内の二の丸千貫櫓とも伝わります。)で殺害されました。享年28歳の
若さだったそうです。
その後、この城はいくつか城主を代えながら、豊臣秀吉の時代には京極高次が城主をつ
とめます。
訪問した時が2012年の5月で、前年のNHK大河ドラマ「お江」の影響でしょうが、高次の
妻だった浅井三姉妹の次女「お初」が新婚生活をすごした城としても現地では解説板な
どで説明されていました。
現在の地形も琵琶湖はすぐ近くですが、当時は琵琶湖の水を取込んだ水城だったそうで
す。
慶長8(1603)年に一度は廃城になり、あらためて徳川幕府が成立した後の元和5(1619
)年に分部光信が2万石でこの地に入り、大溝藩を樹立。
かつての大溝城三の丸付近に大溝陣屋を建て、その惣門は現在も残されています。
さて、この大溝城ですが、この近辺は個人的に相当思い入れがありました。20代の頃、
当時の愛車スカイラインでよく琵琶湖一周などを楽しみ、この湖西エリアは毎週通って
いました。
そんな懐かしの旧高島町にも、天守台の石垣が残る城跡があることを知り、迷うことな
く訪問。残された遺構はわずかですが、はっきりとそれと天守台の形がわかる形で残さ
れていることに感激しました。
小ぶりな天守ではありますが、一応天守台の上に上がることもできます。ただ初夏に訪
問したため、足元で突然カエルが跳ねたり、また一匹でしたがスズメバチに一時追いま
わされるなど、少し怖い目にも・・・
街中の平城跡ですが、暖かい季節の訪問は、ちょっとした小さな森のようになっている
ため、多少は注意をした方がいいかもしれません。
湖西線は電車の本数なども少なく、公共交通機関での訪問は少し躊躇してしまうところ
もありますが、旧高島町域だけでもゆっくりと歴史散策が楽しめるのでオススメですね
。ただ大型ショッピングセンターなどが駅前にはない街のため、トイレなどには多少不
便な場所だと付記しておきます(訪問時、駅前にコンビニが建設中だったため、今は少
し変化しているかもしれませんが)。

10)坂本城(滋賀県)
安土城につぐ名城と謳われた明智光秀の居城
1571(元亀2)年、日本史上に大きく残る比叡山の焼き討ちの後、織田信長が当時、近
くの宇佐山城主だった明智光秀に命じ築いたのがこの坂本城とされます。
宣教師ルイス・フロイスの著書である「日本史」によると安土城に次ぐ華麗な名城だっ
たと伝わります。
この城を拠点に明智光秀は近江の平定を目指し、1580(天正8)年には丹波の亀山城の
城主になるも、引き続きこの坂本の城主も務めていたようです。
1582(天正10)年に「本能寺の変」で主君・信長を討った光秀は、その10日後ほどに羽
柴秀吉軍と京都山崎で激突。敗れ、この坂本に逃げ延びる途中で、京都伏見の小栗栖で
農民らに襲われこの世を去ったとされますが、それを知った安土城に入っていた光秀の
重臣・明智秀満によって、坂本城は天守に火をかけられ落城したと伝わります。
その後、秀吉方についた信長の重臣だった丹羽長秀によって再建。秀吉と、同じく信長
の重臣だった柴田勝家との賤ヶ岳の戦いでは基地として機能しましたが、その戦後1586
(天正14)年に秀吉が浅野長政に命じて、近くに大津城を築城させ、建造物なども移築
。坂本城は廃城になったとされています。
現在は国道161号沿線のキーエンスの研修所になってる場所が本丸とされ、研修所の入
り口に記念碑が設置されています。
そこから南へ少し移動したところにある坂本城址公園の琵琶湖の浜辺には石垣が残りま
す。この沿岸には埋もれている石垣が多く、おそらくは坂本城の石垣だと思います
また妙に古代の埴輪のような明智光秀の像も建っていますがほかに目立った遺構はあり
ません。公園から東北側にある二の丸付近にも、小さな石碑が設置されています。
かさねがさね残念なのが、この滋賀県大津市には琵琶湖に接した建物も美しい城がこの
坂本や、文中にも出た大津の他、日本三大水城の一つにも数えられる膳所城があるもの
の、どれも往時の荘厳な姿を見ることができないことです。
遺構は今触れたように、決して満足いくものではありませんが、個人的には、日本史上
に於いて重要な役割を担った明智光秀の居城に訪問できたこと自体で満足ですね。

11)田中城跡 高島市
上寺(うえでら)集落の裏山にあることから、通称上寺城と呼ばれる。
急傾斜の山全体に、段々畑のような「郭」が築かれており、その規模は高島郡では新旭
の清水山城跡に次ぐ大きさと言える。
元亀3年(1570)、織田信長は越前の朝倉義景を討つため「田中の城」に逗留した
と「信長公記」に記載されてるが、まさしくこの田中城には信長とのちの豊臣秀吉、徳
川家康の武将が逗留したことになる。


高島市には、かつて「高島七カ寺」と呼ばれる天台宗の有力寺院が存在しました。「七
カ寺」と称される寺院については諸説ありますが、『近江輿地誌略』では長法寺を
「高島郡七箇寺の第一」としています。長法寺の創建や廃絶した年代は不明ですが、
開基は慈覚大師円仁とも伝えられています。
また、伝承では織田信長の焼き討ちによって灰燼に帰したとされますが、
室町時代末に廃絶した後、その所在は長らく不明となっていました。昭和 31 年、県立
高島高等学校歴史研究部によって再発見された時には、ほとんど人の手が入らない状態
で、
今なお中世に栄えた山岳寺院の姿を伝えています。
今回の探訪は、高島町観光ボランティア協会のガイドと市と県の文化財専門職員が同行
案内し、近世城郭のような大規模な石垣や石塁、ひな壇状の造成地にみられる高度な土
木技術により造営された長法寺遺跡を詳しく訪ねます。
日吉大社他
ここで、わが街、和邇周辺と主だった神社などを紹介する。

和邇は、平安京への北の入口 和邇堺として重要視され、四堺祭
(疫病・疾疫など都城への侵入防ぐ祭祀)等が、都から勅使・陰明師等
が来ていたとの事。。天皇神社もこれと同じ鬼門鎮守の役割を果たして
いたのだろう。
素戔鳴尊=牛頭天王と言えば出雲を代表する神様(支配者)であり、
和邇族=素戔鳴尊=牛頭天王と言う関係でではないのだろうか。
また、和邇とは船のことを意味する様である。

和邇の南には、小野妹子を輩出した小野と言う地名の場所がある。
ここにある小野神社は、古来当地の産土神米餅搗(タガネツキ)大使主命を祭り、
菓子の神様として崇められ、現在でも全国の菓子製造組合から参拝者が多い。
一説にはタガネツキは、鏨とも見られ製鉄関係の鍛治師(和邇一族)との、関連も
考えられる。特にこの地が、和邇一族の支配していた地域であり、比良山麓には
製鉄遺跡も、数多く出土している。
和邇川を渡り、少しさか上った処に、天皇神社がある。この神社は、
かって牛頭天王社と呼ばれており、八坂神社同様、素戔鳴尊=牛頭天王を祭って
おり、最勝寺の鎮守社として、祀られたと言う。

古来、比良の湊がおかれ、北陸地方との交易を中心に水運にも従事。中世には
比良八庄とよばれ、小松荘と木戸荘がその中心であったという。
そのJR蓬莱駅の南にJR和邇駅があり、1651年の丸船(丸小船)改帳によれば、
和邇38艘、木戸25艘、南比良23艘、南小松14艘、北小松33艘を有す
と言う記録があり、明治11年の調査では、和邇南浜でイサザ・エビ・ハス・
アユ、北比良でヒウオ、北小松でシジミなどの漁獲があったと言う。
和邇と言う地名は、丸船(丸小船)が多い場所と言う意味に由来していると
思われる。つまり、和邇とは船のことを意味すると解釈するのが妥当と
思われる。
または、和邇と言う地名から、古代海族とされる比良一族は、和邇一族と
呼ばれていたのかも知れない。

海上ルートから日本に来た支配者(和邇)は、航海が得意で対馬海峡を北上し
出雲の国に上陸した。陸上ルートから日本に来た支配者(白兎)は、航海が
不得意で朝鮮半島から対馬や壱岐など島伝いに北九州に上陸した。
出雲の国譲りの話は、海上ルートから日本に来た支配者(和邇)が、陸上
ルートから日本に来た支配者(白兎)に負けたことを意味するのでは?
陸上ルートから日本に来た支配者(白兎)の後裔である神功皇后が、やたらに
朝鮮半島(新羅)のことを懐かしがったり、新羅を攻めようとしたのは、
白兎一族(神功皇后)の先祖が朝鮮半島(新羅)にいたからではないだろうか。
古代史は、面白い。和邇がその様な形で、古代史に載っているのが、真偽は
別として、夢は広がる。

和邇から161号線を北へ登ると、
南比良に樹下(じゅげ)神社がある。神社正面(左樹下神社、右天満宮)と
天満宮、162号線に面した神社で境界もなく天満宮と隣り合っている。
二社は中門を除いて殆どが双子の様にそっくりに造られている。
入り口に立っているのは神木シイノキ(スダジイ)樹齢300年。
樹下神社は大津市坂本には全国の山王山の総本山になる日吉大社があり、
そこから分祀されたとのこと。
神社の鳥居が双子になっているのはこの地域は南比良と北比良に分かれて
いて水争いがおこり、神社を二つに分けたとか。
いずれにしろ、北へ行こうと南へ行こうと、多くの神社が点在する。

北には、湖の中の鳥居で、有名な白鬚神社がある。この神社も古墳の
上に建っており、山の上まで古墳群がつづいている。祭神は猿田彦神と
いうことだが、上の方には社殿が三つあって、その背後に、大きな石室
が口を開けている。御幣や注連縄まではってあるのは、ここが白鬚の祖
先の墳墓に違いない。小野氏の古墳のように、半ば自然に還元したもの
と違って、信仰が残っているのが生々しく、イザナギノ命が、黄泉の国へ
、イザナミノ命を訪ねて行った神話が、現実のものとして思いだされる。
山上には磐坐らしきものも見え、あきらかに神体山の様相を呈しているが、
それについては何一つわかってはいない。古い神社であるのに、式内社
でもなく、「白鬚」の名からして謎めいている。猿田彦は、比良明神の
化身ともいわれるが、不明。

ここで、関係の深い日吉大社について、少し述べておく。
日吉大社は、山王二十一社の上七社の一つであり、祭神は大山咋神
(おおやまくいのかみ)の妻・鴨玉依姫神(かもたまよりひめのかみ)。
旧称「十禅師」:地蔵菩薩の垂迹(すいじやく)で法華経守護の神。
日吉大社は全国3800余の日吉神社・日枝神社・山王神社の総本宮。
京都の表鬼門にあたる近江には、日吉大社とその系統の由緒ある神社が多い。
要するに、日吉大社の摂社。
その入り口には、大きな鳥居の傍らにはしだれ桜が咲き、その向うに
日枝の神体山がくっきり見える。
この山は八王子山、牛尾山、また小比叡の山とも呼ばれる。神社へ向って
やや右手の方にそびえているが、大比叡のひだにかくれて、三上山ほど
歴然とはしていない。が、神体山に特有な美しい姿をしており、頂上に
奥宮が建っているのが、遠くからも望める。そこには大きな磐坐があって、
その岩をはさんで二つの社が建っているが、これは後に(平安朝ごろ)
造られたもので、大和の三輪と同じように、はじめは山とその岩とが
信仰の対象であった。磐坐と磐境の区別ははっきりしないが、前者は
神が降臨するところで、後者はその神聖なひろさを示したように思われる。
依然としてはっきりしないのは同じだが、古代人の考え方はわり切れない
のがふつうだし、わり切らない方がいいと思う。
『古事記』によると、大山咋神を祀り、奥の磐坐は、玉依比売の御陵
であるともいう。大山咋も玉依比売も、はじめからの固有名詞では
なく、山霊とその魂が依る神、もしくは巫女を現わしたもので、
周囲に古墳が多いのをみても、先史時代からも祖先の奥津城であった
ことがわかる。
頂上にある奥宮へは、東本宮があり、この神社は、小比叡の麓に
あり、日吉大社の元は実はこちらの方にあるので、西本宮は天智天皇
が近江に遷都した時、大津の京の鎮護のために、大和の三輪神社を勧請
されたと聞く。三輪の祭神は、大物主(大国主または大山祇)で、
日吉社における神格はそののち大山咋よりはるかに上になったから、
いわば廂を貸して母屋をとられた結果になった。
本殿に向って左側に、「樹下社」という摂社があるが、これが日吉
信仰の原点で、玉依比売を祀っている。
ヒエの語源はわからないけれど、『古事記』には日枝と書き、比枝から
比叡に転じて行ったらしい。日吉大社で有名なのは、石垣が美しいこと
である。石橋もみごとだし、何げなく立っている石塔も美しい。
なお、近くには、野添古墳群がある。
また、横の登山道は、高僧が修行をする「千日回峯行」の道であり、
一日30キロを歩き、苦行といって60キロの道程もあるという、
それを7年間で1000回繰り返すことで「大行満」と呼ばれ、
「大阿闍梨」とも尊称される。無動寺は比叡山千日回峯の行場である。
志賀の重要性
近江国は以前から都の貴族から真に重要な大国と認識されていた。
すなわち、「近江国は、宇宙有名の地也。地広く人衆く、国富み家給る。
東は不破と交わり、北は鶴鹿に接す。南は山背に通じ、此の京都に至る。
水海は清くして広く、山木は繁りて長し。其の土は黒土、其の田は上々、
水旱災い有りと雖も曾て不穫の憂いなし」といわれた国である。

そして、滋賀郡の「古津」は、遷都の詔と同時に出された詔により、
近江京時代の旧号を追って、「大津」と改称され、湖の道には東と北
を抑える要点として真野郷は」陸の道には北を抑える要点として、
古市郷、織部郷、大友郷とともに従来より以上に重要性を増すことになった。
そうした位置付けのもとで、真野郷に現われた無視できない変化は、高島郡界
と接する真野郷北方域の重要性である。というのは、郷内を通る湖岸の道は
もとよりだが、安曇川中流から朽木谷を通る裏道とともに、和邇川沿いに
山道を越えて平安京へ北から入る道として、北からの人とものを受け止める
ことになったからである。沿道の田野や山林で働く人々と其の集落の点在する
地域は、いままでと打って変わった重要性を持つことになった。

更には、この地域が木と緑に恵まれた自然景観の美しいまちであり、古代以来、
多くの歌人によって、歌われてきた、ことを忘れてはならない。

「恵慶集」に旧暦10月に比良を訪れた時に詠んだ9首の歌がある。

比良の山 もみじは夜の間 いかならむ 峰の上風 打ちしきり吹く
人住まず 隣絶えたる 山里に 寝覚めの鹿の 声のみぞする
岸近く 残れる菊は 霜ならで 波をさへこそ しのぐべらなれ
見る人も 沖の荒波 うとけれど わざと馴れいる 鴛(おし)かたつかも 
磯触(いそふり)に さわぐ波だに 高ければ 峰の木の葉も いまは残らじ
唐錦(からにしき) あはなる糸に よりければ 山水にこそ 乱るべらなれ
もみぢゆえ み山ほとりに 宿とりて 夜の嵐に しづ心なし
氷だに まだ山水に むすばねど 比良の高嶺は 雪降りにけり
よどみなく 波路に通ふ 海女(あま)舟は いづこを宿と さして行くらむ

これらの歌は、晩秋から初冬にかけての琵琶湖と比良山地からなる景観の微妙な
季節の移り変わりを、見事に表現している。散っていく紅葉に心を痛めながら
山で鳴く鹿の声、湖岸の菊、波にただよう水鳥や漁をする舟に思いをよせつつ、
比良の山の冠雪から確かな冬の到来をつげている。そして、冬の到来を予感させる
山から吹く強い風により、紅葉が散り終えた事を示唆している。これらの歌が
作られてから焼く1000年の歳月が過ぎているが、現在でも11月頃になると
比良では同じ様な景色が見られる。
このほかに、本町域に関する歌には、「比良の山(比良の高嶺、比良の峰)」
「比良の海」、「比良の浦」「比良の湊」「小松」「小松が崎」「小松の山」
が詠みこまれている。その中で、もっとも多いのが、「比良の山」を題材に
して詠まれた歌である。比良山地は、四季の変化が美しく、とりわけ冬は
「比良の暮雪」「比良おろし」で良く知られている。「比良の山」「比良の
高嶺」を詠んだ代表的な歌を、春夏秋冬に分けて紹介する。

春は、「霞」「花」「桜」が詠まれている。
雪消えぬ 比良の高嶺も 春来れば そことも見えず 霞たなびく
近江路や 真野の浜辺に 駒とめて 比良の高嶺の 花を見るかな
桜咲く 比良の山風 吹くなべに 花のさざ波 寄する湖
 
夏は、「ほととぎす」が詠まれている。
ほととぎす 三津の浜辺に 待つ声を 比良の高嶺に 鳴き過ぎべしや

秋は、「もみじ」と「月」が詠まれている。
ちはやぶる 比良のみ山の もみぢ葉に 木綿(ゆふ)かけわたす 今朝の白雲
もみぢ葉を 比良のおろしの 吹き寄せて 志賀の大曲(おおわだ) 錦浮かべり
真野の浦を 漕ぎ出でて見れば 楽浪(さざなみ)や 比良の高嶺に 月かたぶきぬ

冬には、「雪」「風」が詠まれている。
吹きわたす 比良の吹雪の 寒くとも 日つぎ(天皇)の御狩(みかり)せで止まめや

楽浪や 比良の高嶺に 雪降れば 難波葦毛の 駒並(な)めてけり
楽浪や 比良の山風 早からし 波間に消ゆる 海人の釣舟

このように、比良の山々は、古代の知識人に親しまれ、景勝の地として称賛
されていたのである。
楽浪の里は、まだこの時代の名残を止めている。今後とも、このような
自然を残して行きたい。
城跡、神社
中世城郭の展開(P30)
山城や砦あるいは平地の館城跡など、滋賀県下の城郭総数はおよさ1300箇所
にも上る。
このうち、彦根城や大溝城あるいは膳所城など、近世城郭として確立した遺跡は
数箇所にすぎず、大多数の城郭が中世後期の室町時代の後半から戦国期にかけて
築かれたことが知られる。
しかも、この戦国時代は応仁の乱辺りから本格化し、元亀天正年間頃
(1570~92)に終息するころから、15世紀後半から16世紀後半までの
100有余年の短い期間に築かれたものであることが分かる。
本町域においても、およさ15箇所の城郭を数える事が出来る。さらに城郭地名
や伝承、古記録などが伝えるもの、あるいは未発見のものや消失したものを
含めると、更に多くの城郭が存在したものと推定される。
さて、城郭遺構とは、四周に土塁や堀、帯郭あるいは犬走りなどを設けて、戦闘に
備え防御する施設である。通常さらに外回りを、堀切や竪堀あるいは切り岸や石垣
時には武者隠しなどによっていっそう堅固なものにしている。現況からはほとんど
土からなる城と思われているが、今は朽ちて認め難い板塀や竹矢来、あるいは
木梯子や木樋、竹樋さらには小屋や櫓や屋敷などの多様な建築物があったに違いない。
城の出入口である木戸も、次第に虎口として複雑な構造をとるようになった。
志賀町域の城郭遺構としては15箇所ある。
①寒風峠の遺構(北小松、山腹にあり、現在林)
②涼峠山城(北小松、山腹、林)
③伊藤氏城または小松城(北小松、平地、宅地や田、堀切土塁あり)
④ダンダ坊城(北比良、山腹、林)
⑤田中坊城(北比良、湖岸、福田寺)
⑥比良城(比良、平地、宅地)
⑦南比良城(南比良、湖岸、宅地)
⑧野々口山城(南比良、山頂、林)
⑨歓喜寺城(大物、山腹、林)
⑩歓喜寺山城(大物、尾根、林)
⑪荒川城(荒川、平地、宅地や墓地)
⑫木戸城(木戸、湖岸、宅地)
⑬木戸山城、城尾山城とも言う(木戸、尾根、林)
⑭栗原城(栗原、不明、宅地)
⑮高城(和邇、不明、宅地)

これらの城郭遺構を構造的、機能的に類型化していく。
南北に細長い比良山麓での、民衆の日常における生業活動は、水系を軸にして
河川ごとにまとまっている。この視点で城郭群をみると、やはり湖岸、平地、
山麓、山頂と一直線上にまとまりを示している。これを町域の北から
地域区分によって示すと以下のようになる。
1)地域1
湖岸に複郭式の平地館城である伊藤氏城が営まれていた。そしてこれと対に、
背後の山上に涼峠山城が築かれる。この山城の位置は、小松から高島の背後を
経て朽木方面へ通じる山道に面する。なお、両城郭の間は山そでが迫って
平地はなく、伊藤氏城のごく背後山中には城郭はない。このような伊藤氏城
(小松城、湖岸)-涼峠山城の関係をもって小松地域を設定する事が可能である。
2)地域2
湖岸に田中坊城(北比良城、福田寺城)が館城として存在し、平地には西近江路
に面して同じく比良城が館城としてある。この地域では背後の山城はないが
二つの平地館城の対の役目のような形で、ダンダ坊城がある。
ここに山寺城ー里坊城の関係が見出される。
3)地域3
湖岸近くに館城である南比良城があり、その詰城として野々口山城がある。
両者の間は約2キロである。ただ比良城ー田中坊城ー南比良城はほぼ
一直線上にあり、野々口山城、歓喜寺山城ー歓喜寺城が扇形となって
展開していた事もありうる。
4)地域4
旧北国街道に面する木戸城もしくは荒川城が平地館城となり、歓喜寺城がこれらの
詰城である。木戸城を扇の要にして、背後の南北位置に歓喜寺山城と木戸山城
を配置して展開したとも考えられる。また、木戸城は木戸十乗坊の城と言う
伝承もある。
5)地域5
湖岸の木戸城と詰城の木戸山城と対と考えられる。

町域南部では、その城郭群の構成が不明であるが、南部では木戸川と比良川の
間に10城が密集しているが、比良川から鵜川までには2城しかなくかなりの
不均等さを見せる。
その理由として以下の点が考えられる。
①平地の館城と背後の詰城といった戦国期の単純な構成をとらず、両城郭の間の
山麓付け根に館城を構築する事。これらは比良の大規模山岳寺院に隣接して
平地館城を元に山容あわせた山寺城とした。
②山岳寺院内の館城と対をなす詰城が背後の山頂部に築城されている。
歓喜寺山城や野々口山城に見られる。これは他の地域では見られない特質である。
③比良山麓付け根に築かれていた山岳寺院が平地や湖岸に寺坊を移し、肥大化
変質する寺院経済の運営に利便を図った。田中坊城がそれである。
④主戦場となる歴史的な経緯があり、それへの対処として行われた。
⑤各城郭の築造が幾つかの時期に行われたため、多くの城郭が造られた。

城築城の年代は白の出入り口の虎口の構造の複雑さと土塁の完成度によるとされる。
さらに築城の契機により本町域の勢力分布も推定が可能となる。
この点から北小松の伊藤氏の勢力は増して来たことが考えられる。
複郭式の館城群を営み、北小松の港を抱え湖上交通の掌握、さらに比良山麓から
朽木方面への山路の監視などからそれがうかがえる。
なお、城郭機構の特徴から本町域での城郭は二期に別れて発達したと思われる。
第1期は大規模な土塁を削り出し方法で屋敷を城塞化した時期であり、1520
年頃から起きた足利氏、佐々木六角氏、伊庭氏などの抗争の激化に対応した。
第2期は浅井氏や信長の侵攻が活発化し、本格的な山城の築城と合わせた
平地館城との連携が必要となった1540年代以降である。

比良山麓の荘園鎮守となった社や祀堂は、この地域が山門膝元であっただけに
山王上七社を構成する神祇の一つ十禅師権現を勧請したものが多く、本町地域
荘園に老いても例外ではない。たとえば、和邇荘には和邇中に天皇神社、木戸荘
では木戸に樹下神社、比良荘では北比良と南比良の村境に天満神社、樹下神社、
小松荘には北小松に樹下神社がそれぞれ鎮座しているが、天皇神社はかっての
和邇牛頭(ぐず)天皇社、木戸、比良、小松の樹下神社は旧十禅師権現社である。
近世、北比良村では「山の祭り」、木戸・和邇荘郷単位と来た船路村では
それぞれに「権現祭」という祭礼が行われていた。この権現とは延暦寺の
氏神である日吉大社行司権現と密接な関係を持つものと推定されるがいずれにせよ、
荘園鎮守に始まる諸社の祭祀がやがて村民の守護を願った祭礼と化して言った事
を物語っている。こうした状況の中で、惣村の宮座は、村の氏神ともいうべき
鎮守社や村堂を基盤に様々な神事や祭礼を主導する祭祀組織となり、一方で
村政の執行機関としての役割を担って行った。宮座運営の場となったのは、
主として各村落内の鎮守社や村堂であったが、それらはかって荘園領主が
その支配を貫徹するために地域の土俗信仰に習合させる形で勧請した神祇に
淵源を持つものが多い。しかし、中世後期にかけて、荘園社会が次第に衰退し、
新たなる地縁的結合が進められていくに伴い、これらの鎮守社や村堂は、
村落結合のよりどころとなり村民の精神的紐帯となっていった。
惣の集団的な意志が村民一般のものとして確認される場が村鎮守社などにおける
宮座で、その点惣村と宮座は常に一体化して存在した。惣村の執行機関と言うべき
宮座は、村人中の老衆、若衆といった年齢階梯制に基づく座的組織によって
構成される事が多い。
たとえば、堅田荘の場合、荘民は殿原、全人(まろうど)、マウト、タヒウ、下部
などから構成されていたが、やがて殿原衆を中心に堅田惣庄が形成され、
更にその下には堅田三方や四方と称される郷村が付属していた。この共同体の
執行機関となったのが堅田大宮(伊豆神社)に組織された宮座で、殿原衆は
党を結んでこの宮座を独占し、堅田関の責務も掌握した。

本町域の集落の立地をみると、やや内陸の比較的高燥なところに立地しているものと、
湖岸に沿って立地するものに分かれる。南小松、大物、荒川、木戸、八屋戸、南船路
和邇中、小野などが前者に属し、北小松、北比良、南比良、和邇北浜、中浜、南浜
などが後者に属する。前者は、陸路としての西近江路に沿って展開した集落であり、
各荘園の中心集落でもあったろうし、後者は水運、漁業を生業とする荘民の集落であっ
た。「比良荘図」では、比良荘が新荘であるに対し、比良本荘とされており、
比良東山麓でのもっとも中心的な荘園だった。延暦寺根本中堂領であり、その関係で
堂衆の山麓での拠点の1つとなっていた。



木戸の集落付近は湖岸から一段と高くなった緩やかな傾斜を持つ台地になっており、
和邇から西近江路を北上する際の関門とするのに適当な地形である。
坂本や堅田には関が設けられていたことが知られているが、木戸にも規模は
小さいながらも関が設置され、堂衆たちは西近江路を通行する旅人から通行税
をとったり、北陸路の荘園から陸路を運ばれる貢納品の一部を強奪したりしていた。
此処には永正年間に六角氏に属する木戸越前守秀貞が城を築いたという伝承があり、
また西方の山中にははっきりとした山城遺構があるなど、付近が西近江路中部の要衝
であったことを示している。木戸の北側にある荒川、大物は木戸と合わせて木戸三ヶ荘
といわれ、木戸と類似した立地条件をもっており、お互いに連携して街道を押さえる
拠点となった。これらの小高い位置から湖水を眺めれば湖西の沿岸を行く船舶の
動向も一望の下に把握でき、湖西の水陸の重要な要衝であったといえる。

和邇は東部に条理遺構を三角州があり、西部の段丘上にも高地が広がり、さらに
天皇神社を初めとして多くの史跡、縄文時代からの遺跡がある。全体としてみれば、
本町域でもっとも豊かな可能性を持つ地である。ここが中世初、中期においては、
堅田、坂本と並んで湖西においてもっとも重要な浜津であった。その和邇船津は、
現在の南浜付近がその場であったと考えられる。興味深いのは、この南浜の
小字に「船町、塩津浜、木津、唐崎」のような琵琶湖沿岸のほかの代表的な港津
の名が見られることである。それらから港津からの船の係留地でもあったのか、
それらの地から来た人たちの居留地でもあったのか偶然にできた地名とは思えない。
また、和邇は同時に古代北陸道の駅家の所在地でもあった。西に行けば、
龍華にいたる古い道がある。和邇駅の場所については、既に記述したとおりである。

その比定地のそばに今宿と言う集落がある。古代官道の駅屋に対して中世には
民間の施設としての「宿」が交通集落として成立していた例はほかでも見られるが、
ここでも古代の和邇駅のそばに成立した新しい集落が和邇宿、すなわち今宿という
名になったことも考えられる。このような古代駅家のあった地点が、中世を通じて
地域の一般的な中心となっていくのは、和邇だけではない。この西近江路でも、
同じ古代北陸道の駅屋でもあった三尾でも見られた。しかし、和邇は、山門
比叡山の麓の要衝として、さらには京都と東国に挟まれた土地として、より
ダイナミックな歴史の波にさらされたといえよう。現在の和邇付近の穏やかな
風景にそのような激動が隠されていると思うと、西近江路を辿る事がより
豊かになるのではなかろうか。


現在、本町域には同じ図様を持った中世の「比良荘絵図」が3点ある。
北小松図(伊藤泰詮家)、北比良図(北比良地域)、南比良図(南比良区)である。
絵図の構成は西を天とした画面は大きく上下の2つに分けられている。
下半部が琵琶湖から比良山系の山々を仰ぎ見る視点で構成されるが、上半部は
天空から比良山系の山々を見下ろす視点で描かれている。上半部には琵琶湖側
から決して仰ぎ見る事が出来ない比良山系の西よりの山々がはっきりと描かれている
ことから、この2つの視点の相違は特に際立ったものとなっている。
下半部では琵琶湖に流れ込む川が画面の骨格となっている。一番北の三尾川、鵜川
大谷川、比良川などが描かれているが、高橋川、大堂川などは省かれている。
この絵図は、もともと比良荘部分を中心に作られた絵図ということである。

P450より
町内の寺院宗派には、天台真盛宗、浄土宗、浄土真宗、臨済宗、日蓮宗などがある。
いずれも寺院の規模は小さく、本堂と門、鐘楼、庫裏などの付属建築物で構成される。
主な寺院建築には次のようなものがある。
①徳勝寺(浄土真宗 北小松)
 枝垂桜が有名。
②徳善寺(真宗 北小松)
③法泉寺(真宗 北小松)
④種徳寺(臨済宗東福寺派 北小松)
 お寺からの景観が素晴らしい。
⑤正覚寺(浄土真宗 北小松)
⑥大仙寺(天台真盛宗 南小松)
⑦西方寺(浄土真宗 南小松)
⑧専徳寺(浄土真宗 南小松)
⑨徳浄寺(浄土真宗 南小松)
⑩聞名寺(真宗 南小松)
⑪西福寺(浄土真宗 北比良)
⑫福田寺(浄土真宗 北比良)
 比良湊の近くにあり、蓮如が北陸に向かうためにここに立ち寄った時に渡った橋を
 蓮如橋と呼ぶ。近くには、比良観音堂があり、天満天神の本地仏十一面観音がある。
⑬本立寺(真宗 南比良)
 本寺が湖畔に移ったときに残された薬200体の地蔵があるが、その地蔵跡もある。
⑭超専寺(浄土真宗 大物)
親鸞ゆかりの旧跡。「二十四輩順拝図会」にもある。この上には観喜寺薬師堂がある。
⑮長栄寺(日蓮宗 大物)
⑯萬福寺(真宗 荒川)
⑰西方寺(浄土宗 木戸)
⑱安養寺(浄土宗 木戸)
⑲正覚寺(真宗 木戸)
⑳光明寺(浄土宗 北船路)
 薬師如来のある薬師堂がある。近くに百数体のお地蔵様がある。
21)西福寺(天台真盛宗 守山)
22)慶福寺(天台真盛宗 栗原)
23)報恩寺(天台真盛宗 高城)
24)真光寺(天台真盛宗 北浜)
25)千手院(北浜)
26)慶専寺(浄土真宗 南浜)
27)西岸寺(浄土宗 和邇中)
28)上品寺(天台真盛宗 小野)

町内の神社はいずれも規模が小さく、本殿と鳥居、拝殿、御輿庫、
などの付属建物で構成される。とくに、拝殿は三間もしくは二間
の正方形平面で入母屋造り、桧皮葺(ひわだぶき)である。
なお、補足に「びわ湖街道物語」(西近江路の自然と歴史を歩く)を活用。
主な神社建築は、
①樹下神社(北小松)
十禅師社と天満社の二棟。
祭神は、鴨玉依姫命カモノタマヨリヒメノミコト
②八幡神社(南小松)
祭神は、応神天皇。境内には日本一の狛犬
なお、少し山側には「弁天神社」(大仙寺開基の守護神)がある。
少し下ると、観世音菩薩と一本杉、御霊社がある。
③天満神社(北比良)
祭神は、菅原道真公。比良天満宮でもあり、京都北天満宮よりも古い。
また、比良天神宮として北比良の氏神となっている。祭神は天大戸道尊、大戸辺尊の二
神。
④天満神社お旅所(北比良)
⑤樹下神社(南比良)
 十禅師神社と妙義神社がある。妙義神社は比良三千坊と称され、この地が山岳信仰の
 中心地の1つであった事を偲ばせる神社。
⑥湯島神社(荒川)
祭神は、市杵島姫命イチキシマヒメノミコト
⑦樹下神社(木戸)
樹下、宇佐宮、地主の三棟がある。
祭神は、玉依姫命タマヨリヒメノミコト
十禅師権現社と称し、コノモトさんとも呼ばれていた。五か村の氏神。
大行事社の本尊で、石造毘沙門天坐像がある。
⑧若宮神社(守山)
近くには、金毘羅神社が山麓にある。
⑨八所神社(北船路)
 ご神体を預かり日吉神社再建後、日吉大社例祭の4月に祭儀がある。
⑩八所神社(南船路)
祭神は、八所大神、住吉大神
⑪水分神社(栗原)
祭神は、天水分身アメノミクマリノカミ
⑫住吉神社(北浜)
祭神は、底筒男命、中筒男命、表筒男命
⑬大将軍神社(中浜)
祭神は、中浜神
⑭樹元神社(南浜)
祭神はククノチノカミ
⑮天皇神社(和邇中)
三宮神社殿、樹下神社本殿、若宮神社本殿もある。
祭神はスサノオノミコト。元は京都八坂神社の祗園牛頭天王を奉遷して
和邇牛頭天王社と称した。
近世では、五か村の氏神。
⑯小野神社(小野)

参考に
http://japan-geographic.tv/shiga/otsu-hatsushojinja.html
八所神社(はつしょじんじゃ)
大津市北船路
祭神:大己貴命 白山菊理姫命
JR湖西線蓬莱駅下車直ぐである。国道161号線が鳥居の前を走っている。
八所神社(南舟路)の北方に社地を接する。
鳥居にかかる大きな注連縄が目に入る。
鳥居をくぐると正面に拝殿が、その奥に本殿が見える。
織田信長が比叡山を焼き討ちした折り、日吉神社の禰宜祝部行丸が類焼を避けて日吉七
社の御神体をこの地に遷し
日吉神社再興までこの地で奉祀したと伝える。
日吉七座と地主神白山菊理姫神一座とを併せて八所神社と称するとしている。
天正6年(1578)の再建とされる。
志賀町史1,2
1)第一巻P310
近江国は以前から都の貴族から真に重要な大国と認識されていた。
すなわち、「近江国は、宇宙有名の地也。地広く人衆く、国富み家給る。
東は不破と交わり、北は鶴鹿に接す。南は山背に通じ、此の京都に至る。
水海は清くして広く、山木は繁りて長し。其の土は黒土、其の田は上々、
水旱災い有りと雖も曾て不穫の憂いなし」といわれた国である。

そして、滋賀郡の「古津」は、遷都の詔と同時に出された詔により、
近江京時代の旧号を追って、「大津」と改称され、湖の道には東と北
を抑える要点として真野郷は」陸の道には北を抑える要点として、
古市郷、織部郷、大友郷とともに従来より以上に重要性を増すことになった。
そうした位置付けのもとで、真野郷に現われた無視できない変化は、高島郡界
と接する真野郷北方域の重要性である。というのは、郷内を通る湖岸の道は
もとよりだが、安曇川中流から朽木谷を通る裏道とともに、和邇川沿いに
山道を越えて平安京へ北から入る道として、北からの人とものを受け止める
ことになったからである。
沿道の田野や山林で働く人々と其の集落の点在する地域は、いままでと
打って変わった重要性を持つことになった。このことは、やがて、ことに
十世紀後半から延暦寺の勢力がこの地域に及んでくる前史として、十分に
留意しておく必要がある。

このような真野郷の地位の重要化は、郷の人々以上に平安京の政府が
認識していた。
平安京に先立つ長岡京の時代に滋賀郡に新造された梵釈寺には、延暦7年
に下総越前両国から各50戸の封土が与えられたし、すでに旧大津京の時代
以来の伝統を持つ崇福寺では、大同元年には京内の左比寺、鳥戸寺と共に
四七斎が六七斎は崇福寺で執り行われた。
なお、崇福寺と梵釈寺は、平安時代含め10大寺とされていたが、度重なる
被災と延暦寺の隆盛により、壬申の乱以後、衰退していく。
しかし、日本書紀などの記述から大津京の西北に崇福寺が建てられていたこと
が分かっているので、その東南が大津京となる。崇福寺は志賀寺とも呼ばれていた。

また、霊峰比良山だけでなく、坂本とともに真野郷からも通じる比叡山は、
最澄の「一切衆生、悉皆有仏性」とする新しい理念に基づく鎮護国家論の発祥の
地として、急速に重要さを示し始めた。そして、比良神には、貞観7年、無位
から一躍して従4位下の神階があたえられたのであった。神階とは、有力神
に国家によって奉授された位階を言う。比良の神もここに国家的な高い神階
が与えられたのである。

大津北郊で大津京時代ごろの建物の立地できるのは、錦織、南滋賀、滋賀里、
穴太の扇状地で、いずれも西高東低の傾斜の強い地形で、夫々東西に長い舌状
を呈している。さらに、南滋賀ではそのうちの西半分は大津京時代の寺院である
南滋賀廃寺が占めており、滋賀里でも宮がここにあったとすればすでに
この時、削平されていたはずである古墳群その西半分広がっている。
また、穴太も同時代の寺院跡がかなりの地域を占めているようである。
こうみると左右対称の建物を配置するため比較的まとまった平坦地の要求される
宮域としては南滋賀、滋賀里、穴太の地域は適地とは言えず、中でも
最も平坦地の広がっているのが錦織であり、地形から見れば、宮の所在地
としては錦織がもっとも相応しいことが分かる。

万葉集にある高市古市の歌

古(いにしえ)の ひとにわれあれや ささなみの 故(ふる)き京(みやこ)
を見れば悲しき

ささなみの 国つ御神(みかみ)の 心(うち)さびて 荒れたる京(みやこ)
見れば悲しも

すべて廃墟と化した荒れたる都を偲んでいる。大津の宮時代は、鎌足につぐ天智
の死を経て壬申の乱へつながり、5年数ヶ月の歴史の終焉を迎える。


P325
古北陸道の概観
古代を通じて、志賀町域は、律令国家の官道の一つである北陸道が通過
する要所であった。北陸道とその枝路には、駅(うまや)が置かれ、公用を
おびた役人が乗り継ぐ馬が用意された。更に、その駅制度は一層整備される。
和邇駅は本町域の、和邇川の三角州に位置する、和邇中にその遺跡が残っている。

10世紀からは、律令制も確定し、近江国も滋賀郡和邇荘、滋賀・高島両群
比良牧、高島郡太田荘、高島郡朽木荘、野洲郡明見荘であった。
和邇荘と比良牧の大部分は、本町域にあり、寂楽寺の所領であった。
各地は園城寺円満院などの寺としての荘園支配機構を形成していた。
和邇荘は、都への「鬼気」の進入を防ぐ和邇海という場所があり、四角四境
の祭祇があった。

平安時代後期には、多くの寺院が建てられている。「比叡山3千坊、比良山
七百坊」言われた。

平安時代は、多くの仏像が作られた。
・天満神社(北比良)の神将形立像は日本の天神信仰を考えるに重要。
・千手院(北浜)の千手観音立像
・真光寺(北浜)の地蔵菩薩立像
・徳勝寺(北浜)の薬師如来坐像
・報恩寺(高城)の等身大の阿弥陀如来坐像
・安養寺(木戸)の阿弥陀如来立像
・八屋戸の千手観音立像
・観音堂(小野)の聖観音立像と毘沙門天立像


貞観9年の大政官符に以下の記述がある。
応に近江国司をして和邇船瀬を検領せしむべきこと。
件の泊は、故律師静安法師、さる承和中に造るところなり。しかるに沙石の溝
、年を逐て漸くにしてくずれ、風波の難は日に随いていよいよ甚だし。往還の
舟船しばしば没溺に遭い、公私の運漕常に漂失を致す。ここに賢和、さす年の
春より、心につくろいなさんことを企て誠を輸し、修め造れり。数月の間に
たまたま成功を得たり。、、、、、、

万葉集以来「比良の山嵐」と呼ばれている比良おろしは、地元の人々には周知の事
であるが、そのために起こる三角波は昔から湖上を行き交う船を転覆させ、しばしば
公私の積荷を失わせて来た。安全のためにも一時停泊する施設が必要であったが、
初めて石組みでそれを作ったのは、静安(790から844年)であった。しかし、
その船瀬はその後くずれて同様の遭難事故が起こる様になったので、貞観8、9年
には今度は元興寺の僧賢和が修繕をしたのである。だが、それきりにしておくと
また年を経て頽廃が進むであろうということで、以後の破損修理が近江国司に
委ねられたのである。本町域が比良おろしで荒れている数時間は、勝野津か比良津
および和邇の船瀬で停泊する事が出来るようになったのである。
このことから、平安時代の和邇は水陸交通の要衝であった事が明らかである。
現在、古代和邇船瀬の位置を推定する事は難しいが、あえていえば、小字「木津」
「上塩津浜」「下塩津浜」などが集まる現和邇川河口の北岸域(南浜)が妥当
と思われる。今の和邇浜水泳場と新和邇浜水泳場の間にあったきわめて小さい
内湖の痕跡が示唆的で、恐らく古代にはもっと大きな内湖が和邇川筋の自然堤防
の北側背後にあり、そこが船瀬として活用されたと思われる。
その位置は北陸道と龍華関への間道とのT字路交差点の東側正面である。
高島郡の勝野津がおそらく現在も残る内湖にかかわって造営、維持されたと
考えられるように、波静かな琵琶湖といえど、船瀬を造営するためには、内湖か、
塩津、大津のような湾の奥でなければならなかったと考えるべきである。
この考えは、比良湊の位置想定にもかかわる。比良湊は万葉集にも見られる。
ほかにも、「比良の浦の海人」が詠まれ、「日本書紀」斉明天皇5年三月
条には、「天皇近江の平浦ひらうらに幸す」ということがあった。
比良湊、比良浦の所在を想定するよりどころは、いまのところ地名しかない。
すなわち今日の北比良、南比良の周辺、そして比良川の河口周辺に可能な
場所を探すしかない。



■比良山地における山岳信仰
朝廷は、近江国に妙法寺と景勝時を建立を認め、官寺とした。
最澄の天台宗と空海の真言宗は、朝廷から公認され、特に、天台宗の勢力拡大
にともない比良山地はその修行地となり、多くの寺院が建てられた。
その様子は、「近江国比良荘絵図」でも山中に、歓喜寺、法喜寺、長法寺などが
描かれている。
比良山地はその周辺も加えて、近畿内では、最も、修験に相応しかった。それらの
寺院跡には、鵜川長方寺遺跡、北比良ダンダ坊遺跡、大物歓喜寺遺跡、栗原大教寺野
遺跡などがある。

P422
■志賀町の四季
本町は木と緑に恵まれた自然景観の美しいまちであり、古代以来、多くの歌人
によって、歌われてきた。

「恵慶集」に旧暦10月に比良を訪れた時に詠んだ9首の歌がある。

比良の山 もみじは夜の間 いかならむ 峰の上風 打ちしきり吹く
人住まず 隣絶えたる 山里に 寝覚めの鹿の 声のみぞする
岸近く 残れる菊は 霜ならで 波をさへこそ しのぐべらなれ
見る人も 沖の荒波 うとけれど わざと馴れいる 鴛(おし)かたつかも 
磯触(いそふり)に さわぐ波だに 高ければ 峰の木の葉も いまは残らじ
唐錦(からにしき) あはなる糸に よりければ 山水にこそ 乱るべらなれ
もみぢゆえ み山ほとりに 宿とりて 夜の嵐に しづ心なし
氷だに まだ山水に むすばねど 比良の高嶺は 雪降りにけり
よどみなく 波路に通ふ 海女(あま)舟は いづこを宿と さして行くらむ

これらの歌は、晩秋から初冬にかけての琵琶湖と比良山地からなる景観の微妙な
季節の移り変わりを、見事に表現している。散っていく紅葉に心を痛めながら
山で鳴く鹿の声、湖岸の菊、波にただよう水鳥や漁をする舟に思いをよせつつ、
比良の山の冠雪から確かな冬の到来をつげている。そして、冬の到来を予感させる
山から吹く強い風により、紅葉が散り終えた事を示唆している。これらの歌が
作られてから焼く1000年の歳月が過ぎているが、現在でも11月頃になると
比良では同じ様な景色が見られる。
このほかに、本町域に関する歌には、「比良の山(比良の高嶺、比良の峰)」
「比良の海」、「比良の浦」「比良の湊」「小松」「小松が崎」「小松の山」
が詠みこまれている。その中で、もっとも多いのが、「比良の山」を題材に
して詠まれた歌である。比良山地は、四季の変化が美しく、とりわけ冬は
「比良の暮雪」「比良おろし」で良く知られている。「比良の山」「比良の
高嶺」を詠んだ代表的な歌を、春夏秋冬に分けて紹介する。

春は、「霞」「花」「桜」が詠まれている。
雪消えぬ 比良の高嶺も 春来れば そことも見えず 霞たなびく
近江路や 真野の浜辺に 駒とめて 比良の高嶺の 花を見るかな
桜咲く 比良の山風 吹くなべに 花のさざ波 寄する湖
 
夏は、「ほととぎす」が詠まれている。
ほととぎす 三津の浜辺に 待つ声を 比良の高嶺に 鳴き過ぎべしや

秋は、「もみじ」と「月」が詠まれている。
ちはやぶる 比良のみ山の もみぢ葉に 木綿(ゆふ)かけわたす 今朝の白雲
もみぢ葉を 比良のおろしの 吹き寄せて 志賀の大曲(おおわだ) 錦浮かべり
真野の浦を 漕ぎ出でて見れば 楽浪(さざなみ)や 比良の高嶺に 月かたぶきぬ

冬には、「雪」「風」が詠まれている。
吹きわたす 比良の吹雪の 寒くとも 日つぎ(天皇)の御狩(みかり)せで止まめや
は
楽浪や 比良の高嶺に 雪降れば 難波葦毛の 駒並(な)めてけり
楽浪や 比良の山風 早からし 波間に消ゆる 海人の釣舟

このように、比良の山々は、古代の知識人に親しまれ、景勝の地として称賛
されていたのである。


2)志賀町史第2巻
鎌倉時代になると湖東や比叡山の影響が強く出てくる。
佐々木氏は、近江守護となり、その息子がそれぞれ、大原氏、京極氏(後に
京極氏は、惣領家となり、滋賀群含めた地域の一台勢力となり、六角氏
と争うようになる)、六角氏、高島氏を名乗った。
しかし、実質的には、滋賀群は比叡山延暦寺の圧倒的な勢力下にあった。
この地域では、天台宗の寺院が多いのと延暦寺関係の寺院の持つ領地
が点在していた。
和邇荘、木戸荘、比良荘は延暦寺寺領でもあった。しかし、応仁の乱以後、
六角氏が湖西への進出を図り始める。
滋賀郡でお城郭数は約1300ほど合ったらしいが、いずれも、簡単な
山城程度であり、41ページにその分布図がある。

・荘園の形成と崩壊
本町地域は、交通の要衝であり、有力貴族や自社にとっての重要な采地でも
あった。この地域の多くは、延暦寺、園城寺、日吉神社の寺領であり、小松荘、
比良荘、木戸荘、和邇荘などの荘園があった。特に、中世以降、御厨(みくりや)
が荘園運営に組織化されていったことは見逃せない。
しかし、農業の集約化、生産の多様化、生産余剰分の発生、貨幣経済の浸透等
の新しい動きが、田畑の売買や寄進を更に推し進め、荘園的土地所有やその領主
支配の崩壊を内部から起こし始めた。
これにより、「惣」「村」という新しい形の荘園組織が進み、その運営組織
として、宮座と呼ばれる執行機関が神事や祭礼を行うと供に、その役割を担っていく。
和邇荘では、天皇神社であり、木戸荘には樹下神社、比良荘では天満神社などが
行っていた。

・交通の要路である西近江路
古代からの官道の駅家がその核となり、荘園の中心集落と一体となった新しい
要路となっている。この山側には、途中、朽木を経由する花折街道もあった。
平家物語、源平盛衰記には、軍隊の動きが書いてあり、それにより、当時の
交通路の概要が掴める。
源平の戦い、足利氏の新政府のための戦いなどが繰り返れることにより、
堅田は港湾集落としての機能を高めていく。更に、14世紀以降は、本福寺
の後押しもあり、湖上の漁業権の特権も活かし、最大の勢力となって行く。

本町地域での陸路と水路の集落にも、役割が出てくる。
陸路でもあり、各荘園の中心集落としては、
南小松、大物、荒川、木戸、八屋戸、南船路、和邇中、小野があった。
これらの中でも、木戸荘は中心的な荘園であった。
水路、漁業の中心としては、
北小松、北比良、南比良、和邇の北浜、中浜、南浜があった。
和邇は、天皇神社含め多くの遺跡があり、堅田や坂本と並んで湖西における
重要な浜津であり、古代北陸道の駅家もあった。古代の駅家がその後の
中心的な集落になる事例は多くある。現在の和邇今宿が和邇宿であったことが
考えられる。

・本町地域を眺望する絵図
地域をより具体的に見ていくには、地図の存在が大きい。
中世に書かれた比良荘絵図が3点ほどある。
北小松図、北比良図、南比良図である。
こられの裏書などからその地域を領有していたものが分かる。多くは、比叡山
の山徒であった。また、これら絵図の目的の多くは、各荘との境界を明確に
するものであったようで、直接関係が少ない山の名前では、違いがある場合が
少なくない。境界争いや水利権争いでは、どの時代でも、これらの絵図を基本
として、使っているようであり、境界近くの正確性が求められていた。
境界争いでは、「小松荘と音羽、比良荘」との争いや「木戸荘と比良荘との葛川」
「和邇荘と龍華荘との境界争い」など多くあるようであり、幕府や延暦寺など
に残る古文書からもそれが覗える。
また、中世の時代以後書かれた「正徳絵図、寛文絵図」でも、現在使われている
地名とは違う点も多くあり、地図の正確性も、書いたときの絵師にもよるのでろうが、
少しづつズレがある。正確性を高めるのは、伊能忠敬の全国的に実施した測量地図
となる。しかし、土地の正確性は増すものの、「和邇荘と龍華荘」の様な
昔あったとされる龍華寺の存在を示すのがその地域の伝聞であったり、縁起、
伝承の一般民衆に関わる世界が具体的な境界争いになる場合は、その解決は
中々に難しい。

P152
■宗教と生活
日本には、古くから山岳を神霊、祖霊の住む世界とする観念がある。白山信仰、
などは、その代表的なものであろうか。水や稲作を支配する霊は山に籠り、
生を受けるのも、死んでいくのも、山であった。超自然的な神霊が籠る霊山
と認識された「七高山」の1つである比良山にも、比良山岳信仰が盛んであった。
北比良のダンダ坊遺跡、高島鵜川の長法寺遺跡、大物の歓喜時遺跡、栗原の
大教寺野遺跡などがある。しかし、仏教の浸透が深まるに連れて、天台宗の本山系、
真言系の当山系などのように、宗教集団を形成していった。

P157
比良八講
「北比良村天神縁起絵巻」にも、そのときの様子が書かれている。また、「日次
紀事」にも以下の様な記述がある。
比良の八講 江州比良明神の社 古今曰く 比叡山の僧徒、法華八講を修む
この日湖上多く烈風し、故に往来の船は急時非ずんば即ち出ず

比良山岳信仰の名残は、山ろくの神社にも残っている。
北小松の樹下神社、北比良の天満神社では、菅原道真を祭神としている。
しかし、本願寺の蓮如が8代宗主になると、浄土真宗が近江では、急激な
広がりを見せる。浄土宗は、阿弥陀仏に念仏を唱えれば、誰でも極楽浄土に
いける事を説いた。蓮如は、その布教に対して、木像よりも絵像、絵像
よりも、十字名号(紺地の絹布に帰命尽十万無碍光如来の十字を書いた
もの)を重視した。
本町地域での真宗の基盤は、堅田本福寺であった。

浄土真宗が拡大した要因の一つに、2回の大飢饉がある。寛喜と寛正の大飢饉である。
12世紀以降には、鉄製農具が普及していたが、天候不順に対しては無力であった。
また、名主層の分化、作人の自立化、などが進み、集約した村落共同体の「惣村」
が結成されるようになった。
慢性的な飢饉のため、米を常食とすることは少なかったが、一日三食の習慣が定着し,
衣服も木綿が主となった。

P178
■志賀の文化、芸術
比良の雪世界と山嵐の存在は、文学他にも、影響している。
万葉集では、
楽浪(さざなみ)の比良山嵐の海吹けば釣する海人の袖反(かえ)る見ゆ

また、西行と寂然との和歌のやりとりでも、

大原は比良の高嶺の近ければ雪ふるほどを思ひこそやれ
おもえただ都にてだに袖冴えし比良の高嶺の雪のけしきを

とある。
この雪の様を描いたのが「比良の暮雪」として近江八景で、有名である。
また、春の季節には、

ひらの山はあふみ海のちかければ浪と花との見ゆるなるべし
花さそう比良の山嵐吹きにけりこぎゆく舟の踏みゆるまで
風わたるこすえのをとはさひしくてこまつかおきにやとる月影

鎌倉時代以降は、旅を目的とした古代北陸道としての活用が高まり、
多くの歌人が名勝や情景に歌を綴った。

湖岸の名所 小松崎 P185まで
比良の山嵐が吹き降りる湖岸に眼をやると、近江国與地志略には、
比良北小松崎 則比良川の下流の崎なり。往古よりふるき松二株有り。
湖上の舟の上下のめあてにす。
と、その由緒を記す小松崎がある。現在の近江舞妓、雄松崎付近にあたる
のであろうか。この小松崎も大嘗祭の屏風歌に詠みこまれるほどの
歌枕であった。大嘗祭とは天皇が即位の後,初めておこなう新嘗祭
のことで、大嘗祭に際しては、あらかじめ占いで定められた悠紀、主基ずき
の二国から神饌が献じられるのが決まりであった。そして、平安時代の
宇多、醍醐天皇の頃には、悠紀は近江国、主基は丹波ないしは備中国に
固定していた。また、神饌とともに悠紀、主基の名所を織り込んだ
屏風歌の風俗歌が詠進されるのも恒例となっていた。仁安元年(1166)
六条天皇の大嘗祭の折には、平安時代後期の代表的な歌人である藤原俊成
が悠紀方の屏風歌を勤め、梅原山、長沢池、玉蔭井とともに小松崎を
詠んでいる。
子ねの日して小松が崎をけふみればはるかに千代の影ぞ浮かべる
子の日の遊びをして小松が崎を今日みると、はるかに遠く千代までも
栄える松の影が浮かんでいる。というのが、和歌の主旨で、天皇の千代の
代を言祝いだ和歌である。子の日の遊びと言うのは、正月の初の子の日に
小松を引き、若葉を摘んだりして、邪気を避け、長寿を祈った行事である。
小松崎と小松引きとが上手く掛けられている。松を含む地名自体、めでたい
とされたのであろう。
また、平安時代後期の歌人としても、似顔絵の先駆者としても著名な藤原
隆信も小松崎を
風わたるこすえのをとはさひしくてこまつかおきにやとる月影
と詠んでいる。この和歌には、
こまつというところをまかりてみれは、まことにちいさきまつはらおもしろく
見わたされるに、月いとあかきをなかめいたして
という詞書が記されており、隆信が実際に小松崎を訪れて詠んだ歌であることが
察せられる。
隆信の和歌が小松を訪れて詠んだ和歌ならば,小松に住む人にあてた和歌もあった。
人のこ松というところに侍りしに、雪のいたうふりふりしかば、つかしし、
朝ほらけおもひやるかなほどもなくこ松は雪にうづもれぬらむ
作者の右馬内侍は平安時代中期の歌壇で活躍した女流歌人なので、当卷で扱う
には少し時代が古いが、小松に近づく雪の季節に対して、そこに住む友人を
おもんばかる気持がよくあらわれている。小松あたりの冬の厳しさは有名で
あったと察せられる。
鎌倉時代以降になると、京都と東国を往還する人々も多くなってくる。
京都の公家たちも、鎌倉幕府の要請やみずから鎌倉幕府との人脈を求めて
鎌倉へ下向していった。
また、東国への旅が一般化すると、諸国の大寺社や歌枕を実際に見聞しに行く
者たちも増えていった。
「宋雅道すがらの記」を記した飛鳥井雅縁もそんな一人である。宋雅とは出家後の
号、飛鳥井家は和歌,蹴鞠の家として知られ、家祖雅経の頃から幕府、武家との
関係が親密であり、雅縁も足利義満の信任が非常に厚かった。そんな雅縁が
越前国気比大社参詣に出立したのが、応永三十四年2月23日、70歳の時である。
実は、この紀行文も旅から帰った後、将軍義教より旅で詠んだ和歌があるだろと
まとめの要請があって記したものである。旅の路順は湖西を船で進んでいたようで、
日吉大社を遥拝し、堅田を過ぎて、真野の浦、湖上より伊吹山を眺め、比良の宿に
宿泊している。そこで、
比良の海やわか年浪の七十を八十のみなとにかけて見る哉
と自分の年齢をかけた和歌を詠んでいる。翌日は小松を通っている。小松の松原を
目の当たりにして、

小松と言う所を見れば名にたちてまことにはるかなる松原あり
我が身今老木なりとも小松原ことの葉かはす友とたに見よ

同じく長寿を保つ松原に呼びかけるような和歌である。次は、白鬚、ここでも、
神の名もけふしらひけの宮柱立よる老の浪をたすけよ

と、長寿をまもるという白鬚神社に自分の老いを託している。そして、竹生島を
船上より眺め、今津、海津、そこから山道をとって、29日には気比大社
に詣で、参籠して3月17日に帰京している。
将軍などの見聞旅行に随行の記録もある。
冷泉為広が細川政元の諸国名所巡検の同行記録では、
出立は延徳3年京を山中越えで坂本へ、比叡辻宝泉寺に宿泊。翌日は船に乗り
湖上を行った。東に鏡山、三上山、西に比良山,和邇崎を見ながらの通航
であった。そして、船中であるが和邇で昼の休みを取っている。
次に映ったのが、比良あたりの松である。
ヒラノ流松宿あり向天神ヤウカウトテ松原中に葉白き松二本アリ
「向天神」とは現在も北比良に鎮座する天満神社のことであろう。「ヤウカウ」は
影向で、「近江国與地志略」などにいう、社建立の際に生じたという神体的な要素
を持つ松のことである。また、小松のところでは、「コノ所ニワウハイノ瀧ト伝瀧
アリ、麓に天神マシマス」として「ワウハイ、楊梅瀧」について記している。
コノ瀧については、「近江国與地志略」でも、
・楊梅瀧  小松山にあり、小松山はその高さ4町半あり。瀧は山の八分より流る。
瀧つぼ五間四方許、たきはば上にて三間、中にては四間,下にては亦三間ばかり、
この瀧、長さ二十間、はばは三間許、水は西の方より流れて東へ出、曲折して
南へ落、白布を引きがごとし、故にあるひは布引の瀧といふ。瀧の辺り,岩に
苔生じ,小松繁茂し、甚だ壮観なり。
とみえ、近世には名所となっていたことがわかるが、冷泉為広のじだいにもすでに
注目に値する名勝であったらしいことがうかがえる。そして、一向は湖上の旅
を続け陸路で敦賀,武生と進み、越中,越後をめぐり4月28日に京都へ帰っている。

P186
中世の文化財
浄土真宗の浸透は、平安、鎌倉時代と更に進み、広範な支持を民衆に受ける。
しかも、阿弥陀如来信仰のような極楽浄土への道を説く教義では、
仏像、仏画も盛んに作られている。本町域では、
西岸寺の阿弥陀如来立像(和邇中)
上品寺の阿弥陀三尊像と地蔵菩薩立像(小野)
いずれもメリハリのきいた明確な表情をした鎌倉時代の作品である。
安養寺の本尊である阿弥陀如来立像(木戸)と銅像の阿弥陀三尊像がある。
大物薬師堂の本尊像である阿弥陀如来像がある。
徳勝寺の薬師堂に安置されている釈迦如来座像がある。(北小松)
などがある。
また、仏の世界を守護するための狛犬も多く見られる。
狛犬は、口を開いた阿行と口を閉ざしたうんぎゅうの一対からなる。
野洲の御神神社の狛犬が最古のものとされ、さらに、大津の若松神社、
栗東の大宝神社、湖北の白鬚神社のものがある。
この近くでは、
和邇中樹下神社と本殿にあり、小野道風、たかむら神社にも、一対の狛犬が
安置されている。

仏画と経典について
絵画は、材質面での脆弱性もあり、仏像類ほど多く残っていない。
ここでの最古の仏画は、上品寺の仏涅槃図である。
大幅な画面に、沙羅双樹の木立の下、床台に横たわり、入滅を迎える釈迦と
その周囲に集まって悲嘆にくれる多くの菩薩や動物を描いている。
木戸の安養寺には、阿弥陀如来来迎図がある。阿弥陀如来図には、
聖衆来迎図と阿弥陀、観音などの三尊を描いたものがある。
北小松樹下神社には、釈迦十六善神像がある。この図には、宝珠と玄しょう
法師が描かれている。
また、古経典では、小野道風神社の大般若経がある。北小松の樹下神社には、
大般若経と五部大乗経がある。

石造り品と神殿について
滋賀県は、石造物の豊富な地域である。特に、中世の石塔が多数遺存する。
反面、関東などに広く分布する庚申塔、道祖神などの近世の民間信仰
石仏は少ない。本町域の場合も、同様の傾向を示している。
町内には、宝塔、宝きょ印塔、石仏が多く見られる。
宝塔は、天皇神社、北小松樹下神社、小野たかむら神社、北小松天満神社、
栗原の水分(みくまり)神社にも遺存する。
また、宝きょ印塔は樹下神社にある。これは「宝きょ印陀羅尼経」を塔内に
納置するために名づけられたもの。
石仏としては木戸の大行事社の毘沙門天像がある。
神殿は、切妻造り本殿があるが、小野道風、小野たかむら、天皇神社の
三本殿に見られる。全国的には、珍しい造りでもある。
  
湖岸の名勝
比良の山嵐が吹き降りる湖岸に眼をやると、近江国與地志略には、
比良北小松崎 則比良川の下流の崎なり。往古よりふるき松二株有り。
湖上の舟の上下のめあてにす。
と、その由緒を記す小松崎がある。現在の近江舞子、雄松崎付近にあたる
のであろうか。この小松崎も大嘗祭の屏風歌に詠みこまれるほどの
歌枕であった。大嘗祭とは天皇が即位の後,初めておこなう新嘗祭
のことで、大嘗祭に際しては、あらかじめ占いで定められた悠紀、主基ずき
の二国から神饌が献じられるのが決まりであった。そして、平安時代の
宇多、醍醐天皇の頃には、悠紀は近江国、主基は丹波ないしは備中国に
固定していた。また、神饌とともに悠紀、主基の名所を織り込んだ
屏風歌の風俗歌が詠進されるのも恒例となっていた。仁安元年(1166)
六条天皇の大嘗祭の折には、平安時代後期の代表的な歌人である藤原俊成
が悠紀方の屏風歌を勤め、梅原山、長沢池、玉蔭井とともに小松崎を
詠んでいる。
子ねの日して小松が崎をけふみればはるかに千代の影ぞ浮かべる
子の日の遊びをして小松が崎を今日みると、はるかに遠く千代までも
栄える松の影が浮かんでいる。というのが、和歌の主旨で、天皇の千代の
代を言祝いだ和歌である。子の日の遊びと言うのは、正月の初の子の日に
小松を引き、若葉を摘んだりして、邪気を避け、長寿を祈った行事である。
小松崎と小松引きとが上手く掛けられている。松を含む地名自体、めでたい
とされたのであろう。
また、平安時代後期の歌人としても、似顔絵の先駆者としても著名な藤原
隆信も小松崎を
風わたるこすえのをとはさひしくてこまつかおきにやとる月影
と詠んでいる。この和歌には、
こまつというところをまかりてみれは、まことにちいさきまつはらおもしろく
見わたされるに、月いとあかきをなかめいたして
という詞書が記されており、隆信が実際に小松崎を訪れて詠んだ歌であることが
察せられる。
隆信の和歌が小松を訪れて詠んだ和歌ならば,小松に住む人にあてた和歌もあった。
人のこ松というところに侍りしに、雪のいたうふりふりしかば、つかしし、
朝ほらけおもひやるかなほどもなくこ松は雪にうづもれぬらむ
作者の右馬内侍は平安時代中期の歌壇で活躍した女流歌人なので、当卷で扱う
には少し時代が古いが、小松に近づく雪の季節に対して、そこに住む友人を
おもんばかる気持がよくあらわれている。小松あたりの冬の厳しさは有名で
あったと察せられる。
鎌倉時代以降になると、京都と東国を往還する人々も多くなってくる。
京都の公家たちも、鎌倉幕府の要請やみずから鎌倉幕府との人脈を求めて
鎌倉へ下向していった。
また、東国への旅が一般化すると、諸国の大寺社や歌枕を実際に見聞しに行く
者たちも増えていった。
「宋雅道すがらの記」を記した飛鳥井雅縁もそんな一人である。宋雅とは出家後の
号、飛鳥井家は和歌,蹴鞠の家として知られ、家祖雅経の頃から幕府、武家との
関係が親密であり、雅縁も足利義満の信任が非常に厚かった。そんな雅縁が
越前国気比大社参詣に出立したのが、応永三十四年2月23日、70歳の時である。
実は、この紀行文も旅から帰った後、将軍義教より旅で詠んだ和歌があるだろと
まとめの要請があって記したものである。旅の路順は湖西を船で進んでいたようで、
日吉大社を遥拝し、堅田を過ぎて、真野の浦、湖上より伊吹山を眺め、比良の宿に
宿泊している。そこで、
比良の海やわか年浪の七十を八十のみなとにかけて見る哉
と自分の年齢をかけた和歌を詠んでいる。翌日は小松を通っている。小松の松原を
目の当たりにして、

小松と言う所を見れば名にたちてまことにはるかなる松原あり
我が身今老木なりとも小松原ことの葉かはす友とたに見よ

同じく長寿を保つ松原に呼びかけるような和歌である。次は、白鬚、ここでも、
神の名もけふしらひけの宮柱立よる老の浪をたすけよ

と、長寿をまもるという白鬚神社に自分の老いを託している。そして、竹生島を
船上より眺め、今津、海津、そこから山道をとって、29日には気比大社
に詣で、参籠して3月17日に帰京している。
将軍などの見聞旅行に随行の記録もある。
冷泉為広が細川政元の諸国名所巡検の同行記録では、
出立は延徳3年京を山中越えで坂本へ、比叡辻宝泉寺に宿泊。翌日は船に乗り
湖上を行った。東に鏡山、三上山、西に比良山,和邇崎を見ながらの通航
であった。そして、船中であるが和邇で昼の休みを取っている。
次に映ったのが、比良あたりの松である。
ヒラノ流松宿あり向天神ヤウカウトテ松原中に葉白き松二本アリ
「向天神」とは現在も北比良に鎮座する天満神社のことであろう。「ヤウカウ」は
影向で、「近江国與地志略」などにいう、社建立の際に生じたという神体的な要素
を持つ松のことである。また、小松のところでは、「コノ所ニワウハイノ瀧ト伝瀧
アリ、麓に天神マシマス」として「ワウハイ、楊梅瀧」について記している。
コノ瀧については、「近江国與地志略」でも、
・楊梅瀧  小松山にあり、小松山はその高さ4町半あり。瀧は山の八分より流る。
瀧つぼ五間四方許、たきはば上にて三間、中にては四間,下にては亦三間ばかり、
この瀧、長さ二十間、はばは三間許、水は西の方より流れて東へ出、曲折して
南へ落、白布を引きがごとし、故にあるひは布引の瀧といふ。瀧の辺り,岩に
苔生じ,小松繁茂し、甚だ壮観なり。
とみえ、近世には名所となっていたことがわかるが、冷泉為広のじだいにもすでに
注目に値する名勝であったらしいことがうかがえる。そして、一向は湖上の旅
を続け陸路で敦賀,武生と進み、越中,越後をめぐり4月28日に京都へ帰っている。

いずれにしろ、比良を中とした歌は、様々な季節のの琵琶湖と比良山地からなる
景観の微妙な季節の移り変わりを、見事に表現している。特に晩秋から冬に掛けては、
「もののあわれ」に興味が高かった都人には、散っていく紅葉に心を痛めながら
山で鳴く鹿の声、湖岸の菊、波にただよう水鳥や漁をする舟に思いをよせつつ、
比良の山の冠雪から確かな冬の到来をつげている。そして、冬の到来を予感させる
山から吹く強い風により、紅葉が散り終えた事を示唆している。これらの歌が
作られてから焼く1000年の歳月が過ぎているが、現在でも11月頃になると
小松を含めて比良では同じ様な景色が見られる。
このほかに、本町域に関する歌には、「比良の山(比良の高嶺、比良の峰)」
「比良の海」、「比良の浦」「比良の湊」「小松」「小松が崎」「小松の山」
が詠みこまれている。その中で、もっとも多いのが、「比良の山」を題材に
して詠まれた歌である。比良山地は、四季の変化が美しく、とりわけ冬は
「比良の暮雪」「比良おろし」で良く知られている。「比良の山」「比良の
高嶺」を詠んだ代表的な歌を、春夏秋冬に分けて紹介する。

春は、「霞」「花」「桜」が詠まれている。
雪消えぬ 比良の高嶺も 春来れば そことも見えず 霞たなびく
近江路や 真野の浜辺に 駒とめて 比良の高嶺の 花を見るかな
桜咲く 比良の山風 吹くなべに 花のさざ波 寄する湖
 
夏は、「ほととぎす」が詠まれている。
ほととぎす 三津の浜辺に 待つ声を 比良の高嶺に 鳴き過ぎべしや

秋は、「もみじ」と「月」が詠まれている。
ちはやぶる 比良のみ山の もみぢ葉に 木綿(ゆふ)かけわたす 今朝の白雲
もみぢ葉を 比良のおろしの 吹き寄せて 志賀の大曲(おおわだ) 錦浮かべり
真野の浦を 漕ぎ出でて見れば 楽浪(さざなみ)や 比良の高嶺に 月かたぶきぬ

冬には、「雪」「風」が詠まれている。
吹きわたす 比良の吹雪の 寒くとも 日つぎ(天皇)の御狩(みかり)せで
止まめやは
楽浪や 比良の高嶺に 雪降れば 難波葦毛の 駒並(な)めてけり
楽浪や 比良の山風 早からし 波間に消ゆる 海人の釣舟

このように、比良の山々は、古代の知識人に親しまれ、景勝の地として称賛
されていたのである。
木戸の里歴史めぐりより
自分の眼前に、神秘の謎を秘め、朝日夕陽に照らされて、こうごうしく
輝く偉大な母なる琵琶湖。琵琶湖が、木戸からでは一望でき、他の町村では
味わえないよさがある。
湖面に波一つなく、朝の静寂を破り、あかね雲とともに、母なる琵琶湖の
対岸の彼方より上り来る、こうごうしい朝日に向かい、手を合わすたびに
「ああ、ありがたい。今日も一日、幸せでありますように。」と祈る、
このすがすがしいひととき、この偉大なる母なる琵琶湖も、風が吹きくれば、
きばをむき、三角波を立て、悪魔のようにおそいかかり、鏡のような静かなる
湖も、荒れ狂い、尊い人命を奪い去る事もある。

2016年3月14日月曜日

「びわ湖街道物語」(西近江路の自然と歴史を歩く

この文章は、この里を見るとき、心しておくべきことかと思う。
P171 
近江という国は、京都などと異なった特殊な文化圏なのだということと、
その思いの根幹に近江の湖という異色の存在の蔵する歴史的、文化的な
意味合いの豊かさをいつも実感していたという事です。
一見、不思議な事は五畿七道という律令国家体制下の地方行政区分畿内に「近江」が
入っていないという事です。大化の改新の詔の四至畿内制では、「北は近江の
狭狭波の合坂山より以来を畿内国うちつくにとす」とあります。
、、、
これまで述べて来た湖西のくさぐさの土地の印象は、しかし、右のような近江
の印象とはかなり違っていると思われます。明らかに奈良時代以前のまたは
奈良時代のさらには平安時代の歴史や文学という文化的な営みが湖西のくさぐさの
土地に色濃く陰を及ぼしていると思うからです。とりわけ戦乱などで人を危めたり、
住居を廃墟にしていったりしたことが、悔恨となったり、悲しみになったり、
怨念となったりして人の心に複雑な影響を及ぼし、つまりはその土地の歴史や文化
に豊かな陰翳を与えていったものと思われます。
湖西の湖山々の静かな広がりの底にそこに生きた人々の魂のドラマが蠢いている
ように思われるのです。近江は単なる邨でも畿外でもなく、とりわけ湖西はその
空間的な広がりは水平的に横に広がっているというよりも垂直的に地に向かって
沈んでいるといった印象をもっています。

さらに各フレーズを見ていく。
P35
比叡山山麓を湖岸沿いに行くと、苗鹿、雄琴、堅田と進みます。苗鹿、雄琴には
北国街道(西近江路)が貫通。苗鹿村の街道沿いには常夜灯が建てられ、今も
残されています。
苗鹿には街道を挟んで、右側に那波加神社、左側に那波加荒魂神社があります。
それよりいくと雄琴です。近江與地志略に「雄琴大明神社 雄琴村にあり。
祭神白山大権現なり。崇道尽敬天皇社 雄琴村の上にあり。祭神舎人親王也」
とあります。
雄琴大明神社は、現在、雄琴神社と改称され、崇道尽敬天皇社の祭神は合祀
されました。

P46
比良、小松
西近江路は木戸の集落を抜けると琵琶湖湖畔近くを通ります。左方山側は比良山系
の中心部というべき地域で蓬莱山から北に、比良岳、鳥谷山、堂満岳、釈迦岳と
連なっています。山々は冬には日本海側から吹き寄せられた雪に覆われます。
冬の比良岳は、近江八景の一つ比良の暮雪の装いを見せます。
秋から冬には、比良山地からは、山麓から湖岸にかけて、比良おろしという強い
風が吹きます。特に春先に吹く最も強い風は、地元では荒れじまいといい、一般的には
比良八荒とよばれます。この時季、比良八講が執り行われていたことがその所以です。
貞亮二年刊の黒川道祐「日次日記」には「二月二十四日比良八講 江州比良明神、
古今曰く、比叡山の僧徒、法華八講を修む。この日湖上多く風烈し、ゆえに往来の
船は急事に非ずんば即ち出でず」と記されています。法華八講は法華経八巻を講ずる
天台の法会です。ここに言う江洲比良明神社は、「神祇志料」は「滋賀郡比良嶽東麓
比良大明神又白鬚明神」としていますが、現在は明神崎の白鬚神社に比定されて
います。
比良から小松にかけての、吹き寄せる比良の山風とその山風が運んで来る比良の雪は、
歌に詠まれ絵に描かれてきました。「万葉集」に「ささなみの 比良の山風の
海ふけば 釣りする海女の 袖返る見ゆ」と詠われています。
比良の山から湖に吹き降ろす風が、釣りをする海女の袖をひるがえす。古代北陸道の
淡海の、比良の山と湖には、万葉人の心を捉える風景がありました。それは、後の時代
には歌枕として様々に詠まれています。南比良や北比良には、湖畔に比良浦とか比良湊
と呼ばれる入り江や小松崎の汀などの名勝があります。万葉集に「わが船は 比良の
湊に 漕ぎ泊てむ 沖辺な離り さ夜ふけにけり」と言う歌が載せられています。
この歌は夜に船を停泊させる湊が比良川の河口近くあった事を示しています。

P82
近江の神社の多くは奈良時代の天智朝、天武朝に創祀されたと伝えられる古社です。
その中に、平安時代に朝廷が崇敬した神社があります。醍醐天皇の御代に制定された
延喜式神名式に、国家の祭祀にかかわる神社の一覧が揚げられています。
式内社と称され、祈年祭にあたり幣棉を受ける大社と地方の行政機関である国司
から受ける小社があり、そのうち名神大社とされる、特に国家の重大事に神祇官
が斉行する名神祭に列する二八五座の大社がありました。
この式内社は全国で2861処3132座の神社が揚げられています。
近江国には、滋賀郡八座、栗太郡八座、甲賀郡八座、野洲郡九座、蒲生郡11座
神崎郡二座、愛知郡三座、犬上郡七座、坂田郡五座、浅井郡14座、伊香郡46座
高島郡34座計155座があります。、、、、、
近江の式内社のうち、琵琶湖西岸に位置する古代の滋賀郡には、七社八座が「延喜式」
に載せられています。
これらの式内社について、「神社 録」は、次の通り記しています。
・那波加神社
・倭神社
・石坐神社
・神田神社
・小野神社二座
・日吉神社
・小椋神社
このうち、日吉社について言えば、名神大の一座は従4位上の大山咋神ではなく
正1位の大己貴神とあるべきところです。
滋賀郡は、古市、真野、大友、錦部の四郷からなり、湖南の錦部は古代の大津京
の置かれたところで、湖西の真野はその基盤となる地域です。式内社をはじめ
とする神社は、真野氏、小野臣や近江臣など湖西地域を本拠地とする古代豪族
の創祀になるものが多く、比叡や比良の山麓と琵琶湖畔に鎮座しています。
滋賀郡の北部に位置する真野郷には式内社である神田神社があり、隣接してやはり
これも式内社である小野神社があります。両社は湖西を本拠地とした古代豪族の
真野氏と小野氏が祭祀した神社です。祭神は、天足彦国押入命を同じくし、それぞれに
米餅シマ大使主命と彦国葺命を祀っています。

P84から
日本書紀に「天足彦国押人命あまたらしひこくにおしひとのみことは、此れ和邇臣等
が始祖なり」とあります。日本書紀によると、天足彦国押人命あまたらしひこくにおし
ひとのみことは、第5代考照天皇の皇子で、母妃は尾張連の遠祖興津世襲の妹世襲足媛
とあります。また、古事記には、天押帯日子命あめおしたらしひこのみこととし、
奥津余曾の妹余曾多本毘売命よそたほひめのみことの御子とあります。

古事記には、兄天押帯日子命は、「春日臣、大宅臣、粟田臣、小野臣、柿本臣、
壱比韋臣、大坂臣、阿那臣、多紀臣、羽栗臣、知多臣、牟邪臣、都怒山臣、
伊勢飯高君、壱師君、近淡海国造の祖なり」とあります。
これらからは、春日、大宅、柿本、壱比韋は大和国の氏族、粟田は山城国、
小野、近淡海国造は近江の氏族であり、その他、尾張国、伊勢国など諸国の氏族です。
いずれも、天武天皇13年の「八色の姓」制定において、朝臣の姓を授けられている
豪族です。ここに挙げられた氏族は、天押帯日子命を祖とすることによって同族
とされていました。
その紐帯は共通の祖を祭祀することにあります。それを保証するのが天皇に
連なる系譜です。天押帯日子命を祖として祭祀することにおいて、近江国の真野氏
もまた春日臣らと同族の一員であるといえます。
筆頭の春日臣は、「新撰姓氏録」に、「大春日朝臣、考照天皇皇子天帯彦国押人命
よりでるなり」とし、「家に千金を重ね、、、、、後改めて春日臣と成す。
こう武天皇延暦廿年、大春日朝臣の姓を賜る」と記しています。

「新撰姓氏録」に「和邇部。天足彦国押人命三世孫彦国葺命の後なり」とあります。
そして、同じく「真野臣。天足彦国押人命三世孫彦国葺命の後なり」とも記して
います。
大和国に本拠を置く和邇部と近江国の真野臣は、同一の遠祖に連なっています。
和邇氏の祖神が大和国で祭祀されるのに対して、真野臣の祖神は近江国で祭祀されて
きました。それが他ならぬ神田神社です。神田神社は、真野と並んで普門にも鎮座
しています。普門町の宮地のそばに天足彦国押人命三世孫彦国葺命を祀る神田神社
があります。樹林に囲まれて本殿は檜皮葺きの三間社流造りです。
神田神社(真野普門)
祭神 天足彦国押人命三世孫彦国葺命、素 鳴命すさのおのみこと
   鳥務大津忍勝とりのつかさおおつおしかつ

P94  比良山麓の鎮守社
比叡、比良山麓の真野川、小野川、和邇川の流域に広がる真野郡には、各村落に
鎮守社が鎮座しています。それらの多くはかって荘園領主が地域の鎮守として勧請
した神々であったが、近世以降は村落の鎮守として祭祀されて来た。
志賀町史は、比良山麓の荘園鎮守の社について「この地域が山門膝元であっただけに、
山王上七社を構成する神祀の一つ十禅師権現を勧請したものが多く、本町地域の
荘園においても例外ではない」としている。そして、「和邇荘には大字和邇中に
天皇社、木戸荘では大字木戸に樹下神社、比良荘は大字北比良と南比良の村境に
天満神社、樹下神社、小松荘には大字北小松に樹下神社がそれぞれ鎮座しているが、
天皇社はかっての牛頭天王社、木戸、比良、小松の樹下神社は旧十禅師権現社である」
と記している。
近世までの各神社は、明治の神仏分離によって社号や神号の改変が行われた。
祇園社の牛頭天王と日吉社の十禅師および明神は、いずれも仏号であるとして
神号に改められた。

志賀町史からの記述では、
町内の神社はいずれも規模が小さく、本殿と鳥居、拝殿、御輿庫、
などの付属建物で構成される。とくに、拝殿は三間もしくは二間
の正方形平面で入母屋造り、桧皮葺(ひわだぶき)である。
なお、補足に「びわ湖街道物語」(西近江路の自然と歴史を歩く)を活用
しています。
主な神社建築は、
①樹下神社(北小松)
十禅師社と天満社の二棟。
祭神は、鴨玉依姫命カモノタマヨリヒメノミコト
②八幡神社(南小松)
祭神は、応神天皇
③天満神社(北比良)
祭神は、菅原道真公
④天満神社お旅所(北比良)
⑤樹下神社(南比良)
⑥湯島神社(荒川)
祭神は、市杵島姫命イチキシマヒメノミコト
⑦樹下神社(木戸)
樹下、宇佐宮、地主の三棟がある。
祭神は、玉依姫命タマヨリヒメノミコト
十禅師権現社と称し、コノモトさんとも呼ばれていた。
また、木戸荘の荘園鎮守社として勧請され五か村の氏神となっており、
木戸、守山、大物、荒川、北船路村からなる木戸荘の惣氏神とされた。
⑧若宮神社(守山)
⑨八所神社(北船路)
⑩八所神社(南船路)
祭神は、八所大神、住吉大神
⑪水分神社(栗原)
祭神は、天水分身アメノミクマリノカミ
⑫住吉神社(北浜)
祭神は、底筒男命、中筒男命、表筒男命
⑬大将軍神社(中浜)
祭神は、中浜神
⑭樹元神社(南浜)
祭神はククノチノカミ
⑮天皇神社(和邇中)
三宮神社殿、樹下神社本殿、若宮神社本殿もある。
祭神はスサノオノミコト。元は京都八坂神社の祗園牛頭天王を奉遷して
和邇牛頭天王社と称した。
近世では、五か村の氏神。
⑯小野神社(小野)

P160
万葉集には湖西を詠った歌も多い様だ。
・思いつつ来れど来かねて三尾の真長の浦をまたかえり見つ
(三尾の崎は高島南部の明神崎?と言われている)
高島勝野周辺の風景の美しさに心を打たれた様子が分かる。
・高島の阿渡の湊を漕ぎ過ぎて塩津菅浦今か漕ぐらむ
安曇川の河口にあった湊に停泊していた船が今はもう塩津か菅浦辺りをを漕いで
いるのであろう、という想いある歌。
・大御舟泊ててさもらう高島の三尾の勝野の渚し思ほゆ
天智天皇たちの乗った舟が近江の湖を巡幸し、一旦停泊し勝野などの情景に
感動した体験。
日本書紀の斎明天皇の5年の時に、「天皇、近江の平浦に幸す」とあり、ここに言う
「平浦」とは比良の浦であり、比良の湊のことであったと考えられます。
湖西線の駅で言えば、北小松から近江舞子、比良、志賀駅などの湖水側は、比良の浦と
称する美しい浜と湖が続いており、時の天皇はそこへ度々行幸されていたのです。
・わが舟は比良の湊に漕ぎ泊てむ沖辺な離さかりさ夜ふけにけり
私の乗った舟は今夜は比良の湊に停泊する事にしよう。沖のほうに湊を離れて漕ぎ
出さないように気をつけてくれという意味。

また、柿本人麻呂の歌で、
近江の海 夕波千鳥 汝なが鳴けば 心もしのに 古いにしえ思ほゆ
近江の海の夕波にさわぐ千鳥よ、お前が鳴くと心も萎えるばかりに昔のことが偲ばれる
近江の海の広がりが空間的なものを時間的なものへと変えている。つまり郷愁と
懐古の想いが明確に出ている。

P169
万葉集に旋頭歌がある。
青みづら依網よさみの原に人も逢はぬかも石走淡海県いはばしるあふみあがたの
物語せむ
依網の原で誰か人に逢わないかな、近江県の物語をしたいもの、と言う意味。
これも柿本人麻呂の歌らしいが、伝承歌的なものなのであろう。

近江大津京の廃墟に立ち寄ったときに、人麻呂が今は草に埋もれ、霞の中に無残な姿を
晒しているかっての都の跡をみて詠じた歌であります。知られるように大津京は
壬申の乱で廃墟となりました。喪失の感情と傷ついた心の内にあるかなしみが
これらの歌から伝わってきます。

楽浪さざなみの志賀の唐崎幸くあれど大宮人の船待ちかねつ
楽浪の志賀の大わだ淀むとも昔の人にまたも逢はめやも

唐崎は今も変わらずにあるが、いくら待ってももう大宮人たちの乗った舟はやって
こない、また志賀の大曲おおわだ(入り江などの地形が湾曲しているところ)は
人待ち顔に淀んでいても、旧き都の人たちに逢うことは出来ない、と喪われて
しまったものの重さ、大きさに焦点をあてて詠っています。

さらには、「近江野ざらし行」より、
和邇の湖岸は古歌に平浦、湊と詠われたところとも当たられて今の中浜、北浜、
南浜一帯を言われまた、南北比良あたりともされているが、南浜の樹元神社は
天暦8年創建ともいわれ北浜の住吉神社は寛政7年創始といい、南船路の八所
神社は神護景雲二年(768)創建と伝えられ真宗慶専寺は元天台で恵心の
創立といい北浜の真光寺は伝教大師の創立と言え早くから開け北国街道、
龍華街道の和邇駅への湖上の湊として比良とはすこし隔たっているが相応しく
想定される。
わが船は比良の湊に漕ぎ泊てむ沖へな離りさ夜ふけにけり  万葉集 高市連黒人
ふゆゆけば嵐やさえて漣(つれづれ)の比良の湊に千鳥なくなり     新拾遺集 
宗尊
ふねとむる比良の湊に浮きねして山郭公(ほととぎす)枕にぞきく  家集頓阿

他には、
におの海霞める沖に立つ波を花にぞ見する比良の山風   藤原為忠
嵐吹く比良の高嶺の嶺わたしにあはれしぐるる神無月かな  道因法師
桜咲く比良の山風吹くなべに花のさざ波寄する湖      藤原長方
比良山の小松が末にあらばこそわが思ふ妹に逢はずなりせば  柿本人麻呂
子の日して小松が崎を今日見れば遥かに千代の影ぞ浮かべる 藤原俊成

栗原 天台宗の慶福寺、その150センチの石造宝塔、熊沢蕃山所縁の地
南船路 八所神社、浄土宗の光明寺、天台の西福寺、志賀清林の墓、
志賀 樹下神社の大きな狛犬、安養寺、西方寺、正覚寺

北小松の樹下神社
玉依姫、菅原道真を祭神とする。
鳥居の近くの石灯篭の奥に高さ二メートルを超える石造り宝鏡印塔が建っている。
近代の新しい二重の基壇の上に昔の返り花をつけた基壇上に壇上積式の基礎、
塔身、笠、相輪、宝珠と完備する塔で、笠の隅飾りの一部と宝珠が少し欠けているが、
文和5年2月の刻銘のある南北朝時代の代表的な塔で笠の四隅の飾りは、
蓮座上月輪、塔身の舟形背に浮き彫りされた四仏の座像など見事である。
本殿の後ろにも2基の石造り宝塔が建っている。高さは良く似ているが
宝珠のない塔は基礎低く側面飾りなく塔身も素朴で笠軒厚く全体に大らかに
造られ鎌倉時代末の塔で、となりの基礎に輪郭を捲き格狭間内に、開花蓮、
三茎蓮を陽刻しているが茎の曲線が面白く塔身も細かく意匠される。
相輪は後補の南北朝時代も室町時代に近い作品と推定される。

比良山は霊仙、権現蓬名、堂満といわれるようになった。


参考
歴史の中で比良明神が尻されたのは、明確ではないが、「石山寺縁起」には登場し、
奈良時代東大寺建立に尽力した良弁僧正の前に、老翁となって現われ、石山寺の地
を譲り、如意輪観音を祀らせたと伝えられる。また、琵琶湖が七度も葦原に変じた
のを見たほどの老齢で、仏教結界の地として釈迦尊に比叡の地を譲ったと言う
説話もあります。
旧くは湖西の山々を司る神が比良明神と言われている。
比良は修行のやまであり、「梁塵秘抄」には、
「聖の好むもの、松茸、平茸、滑薄なめすすき、さては池に宿る蓮のはい、根芹、
ねぬなは、河骨、独活うど、蕨、土筆」
山中で修行する聖が好む食材が豊富にある場所が比良だった。様々な茸、せり、
ジュンサイ、独活、土筆など山の幸が豊富な聖地との想いがあった。

2016年2月16日火曜日

志賀郷土料理の会より

先日、志賀郷土料理の会を訪問した。
皆さん女性ばかりであるが、料理への熱意が横で見ているだけの私にも
伝わってくる。中々に熱い会である。
先ずは、指導されている原さんからこの活動の動機や活動内容をお聞きした。

■活動を開始した動機
志賀郷土料理研究会(代表 原康子)は平成13年5月に志賀町(当時)社会
福祉協議会のボランティアサークルの一つとして発足した。その後、志賀郷土
料理研究会が設立母体となって、平成16年4月に志賀郷土料理の会が組織され、
これまで一体となって活動してきた。その動機は、
・昔から食べつないできた地域の郷土食が若い世代に受け継がれていないことに
危機感を抱いたこと
・地域の郷土食のなかに培われてきた長年の知恵とわざをお年寄りから学びたい
・郷土食を通して地域のつながりを深め、支え合う社会をつくりたい
とのこと。

参加されていた方々からのお話でも「地域のお年寄りから郷土食を学びたかった」、
「子供の頃の味を再び味わいたかった」など14年間経てもその動機と想いは
生きているようでした。

■その活動について
このような動機から志賀郷土料理研究会/志賀郷土料理は発足したが、
具体的には次のような活動してきた。
・この地域に受け継がれてきた郷土食をお年寄りから学ぶこと
・郷土食の魅力を地域の若い世代に伝えること
・郷土食を広めることによって食生活の改善を図ること
・郷土食の普及活動を通じて、地域のつながりを深めること
郷土食には手間のかかった深い味わいがあり、幾世代もの人々の知恵がつながって
作りあげてきたもの。志賀郷土料理の会では、このような魅力ある伝統的な郷土食
を地域のお年寄りから直に学び、これをすべてレシピや写真として記録している。
郷土食は栄養的にもバランスがよく健康的な料理が多いので、志賀郷土料理の会
では、郷土食を毎日の食生活に取り入れることを進める普及活動にも積極的に
取り組んでいる。このような活動を通じて、食生活の改善を図り、地域の
つながりを深めることに貢献することも会の大切な活動と思っている。

現在の参加者は地元以外からの人も多く、郷土食を通じた人のつながり、食文化の
継承など、都市化し人のつながりが弱くなる最近の傾向とは別に、地域の重要な
コミュニティとなっていると感じた。

■何故、14年間も続いているのか、
会の発足当初は、80歳代のお年寄りから子供の頃から日常食べてきた料理を
丁寧に聞き取り、実際に作ってもらい食べる勉強を2年間続けてきた。
その間、調理法を記録し、レシピ作りも重ねて、出来上がったレシピをもとに、
当初は、地域で料理教室を何回も開き、その活動を広めてもきた。
郷土食は美味しいという50歳~80歳代がいる一方、若い世代、とくに子ども達
は食べたことがないために、「美味しくない」、「興味もない」という人が多いと
いう現実にもつきあたった。このような経験を重ねて、郷土食は食材の工夫と調理
次第で美味しく食べられることを知ってもらうことも会の大切な役目と分かってきた。
豊かな時代がいつまでも続くか不安がある中、地元で収穫される昔ながらの野菜
などを工夫して食べることを伝える必要があり、地元の野菜などを使うことに
よって、地域の農家も農作物を作ってくれるようにもなると思っている。

参加者のお話でも、若い人たちとの味の違いに悩んだり、地元の食材が手に入らなく
なる心配などが出ていた。特に、湖魚は捕れる量も減り、価格が高騰してきている
ことへの不安は大きい様だ。しかし、自分たちで作った野菜や港まで行って仕入れた魚
だけで料理をすることへのこだわりが14年間続いたのは凄い事であり、それが
会をここまで支えてきたのではないか、と思う。
また、この会の活動を広く知ってもらうため、2006年に「食べつなぐ ふるさとの
食事ー滋賀県志賀町」という本を出版した。その内容を少し紹介すると、
春は、「もろこ焼き」「なまり節と竹の子、ふき煮」「イタドリの煮付け」など。 
夏は、「ハス魚田」「小あゆの山椒煮」「にしんなす」「なかよし豆」など。
秋は、「あめのうおご飯」「干しズイキとえび煮」「山菜おこわ」など。
冬は、「氷魚のゆず酢」「鴨とクレソン鍋」「いさざ煮」など。
夫々の料理にはレシピがあり、写真とともに美味しさを目で味わえるようです。
さらに、「おせち料理」「きびがら染め赤飯」「はや寿司」ほか色鮮やかな歳時料理の
紹介もある。

■現在の活動をお聞きした。、
今は、30人ほどの人が参加して、月1回の割合で、郷土料理を勉強している。
例えば、訪問したこの日の料理は、「野洲・守山の伝統料理のおあえ団子」、
「ごはんピザ」、「新たまねぎと鯖水煮煮」、「ふきご飯」をその日の担当メンバーが
中心となりそのレシピに沿って、作っていた。いずれも季節感があり、美味しかった。
会の参加者も地元生まれで育ちの方は7、8名であり、東京、京都や熊本、
奈良などから移り住んだ人、隣りの高島市からなど多方面の人で構成されており、
様々な味感覚で豊かな食作りをされているようである。
参加者の言葉から様々な思いを聞いたが、共通した点は、自然豊かな志賀の味
を家族に食べて欲しいと言う強い思いである。
「姑として、嫁にこの地域の味を伝えたかった」、
「母親として子供たちに地域で取れる食材で手造りの料理を食べさせたい」、
「琵琶湖の魚介類を食材にした料理をもっと知りたい」、
「地元のお年寄りからこの地域の食材を使った料理を教えてもらうのが楽しい」、
「季節に応じた食材を使って四季を感じるのが楽しみ」、
「外から来た人間にとって豊富な湖魚の料理は参考になる」、
「冷凍食品や食材になれた若い人に季節ごとの生の食材の良さを知って欲しい」、
「メニューを決める時、レシピもないのに幼い頃食べた記憶だけから
 料理を再現できた時、”化石を掘り起こした気分”になる」、
「昔、おばあさんが食べさせてくれた懐かしい味が今の若い世代に
 食べつながれることを信じて活動をしている」
など等。
さらに、会の代表の東さんや他の中核の人たちが強調したのは、
「野菜類は自分で作ったものをその日に持ち寄り、魚介類はその日に捕れたものを
使う事が大事であり、これは会の発足当時から守るべきこととして大切にしている」
との言葉であった。また、今の子供たちや若い人に郷土の料理をそのままでは、
味わってくれないので、現代風にアレンジしていく事も大事とのこと。

■これから更に活動を続けるためには、
今まで会を支えてきたメンバーも年齢が高くなり、これからも活力ある活動を維持して
ゆくためにも、若い人たちの参加を進めて行きたい。また、特に湖魚は捕れる量の減少
とともに価格も高くなって来ていて中々入手が難しくなっている。野菜類も含め、
食材の確保が重要になりつつある。会は、主婦たちを中心とするボランティア活動
であり、資金的な基盤も弱く、どのようにして活動を維持してゆくか資金面でも
課題があるようだ。
しかし、これらの課題に対応しながら、若い世代や子供たちが郷土食に親しみ、
食生活の質を向上させるための取り組みを更に広く知ってもらいたい。
そのためには、他の地域の同じ想いの活動グループとの連携や様々なメディアを活用
した情報発信を考えて行きたい、との熱い想いも語られた。

先ほどの本を出版した時は、新聞社や様々なメディアからの取材もあり、当初は
各地のイベントに参加したりして、郷土料理を広く認知してもらえたが、最近は、
その活動も少なくなり、毎月開催の料理教室が中心となっているようである。
ただ会員規模は今の30名ほどがよいが、自分たちの活動をもう少し広く認知して
もらいたいと言う思いもあり、その両立をどうとって行くのか悩んでいるようだった。
 
以下のブログでも見られます。

万葉の世界から志賀の里を見る

時代の風情を見直すのは中々に難しい。江戸時代に隆盛を極めた浮世絵は、現在の
風景写真や人物写真にもあたろうか。それを更に遡れば、和歌であろう。
都に近かった志賀の里では、その季節に応じた多くの歌が詠まれている。
そこから、この里を知るのも、中々に楽しいものだ。

万葉集に旋頭歌がある。
青みづら依網(よさみ)の原に人も逢はぬかも石走淡海県(いはばしるあふみあがた)
の物語せむ
依網の原で誰か人に逢わないかな、近江県の物語をしたいもの、と言う意味。
これも柿本人麻呂の歌らしいが、伝承歌的なものなのであろう。

近江大津京の廃墟に立ち寄ったときに、人麻呂が今は草に埋もれ、霞の中に無残な姿を
晒しているかっての都の跡をみて詠じた歌である。知られるように大津京は
壬申の乱で廃墟となった。喪失の感情と傷ついた心の内にあるかなしみが
これらの歌から伝わってくる。

楽浪(さざなみ)の志賀の唐崎幸くあれど大宮人の船待ちかねつ
楽浪の志賀の大わだ淀むとも昔の人にまたも逢はめやも

唐崎は今も変わらずにあるが、いくら待ってももう大宮人たちの乗った舟はやって
こない、また志賀の大曲おおわだ(入り江などの地形が湾曲しているところ)は
人待ち顔に淀んでいても、旧き都の人たちに逢うことは出来ない、と喪われて
しまったものの重さ、大きさに焦点をあてて詠っている。

さらに、和邇の湖岸は古歌に平浦、湊と詠われたところとも当たられて
今の中浜、北浜、南浜一帯を言われまた、南北比良あたりともされているが、
南浜の樹元神社は天暦8年創建ともいわれ北浜の住吉神社は寛政7年創始
といい、南船路の八所神社は神護景雲二年(768)創建と伝えられ
真宗慶専寺は元天台で恵心の創立といい、北浜の真光寺は伝教大師の創立
と言え早くから開け北国街道、龍華街道の和邇駅への湖上の湊として比良とは
すこし隔たっているが相応しく想定される。

わが船は比良の湊に漕ぎ泊(は)てむ沖へな離(さか)りさ夜ふけにけり  万葉集 
高市連黒人
ふゆゆけば嵐やさえて漣の比良の湊に千鳥なくなり     新拾遺集 宗尊
ふねとむる比良の湊に浮きねして山郭公枕にぞきく     家集  頓阿

他には、
におの海霞める沖に立つ波を花にぞ見する比良の山風   藤原為忠
嵐吹く比良の高嶺の嶺わたしにあはれしぐるる神無月かな  道因法師
桜咲く比良の山風吹くなべに花のさざ波寄する湖      藤原長方
比良山の小松が末にあらばこそわが思ふ妹に逢はずなりせば  柿本人麻呂
子の日して小松が崎を今日見れば遥かに千代の影ぞ浮かべる 藤原俊成

古歌を聞くと、当時の景観や風情が何と無くわかる。浮世絵のような視覚的な
ものがあれば、さらに当時の情景がわかるのであろうが、歌だけでも、
この地域の自然の姿、そして当時の人の想いが伝わってくる。

時代を大分遡った昭和の初めに発刊されたこの地域を紹介している本の
冒頭の言葉は、これらと相通ずるものがあるのではないだろうか。
「自分の眼前に、神秘の謎を秘め、朝日夕陽に照らされて、こうごうしく
輝く偉大な母なる琵琶湖。琵琶湖が、木戸からでは一望でき、他の町村では
味わえないよさがある。
湖面に波一つなく、朝の静寂を破り、あかね雲とともに、母なる琵琶湖の
対岸の彼方より上り来る、こうごうしい朝日に向かい、手を合わすたびに
「ああ、ありがたい。今日も一日、幸せでありますように。」と祈る、
このすがすがしいひととき、この偉大なる母なる琵琶湖も、風が吹きくれば、
きばをむき、三角波を立て、悪魔のようにおそいかかり、鏡のような静かなる
湖も、荒れ狂い、尊い人命を奪い去る事もある。」

出来る限り、この万葉の世界は残って欲しいもの。

近江街道(昭和57年発行)より、その少し古き時代を感じる

約35年前の西近江路についてこの本は描いている。その時間的な経過も
合わせ、読み通すと中々に楽しい。変わらぬ場所が多いと感じるのも、
この地の良さかもしれない。

志賀町の由来
元志賀の名前が出たのは、昭和23年の中学校統合のときに、奈良時代に
相撲の行司として活躍したとされる志賀清林の埋葬の地であったことから
志賀中学校とされた。また、古来から滋賀郡に属していたこともかかわる。
明治22年の町村制の施行には、滋賀里、南滋賀、錦織など六か村が合併して
滋賀村が成立した事もある。また、江戸時代以前は、滋賀郡より志賀郡の方が
一般化していたと言うこともある。
続日本紀では、志我郡であり、その後は、志賀郡となり、後には、滋賀郡の
用例も出てくる。
地名としては、日本書紀に「志賀の漢人の慧隠」がある。志賀津(万葉集)
の付近、現在は大津市に含まれる穴太、大友、錦部などに中国移住民の
総称が「志賀の漢人」である。「志賀の高穴穂宮(古事記)」とか志賀の
唐崎(古事記)といった古い用例もみな大津市唐崎付近の湖岸一帯を
さしている。

西近江路は、仰木道の十字路を斜めに北へ進む。国鉄堅田駅を通り抜けると
あたらしい東西に走る広い道路に出る。左の道をとれば、真野から伊香立を
経て途中町へ、更に京都へと通じている。
旧街道は、再び国道161号線と合流し、真野川をこえ真野町の集落に入る。
右側の湖岸べりには、真野川によって大きな砂洲ができ、長く松林が続いている。
夏には水泳場としてにぎわう。
この真野周辺は、古くは湖岸線が今より深く入り込み、それを「真野の入り江」
といわれ、歌枕として著名な風光の地であった。平安時代末期の歌人、源俊頼
は、「うずらなく真野の入り江の浜風に、尾花すすきなみよる秋の夕暮れ」の
歌を詠んでいる。また、街道沿いにある正源寺の梵鐘には、鎌倉時代に真野庄
人々が願主となって梵鐘を神田社へ奉納、その二百年後に野洲郡中主町の兵主
神社へ移り、さらに焼く三百七十年後に地元に帰ったことなど、珍しい
銘文が刻まれている。
道は大きく左へ曲がり西へ進むが、正面に大規模な団地があり、その背後に
標高百八十七メートルの曼陀羅山が見える。この山頂には、全長七十二メートル
の前方後円墳の形態を有する和邇大塚山古墳がある。ところで、道は右へ
曲がりしばらく行くと、国道161号西近江路の分岐点がある。左側の道を
とれば、志賀町小野の集落にさしかかる。この小野の里は、古代近江を
代表する豪族小野氏の本貫の地であった。国鉄湖西線の下をくぐると、
左側の道脇に「外交始祖大徳冠小野妹子墓是より三丁余」と刻まれた石造
道標がある。この道標に導かれて進めば、新団地に囲まれるように妹子公園
がある。その頂上部分には、小野妹子の墓と伝えられる石室の露出した円墳
がある。妹子は六百七年、六百八年と日本最初の遣隋使として活躍した人であった。
小野の集落は、西近江路を挟んで形成されている。その真ん中辺りの左側を
少し入ったところに小野道風をまつった道風神社がある。静寂の中に三間社
流造りの美しい本殿の形姿を見せている。道風はいうまでもなく平安時代
末期の書家で、藤原佐理すけまさ、藤原行成とともに天下の三蹟といわれた。

さらに、街道を北へ進むと、白壁に囲まれた上品寺野手前にある左側の参道
の突き当りには小野神社がある。小野神社は、小野の鎮守であるが、その境内には
小野たかむら神社がある。これも道風と同じく三間社流造りでいずれも重要
文化財に指定されている。たかむらは平安時代前期の漢学者、歌人として
著名である。いずれにせよ、小野の集落は古代社会の文化に貢献した小野氏
を生んだ土地らしく、いまもそれを物語る貴重な遺跡が多く残されている。
小野の集落をあとにして和邇川をわたると、和邇中の家並みにはいる。
その真ん中あたりに三叉路があり、かっては西近江路の宿駅がおかれ、交通の
要衝にあたっていたところだ。左側の道をとれば、竜華から還来(もどろき)
神社前を通り伊香立途中町へ。ところで、この三叉路のちょうど真ん中には、
地名の由来にもなった榎の大木があったが、枯れてしまったので明治百年記念
に大きな石に「榎」と記した碑が建てられている。榎はかって神木として
仰がれていたので、いまも注連縄がめぐらされている。この石碑は私たちに
歴史的足跡を教えてくれる好例であろう。また、その角には木下屋という
旅館があり榎の大木があったことをしのばせている。

西近江路には、江戸時代の思想家で、近江聖人といわれた中江藤樹所縁の伝承が
おおい。この榎の宿にも、いまも語り継がれている話がある。
和邇中の集落をあとにして道は、湖西線の下をくぐり湖岸に向かい、そこで
国道161号と合流して、中浜、北浜の細長い家並みを通る。
近世では、西近江路の街道筋を中心に「和邇九が郷」といわれ、それには
小野、栗原、中村、高城、今宿、南浜、中浜、北浜、南船路の各村が含まれた。
そのうち、北浜、中浜、南浜は、琵琶湖岸に接し和邇浜と呼ばれていた。
ここでは、琵琶湖特有の?が捕れる浜となっていた。江戸時代初期に
あたる寛永年間にできた「毛吹草」に諸国名物の一つとして「和邇崎のイサザ?」
とあり、すでにこの地の名産として知られていた。
?はうきごりの幼魚にあたり、体長約5センチぐらいの淡水魚で、飴煮や?汁に
する。その淡水魚独特の素朴な味覚は、いまも捨て難いものがある。
鮒寿司、氷魚などとともに湖国料理を代表するものといえよう。

北浜の集落から西近江路を北へ進むと、目の前に高い比良の山並がたちはだかる。
この比良山系は、南から蓬莱山、鳥谷山、堂満岳、釈迦岳、武奈ヶ岳など
千メートルを越す山々で形成されている。眼下に琵琶湖をもつ比良山系は、
それぞれ山容が変化に富むとともに、四季折々異なった景色を見せ、
登山者に親しまれ愛されてきた。
一方、それを眺める山としても著名であった。春になっても山並の頂上部に
まだ雪を残したその景観は素晴らしく、「比良の暮雪」として近江八景の
一つに数えられ、江戸時代の名所や浮世絵版画に登場している。
また、「比良の高嶺、比良の山嵐、比良の山」といった歌枕として万葉集、
新古今和歌集など多くの歌集にも見ることが出来る。

西近江路は、国鉄湖西線を再びくぐり、北船路の八所神社の前へ出る。
この八所神社の由来は、日吉社の神官祝部行丸が、織田信長の比叡山
焼き討ちの時、その難をのがれて、日吉社七体のご神体をこの地に
運び、元来の地主神と合わせて八神をまつったことによると言われている。
ところで、北船路は比良の山上にある小女郎池への登り口にあたる。
蓬莱山と権現山とのほぼ中間にあるこの池は、およそ千メートルも高い
ところにあって、今も水をたたえている。この池を見るにつけ比良の
山のもつ神秘性をうかがわせる。小女郎池は、竜神の住む池として地元の
人々から畏敬され、干ばつになると、かっては雨乞いの行事が行われた。
今も山麓の集落との結びつきが強い池である。

道は、八屋戸守山の集落の手前で、左に入り右へ曲がるが、その角には
「左京大津」と刻まれた自然石の道標がある。
この守山は、明治7年に隣りの北船路村と合わせて、八屋戸村となった
ところだ。守山は、比良山系の一つ蓬莱山への登り口としてしられている。
この集落の真ん中を通る坂道を上がれば、標高500メートル付近に文政11年に
勧請した湖上航行の安全の神をまつる金毘羅神社がある。更に進むと金毘羅峠を
越えて蓬莱山へと道は続く。また、守山の集落は、湖岸の八屋戸浜に接している
が、この浜から江戸時代には薪炭、石材などが湖東、大津方面まで舟で
運び出されていたのである。さて、道は守山の集落を跡にすると、再び国道
161号と合流して北へ進む。道の左側には比良山系が屏風のように立ちはだかり、
右側には琵琶湖を眼下に見下ろし、その景観は素晴らしい。

道は、びわ湖バレイの道路の前を越えると、左側の少し高台に相撲技の始祖という
志賀清林をまつる墓と相撲公園がある。清林は、木戸に生まれ、聖武天皇の勅命
を受けて相撲の四十八手の基本作法を編み出したといわれる。
道は、再び北へ木戸川を越え、左側の旧道に入る。木戸の集落が続き、樹下神社
山道と交差する。この辺が木戸集落の真ん中で、かっては木戸の宿があった。いまも、
当時の旅館の屋号や常夜燈が残されている。ここは、志賀の中枢部であり、樹下神社の
祭礼も「五ヶ祭り」と言われ、周辺の大物、荒川、木戸、守山、北船路の旧木戸荘の
人々によって行われている。木戸は石の産地としてもしられ、江戸時代初期の
「毛吹草」にも名産の一つに木戸石が見える。
木戸の集落をすぎると、国道161号と合流し、荒川の集落から大物の家並みに入る。
この集落には、歴史的に有名な二つの寺院がある。一つは右側の道を下った所にある
超専寺であり、親鸞が流罪となり越後に向かうとき大物の三浦義忠が一考を泊めた。
そのとき、各地から親鸞を慕って多くの人がきて、義忠も親鸞の人柄に惚れ、
出家した。これにより「明空」の縫合を授かった。
このため、親鸞ゆかりの旧跡とみられ、参拝者も多い。
また、左側の道を登れば、薬師堂がある。
大物をすぎると道は、ほぼまっすぐに北へ延び、右側には琵琶湖岸に位置する南比良
北比良の集落を見下ろす事が出来る。
この湖岸線は比良浦、比良湊とよばれ、「新拾遺集」の
「ふけゆけば嵐やさえてさざ波の比良の湊に千鳥鳴くなり」をはじめ、多くの
詩歌が詠まれている。

道は、湖岸から参道が続く天満宮社の前を通り、坂道を登るようにして水のない
比良川をわたる。この比良川の下流にあたるところは、大きな三角州が形成され、
その中に内湖をだいている。内湖と琵琶湖の間には細長い浜が数キロも続く。比良川系
から流し出された白い砂と緑の松とが好対照をみせ、独特の景観をみせている。
古くから西近江路の景勝地として知られていた。
昭和25年選定の琵琶湖八景では、「雄松崎の白汀」とよばれ、近年では琵琶湖随一
の水泳場として最もにぎわうところである。
道は、南小松の集落をあとに国道と合流して北へと進むと、左側の比良山系に一筋の
滝を見ることが出来る。比良の山中には、滝が多い。なかでもこの小松山に
かかる揚梅の滝は、落差がおおよそ80メートルあり、水しぶきをあげながら
落花する姿は雄大である。また、この滝は白布を引くように見えるので、布引の滝
とも言われている。江戸時代の享保19年に編纂された「近江興地志略」には
「滝壺5間四方ばかり滝の辺、岩に苔生じ小松繁茂し、甚だ壮観なり」とあり、
滝の状況を記すとともに、比良山系のなかでも景勝地の1つであった事を
示している。揚梅の滝への道は、北小松の集落が登り口になっている。
その道筋に楊梅滝道の道標があるが、それには児童文学者の巌谷小波の
「涼しやひとあしごとに滝の音」の句が刻まれている。

西近江路は、楊梅の滝に水源を持つ滝川を越え、樹下神社の前辺りで国道と
分岐する。右側の狭い旧街道に入る。旧街道には、北小松の集落の家並みが
細長く続き、道の左に溝をとるなど街道の面影をよくとどめている。
この集落の右側には、すぐに琵琶湖に接し、古くから小松津とよばれ、
湖上輸送の船着場として知られる。「堀川後百首」にも「さざなみや
小松にたちて見渡せば、みほの岬に田鶴むれてなく」の歌がある。
そして北小松は水陸の輸送の便に恵まれ、明治13年当時は船63隻
旅籠が七軒もあった。
みちは、長い集落を通り過ぎると再び国道と合流する。この付近から
比良山地と湖が接近している。道は湖の際を通り、やがて志賀町と高島町
の境をなす鵜川にさしかかる。このあたりは、かって鵜を使っていたところから
川名と旧村名のその名がついたといわれている。


古来より西近江路の交通の要衝としての志賀周辺は様々な道標がありました。
そんな中ででも、白髪神社の道標が7つほど現存しています。
古来白鬚神社への信仰は厚く、京都から遙か遠い当社まで数多くの都人たちも参拝
されました。その人たちを導くための道標が、街道の随所に立てられていました。
現在その存在が確認されているのは、7箇所(すべて大津市)です。
建てられた年代は天保7年で、どの道標も表に「白鬚神社大明神」とその下に距離
(土に埋まって見えないものが多い)、左側面に「京都寿永講」の銘、右側面に
建てられた「天保七年」が刻まれています。
二百数十年の歳月を経て、すでに散逸してしまったものもあろうと思われますが、
ここに残されている道標は、すべて地元の方の温かい真心によって今日まで受け
継がれてきたものです。その最後の道標が八幡神社の参道の手前にあります。
http://shirahigejinja.com/douhyou.html
http://kaidouarukitabi.com/map/rekisi/nisioomi/nisioomimap1.html


近江祭り
http://www.eonet.ne.jp/~oumimatsuri/

2016年2月4日木曜日

近江の文学のすべて(季節の移ろいを知る)

「滋賀の文学地図」(朝日新聞大津支局編)にも、多くの近江文学の紹介がある。
「湖の風回廊」「におの浮巣」からまとめる。

1)湖の琴(水上勉)
余呉湖と木之本西山、大音の琴糸生産に絡む人々が寒村の娘を中心に女の哀れ
とともに、情景豊かに描かれている。
「大けな湖やな。若狭の海と変わらん」
「でもな、余呉の湖は、こんなに広い事はあらへんえ・小ちゃな湖や。まるで沼みたい
な、ふかいとこや。琵琶湖よりもおとなしゅうて、美しい湖や。」
「渡岸寺へ詣って、観音さんの美しさに見惚れたあとで、あの娘を見ましたんやな。」
渡岸寺の十一面観音がこの作品には良く出てくる。
「きくは、山の中をまだ馴染まない主人につれられて歩いて来たので、心細かったが、
急に視界が開け、南側に大きな湖と小さな沼のような湖がみえたので、びっくりした
ように眺めていた。南の琵琶湖は、白くて、海のようにひろがっているけど、北の
余呉の湖は、まるで擂り鉢の底のように低く沈んでいた。」

2)戦国幻想曲(池波正太郎)
湖北町の山本城に生まれた槍の名人勘兵衛を中心に銭ヶ岳周辺を描いた。

3)星と祭(井上靖)
娘と父親が琵琶湖で亡くなった二人が湖岸の十一面観音を巡礼。
高月や木之本町の十一面観音を美しく描いている。
「ただ、現在この十一面観音がここにあるということは、これを尊信した
この土地の人の手で、次々に守られ、次々に伝えられて、今回に至ったと
言う事であろう。架山はこれまでにこのような思いに打たれたことはなかった。」
「まず、善隆寺の観音様、そして、宗正寺の観音様、医王寺の漢音様、鶏足寺の
、、、、、。湖は月光に上から照らされ、その周辺をたくさんの十一面観音で
飾られていた。これ以上の荘厳された儀式というものは考えられなかった。」
更に、大津坂本の盛安寺の11面を拝してもいる。
「微かに笑っているようなふくよかな顔、がそこにある。京都や奈良の大寺でみる
取り澄ました顔の仏像にはない温かい息づかいが肌にふれてくる。、、、、、
湖畔にたたずむ十一面観音像の美しさは、単に造形的な美しさではない。それぞれの
生活が営まれるそれぞれの土地に、見過ごしてしまいそうな小堂があり、その
中央の厨司の中に大切にまつられ、お守りされている観音像、そこに住む人の
生活の歴史が、像の皮膚に染み込んでいる様に思われる。これが生きた息づかい
と感じられ、自然にこちらも微笑せずにはいられなくなるふくよかな微笑み
として現われるのである。盛安寺11面観音像は、その後、かっての観音堂
のすぐうしろに建設された収蔵庫のなかに、いまもひっそりと立っている。

4)竹生島心中 青山光二
心中にいたるまでの心境が美しく描かれている。
八日市、近江八幡(とくに明治末期の情景が詳しい)、長浜の町が登場する。

5)酒呑童子異聞(佐竹昭広)
伊吹山周辺の伊吹童子の言い伝えを描いた。山の伝説を調査した柳田國男
からはヤマト政権に追われた山の住人たちの悲哀ともしている。

6)日本百名山(深田久弥)
深田は50年ほどの登山歴の中から、名山としての基準を三つ設定し、それに
当てはまる百座を選んだ。三つの基準とは、山の品格、歴史、個性、
そして付随的に標高1500メートル以上。百名山の一つの伊吹山について、
「私たち山好きの間には、「老年の山」と称するのがある。若く元気な時に困難な
山登りをして易しい山は老年のためにとっておく。伊吹山もその、「老年の山」
の1つであった。いつでも行けると思うと、自然後回しになる。」
また、伊吹山は薬草の山として知られている。

7)宗方姉妹(大仏次郎)
戦後間もなく満州から引き揚げてきた宗方一家とその周辺を描いている。
長浜の曳山祭りを鮮やかな色彩の思い出として描いた。作品の中には、示唆ある言葉も
多い。
「昔の人間が造って残してくれたものは、いつまで経っても大切」
「町の中に美しい川を持つのは、都市として他に取り換えるもののない幸福
なことである。」
「日本間は、何もおいていなくとも心が鎮まるようにできている。ヨーロッパの生活は
置くものがなければいけないでしょう。欲が生活様式の基礎になって、背負ってきた荷
物がだんだん重くなって、邪魔になって、動きが取れなくなる」
また、書かれている会話の言葉が美しい。最近の簡略化し、情緒のない言葉に慣れた人
にとっては、大いに参考になるのでは。
ラリックのガラス花瓶についての美しい記述もある。
「ガラス細工にしては厚みのあるどっしりとした花瓶で、水色に葉飾りを彫刻してある
のが光の当たる調子で美しく淡い紅いの色が浮いて出るのを、宏は電燈の下で動かして
見せた。」
なお、近江には山車を伝える地域は20か所ほどある。
長浜、米原曳山、大津、日野祭り、水口曳山、大溝祭り、五個荘、安土老蘇、近江八幡
など。
さらに、大仏次郎は大の猫好きであった。家には、招き猫や眠り猫の愛像が
たくさんあったとのこと。

8)一豊の妻(永井路子)
山之内一豊の妻の話であるが、長浜坂田を描いている。
千代の性格や行動が描かれている。近江町の長野家で住まいしていた。
山内一豊の居城であった長浜城。

9)瞼の母(長谷川伸)
米原付近の番場の蓮華寺を舞台。

10)絹と明察(三島由紀夫)
彦根にある近江絹糸の労働争議を描いたモデル小説。女工哀史として有名となった。
私物検査の即時停止や結婚の自由を認めよなど人権争議となり、熾烈を極めたが、
ストから106日目組合が勝利して終結した。
「暗い階段をいくつも昇る。鉄砲狭間の三角四角、矢狭間の短冊形の、小さな
光りの破片がいくつも足下に落ちる。ついに最上階に来て、人ごみを分けて
西の窓を覗くと、琵琶湖はうららかに展け、網代の小柴が点々と見える。
眼下の湖畔に、駒沢紡績の煙突が煙をあげている。
もっとも眺めの良いのは、南の窓である。岡野はその窓辺を離れる気になれなかった。
一望の下にある犬上平野は、芹川の川向こうから、徐々にまばらになる人家の
あいだに、冬菜の畑や刈田のひろがりを際限もなくつづけ、観音寺山の霞む山頂に、
いくら巻いてもはねかえる卒業免状の紙のような、固い冬の雲の幾巻きを置いていた。
窓のすぐ上の空を鳶がめぐり、窓框かまちに光る蜘蛛の巣がキチンとした綻びのない
図形を掲げていた。その蜘蛛の網までが、追憶の正確な形を保っているように
思われたので、岡野はヘルダリアンの追想の一節を口ずさみ、こんな小春日
のなかで、詩が突然、鋭い殺人の道具に変貌する様を思い描いた。」


11)石田光成(尾崎士郎)
彦根近くの佐和山上跡を思い、敗者の光成への思いを描いている。

12)春(島崎藤村)
関西漂泊の旅から始まる自伝的な小説であり、石山、彦根、八日市などを
描いている。恋に悩み、生に悩み、芸術に悩む青年たちを通して、遂には
「自分のようなものでも生きたい」という想いで。東北に旅立っていく
自分の姿を描いている。石山寺の春が疲弊した藤村にとっての大きな慰めであった。
「職業を捨て、友達と離れて、半年の余も諸国を流浪して来たということは、
岸本が精神の内部をよく説明していた。琵琶湖に近い茶丈の生活はまだ岸本の
眼にあった。」
藤村の憧れた松尾芭蕉や紫式部への想いが石山寺への滞在ともなっている。

13)花の生涯(船橋聖一)
彦根藩井伊直弼の生涯を描いた小説。彦根の袋町、多賀大社、埋木舎、清涼寺
を描いている。
「長い雨季の終わり。
夕空は久しぶりに伊吹山の山頂まで、くっきり晴れわたって見えたが、芹川の
水は見違えるほど水嵩を増していた。堤の東は、袋町の花街である。」

14)危険な水系(斉藤栄)
琵琶湖の死体からその謎を解くミステリーだが、琵琶湖にある三つの
潮流をひんとにしたり、多賀大社のお守りをヒントとしている。

15)干拓田(早崎慶三)
近江八幡から安土をまたぐ大中の湖を描いている。
「安土に野に広がり、湖周は深い葦原で行行子と句の上で呼ばれる
葦きりが、さしひきする潮波のさまで囀り合う初夏には水辺一面
目の覚める鮮明さで、まっ黄く、ひつじぐさ科の河骨が息吹をあげる。
水面四、五寸抜き出たその一輪花の群れを、かき分けるようにして
野菜舟が櫓べそを軋らせて通う。、、、冬は鴨が舞い降り、青葦は
乾いて野晒しの骨の擦れ合う佇しみの中にも飛沫をはねて鯉の躍る
音がする。深々と納まり、ひそやかに呼吸する水郷であった。」
大中湖の干拓により追われた漁師の悲哀がある。

16)古城物語(南条範夫)
安土城を作った男の半生。安土城の鬼門櫓などの短編集。

17)安土往還記(辻邦生)
安土城を訪問したポルトガル通訳の人の語りから織田信長の心の底にある
孤独や虚無を知る。

18)筏(外村繁)
五個荘の近江商人の一族を数代にわたり描いた「草筏」「筏」「花筏」
の3部作であり、外村の私小説。外村は分家の人間であったが、この作品を
通じて近江商人の封建制やそこの人間の持つ業を描いた。
本家は、今は「てんびんの里伝統家屋博物館として母屋、書院、大蔵、米蔵
などの建物が公開されている。
「この江州の東部地方は古くから所謂近江商人の出生地として有名であった。
が、殊にこの六荘村は、中ノ庄に藤村家、橋詰に岩井家、太子堂に仲家などの
県下屈指の分限者たちが集まっているので、まるで近江商人の本場のように
言われていた。」

19)歴史を紀行する(司馬遼太郎)
蒲生郡石塔寺の石塔の由来を考える。日本の中の朝鮮文化とも言われる。

20)蒲生氏郷(海音寺潮五郎)
日野町を中心とした氏郷の武人、茶人、経済人の生涯を描く。日野商人や日野椀
から出た会津漆器などの彼の重商主義の残り香や日野鉄砲の製造もある。
墓は日野の信楽院。5月には日野祭がある。

21)小倉日記(森鴎外)
森の祖父の白仙の墓を土山町の常明寺に見つけた時の喜びが描かれている。
しかし、今はその墓碑は津和野の永明寺に移されている。
「門前より一町ばかり、田圃尽きて、将に河岸に下らんとする処に
古栄域あり。その有縁の墓碑の如きは、皆既に寺の境内に遷せり。
なお無縁の古碑二三存ぜるものありと。赴いて求むるに、幸いにして
荊棘の間に存す。表には題して森白山源綱浄墓という曰ふ。右に文久元
辛酉歳十一年七日卒、左に石州津和野医官嗣子森静泰立石と彫りたり。」
土山には、白川神社、田村神社や土山宿の本陣や旅籠が30軒ほども残っている。
広重の「土山、春の雨」や松尾芭蕉の句碑「さみだれににおの浮巣を身にいかむ」
などもある。

22)雪の下(倉光俊夫)
野洲の中主を訪れた移動演劇の人と農家の青年の交わり描いている。
農村風景の具体的な描写が特徴。

23)白拍子妓王(山田美妙)
平家物語に登場する妓王の話である。その郷里である野洲妓王寺。

24)蛍の町通信(国松俊秀)
守山の源氏蛍の復活を頑張る三人の小学生とその周囲の人々の物語。

25)幻の近江京(邦光士郎)
滋賀、奈良、京都に残存する幻の寺を舞台の推理小説。その寺が
草津にある花摘寺である。一般の滋賀里周辺の大津京とは違う仮説で展開する。

26)日野富子(平岩弓枝)
足利義政の妻富子の一生を描いた。舞台は栗東永正寺付近。

27)甲賀忍法帖(山田風太朗)
甲南町竜法師の忍者屋敷が有名。

28)まめだの三吉(中島千恵子)
信楽焼きの狸の焼き物を巡る話。

29)徳川家康(山岡荘八)
家康の伊賀越えでの信楽多良尾の助けを描いている。

30)邪宗門(高橋和巳)
新興宗教の教主千葉とその武装蜂起と壊滅までを描く。千葉が唐橋近くのボート
練習場に現われのが印象的。

31)瀬田の唐橋(徳永真一郎)
唐橋が一人称で自分の見てきた歴史を語る。

32)ぼてじゃこ物語(花登こばこ)
ぼてじゃこを皇室の献上魚の「鰉ひがい」にする物語。
なお、花登の生家は今の大津長等1丁目にあり、大津図書館にはその専門
コーナーもある。

33)芭蕉物語(麻生磯次)
野ざらし紀行にでた、晩年最後のの芭蕉、幻住寺、義仲寺が描かれている。

34)老残日記(中谷孝雄)
義仲寺無名庵主人の日記的私小説。

35)大津恋坂物語(加堂秀三)
石場の旧東海道の小さな坂(近江名所図会にもないが)周辺を描いた物語。
「奥田隆一は、大阪のテレビや映画で名前が売れ始めた俳優であった。彼が
暮らす大津市石場の自宅には、その門前から下の通りまで続く、幅2メートル
、長さ30メートルほどの急な坂があった。この坂が「恋坂」と言う名である
ことは、乳が死んだ際、母から聞かされた。
「うちや死んだお婆ちゃんみたいにな、門の坂のこと、ここはほんまに恋坂や
と思うて、坂のぼるにつれて人が愛しくなってなあ、泣く日ィもくるわ」
彼の母も祖母も道ならぬ恋に悩んだ人であった。恋坂とは、たとえ許されぬ
恋であろうと、熱い想いを胸に抱いて上り下った坂に彼女がつけた名であった。

36)兇徒津田三蔵(藤枝静男)
大津京町で起こったロシア皇太子暗殺事件の犯人を扱った物語。

37)琵琶湖(横光利一)
汚染がひどくなる琵琶湖を憂い、その将来に不安を示す。
他には、「湖光島景琵琶湖めぐり(近松秋絵)」などもある。
「青年時代に読んだ田山花袋の紀行文の中に、琵琶湖の色は年々歳々死んで行く
様に見えるが、あれはたしかに死につつあるに相違ない、と言うようなことが
書いてあったのを覚えている。わたしはそれを読んで、さすが文人の眼は光っている
と、その当時感服したことがあった。今も琵琶湖の傍を汽車で通るたびに、花袋
の言葉を思い出して、一層その感を深くするのだが、私にもこの湖は見る度に
沼のようにだんだん生色をなくしていくのを感じる。」
横山利一は小学生のころと新婚時に大津に住んでいた。これはそのときの思い出
も含めて書き綴ったもの。
「思い出というものは、誰しも一番夏の日の思い出が多いであろうと思う。私は
二十歳前後には、夏になると、近江の大津に帰った。殊に、小学校時代には家が
大津の湖の岸辺にあったので、びわ湖の夏のけしきは脳中から去り難い。今も
東海道を汽車で通るたびに、大津の町へさしかかると、ひとりでいても胸がわくわくと
して、窓からのぞく顔に、微笑が自然と浮かんでくる。」
さらには、
「去年私は久しぶりに行って見たが、このあたりだけは、昔も今も変わっていない。
明治初年の空気のまだそのままに残っている市街は、恐らく関西では大津だけであり、
大津のうちでは疎水の付近だけであろう。」

38)僧興義、鮫の恩返し(小泉八雲)
三井寺の僧興義が病気になったときに魚となり、琵琶湖へと泳ぎ出し釣られて料理
される寸前に蘇生する。琵琶湖の美しさを描いている。
「水がえらい青くてきれいでの、ひと泳ぎしとうなった。、、、目の下にも、
ぐるりにも、美しい魚どもがぎょうさん泳いどる。、、、わしはそこから泳いで、
いろいろ美しいところを巡ったようじゃ。、、、青い水面に踊っておる日の光を
眺めて楽しんだり、風かげの静かな水に映る山々や木々の美しい影を、心行く
ばかり眺めたり、、、とりわけ今でも憶えておるのは、沖津島か竹生島あたりの
岸辺が、赤い垣のように水に映っているけしきじゃ。」
「鮫の恩返し」と言うのは「明暗」と言う作品の中にある話。
主人公藤太郎が竜宮を追い出されて瀬田の唐橋にいた鮫人を助け、その鮫人が
藤太郎の恋を成就させるという恩返しの話。

39)小説日本婦道記ー尾花川(山本周五郎)
大津尾花川の勤皇の志士であった川瀬太宰とその妻幸を描いている。
婦人の美徳、といっても家父長的視点からではなく人間としての美質に
焦点をあてている。
「日本の女性の一番美しいのは、連れ添っている夫も気付かないという
ところに非常に美しく現われる。、、これが日本の女性の特徴ではないか
と思ってあの一連の小説を書きました」ということ。

40)美しさと哀しみと(川端康成)
琵琶湖ホテルでの殺人を終局に描いている愛憎物語。

41)一歩の距離(城山三郎)
陸上自衛隊大津駐屯所のあった航空隊での4人の予科練生を中心とした際川や唐崎
での終戦直前の話。
「(浮御堂の光景は)小学校の遠足の日でも思わせるような、のどかな姿であった。
、、、だが、そうしたのどかさは、うつろいやすい仮のモノでしかなかったし、
彼らはそれを承知していた。平和とは常に仮のものである。平和を願うなどと言う
のは、臆病者であるどころか日本人でさえない。」
さらに、
「やっと海軍軍人になれると。だが、それは「必殺必中の兵器」つまり特攻の
募集だった。彼は予期せぬ場面で、突然、生か死かの選択を迫られたのである。
出なければ、出なければ。死ぬために来たのに、何を躊躇っているのか。
腋の下を冷たい汗が流れ続けた。手もぐっしょり汗を握った。
志願するものは、一歩前に出よ。司令のよびかけにかれは「一歩を踏み出すこと
ができなかった。それは乗りたがっていた航空機ではなかったからか。
それとも一歩を踏み出せば確実に約束される死への恐怖からか。
前に出るも出ないのも、余りに大きな決意であった。一歩の前と後ろの間には、
眼もくらむばかりの底深い谷があった。
一歩踏み出す距離はわずかであった。しかし、それぞれの人生を決定する距離
であった。若者を死に導き、あるいは生涯消えぬ苦しみを刻む距離であった。」


42)北白川日誌(岡部伊都子)
北白川廃寺跡から山中越えし、比叡平近くの池ノ谷地蔵尊、新羅善神堂、南滋賀
廃寺跡などをめぐり大津京を探し求めた。

43)金魚繚乱(岡本かの子)
大津下坂本にある実験所にきた美しい金魚を作ろうとする男とその彼女の話。
「白牡丹のような万華鏡のようなじゅんらん、波乱を重畳させつつ嬌艶に豪華に、
また粛々として上品に、内気にあどけなくもゆらぎ広ごり広ごりゆらぎ、さらにまた
広ごり」
「健一はボートの中へ仰向けに寝そべった。空の肌質きじはいつの間にか夕陽の
ほとぼりを冷まして磨いた銅鉄色に冴えかかっていた。表面に削り出しのような
軽く捲く紅色の薄雲が一面に散っていて、空の肌質がすっかり刀色に冴え返る
時分を合図のようにして、それらの雲はかえって雲母色に冴え返ってきた。健一は
ふと首をもたげてみると、まん丸の月が大津市の上に出ていた。それに対して
大津市の町の灯りの列はどす赤く、その腰を屏風のように背後の南へと拡がる
じぐざぐの屏嶺へいれいは墨色へ幼稚な皺を険立たしている。」


44)咲庵しょうあん(中山義秀)
明智光秀の一生を描いた。坂本城は下坂本付近だが、その遺構はほとんどない。

45)風流懺せん法(高浜虚子)
延暦寺横川中堂田おはなし。虚子と渋谷天台座主とのかかわりが深い。
大師堂小僧一念との出会い、一力の舞妓三千歳らとの遊び中にまた一念に会う。
一念と舞妓三千歳の幼い男女の交わりが生き生きと描かれている。
「横川は叡山の三塔のうちでも一番奥まっているので淋しいこともまた格別だ。
二三町離れた処にある大師堂の方には日によると参詣人もぼつぼつあるが、
中堂の方は年中一人の参拝者もないといってよい。大きな建物が杉を圧して
立っている。」
虚子の一句  清浄な月を見にけり峰の寺

46)乳野物語(谷崎潤一郎)
元三大師と母月子姫の天台宗の説話をベースに描いている。
比叡山横川の安養院は元三大師の母の月子姫の墓がある。また、月子姫の墓は
虎姫町三川にもある。乳野は雄琴温泉から少し山に入った純農村の集落であった。
そのときの千野の印象を谷崎は次のように書いている。
「われわれは歩き出すと間もなく乳野の里に這入ったが、ところどころに農家が
二三軒まばらに点在しているような小さな部落で、本来ならば悲しく侘しい感じのする
場所であろうが、今は新緑で、その辺一面の柿畑が眩いようにきらきらしている。
さっきからわれわれの行く手に聳えていた横川の峰は、もうここへ来ると、
そのかがやかしい柿若葉の波の上に、四条の大橋から仰ぐ東山のちかさで圧し
かぶさっているのであった。」

47)新平家物語(吉川英治)
源義経と堅田湖族とのつながりを描いてもいる。

48)仮面法廷(和久俊三)
列島改造論の盛んな時期、74年7月の湖西線の開通とローズタウンなどの
ニュータウンの開発に絡んだ詐欺事件。

49)花と匂い(伊藤整)
比良山のスキー場での男女の愛憎を描いている。
文中で比良山さんの説明がある。
「比良山と申しますのは、一つの山ではございません。比叡山の来たにつらなって、
琵琶湖の西岸に聳える武奈ヶ岳、釈迦岳、蓬莱山、打身山、権現山などを含む山地を
包括して比良山と申します。語源はアイヌ語のピラであるらしく、これは絶壁の
あるところ、または扇形にひろがった土地と言う意味だそうでございます。」
 
50)かくれ里(白洲正子)
近江を「日本文化発祥地、裏舞台」と考える白洲。
「秘境と呼ぶほど人里はなれた山奥ではなく、ほんのちょっと街道筋から
逸れた所にある。」というかくれ里を近畿26箇所えらび、古くから伝わる
宗教行事や民俗的な場所を訪れた。たとえば、明王院の「夏安居」(げあんこ)、
太鼓乗などの由来や作法、背景などを綴っている。
はじめに書かれているのが、甲賀町の油日神社である。
「駅前の通りを南へ少し行くと、大きな石の鳥居が現われる。まわりは見渡す限りの
肥沃な田畑で、南側の鈴鹿山脈のつづきには、田圃を隔てて油日岳が、堂々とした
姿を見せている。」

51)蓮如(五木寛之)
蓮如の39歳から越前に旅立つ57歳までが描かれている。堅田周辺が舞台だ。
上人御影送り、4月17日京本山本願寺から小関の等正寺、高島の最勝寺、マキノの
栄敬寺から福井へ、吉崎で10日ほど滞在し、帰りは余呉を通り、北国、中仙道
を通って5月9日に京都へ戻る。240kmを7日間で歩く。

52)安土セミリオ(井伏鱒二)
治郎作とセミリオ(キリシタンの学問所)の人間、宣教師たちが本能寺の変以後
どうしたかを描いている。当時の安土の街の様子が鮮明に描かれている。
街の中心は常楽寺周辺、港のあった常浜は水辺公園となっている。また、安土の
城は湖の直ぐ傍にあったが、いまはその後の大干拓で陸地が続く。

52)比良の水底(澤田ふじ子)
葛川渓谷滝は三の滝、今は明王谷に住む山椒魚と滝壺に落ちてきた金銅
の蔵王権現との四方山話。葛川坊村は安曇川の小さな集落だが、その風景は
見ごたえがある。地主神社があり、明王院の本堂もある。さらに、葛川参籠と
太鼓回しと言う行事が7月16日から始まる。
「人間の愚かさはこれから永代、つきることがあるまい。今後、わしはおぬしと
もう口を利かぬ。人間の愚かさについて更に深く考えたいからじゃ」
「山椒魚のわしにはなんの言葉もない。それにしても、わしはあと幾年、
生きるのであろうか。生きているのにもうあきてきたのである。」
「滝壺だけはいよいよ青味をくわえてしんと静まり、そこから流れ出る渓流が
涼しい眺めを作っていた。」
「たとえば、この世のすべてのものに共通する言葉があったとしたら生きている事が
何十倍も楽しくなるかもしれない。鳥や花はもちろんのこと。岩や水や、
それから、、、山椒魚とも話が出来たなら、、でも、やっぱり、一番欲しいのは
人間同士、分かり合える言葉か。」
閻魔王牒状 瀧にかかわる十二の短篇(朝日新聞)より

53)瓔珞品ようらくぽん(泉鏡花)
琵琶湖の夜の美しさに魅了された主人公が何度となく琵琶湖を訪れる。
天人石を探したり、夢の中で鮒になったり、無限の世界を体感する。
「水を切る船端の波の走るのが、銀を落とすと、白い瑠璃の階きざはしが、
星を鏤めてきらきらと月の下へ揺れかかって、神女の、月宮殿に朝する
姿がありありと拝まれると申します。」「霜のように輝いて、自分の影の
映るのが、あたらしいほど甲板。湖水はただ渺茫として、水や空、南無竹生島
は墨絵のよう。御堂の棟と思い当たり、影が差し、月が染みて、羽衣のひだを
みるような、、、」と夜の湖水を表現している。
瓔珞は仏像の胸や頭を飾る飾り。石山や彦根、竹生島などが背景にある。
更には、
「前後に松葉重なって、宿の形は影も留めず、深き翠みどりを一面に、眼界
唯限りなき漣さざなみなり。この処によずるまで、手を縋り、かつ足を支えた、
幹から幹、枝から枝、一足ずつ上るにつれて、何処より寄することもなく、
れん艶たる波、白帆をのせて背に近づき、躑躅を浮かべて肩に迫り、倒さかさまに
藤を宿したが、石の上に、立ち直って、今や正に、目の下に望まれた、これなん
日の本の一個所を、琵琶にくぎった水である。
妙なるかな、近江の国。卯月の末の八つ下がり、月白く、山の薄紅、松の梢に
藤をかけ、山は翠の黒髪長く、霞は里に裳もすそを曳いて、そよそよとある風の
調べは、湖の琵琶を奏づるのである。」

54)埋み火(杉本苑子)
近松門左衛門の生涯を描いている。門左衛門が若いときにいたのが、大津の
近松寺。「近松寺は高観音ともよばれ、大津の宿駅の、ほぼ西となりに位置
している。逢坂山の北尾根にあって、琵琶湖の眺望の豊かさは三井寺からの
大観に劣らなかった。近松寺から三井寺へは、三橋節子美術館、長等神社、
三井寺、円満院へと続く。

55)湖笛(水上勉)
琵琶湖とともにあるのが己が運命だと信じた京極高次の生き方を描いている。
「湖は朝も夕べも、母者のふところのように、わしが心を慰めてくれたt。
勇気付けてくれる景色であった。」
海津の宝憧院、柏原の清滝寺がぶたいであり、清滝寺の17基の墓、18基
の印塔は圧巻である。高次は、大溝城、八幡山城、大津城主となって行く。

56)虹いくたび(川端康成)
主人公の3人姉妹の生への美しさとはかなさを虹に重ねて書いたもの。
「生まれて、生きて死ぬ
 生まれて、生きて死ぬ
 いくたびの繰り返し
 人も虫も花も 虹も
 この世に生まれ出るものはすべて
 生きねばならぬ 死なねばならぬ
 理屈ではなく
 そう決まっているのだから
 いくたびのつまづきは
 いくたびの希望だから
 やがてくる死のために
 生きねばならぬ 輝いて
 生きねばならぬ」
この小説は近江と直接関係がない。しかし、琵琶湖で「彦根をすぎて米原のあいだ」
見た琵琶湖の虹が良く出てくる。
更には、八日市から愛知川に向う近江鉄道に乗ると川端が感じていたであろう故郷の
気配があったのでは。

57)雪の朝(立原正秋)
井伊直弼主人公の歴史小説。埋木舎時代と桜田門での死を描いている。
「浪士たちの叫び声が遠くなり、かわりに琵琶湖の潮鳴りを間近に聞いた。
夏の早暁の雨上がりの道を多賀社に帰っていくたか女のうしろ姿が見えた。
埋木舎が夕陽に染まり、それはこの世のものとも思えぬほどの朱に燃え上がり、、、
やがて朝が来た。

58)序の舞(宮尾登美子)
女性ではじめて文化勲章を受けた日本画家上村松園の生涯をモデルにして描いた。
「序の舞」とは松園快心の作といわれる絵画の名である。
舞台は京都が主であるが、最初の子供を生んだのが坂本、そして長浜にある昌徳寺
にいる師匠、母が参詣した立ち木観音も登場する。長浜は曳山祭や八幡宮なども。
「風のない日、納屋の二階の高窓の障子を細目に開けてそっと眺めると、なだらかな
段畑の向こう、銀色に輝いている琵琶湖の水が見える。
ここは比叡山の東麓、むかし湖上を渡って集まってくる諸国の物資で賑わったという
坂本の町の、そのとりつきを山側に入った場所で、あの晩、更けて到着した津也は
闇の中に漂っている干し藁の匂いを嗅ぎ、遠くに来たものだと言う感じを強く
抱いたものであった。」

60)夜の声(井上靖)
この退廃していく社会を憂い、交通事故で神経のおかしくなった主人公を通して
その危機を救える場所として近江を描いている。
神からのご託宣で文明と言う魔物と闘うが、自分はそのために刺客に狙われている
と思い込んでいる。魔物の犯してない場所を探して、近江塩津、大浦、海津、
安曇川から朽木へと向う。朽木村でその場所を見つける。
「ああ、ここだけは魔物たちの毒気に侵されていない、と鏡史郎は思った。
小鳥の声と、川瀬の音と、川霧とに迎えられて、朝はやってくる。漆黒の
闇と、高い星星に飾られて、夜は訪れる。、、さゆりはここで育って行く。
、、、レジャーなどという奇妙なことは考えない安曇乙女として成長していく。
とはいえ、冬は雪に包まれてしまうかもしれない。が、雪もいいだろう。
比良の山はそこにある。、、、さゆりは悲しい事は悲しいと感ずる乙女になる。
本当の美しいことが何であるかを知る乙女になる。風の音から、川の流れから、
比良の雪から、そうしたことを教わる。人を恋することも知る。季節季節
の訪れが、木立ちの芽生えが、夏の夕暮れが、秋白い雲の流れが、さゆりに
恋することを教える。テレビや映画から教わったりはしない。」
61)雲と風と(永井路子)
最澄の生涯を描いた作品。山東町観音寺にある木造伝教大師最澄の坐像が
中々に趣きのある像である。生まれは坂本の生源寺で近江国分寺に入る。
桓武天皇は政教分離のために凡爵寺を建てるがその場所は南滋賀の廃寺跡
とか崇福寺跡といわれている。
「宗教と言うのは、無垢の心にふっと立ち返った瞬間の陶酔をいうのかもしれない。
信仰は、その瞬間が幾度もあったり持続したりする時に確かなものになって
いくのであろう。」

62)源氏供養(松本徹)
源氏供養は三島由紀夫も戯曲にしているが、妄語の戒めに触れた紫式部の霊を
弔うストリーであるが、ここでは「石山寺に行った私が、そこで出会った3人の
源氏読みの女性たちと一緒に想いをめぐらせる作品である。
「わたしは石山寺を歩く。石山寺のもとになったという硅灰岩を、不思議に清潔な
空間を造り出している、と感じ、桧皮葺の、柔らかく張りのある屋根、が美しい
多宝塔を眺め、寺を創めた良弁のことを思い、本堂を巡拝し、そして紫式部
供養塔を見て、彼女が供養されなければならなかったことを思ってみたわけである。
それから、宙を浮くようにして、ある月見亭に立つ。なんと眺望のよいことか。
式部も月の美しさに迷い出て、ここにたったのではないか、とわたしは想って見たりも
する。
そこへ源氏読みの女性たちが来て、口ずさんだのが、謡曲源氏供養の一節だった。
恥じかしながら弱弱と あわれ胡蝶の ひと遊び、、、、、
女性たちは紫式部と一緒に自分たちも地獄に堕ちていると言う。が、わたしは
そうは思わない。事実「源氏一品経」は、最後はこう言うのだ。「狂言綺語」
の過ちをそのまま仏の教えへを讃えるものにと替え、その教えを広める手立てに
しよう、と願った。つまり、紫式部がこの物語を書いたのは、、、紫式部自身が
観音の化身であり、仏の教えを悟らせる方便として書いた、のだと。」

63)真田太平記(池波正太郎)
信長から秀吉、徳川へと混沌とした時代のなか、だれが平和をもたらしてくれるのか、
を見極めようと頑張る忍びの者の話である。
真田一族と女忍者が主人公、甲賀の地と飯道山が舞台でもある。甲南町には、甲賀忍者
筆頭の望月出雲守の屋敷が甲賀流忍者屋敷としてある。

64)近江山河抄(白洲正子)
「奥島山の裏側へまわっていくと、突然目の間が開け、夢のような景色が現われる。
小さな湾をへだてて沖島が湖上に浮かび、長命寺の岬と伊崎島が、両方から抱く
様な形で延びている。、、奥島山の裏に、これほど絶妙な景色が秘められている
とは知らなかった。」
「現在は半島のような形で湖水の中に突き出ているが、周りが干拓されるまでは、
入り江にかかる橋でりくちとつながり、文字通りの奥島山であった。山頂へ登って
みると、湖水をへだてて、水茎の岡の向こうに三上山がそびえ、こういう所に
観音浄土を想像したのは、思えば当然の成り行きであった。
八百八段の長い石段を上り詰めると本堂、護摩堂、三重塔、鐘楼などが建ち並び、
木立ちの間から湖水と水茎の岡が茫洋とみえる。自分の考える日本人の自然観、
それを長命寺の絵図でも白洲は納得する。

65)安宅家の人々(吉屋信子)
彦根城楽々園、井伊家の下屋敷で旅館となっていた、に父の法要のため宿泊した
安宅家の人々を描いている。
「城のお堀の水のおもてに細かい雨が消えている。桜の時はさぞかしであろうが、
紅葉に雨の城跡もしめやかに詩情を漂わせていた。」
旧寺町の通りに入ると、彦根城石垣の残石を使ったという石垣や石畳の道が伸び、
両側に大きな山門が並ぶ。その佇まいはやはり城下町の風格を感じさせるものがある。
この寺町や善利組と呼ばれた足軽屋敷のあった芹橋辺り、職人町だった本町三丁目
辺り、仏壇街の七曲がり、それぞれの表情を持つ町が健在である。 

67)しらがき物語(水上勉)
信楽街を舞台とする陶工と師匠、その弟子たちをめぐる人間の業を描いている。
「風景から小説が生まれる」と水上は言うが、その書き出しも信楽の地形や
風景の説明から始まる。
「笹ヶ岳の山からのぼった弦月は、ずい分足が早い。月光はしも道から大川に
至る桑畑の上を海のように照らしている。、、一段高くなった山麓の丘に、
三玄院の傘を広げたような甍が光って見えた。」
信楽の飾り気のない良さは、農民の種壷や茶壷として、煮物の入れ物として
生まれた生活の道具が原点である。
人は一生に一度や二度は必ず焼き物に心を奪われる時があるという。
それが、本当であるなら、土に戻って行く人間はつまり、土から生まれ、
土の上で育って行くものだという証でもある。だから、土から生まれる
焼き物は同胞といえるかもしれない。その土に生命を吹き込む技が
陶芸なのであろう。

68)比良のしゃくなげ(井上靖)詩集北国より
「むかし写真画報と言う雑誌で、比良のしゃくなげの写真を見たことがある。
そこははるか眼下に鏡のような湖面の一部が望まれる北比良山系の頂で、
あの香り高く白い高山植物の群落が、その急峻な斜面を美しくおおっていた。
その写真を見たとき、私はいつか自分が、人の世の生活の疲労と悲しみを
リュックいっぱいに詰め、まなかいに立つ比良の稜線を仰ぎながら、
湖畔の小さな軽便鉄道にゆられ、この美しい山嶺の一角に辿りつく日が
あるであろう事を、ひそかに心に期して疑わなかった。絶望と孤独の日、
必ずや自分はこの山に登るであろうと。
それから恐らく10年になるだろうが、私はいまだに比良のしゃくなげを
知らない。忘れていたわけではない。年々歳々、その高い峯の白い花を瞼に
描く機会は私に多くなっている。ただあの比良の峯の頂き、香り高い花の群落
のもとで、星に顔を向けて眠る己が眠りを想うと、その時の自分の姿の
持つ、幸とか不幸とかに無縁な、ひたすらなる悲しみのようなものに触れると、
なぜか、下界のいかなる絶望も、いかなる孤独も、なお猥雑なくだらなぬものに
思えてくるのであった。」

多くの開発と言う行為の中には、自然への畏敬と尊敬の念が欠落していることが
多く、我々の知らないうちに自然がその生命を終えて行くことが見られる。
比良と琵琶湖の織り成す清々しい魅力を次代へと伝えて行く必要がある。

69)稚くて愛を知らず(石川達三)
彦根の病院の娘として生まれた女性が心、幼いまま、35歳で離婚されるまでの
過程を描いている。彦根は城の周りの物静かな文化の香りと質実剛健と言った
彦根人気質と城下町の風情に露地の持つ人間臭さが活きている。
「友紀子は人形と子供との区別がつかなかった。自分が母として責任をもち、
義務を果たしていこうとする自覚はどこにもなかった。少なくとも、彼女は
生まれてくる子供の将来について、その子をどんな大人にそだてていくか
ということについて、何もかんがえてはいなかった。」

59)桜守(水上勉)
西行の愛した吉野の山桜と同じ様に山桜や里桜の日本古来種の桜に生涯をかけた
一人の男を描いた作品。このモデルとなった笹部新太郎は岐阜県の御母衣ダムに
沈む事になっていた樹齢四百年のあずまひがんの老樹(現在荘川桜の名前で健在)
を移植した人。山桜は若葉と童子に開花し、清楚で遠くから見ると微妙な陰影を
つくり周辺に物静かな空気を醸し出す。
「村の共同墓地にある三百年は生きたであろう巨桜であった。そこは、海津の村
から敦賀の方へ山沿いの国道を少し入りかけた地点で、道の直ぐ下の墓地である。
墓地全体にかぶさるように大枝を張った桜は見事だった。、、、根元から二股に
なったこの彼岸桜は、U字型に大幹を二本伸ばし、広大な墓地に存分に枝を
はっていたが、真下の墓地は皆軍人の墓だった。、、、、村人が慈しんで育てる
巨桜もあるのだと、弥吉は思った。、、、日本に古い桜は多いけんども、海津の
桜ほど立派なものはないわ。あすこの桜は、天然記念物でもないし、役人さんも
学者さんも、しらん桜や。村の共同墓地に、ひっそりとかくれてる。けど、村の人らが
枝一本折らずに、大事に守ってきてはる。墓地やさかい、人の魂が守ってんのやな。」
「竹部の桜は近江舞子にもあった。ここは昔、といっても、五十年前になるが、
江若鉄道が出来て間無しに、向日町の苗を植えたものだ。近江舞子は、、、、
裏がすぐ山で、高い比良が空へ抜きでている。春に来たら、さぞかし
良かったであろう。」
水上勉は「在所の桜」でも御母衣ダムの桜について描いている。ここは昔2、3回
仕事の関係で通った事があるが、この本を読んでいれば、また違う感じを受けた
であろう。少し長いし、近江からは外れるが、
「この桜ではない、笹部翁の手になるもう一つの桜がある。根尾谷から谷ひとつ東
へいった庄川谷に、樹齢五百年のアズマヒガンが二本、みごとに活着し、御母衣
ダムの水面をのぞいている。根尾の巨桜とともに、忘れる事の出来ない岐阜県の
記念碑的な桜だと思う。
御母衣ダムは世間周知の長い水没反対抗争もあって有名な工事だった。湖底には、
三百六十戸の家と三つの小中学校と三つの寺が沈んでいる。二つの菩提寺の墓場
にあった巨桜を、電源開発の高碕達之助さんの依頼で、笹部翁が前代未聞の移植を
敢行したのである。世界植林史上、この桜ような活着は例を見ない。奥美濃の
とくに、庄川の春は遅いから、根尾の巨桜が散る頃は、まだ蕾だろう。私は何度も、
この桜の下に佇んでいるが、根尾の巨桜の下にいるのと、また別の感慨を覚える。
おそらく、水没反対の村人たちは、二人の老人が世間の反対を押し切って敢行した
この移植事業を、せせらわらったことだろう。補償でこじれた抗争だったから、
根付くかどうかもわかりもしない老桜に、金を使うなど不満だった事情もわかる
のだが、しかし、活着してみると、巨桜は、人間が残した大きな業績と言うものを
教える。電源は山を壊し、川を埋め、野を荒らす元凶の様に言われているが、
その総裁であった高碕氏と、桜好きの一老人が手を取り合って、前代未聞の移植工事
をやり終わった日は、8年前のジングルベルがなる12月24日であったという。
奥美濃は人影もなく、みぞれ雪が降っていた。十中八九は枯れると思われた、
この桜が、今日花を咲かせ、湖面を彩っているのだ。
ふるさとは水底となりつうつし来し
この老桜とこしえに咲け
と碑文に見える。高碕さんの歌である。
、、、去年の2月の渇水期、白川郷を訪ねたときに、氷柱と化した二本の庄川桜を
拝んだ。湖底の死んだ村が露呈して浮き上がっている。感動を覚えて古道を降りた。
古い村はそのままそこにあった。水がしずかに退くということは不思議なもので、
埋まった村の家々の土台石も墓石も、瀬戸の柿木も、南天も松の植え込みも生徒
たちがつかったプールも、学校の門石も、みな姿をとどめて露出していた。
私はそれらの意志や木にさわって歩いた。誰もいなかった。この私の一人歩きを
眺めていたのは二本の巨桜だけだった。ふるさとは水底に沈んで、二本の桜だけが
生きている。だれがこの移植行為を笑えるだろうか。花どきに、どこからともなく、
老いた夫婦がやってきて、弁当を広げる間もなく巨桜の肌にふれて泣くという。
おそらく、水没反対を叫んだ人々の家のお爺さんやお婆さんであろう。
引っ越した先の都会を逃れて、桜に会いに来る。水底に沈んだ村を偲ぶのは
この二本の桜しかない。」

70)東海道五十三次(岡本かの子)
風俗史を専攻する夫と私が東海道を旅し、その途中、東海道に取り付かれた
作楽井と言う男に出会う話。
「小唄に残っている間の土山へひょっこり出る。屋根付きの中風薬の金看板
なぞ見える小さな町だが、今までの寒山枯れ木に対して、血の通う人間に
逢う歓びは覚える。風が鳴っている三上山の麓を車行して、水無口から石部
の宿を通る。なるほど此処の酒店で、作楽井が言ったように杉の葉を丸めて
その下に旗を下げた看板を軒先に出している家がある。」
旧東海道筋の町の人々を結んで「東海道ネットワークの会」がある。

71)群青の湖(芝木好子)
「つづら折の湖畔をまわりきって、視界が変わり、広々とした湖の浦が現われた時、
岸辺に打ち寄せられたように小さな部落があった。風光の清らかな、寂とした、
流離の里である。」
「琵琶湖の秘した湖は、一枚の鏡のように冷たく澄んでいる。紺青というには
青く、瑠璃色というには濃く冴えて、群青とよぶのだろうか。太陽の反射が
湖面を走る一瞬に、青が彩りを変えるのを彼女は見た。」
「冬が来て、東京に雪の降る日が続くと、瑞子は琵琶湖の雪景色を思った。北の湖にし
んしんと雪が降るとあたりは白い紗幕に蔽われてゆき、群青の湖のみは白いあられをの
みもみながら、昏い湖底へ沈めていく。雪が止み、陽が射すと、雪でふちどられた湖は
蘇っていよいよあおく冴えかえる。」
「初秋の気配であった。湖水も空も縹色(はなだ)で小舟もない、鏡のような湖、、」
「湖は深海よりも透明で、藍が幾重にも層を成して底から色が立つ、、、、」
「奥琵琶湖の秘した湖は、一枚の鏡のように冷たく澄んでいる。紺青(こんじょう)と
いうには青く、瑠璃色というには濃く冴えて、群青とよぶのだろうか」
「いま 私に見えているのは、湖の生命と浄化の雪と枯葦の明るい茶なの。清らかな鎮
魂の布が織れたら、私の過去から開放され自由になれそうな気がするの。そうしたらこ
の次は、あなたをおどろかすような魅惑的な真っ赤な蘇芳(すおう)や、妖しく匂う紫
や、老いた女の情炎のような鼠茶や、いろんな色を糸に乗せて、思い切り織って
ゆきたい」。

芝木さんの文章はカラーである。情景にあわして様々な色が配色されている。
湖西はあまりかかれていないが、琵琶湖の美しさを感じて欲しい。

72)近江山河抄(白洲正子)
比良の暮雪から
ある秋の夕方、湖北からの帰り道に、私はそういう風景に接したことがあった。
どんよりした空から、みぞれまじりの雪が降り始めたが、ふと見上げると、薄墨色
の比良山が、茫洋とした姿を現している。雪を通してみるためか、常よりも一層大きく
不気味で、神秘的な感じさえした。なるほど、「比良の暮雪」とは巧い事をいった。
比良の高嶺が本当の姿を見せるのは、こういう瞬間にかぎるのだと、その時
私は合点したように思う。

わが船は比良の湊に漕ぎ泊てむ沖へな離りさ(さかりさ)夜更けにけり

比良山を詠んだものには寂しい歌が多い。
今もそういう印象に変わりはなく、堅田のあたりで比叡山が終わり、その裾に
重なるようにして、比良山が姿を現すと景色は一変する。比叡山を陽の山とすれば、
これは陰の山と呼ぶべきであろう。、、、、
都の西北にそびえる比良山は、黄泉比良坂を意味したのではなかろうか。、、、、
方角からいっても、山陰と近江平野の間に、延々10キロにわたって横たわる
平坂である。古墳が多いのは、ここだけとは限らないが、近江で有数な大塚山
古墳、小野妹子の墓がある和邇から、白鬚神社を経て、高島の向こうまで、大
古墳群が続いている。鵜川には有名な四十八体仏があり、山の上までぎっしり
墓が立っている様は、ある時代には死の山、墓の山、とみなされていたのではないか。
「比良八紘」という諺が出来たのも、畏るべき山と言う観念が行き渡って
いたからだろう。が、古墳が多いということは、一方から言えば、早くから
文化が開けたことを示しており、所々に弥生遺跡も発見されている。小野氏が
本拠を置いたのは、古事記によると高穴穂宮の時代には早くもこの地を領していた。
、、、、、
小野神社は2つあって、一つは道風、1つは「たかむら」を祀っている。
国道沿いの道風神社の手前を左に入ると、そのとっつきの山懐の丘の上に、
大きな古墳群が見出される。妹子の墓と呼ばれる唐臼山古墳は、この丘の
尾根つづきにあり、老松の根元に石室が露出し、大きな石がるいるいと
重なっているのは、みるからに凄まじい風景である。が、そこからの眺めは
すばらしく、真野の入り江を眼下にのぞみ、その向こうには三上山から
湖東の連山、湖水に浮かぶ沖つ島もみえ、目近に比叡山がそびえる景色は、
思わず嘆息を発していしまう。その一番奥にあるのが、大塚山古墳で、
いずれなにがしの命の奥津城に違いないが、背後には、比良山がのしかかるように
迫り、無言のうちに彼らが経てきた歴史を語っている。
小野から先は平地がせばまり、国道は湖水のふちを縫っていく。
ここから白鬚神社のあたりまで、湖岸は大きく湾曲し、昔は「比良の大和太」
と呼ばれた。小さな川をいくつも越えるが、その源はすべて比良の渓谷に
発し、権現谷、法華谷、金比羅谷など、仏教に因んだ名前が多い。、、、、
かっては「比良3千坊」と呼ばれ、たくさん寺が建っていたはずだが、いまは
痕跡すら止めていない。それに比べて「小女郎」の伝説が未だに人の心を
打つのは、人間の歴史と言うのは不思議なものである。

「白鬚神社は、街道とぎりぎりの所に社殿が建ち、鳥居は湖水のなかに
はみ出てしまっている。厳島でも鳥居は海中に立っているが、あんな
ゆったりした趣きはここにない。が、それははみ出たわけではなく、祭神が
どこか遠くの、海かなたからきたことの記憶に止めているのではあるまいか。
信仰の形というものは、その内容を失って、形骸と化した後も行き続ける。
そして、復活する日が来るのを域を潜めて待つ。と言うことは、
形がすべてだということができるかもしれない。
この神社も、古墳の上に建っており、山の上まで古墳群がつづいている。
祭神は猿田彦ということだが、上の方には社殿が3つあって、その背後に
大きな石室が口を開けている。御幣や注連縄まで張ってあるんのは、ここが
白鬚の祖先の墳墓に違いない。小野氏の古墳のように半ば自然に還元
したものと違って、信仰が残っているのが生々しく、イザナギノ命が、
黄泉の国へ、イザナミノ命を訪ねて行った神話が、現実のものとして
思い出される。山上には磐座らしいものが見え、明らかに神体山の様相を
呈しているが、それについては何一つ分かっていない。古い神社である
のに、式内社でもなく、「白鬚」の名からして謎めいている。猿田彦命
は、比良明神の化身とも言われるが、神様同士で交じり合うので、信用は
おけない。
白鬚神社を過ぎると、比良山は湖水すれすれの所までせり出し、打下
(うちおろし)という浜にでる。打下は、「比良の嶺おろし」から起こった
名称で、神への畏れもあってか、漁師はこの辺を避けて通るという。
そこから左手の旧道へ入った雑木林の中に、鵜川の石仏が並んでいる。
私が行った時は、ひっそりとした山道が落椿で埋まり、さむざむした風景に
花を添えていた。入り口には、例によって古墳の石室があり、苔むした
山中に、阿弥陀如来の石仏が、ひしひしと居並ぶ光景は、壮観と言う
よりほかはない。四十八体のうち、十三体は日吉大社の墓所に移されているが
野天であるのに保存は良く、長年の風雪にいい味わいになっている。この
石仏は、天文22年に、近江の佐々木氏の一族、六角義賢が、母親の
菩提のために造ったと伝えるが、寂しい山道を行く旅人には、大きな慰めに
なったことだろう。古墳が墓地に利用されるのは良く見る風景だが、
ここは山の上までぎっしり墓が立ち並び、阿弥陀如来のイメージと重なって、
いよいよ黄泉への道のように見えてくる。
ーー
越前と朝鮮との距離は、歴史的にも、地理的にも、私達が想像する以上に
近いのである。太古の昔に流れ着いた人々が、明るい太陽を求めて
南に下り、近江に辿り着くまでには、長い年月を要したと思うが、
初めて琵琶湖を発見した時の彼らの喜びと驚き想像せずにはいられない。」

73)私の古寺巡礼(白洲正子)
「10世紀のころ、比叡山に相応和尚という修行者がいた。南の谷に無動寺を
建てて、籠っていたが、正身の不動明王を拝みたいと発心し、3年間の間、
比叡の山中を放浪していた。雨の日も雪の夜も、たゆまぬ苦行に、身心とも
やせ衰え、今は死を待つばかりとなったある日の事、比良山の奥、葛川の
三の瀧で祈っていると、滔滔たる水しぶきの中に、まごうかたなき不動明王
が出現した。相応は嬉しさのあまり、滝壺に身を躍らせて抱きつくと、不動と
見たのは一片の桂の古木であった。その古木をもって、拝んだばかりの不動明王
の姿を彫刻し、明王堂を建立してその本尊とした。それが今の葛川の明王院
である。
この相応の足跡を忠実に辿っているのが、無動寺を本拠とする回峰の行者たちである。
彼らは白い死装束に身をかため、千年の昔に始祖がしたと同じ様に、一心に
不動明王を念じつつ、比叡の山中を巡礼し、最後に比良山の三の滝へ到着する。
毎年春から夏へかけて午前2時に無動寺を出発し、行者道を30キロ歩いて、
8時ごろ寺に帰る。これを百日続けて、千日をもって満行となるが、その他
京都市中の切廻り、大廻り、断食行、そして、明王院の「夏安居(げあんご)」
など、どれ一つとっても、常人には考えられない苦行の数々を経る。
それによって得るものはなにもない。しいて言えば何者動じない不動の精神、
不動明王の魂を身につけるというべきか。

74)街道をゆく(司馬遼太郎)
司馬遼太郎は、街道をゆく、の第一巻を、近江から始めましょう、
と言っている。近江には、かなりの思い入れがあるのだろう。
その一文から少し、志賀を感じてもらおう。
ーーー
近つ淡海という言葉を縮めて、この滋賀県は、近江の国と言われる
ようになった。国の真中は、満々たる琵琶湖の水である。
もっとも、遠江はいまの静岡県ではなく、もっと大和に近い、
つまり琵琶湖の北の余呉湖やら賤ヶ岳あたりをさした時代もあるらしい。
大和人の活動の範囲がそれほど狭かった頃のことで、私は不幸にして
自動車の走る時代に生まれた。が、気分だけは、ことさらにその頃の
大和人の距離感覚を心象の中に押し込んで、湖西の道を歩いてみたい。
、、、、、
我々は叡山の山すそがゆるやかに湖水に落ちているあたりを走っていた。
叡山という一大宗教都市の首都とも言うべき坂本のそばを通り、湖西の
道を北上する。湖の水映えが山すその緑にきらきらと藍色の釉薬をかけた
ようで、いかにも豊かであり、古代人が大集落を作る典型的な適地という
感じがする。古くは、この湖南地域を、楽浪(さざなみ)の志賀、と言った。
いまでは、滋賀郡という。
、、、、、
この湖岸の古称、志賀、に、、、、
車は、湖岸に沿って走っている。右手に湖水を見ながら堅田を過ぎ、
真野を過ぎ、さらに北へ駆けると左手ににわかに比良山系が押し
かぶさってきて、車が湖に押しやられそうなあやうさを覚える。
大津を北に走ってわずか20キロというのに、すでに粉雪が舞い、
気象の上では北国の圏内に入る。
小松、北小松、と言う古い漁港がある。、、、、、
北小松の家々の軒は低く、紅殻格子が古び、厠の扉まで紅殻が塗られて、
その赤は、須田国太郎の色調のようであった。
さらに、
ーーー
北小松の家々の軒は低く、紅殻格子が古び、厠の扉までが紅殻が塗られて、
その赤は須田国太郎の色調のようであった。それが粉雪によく映えて
こういう漁村がであったならばどんなに懐かしいだろうと思った。
、、、、私の足元に、溝がある。水がわずかに流れている。
村の中のこの水は堅牢に石囲いされていて、おそらく何百年経つに
相違ないほどに石の面が磨耗していた。石垣や石積みの上手さは、
湖西の特徴の1つである。山の水がわずかな距離を走って湖に落ちる。
その水走りの傾斜面に田畑が広がっているのだが、ところがこの付近
の川は眼に見えない。この村の中の溝を除いては、皆暗渠になっている
のである。この地方の言葉では、この田園の暗渠をショウズヌキという。
ーーーー
司馬遼太郎は、近江について第1巻、第4巻、第7巻、第16巻、第24巻
に書き綴っている。しかも、第24巻近江散歩では、失われ行く琵琶湖の
自然に対する人間のエゴについても、警鐘を鳴らしている。良き自然を
守るのは大変な事でもある。

75)小説「比良のシャクナゲ」(井上靖)
ここの主人が琵琶湖を賞するには、三井寺、粟津、石山、その他にも名だたる琵琶湖望
見の地は十指に余る。しかしこと比良を望むにおいては、湖畔広しと雖も、堅田に勝る
地はなく、特にここ霊峰館の北西の座敷に比肩し得るところはあるまいと自慢し、比良
の山容が一番神々しく見えるところから、この宿を霊峰館と名附けたのだと説明したこ
とがあったが、まことにこの座敷から眺める比良は美しい。

わしは家を出てタクシーをとめた時、殆ど無意識に堅田と行先を告げたのだが、わし
の採ったとっさの処置は狂っていなかった。わしはまさしく琵琶湖を、比良の山を見た
かったのだ。堅田の霊峰館の座敷の縁側に立って、琵琶湖の静かな水の面と、その向う
の比良の山を心ゆくまで独りで眺めたかったのだ。
 
堅田の浮御堂に辿り着いた時は夕方で、その日一日時折思い出したように舞っていた
白いものが、その頃から本調子になって間断なく濃い密度で空間を埋め始めた。わしは
長いこと浮御堂の廻廊の軒下に立ちつくしていた。湖上の視界は全くきかなかった。こ
ごえた手でずだ袋の中から取り出した財布の紐をほどいてみると、五円紙幣が一枚出て
来た。それを握りしめながら浮御堂を出ると、わしは湖岸に立っている一軒の、構えは
大きいが、どこか宿場の旅宿めいた感じの旅館の広い土間にはいって行った。そこがこ
の霊峰館だった。

76)額田女王(井上靖)
天智天皇とその弟の大海人皇子の兄弟に愛された女王の蒲生野の世界を描いている。
井上靖は万葉集を好きであった。
「近江の国が美しい国である事を知った。飛鳥の都でも、難波の都でも、このように
美しい自然に恵まれていなかったと思った。王宮の持っている眺望は単に美しい
ばかりではなく、かぎりなく大きく広かった。」
蒲生野は大津の対岸、安土から八日市あたりを言い、今ものびやかな平野が広がる。
額田と大海人の、この歌の碑が、蒲生野を見渡す八日市の船岡山に、巨石に
はめ込まれてある。

77)比叡(瀬戸内晴美)
女流作家が出家し、比叡山で行をつむ話である。
比叡山での「もしかしたら、既に死んでいるのに気付いていないのだろか、
と言う厳しい修行の中で、仏に引き寄せられ、新しく生きて行く事を知る
姿を語っている。
「湖はとぎすましたような晴れた冬空を沈め、森閑と横たわっている。
そこからのぞむ比叡の山脈は湖の西に南から北に走りながらくっきりと
空をかかげ、圧倒的に、力強く、生命力にみちあふれていた。
日本仏教の根本道場と呼ぶにふさわしい威厳と神聖さを感じさせた。
琵琶湖と比叡は混然と一体化して、それを切り離す事の出来ない完璧な
1つづきの風景を形成している。俊子の目にはそのとき、山脈があくまで
雄雄しく、湖がかぎりなくおおらかにふるまっているように見えた。」
その合間に日本の文化や西行、一遍などの出家者の恋の話し、外国の風景、
や名画の話など、豊かな話題が散りばめられている。
男と秘密に旅をした堅田の町も思い出される。
「旧い家並みの家々は、どの家もどっしりと地に根を生やしたような落ち着きで
肩を並べていた。生まれてくる前に、通った事のあるような所だと、俊子は
感じていた。」
また、雪の降る日、浮御堂に立った後、隣りの料亭で鴨鍋を突付く、月が出ている。
その光景を、
「湖に薄く舞い落ちる雪が月光に染められ、金粉をまいているように湖水の面に
映っていた。湖面も月光に染められ金波がひろがる上に雪が休みなく降り続いている。
それは不思議なこの世ならぬ幻想的な光景だった。」
「人が寝とんなはる時間、夜通し車走らせて好いとる女ごの許ば通いなはる。
そぎゃんして、病気になって死にはってもよかと覚悟しとらすっと」と。
なおも責める尼僧に、「そぎゃんこと解決できるなら、だあれもなあんも
苦しむことなか。そぎゃんこと悪かことわかとって、とめられんばってん、
死ぬほどきつか思いすっと」



78)幻住庵記(松尾芭蕉)
湖国を愛した芭蕉は、永眠の地も自らの意志で湖国と定め、敬愛した木曾義仲
と並んで大津義仲寺に眠っている。
芭蕉が俳人としての評価を高めたのは、「野ざらし紀行」からといわれている。
彼の言う「こだわりや束縛がなく、無心で自在であるという、軽みの世界が
明確になるからだ。
「石山の奥、岩間のうしろに山あり、国分山といふ。そのかみ国分寺の名を
伝ふなるべし。ふもとに細き流れを渡りて、翠微に登ること三曲(さんきょく)
二百歩にして、八幡宮たたせたまふ。神体は彌陀(みだ)の尊像とかや。
唯一の家には甚だ忌むなることを、両部(りょうぶ)光をやはらげ、利益(
りやく)の塵を同じうしたまふも、また尊し。日ごろは人の詣でざりければ、
いとど神さび、もの静かなるかたはらに、住み捨てし草の戸あり。蓬根笹(ねざさ)
軒をかこみ、屋根もり壁おちて、狐狸(こり)ふしどを得たり。幻住庵といふ。
あるじの僧なにがしは、勇士菅沼氏曲水子の伯父になんはべりしを、
今は八年(やとせ)ばかり昔になりて、まさに幻住老人の名をのみ残せり。
石山の奥、岩間の後ろに山があり、国分山という。昔の国分寺の名を今に伝えていると
いうことだ。
ふもとに流れる細い川を渡って、山の中腹にのぼっていき、曲がりくねった長い道を登
っていくと、八幡宮がある。
ご神体は阿弥陀仏の尊像だとか。神仏混淆を認めない神道の宗派からみれば、たいへん
けしからんことなのだが、神も仏もその光をやわらげ世俗の塵にまみれることで、かえ
って衆生を救済しようとされている。たいへん尊いことだ。
日ごろは人が参詣しないので、さびれた感じがかえって神々しく、もの静かである場所
の傍らに、住み捨てられた草の庵がある。
蓬・根笹が軒を囲み、屋根を盛って壁は崩れ落ちて、狐や狸にとっては寝床を得たよう
なものだ。庵の名を幻住庵という。
あるじの僧某は、菅沼曲水という清廉な膳所藩士の伯父にあたる人物であるが、今は他
界して八年ほどになり、まさに幻のうちに住む老人というべき名のみを残している。」
「今歳湖水の波に漂う。鳰の浮巣の流れとどまるべき芦の一本の陰たのもしく、いと
かりそめに入りし山の、やがて出じとさへおもいそみぬ。」

松尾芭蕉について
多くの歌をその旅の趣きに合わして歌ってきた。小説ではないが、志賀を感じる作品
として味わうのも1つである。

享保十年刊の千梅編「鎌倉海道」に、この句の初案にあたる「辛崎の松や小町が身のお
ぼろ」の句が採録されている。本句は、大津に迎えてくれた千那に対する挨拶句。

  辛崎の松や小町が身のおぼろ 芭蕉
   山は桜をしほる春雨    千那
  (発句・脇。「鎌倉海道」)

上に掲げた千那宛書簡の「辛崎の松は花より朧にて と御覚可被下候」は、旅の折の挨
拶句「辛崎の松や小町が身のおぼろ」を「辛崎の松は花より朧にて」に改案した上で世
に送り出すことを、予め千那に知らせたもの。千那は、大津・堅田の本福寺第十一世住
職で、尚白、青亜とともに「野ざらし紀行」の旅の間に芭蕉門に入った。
「辛崎の松」は歌枕で、室町時代に、比良の暮雪、堅田の落雁、三井の晩鐘、粟津の晴
嵐、石山の秋月、瀬田の夕照、矢橋の帰帆とともに「唐崎の夜雨」として「近江八景」
に選ばれた。
芭蕉が、本福寺から琵琶湖の南方を眺めたとすると、「辛崎の松」は北方約十キロほど
の彼方にあり、また、もう一つの近江八景「三井の晩鐘」として知られ、本句内の「花
」や千那の句の「桜」の地と認められる三井寺観音堂まではそれ以上の距離があって、
両者ともに視認することは到底できない。したがって、「辛崎の松は花より朧にて」の
「辛崎の松」も「花」も、本福寺に向う途中の景を拠り所にした心象風景ということに
なる。

司馬遼太郎も24巻の中で、松尾芭蕉と琵琶湖について書いている。
「かいつぶりがいませんね。
良く知られるように、この水鳥の古典な名称は、鳰である。
水にくぐるのが上手な上に、水面に浮かんだまま眠ったりもする。
本来、水辺の民だった日本人は、鳰が好きだった。鳰が眠っているのをみて、
「鳰の浮寝」などといい、また葦の間に作る巣を見て「鳰の浮巣」などとよび
我が身の寄るべなき境涯に例えたりしてきた。
琵琶湖には、とりわけ鳰が多かった。「鳰の海」とは、琵琶湖の別称である。
「淡海のうみ」という歴史的正称は別として、雅称としては「鳰の海」のほうが
歌や文章の中で頻用されてきたような気がする。
、、、、
俳句では鳰そのものは冬の季題になっている。もっとも、芭蕉が近江で作った
鳰の句は、梅雨のころである。
五月雨に鳰の浮巣をみにゆかむ
この句では初夏のものとして鳰が登場する。鳰は夏、よし、あしの茂みの中に
巣を営む。句に「鳰の浮巣」が入れば季題としても初夏に入り込むらしい。
琵琶湖とその湖畔を、文学史上、たれよりも愛したかに思われる芭蕉は、
しばしば水面のよしの原を舟で分け入った。この場合、五月雨で水かさを
増した湖で、鳰たちが浮巣をどのようにしているか、そのことを長け高い
滑稽さを感じてこの句を作ったようである。
鳰というのは、あっという間に水面から消える。
かくれけり師走の海のかいつぶり
とも、芭蕉は詠んだ。また山々にかこまれた春の琵琶湖の大観を一句に
納めたものとしては、
四方より花吹き入れて鳰の海
というあでやかな作品も残している。

79)あらくれ武道(山本周五郎)
織田信長に滅ぼされた浅井家の一武将の気概を描いている。
「この誓約を反故の如く破り捨てたばかりに、御主君長政公には、こんにちご悲運
最期をとげられたぞ。これ皆こなたの不信の為、義理も人道も踏みにじる、悪行
非道なこなたのためだ。」

80)みごもりの湖(森恒平)
五個荘七里の美しい風景を背景として、そこの娘の突然の失踪を姉がその謎をたどる
ことで、やがてその死を認め、同時に生命の蘇りを感じていく。
石馬寺、老蘇の森、海津、下丹生、瀬田、石山、高島、近江八幡、観音正寺、大津
紫香楽など近江が登場する。
「石馬寺は湖東屈指の古寺だ。規模は小さいが寺格は抽んでており、住職は代々石馬姓
を名乗った。聖徳太子が霊地を求めてここまで辿りついたとき、乗馬が化して石
となったという伝説もあるが、伝説はさておき山門の前に底黒く泥を溶き重ねた
蓮沼があって、たしかに馬の背とも見える細くまるく盛り上がった石が
水底に見える。」
「槇子は姉の虚ろな墓の前に立った。これが墓なら、あの石の馬も、足下から苔を絡め
て
蜿蜒と山頂へ伸びた夥しい石の段のどの一つもが姉の墓だ。この明神山が、衣笠山の
全部が姉の墓だ。槇子は憎むような眼になって木立ちの影に波打つように上へ上へと
犇く、くらい石段の奥を見上げて来たのだった。」

81)浄土(森敦)
福田寺(長沢御坊と言われ蓮如ゆかりの名刹)の住職の母と森の子供の頃の思い出に
晩年を迎えて再会した時の運命的で夢のような出来事を描いている。
福田寺は公家の奴振りが有名で、報恩講の時に行われる。
「芭蕉は山中温泉で曾良を先立たせると、全昌寺を訪ね前夜曾良が泊まって残した
句を見て、別離の情を新たにしている。次に天竜寺を訪れて北枝との別離を
語っている。次に永平寺を訪ねて道元の大いなる別離に感動している。
そういえば、すでに「旅立ち」の「行く春や鳥啼き魚の目は泪」が別離の句であり、
「結び」の「蛤のふたみにわかれ行く秋ぞ」が別離の句である。
芭蕉はじつに会者定離を語っていたのだ。ひとり感に打たれているうちに、
わたしはいつか大谷寿子さんのことを思い出していた。」

82)夢ちがえ(渋沢龍彦)
湖東の豪族の耳の聞こえない姫が閉じ込められた部屋から見た田楽を踊る家来に
恋をして夢を見る。夢違えによって二人は結ばれるが、昔の恋人の密告により
3人は殺されてしまう。
「ふさがっていた栓が取れたように、姫の耳を恍惚たらしめた。耳ばかりではなく、
五体のすみずみにまで音は感動を与えた。感極まって、姫は涙にかきくらた
ほどである。
舞台の設定は佐々木氏で観音寺城であり、沖島であったかも。

83)クレソン(藤本恵子)
湖西線開通。ローズタウンの誕生、びわ湖総合開発など変貌していく湖西の姿が
描かれている。

84)桜の森の満開の下(坂口安吾)
血も涙もない山賊さえおののいた「美しいもの」への恐怖を鈴鹿峠の桜で描く。

85)一休さんの門(川口松太郎)
とんちの一休さんだが、悩みから脱して悟りを開いたのは、びわ湖の船の上であった。

86)ニコライの遭難(吉村昭)
日本を訪問していたロシア皇太子襲撃事件の裁判官の姿勢を基に描いた。

87)湖のほとり(田山花袋)
「湖水でとれるヒガイ、若鮎、蜆の汁、そういうもので私たちは午飯をすましたが、
昼ややすぎて餓を覚えつつあったときには、殊に一層の美味を感じた。
私たちはやがて再び汽船に乗った。少し酔った顔を風に吹かせながら、潤い湖上
を東から西へと横切っていく感じはなんとも言われなかった。、、、、
湖上から見た大津の町は、いかにも趣きに富んでいた。白亜と瓦甍、その間を
縫った楊柳の緑、その上に緩やかに靡いている逢坂山の丘陵、それも汽船の
進むに連れて次第に遠く、比叡、比良の翠らんをその前に見る様になる頃には
唐崎の根を張った松も蓮や志賀の都の址も、明智佐馬之助の自害した阪本の
城の位置もそれとさやかに差す事が出来るようになった。」
ほぼ湖の沿岸全域を訪れ、同行者との会話や蕎麦やビールなどの食べ物関係の
記述が多く、雑感的な仄々とした味わいがある。

88)山椒魚(今東光)
山椒魚は比叡山をはじめ、40編からなる短編集。
「比叡山」
「坂本の大鳥居をくぐって、石ころ路を丹海と軍平とは、ぼそぼそと話し
ながら歩いた。両側には石垣をめぐらせた山内の寺院が並んでいるが、
ことりとも音がしない。中に人が住んでいるか、どうかもわからないほど
閑寂だ。」
さらに、
ケーブルに乗り、軍平は琵琶湖を一望にして、その雄大な光景にため息を
漏らしていた。
「なあ、見なはれ、たいしたもんやおまへんか。何宗の御本山かて、日本一の
びわ湖ちゅう大きな湖水を懐に抱いている御山はありまへんやろ。
この天台宗ばかりや」そう言われてみると成る程そんな気もするのである。
「そら、まあ、もっと高いお山もありましゃろけど、日本一の湖を庭池にしてのは、
延暦寺ばっかりだっしゃろなあ」
「まったく、こんな景色を見てたら気ぃも晴れ晴れしまんな。良え坊主、出るのん
当たり前や、ちとっも浮世心が起こらんやろ」、、、、坂本で一番高い戒蔵院から
急な坂を下りる左右には何ヶ寺かの寺院がある。竹林に囲まれた見性院を探し当てると
座敷に通された。

89)志賀寺上人の恋(三島由紀夫)
「春になって、花見の季節になると、志賀の里を訪れる都人士が多くなった。上人は
何の煩わしさをも感じなかった。今更こういう人たちに掻き乱される心境ではなかった
からである。上人は杖を携えて草庵をでた。湖水のほとりへ行った。午後の光りに
ようよう夕影のさしてくる頃で、湖の波は静かであった。上人は水想観を成して、
湖畔に一人佇んでいたのである。」
志賀寺は崇福寺の別称で、奈良時代には十大寺の一つとして隆盛を誇った大寺で、
現在は滋賀里にその旧跡が少し認められる。
ひたすらに浄土を想い描き、その中でのみ生き抜こうとしていたものの、抗いきれない
恋によって現世に引きずり戻されていく人間の心の葛藤を描いている。
「私には実は、その独特な恋の情緒よりも、その単純な心理的事実に興味があった。
そこでは、恋愛と信仰の相克が扱われている。、、、、、
来世と今世がその席を争いあって、大袈裟に言えば、彼らは自分の考えている
世界構造が崩れるか崩れないか、というきわどいところで、この恋物語を
成り立たせたのである。」

90)七つ街道ー近江路フェノロサ先生(井伏鱒二)
「フェノロサの墓を見るために大津の法明院を訪ねた。この寺は三井寺の塔頭
だが、本山よりまだ高みの、まだ見晴らしのいいところにある。、、、、
森閑とした寺であった。西川さんが交渉すると、雛僧が案内に立って、
茶席の雨戸を開けて見せた。フェノロサがビゲロー博士と一緒に住んでいた
「時雨亭」という茶席である。」
日本文化へのフェノロサの傾倒は凄まじいもので、「時分が死んだら遺骨は
三井寺に葬って欲しい。もし他の場所に葬られたら、きっと盗まれた釣鐘の
ように、三井寺に帰りたいと、と泣き叫ぶだろう」という書簡にも現われている。
「墓は玉垣で囲まれている五輪の塔で、裏山への登り口にある。直ぐ近くに
ビゲロー博士の墓と、両博士の略歴を刻んだ平べったい角石が据えてある。
その文字も遺言に従ったとのことで、「フェノロサ先生」は「飛諾洛薩先生」と
綴り、「フランシスコ」は「仏蘭西栖格」という文字に綴ってある。」

91)湖光島影ー琵琶湖めぐり(近松秋江)
「比叡山延暦寺の、今、私の坐っている宿院の二階の座敷の東の窓の机に向って
遠く眼を放っていると、老杉躁鬱たる尾峰の彼方に琵琶湖の水が古鏡の面の
如く、五月雨晴れの日を受けて白く光っている。、、、空気の澄明な日などには
瓦甍粉壁が夕陽を浴びて白く反射している。やがて日が比良比叡の峰続きに
没して遠くの山下が野も里も一様に薄暮の底に隠れてしまうと、その人家
の群がっている処にぽつりぽつり明星のごとき燈火が山を蔽おた夜霧を透して
瞬きはじめる。」
近松浄瑠璃の愛読者であったこともあり、内部的には、情念的な性質を持っており、
異常な情念と妄執の作品が多い。

92)観光バスの行かない、、、(岡部伊都子)
23編の随筆集
眉高き十一面観音
「一歩、薄暗い堂内にはいって、思わず「まあ」と声を上げる。正面にすらりと立った
美しいお人。それはその前に献じられたばらんの葉をかきわけて、今にもこちらに
歩み寄りそうなゆらめく気配を感じさせた。これは美しいお方に会ったものだ。
まだその眉目を判然と見極めもせぬ先にこみあげてくる印象。それはこんな方が
こんな所にいらしたのかという、悲しみにも煮た感動なのである。
電燈に照らし出された面を、近づいてよく仰ぐ。まことに、けざやかな眉を高く
あげた美女である。近づく者をおどろいたように見つめている瞳。斜視の
魅力とでもいおうか、右目は真ん中にあるが左は鼻筋に瞳がよっている。
人間的な、肉厚い唇と、ノーブルな鼻の形。はえぎわの髪のゆたけさも、情の濃さ
をあらわしている。耳朶に目立って大きなイヤリングがついているのも,
宝冠の飾り紐が、左右に長く垂れなびいているのも、完全に美しい女性を意識させる。
十一面の冠が相当大きく、頂天の菩薩面までいれると二メートル以上は
あるかもしれない。
漣の芯まで一本造りの木造だが蓮弁は新しくつくられたものとか。冠中央の
阿弥陀仏も後補のものだというが、全身、不思議なほどに滑らかで、痛みが
ほとんどみられない。」

93)湖笛(水上勉)
京極高次が京極家を再興するまでの紆余曲折を描いた。
高次は、大溝5000石からスタートし、九州の役後に5000石加増される。
天正18年(1590 ) の小田原征伐の功により近江八幡の八幡山城28000石、
文禄4年(1595)に大津城6万石 に 封じられ、近江国内を順次異動していく。
大名として頭角を現していき、京極家復興を 成し遂げることになる。
その中でも、秀吉への謀反の心はある。
その中で、
*高次殿、あんたは、生きねばならぬ。生きるということは、白い一本道を
のんきに歩 くことではない。迷い迷うて歩くのが生きるというものじゃ。
・・・・みんな同じ心の 人間じゃ。  上・p187
*小さい我を張っていては道にふみ迷う。小我を捨てて、大我に生きることが、
世に出 る者の根本義じゃ。・・・・眼を閉じて、大きく活眼をひらかれい。 上・p188
*人間、死んでしまえば、それでお終いではないか。生きてこそ、苦しみの
解かれもす る喜びが味わえるというのに。死によって解放されるのはずるい
と思う。  上・p189
*強い者は、運命を甘んじてうけ、運命の中に自分を見出して生きてゆく。
運命にさか らうことはたやすい。自滅の道がたどりやすいようにの・・・・  下・p181
琵琶湖を背景にした様々な描写が良い。
*今しも杉木立が割れて、扇子を半ばすぼめたような視界がひらけている。
前方に白い 空がみえる。いや、空ではなかった。空の色と見まがうばかりの
湖の水面がのぞいてい るのだった。 上・p5
*黒一色の葦の平原の向こうに、いま巨大な丸鏡を置いたように光る湖面がある。 上 ・p89
*賤ヶ岳の東は、白い山襞が紺青の琵琶湖すれすれに落ちこんでいる。水は
はるか南の 彼方まで、まるで雪の上に紺青の染料をしたたらせたように鮮明
に浮いていた。 上・ p128
*長命寺裏のなだらかな丘陵が湖へつき出して、ぽつんと点のように沖島
だけがみえる 。 上・p129
*湖面は大溝の出鼻をとりまいて、半紙を敷いたように白かった。 上・p201
*折から五月の緑に囲まれた湖面は、藍を溶かしたように美しかった。 上・p210
*いつみても変わりないはずの琵琶の水が、今日は冷たく沈んでいるような気がした。  上・p313 *陽の輝きはじめた湖面は朱をとかしたような色の中で、こまかいちりめん
皺を光らせ はじめた。   下・p83
*湖面へ桟橋がつき出ていて、いま、暮色になずみはじめた水面に点々と?の
さし竹が ういてみえる。 下・p111
*琵琶湖は山の奥の暗い湖じゃと思うておった・・・  下・p112
*高次は、整然とひろがる町並みを眺めたあと、遠い湖面を見やった。
冬の朝である。 清澄な空気は、陽を受けて、いま橙色に湖面の小波を輝かし、
遠い山影をくっきりとう かべている。  下・p258
琵琶湖の表情がおもしろい。
ほかに比良に関しては、「雁の死」「比良の満月」があります。
『雁の寺』の最終章となる第4部「雁の死」です。 舞台は、京都府と滋賀県の県境、
慈念の父がいることがわかった琵琶湖西岸の比良に移 ります。 比良というと、
井上靖が何度か舞台として取り上げている土地です。物語の場所として 、
文学的な香りを感じさせるところのようです。というよりも、水上勉も井上靖も、
共 に琵琶湖を背景にした多くの作品を残しています。
作風は異なります。しかし、その底 流には、土地の雰囲気や匂いが
取り込まれています。しかも、水上勉の方が、土地と風 土に根差した生活が
描かれているように思われます。 月光の中、完成間近の三重塔の中で、
慈念と父の親子二人が、母だ誰かということを巡 って緊迫したやりとりが
なされます。今この地にいる女が母ではないか、と慈念は父に 迫りま。
それを最後まで否定する父。この物語の見せ場です。


94)琵琶湖に命をかけて 徳永真一郎
瀬田川治水に挑んだ庄屋3代の苦闘

天明元年(1781)のころ

少し雨が降り続くと、すぐに琵琶湖の水かさがふえ、魔物のように泥水が
這い上がってきて、湖岸一帯の田畑は、忽ち水の底に沈むのだ。それが隔年ごとに
起こるのだ。大雨が降っても、すぐに水込になることはない。「後込7日」といって、
7日後に水位が最高潮に達する。それを見計らって朝早くから夕方遅くまで
みんなが交代で水車を踏んで、排水に汗を流さねばならなかった。


163
琵琶湖から流れる河川は、瀬田川1つしかなく、そこに土砂が積もると、水はけが
悪くなり、少しの雨でも湖水があふれだし、湖辺の村々がいかに難儀しているか
を細かに説明し、是非公儀のお力で川さらえをしていただきたいと、詳しく説明した。

204
清勝、わしはお前のおじいさんの志を継いで、家のことも、お前やお母さんのことも
かえりみず、瀬田川の川さらえのことばかりにかかり合うてきた。ところが、
御役所というところは、まるで壁に向かってものを言うとるようで、さっぱり手ごたえ
が
なかった。ほれをなんとかしようと苦しみ続けたが、いま一歩というところで、
こちらの思うようにならなんだ。おまえにわしの後を継いでやってくれとは、
よういわん。お前がかわいそうやでな。

天保2年(1831)1月、勘定奉行の名前で湖辺の村々の名主、地頭に瀬田川筋の
普請についての申渡しがされた。
天明3年(1783)以来、約50年の湖西高島郡深溝村の庄屋藤本太郎兵衛親子
3代の念願がかなった。





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参考)近江に関する文学(ダブりあり)
安土往還記 (辻邦夫)
あらくれ武道 (山本周五郎)
偉大なる、しゅららぼん(万城目学) :主人公らは湖西地方出身・湖東地方在住、琵
琶湖をパワースポットとする「湖の民」で、物語は湖周辺で展開。
一歩の距離 (城山三郎)
湖猫、波を奔る(弟子吉治郎)
エスケイプ/アブセント (絲山秋子)
小倉日記 (森鴎外)
火天の城 (山本兼一) :安土城築城の物語。
奇祭の果て (西村京太郎)
絹と明察 (三島由紀夫)
金魚撩乱 (岡本かの子)
クレソン (藤本恵子)
甲賀忍法帖 (山田風太郎)
興義和尚のはなし (小泉八雲)
功名が辻(司馬遼太郎)
孤高のメス―外科医当麻鉄彦(大鐘稔彦)
湖西線12×4の謎 (西村京太郎)
桜の森の満開の下(坂口安吾)
小説中江藤樹 (童門冬二)
青春ぱんだバンド(瀧上耕)
惜春(花村萬月)
関ヶ原(司馬遼太郎)
喪失記 (姫野カオルコ)
草筏 (外村繁)
竹生島心中 (青山光二)
ちがうもん (姫野カオルコ)
月ノ浦惣庄公事置書 (岩井三四二)
つばめ(ジェームス三木)
十津川警部湖北の幻想 (西村京太郎)
ニコライ遭難 (吉村昭)
背約のキャバリアー(六塚光)
花の生涯(舟橋聖一) :井伊直弼の本拠・彦根(犬上郡彦根町周辺)にある埋木舎や
彦根城が、特に前半(彦根編)の主要舞台。
葉桜が来た夏(夏海公司)
比叡 (瀬戸内晴美)
星と祭り(井上靖)
マジックミラー(有栖川有栖)
瞼の母 (長谷川伸)
万華鏡 (遠藤周作)
みごもりの湖 (秦恒平)
盲目物語(谷崎潤一郎)
藍色のベンチャー(あきんど 絹屋半兵衛) (幸田真音)
澪標 (外村繁)
街道をゆく1(湖西のみち),16巻(司馬遼太郎)
銀の海 金の大地 (氷室冴子)
群雲、賎ケ岳へ (岳宏一郎)
群青の湖 (芝木好子)
江?姫たちの戦国? (田渕久美子)
びわ湖環状線に死す (西村京太郎)
琵琶湖周航殺人歌(内田康夫)
ぼてじゃこ物語 (花登筺)