志賀町史第1巻 P330 き旅の歌の一首 若狭なる 三方の海の 浜清み い行き還らひ 見れど飽かぬかも 古い北陸官道が若狭の海岸を経たことを示す証拠の一つとして、見逃すことはできない 。 P422 ■志賀町の四季 本町は木と緑に恵まれた自然景観の美しいまちであり、古代以来、多くの歌人 によって、歌われてきた。 「恵慶集」に旧暦10月に比良を訪れた時に詠んだ9首の歌がある。 比良の山 もみじは夜の間 いかならむ 峰の上風 打ちしきり吹く 人住まず 隣絶えたる 山里に 寝覚めの鹿の 声のみぞする 岸近く 残れる菊は 霜ならで 波をさへこそ しのぐべらなれ 見る人も 沖の荒波 うとけれど わざと馴れいる 鴛(おし)かたつかも 磯触(いそふり)に さわぐ波だに 高ければ 峰の木の葉も いまは残らじ 唐錦(からにしき) あはなる糸に よりければ 山水にこそ 乱るべらなれ もみぢゆえ み山ほとりに 宿とりて 夜の嵐に しづ心なし 氷だに まだ山水に むすばねど 比良の高嶺は 雪降りにけり よどみなく 波路に通ふ 海女(あま)舟は いづこを宿と さして行くらむ これらの歌は、晩秋から初冬にかけての琵琶湖と比良山地からなる景観の微妙な 季節の移り変わりを、見事に表現している。散っていく紅葉に心を痛めながら 山で鳴く鹿の声、湖岸の菊、波にただよう水鳥や漁をする舟に思いをよせつつ、 比良の山の冠雪から確かな冬の到来をつげている。そして、冬の到来を予感させる 山から吹く強い風により、紅葉が散り終えた事を示唆している。これらの歌が 作られてから焼く1000年の歳月が過ぎているが、現在でも11月頃になると 比良では同じ様な景色が見られる。 このほかに、本町域に関する歌には、「比良の山(比良の高嶺、比良の峰)」 「比良の海」、「比良の浦」「比良の湊」「小松」「小松が崎」「小松の山」 が詠みこまれている。その中で、もっとも多いのが、「比良の山」を題材に して詠まれた歌である。比良山地は、四季の変化が美しく、とりわけ冬は 「比良の暮雪」「比良おろし」で良く知られている。「比良の山」「比良の 高嶺」を詠んだ代表的な歌を、春夏秋冬に分けて紹介する。 春は、「霞」「花」「桜」が詠まれている。 雪消えぬ 比良の高嶺も 春来れば そことも見えず 霞たなびく 近江路や 真野の浜辺に 駒とめて 比良の高嶺の 花を見るかな 桜咲く 比良の山風 吹くなべに 花のさざ波 寄する湖 夏は、「ほととぎす」が詠まれている。 ほととぎす 三津の浜辺に 待つ声を 比良の高嶺に 鳴き過ぎべしや 秋は、「もみじ」と「月」が詠まれている。 ちはやぶる 比良のみ山の もみぢ葉に 木綿(ゆふ)かけわたす 今朝の白雲 もみぢ葉を 比良のおろしの 吹き寄せて 志賀の大曲(おおわだ) 錦浮かべり 真野の浦を 漕ぎ出でて見れば 楽浪(さざなみ)や 比良の高嶺に 月かたぶきぬ 冬には、「雪」「風」が詠まれている。 吹きわたす 比良の吹雪の 寒くとも 日つぎ(天皇)の御狩(みかり)せで止まめや は 楽浪や 比良の高嶺に 雪降れば 難波葦毛の 駒並(な)めてけり 楽浪や 比良の山風 早からし 波間に消ゆる 海人の釣舟 このように、比良の山々は、古代の知識人に親しまれ、景勝の地として称賛 されていたのである。 志賀町史第2巻 P178 ■志賀の文化、芸術 比良の雪世界と山嵐の存在は、文学他にも、影響している。 万葉集では、 楽浪(さざなみ)の比良山嵐の海吹けば釣する海人の袖反(かえ)る見ゆ また、西行と寂然との和歌のやりとりでも、 大原は比良の高嶺の近ければ雪ふるほどを思ひこそやれ おもえただ都にてだに袖冴えし比良の高嶺の雪のけしきを とある。 この雪の様を描いたのが「比良の暮雪」として近江八景で、有名である。 また、春の季節には、 ひらの山はあふみ海のちかければ浪と花との見ゆるなるべし 花さそう比良の山嵐吹きにけりこぎゆく舟の踏みゆるまで 風わたるこすえのをとはさひしくてこまつかおきにやとる月影 鎌倉時代以降は、旅を目的とした古代北陸道としての活用が高まり、 多くの歌人が名勝や情景に歌を綴った。 湖岸の名所 小松崎 P185まで 比良の山嵐が吹き降りる湖岸に眼をやると、近江国與地志略には、 比良北小松崎 則比良川の下流の崎なり。往古よりふるき松二株有り。 湖上の舟の上下のめあてにす。 と、その由緒を記す小松崎がある。現在の近江舞妓、雄松崎付近にあたる のであろうか。この小松崎も大嘗祭の屏風歌に詠みこまれるほどの 歌枕であった。大嘗祭とは天皇が即位の後,初めておこなう新嘗祭 のことで、大嘗祭に際しては、あらかじめ占いで定められた悠紀、主基ずき の二国から神饌が献じられるのが決まりであった。そして、平安時代の 宇多、醍醐天皇の頃には、悠紀は近江国、主基は丹波ないしは備中国に 固定していた。また、神饌とともに悠紀、主基の名所を織り込んだ 屏風歌の風俗歌が詠進されるのも恒例となっていた。仁安元年(1166) 六条天皇の大嘗祭の折には、平安時代後期の代表的な歌人である藤原俊成 が悠紀方の屏風歌を勤め、梅原山、長沢池、玉蔭井とともに小松崎を 詠んでいる。 子ねの日して小松が崎をけふみればはるかに千代の影ぞ浮かべる 子の日の遊びをして小松が崎を今日みると、はるかに遠く千代までも 栄える松の影が浮かんでいる。というのが、和歌の主旨で、天皇の千代の 代を言祝いだ和歌である。子の日の遊びと言うのは、正月の初の子の日に 小松を引き、若葉を摘んだりして、邪気を避け、長寿を祈った行事である。 小松崎と小松引きとが上手く掛けられている。松を含む地名自体、めでたい とされたのであろう。 また、平安時代後期の歌人としても、似顔絵の先駆者としても著名な藤原 隆信も小松崎を 風わたるこすえのをとはさひしくてこまつかおきにやとる月影 と詠んでいる。この和歌には、 こまつというところをまかりてみれは、まことにちいさきまつはらおもしろく 見わたされるに、月いとあかきをなかめいたして という詞書が記されており、隆信が実際に小松崎を訪れて詠んだ歌であることが 察せられる。 隆信の和歌が小松を訪れて詠んだ和歌ならば,小松に住む人にあてた和歌もあった。 人のこ松というところに侍りしに、雪のいたうふりふりしかば、つかしし、 朝ほらけおもひやるかなほどもなくこ松は雪にうづもれぬらむ 作者の右馬内侍は平安時代中期の歌壇で活躍した女流歌人なので、当卷で扱う には少し時代が古いが、小松に近づく雪の季節に対して、そこに住む友人を おもんばかる気持がよくあらわれている。小松あたりの冬の厳しさは有名で あったと察せられる。 鎌倉時代以降になると、京都と東国を往還する人々も多くなってくる。 京都の公家たちも、鎌倉幕府の要請やみずから鎌倉幕府との人脈を求めて 鎌倉へ下向していった。 また、東国への旅が一般化すると、諸国の大寺社や歌枕を実際に見聞しに行く 者たちも増えていった。 「宋雅道すがらの記」を記した飛鳥井雅縁もそんな一人である。宋雅とは出家後の 号、飛鳥井家は和歌,蹴鞠の家として知られ、家祖雅経の頃から幕府、武家との 関係が親密であり、雅縁も足利義満の信任が非常に厚かった。そんな雅縁が 越前国気比大社参詣に出立したのが、応永三十四年2月23日、70歳の時である。 実は、この紀行文も旅から帰った後、将軍義教より旅で詠んだ和歌があるだろと まとめの要請があって記したものである。旅の路順は湖西を船で進んでいたようで、 日吉大社を遥拝し、堅田を過ぎて、真野の浦、湖上より伊吹山を眺め、比良の宿に 宿泊している。そこで、 比良の海やわか年浪の七十を八十のみなとにかけて見る哉 と自分の年齢をかけた和歌を詠んでいる。翌日は小松を通っている。小松の松原を 目の当たりにして、 小松と言う所を見れば名にたちてまことにはるかなる松原あり 我が身今老木なりとも小松原ことの葉かはす友とたに見よ 同じく長寿を保つ松原に呼びかけるような和歌である。次は、白鬚、ここでも、 神の名もけふしらひけの宮柱立よる老の浪をたすけよ と、長寿をまもるという白鬚神社に自分の老いを託している。そして、竹生島を 船上より眺め、今津、海津、そこから山道をとって、29日には気比大社 に詣で、参籠して3月17日に帰京している。 将軍などの見聞旅行に随行の記録もある。 冷泉為広が細川政元の諸国名所巡検の同行記録では、 出立は延徳3年京を山中越えで坂本へ、比叡辻宝泉寺に宿泊。翌日は船に乗り 湖上を行った。東に鏡山、三上山、西に比良山,和邇崎を見ながらの通航 であった。そして、船中であるが和邇で昼の休みを取っている。 次に映ったのが、比良あたりの松である。 ヒラノ流松宿あり向天神ヤウカウトテ松原中に葉白き松二本アリ 「向天神」とは現在も北比良に鎮座する天満神社のことであろう。「ヤウカウ」は 影向で、「近江国與地志略」などにいう、社建立の際に生じたという神体的な要素 を持つ松のことである。また、小松のところでは、「コノ所ニワウハイノ瀧ト伝瀧 アリ、麓に天神マシマス」として「ワウハイ、楊梅瀧」について記している。 コノ瀧については、「近江国與地志略」でも、 ・楊梅瀧 小松山にあり、小松山はその高さ4町半あり。瀧は山の八分より流る。 瀧つぼ五間四方許、たきはば上にて三間、中にては四間,下にては亦三間ばかり、 この瀧、長さ二十間、はばは三間許、水は西の方より流れて東へ出、曲折して 南へ落、白布を引きがごとし、故にあるひは布引の瀧といふ。瀧の辺り,岩に 苔生じ,小松繁茂し、甚だ壮観なり。 とみえ、近世には名所となっていたことがわかるが、冷泉為広のじだいにもすでに 注目に値する名勝であったらしいことがうかがえる。そして、一向は湖上の旅 を続け陸路で敦賀,武生と進み、越中,越後をめぐり4月28日に京都へ帰っている。
大津の北に位置する旧志賀町は、楽浪(さざなみ)の里とも呼ばれ、真近いに比良山系を仰ぎ、琵琶湖の蒼き面に静けさを感じる里です。農事からの七十二候をその季節に応じて感じることで、この里の素晴らしさを味わってほしいものです。
2016年4月6日水曜日
志賀の四季、志賀町史1巻2巻より
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