今回は志賀町史から、再度古代楽浪の里を見てみたい。 過去を懐かしむわけではないが、当時の歴史的な動きを理解して 置くこともこの地に住む人として必要なのでは、と思う。 近江国は以前から都の貴族から真に重要な大国と認識されていた。 すなわち、「近江国は、宇宙有名の地也。地広く人衆く、国富み家給る。 東は不破と交わり、北は鶴鹿に接す。南は山背に通じ、此の京都に至る。 水海は清くして広く、山木は繁りて長し。其の土は黒土、其の田は上々、 水旱災い有りと雖も曾て不穫の憂いなし」といわれた国である。 そして、滋賀郡の「古津」は、遷都の詔と同時に出された詔により、 近江京時代の旧号を追って、「大津」と改称され、湖の道には東と北 を抑える要点として真野郷は」陸の道には北を抑える要点として、 古市郷、織部郷、大友郷とともに従来より以上に重要性を増すことになった。 そうした位置付けのもとで、真野郷に現われた無視できない変化は、高島郡界 と接する真野郷北方域の重要性である。というのは、郷内を通る湖岸の道は もとよりだが、安曇川中流から朽木谷を通る裏道とともに、和邇川沿いに 山道を越えて平安京へ北から入る道として、北からの人とものを受け止める ことになったからである。 沿道の田野や山林で働く人々と其の集落の点在する地域は、いままでと 打って変わった重要性を持つことになった。このことは、やがて、ことに 十世紀後半から延暦寺の勢力がこの地域に及んでくる前史として、十分に 留意しておく必要がある。 このような真野郷の地位の重要化は、郷の人々以上に平安京の政府が 認識していた。 平安京に先立つ長岡京の時代に滋賀郡に新造された梵釈寺には、延暦7年 に下総越前両国から各50戸の封土が与えられたし、すでに旧大津京の時代 以来の伝統を持つ崇福寺では、大同元年には京内の左比寺、鳥戸寺と共に 四七斎が六七斎は崇福寺で執り行われた。 なお、崇福寺と梵釈寺は、平安時代含め10大寺とされていたが、度重なる 被災と延暦寺の隆盛により、壬申の乱以後、衰退していく。 しかし、日本書紀などの記述から大津京の西北に崇福寺が建てられていたこと が分かっているので、その東南が大津京となる。崇福寺は志賀寺とも呼ばれていた。 また、霊峰比良山だけでなく、坂本とともに真野郷からも通じる比叡山は、 最澄の「一切衆生、悉皆有仏性」とする新しい理念に基づく鎮護国家論の発祥の 地として、急速に重要さを示し始めた。そして、比良神には、貞観7年、無位 から一躍して従4位下の神階があたえられたのであった。神階とは、有力神 に国家によって奉授された位階を言う。比良の神もここに国家的な高い神階 が与えられたのである。 大津北郊で大津京時代ごろの建物の立地できるのは、錦織、南滋賀、滋賀里、 穴太の扇状地で、いずれも西高東低の傾斜の強い地形で、夫々東西に長い舌状 を呈している。さらに、南滋賀ではそのうちの西半分は大津京時代の寺院である 南滋賀廃寺が占めており、滋賀里でも宮がここにあったとすればすでに この時、削平されていたはずである古墳群その西半分広がっている。 また、穴太も同時代の寺院跡がかなりの地域を占めているようである。 こうみると左右対称の建物を配置するため比較的まとまった平坦地の要求される 宮域としては南滋賀、滋賀里、穴太の地域は適地とは言えず、中でも 最も平坦地の広がっているのが錦織であり、地形から見れば、宮の所在地 としては錦織がもっとも相応しいことが分かる。 万葉集にある高市古市の歌 古(いにしえ)の ひとにわれあれや ささなみの 故(ふる)き京(みやこ) を見れば悲しき ささなみの 国つ御神(みかみ)の 心(うち)さびて 荒れたる京(みやこ) 見れば悲しも すべて廃墟と化した荒れたる都を偲んでいる。大津の宮時代は、鎌足につぐ天智 の死を経て壬申の乱へつながり、5年数ヶ月の歴史の終焉を迎える。
2015年9月メモ
万葉集に、
「山見れば 高く貴し 川見れば さやけく清し 水門(みなと)なす 海も広し」 これを「海」から「湖(うみ)」とすれば、ここ、さざなみの里志賀でもある。 文明のあり難さを十分に、感じた昨今としては、伊勢神宮など、自然の豊かな 場所での自然循環の中で、自給自足という伝統を守っている人々の智慧を活用 したいもの。 志賀町について、その町誌から、概観してみたい。 1)志賀町史第1巻より かって滋賀県は、近江国と呼ばれた。 「近つ淡海の国」である。 静岡県の西部を浜名湖にちなんで「遠つ淡海の国」と呼ぶが、 それに対して近江国は、琵琶湖によってその名がついた。 古代の湖西地方には2つの特徴がある。交通の要所である ことと鉄の産地であることである。ともに、ヤマト王権や ヤマト国家の中心が、奈良盆地や大阪平野にあったことと関係する。 近江は、日本列島における水上及び陸上の交通路の要であったと 言える。まず陸路から述べよう。旧いヤマト国家の時代には、 近江は「北」の国、海路で「越」(北陸地方)につうじる国と 見られていた。ならの平城京の時代には、東山道・北陸道の2つの 幹線道路(官道)が近江をとおっていた。実際には、伊勢湾がいまより もはるかに深く湾入し、三重県桑名郡多度町と愛知県津島市との間の 渡しが難所であったため、東海道の諸国を往還する人も、しばしば 近江をとおって不破関(岐阜県不破郡関ヶ原町)を越えた。 官道には国家が管理する交通の拠点「駅(うまや)」が置かれ、 常時、緊急事態の通信連絡に備えていた。 志賀町域の古代の特徴は、なんと言っても、ヤマト政権・ヤマト王権 の中心地と北陸地方とを結ぶ大動脈が通っていたことである。 奈良盆地から後のなら街道を北上し、逢坂山をこえて湖西に入り、 本町の和邇などを経て音羽(高島郡高島町)あたりにでる。そのあと 上古賀(高島郡安曇川町)・追分などをとおって水坂峠(高島郡今津町) を越え、若狭を回って鶴賀に至った。この道をとおる人は極めて多く 本町域最大の豪族和邇部氏が運営する休息や宿泊の施設もたくさん おかれていたはずである。 ヤマトの文化に触れることもあったので、早くから開けていたが、 それよりも北陸地方、特に、若狭・越前とのつながりが強かった こと、それが当地の一番大きな特徴である。 次に水上交通路であるが、敦賀港と琵琶湖とを結ぶ山道は、平安時代 以後は海津へと出る「7里半越え」が最も栄える。塩津に出る「5里半 越え」は古くは湖東の陸路を通る人々が主に利用した。 琵琶湖の湖上交通のいちばん重要な津は、若狭を経由する「9里半越え」 で到着する勝野津(高島郡高島町)であった。湖上を運送する場合は、 塩津から勝野津を経て、湖西の湖岸沖をとおって大津に向かうことに なっていた。 その後は、瀬田川、宇治川、また木津川、淀川を使う水上交通路である。 この交通路は、5世紀後半には、開かれていた。6世紀後半からは国家 管理となった。その頃湖南の要港は、唐崎の南の方の「志賀津」(現在 の唐崎、西大津)であった。そこから京都府設楽郡の木津や大阪の難波津 に下っていった。船は再び琵琶湖に戻すのだが、「狭狭波山に控き引した」 とある(日本書紀)。宇治川、瀬田川の急流は、崖っぷちで足場が悪く、 とても船を引いてさかのぼることなど出来ない。そのため、巨椋池の 6地蔵あたりから山科川に入って船を引き、四ノ宮付近で陸揚げし、 逢坂山をこえて琵琶湖に戻していたのである。 この水上交通路の運営には、船大工や船頭などのほか、多くの人々の 労働が必要である。本町域の古代の人々も多数駆り出されたことであろう。 この様な労働は、無償ではなかったので、6世紀前半以前は、湖西北部 の「製鉄王」がその費用を支出していたと思われる。6世紀後半に国営 となってからは、「ミヤケ制支配」によってまかなわれた。「ミヤケ制 支配」とは、国家の企画で開拓した水田の経営と結びついた、労働力 と必要現物との国家的調達システムである。近江のミヤケの水田はほとんどが 湖東に開拓されたが、その小作料としての収入は湖西の交通労働者にも 使われた。 以上のように、古代の近江は、日本海と瀬戸内海とを連絡する、本州横断の 「道の国」であった。その道が本町域とその沖合いを通っていたのである。 ■湖西の製鉄 古代近江は鉄を生産する国である。 湖西や湖北が特に深く関わっていた。大津市瀬田付近に近江における国家的 地方支配の拠点(国衡)が置かれたことにより、7世紀の末以後には、 大津市や草津市など湖南地方に製鉄所が営まれるが、それよりも古くから 湖北、湖西では、鉄生産が行われていた。 いつから行われていたかははっきりした文献に載っていないが、技術が 飛躍的に向上するのは5世紀後半であろう。それを説明するには、 この時期の日本史全体の流れをみわたさなければならない。 鉄は、武具、工具、農具などを作るのになくてはならない。それだけでなく 稲や麻布と並んで代表的な等価交換物としても通用していたばかりか、 威光と信望をとをあらわす力を持つものとされた。権力の世界でも生産の 次元でも、すでに、すでに4世紀後半の需要は大きかった。当時の製鉄方法の 詳細はまだよくわかっていないが、原始的な製鉄は古くから行われていた。 しかし、ヤマト政権に関わらる政治の世界で大量に使われた鉄は、大半が 朝鮮半島洛東江河口の金海の市場で塩などと交換され輸入された慶尚道 の鉄挺であったとみられる。3世紀半ばのことを書いた「魏志」東夷伝 に、慶尚道地方の「国は鉄を出す。韓、倭など皆従いてこれを取る」とある。 韓、わい、は朝鮮半島の住民であり、倭は日本列島の住民である。 ところが、5世紀の初頭以来、朝鮮半島北部の強大な国家の高句麗は、 軍隊を朝鮮半島の南部にまで駐屯させ、金海の鉄市場にも介入したことから 鉄の輸入がむずかしくなった。5世紀半ばごろにヤマト王権に結びつく 西日本の有力首長の軍隊が朝鮮半島で活動するのは、鉄の本格的な 国産化を必要とする時代となっていたことを示す。 (鉄の生産については、和邇の周辺にも、その名残と見られる「丹出川」 とかあるが、その遺跡そのものは発見されていない?ただし、この地域を 支配していた佐々木氏の財力などを考えると、かなり盛んではなかったのか との推測も成り立つ) 西暦460年代から480年代にかけて君臨した王は、「古事記」 「日本書紀」に登場する「雄略天皇」である。生前の実名は「ワカタケル」 という。埼玉県行田市の稲荷山古墳から発見された剣(471年) や熊本県玉名郡菊水町の江田船山古墳から発見された太刀にはこの王の 名が象巌されていた。中国の歴史書「宋書」倭国伝には、「倭王武」 とある。 5世紀後半の王雄略の時代は、王の権力が確立した時代として、日本の 古代史上に大きな意味を持っている。その具体的事実の1つに、5世紀 代に朝鮮半島から移住してきた先進技術者を、主に大阪平野に定住させ 王直属の手工業生産組織に編成したことである。そのような手工業生産組織 のなかに、ほかの技術者に部品を提供したり、みずから武器や工具、農具 を作ったりする鉄器生産集団がいた。彼らを「韓鍛冶(からかぬじ)」という。 韓鍛冶は単なる鍛冶師ではなく、鉄の素材(ケラを小割りにしたもの)を 繰り返し鍛えて精錬する技術ももっていた。この中央の韓鍛冶に鉄素材を 供給していた有力な候補地として近江と播磨がある。 日本列島では、弥生時代から鉄が作られていた。砂鉄を原料としてごく少量の しかも低品質の鉄が作られていたと考えられている。砂鉄はチタン磁鉄鉱 であるため、場所によっては、成分に差があるが、製鉄にあたっては 含有されているチタン分を濃縮して分離する必要がある。これに対して、 岩鉄(磁鉄鉱の鉱石)はもともとチタン分をほとんど含まず、資源に かぎりがある欠点を別にすれば、砂鉄よりも勝れた原料であると言える。 朝鮮系技術が入ってきた5世紀後半からは採掘も行われていたようだが、 湖西や湖北ではもっと古くから餅鉄(河川に流れ落ち流れで丸くなった 磁鉄鉱の小石)を拾い集め原料としていた可能性が高い。 8世紀後半には、播磨や近江において岩鉄を採掘をしていた(播磨国 風土記、続日本記)。中国地方の美作、備前、備中、備後、伯き、筑前 野以上6カ国は、官人への給与あてる税として、鉄、鉄製品を貢納していた。 それに対して優良な鉄素材を生産していた播磨、近江は直接に中央政府や 王族に供給したらしく、税として徴収される国からは除かれていたのである。 (延喜式)この違いが生じたのは、ヤマト国家時代までさかのぼると考えられる。 ヤマト王権は、播磨と近江から二大続けてヤマト王権の聖なる女性に婿入り させているからである。この2台の入り婿には、播磨と近江との鉄生産体制 を王権の直接支配下に吸収するという意図が秘められている。 「続日本記」には、近江の「鉄穴」に関する記事が3箇所出てくる。 他の地域では「鉄穴」の記事はなく、近江が優れた鉄を生産していたことが分かる。 この時代の「鉄穴」は鉄鉱石の採掘場だけを指すものではない。 木炭の生産、精錬や製錬の作業を含む鉄生産を一貫して行う、いわば、 製鉄工場であった。 5世紀後半には、鉄の本格的な大規模生産がはじまり、比良山地で操業 が始まった。志賀町小野、比良山地の「タタラ谷や金糞峠」などの地名が かって製鉄工場であったことを示す。 製鉄関連遺跡分布図は、「志賀町誌第1巻の235ページにある。 ■志賀町の古墳文化 近江における最古の前方後円墳は、志賀町小野の不ヶ谷1号墳である。 近江の古墳には、様々な様式があり、和邇地域の古墳がその発生時期から 重要な位置付けになる。 その1つに、「和邇大塚山古墳」があり、膳所の「茶臼山古墳」がある。 古墳群の詳細は、志賀町誌第1巻の190ページと192ページにある。 2)湖西の古代部族 有力豪族は以下の二つがあった。 ・北部 角山君 ・南部 三尾君 ■和邇部氏 志賀町域を中心に湖西中部を支配していた。ヤマト王権の「和邇臣」に所属し、 ヤマト王権と親密な関係があった。和邇臣は奈良県天理市和邇を中心に奈良盆地 東北地域を幾つかの親族集団で支配していた巨大豪族であり、社会的な職能集団 でもあった。和邇部氏は後に春日氏に名を変えた。 また、和邇部氏も、製鉄に関係していたようである。小野神社の祭神である「 タガネツキ大使主命は、元来、鍛冶師の神であり、鉄素材(タガね)を小割にして、 和邇臣配下の鍛冶師に供給していと思われる。 和邇部氏が奈良を中心とするヤマト王権にいた和邇氏と結びついたのは、和邇 大塚山古墳時代の4世紀後半であり、比良山系の餅鉄などから鉄素材を生産し、 和邇氏配下の鍛冶師集団に供給していた。 中央の和邇氏も和邇部氏と同様に、呪的な能力を持つ女系であり、その立場を 利用して、和邇部氏は、滋賀郡の郡司長官となったり、和邇氏は、ヤマト王権 での地位を高めたと思われる。 ■小野氏の系譜 小野氏本流の旧い本拠地は、京都の上高野辺りであり、本町小野へは、妹子 誕生前に、古くから交流のあった和邇部氏の元に来た可能性がある。 このためか、本町小野の古墳は、石釜古墳群が7基、小野神社、石神、道風 神社の古墳群は、3基前後であり、分散的でその数も少ない。 妹子が官人として最高の位階となるまでは、本町域の小野氏は小さな勢力 であったと推測される。 真野臣と真野首(おびと)は、百済系移住氏族であり、春日山古墳群の大きさ などから考えると、和邇部氏から独立して、その地位を高めたと思われる。 ■遣隋使小野妹子 近江は天皇(大王)家の成立と深く関わっている。 後に「継体天皇」とよばれる人物がこの近江から誕生する。継体天皇崩御後の混乱 を欽明天皇が収拾したが、欽明の末子の代に至り、崇峻天皇が暗殺される(592) という大事件が起こった。その後を受けて即位した推古天皇の摂政となった 聖徳太子は、天皇を中心とする中央集権国家建設の必要性を痛感し、範を大陸に 求め隋の統治技術と文物を導入すべく図った。 「日出づるの処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」の国書を携えて 入隋したのが小野妹子であり、607年であった。 翌年、隋の答礼使・裴世清(はいせいせい)とともに帰国した。聖徳太子は同年、 再び妹子を隋に派遣した。その後帰国して大徳冠(第一階)に昇進した。 これは遣使・妹子が高く評価された証といえる。 官位十二階の制定は、この遣隋使による文物導入の成果の一つであった。 妹子を出した小野氏は、本拠地の小野が和邇と接することもあって、大和の豪族・和邇 氏の一族かとも推測される。「新撰姓氏録」には妹子が「近江滋賀郡小野村」に 住したため小野臣を称したとある。しかし、「延喜式」神名帳の滋賀郡八座に、 日吉社(ひえ)と並んで小野神社も名神大社とされており、「続日本後紀」 承和元年(834)の条には、小野社春秋の祭礼に、五位以上の小野氏は官府を持たず に往還することを許されている。これらの点から、小野氏は和邇氏といちおう別個に 小野を本貫(ほんがん 本拠地)とする土豪とみるのが有力な説とされる。 奈良時代から平安時代にかけて、小野妹子・毛人・毛野の子孫の中から、歴史に名 を残すような人物が排出し、特徴ある4つの分野ですなわち第一に対外交渉、第二 に太宰府の政治、第三に東北地方支配、第四に学術・芸術の分野で活躍している。 ■小野神社とその祭神 官撰のひとつ「続日本後記」(承和元年834)によると小野氏の氏神の社は近江国 の滋賀郡に在り。「勅すらく、彼の氏の五位巳上は、春・秋の祭り至らむ毎に、 官符を待たずして、永く以って行き還(かえ)ることを聴す(ゆるす)」。とあり、 また同4年(837)の条には「 勅すらく、大春日・布瑠(ふる)・栗田の三氏 の五位巳上は、小野氏の准い(なずらい)、春・秋二祠のときに官符をまたずして、 近江国の滋賀郡にある氏神の社に向く(おもむく)ことを聴す」とある。 当時の皇族や上流貴族は、「畿内」と「畿外」との境、この場合は逢坂山 を越える時は、事前に天皇に奏請し、許可を伝える太政官符を携行する必要があった。 上の二度にわたる勅は、小野氏やその同族に対する適用除外の特例措置である。 上記の勅は、古い和邇氏同族が、当地の小野神社を氏神の社とし、祭礼を行って きたことを示す。「布瑠」は奈良県天理市石上神宮付近の豪族で、和邇や柿本 の一族と祖先を同じくしていた。「大春日」は「春日」、もっと古くは「和邇」 である。「古事記」孝昭天皇段の和邇氏同族の中心グループで、もとから奈良 盆地東北地域を本拠地とした和邇臣(春日臣)・大宅臣・檪井臣(壱比韋臣) や、京都に起こり奈良盆地東北地域に拠点を持った粟田臣・小野臣など、 これらのすべてが小野で氏神を祀っていた。 ■志賀の漢人(あやひと)の移住 5世紀代になって朝鮮半島から多くの移住民が西日本の各地に移住してきたが、 大半は一般の庶民であった。6世紀後半になるとその当時の東アジア世界でも 最先端の知識人が志賀津に移住してきた。その人々を一括して「志賀の漢人」という。 漢人は中国系の人という意味であるが、百済の聖明王から倭国の欽明天皇に提供された 移住民で、国家と国家との間で行われた移住である。 百済王は、倭王の要請にこたえて国家の形成を指導する人材を派遣した。数年間滞在し た後に帰国する学術・技術の専門家や「漢人」のように倭国に定住した人々である。 移住した後は、国家の形成を指導するテクノクラートとして、今の奈良県や大阪府 あたりに住み着いた。大和と河内の2つの飛鳥に花開いた仏教文化の真の創造主体は 彼らなのである。それらの一部が570年ごろ唐崎の南にあった志賀津に配置された。 この周辺には、群集古墳が多くあるが、その多くは、「志賀の漢人」の墓であり、 文化的な交流、高句麗人との直接対応など、本町域への影響が察せられる。 なお、天皇家の別荘であった比良宮には、天皇が3度も行幸しており、 琵琶湖、特に志賀津を中心とする周辺は、天下の絶景との思いが強いようであった。 近江大津宮は、667年に天智天皇が移り、唐、新羅、高句麗、百済との 激しい動乱の中で、天皇に権力を集中する官僚制と全国的な軍事組織のとの樹立 によって、ヤマト国家が律令国家に根本から転換し始めた時代であった。 古代の行政区画では、滋賀郡というのはなく、古市郷、錦部郷、大友郷、真野郷 の4つの郷で構成されていた。今の志賀町は、ほぼ真野郷と一致する。 また、度重なる政変や動乱によって、4つの郷は、陸道としての重要性を更に 高めることになる。これに伴い、比良の神も国家的な高い神階を与えられる。 古北陸道の概観 古代を通じて、志賀町域は、律令国家の官道の一つである北陸道が通過 する要所であった。北陸道とその枝路には、駅(うまや)が置かれ、公用を おびた役人が乗り継ぐ馬が用意された。更に、その駅制度は一層整備される。 和邇駅は本町域の、和邇川の三角州に位置する、和邇中にその遺跡が残っている。 10世紀からは、律令制も確定し、近江国も滋賀郡和邇荘、滋賀・高島両群 比良牧、高島郡太田荘、高島郡朽木荘、野洲郡明見荘であった。 和邇荘と比良牧の大部分は、本町域にあり、寂楽寺の所領であった。 各地は園城寺円満院などの寺としての荘園支配機構を形成していた。 和邇荘は、都への「鬼気」の進入を防ぐ和邇海という場所があり、四角四境 の祭祇があった。 平安時代後期には、多くの寺院が建てられている。「比叡山3千坊、比良山 七百坊」言われた。 平安時代は、多くの仏像が作られた。 ・天満神社(北比良)の神将形立像は日本の天神信仰を考えるに重要。 ・千手院(北浜)の千手観音立像 ・真光寺(北浜)の地蔵菩薩立像 ・徳勝寺(北浜)の薬師如来坐像 ・報恩寺(高城)の等身大の阿弥陀如来坐像 ・安養寺(木戸)の阿弥陀如来立像 ・八屋戸の千手観音立像 ・観音堂(小野)の聖観音立像と毘沙門天立像 ■比良山地における山岳信仰 朝廷は、近江国に妙法寺と景勝時を建立を認め、官寺とした。 最澄の天台宗と空海の真言宗は、朝廷から公認され、特に、天台宗の勢力拡大 にともない比良山地はその修行地となり、多くの寺院が建てられた。 その様子は、「近江国比良荘絵図」でも山中に、歓喜寺、法喜寺、長法寺などが 描かれている。 比良山地はその周辺も加えて、近畿内では、最も、修験に相応しかった。それらの 寺院跡には、鵜川長方寺遺跡、北比良ダンダ坊遺跡、大物歓喜寺遺跡、栗原大教寺野 遺跡などがある。 ■志賀町の四季 本町は木と緑に恵まれた自然景観の美しいまちであり、古代以来、多くの歌人 によって、歌われてきた。 「恵慶集」より、 比良の山 もみじは夜の間 いかならむ 峰の上風 打ちしきり吹く 人住まず 隣絶えたる 山里に 寝覚めの鹿の 声のみぞする 岸近く 残れる菊は 霜ならで 波をさへこそ しのぐべらなれ 見る人も 沖の荒波 うとけれど わざと馴れいる 鴛(おし)かたつかも 磯触に さわぐ波だに 高ければ 峰の木の葉も いまは残らじ これらの歌は、晩秋から初冬にかけての琵琶湖と比良山地からなる景観の 微妙な季節の移り変わりを見事に表現している。散っていく紅葉に心を 痛めながら、山で啼く鹿の声、湖岸の菊、波に漂う水鳥や漁をする船に 想いをよせつつ、比良の山の冠雪から確かな冬の到来を告げている。 そして、冬の到来を予感させる山から吹く強い風(比良おろし)により、 紅葉が散り終えたことを示唆している。 2)志賀町史第2巻 鎌倉時代になると湖東や比叡山の影響が強く出てくる。 佐々木氏は、近江守護となり、その息子がそれぞれ、大原氏、京極氏(後に 京極氏は、惣領家となり、滋賀群含めた地域の一台勢力となり、六角氏 と争うようになる)、六角氏、高島氏を名乗った。 しかし、実質的には、滋賀群は比叡山延暦寺の圧倒的な勢力下にあった。 この地域では、天台宗の寺院が多いのと延暦寺関係の寺院の持つ領地 が点在していた。 和邇荘、木戸荘、比良荘は延暦寺寺領でもあった。しかし、応仁の乱以後、 六角氏が湖西への進出を図り始める。 滋賀郡でお城郭数は約1300ほど合ったらしいが、いずれも、簡単な 山城程度であり、41ページにその分布図がある。 ・荘園の形成と崩壊 本町地域は、交通の要衝であり、有力貴族や自社にとっての重要な采地でも あった。この地域の多くは、延暦寺、園城寺、日吉神社の寺領であり、小松荘、 比良荘、木戸荘、和邇荘などの荘園があった。特に、中世以降、御厨(みくりや) が荘園運営に組織化されていったことは見逃せない。 しかし、農業の集約化、生産の多様化、生産余剰分の発生、貨幣経済の浸透等 の新しい動きが、田畑の売買や寄進を更に推し進め、荘園的土地所有やその領主 支配の崩壊を内部から起こし始めた。 これにより、「惣」「村」という新しい形の荘園組織が進み、その運営組織 として、宮座と呼ばれる執行機関が神事や祭礼を行うと供に、その役割を担っていく。 和邇荘では、天皇神社であり、木戸荘には樹下神社、比良荘では天満神社などが 行っていた。 ・交通の要路である西近江路 古代からの官道の駅家がその核となり、荘園の中心集落と一体となった新しい 要路となっている。この山側には、途中、朽木を経由する花折街道もあった。 平家物語、源平盛衰記には、軍隊の動きが書いてあり、それにより、当時の 交通路の概要が掴める。 源平の戦い、足利氏の新政府のための戦いなどが繰り返れることにより、 堅田は港湾集落としての機能を高めていく。更に、14世紀以降は、本福寺 の後押しもあり、湖上の漁業権の特権も活かし、最大の勢力となって行く。 本町地域での陸路と水路の集落にも、役割が出てくる。 陸路でもあり、各荘園の中心集落としては、 南小松、大物、荒川、木戸、八屋戸、南船路、和邇中、小野があった。 これらの中でも、木戸荘は中心的な荘園であった。 水路、漁業の中心としては、 北小松、北比良、南比良、和邇の北浜、中浜、南浜があった。 和邇は、天皇神社含め多くの遺跡があり、堅田や坂本と並んで湖西における 重要な浜津であり、古代北陸道の駅家もあった。古代の駅家がその後の 中心的な集落になる事例は多くある。現在の和邇今宿が和邇宿であったことが 考えられる。 ・本町地域を眺望する絵図 地域をより具体的に見ていくには、地図の存在が大きい。 中世に書かれた比良荘絵図が3点ほどある。 北小松図、北比良図、南比良図である。 こられの裏書などからその地域を領有していたものが分かる。多くは、比叡山 の山徒であった。また、これら絵図の目的の多くは、各荘との境界を明確に するものであったようで、直接関係が少ない山の名前では、違いがある場合が 少なくない。境界争いや水利権争いでは、どの時代でも、これらの絵図を基本 として、使っているようであり、境界近くの正確性が求められていた。 境界争いでは、「小松荘と音羽、比良荘」との争いや「木戸荘と比良荘との葛川」 「和邇荘と龍華荘との境界争い」など多くあるようであり、幕府や延暦寺など に残る古文書からもそれが覗える。 また、中世の時代以後書かれた「正徳絵図、寛文絵図」でも、現在使われている 地名とは違う点も多くあり、地図の正確性も、書いたときの絵師にもよるのでろうが、 少しづつズレがある。正確性を高めるのは、伊能忠敬の全国的に実施した測量地図 となる。しかし、土地の正確性は増すものの、「和邇荘と龍華荘」の様な 昔あったとされる龍華寺の存在を示すのがその地域の伝聞であったり、縁起、 伝承の一般民衆に関わる世界が具体的な境界争いになる場合は、その解決は 中々に難しい。 ■宗教と生活 日本には、古くから山岳を神霊、祖霊の住む世界とする観念がある。白山信仰、 などは、その代表的なものであろうか。水や稲作を支配する霊は山に籠り、 生を受けるのも、死んでいくのも、山であった。超自然的な神霊が籠る霊山 と認識された「七高山」の1つである比良山にも、比良山岳信仰が盛んであった。 北比良のダンダ坊遺跡、高島鵜川の長法寺遺跡、大物の歓喜時遺跡、栗原の 大教寺野遺跡などがある。しかし、仏教の浸透が深まるに連れて、天台宗の本山系、 真言系の当山系などのように、宗教集団を形成していった。 比良八講 「北比良村天神縁起絵巻」にも、そのときの様子が書かれている。また、「日次 紀事」にも以下の様な記述がある。 比良の八講 江州比良明神の社 古今曰く 比叡山の僧徒、法華八講を修む この日湖上多く烈風し、故に往来の船は急時非ずんば即ち出ず 比良山岳信仰の名残は、山ろくの神社にも残っている。 北小松の樹下神社、北比良の天満神社では、菅原道真を祭神としている。 しかし、本願寺の蓮如が8代宗主になると、浄土真宗が近江では、急激な 広がりを見せる。浄土宗は、阿弥陀仏に念仏を唱えれば、誰でも極楽浄土に いける事を説いた。蓮如は、その布教に対して、木像よりも絵像、絵像 よりも、十字名号(紺地の絹布に帰命尽十万無碍光如来の十字を書いた もの)を重視した。 本町地域での真宗の基盤は、堅田本福寺であった。 浄土真宗が拡大した要因の一つに、2回の大飢饉がある。寛喜と寛正の大飢饉である。 12世紀以降には、鉄製農具が普及していたが、天候不順に対しては無力であった。 また、名主層の分化、作人の自立化、などが進み、集約した村落共同体の「惣村」 が結成されるようになった。 慢性的な飢饉のため、米を常食とすることは少なかったが、一日三食の習慣が定着し, 衣服も木綿が主となった。 ■志賀の文化、芸術 比良の雪世界と山嵐の存在は、文学他にも、影響している。 万葉集では、 楽浪(さざなみ)の比良山嵐の海吹けば釣する海人の袖反(かえ)る見ゆ また、西行と寂然との和歌のやりとりでも、 大原は比良の高嶺の近ければ雪ふるほどを思ひこそやれ おもえただ都にてだに袖冴えし比良の高嶺の雪のけしきを とある。 この雪の様を描いたのが「比良の暮雪」として近江八景で、有名である。 また、春の季節には、 ひらの山はあふみ海のちかければ浪と花との見ゆるなるべし 花さそう比良の山嵐吹きにけりこぎゆく舟の踏みゆるまで 風わたるこすえのをとはさひしくてこまつかおきにやとる月影 鎌倉時代以降は、旅を目的とした古代北陸道としての活用が高まり、 多くの歌人が名勝や情景に歌を綴った。 浄土真宗の浸透は、平安、鎌倉時代と更に進み、広範な支持を民衆に受ける。 しかも、阿弥陀如来信仰のような極楽浄土への道を説く教義では、 仏像、仏画も盛んに作られている。本町域では、 西岸寺の阿弥陀如来立像(和邇中) 上品寺の阿弥陀三尊像と地蔵菩薩立像(小野) いずれもメリハリのきいた明確な表情をした鎌倉時代の作品である。 安養寺の本尊である阿弥陀如来立像(木戸)と銅像の阿弥陀三尊像がある。 大物薬師堂の本尊像である阿弥陀如来像がある。 徳勝寺の薬師堂に安置されている釈迦如来座像がある。(北小松) などがある。 また、仏の世界を守護するための狛犬も多く見られる。 狛犬は、口を開いた阿行と口を閉ざしたうんぎゅうの一対からなる。 野洲の御神神社の狛犬が最古のものとされ、さらに、大津の若松神社、 栗東の大宝神社、湖北の白鬚神社のものがある。 この近くでは、 和邇中樹下神社と本殿にあり、小野道風、たかむら神社にも、一対の狛犬が 安置されている。 仏画と経典について 絵画は、材質面での脆弱性もあり、仏像類ほど多く残っていない。 ここでの最古の仏画は、上品寺の仏涅槃図である。 大幅な画面に、沙羅双樹の木立の下、床台に横たわり、入滅を迎える釈迦と その周囲に集まって悲嘆にくれる多くの菩薩や動物を描いている。 木戸の安養寺には、阿弥陀如来来迎図がある。阿弥陀如来図には、 聖衆来迎図と阿弥陀、観音などの三尊を描いたものがある。 北小松樹下神社には、釈迦十六善神像がある。この図には、宝珠と玄しょう 法師が描かれている。 また、古経典では、小野道風神社の大般若経がある。北小松の樹下神社には、 大般若経と五部大乗経がある。 石造り品と神殿について 滋賀県は、石造物の豊富な地域である。特に、中世の石塔が多数遺存する。 反面、関東などに広く分布する庚申塔、道祖神などの近世の民間信仰 石仏は少ない。本町域の場合も、同様の傾向を示している。 町内には、宝塔、宝きょ印塔、石仏が多く見られる。 宝塔は、天皇神社、北小松樹下神社、小野たかむら神社、北小松天満神社、 栗原の水分(みくまり)神社にも遺存する。 また、宝きょ印塔は樹下神社にある。これは「宝きょ印陀羅尼経」を塔内に 納置するために名づけられたもの。 石仏としては木戸の大行事社の毘沙門天像がある。 神殿は、切妻造り本殿があるが、小野道風、小野たかむら、天皇神社の 三本殿に見られる。全国的には、珍しい造りでもある。 小野神社他メモ 1.小野神社について 祭神:天足彦国押人命(あまたらしひこくにおしひと) ・米餅搗大使主命(たかねつき おおおみ) ・小野妹子命 旧道に接した上品寺の塀角に小野神社の石碑が建っている。その横は小野篁神社へ向う 幅広い参道である。 しかし、ここで言う「たかね」は鉄のことも指しており、この辺一体が、鉄を生産 していたことに還元があるのかもしれない。 参道右脇に生育するムクロジは、胸高周囲4・19mもの大樹で県下最大である。樹勢 もあり、秋には多くの実をつける。参道左脇にある川溝には、山から染み出した 清らかで、指がきれそうな冷たい水が流れ、昔から生活用水として使われている。 鳥居をくぐりさらにすすむと、途中、左側に小野神社へ向う細い参道があらわれる。右 側には石塔が建つ。 鳥居をくぐると本殿が正面に見える。狛犬と燈籠が建つのみである。横には小野篁神社 の本殿が建つ。 小野神社は、古代氏族である小野一族の始祖を祀り、飛鳥時代の創建と伝わる。 小野妹子・篁(たかむら 歌人)・道風(書家)・などを生んだ古代の名族小野氏の氏 神である。推古天皇の代に小野妹子が先祖を祀って創建したと伝える。 境内に小野篁神社(本殿:重文)がある。また近くの飛地境内に道風神社(本殿:重文 )がある。道風は、書道家として、当時は著名3人の1人に数えられた。埼玉の春日井 も関係がある。 平安時代には、小野氏同族の氏神として春秋に祭祀が行われており、平安京内に住む小 野氏や一族がこの神社に参向していた。 境内から石段で高くなった本殿前の空いたスペースに、この神社の祭神・米餅搗大使主 命にちなんで、お餅が飾られている。 毎年10月20日には、全国から餅や菓子の製造業者が自慢の製品を持って神社に集まり 「ひとぎ祭」が行われる。米餅搗大使主命は応神天皇の頃、わが国で最初に餅をついた 餅造りの始祖といわれ、現在ではお菓子の神様として信仰を集めている。 参道入口に「餅祖神 小野神社」と刻まれた道標がある。 これにちなんだ祭りが行われる。 中門・幣殿 本殿 神明造 間口一間二尺 奥行一間一尺 本殿の南側に、コジイトツクバネガシを交えた林がみられる。本殿の裏には県下でも珍 しいタマミズキの大樹が生育する。 八幡神社 松尾神社 石造宝塔 参道の上り口に建つ(大津市指定文化財)。小野篁が般若経を埋納した所 とも、小野小町が調度を埋納した所とも伝える。銘文には「康永22年・・」とある。( 1363) しどき祭 11月2日 7代目米餅揚大使主命(たがねつきおおみかみのみこと)は餅つくりの始祖 とされ、毎年秋に全国の菓子製造業者が集まり、餅を形作った御輿を巡幸する。 境内の神田で穫れた新穀の餅米を前日から水に浸して、生のまま木臼で搗き固める。 それを藁のツトに包み入れる。納豆のように包まれたこれを「しとぎ」と呼んでいる。 そして他の神饌とともに神前に供える。 祭典が終わると、注連縄を張り渡した青竹を捧げ持ち、小野地区(神座)を北、中、南 の順で廻り、各地点で「しとぎ」を吊り下げて礼拝し、五穀豊穣・天下泰平を祈念する 。 由緒 明細書では創立年代不詳であるが、社記によると当社は延喜式名神大社で、御祭神天足 彦国押人命は孝昭天皇の第一皇子で、近江国造の祖である。 また米餅搗大使主命はその七世の孫でもとの名を日布礼大使主命と呼んだ。 応神天皇の時代にはじめて餅を作ったことから日本餅造の始祖とされる。 推古天皇の時代に小野朝臣妹子がこの地に住んで氏神社として奉祀したと伝えられる。 小野神社の文献上の初見は、「続日本書紀」宝亀3年(772)で、大和国の西大寺の西塔 が震えたので占ったところ、近江国滋賀郡小野社の木を伐採して塔を構えたこと による祟りであることがわかったとある。 鎌倉時代にも小野氏の末裔が歴代奉仕し、古来の神領を守り続けたが、建部3年(1336 )神主小野好行が南朝側に加担したため、家職を奪われ、小野氏は衰退し、神領も 大半没収された。延元2年(1337)近江国守護佐々木高頼が新たに摂社を設けて 篁・道風を祀ることにした。 境内社の小野篁神社は平安初期の漢学者で詩人、歌人としても名の高かった小野篁を祀 った神社で社殿は暦応三年に佐々木六角により建立されたと伝えられる、三間社流造 で重文である。また飛地境内社の小野道風神社は小野道風を祀り、社殿は同じく三間社 流造であり興国二年鎮座と伝えられる。 小野?(たかむら)神社も小野神社の摂社で、祭神は平安時代に官僚・学者・歌人とし て活躍した小野?。 社殿は、暦応4年(1341頃の造立で、三間社流造・切妻造平入、桧皮葺である。 2.小野妹子と小野一族 5世紀代になって朝鮮半島から多くの移住民が西日本の各地に移住してきたが、 大半は一般の庶民であった。6世紀後半になるとその当時の東アジア世界でも 最先端の知識人が志賀津に移住してきた。その人々を一括して「志賀の漢人」という。 漢人は中国系の人という意味であるが、百済の聖明王から倭国の欽明天皇に提供された 移住民で、国家と国家との間で行われた移住である。 百済王は、倭王の要請にこたえて国家の形成を指導する人材を派遣した。数年間滞在し た後に帰国する学術・技術の専門家や「漢人」のように倭国に定住した人々である。 近江は天皇(大王)家の成立と深く関わっている。 後に「継体天皇」とよばれる人物がこの近江から誕生する。継体天皇崩御後の混乱 を欽明天皇が収拾したが、欽明の末子の代に至り、崇峻天皇が暗殺される(592) という大事件が起こった。その後を受けて即位した推古天皇の摂政となった 聖徳太子は、天皇を中心とする中央集権国家建設の必要性を痛感し、範を大陸に 求め隋の統治技術と文物を導入すべく図った。 「日出づるの処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」の国書を携えて 入隋したのが小野妹子であり、607年であった。 翌年、隋の答礼使・裴世清(はいせいせい)とともに帰国した。聖徳太子は同年、 再び妹子を隋に派遣した。その後帰国して大徳冠(第一階)に昇進した。 これは遣使・妹子が高く評価された証といえる。 官位十二階の制定は、この遣隋使による文物導入の成果の一つであった。 妹子を出した小野氏は、本拠地の小野が和邇と接することもあって、大和の豪族・和邇 氏の一族かとも推測される。「新撰姓氏録」には妹子が「近江滋賀郡小野村」に 住したため小野臣を称したとある。しかし、「延喜式」神名帳の滋賀郡八座に、 日吉社(ひえ)と並んで小野神社も名神大社とされており、「続日本後紀」 承和元年(834)の条には、小野社春秋の祭礼に、五位以上の小野氏は官府を持たず に往還することを許されている。これらの点から、小野氏は和邇氏といちおう別個に 小野を本貫(ほんがん 本拠地)とする土豪とみるのが有力な説とされる。 奈良時代から平安時代にかけて、小野妹子・毛人・毛野の子孫の中から、歴史に名 を残すような人物が排出し、特徴ある4つの分野ですなわち第一に対外交渉、第二 に太宰府の政治、第三に東北地方支配、第四に学術・芸術の分野で活躍している。 ①第一分野 ・小野馬養(うまかい) 年号の由来となった慶雲の発見者、平城京造営 官司の次官、718年遣新羅大使 ・小野田守(たもり ) 太宰府の官人として長い。753年に遣新羅大使、 758年遣渤海大使 小野石根(いわね ) 776年遣唐副使 帰路難破で死去 小野滋野(しげの ) 遣唐使 ②第二分野 小野老 (おゆ ) 神亀年間(724~729)にはすでに太宰府に赴任。 遣唐使の南島路を整備。万葉歌人としても知られる。 小野岑守(みねもり) 陸奥国守、学者・詩人、太宰府 管内九国に国家の 公営田を立案・建議した。 小野恒柯(つねえ) 名筆家 844年から太宰府 円仁の「入唐求法巡礼行記」 にある「小野少弐」は恒柯、「小野宰相」は小野?である。 小野好古(よしふる) 藤原純友の乱の際、「追捕山陽南海凶賊使」に任命され純友の 軍を破った。大宰大弐として太宰府勤務 ③第三分野 東北地方支配に貢献した人が多い。都から派遣され武将として征服した人、 陸奥国・出羽国の国司となった人が多い。 小野牛養・竹良・永見(以上は奈良時代)岑守・石雄・?・興道・春枝・春風・滝雄・ 宗成・千株・恒柯・春泉(以上は平安時代) ④第四分野 学者・詩人としては、小野永見・岑守・?らが有名。特に岑守は嵯峨天皇の信任厚く、 「凌雲集」や最古の宮中儀式書「内裏式」の編纂者である。最澄も「外護(げご) の檀越(だんおつ)」27人の一人に岑守を揚げている。 小野美材(よしき)は文華抜群とされる。 名筆家として、小野?・恒柯・道風・美材が著名。歌人には小野小町・美材・好古らが いる。 小野小町は、仁明・文徳朝(833~858)ころ活躍した王朝女流歌人の先駆者で、六歌仙 ・三十六歌仙の一人。 「花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに」 は百人一首に選ばれている。 すでに平安時代から、絶世の美女小町の老衰零落伝説があり、謡曲の「七小町」が小町 の虚像を確立した。 しかし経歴は未詳で、小野?の孫で美材・道風の従妹とする説や、出羽国出羽郡の郡司 小野良真の娘とする説、仁明天皇の更衣小野吉子に比定する説などがある。 ■小野神社とその祭神 官撰のひとつ「続日本後記」(承和元年834)によると小野氏の氏神の社は近江国 の滋賀郡に在り。「勅すらく、彼の氏の五位巳上は、春・秋の祭り至らむ毎に、 官符を待たずして、永く以って行き還(かえ)ることを聴す(ゆるす)」。とあり、 また同4年(837)の条には「 勅すらく、大春日・布瑠(ふる)・栗田の三氏 の五位巳上は、小野氏の准い(なずらい)、春・秋二祠のときに官符をまたずして、 近江国の滋賀郡にある氏神の社に向く(おもむく)ことを聴す」とある。 当時の皇族や上流貴族は、「畿内」と「畿外」との境、この場合は逢坂山 を越える時は、事前に天皇に奏請し、許可を伝える太政官符を携行する必要があった。 上の二度にわたる勅は、小野氏やその同族に対する適用除外の特例措置である。 上記の勅は、古い和邇氏同族が、当地の小野神社を氏神の社とし、祭礼を行って きたことを示す。「布瑠」は奈良県天理市石上神宮付近の豪族で、和邇や柿本 の一族と祖先を同じくしていた。「大春日」は「春日」、もっと古くは「和邇」 である。「古事記」孝昭天皇段の和邇氏同族の中心グループで、もとから奈良 盆地東北地域を本拠地とした和邇臣(春日臣)・大宅臣・檪井臣(壱比韋臣) や、京都に起こり奈良盆地東北地域に拠点を持った粟田臣・小野臣など、 これらのすべてが小野で氏神を祀っていた。 その理由として 第一に、古い和邇氏同族が、8世紀の初め以来、小野氏同族となったことによる。 遣隋使小野妹子の「大徳冠」という政治的遺産が小野氏繁栄の端緒で、それを 継受する孫の毛野の時代に、小野氏の勢いは頂点に達した。 毛野は、父毛人の遺業を顕彰し、それとともに、祖父妹子が誕生し、その墓 (唐臼山古墳)もある小野を、小野氏同族(旧和邇氏同族)全体がよって 立つ聖地とした。 第二に、小野神社の本来の祭神であるタガネツキ大使主命(おおおみのみこと) は、「新撰姓氏録」という8世紀末から9世紀初めに編纂された書物に 「米餅搗(春)」と「鏨着」とふたとおりの文字であらわされている。 「米餅搗大使主」の場合は、神事用の「粢(しとぎ 水に浸した米を搗いで粉にし、こ ね固めた餅)」または丸餅をつくって天皇に仕えた人餅搗の神で、現在の 小野神社の「しとぎ祭」や信仰はこの用字から成立した。 「鏨着」の場合、タガネは金属や石を割ったり彫ったりする道具である。 「鏨着タガネツキ」の用字が「鏨衝 たがねつき」に通じるとすれば、神名は タガネで鉄を断ち切る人の意味になる。ただ、遅くとも平安時代の初めには 餅搗の神と思われていたとされる。 タガネツキはもともと鍛冶の神で、和邇部一族の神格化された始祖であって、 おそらくは和邇大塚山古墳の被葬者のことであろう。 なお和邇部の首長の娘は古くから宮中に出仕していた。弘仁4年(813)10月28日 付で中央政府が伝えた天皇の命令には 「 ?女(さるめ)の養田は近江の和邇村、山城国の小野郷にあり。 今、小野臣・和邇部臣等は既に其の氏に非ずして、?女を供らる。(中略) 両氏の?女は永く停廃に従い、?女公氏の女一人を定めて縫殿寮に進め、 闕(か)くるに随い即ち補え。以って恒例とせよ」とある。 「類聚三代格」8世紀初め以後は、「古事記」「日本書紀」のアメノウズメノ ミコトの神話を根拠にして、伊勢の?女公(君)から宮廷の?女を出すのが 正式なのである。 ところがその伊勢出身の女官の収入として届けるべき水田が和邇と京都の 小野(京都市左京区上高野付近)とにあって、和邇部臣・小野臣がその経営 を管理して、かつ?女を出していた。これは、もともと和邇部氏と小野氏とが 宮廷に巫女を出していたことをうかがわせる。 なお、小野の神には、836年従五位下の神階が授けられた。その後も昇進し、 862年に正五位上から従四位下になっている。 「延喜式」臨時祭式や神名帳では名神大社に列している式内社である。 式内社は10世紀前半ごろ選ばれて国家的に認定され、神祇官の官社帳に 搭載されていた各地の崇敬著しい神社である。 其の中でも特に霊験あらたかで有名、かつ社格も高いものが名神大社である。 湖西では日吉大社、北の水尾大社(高島市)、が小野大社と同格の名神大社である。 粢は餅だけでなく、菓子の始めともされており、小野神社は、古くは餅や菓子の商人の 位である「匠」・「司」などの免許を授与していたという。今でも古い菓子屋さんの看 板に、「○○菓子司」とあるのは、その名残である。 3.小野篁神社 小野神社の境内社として小野神社本殿の前に位置しす。建築年代を示す史料 はなくて、様式の切妻造平入(国の重要文化財)から小野道風神社本殿と同じ南北 朝時代前期の歴応年間(1338~1342)の建築と考えられています。 祭神:小野篁(おののたかむら) 小野篁は、平安時代初期の公卿で漢詩文「令義解(りょうのぎげ」の撰修に参画 した漢詩人で、学者・歌人としても知られています。 ・小町供養塔(小野小町) 小野篁の孫にあたる平安時代前期の女流歌人六歌仙・三十六歌仙の一人である小野小 町の供養塔もあります。 4.小野道風神社 小野神社飛地境内社の小野道風神社本殿は、小野篁神社や天皇神社と同じ、切妻造平 入(国の重要文化財)で南北朝時代・歴応四年(1341)に建てられ、小野篁神社より規模は 少し小さいですが、重量感があふれています。 祭神:小野道風(おののとうふう) 小野道風は、平安時代中期の書家で小野篁の孫。醍醐、朱雀、村上三朝に歴任。柳に 飛付く蛙の姿を見て発奮努力して、文筆の極地に達せられ、藤原佐理、藤原行成と共に 日本三大文筆、三跡の一人として文筆の神として崇められています。 小野道風神社からは、参道入口の正面に見える住宅街の中に残された唐臼山古墳がある 。 5.小野妹子神社 小野妹子の墓といわれている唐臼山古墳の上に祀られています。 祭神:大徳冠位小野妹子 推古天皇の時代、遣隋使として中国隋に聖徳太子より国書を託された小野妹子は大国 隋へ対等の外交交渉を拓り開き日本の力を示されました。現在も神社へは外交官、駐在 員の参拝者があり、華道の創始者でもあります。華道関係の訪問者も多い様である。 社殿裏の石垣の跡は、古墳の巨大な箱型石棺状の石室が露出したものです。 この周辺には、私有地で普段は、見られない古墳がある。かなり保存状態が良く、中は 、 高さ3m、奥行き4mほどの長方形である。天井は、ほぼ1枚の岩石で覆われている。 ■「今昔物語」の中に、琵琶湖の鯉と大海から上がってきたワニが戦ったという話があ る。戦場は近江の国、志賀郡の古市の郷(現在の滋賀県大津市膳所石山付近)の瀬田川の 河口付近で、心見の瀬と呼ばれている急流である。最初はワニが優勢に攻めていたが、 最後には鯉が勝ち、ワニは山城国まで逃げて石になってしまい、鯉はその後もずっと竹 生島に棲んでいるという。近江の古代豪族であった和邇氏と山城の小野氏との勢力争い を示している説話だとされるが、小野氏は和邇氏と同族であり、勢力争いというのはシ ックリ来ない。瀬田川は忍熊王が入水自殺した場所で、忍熊王と後の応神天皇を奉じる 神功皇后の争いを示す説話かもしれない。また、大昔、琵琶湖が海に続いていたことを 示す民話でもあるのではないかとの説もある。サメが石になるという話は各地に残され ていて、風土記の淀姫などがその例。 6.榎の宿(榎 顕彰碑) JR湖西線の和邇駅から南へ西近江路を歩いて行くと十字路の真ん中に石垣の上に注 連縄が巻かれ「榎」と彫られた大きな石があります。この場所は、古代北陸道・和邇の 宿駅として平安朝以降、湖西の交通の要拠でした。 江戸時代、徳川幕府は全国の街道に一里塚を設けるように指示し、ここの一里塚にも 榎の木を植えられ、「榎の宿」と呼ばれ、また近くの「天皇神社」ご神木として噂宗さ れていましたが、樹齢360年余で朽ち、昭和43年に神木榎と榎の宿を偲ぶ有志によ り「榎の顕彰碑」として建立されたとのことです。 7.天皇神社 社伝によれば、創建は康保3年(966)と伝えられ、元は天台宗寺院鎮守社として京都 八坂の祇園牛頭天王を奉還して和邇牛頭天王社と呼ばれていましたが、明治9年(1876) に天皇神社と改称されました。 祭神は、素盞嗚尊(スサノオノミコト)。 現在の本殿は、隅柱や歴代記等から鎌倉時代の正中元年(1324)に建立されと考えら れており、本殿は流造の多い中、全国的にも稀な三間社切妻造平入の鎌倉時代の作風を 伝える外観の整った建物で、滋賀県内では隣接の小野篁神社本殿、小野道風神社本殿の 3棟にすぎません。 なお、デスクトップには、2つの関連PDFがある。 「志賀漢人と大津」「志賀の遺構」 補完 猿田彦と和邇氏 右欄の記事でも分かるようのに、猿田彦と和邇氏との縁は深い。 船(和邇)を操る技 術に優れた海神族である和邇氏の祖先が、 猿田彦であることは間違いないところだろ う。 猿田彦は、伊勢の松坂の海で漁をしている時に、比良夫(ひらぶ)貝に手を挟まれてお ぼれ死んだというが、 この比良夫貝の意味は、猿田彦が琵琶湖西岸の比良の地で死ん だと言う意味ではないのか。 猿田彦は、出雲系であるから、出雲の国譲りの話とも関係がある。 因幡の白兎の話 和邇とは船のこと 稻羽之素菟(いなばのしろうさぎ)が、淤岐島(おきのしま)から稻羽(いなば)に渡 ろうとして、 和邇(ワニ)を並べてその背を渡ったが、和邇に毛皮を剥ぎ取られて泣 いていたところを大穴牟遲神(大国主神)に助けられる、 というのが因幡の白兎の話 のあらすじである。 ここで、和邇(ワニ)の解釈が問題であり、「サメ」「海ヘビ」「鰐」など色々な解釈 があるが、 和邇とは船のことを意味すると解釈するのが妥当ではないだろうか。 例えば、滋賀県大津市、JR蓬莱駅近くの天川から以北、高島市鵜川近辺までの比良山麗 一帯を指す古い呼称で比良と言う地域がある。 比良は、古代海族とされる比良一族の居住地としてひらかれ、平安時代に隆盛となり、 比良三千坊と称する寺院群があったという。 古来、比良の湊がおかれ、北陸地方との交易を中心に水運にも従事。中世には比良八庄 とよばれ、小松荘と木戸荘がその中心であったという。 そのJR蓬莱駅の南にJR和邇駅があり、1651年の丸船(丸小船)改帳によれば、 和邇3 8艘、木戸25艘、南比良23艘、南小松14艘、北小松33艘を有すと言う記録があり、 明治 11年の調査では、和邇南浜でイサザ・エビ・ハス・アユ、北比良でヒウオ、北小松でシ ジミなどの漁獲があったと言う。 となると、和邇と言う地名は、丸船(丸小船)が多い場所と言う意味に由来していると 思われる。 つまり、和邇とは船のことを意味すると解釈するのが妥当ではないだろう か。 または、和邇と言う地名から、古代海族とされる比良一族は、和邇一族と呼ばれていた のかも知れない。 因幡の白兎だって、爬虫類の鰐の背中を渡って行くよりも並べた船を渡って行く方が現 実味があると言うものだ。 和邇と言う地名の場所の南には、小野妹子を輩出した小野と言う地名の場所がある。 ここにある小野神社は、古来当地の産土神米餅搗(タガネツキ)大使主命を祭り、 菓 子の神様として崇められ、現在でも全国の菓子製造組合から参拝者が多いそうだ。 一説にはタガネツキは、鏨とも見られ製鉄関係の鍛治師(和邇一族)との、関連も考え られる。 特にこの地が、和邇一族の支配していた地域であり、比良山麓には製鉄遺跡 も、数多く出土しているそうだ。 和邇川を渡り、少しさか上った処に、皇神社があ天る。 この神社は、かって牛頭天王 社と呼ばれており、八坂神社同様、 素戔鳴尊=牛頭天王を祭っており、最勝寺の鎮守 社として、祀られたと言う。 和邇は、平安京への北の入口 和邇堺として重要視され、四堺祭(疫病・疾疫など都城 への侵入防ぐ祭祀)等が、 都から勅使・陰明師等が来てなされた。天皇神社は、これ と同じ鬼門鎮守の役割を果たしていたのだろう。 素戔鳴尊=牛頭天王と言えば出雲を代表する神様(支配者)ではないか。 ならば、和 邇族=素戔鳴尊=牛頭天王と言う関係でではないのか。 和邇は海上ルート、白兎は陸上ルート 因幡の白兎の話は、和邇は海上ルートから日本に来た支配者で、白兎は陸上ルートから 日本に来た支配者を示しているのではないだろうか。 もちろん、和邇族=素戔鳴尊= 牛頭天王の系統は、海上ルートから日本に来た支配者である。 海上ルートから日本に来た支配者(和邇)は、航海が得意で対馬海峡を北上し出雲の国 に上陸した。 陸上ルートから日本に来た支配者(白兎)は、航海が不得意で朝鮮半島 から対馬や壱岐など島伝いに北九州に上陸した。 出雲の国譲りの話は、海上ルートから日本に来た支配者(和邇)が、 陸上ルートから 日本に来た支配者(白兎)に負けたことを意味するのではないだろうか。 陸上ルートから日本に来た支配者(白兎)の後裔である神功皇后が、 やたらに朝鮮半 島(新羅)のことを懐かしがったり、新羅を攻めようとしたのは、 白兎一族(神功皇 后)の先祖が朝鮮半島(新羅)にいたからではないだろうか。 大国主神とは、どんな神様か 大国主神は、プレーボーイだった 大国主神を祀る出雲大社は、日本一の縁結びの神様でもある。 その理由は、大国主神 は、日本一のプレーボーイだったからである。 大国主神は、素戔鳴尊の娘婿であった。素戔鳴尊には須勢理毘売(スセリビメ)と言う末 娘がおり、 どうも大国主神にゾッコンだったらしいのだ。 大国主神の素性は、はっきりしていないが、外国人風のカッコイイ男だったようで、 須勢理毘売(スセリビメ)が大国主神に一目惚れしたのも無理はない。 例によって、須勢理毘売の父親である素戔鳴尊の色々な嫌がらせがあり、 大国主神も 苦労したようだが、眠っている素戔鳴尊の髪を部屋の柱に縛りつけ、 生大刀と生弓矢 と天詔琴を持って須勢理毘売を背負って逃げ出したと言うから、 かなり強引な結婚だ ったようだ。 どこの馬の骨かも知れない大国主神にとって、須勢理毘売を得ることが政略結婚であり 権力への最短の道だと言うことを知っていたのだろう。 大国主神の子供の数は、古事記では180人で、日本書紀では181人であるから、 大国主 神は稀代のモテ男だった訳だ。 大国主神と大黒様 七福神は、インドのヒンドゥー教、中国の仏教、道教、日本の土着信仰が入り混じって 形成された神仏習合からなる日本的な信仰対象である。 大黒天は、元々はヒンドゥー教のシヴァの憤怒の化身であるらしい。 本来はマハーカ ーラといい、マハーは「偉大な」をカーラは「時」もしくは「暗黒」を意味するため「 大暗黒天」とも呼ばれ、 青黒い身体に憤怒の表情をした神であった。 大黒天は、後に仏教や密教に取り入れられ、 日本においては仏教の伝来と共に日本古 来の神である「大国主」と習合され、独自の神となったらしい。 大国主神と恵比寿様 大国主神の家来に少彦名神よ呼ばれるか一寸法師の元型とされる小人神がいる。 恵比 寿様を祀る神社は、東日本には少彦名神系が多いとされている。 大国主神の子供に託宣を司る神である事代主神がいて、天照大神のお使いが来て日本の 国土を天照大神に譲るよう言われた時、 交渉に当たった神の一人としても有名である 。 恵比寿様を祀る神社は、西日本には事代主神系が多いとされている。 いずれにしても、恵比寿は大国主神の家来か子供らしい。 大国主神と八幡信仰 八幡信仰と宇佐八幡宮 八幡信仰のルーツは、宇佐八幡宮だ。八幡は、本来は「ヤハタ」と読んで、幡(秦氏) が多いと言う意味だろうから、 宇佐八幡宮のあたりは、秦氏が多い地帯だったと想像 される。 つまり、「八幡様=秦氏の氏神」と言う解釈が妥当だろう。 秦氏の氏神と言えば、武 内宿禰が最適だろうから、「八幡様=武内宿禰」と言うことができる。 応神天皇は、武内宿禰と神功皇后との間の子供と考えられるから、 宇佐八幡宮は、天 皇家の氏神とも考えられるようになった。 武内宿禰を氏神様とする秦氏は、エンジニア集団であったから、イオンのバカ息子の岡 田のように、 政治の前面に出るような愚は犯さず、八幡神社と言うチェーン店を増や すことに徹した。 なにせ、八幡神社は天皇家の氏神扱いだから権威がある訳である。 イオンのように、バカ息子の岡田がチョロチョロして人様の反感を買うようなこともな く、 天皇家公認の八幡神社は日本全国で愛される存在になって行った訳だ。 ちなみに、宇佐八幡宮の地は、畿内の大和政権の西端の拠点であったと思われる。 大 和政権は、ここに新羅からの外来人を集め、その技術力を活用して北九州の政権(邪馬 台国?)に対抗した筈だ。 神功皇后と武内宿禰のコンビは、大和政権から派遣された遠征軍であり、 北九州の政 権(邪馬台国?)を破った勢いで、新羅を攻めて英雄であった。 しかし、敵を破った英雄は、源義経と同様に味方の妬みに会い、ヒドい目に合うのが常 である。 味方に追われた神功皇后と武内宿禰のコンビは、鹿児島の鹿児島神宮(霧島 市)あたりに逃げた。 そして、鹿児島神宮(霧島市)から反撃(東征)の狼煙を上げ ることになる。 大国主神と八幡信仰 兎を助けた大国主神は、白兎族(神功皇后)の先祖と考えられる。 一方、武内宿禰は 、和邇族出身であろうから、神功皇后と武内宿禰の結婚は、 白兎族と和邇族の融合( 仲直り)とも言える。 融合(仲直り)の条件は、白兎族が政治(天皇)を担当し、和邇族が経済(八幡神社チ ェーン店の経営)を担当すると言うものであったろう。 そして、和邇族は天皇の后を 提供し続けることで、白兎族と和邇族の永遠の融合を狙ったものと考えられる。 バカ息子の岡田がチョロチョロして人様の反感を買うイオンとは違って、 八幡神社チ ェーン店の経営者(秦氏、和邇族など)は、頭がよかった訳だ。 一般の人々は、神功皇后と武内宿禰の結婚を祝って、仲のよい道祖神を作ったのだろう 。 神功皇后と武内宿禰の結婚は、政略結婚ではなく、今で言う自由恋愛に近いもので はなかったのか。 そのため、なおさら一般の人々に愛され続けているのだろう。 政略結婚と言えば、神功皇后と仲哀天皇の結婚は政略結婚だったのだろう。 しかし、 神功皇后は仲哀天皇の結婚が嫌で、仲哀天皇が死んだ時に、その前で 武内宿禰とHをし たと言うAVみたいな話は、自由恋愛の証として当時の一般の人々に愛された筈だ。 好きな皇后とHをするなんて願望は、昔、「皇后陛下と何とかで・・・」と飲み会の歌 にもあったが、 武内宿禰も大国主神なみのプレーボーイだった訳で、「武内宿禰=大 国主神」と言う仮説も成り立ちそうだ。 武内宿禰は300歳(実際は75歳)まで長生きしたと言われるが、「プレーボーイ=長生 き」であったのだろう。 確かに大国主神のように180人もの子供ができれば、ボケるこ ともなくホルモンの分泌も旺盛で病気もせず、 最後まで健康で青春を全うできたのだ ろう。 まさに、神功皇后と武内宿禰は日本人の理想であった。 楽天的な日本人と単細胞な西 洋人との違いは、この辺にありそうである。
堅田他のメモ
小野周辺古墳
http://katata.cocolog-nifty.com/blog/2013/09/post-44d8.html http://katata.cocolog-nifty.com/blog/2013/09/post-8b46.html 幻住庵 http://katata.cocolog-nifty.com/blog/2013/04/post-0b62.html 高島安曇川 http://katata.cocolog-nifty.com/blog/2013/11/post-7419.html 松尾芭蕉 http://katata.cocolog-nifty.com/blog/2013/04/89-2469.html 芭蕉が初めて大津を訪れたのは1685年の春、『野ざらし紀行』の旅の途中でした。 『山路来て何やらゆかし菫草』『唐崎の松は花より朧にて』の二句を詠んだのもこの時 でした。 大津の美しい景観が気に入った芭蕉は木曽塚の草庵(現・義仲寺)に仮住まいし、 その後「奥の細道」の旅に出ました、旅を終え、旅の疲れを癒すため、芭蕉は 再度大津を訪れ、大津市国分にある幻住庵で4ヶ月程過ごしました。 幻住庵からの眺望と山中での生活が気に入り、ここでの体験をもとに書いたのが有名な 「幻住庵記」で、「奥の細道」と並ぶ傑作と言われています。 以後も大津を第二の故郷のように愛した芭蕉は、 「鎖(じょう)明けて月さしいれよ浮御堂(堅田)」 「やすやすと出でていざよう月の雲(堅田)」 「病雁の夜寒(よさむ)に落ちて旅寝かな(堅田本福寺)」 「海士(あま)の屋は小海老にまじるいとどかな(堅田漁港)」 「朝茶飲む僧静かなり菊の花(堅田祥瑞寺) 「比良三上雪さしわたせ鷺(さぎ)の橋(本堅田浮御堂)」 「海晴れて比叡(ひえ)降り残す五月かな(新唐崎公園)」 「唐崎の松は花より朧にて(唐崎神社)」 「行く春や近江の人とおしみける」 「大津絵の筆のはじめは何佛」 「石山の石にたばしるあられかな」 「古池や蛙飛び込む水の音」など、大津で多くの句を 詠み、その数は芭蕉の全発句の約一割にあたる89句にものぼります。 志賀町史第4巻より ①北小松古墳群 写真では石室などはしっかりとしている。 ②南船路古墳群 ③天皇神社古墳群 ④石神古墳群 小野神社と道風神社の中間、形は残っていない ⑤石釜古墳群 和邇川沿いの井の尻橋付近 ⑥ヨウ古墳群 ゴルフ場と和邇川の中間 ⑦前間田古墳群 ⑥の隣り ⑧曼陀羅山北古墳群 小野朝日の西側 ⑨大塚山北古墳群 ⑧の北側 ⑩ゼニワラ古墳 ⑨の北側。玄室の写真あり ⑪唐臼山古墳 小野妹子公園の中 ①ダンダ坊遺跡 北比良タンタ山中。比良管理事務所付近 小野神社と古墳紹介 白洲正子「近江山河抄」より 国道沿いの道風神社の手前を左に入ると、そのとっつきの山懐の丘の上に、 大きな古墳群が見出される。妹子の墓と呼ばれる唐臼山古墳は、この丘の 尾根つづきにあり、老松の根元に石室が露出し、大きな石がるいるいと 重なっているのは、みるからに凄まじい風景である。が、そこからの眺めは すばらしく、真野の入り江を眼下にのぞみ、その向こうには三上山から 湖東の連山、湖水に浮かぶ沖つ島もみえ、目近に比叡山がそびえる景色は、 思わず嘆息を発していしまう。その一番奥にあるのが、大塚山古墳で、 いずれなにがしの命の奥津城に違いないが、背後には、比良山がのしかかるように 迫り、無言のうちに彼らが経てきた歴史を語っている。 大津の神社 http://achikochitazusaete.web.fc2.com/chinju/otsu2/otsu.html 大津市古墳群紹介 http://mj-ktmr2.digi2.jp/p25om/pom25201kokubu.htm 百穴古墳群はその数に圧倒される。 滋賀県大津市滋賀里。何とも鄙びた郷愁を感じる町名ではありませんか。考古学や古代 史、それに民族学に興味のある方には意外と知られている地名で、実は滋賀里周辺は遺 跡や古墳の宝庫なのです。特に崇福寺跡や倭姫塚、南滋賀廃寺や穴太廃寺、高穴穂宮跡 など名前がある遺跡だけではなく、無名の大小様々な古墳や遺跡が出土しており、ヤマ ト朝廷が大和を拠点とする以前から、数々の渡来人が住み着いたと言われる近江国の歴 史を鑑みると、これらの遺跡群も何となく納得できますね。 京阪電車滋賀里駅正面の八幡社の左側道路を比叡山に向かって急な勾配の坂道を上り 人家が途切れた先の右側に鬱蒼とした竹林が見えますが、ここが百穴古墳群と言われる 地域です。正確な墳墓は不明ですが大凡150基の墳墓が在るとされ、現在までに60基以 上 が発掘されています。 墳墓や建立様式からは6世紀後半のモノとされていますので、 天智天皇の大津京より100年前ということになり、この古墳群からもこの周辺が渡来系 豪族の拠点だったとされる所以です。この直ぐ北側の滋賀里二丁目では昭和40年代前半 の宅地造成に際にやはり広大な竪穴式古墳が出土し、かなりの勢力を誇った氏族が居た 事を裏付けています。 百穴古墳群の先には地元の人が「オボトケさん」と呼ぶ石仏が 祀られ、そこを過ぎると崇福寺跡に至ります。 山道は今も残っていて比叡山を越えて京都白川に至りますので、興味のある方は是非! 大津歴史博物館 http://www.rekihaku.otsu.shiga.jp/bunka/index.html 和邇や周辺文化財の一覧が参考となる。 堅田周辺、春日山古墳群や真野郷の史跡 http://japan-geographic.tv/shiga/otsu-kasugayamakofun.html かすがやまこふんぐん【春日山古墳群】 滋賀県大津市真野谷口町にある古墳群。琵琶湖の西岸、堅田(かたた)地区背後の滋賀丘 陵の先端部に位置し、約220基からなる湖西地方最大で古墳時代後期の古墳群。5世紀代 に始まって6世紀後半に集中的に形成され、7世紀初頭に築造が終わったが、古墳群の中 心をなす春日山古墳以外はほぼ6世紀後半の円墳である。古墳群が所在する地域は、和 珥部臣(わにべのおみ)(壬申(じんしん)の乱で大海人皇子(おおあまのおうじ)側につい て活躍した豪族)、小野臣(おののおみ)、真野臣(まののおみ)など和邇(わに)氏につな がる氏族の居住地で、彼らとの関連が強いと考えられる古墳群である。古墳は6群に分 けられ、これまでE支群と呼ばれてきた1群は23基の古墳からなるが、5世紀代の全長65m の前方後円墳である春日山古墳に始まって、2基の大型円墳が築造され、2小群に分かれ ると、6世紀後半に横穴式石室墳がこの2小群に継続して造られ、新たに1小群が誕生す るという推移を見せる春日山古墳群における中枢群である。埋葬の形式は、横穴式石室 や箱式石棺、木棺直葬とバラエティに富んでいる。1974年(昭和49)に国の史跡に指定 された。JR湖西線堅田駅から徒歩約15分。 曼荼羅古墳 http://katata.cocolog-nifty.com/blog/2013/09/post-44d8.htm 歩きながら思ったのは、たとえば霊山やスピリチュアルなものを探して 人は遠くへ行こうとするけど、 素晴らしい場所が意外な足元にあったりする。 それを掘り起こして撮っていこうというのが、このシリーズの始まりだった。 白洲正子さんの「近江山河抄」を手がかりに歩いてみようと思ったのは、なぜだろう。 この風景を、今のうちにきちんと撮影しておきたいと思ったことが大きい。 ・・・ 「近江山河抄」の風景は、現に消え行く風景になっていないだろうか。 消え行くことさえ気付かれないまま、静かに消えようとしている風景があるとしたら。 この風景を撮っておきたいと思った。近江(滋賀)は、私の故郷でもある。 木の岡古墳 http://c-forest.cocolog-nifty.com/blog/2012/02/2-e0f0.html 堅田観光協会 http://katatakankokyokai.com/mano.php 大津市南部の古墳 http://obito1.web.fc2.com/ootuminami.html 参考 http://www.sunrise-pub.co.jp/%E5%85%B6%E3%81%AE%E5%9B%9B%E5%8D%81%E5%9B%9B%E3% 80%80%E6%B6%88%E3%81%88%E3%82%86%E3%81%8F%E3%83%A4%E3%83%8A/ やな漁 10月も下旬頃になると、朝夕はめっきり気温が下がって、時折、湖上を北西の強風が吹 き抜けるようになる。12月の始めにかけて、こんな荒れた日やその翌日には、体を紅色 に染めたアメノウオが、琵琶湖から産卵のために川を上ってくる。アメノウオとは、万 葉の昔からのビワマスの呼称で、この魚を捕獲するために川に仕掛けられるのが「ます ヤナ」である。また、ビワマスとは、成長すると全長60㎝にもなる琵琶湖だけに生息す るサケ科の魚である。 琵琶湖のヤナというと安曇川河口に設置されるアユのカットリヤナがよく知られてい るが、おそらく古代から近世に至るまで、川の河口や内湖の出口にはどこでも、サイズ や構造が異なるさまざまなヤナが仕掛けられ、湖と川や内湖の間を移動する魚類が漁獲 されていたものと思われる。ヤナという漁具は、魚が獲れるかどうかは魚まかせのとこ ろがあるが、ヤナを設置する権利を得ると、待っているだけで魚が手に入るという便利 なものである。そのために、ヤナの漁業権を得ることは、その地域のかなりの実力者で その時代の権力者と結びつきをもった者でないとかなわなかったものと考えられる。写 真は、安曇川の南流に北船木漁業協同組合によって今も設置されている「ますヤナ」で ある。北船木漁業協同組合では、毎年10月1日に、京都の上賀茂神社へビワマスが現在 でも献上されており、古代の結びつきの名残がうかがわれる。 ところで、安曇川の「ますヤナ」が「今も設置されている」と断ったのは、かつて琵 琶湖では各所で見られたこのヤナが、どんどん消えているからである。小さな川のヤナ はほとんど消えたし、大きい川でも私が知っているだけでもこの20年ほどの間に犬上川 、愛知川、知内川、百瀬川などのアユやマスのヤナが消えている。 時代の流れとは言え、ヤナに限らず恐らく数千年の歴史をもち、その権利を得るため にどれほどの犠牲や労力が払われたか知れないヤナなどの漁業権やそれを行使する漁労 文化・技術がなくなってきていることは寂しい限りである。アメノウオを獲るための「 ますヤナ」も、もう写真の安曇川の南流のものしか残っていない。魚の減少にともなっ て、生業としてのヤナ漁が成り立たなくなってきているのである。琵琶湖の在来種を増 やし、漁業としてのヤナ漁が存続するようにすることが必要である。 滋賀県水産試験場 場長 藤岡康弘 日吉大社と宇佐山 http://uminohakata.at.webry.info/201409/article_1.html 訪問の城跡は、 北比良、小松、衣川、壷坂山、坂本、細川、生津、宇佐山の8つがある。 他には、大津、膳所なども近くにあるが、浜大津から東であり、対象外。 滋賀の城跡 http://www.oumi-castle.net/bunrui/ootu.html 日本城郭大系という本がある。 滋賀の城郭 http://maro32.com/%E6%BB%8B%E8%B3%80%E7%9C%8C%E3%81%AE%E5%9F%8E/ 志賀町史第4巻からは、 1)小松城跡 戦国期の土豪である伊藤氏の館城、平地の城館跡である。現在の北小松集落の中 に位置し、「民部屋敷」「吉兵衛屋敷」「斎兵衛屋敷」と呼ばれる伝承地が残る。 当該地は町内でも最北端の集落で、湖岸にほど近く、かっては水路が集落内をめぐり この城館も直接水運を利用したであろうし、その水路が防御的な役割を演じて いたであろう。 旧小松郵便局の前の道は堀を埋めたもので、その向かいの「吉兵衛屋敷」の道沿い には、土塁の上に欅が6,7本あったと言う。また、民部屋敷にも、前栽の一部に なっている土塁の残欠があり、モチの木が植えられている。土塁には門があり、 跳ね橋で夜は上げていたと伝えられる。 2)比良城跡 比良城は北比良の森前に存在したと伝えられる。湖西地域を南北にはしる北国街道 がこの場所で折れ曲がっている。街道を挟み、樹下神社が隣接している。在所の 古老にもこの場所に城があったとの伝承が残っている。北比良村誌によると 「元亀二辛未年九月織田信長公延暦寺を焼滅の挙木村の山上山下に之ある全寺の別院 より兵火蔓延して」とあり、この時期他の城郭と同様破滅したしたものであろう。 3)歓喜寺城跡 大物の集落より西の比良山の山中に天台宗の古刹天寧山歓喜寺跡がある。今では そこに薬師堂だけが残り、わずかに往時ここが寺であった事を偲ばせる。 歓喜寺城は比良山麓に営まれた比良三千坊の1つである天寧山歓喜寺跡の前面 尾根筋上に営まれた「土塁持ち結合型」平地城館である。 この遺構は三条のとてつもなく大きい深い堀切によって形成され、北側の中心主郭 はきり残された土塁を基に四周を囲郭し、この内側裾部や内側法面に石垣積みが 認められる南側の郭は北に低い土塁が残り、近世になって修復、改造がなされた と思われる。また、背後、前面の歓喜寺山に山城が築かれており、L字状の土塁や 北東を除く三方には掘り切りなどが認められる。 4)荒川城跡 荒川城は荒川の城之本と言うところにあったとされる。この城に関しての 文献資料はほとんど見当たらないが、絵図が残っており、それには城之本の地域の中に 古城跡と書かれている。また、ここの城主が木戸十乗坊という記録があり、 同氏は木戸城の城主でもあり、木戸城の確定とともに確認をする必要がある。 5)木戸山城跡 現在の木戸センターより西北西の比良山中腹の尾根部分にあったとされる。この地域は 古くから大川谷に沿って西に向かい、木戸峠より葛川の木戸口や坊村にいたる木戸 越えの道が通る。このため、この城の役目は木戸越えの道の確保であったとも推測され る。城としては、堀切りを設け、東を除く三方に土塁を築いていた。 しかし、この城も「元亀三年信長滅ぼす、諸氏山中に隠れる」とあり、その時に 破壊されたのかもしれない。 まさに之は「春 望 <杜 甫>」の世界かもしれない。 國破れて 山河在り 城春にして 草木深し 時に感じて 花にも涙を濺ぎ 別れを恨んで 鳥にも心を驚かす 峰火 三月に連なり 家書 萬金に抵る 白頭掻いて 更に短かし 渾べて簪に(すべてしんに)勝えざらんと欲す 戦乱によって都長安は破壊しつくされたが、大自然の山や河は依然として変わらず、 町は春を迎えて、草木が生い茂っている。時世のありさまに悲しみを感じて、 (平和な時は楽しむべき)花を見ても涙を流し、家族との別れをつらく思っては、 (心をなぐさめてくれる)鳥の鳴き声を聞いてさえ、はっとして心が傷むのである。 うちつづく戦いののろしは三か月の長きにわたり、家族からの音信もとだえ、 たまに来る便りは万金にも相当するほどに貴重なものに思われる。 心労のため白髪になった頭を掻けば一層薄くなり、まったく冠を止める簪(かんざし) もさすことができないほどである。 さらには、 6)衣川城跡 細川高国に滅ぼされた湖西の城塞跡としては、JR湖西線の堅田駅からほぼ路線沿い に進んだ先にある住宅地の中に衣川(きぬがわ)城がある。 現在は児童公園となっており石碑と解説板がそれぞれ設置されている。日本城郭大系 では山内駿河守宗綱の居城で、朝倉勢と戦ったとのみしか紹介されていませんので、ま ず歴史背景は現地の解説板を元に紹介する。 衣川城を築城したとされるのは、文暦元(1234)年の「粟津の合戦」で武功をたてた 山内義重がこの地を賜り築城したとされる。 先ほど名前を出した山内駿河守宗綱は11代目に辺り、浅井公政、京極高清らと共に永正 5年(1508年)から8年もの間、近江、坂本、石山らの戦いで朝倉貞景らを 相手に取り、勝利を収める、大永6(1526)年に細川入道高国に攻撃され落城した。 その後の歴史に関しては記載されていませんが、廃城となった。 現在の公園は琵琶湖から見ると随分と高台に位置する。また二段構えのような構造に なっており、当時の郭の跡を利用しているのかと勘ぐってしまう構造。また一部に土塁 のような土盛を確認できますが、これも当時の遺構かどうかは分からない。 見所は正直多くありませんが、周辺も舗装されており、年中時期や天候を問わずに訪問 できる城跡。 7)宇佐山城 現地の状況 宇佐山城へは近江神宮に隣接する宇佐八幡宮の参道から登ること約20分 で尾根に出るが、道は少々判り難い。 宇佐山城は3つの曲輪から構成されており、テレビ塔の建っているところが本丸で、南 側の一段下がった曲輪の南斜面には20メートルにわたって高石垣が築かれている。 雑木のために展望は北方しかきかないが、この方面には今道越え(山中越え又は県道30 号線)があり、雑木を刈り取れば今道越えを一望できることは間違いない。 また、少し距離はあるが、逢坂越え(東海道)をも押さえることは十分可能であり、織 田信長が京への街道を確保するためにこの宇佐山城を築いたことが窺える。 元亀元年(1570)4月、越前・朝倉攻めの際、浅井長政に背後を衝かれ、あわてて京都 へ逃げ帰った織田信長は、京都から岐阜城へ帰陣に先立ち築いた城が宇佐山城で、 配下の森可成(よしなり)に守備させた。 元亀元年9月、石山本願寺攻めをする信長の隙を衝いて、浅井・朝倉軍は宇佐山城を 攻めた。浅井・朝倉軍は2万、これに対し宇佐山城を守る森可成の配下は500人余り、 城兵は奮戦するも、9月11日に落城した。 宇佐山城の落城を知った信長はすぐさま摂津より引き返し、宇佐山城を奪回し、比叡山 壺笠山城に楯籠もる浅井・朝倉連合軍と対峙したが、比叡山からの援助を受ける浅井 ・朝倉軍に対し四方に敵を抱えた信長は、勅命を仰ぎ和議を結ぶと岐阜に帰陣した。 翌元亀2年9月、信長は浅井・朝倉に味方した比叡山に対し焼き討ちをかけた。元亀3年 (1572)に坂本城が築城されると、宇佐山城も廃城となった。 8)大津陣屋 大老堀田氏の子孫が統治した大津の陣屋 大津市堅田の浮御堂のすぐ隣の駐車場に堅田陣屋の案内板などが残ります。 元禄11(1698)年に、徳川幕府大老の堀田正俊の三男正高が、下野国から堅田に移り、 堅田藩の中心として陣屋を建設したと日本城郭大系に説明されています。 文政9(1826)年に、当主の正敦が再び下野佐野に移転されると、堅田藩は廃止になり 徳川幕府が直接治める天領となったそうです。 目だった遺構はありませんが、近くの伊豆神社へ繋がる舟入遺構など水路はよく確認で きます。あと、有料(300円)ですが冒頭の浮御堂から、陣屋方向を眺めてみるのがオ ススメです。 城跡として見所は決して多くはありませんが、JR堅田駅から琵琶湖方面へ歩き、周辺に は中世の城塞跡とされる伝承地も少なくない場所なので、天気のいい日に、湖畔をじっ くりと散策してみると楽しめると思います。ちなみに浮御堂ですが、正式名称は満月寺 といい、その歴史は古く平安時代に遡るそうです。 江戸時代の俳人・松尾芭蕉も訪れたそうで、その句が記念碑として境内に設置されてい ます。 琵琶湖に浮かぶ情緒ある建物は昭和初期に再建されたもので、堅田陣屋の頃の建物では ありませんが、堀田氏もこの景色は楽しんだでしょうね。 当サイトだけでなく、日本城郭大系などでも堅田陣屋の写真として紹介されていますが 、こちらは陣屋と直接の関係はありませんが、こちらも合わせて訪問したい観光スポッ トです 9)大溝城(滋賀県) 明智光秀が縄張りした信長の甥・津田信澄の城 滋賀県高島市。2005年に合併新設された街で、そのため市域が相当広大になったため、 管理人のようにしばらく関西から遠ざかっていた方には、旧高島町といったほうが場所 がイメージしやすいと思います。 JR湖西線の近江高島駅で降りると、目の前にガリバーの像が建っている広場があり、そ の右手に総合病院があります。その病院の駐車場部分と隣接した場所に大溝城の天守台 などが残ります。 明智光秀の縄張りとされ、城主は若かりし織田信長に叛き、殺害された実弟の信行の嫡 男・津田信澄(父の一連の事件の関係で織田氏を名乗らず、津田氏を名乗った そうです)。 しかし、信澄は信長には大変気に入られ重宝されていたようです。 浅井長政を滅ぼした後、信長は信澄を、高島を治めていた磯野員昌の養子に入れ、その 後、信長が員昌を追放するような形で信澄に、高島の地を与え、この大溝城が完成した とされます。 天正10(1582)年に「本能寺の変」で信長が斃れると、光秀の娘を妻にしていた信澄にも 嫌疑がかけられ、四国征伐の副将の一人として大阪にいた際に、丹羽長秀らの軍によっ て野田城(大阪城内の二の丸千貫櫓とも伝わります。)で殺害されました。享年28歳の 若さだったそうです。 その後、この城はいくつか城主を代えながら、豊臣秀吉の時代には京極高次が城主をつ とめます。 訪問した時が2012年の5月で、前年のNHK大河ドラマ「お江」の影響でしょうが、高次の 妻だった浅井三姉妹の次女「お初」が新婚生活をすごした城としても現地では解説板な どで説明されていました。 現在の地形も琵琶湖はすぐ近くですが、当時は琵琶湖の水を取込んだ水城だったそうで す。 慶長8(1603)年に一度は廃城になり、あらためて徳川幕府が成立した後の元和5(1619 )年に分部光信が2万石でこの地に入り、大溝藩を樹立。 かつての大溝城三の丸付近に大溝陣屋を建て、その惣門は現在も残されています。 さて、この大溝城ですが、この近辺は個人的に相当思い入れがありました。20代の頃、 当時の愛車スカイラインでよく琵琶湖一周などを楽しみ、この湖西エリアは毎週通って いました。 そんな懐かしの旧高島町にも、天守台の石垣が残る城跡があることを知り、迷うことな く訪問。残された遺構はわずかですが、はっきりとそれと天守台の形がわかる形で残さ れていることに感激しました。 小ぶりな天守ではありますが、一応天守台の上に上がることもできます。ただ初夏に訪 問したため、足元で突然カエルが跳ねたり、また一匹でしたがスズメバチに一時追いま わされるなど、少し怖い目にも・・・ 街中の平城跡ですが、暖かい季節の訪問は、ちょっとした小さな森のようになっている ため、多少は注意をした方がいいかもしれません。 湖西線は電車の本数なども少なく、公共交通機関での訪問は少し躊躇してしまうところ もありますが、旧高島町域だけでもゆっくりと歴史散策が楽しめるのでオススメですね 。ただ大型ショッピングセンターなどが駅前にはない街のため、トイレなどには多少不 便な場所だと付記しておきます(訪問時、駅前にコンビニが建設中だったため、今は少 し変化しているかもしれませんが)。 10)坂本城(滋賀県) 安土城につぐ名城と謳われた明智光秀の居城 1571(元亀2)年、日本史上に大きく残る比叡山の焼き討ちの後、織田信長が当時、近 くの宇佐山城主だった明智光秀に命じ築いたのがこの坂本城とされます。 宣教師ルイス・フロイスの著書である「日本史」によると安土城に次ぐ華麗な名城だっ たと伝わります。 この城を拠点に明智光秀は近江の平定を目指し、1580(天正8)年には丹波の亀山城の 城主になるも、引き続きこの坂本の城主も務めていたようです。 1582(天正10)年に「本能寺の変」で主君・信長を討った光秀は、その10日後ほどに羽 柴秀吉軍と京都山崎で激突。敗れ、この坂本に逃げ延びる途中で、京都伏見の小栗栖で 農民らに襲われこの世を去ったとされますが、それを知った安土城に入っていた光秀の 重臣・明智秀満によって、坂本城は天守に火をかけられ落城したと伝わります。 その後、秀吉方についた信長の重臣だった丹羽長秀によって再建。秀吉と、同じく信長 の重臣だった柴田勝家との賤ヶ岳の戦いでは基地として機能しましたが、その戦後1586 (天正14)年に秀吉が浅野長政に命じて、近くに大津城を築城させ、建造物なども移築 。坂本城は廃城になったとされています。 現在は国道161号沿線のキーエンスの研修所になってる場所が本丸とされ、研修所の入 り口に記念碑が設置されています。 そこから南へ少し移動したところにある坂本城址公園の琵琶湖の浜辺には石垣が残りま す。この沿岸には埋もれている石垣が多く、おそらくは坂本城の石垣だと思います また妙に古代の埴輪のような明智光秀の像も建っていますがほかに目立った遺構はあり ません。公園から東北側にある二の丸付近にも、小さな石碑が設置されています。 かさねがさね残念なのが、この滋賀県大津市には琵琶湖に接した建物も美しい城がこの 坂本や、文中にも出た大津の他、日本三大水城の一つにも数えられる膳所城があるもの の、どれも往時の荘厳な姿を見ることができないことです。 遺構は今触れたように、決して満足いくものではありませんが、個人的には、日本史上 に於いて重要な役割を担った明智光秀の居城に訪問できたこと自体で満足ですね。 11)田中城跡 高島市 上寺(うえでら)集落の裏山にあることから、通称上寺城と呼ばれる。 急傾斜の山全体に、段々畑のような「郭」が築かれており、その規模は高島郡では新旭 の清水山城跡に次ぐ大きさと言える。 元亀3年(1570)、織田信長は越前の朝倉義景を討つため「田中の城」に逗留した と「信長公記」に記載されてるが、まさしくこの田中城には信長とのちの豊臣秀吉、徳 川家康の武将が逗留したことになる。 高島市には、かつて「高島七カ寺」と呼ばれる天台宗の有力寺院が存在しました。「七 カ寺」と称される寺院については諸説ありますが、『近江輿地誌略』では長法寺を 「高島郡七箇寺の第一」としています。長法寺の創建や廃絶した年代は不明ですが、 開基は慈覚大師円仁とも伝えられています。 また、伝承では織田信長の焼き討ちによって灰燼に帰したとされますが、 室町時代末に廃絶した後、その所在は長らく不明となっていました。昭和 31 年、県立 高島高等学校歴史研究部によって再発見された時には、ほとんど人の手が入らない状態 で、 今なお中世に栄えた山岳寺院の姿を伝えています。 今回の探訪は、高島町観光ボランティア協会のガイドと市と県の文化財専門職員が同行 案内し、近世城郭のような大規模な石垣や石塁、ひな壇状の造成地にみられる高度な土 木技術により造営された長法寺遺跡を詳しく訪ねます。
日吉大社他
ここで、わが街、和邇周辺と主だった神社などを紹介する。
和邇は、平安京への北の入口 和邇堺として重要視され、四堺祭 (疫病・疾疫など都城への侵入防ぐ祭祀)等が、都から勅使・陰明師等 が来ていたとの事。。天皇神社もこれと同じ鬼門鎮守の役割を果たして いたのだろう。 素戔鳴尊=牛頭天王と言えば出雲を代表する神様(支配者)であり、 和邇族=素戔鳴尊=牛頭天王と言う関係でではないのだろうか。 また、和邇とは船のことを意味する様である。 和邇の南には、小野妹子を輩出した小野と言う地名の場所がある。 ここにある小野神社は、古来当地の産土神米餅搗(タガネツキ)大使主命を祭り、 菓子の神様として崇められ、現在でも全国の菓子製造組合から参拝者が多い。 一説にはタガネツキは、鏨とも見られ製鉄関係の鍛治師(和邇一族)との、関連も 考えられる。特にこの地が、和邇一族の支配していた地域であり、比良山麓には 製鉄遺跡も、数多く出土している。 和邇川を渡り、少しさか上った処に、天皇神社がある。この神社は、 かって牛頭天王社と呼ばれており、八坂神社同様、素戔鳴尊=牛頭天王を祭って おり、最勝寺の鎮守社として、祀られたと言う。 古来、比良の湊がおかれ、北陸地方との交易を中心に水運にも従事。中世には 比良八庄とよばれ、小松荘と木戸荘がその中心であったという。 そのJR蓬莱駅の南にJR和邇駅があり、1651年の丸船(丸小船)改帳によれば、 和邇38艘、木戸25艘、南比良23艘、南小松14艘、北小松33艘を有す と言う記録があり、明治11年の調査では、和邇南浜でイサザ・エビ・ハス・ アユ、北比良でヒウオ、北小松でシジミなどの漁獲があったと言う。 和邇と言う地名は、丸船(丸小船)が多い場所と言う意味に由来していると 思われる。つまり、和邇とは船のことを意味すると解釈するのが妥当と 思われる。 または、和邇と言う地名から、古代海族とされる比良一族は、和邇一族と 呼ばれていたのかも知れない。 海上ルートから日本に来た支配者(和邇)は、航海が得意で対馬海峡を北上し 出雲の国に上陸した。陸上ルートから日本に来た支配者(白兎)は、航海が 不得意で朝鮮半島から対馬や壱岐など島伝いに北九州に上陸した。 出雲の国譲りの話は、海上ルートから日本に来た支配者(和邇)が、陸上 ルートから日本に来た支配者(白兎)に負けたことを意味するのでは? 陸上ルートから日本に来た支配者(白兎)の後裔である神功皇后が、やたらに 朝鮮半島(新羅)のことを懐かしがったり、新羅を攻めようとしたのは、 白兎一族(神功皇后)の先祖が朝鮮半島(新羅)にいたからではないだろうか。 古代史は、面白い。和邇がその様な形で、古代史に載っているのが、真偽は 別として、夢は広がる。 和邇から161号線を北へ登ると、 南比良に樹下(じゅげ)神社がある。神社正面(左樹下神社、右天満宮)と 天満宮、162号線に面した神社で境界もなく天満宮と隣り合っている。 二社は中門を除いて殆どが双子の様にそっくりに造られている。 入り口に立っているのは神木シイノキ(スダジイ)樹齢300年。 樹下神社は大津市坂本には全国の山王山の総本山になる日吉大社があり、 そこから分祀されたとのこと。 神社の鳥居が双子になっているのはこの地域は南比良と北比良に分かれて いて水争いがおこり、神社を二つに分けたとか。 いずれにしろ、北へ行こうと南へ行こうと、多くの神社が点在する。 北には、湖の中の鳥居で、有名な白鬚神社がある。この神社も古墳の 上に建っており、山の上まで古墳群がつづいている。祭神は猿田彦神と いうことだが、上の方には社殿が三つあって、その背後に、大きな石室 が口を開けている。御幣や注連縄まではってあるのは、ここが白鬚の祖 先の墳墓に違いない。小野氏の古墳のように、半ば自然に還元したもの と違って、信仰が残っているのが生々しく、イザナギノ命が、黄泉の国へ 、イザナミノ命を訪ねて行った神話が、現実のものとして思いだされる。 山上には磐坐らしきものも見え、あきらかに神体山の様相を呈しているが、 それについては何一つわかってはいない。古い神社であるのに、式内社 でもなく、「白鬚」の名からして謎めいている。猿田彦は、比良明神の 化身ともいわれるが、不明。 ここで、関係の深い日吉大社について、少し述べておく。 日吉大社は、山王二十一社の上七社の一つであり、祭神は大山咋神 (おおやまくいのかみ)の妻・鴨玉依姫神(かもたまよりひめのかみ)。 旧称「十禅師」:地蔵菩薩の垂迹(すいじやく)で法華経守護の神。 日吉大社は全国3800余の日吉神社・日枝神社・山王神社の総本宮。 京都の表鬼門にあたる近江には、日吉大社とその系統の由緒ある神社が多い。 要するに、日吉大社の摂社。 その入り口には、大きな鳥居の傍らにはしだれ桜が咲き、その向うに 日枝の神体山がくっきり見える。 この山は八王子山、牛尾山、また小比叡の山とも呼ばれる。神社へ向って やや右手の方にそびえているが、大比叡のひだにかくれて、三上山ほど 歴然とはしていない。が、神体山に特有な美しい姿をしており、頂上に 奥宮が建っているのが、遠くからも望める。そこには大きな磐坐があって、 その岩をはさんで二つの社が建っているが、これは後に(平安朝ごろ) 造られたもので、大和の三輪と同じように、はじめは山とその岩とが 信仰の対象であった。磐坐と磐境の区別ははっきりしないが、前者は 神が降臨するところで、後者はその神聖なひろさを示したように思われる。 依然としてはっきりしないのは同じだが、古代人の考え方はわり切れない のがふつうだし、わり切らない方がいいと思う。 『古事記』によると、大山咋神を祀り、奥の磐坐は、玉依比売の御陵 であるともいう。大山咋も玉依比売も、はじめからの固有名詞では なく、山霊とその魂が依る神、もしくは巫女を現わしたもので、 周囲に古墳が多いのをみても、先史時代からも祖先の奥津城であった ことがわかる。 頂上にある奥宮へは、東本宮があり、この神社は、小比叡の麓に あり、日吉大社の元は実はこちらの方にあるので、西本宮は天智天皇 が近江に遷都した時、大津の京の鎮護のために、大和の三輪神社を勧請 されたと聞く。三輪の祭神は、大物主(大国主または大山祇)で、 日吉社における神格はそののち大山咋よりはるかに上になったから、 いわば廂を貸して母屋をとられた結果になった。 本殿に向って左側に、「樹下社」という摂社があるが、これが日吉 信仰の原点で、玉依比売を祀っている。 ヒエの語源はわからないけれど、『古事記』には日枝と書き、比枝から 比叡に転じて行ったらしい。日吉大社で有名なのは、石垣が美しいこと である。石橋もみごとだし、何げなく立っている石塔も美しい。 なお、近くには、野添古墳群がある。 また、横の登山道は、高僧が修行をする「千日回峯行」の道であり、 一日30キロを歩き、苦行といって60キロの道程もあるという、 それを7年間で1000回繰り返すことで「大行満」と呼ばれ、 「大阿闍梨」とも尊称される。無動寺は比叡山千日回峯の行場である。
志賀の重要性
近江国は以前から都の貴族から真に重要な大国と認識されていた。
すなわち、「近江国は、宇宙有名の地也。地広く人衆く、国富み家給る。 東は不破と交わり、北は鶴鹿に接す。南は山背に通じ、此の京都に至る。 水海は清くして広く、山木は繁りて長し。其の土は黒土、其の田は上々、 水旱災い有りと雖も曾て不穫の憂いなし」といわれた国である。 そして、滋賀郡の「古津」は、遷都の詔と同時に出された詔により、 近江京時代の旧号を追って、「大津」と改称され、湖の道には東と北 を抑える要点として真野郷は」陸の道には北を抑える要点として、 古市郷、織部郷、大友郷とともに従来より以上に重要性を増すことになった。 そうした位置付けのもとで、真野郷に現われた無視できない変化は、高島郡界 と接する真野郷北方域の重要性である。というのは、郷内を通る湖岸の道は もとよりだが、安曇川中流から朽木谷を通る裏道とともに、和邇川沿いに 山道を越えて平安京へ北から入る道として、北からの人とものを受け止める ことになったからである。沿道の田野や山林で働く人々と其の集落の点在する 地域は、いままでと打って変わった重要性を持つことになった。 更には、この地域が木と緑に恵まれた自然景観の美しいまちであり、古代以来、 多くの歌人によって、歌われてきた、ことを忘れてはならない。 「恵慶集」に旧暦10月に比良を訪れた時に詠んだ9首の歌がある。 比良の山 もみじは夜の間 いかならむ 峰の上風 打ちしきり吹く 人住まず 隣絶えたる 山里に 寝覚めの鹿の 声のみぞする 岸近く 残れる菊は 霜ならで 波をさへこそ しのぐべらなれ 見る人も 沖の荒波 うとけれど わざと馴れいる 鴛(おし)かたつかも 磯触(いそふり)に さわぐ波だに 高ければ 峰の木の葉も いまは残らじ 唐錦(からにしき) あはなる糸に よりければ 山水にこそ 乱るべらなれ もみぢゆえ み山ほとりに 宿とりて 夜の嵐に しづ心なし 氷だに まだ山水に むすばねど 比良の高嶺は 雪降りにけり よどみなく 波路に通ふ 海女(あま)舟は いづこを宿と さして行くらむ これらの歌は、晩秋から初冬にかけての琵琶湖と比良山地からなる景観の微妙な 季節の移り変わりを、見事に表現している。散っていく紅葉に心を痛めながら 山で鳴く鹿の声、湖岸の菊、波にただよう水鳥や漁をする舟に思いをよせつつ、 比良の山の冠雪から確かな冬の到来をつげている。そして、冬の到来を予感させる 山から吹く強い風により、紅葉が散り終えた事を示唆している。これらの歌が 作られてから焼く1000年の歳月が過ぎているが、現在でも11月頃になると 比良では同じ様な景色が見られる。 このほかに、本町域に関する歌には、「比良の山(比良の高嶺、比良の峰)」 「比良の海」、「比良の浦」「比良の湊」「小松」「小松が崎」「小松の山」 が詠みこまれている。その中で、もっとも多いのが、「比良の山」を題材に して詠まれた歌である。比良山地は、四季の変化が美しく、とりわけ冬は 「比良の暮雪」「比良おろし」で良く知られている。「比良の山」「比良の 高嶺」を詠んだ代表的な歌を、春夏秋冬に分けて紹介する。 春は、「霞」「花」「桜」が詠まれている。 雪消えぬ 比良の高嶺も 春来れば そことも見えず 霞たなびく 近江路や 真野の浜辺に 駒とめて 比良の高嶺の 花を見るかな 桜咲く 比良の山風 吹くなべに 花のさざ波 寄する湖 夏は、「ほととぎす」が詠まれている。 ほととぎす 三津の浜辺に 待つ声を 比良の高嶺に 鳴き過ぎべしや 秋は、「もみじ」と「月」が詠まれている。 ちはやぶる 比良のみ山の もみぢ葉に 木綿(ゆふ)かけわたす 今朝の白雲 もみぢ葉を 比良のおろしの 吹き寄せて 志賀の大曲(おおわだ) 錦浮かべり 真野の浦を 漕ぎ出でて見れば 楽浪(さざなみ)や 比良の高嶺に 月かたぶきぬ 冬には、「雪」「風」が詠まれている。 吹きわたす 比良の吹雪の 寒くとも 日つぎ(天皇)の御狩(みかり)せで止まめや は 楽浪や 比良の高嶺に 雪降れば 難波葦毛の 駒並(な)めてけり 楽浪や 比良の山風 早からし 波間に消ゆる 海人の釣舟 このように、比良の山々は、古代の知識人に親しまれ、景勝の地として称賛 されていたのである。 楽浪の里は、まだこの時代の名残を止めている。今後とも、このような 自然を残して行きたい。
城跡、神社
中世城郭の展開(P30)
山城や砦あるいは平地の館城跡など、滋賀県下の城郭総数はおよさ1300箇所 にも上る。 このうち、彦根城や大溝城あるいは膳所城など、近世城郭として確立した遺跡は 数箇所にすぎず、大多数の城郭が中世後期の室町時代の後半から戦国期にかけて 築かれたことが知られる。 しかも、この戦国時代は応仁の乱辺りから本格化し、元亀天正年間頃 (1570~92)に終息するころから、15世紀後半から16世紀後半までの 100有余年の短い期間に築かれたものであることが分かる。 本町域においても、およさ15箇所の城郭を数える事が出来る。さらに城郭地名 や伝承、古記録などが伝えるもの、あるいは未発見のものや消失したものを 含めると、更に多くの城郭が存在したものと推定される。 さて、城郭遺構とは、四周に土塁や堀、帯郭あるいは犬走りなどを設けて、戦闘に 備え防御する施設である。通常さらに外回りを、堀切や竪堀あるいは切り岸や石垣 時には武者隠しなどによっていっそう堅固なものにしている。現況からはほとんど 土からなる城と思われているが、今は朽ちて認め難い板塀や竹矢来、あるいは 木梯子や木樋、竹樋さらには小屋や櫓や屋敷などの多様な建築物があったに違いない。 城の出入口である木戸も、次第に虎口として複雑な構造をとるようになった。 志賀町域の城郭遺構としては15箇所ある。 ①寒風峠の遺構(北小松、山腹にあり、現在林) ②涼峠山城(北小松、山腹、林) ③伊藤氏城または小松城(北小松、平地、宅地や田、堀切土塁あり) ④ダンダ坊城(北比良、山腹、林) ⑤田中坊城(北比良、湖岸、福田寺) ⑥比良城(比良、平地、宅地) ⑦南比良城(南比良、湖岸、宅地) ⑧野々口山城(南比良、山頂、林) ⑨歓喜寺城(大物、山腹、林) ⑩歓喜寺山城(大物、尾根、林) ⑪荒川城(荒川、平地、宅地や墓地) ⑫木戸城(木戸、湖岸、宅地) ⑬木戸山城、城尾山城とも言う(木戸、尾根、林) ⑭栗原城(栗原、不明、宅地) ⑮高城(和邇、不明、宅地) これらの城郭遺構を構造的、機能的に類型化していく。 南北に細長い比良山麓での、民衆の日常における生業活動は、水系を軸にして 河川ごとにまとまっている。この視点で城郭群をみると、やはり湖岸、平地、 山麓、山頂と一直線上にまとまりを示している。これを町域の北から 地域区分によって示すと以下のようになる。 1)地域1 湖岸に複郭式の平地館城である伊藤氏城が営まれていた。そしてこれと対に、 背後の山上に涼峠山城が築かれる。この山城の位置は、小松から高島の背後を 経て朽木方面へ通じる山道に面する。なお、両城郭の間は山そでが迫って 平地はなく、伊藤氏城のごく背後山中には城郭はない。このような伊藤氏城 (小松城、湖岸)-涼峠山城の関係をもって小松地域を設定する事が可能である。 2)地域2 湖岸に田中坊城(北比良城、福田寺城)が館城として存在し、平地には西近江路 に面して同じく比良城が館城としてある。この地域では背後の山城はないが 二つの平地館城の対の役目のような形で、ダンダ坊城がある。 ここに山寺城ー里坊城の関係が見出される。 3)地域3 湖岸近くに館城である南比良城があり、その詰城として野々口山城がある。 両者の間は約2キロである。ただ比良城ー田中坊城ー南比良城はほぼ 一直線上にあり、野々口山城、歓喜寺山城ー歓喜寺城が扇形となって 展開していた事もありうる。 4)地域4 旧北国街道に面する木戸城もしくは荒川城が平地館城となり、歓喜寺城がこれらの 詰城である。木戸城を扇の要にして、背後の南北位置に歓喜寺山城と木戸山城 を配置して展開したとも考えられる。また、木戸城は木戸十乗坊の城と言う 伝承もある。 5)地域5 湖岸の木戸城と詰城の木戸山城と対と考えられる。 町域南部では、その城郭群の構成が不明であるが、南部では木戸川と比良川の 間に10城が密集しているが、比良川から鵜川までには2城しかなくかなりの 不均等さを見せる。 その理由として以下の点が考えられる。 ①平地の館城と背後の詰城といった戦国期の単純な構成をとらず、両城郭の間の 山麓付け根に館城を構築する事。これらは比良の大規模山岳寺院に隣接して 平地館城を元に山容あわせた山寺城とした。 ②山岳寺院内の館城と対をなす詰城が背後の山頂部に築城されている。 歓喜寺山城や野々口山城に見られる。これは他の地域では見られない特質である。 ③比良山麓付け根に築かれていた山岳寺院が平地や湖岸に寺坊を移し、肥大化 変質する寺院経済の運営に利便を図った。田中坊城がそれである。 ④主戦場となる歴史的な経緯があり、それへの対処として行われた。 ⑤各城郭の築造が幾つかの時期に行われたため、多くの城郭が造られた。 城築城の年代は白の出入り口の虎口の構造の複雑さと土塁の完成度によるとされる。 さらに築城の契機により本町域の勢力分布も推定が可能となる。 この点から北小松の伊藤氏の勢力は増して来たことが考えられる。 複郭式の館城群を営み、北小松の港を抱え湖上交通の掌握、さらに比良山麓から 朽木方面への山路の監視などからそれがうかがえる。 なお、城郭機構の特徴から本町域での城郭は二期に別れて発達したと思われる。 第1期は大規模な土塁を削り出し方法で屋敷を城塞化した時期であり、1520 年頃から起きた足利氏、佐々木六角氏、伊庭氏などの抗争の激化に対応した。 第2期は浅井氏や信長の侵攻が活発化し、本格的な山城の築城と合わせた 平地館城との連携が必要となった1540年代以降である。 比良山麓の荘園鎮守となった社や祀堂は、この地域が山門膝元であっただけに 山王上七社を構成する神祇の一つ十禅師権現を勧請したものが多く、本町地域 荘園に老いても例外ではない。たとえば、和邇荘には和邇中に天皇神社、木戸荘 では木戸に樹下神社、比良荘では北比良と南比良の村境に天満神社、樹下神社、 小松荘には北小松に樹下神社がそれぞれ鎮座しているが、天皇神社はかっての 和邇牛頭(ぐず)天皇社、木戸、比良、小松の樹下神社は旧十禅師権現社である。 近世、北比良村では「山の祭り」、木戸・和邇荘郷単位と来た船路村では それぞれに「権現祭」という祭礼が行われていた。この権現とは延暦寺の 氏神である日吉大社行司権現と密接な関係を持つものと推定されるがいずれにせよ、 荘園鎮守に始まる諸社の祭祀がやがて村民の守護を願った祭礼と化して言った事 を物語っている。こうした状況の中で、惣村の宮座は、村の氏神ともいうべき 鎮守社や村堂を基盤に様々な神事や祭礼を主導する祭祀組織となり、一方で 村政の執行機関としての役割を担って行った。宮座運営の場となったのは、 主として各村落内の鎮守社や村堂であったが、それらはかって荘園領主が その支配を貫徹するために地域の土俗信仰に習合させる形で勧請した神祇に 淵源を持つものが多い。しかし、中世後期にかけて、荘園社会が次第に衰退し、 新たなる地縁的結合が進められていくに伴い、これらの鎮守社や村堂は、 村落結合のよりどころとなり村民の精神的紐帯となっていった。 惣の集団的な意志が村民一般のものとして確認される場が村鎮守社などにおける 宮座で、その点惣村と宮座は常に一体化して存在した。惣村の執行機関と言うべき 宮座は、村人中の老衆、若衆といった年齢階梯制に基づく座的組織によって 構成される事が多い。 たとえば、堅田荘の場合、荘民は殿原、全人(まろうど)、マウト、タヒウ、下部 などから構成されていたが、やがて殿原衆を中心に堅田惣庄が形成され、 更にその下には堅田三方や四方と称される郷村が付属していた。この共同体の 執行機関となったのが堅田大宮(伊豆神社)に組織された宮座で、殿原衆は 党を結んでこの宮座を独占し、堅田関の責務も掌握した。 本町域の集落の立地をみると、やや内陸の比較的高燥なところに立地しているものと、 湖岸に沿って立地するものに分かれる。南小松、大物、荒川、木戸、八屋戸、南船路 和邇中、小野などが前者に属し、北小松、北比良、南比良、和邇北浜、中浜、南浜 などが後者に属する。前者は、陸路としての西近江路に沿って展開した集落であり、 各荘園の中心集落でもあったろうし、後者は水運、漁業を生業とする荘民の集落であっ た。「比良荘図」では、比良荘が新荘であるに対し、比良本荘とされており、 比良東山麓でのもっとも中心的な荘園だった。延暦寺根本中堂領であり、その関係で 堂衆の山麓での拠点の1つとなっていた。 木戸の集落付近は湖岸から一段と高くなった緩やかな傾斜を持つ台地になっており、 和邇から西近江路を北上する際の関門とするのに適当な地形である。 坂本や堅田には関が設けられていたことが知られているが、木戸にも規模は 小さいながらも関が設置され、堂衆たちは西近江路を通行する旅人から通行税 をとったり、北陸路の荘園から陸路を運ばれる貢納品の一部を強奪したりしていた。 此処には永正年間に六角氏に属する木戸越前守秀貞が城を築いたという伝承があり、 また西方の山中にははっきりとした山城遺構があるなど、付近が西近江路中部の要衝 であったことを示している。木戸の北側にある荒川、大物は木戸と合わせて木戸三ヶ荘 といわれ、木戸と類似した立地条件をもっており、お互いに連携して街道を押さえる 拠点となった。これらの小高い位置から湖水を眺めれば湖西の沿岸を行く船舶の 動向も一望の下に把握でき、湖西の水陸の重要な要衝であったといえる。 和邇は東部に条理遺構を三角州があり、西部の段丘上にも高地が広がり、さらに 天皇神社を初めとして多くの史跡、縄文時代からの遺跡がある。全体としてみれば、 本町域でもっとも豊かな可能性を持つ地である。ここが中世初、中期においては、 堅田、坂本と並んで湖西においてもっとも重要な浜津であった。その和邇船津は、 現在の南浜付近がその場であったと考えられる。興味深いのは、この南浜の 小字に「船町、塩津浜、木津、唐崎」のような琵琶湖沿岸のほかの代表的な港津 の名が見られることである。それらから港津からの船の係留地でもあったのか、 それらの地から来た人たちの居留地でもあったのか偶然にできた地名とは思えない。 また、和邇は同時に古代北陸道の駅家の所在地でもあった。西に行けば、 龍華にいたる古い道がある。和邇駅の場所については、既に記述したとおりである。 その比定地のそばに今宿と言う集落がある。古代官道の駅屋に対して中世には 民間の施設としての「宿」が交通集落として成立していた例はほかでも見られるが、 ここでも古代の和邇駅のそばに成立した新しい集落が和邇宿、すなわち今宿という 名になったことも考えられる。このような古代駅家のあった地点が、中世を通じて 地域の一般的な中心となっていくのは、和邇だけではない。この西近江路でも、 同じ古代北陸道の駅屋でもあった三尾でも見られた。しかし、和邇は、山門 比叡山の麓の要衝として、さらには京都と東国に挟まれた土地として、より ダイナミックな歴史の波にさらされたといえよう。現在の和邇付近の穏やかな 風景にそのような激動が隠されていると思うと、西近江路を辿る事がより 豊かになるのではなかろうか。 現在、本町域には同じ図様を持った中世の「比良荘絵図」が3点ある。 北小松図(伊藤泰詮家)、北比良図(北比良地域)、南比良図(南比良区)である。 絵図の構成は西を天とした画面は大きく上下の2つに分けられている。 下半部が琵琶湖から比良山系の山々を仰ぎ見る視点で構成されるが、上半部は 天空から比良山系の山々を見下ろす視点で描かれている。上半部には琵琶湖側 から決して仰ぎ見る事が出来ない比良山系の西よりの山々がはっきりと描かれている ことから、この2つの視点の相違は特に際立ったものとなっている。 下半部では琵琶湖に流れ込む川が画面の骨格となっている。一番北の三尾川、鵜川 大谷川、比良川などが描かれているが、高橋川、大堂川などは省かれている。 この絵図は、もともと比良荘部分を中心に作られた絵図ということである。 P450より 町内の寺院宗派には、天台真盛宗、浄土宗、浄土真宗、臨済宗、日蓮宗などがある。 いずれも寺院の規模は小さく、本堂と門、鐘楼、庫裏などの付属建築物で構成される。 主な寺院建築には次のようなものがある。 ①徳勝寺(浄土真宗 北小松) 枝垂桜が有名。 ②徳善寺(真宗 北小松) ③法泉寺(真宗 北小松) ④種徳寺(臨済宗東福寺派 北小松) お寺からの景観が素晴らしい。 ⑤正覚寺(浄土真宗 北小松) ⑥大仙寺(天台真盛宗 南小松) ⑦西方寺(浄土真宗 南小松) ⑧専徳寺(浄土真宗 南小松) ⑨徳浄寺(浄土真宗 南小松) ⑩聞名寺(真宗 南小松) ⑪西福寺(浄土真宗 北比良) ⑫福田寺(浄土真宗 北比良) 比良湊の近くにあり、蓮如が北陸に向かうためにここに立ち寄った時に渡った橋を 蓮如橋と呼ぶ。近くには、比良観音堂があり、天満天神の本地仏十一面観音がある。 ⑬本立寺(真宗 南比良) 本寺が湖畔に移ったときに残された薬200体の地蔵があるが、その地蔵跡もある。 ⑭超専寺(浄土真宗 大物) 親鸞ゆかりの旧跡。「二十四輩順拝図会」にもある。この上には観喜寺薬師堂がある。 ⑮長栄寺(日蓮宗 大物) ⑯萬福寺(真宗 荒川) ⑰西方寺(浄土宗 木戸) ⑱安養寺(浄土宗 木戸) ⑲正覚寺(真宗 木戸) ⑳光明寺(浄土宗 北船路) 薬師如来のある薬師堂がある。近くに百数体のお地蔵様がある。 21)西福寺(天台真盛宗 守山) 22)慶福寺(天台真盛宗 栗原) 23)報恩寺(天台真盛宗 高城) 24)真光寺(天台真盛宗 北浜) 25)千手院(北浜) 26)慶専寺(浄土真宗 南浜) 27)西岸寺(浄土宗 和邇中) 28)上品寺(天台真盛宗 小野) 町内の神社はいずれも規模が小さく、本殿と鳥居、拝殿、御輿庫、 などの付属建物で構成される。とくに、拝殿は三間もしくは二間 の正方形平面で入母屋造り、桧皮葺(ひわだぶき)である。 なお、補足に「びわ湖街道物語」(西近江路の自然と歴史を歩く)を活用。 主な神社建築は、 ①樹下神社(北小松) 十禅師社と天満社の二棟。 祭神は、鴨玉依姫命カモノタマヨリヒメノミコト ②八幡神社(南小松) 祭神は、応神天皇。境内には日本一の狛犬 なお、少し山側には「弁天神社」(大仙寺開基の守護神)がある。 少し下ると、観世音菩薩と一本杉、御霊社がある。 ③天満神社(北比良) 祭神は、菅原道真公。比良天満宮でもあり、京都北天満宮よりも古い。 また、比良天神宮として北比良の氏神となっている。祭神は天大戸道尊、大戸辺尊の二 神。 ④天満神社お旅所(北比良) ⑤樹下神社(南比良) 十禅師神社と妙義神社がある。妙義神社は比良三千坊と称され、この地が山岳信仰の 中心地の1つであった事を偲ばせる神社。 ⑥湯島神社(荒川) 祭神は、市杵島姫命イチキシマヒメノミコト ⑦樹下神社(木戸) 樹下、宇佐宮、地主の三棟がある。 祭神は、玉依姫命タマヨリヒメノミコト 十禅師権現社と称し、コノモトさんとも呼ばれていた。五か村の氏神。 大行事社の本尊で、石造毘沙門天坐像がある。 ⑧若宮神社(守山) 近くには、金毘羅神社が山麓にある。 ⑨八所神社(北船路) ご神体を預かり日吉神社再建後、日吉大社例祭の4月に祭儀がある。 ⑩八所神社(南船路) 祭神は、八所大神、住吉大神 ⑪水分神社(栗原) 祭神は、天水分身アメノミクマリノカミ ⑫住吉神社(北浜) 祭神は、底筒男命、中筒男命、表筒男命 ⑬大将軍神社(中浜) 祭神は、中浜神 ⑭樹元神社(南浜) 祭神はククノチノカミ ⑮天皇神社(和邇中) 三宮神社殿、樹下神社本殿、若宮神社本殿もある。 祭神はスサノオノミコト。元は京都八坂神社の祗園牛頭天王を奉遷して 和邇牛頭天王社と称した。 近世では、五か村の氏神。 ⑯小野神社(小野) 参考に http://japan-geographic.tv/shiga/otsu-hatsushojinja.html 八所神社(はつしょじんじゃ) 大津市北船路 祭神:大己貴命 白山菊理姫命 JR湖西線蓬莱駅下車直ぐである。国道161号線が鳥居の前を走っている。 八所神社(南舟路)の北方に社地を接する。 鳥居にかかる大きな注連縄が目に入る。 鳥居をくぐると正面に拝殿が、その奥に本殿が見える。 織田信長が比叡山を焼き討ちした折り、日吉神社の禰宜祝部行丸が類焼を避けて日吉七 社の御神体をこの地に遷し 日吉神社再興までこの地で奉祀したと伝える。 日吉七座と地主神白山菊理姫神一座とを併せて八所神社と称するとしている。 天正6年(1578)の再建とされる。
志賀町史1,2
1)第一巻P310 近江国は以前から都の貴族から真に重要な大国と認識されていた。 すなわち、「近江国は、宇宙有名の地也。地広く人衆く、国富み家給る。 東は不破と交わり、北は鶴鹿に接す。南は山背に通じ、此の京都に至る。 水海は清くして広く、山木は繁りて長し。其の土は黒土、其の田は上々、 水旱災い有りと雖も曾て不穫の憂いなし」といわれた国である。 そして、滋賀郡の「古津」は、遷都の詔と同時に出された詔により、 近江京時代の旧号を追って、「大津」と改称され、湖の道には東と北 を抑える要点として真野郷は」陸の道には北を抑える要点として、 古市郷、織部郷、大友郷とともに従来より以上に重要性を増すことになった。 そうした位置付けのもとで、真野郷に現われた無視できない変化は、高島郡界 と接する真野郷北方域の重要性である。というのは、郷内を通る湖岸の道は もとよりだが、安曇川中流から朽木谷を通る裏道とともに、和邇川沿いに 山道を越えて平安京へ北から入る道として、北からの人とものを受け止める ことになったからである。 沿道の田野や山林で働く人々と其の集落の点在する地域は、いままでと 打って変わった重要性を持つことになった。このことは、やがて、ことに 十世紀後半から延暦寺の勢力がこの地域に及んでくる前史として、十分に 留意しておく必要がある。 このような真野郷の地位の重要化は、郷の人々以上に平安京の政府が 認識していた。 平安京に先立つ長岡京の時代に滋賀郡に新造された梵釈寺には、延暦7年 に下総越前両国から各50戸の封土が与えられたし、すでに旧大津京の時代 以来の伝統を持つ崇福寺では、大同元年には京内の左比寺、鳥戸寺と共に 四七斎が六七斎は崇福寺で執り行われた。 なお、崇福寺と梵釈寺は、平安時代含め10大寺とされていたが、度重なる 被災と延暦寺の隆盛により、壬申の乱以後、衰退していく。 しかし、日本書紀などの記述から大津京の西北に崇福寺が建てられていたこと が分かっているので、その東南が大津京となる。崇福寺は志賀寺とも呼ばれていた。 また、霊峰比良山だけでなく、坂本とともに真野郷からも通じる比叡山は、 最澄の「一切衆生、悉皆有仏性」とする新しい理念に基づく鎮護国家論の発祥の 地として、急速に重要さを示し始めた。そして、比良神には、貞観7年、無位 から一躍して従4位下の神階があたえられたのであった。神階とは、有力神 に国家によって奉授された位階を言う。比良の神もここに国家的な高い神階 が与えられたのである。 大津北郊で大津京時代ごろの建物の立地できるのは、錦織、南滋賀、滋賀里、 穴太の扇状地で、いずれも西高東低の傾斜の強い地形で、夫々東西に長い舌状 を呈している。さらに、南滋賀ではそのうちの西半分は大津京時代の寺院である 南滋賀廃寺が占めており、滋賀里でも宮がここにあったとすればすでに この時、削平されていたはずである古墳群その西半分広がっている。 また、穴太も同時代の寺院跡がかなりの地域を占めているようである。 こうみると左右対称の建物を配置するため比較的まとまった平坦地の要求される 宮域としては南滋賀、滋賀里、穴太の地域は適地とは言えず、中でも 最も平坦地の広がっているのが錦織であり、地形から見れば、宮の所在地 としては錦織がもっとも相応しいことが分かる。 万葉集にある高市古市の歌 古(いにしえ)の ひとにわれあれや ささなみの 故(ふる)き京(みやこ) を見れば悲しき ささなみの 国つ御神(みかみ)の 心(うち)さびて 荒れたる京(みやこ) 見れば悲しも すべて廃墟と化した荒れたる都を偲んでいる。大津の宮時代は、鎌足につぐ天智 の死を経て壬申の乱へつながり、5年数ヶ月の歴史の終焉を迎える。 P325 古北陸道の概観 古代を通じて、志賀町域は、律令国家の官道の一つである北陸道が通過 する要所であった。北陸道とその枝路には、駅(うまや)が置かれ、公用を おびた役人が乗り継ぐ馬が用意された。更に、その駅制度は一層整備される。 和邇駅は本町域の、和邇川の三角州に位置する、和邇中にその遺跡が残っている。 10世紀からは、律令制も確定し、近江国も滋賀郡和邇荘、滋賀・高島両群 比良牧、高島郡太田荘、高島郡朽木荘、野洲郡明見荘であった。 和邇荘と比良牧の大部分は、本町域にあり、寂楽寺の所領であった。 各地は園城寺円満院などの寺としての荘園支配機構を形成していた。 和邇荘は、都への「鬼気」の進入を防ぐ和邇海という場所があり、四角四境 の祭祇があった。 平安時代後期には、多くの寺院が建てられている。「比叡山3千坊、比良山 七百坊」言われた。 平安時代は、多くの仏像が作られた。 ・天満神社(北比良)の神将形立像は日本の天神信仰を考えるに重要。 ・千手院(北浜)の千手観音立像 ・真光寺(北浜)の地蔵菩薩立像 ・徳勝寺(北浜)の薬師如来坐像 ・報恩寺(高城)の等身大の阿弥陀如来坐像 ・安養寺(木戸)の阿弥陀如来立像 ・八屋戸の千手観音立像 ・観音堂(小野)の聖観音立像と毘沙門天立像 貞観9年の大政官符に以下の記述がある。 応に近江国司をして和邇船瀬を検領せしむべきこと。 件の泊は、故律師静安法師、さる承和中に造るところなり。しかるに沙石の溝 、年を逐て漸くにしてくずれ、風波の難は日に随いていよいよ甚だし。往還の 舟船しばしば没溺に遭い、公私の運漕常に漂失を致す。ここに賢和、さす年の 春より、心につくろいなさんことを企て誠を輸し、修め造れり。数月の間に たまたま成功を得たり。、、、、、、 万葉集以来「比良の山嵐」と呼ばれている比良おろしは、地元の人々には周知の事 であるが、そのために起こる三角波は昔から湖上を行き交う船を転覆させ、しばしば 公私の積荷を失わせて来た。安全のためにも一時停泊する施設が必要であったが、 初めて石組みでそれを作ったのは、静安(790から844年)であった。しかし、 その船瀬はその後くずれて同様の遭難事故が起こる様になったので、貞観8、9年 には今度は元興寺の僧賢和が修繕をしたのである。だが、それきりにしておくと また年を経て頽廃が進むであろうということで、以後の破損修理が近江国司に 委ねられたのである。本町域が比良おろしで荒れている数時間は、勝野津か比良津 および和邇の船瀬で停泊する事が出来るようになったのである。 このことから、平安時代の和邇は水陸交通の要衝であった事が明らかである。 現在、古代和邇船瀬の位置を推定する事は難しいが、あえていえば、小字「木津」 「上塩津浜」「下塩津浜」などが集まる現和邇川河口の北岸域(南浜)が妥当 と思われる。今の和邇浜水泳場と新和邇浜水泳場の間にあったきわめて小さい 内湖の痕跡が示唆的で、恐らく古代にはもっと大きな内湖が和邇川筋の自然堤防 の北側背後にあり、そこが船瀬として活用されたと思われる。 その位置は北陸道と龍華関への間道とのT字路交差点の東側正面である。 高島郡の勝野津がおそらく現在も残る内湖にかかわって造営、維持されたと 考えられるように、波静かな琵琶湖といえど、船瀬を造営するためには、内湖か、 塩津、大津のような湾の奥でなければならなかったと考えるべきである。 この考えは、比良湊の位置想定にもかかわる。比良湊は万葉集にも見られる。 ほかにも、「比良の浦の海人」が詠まれ、「日本書紀」斉明天皇5年三月 条には、「天皇近江の平浦ひらうらに幸す」ということがあった。 比良湊、比良浦の所在を想定するよりどころは、いまのところ地名しかない。 すなわち今日の北比良、南比良の周辺、そして比良川の河口周辺に可能な 場所を探すしかない。 ■比良山地における山岳信仰 朝廷は、近江国に妙法寺と景勝時を建立を認め、官寺とした。 最澄の天台宗と空海の真言宗は、朝廷から公認され、特に、天台宗の勢力拡大 にともない比良山地はその修行地となり、多くの寺院が建てられた。 その様子は、「近江国比良荘絵図」でも山中に、歓喜寺、法喜寺、長法寺などが 描かれている。 比良山地はその周辺も加えて、近畿内では、最も、修験に相応しかった。それらの 寺院跡には、鵜川長方寺遺跡、北比良ダンダ坊遺跡、大物歓喜寺遺跡、栗原大教寺野 遺跡などがある。 P422 ■志賀町の四季 本町は木と緑に恵まれた自然景観の美しいまちであり、古代以来、多くの歌人 によって、歌われてきた。 「恵慶集」に旧暦10月に比良を訪れた時に詠んだ9首の歌がある。 比良の山 もみじは夜の間 いかならむ 峰の上風 打ちしきり吹く 人住まず 隣絶えたる 山里に 寝覚めの鹿の 声のみぞする 岸近く 残れる菊は 霜ならで 波をさへこそ しのぐべらなれ 見る人も 沖の荒波 うとけれど わざと馴れいる 鴛(おし)かたつかも 磯触(いそふり)に さわぐ波だに 高ければ 峰の木の葉も いまは残らじ 唐錦(からにしき) あはなる糸に よりければ 山水にこそ 乱るべらなれ もみぢゆえ み山ほとりに 宿とりて 夜の嵐に しづ心なし 氷だに まだ山水に むすばねど 比良の高嶺は 雪降りにけり よどみなく 波路に通ふ 海女(あま)舟は いづこを宿と さして行くらむ これらの歌は、晩秋から初冬にかけての琵琶湖と比良山地からなる景観の微妙な 季節の移り変わりを、見事に表現している。散っていく紅葉に心を痛めながら 山で鳴く鹿の声、湖岸の菊、波にただよう水鳥や漁をする舟に思いをよせつつ、 比良の山の冠雪から確かな冬の到来をつげている。そして、冬の到来を予感させる 山から吹く強い風により、紅葉が散り終えた事を示唆している。これらの歌が 作られてから焼く1000年の歳月が過ぎているが、現在でも11月頃になると 比良では同じ様な景色が見られる。 このほかに、本町域に関する歌には、「比良の山(比良の高嶺、比良の峰)」 「比良の海」、「比良の浦」「比良の湊」「小松」「小松が崎」「小松の山」 が詠みこまれている。その中で、もっとも多いのが、「比良の山」を題材に して詠まれた歌である。比良山地は、四季の変化が美しく、とりわけ冬は 「比良の暮雪」「比良おろし」で良く知られている。「比良の山」「比良の 高嶺」を詠んだ代表的な歌を、春夏秋冬に分けて紹介する。 春は、「霞」「花」「桜」が詠まれている。 雪消えぬ 比良の高嶺も 春来れば そことも見えず 霞たなびく 近江路や 真野の浜辺に 駒とめて 比良の高嶺の 花を見るかな 桜咲く 比良の山風 吹くなべに 花のさざ波 寄する湖 夏は、「ほととぎす」が詠まれている。 ほととぎす 三津の浜辺に 待つ声を 比良の高嶺に 鳴き過ぎべしや 秋は、「もみじ」と「月」が詠まれている。 ちはやぶる 比良のみ山の もみぢ葉に 木綿(ゆふ)かけわたす 今朝の白雲 もみぢ葉を 比良のおろしの 吹き寄せて 志賀の大曲(おおわだ) 錦浮かべり 真野の浦を 漕ぎ出でて見れば 楽浪(さざなみ)や 比良の高嶺に 月かたぶきぬ 冬には、「雪」「風」が詠まれている。 吹きわたす 比良の吹雪の 寒くとも 日つぎ(天皇)の御狩(みかり)せで止まめや は 楽浪や 比良の高嶺に 雪降れば 難波葦毛の 駒並(な)めてけり 楽浪や 比良の山風 早からし 波間に消ゆる 海人の釣舟 このように、比良の山々は、古代の知識人に親しまれ、景勝の地として称賛 されていたのである。 2)志賀町史第2巻 鎌倉時代になると湖東や比叡山の影響が強く出てくる。 佐々木氏は、近江守護となり、その息子がそれぞれ、大原氏、京極氏(後に 京極氏は、惣領家となり、滋賀群含めた地域の一台勢力となり、六角氏 と争うようになる)、六角氏、高島氏を名乗った。 しかし、実質的には、滋賀群は比叡山延暦寺の圧倒的な勢力下にあった。 この地域では、天台宗の寺院が多いのと延暦寺関係の寺院の持つ領地 が点在していた。 和邇荘、木戸荘、比良荘は延暦寺寺領でもあった。しかし、応仁の乱以後、 六角氏が湖西への進出を図り始める。 滋賀郡でお城郭数は約1300ほど合ったらしいが、いずれも、簡単な 山城程度であり、41ページにその分布図がある。 ・荘園の形成と崩壊 本町地域は、交通の要衝であり、有力貴族や自社にとっての重要な采地でも あった。この地域の多くは、延暦寺、園城寺、日吉神社の寺領であり、小松荘、 比良荘、木戸荘、和邇荘などの荘園があった。特に、中世以降、御厨(みくりや) が荘園運営に組織化されていったことは見逃せない。 しかし、農業の集約化、生産の多様化、生産余剰分の発生、貨幣経済の浸透等 の新しい動きが、田畑の売買や寄進を更に推し進め、荘園的土地所有やその領主 支配の崩壊を内部から起こし始めた。 これにより、「惣」「村」という新しい形の荘園組織が進み、その運営組織 として、宮座と呼ばれる執行機関が神事や祭礼を行うと供に、その役割を担っていく。 和邇荘では、天皇神社であり、木戸荘には樹下神社、比良荘では天満神社などが 行っていた。 ・交通の要路である西近江路 古代からの官道の駅家がその核となり、荘園の中心集落と一体となった新しい 要路となっている。この山側には、途中、朽木を経由する花折街道もあった。 平家物語、源平盛衰記には、軍隊の動きが書いてあり、それにより、当時の 交通路の概要が掴める。 源平の戦い、足利氏の新政府のための戦いなどが繰り返れることにより、 堅田は港湾集落としての機能を高めていく。更に、14世紀以降は、本福寺 の後押しもあり、湖上の漁業権の特権も活かし、最大の勢力となって行く。 本町地域での陸路と水路の集落にも、役割が出てくる。 陸路でもあり、各荘園の中心集落としては、 南小松、大物、荒川、木戸、八屋戸、南船路、和邇中、小野があった。 これらの中でも、木戸荘は中心的な荘園であった。 水路、漁業の中心としては、 北小松、北比良、南比良、和邇の北浜、中浜、南浜があった。 和邇は、天皇神社含め多くの遺跡があり、堅田や坂本と並んで湖西における 重要な浜津であり、古代北陸道の駅家もあった。古代の駅家がその後の 中心的な集落になる事例は多くある。現在の和邇今宿が和邇宿であったことが 考えられる。 ・本町地域を眺望する絵図 地域をより具体的に見ていくには、地図の存在が大きい。 中世に書かれた比良荘絵図が3点ほどある。 北小松図、北比良図、南比良図である。 こられの裏書などからその地域を領有していたものが分かる。多くは、比叡山 の山徒であった。また、これら絵図の目的の多くは、各荘との境界を明確に するものであったようで、直接関係が少ない山の名前では、違いがある場合が 少なくない。境界争いや水利権争いでは、どの時代でも、これらの絵図を基本 として、使っているようであり、境界近くの正確性が求められていた。 境界争いでは、「小松荘と音羽、比良荘」との争いや「木戸荘と比良荘との葛川」 「和邇荘と龍華荘との境界争い」など多くあるようであり、幕府や延暦寺など に残る古文書からもそれが覗える。 また、中世の時代以後書かれた「正徳絵図、寛文絵図」でも、現在使われている 地名とは違う点も多くあり、地図の正確性も、書いたときの絵師にもよるのでろうが、 少しづつズレがある。正確性を高めるのは、伊能忠敬の全国的に実施した測量地図 となる。しかし、土地の正確性は増すものの、「和邇荘と龍華荘」の様な 昔あったとされる龍華寺の存在を示すのがその地域の伝聞であったり、縁起、 伝承の一般民衆に関わる世界が具体的な境界争いになる場合は、その解決は 中々に難しい。 P152 ■宗教と生活 日本には、古くから山岳を神霊、祖霊の住む世界とする観念がある。白山信仰、 などは、その代表的なものであろうか。水や稲作を支配する霊は山に籠り、 生を受けるのも、死んでいくのも、山であった。超自然的な神霊が籠る霊山 と認識された「七高山」の1つである比良山にも、比良山岳信仰が盛んであった。 北比良のダンダ坊遺跡、高島鵜川の長法寺遺跡、大物の歓喜時遺跡、栗原の 大教寺野遺跡などがある。しかし、仏教の浸透が深まるに連れて、天台宗の本山系、 真言系の当山系などのように、宗教集団を形成していった。 P157 比良八講 「北比良村天神縁起絵巻」にも、そのときの様子が書かれている。また、「日次 紀事」にも以下の様な記述がある。 比良の八講 江州比良明神の社 古今曰く 比叡山の僧徒、法華八講を修む この日湖上多く烈風し、故に往来の船は急時非ずんば即ち出ず 比良山岳信仰の名残は、山ろくの神社にも残っている。 北小松の樹下神社、北比良の天満神社では、菅原道真を祭神としている。 しかし、本願寺の蓮如が8代宗主になると、浄土真宗が近江では、急激な 広がりを見せる。浄土宗は、阿弥陀仏に念仏を唱えれば、誰でも極楽浄土に いける事を説いた。蓮如は、その布教に対して、木像よりも絵像、絵像 よりも、十字名号(紺地の絹布に帰命尽十万無碍光如来の十字を書いた もの)を重視した。 本町地域での真宗の基盤は、堅田本福寺であった。 浄土真宗が拡大した要因の一つに、2回の大飢饉がある。寛喜と寛正の大飢饉である。 12世紀以降には、鉄製農具が普及していたが、天候不順に対しては無力であった。 また、名主層の分化、作人の自立化、などが進み、集約した村落共同体の「惣村」 が結成されるようになった。 慢性的な飢饉のため、米を常食とすることは少なかったが、一日三食の習慣が定着し, 衣服も木綿が主となった。 P178 ■志賀の文化、芸術 比良の雪世界と山嵐の存在は、文学他にも、影響している。 万葉集では、 楽浪(さざなみ)の比良山嵐の海吹けば釣する海人の袖反(かえ)る見ゆ また、西行と寂然との和歌のやりとりでも、 大原は比良の高嶺の近ければ雪ふるほどを思ひこそやれ おもえただ都にてだに袖冴えし比良の高嶺の雪のけしきを とある。 この雪の様を描いたのが「比良の暮雪」として近江八景で、有名である。 また、春の季節には、 ひらの山はあふみ海のちかければ浪と花との見ゆるなるべし 花さそう比良の山嵐吹きにけりこぎゆく舟の踏みゆるまで 風わたるこすえのをとはさひしくてこまつかおきにやとる月影 鎌倉時代以降は、旅を目的とした古代北陸道としての活用が高まり、 多くの歌人が名勝や情景に歌を綴った。 湖岸の名所 小松崎 P185まで 比良の山嵐が吹き降りる湖岸に眼をやると、近江国與地志略には、 比良北小松崎 則比良川の下流の崎なり。往古よりふるき松二株有り。 湖上の舟の上下のめあてにす。 と、その由緒を記す小松崎がある。現在の近江舞妓、雄松崎付近にあたる のであろうか。この小松崎も大嘗祭の屏風歌に詠みこまれるほどの 歌枕であった。大嘗祭とは天皇が即位の後,初めておこなう新嘗祭 のことで、大嘗祭に際しては、あらかじめ占いで定められた悠紀、主基ずき の二国から神饌が献じられるのが決まりであった。そして、平安時代の 宇多、醍醐天皇の頃には、悠紀は近江国、主基は丹波ないしは備中国に 固定していた。また、神饌とともに悠紀、主基の名所を織り込んだ 屏風歌の風俗歌が詠進されるのも恒例となっていた。仁安元年(1166) 六条天皇の大嘗祭の折には、平安時代後期の代表的な歌人である藤原俊成 が悠紀方の屏風歌を勤め、梅原山、長沢池、玉蔭井とともに小松崎を 詠んでいる。 子ねの日して小松が崎をけふみればはるかに千代の影ぞ浮かべる 子の日の遊びをして小松が崎を今日みると、はるかに遠く千代までも 栄える松の影が浮かんでいる。というのが、和歌の主旨で、天皇の千代の 代を言祝いだ和歌である。子の日の遊びと言うのは、正月の初の子の日に 小松を引き、若葉を摘んだりして、邪気を避け、長寿を祈った行事である。 小松崎と小松引きとが上手く掛けられている。松を含む地名自体、めでたい とされたのであろう。 また、平安時代後期の歌人としても、似顔絵の先駆者としても著名な藤原 隆信も小松崎を 風わたるこすえのをとはさひしくてこまつかおきにやとる月影 と詠んでいる。この和歌には、 こまつというところをまかりてみれは、まことにちいさきまつはらおもしろく 見わたされるに、月いとあかきをなかめいたして という詞書が記されており、隆信が実際に小松崎を訪れて詠んだ歌であることが 察せられる。 隆信の和歌が小松を訪れて詠んだ和歌ならば,小松に住む人にあてた和歌もあった。 人のこ松というところに侍りしに、雪のいたうふりふりしかば、つかしし、 朝ほらけおもひやるかなほどもなくこ松は雪にうづもれぬらむ 作者の右馬内侍は平安時代中期の歌壇で活躍した女流歌人なので、当卷で扱う には少し時代が古いが、小松に近づく雪の季節に対して、そこに住む友人を おもんばかる気持がよくあらわれている。小松あたりの冬の厳しさは有名で あったと察せられる。 鎌倉時代以降になると、京都と東国を往還する人々も多くなってくる。 京都の公家たちも、鎌倉幕府の要請やみずから鎌倉幕府との人脈を求めて 鎌倉へ下向していった。 また、東国への旅が一般化すると、諸国の大寺社や歌枕を実際に見聞しに行く 者たちも増えていった。 「宋雅道すがらの記」を記した飛鳥井雅縁もそんな一人である。宋雅とは出家後の 号、飛鳥井家は和歌,蹴鞠の家として知られ、家祖雅経の頃から幕府、武家との 関係が親密であり、雅縁も足利義満の信任が非常に厚かった。そんな雅縁が 越前国気比大社参詣に出立したのが、応永三十四年2月23日、70歳の時である。 実は、この紀行文も旅から帰った後、将軍義教より旅で詠んだ和歌があるだろと まとめの要請があって記したものである。旅の路順は湖西を船で進んでいたようで、 日吉大社を遥拝し、堅田を過ぎて、真野の浦、湖上より伊吹山を眺め、比良の宿に 宿泊している。そこで、 比良の海やわか年浪の七十を八十のみなとにかけて見る哉 と自分の年齢をかけた和歌を詠んでいる。翌日は小松を通っている。小松の松原を 目の当たりにして、 小松と言う所を見れば名にたちてまことにはるかなる松原あり 我が身今老木なりとも小松原ことの葉かはす友とたに見よ 同じく長寿を保つ松原に呼びかけるような和歌である。次は、白鬚、ここでも、 神の名もけふしらひけの宮柱立よる老の浪をたすけよ と、長寿をまもるという白鬚神社に自分の老いを託している。そして、竹生島を 船上より眺め、今津、海津、そこから山道をとって、29日には気比大社 に詣で、参籠して3月17日に帰京している。 将軍などの見聞旅行に随行の記録もある。 冷泉為広が細川政元の諸国名所巡検の同行記録では、 出立は延徳3年京を山中越えで坂本へ、比叡辻宝泉寺に宿泊。翌日は船に乗り 湖上を行った。東に鏡山、三上山、西に比良山,和邇崎を見ながらの通航 であった。そして、船中であるが和邇で昼の休みを取っている。 次に映ったのが、比良あたりの松である。 ヒラノ流松宿あり向天神ヤウカウトテ松原中に葉白き松二本アリ 「向天神」とは現在も北比良に鎮座する天満神社のことであろう。「ヤウカウ」は 影向で、「近江国與地志略」などにいう、社建立の際に生じたという神体的な要素 を持つ松のことである。また、小松のところでは、「コノ所ニワウハイノ瀧ト伝瀧 アリ、麓に天神マシマス」として「ワウハイ、楊梅瀧」について記している。 コノ瀧については、「近江国與地志略」でも、 ・楊梅瀧 小松山にあり、小松山はその高さ4町半あり。瀧は山の八分より流る。 瀧つぼ五間四方許、たきはば上にて三間、中にては四間,下にては亦三間ばかり、 この瀧、長さ二十間、はばは三間許、水は西の方より流れて東へ出、曲折して 南へ落、白布を引きがごとし、故にあるひは布引の瀧といふ。瀧の辺り,岩に 苔生じ,小松繁茂し、甚だ壮観なり。 とみえ、近世には名所となっていたことがわかるが、冷泉為広のじだいにもすでに 注目に値する名勝であったらしいことがうかがえる。そして、一向は湖上の旅 を続け陸路で敦賀,武生と進み、越中,越後をめぐり4月28日に京都へ帰っている。 P186 中世の文化財 浄土真宗の浸透は、平安、鎌倉時代と更に進み、広範な支持を民衆に受ける。 しかも、阿弥陀如来信仰のような極楽浄土への道を説く教義では、 仏像、仏画も盛んに作られている。本町域では、 西岸寺の阿弥陀如来立像(和邇中) 上品寺の阿弥陀三尊像と地蔵菩薩立像(小野) いずれもメリハリのきいた明確な表情をした鎌倉時代の作品である。 安養寺の本尊である阿弥陀如来立像(木戸)と銅像の阿弥陀三尊像がある。 大物薬師堂の本尊像である阿弥陀如来像がある。 徳勝寺の薬師堂に安置されている釈迦如来座像がある。(北小松) などがある。 また、仏の世界を守護するための狛犬も多く見られる。 狛犬は、口を開いた阿行と口を閉ざしたうんぎゅうの一対からなる。 野洲の御神神社の狛犬が最古のものとされ、さらに、大津の若松神社、 栗東の大宝神社、湖北の白鬚神社のものがある。 この近くでは、 和邇中樹下神社と本殿にあり、小野道風、たかむら神社にも、一対の狛犬が 安置されている。 仏画と経典について 絵画は、材質面での脆弱性もあり、仏像類ほど多く残っていない。 ここでの最古の仏画は、上品寺の仏涅槃図である。 大幅な画面に、沙羅双樹の木立の下、床台に横たわり、入滅を迎える釈迦と その周囲に集まって悲嘆にくれる多くの菩薩や動物を描いている。 木戸の安養寺には、阿弥陀如来来迎図がある。阿弥陀如来図には、 聖衆来迎図と阿弥陀、観音などの三尊を描いたものがある。 北小松樹下神社には、釈迦十六善神像がある。この図には、宝珠と玄しょう 法師が描かれている。 また、古経典では、小野道風神社の大般若経がある。北小松の樹下神社には、 大般若経と五部大乗経がある。 石造り品と神殿について 滋賀県は、石造物の豊富な地域である。特に、中世の石塔が多数遺存する。 反面、関東などに広く分布する庚申塔、道祖神などの近世の民間信仰 石仏は少ない。本町域の場合も、同様の傾向を示している。 町内には、宝塔、宝きょ印塔、石仏が多く見られる。 宝塔は、天皇神社、北小松樹下神社、小野たかむら神社、北小松天満神社、 栗原の水分(みくまり)神社にも遺存する。 また、宝きょ印塔は樹下神社にある。これは「宝きょ印陀羅尼経」を塔内に 納置するために名づけられたもの。 石仏としては木戸の大行事社の毘沙門天像がある。 神殿は、切妻造り本殿があるが、小野道風、小野たかむら、天皇神社の 三本殿に見られる。全国的には、珍しい造りでもある。
湖岸の名勝
比良の山嵐が吹き降りる湖岸に眼をやると、近江国與地志略には、
比良北小松崎 則比良川の下流の崎なり。往古よりふるき松二株有り。 湖上の舟の上下のめあてにす。 と、その由緒を記す小松崎がある。現在の近江舞子、雄松崎付近にあたる のであろうか。この小松崎も大嘗祭の屏風歌に詠みこまれるほどの 歌枕であった。大嘗祭とは天皇が即位の後,初めておこなう新嘗祭 のことで、大嘗祭に際しては、あらかじめ占いで定められた悠紀、主基ずき の二国から神饌が献じられるのが決まりであった。そして、平安時代の 宇多、醍醐天皇の頃には、悠紀は近江国、主基は丹波ないしは備中国に 固定していた。また、神饌とともに悠紀、主基の名所を織り込んだ 屏風歌の風俗歌が詠進されるのも恒例となっていた。仁安元年(1166) 六条天皇の大嘗祭の折には、平安時代後期の代表的な歌人である藤原俊成 が悠紀方の屏風歌を勤め、梅原山、長沢池、玉蔭井とともに小松崎を 詠んでいる。 子ねの日して小松が崎をけふみればはるかに千代の影ぞ浮かべる 子の日の遊びをして小松が崎を今日みると、はるかに遠く千代までも 栄える松の影が浮かんでいる。というのが、和歌の主旨で、天皇の千代の 代を言祝いだ和歌である。子の日の遊びと言うのは、正月の初の子の日に 小松を引き、若葉を摘んだりして、邪気を避け、長寿を祈った行事である。 小松崎と小松引きとが上手く掛けられている。松を含む地名自体、めでたい とされたのであろう。 また、平安時代後期の歌人としても、似顔絵の先駆者としても著名な藤原 隆信も小松崎を 風わたるこすえのをとはさひしくてこまつかおきにやとる月影 と詠んでいる。この和歌には、 こまつというところをまかりてみれは、まことにちいさきまつはらおもしろく 見わたされるに、月いとあかきをなかめいたして という詞書が記されており、隆信が実際に小松崎を訪れて詠んだ歌であることが 察せられる。 隆信の和歌が小松を訪れて詠んだ和歌ならば,小松に住む人にあてた和歌もあった。 人のこ松というところに侍りしに、雪のいたうふりふりしかば、つかしし、 朝ほらけおもひやるかなほどもなくこ松は雪にうづもれぬらむ 作者の右馬内侍は平安時代中期の歌壇で活躍した女流歌人なので、当卷で扱う には少し時代が古いが、小松に近づく雪の季節に対して、そこに住む友人を おもんばかる気持がよくあらわれている。小松あたりの冬の厳しさは有名で あったと察せられる。 鎌倉時代以降になると、京都と東国を往還する人々も多くなってくる。 京都の公家たちも、鎌倉幕府の要請やみずから鎌倉幕府との人脈を求めて 鎌倉へ下向していった。 また、東国への旅が一般化すると、諸国の大寺社や歌枕を実際に見聞しに行く 者たちも増えていった。 「宋雅道すがらの記」を記した飛鳥井雅縁もそんな一人である。宋雅とは出家後の 号、飛鳥井家は和歌,蹴鞠の家として知られ、家祖雅経の頃から幕府、武家との 関係が親密であり、雅縁も足利義満の信任が非常に厚かった。そんな雅縁が 越前国気比大社参詣に出立したのが、応永三十四年2月23日、70歳の時である。 実は、この紀行文も旅から帰った後、将軍義教より旅で詠んだ和歌があるだろと まとめの要請があって記したものである。旅の路順は湖西を船で進んでいたようで、 日吉大社を遥拝し、堅田を過ぎて、真野の浦、湖上より伊吹山を眺め、比良の宿に 宿泊している。そこで、 比良の海やわか年浪の七十を八十のみなとにかけて見る哉 と自分の年齢をかけた和歌を詠んでいる。翌日は小松を通っている。小松の松原を 目の当たりにして、 小松と言う所を見れば名にたちてまことにはるかなる松原あり 我が身今老木なりとも小松原ことの葉かはす友とたに見よ 同じく長寿を保つ松原に呼びかけるような和歌である。次は、白鬚、ここでも、 神の名もけふしらひけの宮柱立よる老の浪をたすけよ と、長寿をまもるという白鬚神社に自分の老いを託している。そして、竹生島を 船上より眺め、今津、海津、そこから山道をとって、29日には気比大社 に詣で、参籠して3月17日に帰京している。 将軍などの見聞旅行に随行の記録もある。 冷泉為広が細川政元の諸国名所巡検の同行記録では、 出立は延徳3年京を山中越えで坂本へ、比叡辻宝泉寺に宿泊。翌日は船に乗り 湖上を行った。東に鏡山、三上山、西に比良山,和邇崎を見ながらの通航 であった。そして、船中であるが和邇で昼の休みを取っている。 次に映ったのが、比良あたりの松である。 ヒラノ流松宿あり向天神ヤウカウトテ松原中に葉白き松二本アリ 「向天神」とは現在も北比良に鎮座する天満神社のことであろう。「ヤウカウ」は 影向で、「近江国與地志略」などにいう、社建立の際に生じたという神体的な要素 を持つ松のことである。また、小松のところでは、「コノ所ニワウハイノ瀧ト伝瀧 アリ、麓に天神マシマス」として「ワウハイ、楊梅瀧」について記している。 コノ瀧については、「近江国與地志略」でも、 ・楊梅瀧 小松山にあり、小松山はその高さ4町半あり。瀧は山の八分より流る。 瀧つぼ五間四方許、たきはば上にて三間、中にては四間,下にては亦三間ばかり、 この瀧、長さ二十間、はばは三間許、水は西の方より流れて東へ出、曲折して 南へ落、白布を引きがごとし、故にあるひは布引の瀧といふ。瀧の辺り,岩に 苔生じ,小松繁茂し、甚だ壮観なり。 とみえ、近世には名所となっていたことがわかるが、冷泉為広のじだいにもすでに 注目に値する名勝であったらしいことがうかがえる。そして、一向は湖上の旅 を続け陸路で敦賀,武生と進み、越中,越後をめぐり4月28日に京都へ帰っている。 いずれにしろ、比良を中とした歌は、様々な季節のの琵琶湖と比良山地からなる 景観の微妙な季節の移り変わりを、見事に表現している。特に晩秋から冬に掛けては、 「もののあわれ」に興味が高かった都人には、散っていく紅葉に心を痛めながら 山で鳴く鹿の声、湖岸の菊、波にただよう水鳥や漁をする舟に思いをよせつつ、 比良の山の冠雪から確かな冬の到来をつげている。そして、冬の到来を予感させる 山から吹く強い風により、紅葉が散り終えた事を示唆している。これらの歌が 作られてから焼く1000年の歳月が過ぎているが、現在でも11月頃になると 小松を含めて比良では同じ様な景色が見られる。 このほかに、本町域に関する歌には、「比良の山(比良の高嶺、比良の峰)」 「比良の海」、「比良の浦」「比良の湊」「小松」「小松が崎」「小松の山」 が詠みこまれている。その中で、もっとも多いのが、「比良の山」を題材に して詠まれた歌である。比良山地は、四季の変化が美しく、とりわけ冬は 「比良の暮雪」「比良おろし」で良く知られている。「比良の山」「比良の 高嶺」を詠んだ代表的な歌を、春夏秋冬に分けて紹介する。 春は、「霞」「花」「桜」が詠まれている。 雪消えぬ 比良の高嶺も 春来れば そことも見えず 霞たなびく 近江路や 真野の浜辺に 駒とめて 比良の高嶺の 花を見るかな 桜咲く 比良の山風 吹くなべに 花のさざ波 寄する湖 夏は、「ほととぎす」が詠まれている。 ほととぎす 三津の浜辺に 待つ声を 比良の高嶺に 鳴き過ぎべしや 秋は、「もみじ」と「月」が詠まれている。 ちはやぶる 比良のみ山の もみぢ葉に 木綿(ゆふ)かけわたす 今朝の白雲 もみぢ葉を 比良のおろしの 吹き寄せて 志賀の大曲(おおわだ) 錦浮かべり 真野の浦を 漕ぎ出でて見れば 楽浪(さざなみ)や 比良の高嶺に 月かたぶきぬ 冬には、「雪」「風」が詠まれている。 吹きわたす 比良の吹雪の 寒くとも 日つぎ(天皇)の御狩(みかり)せで 止まめやは 楽浪や 比良の高嶺に 雪降れば 難波葦毛の 駒並(な)めてけり 楽浪や 比良の山風 早からし 波間に消ゆる 海人の釣舟 このように、比良の山々は、古代の知識人に親しまれ、景勝の地として称賛 されていたのである。
木戸の里歴史めぐりより
自分の眼前に、神秘の謎を秘め、朝日夕陽に照らされて、こうごうしく
輝く偉大な母なる琵琶湖。琵琶湖が、木戸からでは一望でき、他の町村では 味わえないよさがある。 湖面に波一つなく、朝の静寂を破り、あかね雲とともに、母なる琵琶湖の 対岸の彼方より上り来る、こうごうしい朝日に向かい、手を合わすたびに 「ああ、ありがたい。今日も一日、幸せでありますように。」と祈る、 このすがすがしいひととき、この偉大なる母なる琵琶湖も、風が吹きくれば、 きばをむき、三角波を立て、悪魔のようにおそいかかり、鏡のような静かなる 湖も、荒れ狂い、尊い人命を奪い去る事もある。 |
大津の北に位置する旧志賀町は、楽浪(さざなみ)の里とも呼ばれ、真近いに比良山系を仰ぎ、琵琶湖の蒼き面に静けさを感じる里です。農事からの七十二候をその季節に応じて感じることで、この里の素晴らしさを味わってほしいものです。
2016年4月3日日曜日
志賀町史より
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