2016年11月18日金曜日

西近江路をゆく

西近江路(にしおうみじ)は、近江国(滋賀県)から越前国へ通じる街道で、古代・
中世の古北陸道、北国海道、北国脇往還、北国往還、北国脇道とも言われていた。
1887年(明治20年)に西近江路として県道となりこの名称が定着した。
古来より都と北陸を結ぶ道として人の往来が多いだけでなく、壬申の乱、藤原仲麻呂
の乱、治承・寿永の乱(源平合戦)、織田信長の朝倉攻めなどでは大軍が移動
している。また、平安時代の遣渤海使もこの道を通るなど、交流の道でもあった。
別名北国海道と呼ばれているが、なぜ「街道」ではなく「海道」の字が
使用されたのか。
『図説滋賀県の歴史』によれば、「江戸時代の古絵図をはじめ街道筋に散在する石造
道標のほとんどに「北国海道」と刻まれているところから海の字を用いている。」とあ
る。
『近江の街道』でも、同じく石造道標の記載をあげたうえで、「それだけこの道が、
北国の海へのイメージが強かったのであろう。」とあり、『図説近江の街道』でも
同様の見解が示されている。しかし、『近江の道標』には、「街道でなくて、海道
という名前がついたのは、北国の海をさす道か、あるいは、びわ湖に沿うてある
からか明確ではない」
とある。

1)古北陸道の概観
古代を通じて、志賀町域は、律令国家の官道の一つである北陸道が通過する要所で
あった。北陸道とその枝路には、駅(うまや)が置かれ、公用をおびた役人が乗り
継ぐ馬が用意された。
更に、その駅制度は一層整備される。和邇駅は本町域の、和邇川の三角州に位置する、
和邇中にその遺跡が残っている。
近江の北陸道は、平安時代から江戸時代に至るまで平安の都と北陸をつなぐ最短距離
の道として重要な機能を有していた。
平安時代の法令集と言うべき「延喜式」の兵部省の「諸国駅馬条」によれば、北陸道の
駅馬はすべて五疋である。
しかし伝馬数は穴太五疋、和邇七疋、三尾七疋、鞆結九疋の四駅が設置された。
(古代)
小関越え → 穴多(太)駅(大津市穴太) → 和邇駅(大津市和邇中浜) → 三尾駅
(高島市安曇川町三尾) → 鞆結駅(高島市マキノ町小荒路・海津・浦・石庭) → 
愛発関(敦賀市疋田か)

2)交通の要路である西近江路
古代からの官道の駅家がその核となり、荘園の中心集落と一体となった新しい
要路となっている。この山側には、途中、朽木を経由する花折街道もあった。
平家物語、源平盛衰記には、軍隊の動きが書いてあり、それにより、当時の
交通路の概要が掴める。
源平の戦い、足利氏の新政府のための戦いなどが繰り返れることにより、
堅田は港湾集落としての機能を高めていく。更に、14世紀以降は、本福寺
の後押しもあり、湖上の漁業権の特権も活かし、最大の勢力となって行く。

本町地域での陸路と水路の集落にも、役割が出てくる。
陸路でもあり、各荘園の中心集落としては、
南小松、大物、荒川、木戸、八屋戸、南船路、和邇中、小野があった。
これらの中でも、木戸荘は中心的な荘園であった。
水路、漁業の中心としては、北小松、北比良、南比良、和邇の北浜、中浜、
南浜があった。
和邇は、天皇神社含め多くの遺跡があり、堅田や坂本と並んで湖西における
重要な浜津であり、古代北陸道の駅家もあった。古代の駅家がその後の
中心的な集落になる事例は多くある。現在の和邇今宿が和邇宿であったことが
考えられる。
(近世)
大津宿・札の辻(大津市札の辻) → 衣川宿(大津市衣川) → 和邇宿(大津市
和邇中) → 木戸宿(大津市木戸) → 北小松宿(大津市北小松) → 河原市宿
(高島市新旭町安井川) → 今津宿(高島市今津町今津) → 海津宿(高島市
マキノ町海津) → 敦賀宿(敦賀市元町)

西近江路は大津町のやや西よりをまっすぐ湖岸に向かって出て、湖岸よりの道を
下阪本まで北上する。この付近で古北陸道と合流して、湖岸沿いにかっての
古北陸道を踏襲しながら北へ進む。海津から七里半越を経て敦賀へと通じていた。
道筋について享保一九年(1734)編述の「近江輿地誌略」によれば、
西近江路
大津より坂本へ二里、坂本より衣川(大津市)へ一里半、衣川より木戸(志賀町)
へ一里、木戸より小松(志賀町)へ二里、小松より新庄(新旭町)へ三里半、
新庄より今津へ一里半、今津より海津へ三里、海津より山中へ三里半、
山中より駄口へ一里、駄口より疋田(敦賀市)へ一里、疋田より二つ屋へ
二里、二つ屋より今庄へ二里あるなり
とある。
これによれば、滋賀県内を通る西近江路の距離は、およそ72キロとなる。
この間の宿場は、いつ設置されたかは不明であるが、衣川、和邇今宿、木戸、
北小松、河原市、今津、海津の7宿であった。

堅田から和邇への道
司馬遼太郎の「街道をゆく」の第1巻は、この地から始まっている。

「近江」というこのあわあわとした国名を口ずさむだけでもう、私には詩が
始めっているほど、この国が好きである。、、、
近江の国はなお、雨の日は雨のふるさとであり、粉雪の降る日は川や湖まで
が粉雪のふるさとであるよう、においを残している。
「近江からはじめましょう」というと、編集部のH氏は微笑した。
この湖岸の古称「志賀」に、「楽浪さざなみの」というまくらことばをつけて
よばれるようになったのは、そういう消息によるものにちがいない。
車は、湖岸に沿って走っている。右手に湖水を見ながら堅田を過ぎ、真野を過ぎ、
さらに北へ駆けると左手ににわかに比良山系が押しかぶさってきて、車が
湖に押しやられそうなあやうさを覚える。大津を北に走ってわずか20キロと
いうのに、すでに粉雪が舞い、気象の上では北国の圏内に入る。

とその書き出しに始まっている。とても喜ばしいが、なぜ、冬の日なのか、ちょっと
気に入らない。白洲正子や井上靖などの作品で、多くは冬の情景が描かれている
ことが多い。万葉集などの歌にもよく読み込まれているように春や秋の情景も
多く描いてほしいものだ。

西近江路は、JR堅田駅を通り抜けるとあたらしい東西に走る広い道路に出る。
左の道をとれば、真野から伊香立を経て途中峠へ、更に京都へと通じている。
旧街道は、再び国道161号線と合流し、真野川をこえ真野の集落に入る。
春は桜が川沿いを走り、ピンクの彩を映えて、湖まで続いている。
右側の湖岸べりには、真野川によって大きな砂洲ができ、長く松林が続いている。
夏には水泳場としてにぎわう。
この真野周辺は、古くは湖岸線が今より深く入り込み、それを「真野の入り江」
といわれ、歌枕として著名な風光の地であった。平安時代末期の歌人、源俊頼
は、
「うずらなく真野の入り江の浜風に、尾花すすきなみよる秋の夕暮れ」
の歌を詠んでいる。また、街道沿いにある正源寺の梵鐘には、鎌倉時代に真野
庄人々が願主となって梵鐘を神田社へ奉納、その二百年後に野洲郡中主町の
兵主神社へ移り、さらに約三百七十年後に地元に帰ったことなど、珍しい
銘文が刻まれている。

道は大きく左へ曲がり西へ進むが、正面に大規模な団地があり、その背後に
標高百八十七メートルの曼陀羅山が見える。この山頂には、全長七十二メートル
の前方後円墳の形態を有する和邇大塚山古墳がある。ところで、道は右へ
曲がりしばらく行くと、国道161号西近江路の分岐点がある。左側の道を
とれば、志賀町小野の集落にさしかかる。この小野の里は、古代近江を
代表する豪族小野氏の本貫の地であった。JR湖西線の下をくぐると、
左側の道脇に「外交始祖大徳冠小野妹子墓是より三丁余」と刻まれた石造
道標がある。この道標に導かれて進めば、団地に囲まれるように妹子公園
がある。その頂上部分には、小野妹子の墓と伝えられる石室の露出した円墳
がある。妹子は六百七年、六百八年と日本最初の遣隋使として活躍した人であった。
小野の集落は、西近江路を挟んで形成されている。その真ん中辺りの左側を
少し入ったところに小野道風をまつった道風神社がある。静寂の中に三間社
流造りの美しい本殿の形姿を見せている。道風はいうまでもなく平安時代
末期の書家で、藤原佐理すけまさ、藤原行成とともに天下の三蹟といわれた。

この地の情景は白洲正子の「近江山河抄」にも描かれている。
「小野神社は2つあって、一つは道風、1つは「篁たかむら」を祀っている。
国道沿いの道風神社の手前を左に入ると、そのとっつきの山懐の丘の上に、
大きな古墳群が見出される。妹子の墓と呼ばれる唐臼山古墳は、この丘の
尾根つづきにあり、老松の根元に石室が露出し、大きな石がるいるいと
重なっているのは、みるからに凄まじい風景である。が、そこからの眺めは
すばらしく、真野の入り江を眼下にのぞみ、その向こうには三上山から
湖東の連山、湖水に浮かぶ沖つ島もみえ、目近に比叡山がそびえる景色は、
思わず嘆息を発していしまう。その一番奥にあるのが、大塚山古墳で、
いずれなにがしの命の奥津城に違いないが、背後には、比良山がのしかかるように
迫り、無言のうちに彼らが経てきた歴史を語っている」。
だが、現在はその様相をかなり変えていた。

さらに、街道を北へ進むと、白壁に囲まれた上品寺の手前にある左側の参道
の突き当りには2つの小野神社がある。県下一と言われるムクロジの大きな木
を見ながら石の鳥居を過ぎると小野神社と小野篁が並び立つような形である。
小野神社は、小野の鎮守であるが、その境内には小野篁たかむら神社がある。
これも道風と同じ様式で切妻平入三間社流造りでいずれも重要文化財に
指定されている。
篁は平安時代前期の漢学者、歌人として著名である。いずれにせよ、小野の集落は
古代社会の文化に貢献した小野氏を生んだ土地らしく、いまもそれを物語る貴重な
遺跡が多く残されている。
しかし、小野氏より早くからこの地を支配してきたといわれる和邇氏同族の
和邇部氏の遺跡がほとんどないのが、不思議だ。

小野の集落をあとにして和邇川をわたると、和邇中の家並みにはいる。
その真ん中あたりに三叉路があり、かっては西近江路の宿駅がおかれ、交通の
要衝にあたっていたところだ。左側の道をとれば、竜華から還来(もどろき)
神社前を通り伊香立途中町へ。ところで、この三叉路のちょうど真ん中には、
地名の由来にもなった榎の大木があったが、枯れてしまったので明治百年記念
に大きな石に「榎」と記した碑が建てられている。榎はかって神木として
仰がれていたので、いまも注連縄がめぐらされている。この石碑は私たちに
歴史的足跡を教えてくれる好例であろう。また、その角には木下屋という
旅館があり榎の大木があったことをしのばせていた。その旅館もいまは
跡形もない。この交差路を左に行けば、天皇神社から途中峠と向かう。

天皇神社は、元天台宗寺院鎮守社として京都八坂の祇園牛頭天王を奉還して
和邇牛頭天王社と呼ばれていましたが、1876年にに天皇神社と改称された。
祭神は、素盞嗚尊(スサノオノミコト)、三宮神社殿、樹下神社本殿、若宮神社
本殿もあり、近世では、五か村の氏神となっている。
現在の本殿は、隅柱や歴代記等から鎌倉時代の正中元年(1324)に建立された
と考えられており、本殿は流造の多い中、全国的にも稀な三間社切妻造平入の
鎌倉時代の作風を伝える外観の整った建物だ。
5月8日には旧六か村の和邇祭が行われ、庄鎮守社としてこの天皇神社(天王社)
の境内には、各村の氏神が摂末社としてあります。天王社本社(大宮)は和邇中、
今宿、中浜は樹下(十禅師権現)、北浜は三之宮、南浜は木元大明神、高城は
若宮大明神があり、夫々の神輿が出て、中々ににぎわう。

西近江路には、江戸時代の思想家で、近江聖人といわれた中江藤樹所縁
の伝承がおおい。この榎の宿にも、いまも語り継がれている話がある。
和邇中の集落をあとにして道は、湖西線の下をくぐり湖岸に向かい、そこで
国道161号と合流して、中浜、北浜の細長い家並みを通る。
近世では、西近江路の街道筋を中心に「和邇九が郷」といわれ、それには
小野、栗原、中村、高城、今宿、南浜、中浜、北浜、南船路の各村が含まれた。
そのうち、北浜、中浜、南浜は、琵琶湖岸に接し和邇浜と呼ばれていた。
ここでは、琵琶湖特有のいさざが捕れる浜となっていた。江戸時代初期に
あたる寛永年間にできた「毛吹草」にも諸国名物の一つとして「和邇崎の
イサザ」とあり、すでにこの地の名産として知られていた。
イサザはうきごりの幼魚にあたり、体長約5センチぐらいの淡水魚で、
飴煮や汁にする。その淡水魚独特の素朴な味覚は、いまも捨て難いものがある。
ビワマス、氷魚などとともに琵琶湖八珍として親しまれている。

北浜の集落から西近江路を北へ進むと、目の前に高い比良の山並がたちはだかる。
この比良山系は、南から蓬莱山、鳥谷山、堂満岳、釈迦岳、武奈ヶ岳など
千メートルを越す山々で形成されている。眼下に琵琶湖をもつ比良山系は、
それぞれ山容が変化に富むとともに、四季折々異なった景色を見せ、
登山者に親しまれ愛されてきた。
一方、それを眺める山としても著名であった。春になっても山並の頂上部に
まだ雪を残したその景観は素晴らしく、「比良の暮雪」として近江八景の
一つに数えられ、江戸時代の名所や浮世絵版画に登場している。
また、「比良の高嶺、比良の山嵐、比良の山」といった歌枕として万葉集、
新古今和歌集など多くの歌集にも見ることが出来る。

「恵慶集」に旧暦10月に比良を訪れた時に詠んだ9首の歌がある。

比良の山 もみじは夜の間 いかならむ 峰の上風 打ちしきり吹く
人住まず 隣絶えたる 山里に 寝覚めの鹿の 声のみぞする
岸近く 残れる菊は 霜ならで 波をさへこそ しのぐべらなれ
見る人も 沖の荒波 うとけれど わざと馴れいる 鴛(おし)かたつかも 
磯触(いそふり)に さわぐ波だに 高ければ 峰の木の葉も いまは残らじ
唐錦(からにしき) あはなる糸に よりければ 山水にこそ 乱るべらなれ
もみぢゆえ み山ほとりに 宿とりて 夜の嵐に しづ心なし
氷だに まだ山水に むすばねど 比良の高嶺は 雪降りにけり
よどみなく 波路に通ふ 海女(あま)舟は いづこを宿と さして行くらむ

これらの歌は、晩秋から初冬にかけての琵琶湖と比良山地からなる景観の微妙な
季節の移り変わりを、見事に表現している。散っていく紅葉に心を痛めながら
山で鳴く鹿の声、湖岸の菊、波にただよう水鳥や漁をする舟に思いをよせつつ、
比良の山の冠雪から確かな冬の到来をつげている。そして、冬の到来を予感させる
山から吹く強い風により、紅葉が散り終えた事を示唆している。これらの歌が
作られてから焼く1000年の歳月が過ぎているが、現在でも11月頃になると
比良では同じ様な景色が見られる。
万葉集では、
楽浪(さざなみ)の比良山嵐の海吹けば釣する海人の袖反(かえ)る見ゆ

このほかに、本町域に関する歌には、「比良の山(比良の高嶺、比良の峰)」
「比良の海」、「比良の浦」「比良の湊」「小松」「小松が崎」「小松の山」
が詠みこまれている。その中で、もっとも多いのが、「比良の山」を題材に
して詠まれた歌である。比良山地は、四季の変化が美しく、とりわけ冬は
「比良の暮雪」「比良おろし」で良く知られている。
このように、比良の山々は、古代の知識人に親しまれ、景勝の地として称賛
されていたのである。
鎌倉時代以降は、旅を目的とした古代北陸道としての活用が高まり、
多くの歌人が名勝や情景に歌を綴った。

西近江路は文化面のほかにも、その特徴の1つに湖上交通の物資輸送の集散地
となっていった港との深い関係がある。
「延喜式」には、能登や越中の日本海沿岸の諸物資が敦賀から塩津、海津、
に輸送され、湖上を大津へ廻漕されて都へと運ばれたと記述されている。
江戸時代にはさらに開発され、「淡海録」には、
大津212艘、堅田133艘、今津125艘、塩津121艘、北小松35艘、
和邇33艘、南比良27、南小松13、木戸10艘などとなっている。
これをみても西近江路にある港には、合わせて919艘という多くの船
を所持していたことがわかる。

しかし、西近江路の名称は、古絵図には「北国海道」、「北国道」と書かれている
場合が多い。さらには、石造道標にも「北国海道」、「北国道」の名称が
多く刻まれている。これらから当時の人々は西近江路と呼ぶよりも、北国海道
という呼称で親しんでいた。
北国海道の前身となる古代、中世の北陸道は、日本の官路都市て畿内あるいは平安の
郡と北陸を最短距離でつなぐ重要な道として長い歴史を刻んできた。

和邇から木戸へむかう
西近江路は、JR湖西線を再びくぐり、蓬莱駅前の北船路の八所神社の前へ出る。
この八所神社の由来は、日吉社の神官祝部行丸が、織田信長の比叡山
焼き討ちの時、その難をのがれて、日吉社七体のご神体をこの地に
運び、元来の地主神と合わせて八神をまつったことによると言われている。
ところで、北船路は比良の山上にある小女郎池への登り口にあたる。
蓬莱山と権現山とのほぼ中間にあるこの池は、およそ千メートルも高い
ところにあって、今も水をたたえている。この池を見るにつけ比良の
山のもつ神秘性をうかがわせる。小女郎池は、竜神の住む池として地元の
人々から畏敬され、干ばつになると、かっては雨乞いの行事が行われた。
今も山麓の集落との結びつきが強い池である。

道は、八屋戸守山の集落の手前で、左に入り右へ曲がるが、その角には
「左京大津」と刻まれた自然石の道標がある。
この守山は、明治7年に隣りの北船路村と合わせて、八屋戸村となった
ところだ。守山は、比良山系の一つ蓬莱山への登り口として知られている。
この集落の真ん中を通る石畳を中心にした道を上がれば、標高500メートル
付近に文政11年に勧請した湖上航行の安全の神をまつる金毘羅神社がある。
更に進むと金毘羅峠を越えて蓬莱山へと道は続く。
また、守山の集落は、湖岸の八屋戸浜に接しているが、この浜から江戸時代
には薪炭、石材などが湖東、大津方面まで舟で運び出されていたのである。
この地域は石の文化が生活に根付いている、といえる。
比良を中心としたこの地域から産する石材を利用した多くの歴史的な構造物が今も
残っている。これらは、河川や琵琶湖の水害から地域を守るための百間堤などの
堤防、獣害を防ぐしし垣、利水のための水路、石積みの棚田、神社の彫刻物など
であり、高度な技術を持った先人たちが、長い年月をかけて築き上げてきた
遺産である。

さらには、個人の家の庭や道には、石畳として使われたり、生活用水のための
石造りのかわとなど生活の一部に溶け込んでもいる。神社の狛犬、しし垣、
石灯篭、家の基礎石、車石など様々な形でも使われて来た。
古くは、多数存在する古墳にも縦横3メートル以上の一枚岩の石版が壁や天井に
使われている。古代から近世まで石の産地としてその生業として、日々の生活の
中にも、様々に姿を変え、関わってきた。
また、南小松は江州燈籠と北比良は家の基礎石等石の切り出し方にも特徴があった
ようで、八屋戸地区は守山石の産地で有名であったし、木戸地区も石の産地と
しても知られ、江戸時代初期の「毛吹草」には名産の一つに木戸石が出ている。
コンクリートなどの普及で石材としての使われる範囲は狭まってはいるが、石の
持つ温かさは、我々にとっても貴重な資源である。

「旧志賀町域の石工たち」の記述では、
明治十三年(1880)にまとめられた「滋賀県物産誌」に、県内の各町村における
農・工・商の軒数や特産物などが記録されている。ただ、「滋賀県物産誌」の
記述は、滋賀県内の石工を網羅的に記録している訳ではない。
「滋賀県物産誌」の石工に関する記述の中で特筆すべきは、旧志賀町周辺の状況
である。この地域では「木戸村」の項に特産物として「石燈籠」「石塔」などが
挙げられているなど、石工の分布密度は他地域に比べて圧倒的である。
木戸村・北比良村では戸数の中において「工」の占める比率も高く、明治時代初めに
おける滋賀県の石工の分布状況として、この地域が特筆されるべき状況であった。
江戸時代の石造物の刻銘等の資料では、その中で比較的よく知られている資料と
・「雲根志」などを著した木内石亭が郷里の大津市幸神社に、文化二年(1805)に
奉納した石燈籠の「荒川村石工今井丈左衛門」という刻銘。、、、」ともある。


さて、道は守山の集落を跡にすると、再び国道161号と合流して北へ進む。
道の左側には比良山系が屏風のように立ちはだかり、右側には琵琶湖を眼下に
見下ろし、その景観は素晴らしい。

道は、びわ湖バレイの道路の前を越えると、左側の少し高台に相撲技の始祖という
志賀清林をまつる墓と相撲公園がある。清林は、木戸に生まれ、聖武天皇の勅命
を受けて相撲の四十八手の基本作法を編み出したといわれる。
道は、再び北へ木戸川を越え、左側の旧道に入る。木戸の集落が続き、樹下神社
山道と交差する。この辺が木戸集落の真ん中で、かっては木戸の宿があった。
いまも、当時の旅館の屋号や常夜燈が残されている。ここは、志賀の中枢部であり、
樹下神社の祭礼も「五ヶ祭り」と言われ、周辺の大物、荒川、木戸、守山、北船路
の旧木戸荘の人々によって行われている。
木戸の樹下神社は、御祭神は、玉依姫命タマヨリヒメノミコト。
創祀年代不詳であるが、木戸城主佐野左衛門尉豊賢の創建と伝えられる。
永享元年社地を除地とせられ、爾来世々木戸城主の崇敬が篤く、木戸庄
(比良ノ本庄木戸庄)五ヶ村の氏神として崇敬されてきた。
ところが元亀二年織田信長の比叡山焼打の累を受け、翌三年社殿が焼失する。
当時織田軍に追われて山中に遁世していた木戸城主佐野十乗坊秀方が社頭
の荒廃を痛憂して、天正六年社殿を再造し、坂本の日吉山王より樹下大神を
十禅師権現として再勧請して、郷内安穏貴賤豊楽を祈願せられた。
日吉山王の分霊社で、明治初年までは十禅師権現社と称され、コノモトさん
とも呼ばれていた。しかし類推するところ、古記録に正平三年に創立と
あるのは、日吉山王を勧請した年代で、それ以前には古代より比良神を産土神
として奉斎して来たもので、その云い伝えや文献が多く残っている。

当社境内の峰神社は祭神が比良神で、奥宮が比良山頂にあったもので今も
「峰さん」「峰権現さん」と崇敬されている。この比良神は古く比良三系を
神体山として周辺の住民が産土神として仰いで来た神であるが、この比良山
に佛教が入って来ると、宗教界に大きな位置をしめ、南都の佛教が入ると、
東大寺縁起に比良神が重要な役割をもって現れ、続いて比叡山延暦寺の勢力
が南都寺院を圧迫して入って来ると、比良神も北端に追われて白鬚明神が
比良神であると縁起に語られ、地元民の比良権現信仰が白山権現にすり
替えられるのである。(比良神は貞観七年に従四位下の神階を贈られた)
当社の例祭には五基の神輿による勇壮な神幸祭があり、庄内五部落の立会の
古式祭で古くより五箇祭と称され、例年5月5日に開催され、北船路の
八所神社の神輿とあわせ五基の神輿が湖岸の御旅所へ渡御する湖西地方
で有名な祭である。この地域、神社も様々な変転がある。

木戸の集落をすぎると、国道161号と合流し、荒川の集落から大物の家並みに入る。
この集落には、歴史的に有名な二つの寺院がある。一つは右側の道を下った所にある
超専寺であり、親鸞が流罪となり越後に向かうとき大物の三浦義忠が一考を泊めた。
そのとき、各地から親鸞を慕って多くの人がきて、義忠も親鸞の人柄に惚れ、
出家した。これにより「明空」の縫合を授かった。
このため、親鸞ゆかりの旧跡とみられ、参拝者も多い。
また、左側の道を登れば、薬師堂がある。

比良から北小松へ
大物をすぎると道は、ほぼまっすぐに北へ延び、右側には琵琶湖岸に位置する南比良
北比良の集落を見下ろす事が出来る。
この湖岸線は比良浦、比良湊とよばれ、「新拾遺集」の
「ふけゆけば嵐やさえてさざ波の比良の湊に千鳥鳴くなり」をはじめ、多くの

詩歌が詠まれている。
さらには、木戸には、宿駅跡と石垣近くに常夜燈があり、守山の旧街道の横に地蔵菩薩
とともに道標がある。大物の旧街道横に二つほど残っており、白髭神社への道標と
ともにそれらを味わって歩くのもよい。比良湊については、志賀町史にも以下の様な
記述がある。「古来、比良の湊がおかれ、北陸地方との交易を中心に水運にも従事して
いた。中世には比良八庄とよばれ、小松荘と木戸荘がその中心であったという。、、、
比良湊は万葉集にも見られる。ほかにも、「比良の浦の海人」が詠まれ、「日本書紀」
斉明天皇5年三月条には、「天皇近江の平浦に幸す」ということがあった。万葉集巻三
(二七四)には、
わが船は比良(ひら)の湊(みなと)に漕ぎ泊(は)てむ沖へな離(さか)りさ夜更(
よふ)けにけり
(わが乗る船は比良の湊に船泊りしよう。沖へは離れてゆくな。
夜も更けて来たことだ。
高市連黒人(たけちのむらじくろひと)が旅先で詠んだ八首の歌のうちの一首がある。
この時代、海は異界との境目だと信じられていた。また、夜は悪しき魔物たちが最も
活発に活動する時間だとも考えられていたようで、そんな魔物たちの活発に活動する
夜の時間が近づいてくる前に「湊に船泊りしよう(湊へ戻ろう)」と言霊として
詠うことで、黒人は夜を前に動揺する自分自身の心を鎮めようとしたのであろう。
また港近くの福田寺(浄土真宗 北比良)には、蓮如が北陸に向かうためにここに
立ち寄った時に渡った橋を蓮如橋と呼んでいる。近くには、比良観音堂があり、
天満天神の本地仏十一面観音がある。面観音を祀る寺として創建された。
北比良城跡の石碑もある。

比良周辺は、城跡の15ほどあるが、形を残しているものはない。さらに神社仏閣が多
くある。
その寺院宗派には、天台真盛宗、浄土宗、浄土真宗、臨済宗、日蓮宗などがある。
いずれも寺院の規模は小さく、本殿と鳥居、拝殿、御輿庫、などの付属建物で構成され
る。
とくに、拝殿は三間もしくは二間の正方形平面で入母屋造り、桧皮葺(ひわだぶき)で
ある。
街道沿いには、多くの寺や寺院の瓦屋根が見受けられる。
すこし、列記しておくと、西福寺(浄土真宗 北比良)、福田寺
(浄土真宗 北比良)、本立寺(真宗 南比良)超専寺(浄土真宗 大物)は覚如上人
や蓮如上人がこの寺を参詣された。
さらに長栄寺(日蓮宗 大物)、萬福寺(真宗 荒川)、西方寺(浄土宗 木戸)、
安養寺(浄土宗 木戸)、正覚寺(真宗 木戸)、光明寺(浄土宗 北船路)、
西福寺(天台真盛宗 守山)など比良三千坊と言われた名残りなのであろう。
さらに街道の脇には神社も多くあり、樹下神社(北小松)、八幡神社(南小松)、
天満神社(北比良)、樹下神社(南比良)、妙義神社は比良三千坊と称され、この地
が山岳信仰の中心地の1つであった
事を偲ばせる神社である。湯島神社(荒川)、樹下神社(木戸)十禅師権現社と称し、
コノモトさんとも呼ばれていた。五か村の氏神である。若宮神社(守山)、
金毘羅神社、八所神社(北船路)、八所神社(南船路)などまさに軒を
連ねる状態だ。

福田寺から湖に向かうと、そぐら浜がある。そぐら浜から北へ延びる浜辺一帯を
「ジョネンバ」と呼び、かっては石屋小屋(石きり加工場)が軒を連ね、
浜辺では氷魚、ハス、モロコなどの地引網が盛んに行われていた。今はその面影
はなく一部を児童公園となっているジョネンバから南側のそぐら浜辺りは上納
する年貢米や特産の石材、木材、薪、および壁土、葦、瓦などの集積場で、これらの
保管する蔵が集まっていたが、いまはその跡すらない。そぐら浜 という地名は、
当時、交易で運ばれて来た物資を保管・保存するための蔵が、立ち並んでいたこと
から付けられたという。
ちなみに、そぐらは、「総蔵」からきていると言われている。ここの常夜灯は、大きく
立派な造りだ。湖上が交易に使われていた頃に、船主や船頭衆によって航行の安全を
祈願して建てられたもの。昔は毎年、当番が四国の金比羅宮に、航行の安全祈願に
参拝したことから、常夜灯のびわ湖側には、「金比羅大権現」とう文字が、刻まれてい
る。

道は、湖岸から参道が続く天満宮社の前を通り、坂道を登るようにして水のない
比良川をわたる。この比良川の下流にあたるところは、大きな三角州が形成され、
その中に内湖をだいている。内湖と琵琶湖の間には細長い浜が数キロも続く。比良川系
から流し出された白い砂と緑の松とが好対照をみせ、独特の景観をみせている。
古くから西近江路の景勝地として知られていた。
昭和25年選定の琵琶湖八景では、「雄松崎の白汀」とよばれ、近年では琵琶湖随一
の水泳場として最もにぎわうところである。

「比良の山嵐が吹き降りる湖岸に眼をやると、近江国與地志略には、比良北小松崎 
則比良川の下流の崎なり。往古よりふるき松二株有り。湖上の舟の上下のめあてにす」
と、
その由緒を記す小松崎がある。現在の近江舞子、雄松崎付近にあたるのであろう。
この小松崎も大嘗祭の屏風歌に詠みこまれるほどの歌枕であった。
六条天皇の大嘗祭の折には、平安時代後期の代表的な歌人である藤原俊成が悠紀方
の屏風歌を勤め、梅原山、長沢池、玉蔭井とともに小松崎を詠んでいる。
「子ねの日して小松が崎をけふみればはるかに千代の影ぞ浮かべる」
子の日の遊びをして小松が崎を今日みると、はるかに遠く千代までも栄える松の影が
浮かんでいる。というのが、和歌の主旨で、天皇の千代の代を言祝いだ和歌である。
子の日の遊びと言うのは、正月の初の子の日に小松を引き、若葉を摘んだりして、
邪気を避け、長寿を祈った行事である。小松崎と小松引きとが上手く掛けられている。
松を含む地名自体、めでたいとされたのであろう。

また、平安時代後期の歌人としても、似顔絵の先駆者としても著名な藤原隆信も小松崎
を
「風わたるこすえのをとはさひしくてこまつかおきにやとる月影」と詠んでいる。
この和歌には、こまつというところをまかりてみれは、まことにちいさきまつはらおも
しろく
見わたされるに、月いとあかきをなかめいたしてという詞書が記されており、隆信が
実際に小松崎を訪れて詠んだ歌であることが察せられる。
隆信の和歌が小松を訪れて詠んだ和歌ならば,小松に住む人にあてた和歌もあった。
「人のこ松というところに侍りしに、雪のいたうふりふりしかば、つかしし、朝ほらけ
おもひやるかなほどもなくこ松は雪にうづもれぬらむ」
作者の右馬内侍は平安時代中期の歌壇で活躍した女流歌人、小松に近づく雪の季節に
対して、そこに住む友人をおもんばかる気持がよくあらわれている。
小松あたりの冬の厳しさは有名であったと察せられる。

道を少し山側にとると、石燈籠と石の大きな鳥居に導かれ、八幡神社へと入る。
古来より西近江路の交通の要衝としての志賀周辺は様々な道標があった。
そんな中ででも、白髪神社の道標が7つほど現存している。
古来白鬚神社への信仰は厚く、京都から遙か遠い当社まで数多くの都人たちも
参拝した。その人たちを導くための道標が、街道の随所に立てられていた。
現在その存在が確認されているのは、7箇所(すべて大津市)で、建てられた
年代は天保7年、どの道標も表に「白鬚神社大明神」とその下に距離
(土に埋まって見えないものが多い)、左側面に「京都寿永講」の銘、右側面に
建てられた「天保七年」が刻まれている。
二百数十年の歳月を経て、すでに散逸してしまったものもあろうと思われるが、
ここに残されている道標は、すべて地元の方の温かい真心によって今日まで受け
継がれてきたものであり、その最後の道標が南小松八幡神社の参道の手前にある。

八幡神社は、南小松の山手にあり、京都の石清水八幡宮と同じ時代に建てられた。
木村新太郎氏の古文書によれば、六十三代天皇冷泉院の時代に当地の夜民牧右馬大師
と言うものが八幡宮の霊夢を見たとのこと。そのお告げでは「我、機縁によって
この地に棲まんと欲す」と語り、浜辺に珠を埋められる。大師が直ぐに目を覚まし
夢に出た浜辺に向うと大光が現れ、夢のとおり聖像があり、水中に飛び込み引き上げ、
この場所に祠を建てて祀ったのが始まりとされる。祭神は応神天皇、創祀年代は
不明だが、古来、南小松の産土神であり、往古より日吉大神と白鬚大神の両神使が
往復ごとに当社の林中にて休憩したと云われ、当社と日吉・白鬚三神の幽契のある所
と畏敬されている。春の祭礼(四月下旬)には、神輿をお旅所まで担ぎ、野村太鼓
奉納や子供神輿が出る。また、この辺りは野村と呼ばれ、特に自家栽培のお茶が
美味しい。八朔祭(9月1日)が行われ、夜7時ごろからは奉納相撲が開催される。
八幡神社の狛犬は、明治15年に雌(右)、明治 17 年に雄(左)(名工中野甚八作)
が作られ、県下では一番大きいといわれており、体長180センチ弱だが、左右違い、
そのたてがみや大きな眼が印象的だ。また、神社の横を流れる水は裏の念仏山の
湧水を引き入れたもので透明な光となって神社の周辺を流れる。

道は、南小松の集落をあとに国道と合流して北へと進む。
西近江路は、楊梅の滝に水源を持つ滝川を越え、樹下神社の前辺りで国道と
分岐する。右側の狭い旧街道に入る。旧街道には、北小松の集落の家並みが
細長く続き、道の左に溝をとるなど街道の面影をよくとどめている。
この集落の右側には、すぐに琵琶湖に接し、古くから小松津とよばれ、
湖上輸送の船着場として知られる。「堀川後百首」にも「さざなみや
小松にたちて見渡せば、みほの岬に田鶴むれてなく」の歌がある。
そして北小松は水陸の輸送の便に恵まれ、明治13年当時は船63隻
旅籠が七軒もあった。

国道のすぐ横に大きな石碑と石の鳥居が悠然と立っている。北小松の樹下神社である。
湖から続く参道を行くと、境内社には、比較的大きな社務所があり、天滿宮、金比羅宮
、
大髭神社が仲良く一線に鎮座している。本殿の前には石造りの社があり、天保時代の
石燈籠など8基ほどあり、この神社への信仰の篤さを感じる。珍しいのは大きな石を
くり抜いたであろう石棺や緑の縞が明瞭に出ている2メートルほどの守山石。
この地域の石文化の一端が感じられる。湧水も豊富であり、3箇所ほどの湧き口から
は絶えることなくなく流れ、竜神像の口からも出ている。

神社の鳥居を湖へと向い、北小松の集落に入る。ここは、伊藤城跡(小松城跡)
といわれ、集落をめぐる石の水路が城下の面影を見せる。戦国期の土豪である
伊藤氏の館城、平地の城館跡の余韻を残している。現在の北小松集落の中に位置し、
「民部屋敷」「吉兵衛屋敷」「斎兵衛屋敷」と呼ばれる伝承地があるが、
十分な形ではない。集落は湖岸にほど近く、かっては水路が集落内をめぐりこの
城館も直接水運を利用したであろうし、その水路が防御的な役割を演じていた
であろうと思われる。集落を歩くと、幾重にも伸びている溝
や石垣の造りは堅牢で苔生したその姿からは、何百年の時を感じる。旧小松郵便局の前
の道は堀を埋めたもので、その向かいの「吉兵衛屋敷」の道沿いには、土塁の上に欅が
6,7本あったと言われているし、民部屋敷にも前栽の一部になっている土塁の残欠が
あり、モチの木が植えられている。
土塁には門があり、跳ね橋で夜は上げていたと伝えられる。

前述の司馬遼太郎の「街道をゆく」では、
「北小松の家々の軒は低く、紅殻格子が古び、厠の扉までが紅殻が塗られて、その赤は
須田国太郎の色調のようであった。それが粉雪によく映えてこういう漁村がであった
ならばどんなに懐かしいだろうと思った。、、、、私の足元に、溝がある。
水がわずかに流れている。村の中のこの水は堅牢に石囲いされていて、おそらく何百年
経つに相違ないほどに石の面が磨耗していた。石垣や石積みの上手さは、湖西の特徴の
1つである。山の水がわずかな距離を走って湖に落ちる。その水走りの傾斜面に田畑が
広がっているのだが、ところがこの付近の川は眼に見えない。
この村の中の溝を除いては、皆暗渠になっているのである。この地方の言葉では、
この田園の暗渠をショウズヌキという」とある。
いまでも、それらは残っている。

この志賀周辺には、15か所ほどの城跡があるという。半分が山城であり、
あとは昔の村ごとに湖辺近くに建っていたようだ。だが、今はいずれもその影
すら見えない。ほとんどが織田信長の比叡山攻めのときに消えた。交通の要路としての
重要性を示すものだが、北小松と比良の平城跡以外はその残香さえない。

集落の外れには、小松漁港がある。志賀町史では、「北小松、北比良、南比良、和邇の
北浜、中浜、南浜があった。和邇は、天皇神社含め多くの遺跡があり、堅田や坂本と
並んで湖西における重要な浜津であった」とあるが、今も港として残っているのは、
和邇と湖の小松漁港だけだ。
小松漁港も石造りの防波堤や港周辺の様々な造りに石が上手く使われている。

漁港を出て、さらに北へと進むと、左側の比良山系に一筋の滝を見ることが出来る。
この滝は、天文23年(1554年)に足利13代将軍義輝が比良小松に遊んだ時に
「楊梅の滝」と名付けたと伝えられている。「楊梅」とは、高さ十数mにもなる
「ヤマモモ」の木を意味し、山中を堂々と流れ落ちる滝の水柱をその大木にたとえて、
「楊梅の滝」と名付けられたといわれている。この「楊梅の滝」は、県下一の落差
を誇る滝で、雄滝、薬研滝、雌滝の三段に分かれ、落差は雄滝で40m、薬研の滝で
21m、雌滝で15mほどあり、合わせて76mになる。湖上船やJR湖西線の
車窓など遠くからでも眺める事が出来、その遠景は白布を垂れかけたように見える事
から「白布の滝」や「布引の滝」とも呼ばれている。
また、この滝を更に登ったところには、昔氷室があり、冬に切り出した氷を保存
していたとも言われている。
江戸時代の享保19年に編纂された「近江興地志略」には「滝壺5間四方ばかり
滝の辺、岩に苔生じ小松繁茂し、甚だ壮観なり」とあり、滝の状況を記すとともに、
比良山系のなかでも景勝地の1つであった事を示している。
揚梅の滝への道は、北小松の集落の外れが登り口になっている。
その道筋に楊梅滝道の道標があるが、それには児童文学者の巌谷小波の
「涼しやひとあしごとに滝の音」の句が刻まれている。

鎌倉時代以降になると、京都と東国を往還する人々も多くなってくる。
京都の公家たちも、鎌倉幕府の要請やみずから鎌倉幕府との人脈を求めて
鎌倉へ下向していった。
また、東国への旅が一般化すると、諸国の大寺社や歌枕を実際に見聞しに行く
者たちも増えていった。
「宋雅道すがらの記」を記した飛鳥井雅縁もそんな一人である。宋雅とは出家後の
号、飛鳥井家は和歌,蹴鞠の家として知られ、家祖雅経の頃から幕府、武家との
関係が親密であり、雅縁も足利義満の信任が非常に厚かった。そんな雅縁が
越前国気比大社参詣に出立したのが、応永三十四年2月23日、70歳の時である。
実は、この紀行文も旅から帰った後、将軍義教より旅で詠んだ和歌があるだろと
まとめの要請があって記したものである。旅の路順は湖西を船で進んでいたようで、
日吉大社を遥拝し、堅田を過ぎて、真野の浦、湖上より伊吹山を眺め、比良の宿に
宿泊している。そこで、
比良の海やわか年浪の七十を八十のみなとにかけて見る哉
と自分の年齢をかけた和歌を詠んでいる。翌日は小松を通っている。小松の松原を
目の当たりにして、

小松と言う所を見れば名にたちてまことにはるかなる松原あり
我が身今老木なりとも小松原ことの葉かはす友とたに見よ

同じく長寿を保つ松原に呼びかけるような和歌である。次は、白鬚、ここでも、
神の名もけふしらひけの宮柱立よる老の浪をたすけよ

と、長寿をまもるという白鬚神社に自分の老いを託している。そして、竹生島を
船上より眺め、今津、海津、そこから山道をとって、29日には気比大社
に詣で、参籠して3月17日に帰京している。
将軍などの見聞旅行に随行の記録もある。
冷泉為広が細川政元の諸国名所巡検の同行記録では、
出立は延徳3年京を山中越えで坂本へ、比叡辻宝泉寺に宿泊。翌日は船に乗り
湖上を行った。東に鏡山、三上山、西に比良山,和邇崎を見ながらの通航
であった。そして、船中であるが和邇で昼の休みを取っている。
次に映ったのが、比良あたりの松である。
ヒラノ流松宿あり向天神ヤウカウトテ松原中に葉白き松二本アリ
「向天神」とは現在も北比良に鎮座する天満神社のことであろう。「ヤウカウ」は
影向で、「近江国與地志略」などにいう、社建立の際に生じたという神体的な要素
を持つ松のことである。

また、小松のところでは、「コノ所ニワウハイノ瀧ト伝瀧アリ、麓に天神マシマス」
として「ワウハイ、楊梅瀧」について記している。
コノ瀧については、「近江国與地志略」でも、
・楊梅瀧  小松山にあり、小松山はその高さ4町半あり。瀧は山の八分より流る。
瀧つぼ五間四方許、たきはば上にて三間、中にては四間,下にては亦三間ばかり、
この瀧、長さ二十間、はばは三間許、水は西の方より流れて東へ出、曲折して
南へ落、白布を引きがごとし、故にあるひは布引の瀧といふ。瀧の辺り,岩に
苔生じ,小松繁茂し、甚だ壮観なり。
とみえ、近世には名所となっていたことがわかるが、冷泉為広の時代にもすでに
注目に値する名勝であったらしいことがうかがえる。そして、一向は湖上の旅
を続け陸路で敦賀,武生と進み、越中,越後をめぐり4月28日に京都へ帰っている。

北小松には、柴刈の時に唄う囃し歌がある。
昔は、柴と米とは生活するのに一番大切なもので、「米炭の資」と言って生活に
大切なものと言う喩えもあった。
「柴刈りうた」
山へ行くならわし誘とくれ
山はよいとこ気が晴れて
涼みむき上げて花一越えて
どんどと下がれば畑の小場
大滝小滝は唄で越す
どんどと下がればしたえ松
したえ松からかきの小場までも
まだも待つのか弁当箱

さらに、少し山側にそれると、徳勝寺(大津市北小松)の境内に咲く枝垂桜があり、
種徳禅寺は「弘法大師堂」は安産祈願を司り、庭園は、大きな坐禅台があり、
枯れ池と大きな石橋、池端の雪見灯篭、小ぶりの山灯篭が配置されている。
琵琶湖の景観が素晴らしい。

小松漁港を通り過ぎると再び国道と合流する。この付近から比良山地と湖が
接近している。
道は湖の際を通り、やがて志賀町と高島町の境をなす鵜川にさしかかる。
このあたりは、かって鵜を使っていたところから川名と旧村名のその名が
ついたといわれている。

とりあえず、旧志賀町まで進めた。

2016年11月15日火曜日

秋の日、城跡を歩く

この志賀周辺には、15か所ほどの城跡があるという。半分が山城であり、
あとは昔の村ごとに湖辺近くに建っていたようだ。だが、今はいずれもその影
すら見えない。ほとんどが織田信長の比叡山攻めのときに消えた。
城跡歩きはなぜか秋の終わりから冬近くまでが似合う。秋の持つ侘しさと城
としての滅び消えた時の流れが心に同期するからなのだろう。
北小松と比良の平城跡をめぐるが、わずかな残滓が見られるだけであった。

まさにこれは「春 望  <杜 甫>」の世界かもしれない。
國破れて 山河在り 城春にして 草木深し
時に感じて 花にも涙を濺ぎ 別れを恨んで 鳥にも心を驚かす
峰火 三月に連なり 家書 萬金に抵る
白頭掻いて 更に短かし 渾べて簪に(すべてしんに)勝えざらんと欲す

戦乱によって都長安は破壊しつくされたが、大自然の山や河は依然として変わらず、
町は春を迎えて、草木が生い茂っている。時世のありさまに悲しみを感じて、
(平和な時は楽しむべき)花を見ても涙を流し、家族との別れをつらく思っては、
(心をなぐさめてくれる)鳥の鳴き声を聞いてさえ、はっとして心が傷むのである。
うちつづく戦いののろしは三か月の長きにわたり、家族からの音信もとだえ、
たまに来る便りは万金にも相当するほどに貴重なものに思われる。
心労のため白髪になった頭を掻けば一層薄くなり、まったく冠を止める簪(かんざし)
もさすことができないほどである。

北小松の集落は、伊藤城(小松城跡)があったとされ、その石の水路の
織り成す城下の面影が残っている。細い国道を少し湖側に入り込むと、
白壁と大きな松にかたどられた瓦屋根の家々がその姿をとどめている。
戦国期の土豪である伊藤氏の館城、平地の城館があった。
北小松集落の中に位置し、「民部屋敷」「吉兵衛屋敷」「斎兵衛屋敷」
と呼ばれる伝承地があるが、多くはただの空き地と往年の面影さえ残っていない。
湖岸にほど近く、かっては水路が集落内をめぐりこの城館も直接水運を
利用したであろうし、その水路が防御的な役割を演じていたであろう。
街は静かに秋の陽に照りかえっていた。この足音さえ、幾重にも伸びている
溝や石垣の堅牢な造りと苔生したその中に吸い込まれていくようだ。
何百年の時を感じる、そんな小景が彼の眼に映り込む。

苔むした川は、三面水路で造られ、春ともなると小鮎がいくつ
もの群を作り遊びに興じており、石畳の道、そこにも黄緑色の苔
が顔を見せている。すでに人気を感じない「かわと」がひょこりと
叢の枯れた部分から顔を見せる。少し前まで、家の中に比良の
湧き水が川となりその川の水を引き込み生活用水として利用していた。
山からの湧水が小川となり、それがこの街を幾重にも重なりつながり
ながら静かな水の流れを作り上げてもいる。彼方此方にその残滓は
残っているが、多くは数段の石積みが川に延びた状態で、今は
ほとんど使われていないようだ。水はこの地の案内役だ。
水の流れに沿って歩けば、家々の間に透かすかのように顔を出す湖の碧さと
白地の強い砂浜がある。白壁にやや色の褪せた板塀の家の横を、少し行けば
やがて小松漁港に出る。まだそこには石造りの防波堤や港周辺の様々な造り
に石が上手く使われて、苔むした石垣は時代の長さを感じさせる。
かってはこの地が水運の街であったことをそれとなく教えてくれる。
白く広がる砂と青く光る湖を先にたどれば、薄雲の中に沖ノ島が卵を半分に
来たような形で浮いていた。
彼はそこで頬に風を感じるが、思えば、1人の人とも会わなかった。
始めてそれに気づく自分がいた。

山城や砦あるいは平地の館城跡など、滋賀県下の城郭総数はおよさ1300箇所
にも上るいうが、彦根城や大溝城あるいは膳所城など、近世城郭として確立した
遺跡は数箇所にすぎず、大多数の城郭が中世後期の室町時代の後半から戦国期
にかけて築かれたことが知られている。
この伊藤氏の城もそうであり、少し足を延ばした比良でもその盛衰は同じような
モノであろう。
この築城の歴史は、応仁の乱辺りから本格化し、元亀天正年間頃(1570~92)
に終息するころから、15世紀後半から16世紀後半までの100有余年の短い
期間に築かれたものであることが分かる。
城郭遺構とは、四周に土塁や堀、帯郭あるいは犬走りなどを設けて、戦闘に
備え防御する施設である。通常さらに外回りを、堀切や竪堀あるいは切り岸や石垣
時には武者隠しなどによっていっそう堅固なものにしている。現況からはほとんど
土からなる城と思われているが、今は朽ちて認め難い板塀や竹矢来、あるいは
木梯子や木樋、竹樋さらには小屋や櫓や屋敷などの多様な建築物があったに違いない。
城の出入口である木戸も、次第に虎口として複雑な構造をとるようになった。
だが、この地域の城跡はそのような構造を確認できるものは残っていない。

比良の山端を右に見て、西近江路を南へ下ると、湖岸に田中坊城(北比良城、
福田寺城)が館城として存在し、平地には西近江路に面して同じく比良城が館城
としてあったという。湖岸近くに館城である南比良城があり、その詰城として
野々口山城があり、両者の間は約2キロほど離れていた。比良城ー田中坊城ー
南比良城はほぼ一直線上にあったと言われるから、連動して戦に備えていた
のであろう。
さらに下がれば、西近江路に面して木戸城や荒川城が平地館城となって、山端
に作られていたという歓喜寺城がこれらの詰城であった。
その築城は、大規模な土塁を削り出し方法で屋敷を城塞化した時期であり、1520
年頃から起きた足利氏、佐々木六角氏、伊庭氏などの抗争の激化に対応した。
時代が進み、浅井氏や信長の侵攻が活発化し、1540年代以降は本格的な山城
の築城と合わせた平地館城との連携をしていたという。
だが、山城も平地館城も、時の流れの中で、すべてが自然に帰っている。

もっとも、山城は、中々に行けない。今回は、比良城周辺の残滓を少し見たかった。
比良城は北比良の森前に存在したと伝えられる。湖西地域を南北にはしる西近江路
がこの場所で折れ曲がっている。街道を挟み、樹下神社が隣接している。
大きな石の鳥居の奥では、黒さの増したブナの木に囲まれた本殿が佇んいた。
その姿は、周辺の神社と変わらない。すでに朽ち果てた城の面影を思い描こうとする
が、明確な形となって現れてこない。それは、昔の友を呼び起こそうとするが、
かすみの中に茫洋とした形が見えるのと変わらない。ただ、古老にもこの場所に
城があったとの伝承が残っているという。北比良村誌によると「元亀二辛未年
九月織田信長公延暦寺を焼滅の挙木村の山上山下に之ある全寺の別院より兵火
蔓延して」とあり、この時期他の城郭と同様破滅したしたものであろう。
比良には、比良城、南比良城、北比良城があったとされる。
南比良城は、家並みの先に見える瓦屋根の下にあろう本立寺より数100メートル
西北西とされるが特定できていない。樹下神社天満宮からまっすぐ琵琶湖へ
と伸びている道路を行くと、左手に白壁に囲まれた福田寺がみえた。
小ぶりの門をくぐり、石畳の境内を進むと、本堂の横に城跡の石碑が建っていた。
それ以外何もない、寂しいきもちで寺を去る。



ーーーー

これらの城郭遺構を構造的、機能的に類型化していく。
南北に細長い比良山麓での、民衆の日常における生業活動は、水系を軸にして
河川ごとにまとまっている。この視点で城郭群をみると、やはり湖岸、平地、
山麓、山頂と一直線上にまとまりを示している。これを町域の北から
地域区分によって示すと以下のようになる。
1)地域1
湖岸に複郭式の平地館城である伊藤氏城が営まれていた。そしてこれと対に、
背後の山上に涼峠山城が築かれる。この山城の位置は、小松から高島の背後を
経て朽木方面へ通じる山道に面する。なお、両城郭の間は山そでが迫って
平地はなく、伊藤氏城のごく背後山中には城郭はない。このような伊藤氏城
(小松城、湖岸)-涼峠山城の関係をもって小松地域を設定する事が可能である。
2)地域2
湖岸に田中坊城(北比良城、福田寺城)が館城として存在し、平地には西近江路
に面して同じく比良城が館城としてある。この地域では背後の山城はないが
二つの平地館城の対の役目のような形で、ダンダ坊城がある。
ここに山寺城ー里坊城の関係が見出される。
3)地域3
湖岸近くに館城である南比良城があり、その詰城として野々口山城がある。
両者の間は約2キロである。ただ比良城ー田中坊城ー南比良城はほぼ
一直線上にあり、野々口山城、歓喜寺山城ー歓喜寺城が扇形となって
展開していた事もありうる。
4)地域4
旧北国街道に面する木戸城もしくは荒川城が平地館城となり、歓喜寺城がこれらの
詰城である。木戸城を扇の要にして、背後の南北位置に歓喜寺山城と木戸山城
を配置して展開したとも考えられる。また、木戸城は木戸十乗坊の城と言う
伝承もある。
5)地域5
湖岸の木戸城と詰城の木戸山城と対と考えられる。

町域南部では、その城郭群の構成が不明であるが、南部では木戸川と比良川の
間に10城が密集しているが、比良川から鵜川までには2城しかなくかなりの
不均等さを見せる。
その理由として以下の点が考えられる。
①平地の館城と背後の詰城といった戦国期の単純な構成をとらず、両城郭の間の
山麓付け根に館城を構築する事。これらは比良の大規模山岳寺院に隣接して
平地館城を元に山容あわせた山寺城とした。
②山岳寺院内の館城と対をなす詰城が背後の山頂部に築城されている。
歓喜寺山城や野々口山城に見られる。これは他の地域では見られない特質である。
③比良山麓付け根に築かれていた山岳寺院が平地や湖岸に寺坊を移し、肥大化
変質する寺院経済の運営に利便を図った。田中坊城がそれである。
④主戦場となる歴史的な経緯があり、それへの対処として行われた。
⑤各城郭の築造が幾つかの時期に行われたため、多くの城郭が造られた。

城築城の年代は白の出入り口の虎口の構造の複雑さと土塁の完成度によるとされる。
さらに築城の契機により本町域の勢力分布も推定が可能となる。
この点から北小松の伊藤氏の勢力は増して来たことが考えられる。
複郭式の館城群を営み、北小松の港を抱え湖上交通の掌握、さらに比良山麓から
朽木方面への山路の監視などからそれがうかがえる。
なお、城郭機構の特徴から本町域での城郭は二期に別れて発達したと思われる。
第1期は大規模な土塁を削り出し方法で屋敷を城塞化した時期であり、1520
年頃から起きた足利氏、佐々木六角氏、伊庭氏などの抗争の激化に対応した。
第2期は浅井氏や信長の侵攻が活発化し、本格的な山城の築城と合わせた
平地館城との連携が必要となった1540年代以降である。


①寒風峠の遺構(北小松、山腹にあり、現在林)
②涼峠山城(北小松、山腹、林)
③伊藤氏城または小松城(北小松、平地、宅地や田、堀切土塁あり)
④ダンダ坊城(北比良、山腹、林)
⑤田中坊城(北比良、湖岸、福田寺)
⑥比良城(比良、平地、宅地)
⑦南比良城(南比良、湖岸、宅地)
⑧野々口山城(南比良、山頂、林)
⑨歓喜寺城(大物、山腹、林)
⑩歓喜寺山城(大物、尾根、林)
⑪荒川城(荒川、平地、宅地や墓地)
⑫木戸城(木戸、湖岸、宅地)
⑬木戸山城、城尾山城とも言う(木戸、尾根、林)
⑭栗原城(栗原、不明、宅地)
⑮高城(和邇、不明、宅地)


志賀町史第4巻からは、
1)小松城跡
戦国期の土豪である伊藤氏の館城、平地の城館跡である。現在の北小松集落の中
に位置し、「民部屋敷」「吉兵衛屋敷」「斎兵衛屋敷」と呼ばれる伝承地が残る。
当該地は町内でも最北端の集落で、湖岸にほど近く、かっては水路が集落内をめぐり
この城館も直接水運を利用したであろうし、その水路が防御的な役割を演じて
いたであろう。
旧小松郵便局の前の道は堀を埋めたもので、その向かいの「吉兵衛屋敷」の道沿い
には、土塁の上に欅が6,7本あったと言う。また、民部屋敷にも、前栽の一部に
なっている土塁の残欠があり、モチの木が植えられている。土塁には門があり、
跳ね橋で夜は上げていたと伝えられる。

2)比良城跡
比良城は北比良の森前に存在したと伝えられる。湖西地域を南北にはしる北国街道
がこの場所で折れ曲がっている。街道を挟み、樹下神社が隣接している。在所の
古老にもこの場所に城があったとの伝承が残っている。北比良村誌によると
「元亀二辛未年九月織田信長公延暦寺を焼滅の挙木村の山上山下に之ある全寺の別院
より兵火蔓延して」とあり、この時期他の城郭と同様破滅したしたものであろう。
比良には、比良城、南比良城、北比良城があったとされる。
南比良城は、本立寺より数100メートル西北西とされるが特定できていない。
北比良城は、比良樹下神社天満宮から湖側に進んだ福田寺にあったとされ、
境内には城跡の石碑が建っている。詳細は不明。

3)歓喜寺城跡
大物の集落より西の比良山の山中に天台宗の古刹天寧山歓喜寺跡がある。今では
そこに薬師堂だけが残り、わずかに往時ここが寺であった事を偲ばせる。
歓喜寺城は比良山麓に営まれた比良三千坊の1つである天寧山歓喜寺跡の前面
尾根筋上に営まれた「土塁持ち結合型」平地城館である。
この遺構は三条のとてつもなく大きい深い堀切によって形成され、北側の中心主郭
はきり残された土塁を基に四周を囲郭し、この内側裾部や内側法面に石垣積みが
認められる南側の郭は北に低い土塁が残り、近世になって修復、改造がなされた
と思われる。また、背後、前面の歓喜寺山に山城が築かれており、L字状の土塁や
北東を除く三方には掘り切りなどが認められる。

4)荒川城跡
荒川城は荒川の城之本と言うところにあったとされる。この城に関しての
文献資料はほとんど見当たらないが、絵図が残っており、それには城之本の地域の中に
古城跡と書かれている。また、ここの城主が木戸十乗坊という記録があり、
同氏は木戸城の城主でもあり、木戸城の確定とともに確認をする必要がある。

5)木戸山城跡
現在の木戸センターより西北西の比良山中腹の尾根部分にあったとされる。この地域は
古くから大川谷に沿って西に向かい、木戸峠より葛川の木戸口や坊村にいたる木戸
越えの道が通る。このため、この城の役目は木戸越えの道の確保であったとも推測され
る。城としては、堀切りを設け、東を除く三方に土塁を築いていた。
しかし、この城も「元亀三年信長滅ぼす、諸氏山中に隠れる」とあり、その時に
破壊されたのかもしれない。



滋賀県中世城郭分布調査報告書9にも記述あり。


だが、街を囲むように続いている散歩道から一歩山側に足を向ければ、そこは
まだ人の影が見えない世界である。鬱蒼たる笹の葉におおわれた地面に
いくつもの気が寄り添い、多くのつる草を身にまとい、薄暗き別の世界を
世界を作り出している。
比良山麓といっても、様々な木々が育ち、群れを成している。
多く見られるのは、いま彼の行く手にも多く見られるブナの木々である。
絶えず緑のマントを着るか如く四季を通じてその葉は落ちない。
高さ10メートルほどのもので、太さも1メートルもある樹がミズナラや
アシウスギとともに一面を支配している。それにかしづくような形で、ツツジ
系草花のイブキザサ、アクシバイワカガミなどが入り乱れるように我が身を
見せ、コアアジサイ、クロモジ、タンナサワフタギが地表を埋め尽くしている。
少し目を上げれば、渓谷斜面にはフサザクラ、チドリノキ、トチノキ、
ミズキなどの落葉樹の群れが湿生林を形作っている。

当然彼を含め多くの人がこれらの名前を知っているとは思えないが、その
様相から人の顔かたちの違いと同じ様なものと思っているのであろうか、
時になくオオルリのポピーリ、ピーリ、ピースと啼く声にあわせ、薄明るさの
中に立ちこめる木々の姿を見ている。
今、彼が進む中は、覆いかぶさるように茂るカエデやクスノキ、コナラなどが
支配する世界であり、ヤマドリゼンマイやシモツケソウ、トキソウが時には
小さなピンクの花をつけ地面近くを支配していた。
その世界を切り裂く様に、一直線に土と小石のある山道が奥へと伸びている。
そんな世界をかき分け、まだ残る陽射しを強さを感じながら、彼は道の水溜りを
気にしながら歩いている。時に近寄る秋の気配を、その空気、その風、
木々の小枝のさざめき、通り過ぎるヤマガラ、シジュウカラのさえずり、
から感じつつ、比良山に向かうが形で進んでいた。

このような山道を歩くのは、初めてかもしれないが、彼の遠くおぼろげな
記憶の中には、なぜか懐かしさのような感情が伴っていた。
遠くからアオゲラのキョッ、キョッと甲高い鳴き声がチャトたちを後押しする
かのように聞こえてくる。時折、その方向に目を向けるが、その姿は確認
出来ない。やがて、それらの音をかき消すかのように力強い水音が木々の間から
聞こえてくる。山道が厚い茂みに消されたような場所を右に曲がったときに
それは見えた。両側から笹が、その黄緑の葉を茂らしている真ん中を銀色に
光る水が勢いよく走っていた。少し上の苔に覆われた石には、ミソサザイが
チリチリチリという震え声で啼いている。笹の間をぬうようにして、1つ要領の
分からない彼は笹の葉をかき分けるように進んでいく。

小さな雲の塊があたりにいくつもの陰を落としながら走りすぎていく。
かなたの山麓に指す光はすすけている。強い陽射しののせいではなく、
前方に横たわる拾い空間のせいだ。彼は頭の中で、深い緑に取り込まれた人の
姿と、そして、その中間にあるはずの様々な人やものに想いをはせた。
彼の知らない、だから、想像するしかないたくさんのものを思い描いた。
道路、畑、森、街そして、隣人も含む大勢の人びと。その全てがつながっている
と思った。ジックリと考える必要など毛頭ない。理由をつける必要もない。
ふと止めたその先には、木洩れ日にその光りを映えるように水面を見せている
渓流の淀みがあった。それは池と言うには大きすぎるが、周りの木々と
斜めに差し込む光の中で映える水面はさざなみ一つなく鏡のような表を見せ、
湿潤な場所に咲くオオイタヤメイゲツの木々とともに、斜めにさす光りがスポット
ライトの様に水面を照らし、緑と水の舞台を作り上げている様でもある。





二十四節気「処暑(しょしょ)」

・綿柎開(わたのはなしべひらく)8月23日頃
綿を包むガクが開き始める頃。綿の実がはじけ白いふわふわが顔をのぞかせた様子。
→すだち、綿花。かさご。
・天地始粛(てんちはじめてさむし)8月28日頃
天地の暑さがようやくおさまり始める頃。「粛」は縮む、しずまるという意味です。
野分のわき。
→ぶどう。ぐち。
・禾乃登(こくものすなわちみのる)9月2日頃
いよいよ稲が実り、穂を垂らす頃。「禾」は稲穂が実ったところを表した象形文字。
→無花果いちじく、きんえのころ。まつむし。鰯。

二十四節気「白露(はくろ)」

・草露白(くさのつゆしろし)9月7日頃
草に降りた露が白く光って見える頃。朝夕の涼しさが際立ってきます。
→秋の七草(萩、すすき、葛、なでしこ、おみなえし、藤袴、桔梗)。島鯵。
秋の野に咲きたる花を指および折り かき数ふれば七種ななくさの花 山上憶良
・鶺鴒鳴(せきれいなく)9月12日頃
せきれいが鳴き始める頃。せきれいは日本神話にも登場し、別名は「恋教え鳥」。
→梨、オシロイバナ(夕化粧ともいう)。あわび。鶺鴒せきれい チチィとなく。
・玄鳥去(つばめさる)9月17日頃
燕が子育てを終え、南へ帰っていく頃。来春までしばしのお別れです。
→鶏頭、なす。昆布。


俳句 秋
風雲や時雨をくばる比良おもて  大草
夕焼けの比良を見やりつ柿赤し  惣之助
楊梅の瀧見失う船の秋      虚子
有明や比良の高根も霧の海    白堂
名月やひそかに寒き比良が嶺   歌童

和歌  秋
・ち早ふる比良の御山のもみぢ葉に
 ゆうかけわたすけさの白雲    安法
・宿りするひらの都の仮庵に
 尾花みだれて秋風ぞ吹く     光俊朝臣
・小浪や比良の高嶺の山おろしに
 紅葉を海の物となしたる     刑部卿範

2016年10月19日水曜日

霜降の里山

時の移ろいは早いものだ。
ほんの30年前までは岸で洗濯をしたり、野菜を洗ったりしたもので、
湖というのは、地元のものにとってはそれこそ家の一部、生きていく上
での仲間だといってもいいほど親しみのある存在だった。
ところが、人は便利と効率を求めて、家と湖とのあいだに幅の広い舗装
道路を作った。遠浅の砂浜はほかからもってきた土砂で埋められ、岸辺は
コンクリートで固められてしまった。そのことによって、湖と人々の間に
深い溝が出来てしまった。別に工事によって岸辺が何キロも、離れて
しまったわけではない。距離で言うと、たった数10メートルほど湖から
離れただけだ。それなのに、湖岸に住んでいた私たちは、湖が全く手の届かない
ところへ行ってしまったような寂しい気持ちになってしまった。
日常的に体を支配してきた波のさざめきを失った私たちは、不安でさえあった。
人の心のなかに溶け込んだ潤沢な湖は、日常から離れ、人の心根からも
遠くなり、早くも昔の語り草のような存在となった。洗濯や野菜を洗うために
湖に突き出しておかれた「橋板」もほとんど姿を消した。そこで交わされた
会話に代わり今は寄せる波の小さなさざめきのみとなった。

比良の地域でも、この地域の木戸石や守山石の産出とともに山で枯れ木と
なった枝を取り出しそれらを燃料として船で周辺に積みだしていた。
その割り木はお風呂をたくときや生活燃料としてよく使われていた。
何処の家の子たちも、そのころ、釜に割り木を入れる仕事をさせられた。
黄昏のほの暗い庭と、深い紺色をした空、そして、油煙という黒い煤と、
香ばしい割り木の香りをはっきりと覚えているだろう。
このとき、大津の家々は、割り木をまとめて買っていた。毎年秋の終わり
になるころ、何百、いや何千束という割り木を大型トラックに積んで行商
のおやじがもってきたという。
割り木はすべてクヌギやコナラだった。
湖近くの古老は思い出すように眼を閉じ話すのだった。
私もまた、眼を閉じて昔の湊風景を想像してみた。
木の桟橋がいくつも張り出した静かな港に、丸子舟が何艘モ停泊しており、長い
桟橋を人々がせわしなく行き来している。湖岸の際まで続く畑や水田にも人の姿
があり、黄緑色をしたセキショウモがなびく小川が音を立てて湖に流れ込んでいる。
その風景のそこここに、木造りの「にう」が狐色の屋根を光らせている。
採られた割り木は藁で屋根を作ったこの「にう」の中にびっしりと並び、
しばらく乾燥されてから丸子舟であちこちに運ばれた。
湖の周辺の街で子供のころから親しんできた木の木片がこのような形で運ばれていた。
初めて知った心持だった。割り木は、帆を張って揺れる丸子舟に身を任せ、
青く澄んだ湖面を旅していたのだ。だが、そのような雑木林の最盛時代は、
生活の進化で様々な燃料が世に出始めると終わった。しかしながら、その数は
減ったもの、昭和30年代まで割り木の積み出しは行われたという


浜から30分ほど歩けば、旧家が寄り添うように若い杉木立の中に建っている。
そのなかのほそい道は、なかなか風情があっていい。白い土壁の蔵や苔むした石積み、
四方にささやかな水音を残して流れる小川が見える。そのどれもに歴史が感じられる。
道の角ごとにお地蔵さんがあったり、祭壇に花が生けられていたりするのもいい。
生け花は、旧家の庭に生えているものばかりで心が和む。黄色い菊の花が緑の中に
2差しほど見える。これらのあつい信仰もまた、長い歴史の中で確実に
生き続けてきた。
ほおかぶりのお婆さんが腰をかがめながら、野菊とズイキの太い幹を
だきかかえるようにして歩いてきた。ズイキは干していろいろに使える。
細身にまかれた巻き寿司は秋の匂いがして美味しい。
ちらりと彼を見て、そのしわくちゃな顔を緩めながら小藪の先へと消えた。
その道すがらに大きな柿の木があった。紅く熟れた実が青空にちりばめられたように
黒い枝から四方に広がっている。この実も1つの歴史を見せる。
初夏、白黄色のやや地味な4つの花弁が艶やかな緑の葉の中に彩り、
縁先や庭にこぼれ落ちる。日増しに強くなる陽ざしとともに葉が広がり始め、やがて
実がふくらみはじめると葉が黄色へと色づき、一夜、疾風が過ぎ去ると大半の黄色が散り、
あとには赤だけが蒼空を彩る。
野仏に菊の黄色が映え、さらには赤や緑が加わり甘い香りが満ちると、集落は一段と
秋らしくなっていく。

人家の外れの畑で紫苑の花を見つけた。まだ咲いていた、そんな驚きがあった。
薄紫と黄色の可憐な花、細くしなやかな茎とともにたおやかな風を誘う。
幾匹かの蝶が舞っては止まり、翅をゆっくりと開閉させている。黒褐色の地に
紅色と白斑、何ともシックなアカタテハと言う蝶である。この蝶は、夏場は
もっぱら雑木林にこもって樹液ばかり吸っているが、秋になると花の蜜を
もとめて日当たりのよい所に出てくる。翅は新鮮で傷1つ無いので、今日の朝
羽化したのだろう。もう2,3週間もすれば、冷たい北風が吹いてくるというのに、
なんというのんびり屋の蝶なのだろう。そのとき、アカタテハは、親の姿
のままで冬を越して、春になって卵を産み始めるらしい。
栄養ををたくわえて、過酷な季節に挑むこの蝶にとって、今はこの蝶には、
残された最後の時なのでろう。優雅さの中に必死さが放たれていた。

さらに、あぜ道を上っていくと、秋の匂いが漂ってきた。
見ると、数人の農家の人が薄く映える煙の中に見えた。土手を焼いているのだった。
草が焼ける匂いと刈り上げた稲の藁積みの匂いは、体をリラックスせてくれる。
遠い昔無邪気にその日を過ごした安寧の気持ちが湧いてくるからだろうか、
眼を閉じて香ばしい香りを吸い込むと、体の中の緊張感が急に溶けてしまう
ようである。何千年もの遠い昔に森を開き、鍬を振るって田や畑を作ってきた
気の遠くなるような時間と労働の蓄積がそこにある。草の焼ける匂いは、
自然の力に負けぬように頑張ってきた人の汗の匂いと人としての生業の姿を
思い起こさせるのかもしれない。彼の妻も昔街中で落ち葉を焼いているのを
見ながら、その煙りにしばし立ち止まってその匂いを楽しんだそうだ。
赤い炎が土手の上を走り、枯草を黒い炭に変身させ、その上を白い煙がゆっくりと
たちのぼっていく。少し赤みの増した光を浴びて刻々と白さを増す香りの渦は、
大気の中に静かに浸透していく。

紅に燃え始めた空を背に、あぜ道を歩く。夕刻の時が刻まれるにつれて、
土手や刈田の草の茂みから虫の鳴き声が聞こえはじめる。
シリシリシリシリシリ、ササキリの細かい声が闇に沈んでいくと、
今度はジーンジーンという脳の髄にしみるようなウマオイムシの声。
それと同時に、チンチロチンチロチンチロリンというマツムシ、
ガチャガチャというクツワムシ、ルルルルルルルという連続の
カンタンなど、一斉に翅をふるわせはじめる。
秋は虫たちもうれしそうだ。ススキの穂がその音に合すかのようにゆらりと揺れている。

歩きながら昔聞いた童謡が心に流れてきた。
「あれ松虫が 鳴いている ちんちろ ちんちろ ちんちろりん
あれ鈴虫も 鳴き出した  りんりんりんりん りいんりん
秋の夜長を 鳴き通す
ああおもしろい 虫のこえ

きりきりきりきり こおろぎや
がちゃがちゃ がちゃがちゃ くつわ虫
あとから馬おい おいついて
ちょんちょんちょんちょん すいっちょん
秋の夜長を 鳴き通す
ああおもしろい 虫のこえ」

いつの間にか口ずさむ彼がいた。

比良の山並みを仰ぐと、赤や黄色に染まりはじめた落葉樹の森と、深い緑が
色褪せない杉の林をぬうようにして、里まで続いている。山頂にある緑はそこはブナ
の林かもしれない。人里より紅葉が進んでいるに違いないが、まだ多くの緑
が支配している。そこは、雨が山の背をさかいにわかれていく分水嶺であり、
尾根道の東側からの紺青の湖面を見渡せる情景と幾重にも重なる山の頂が遠望
出来る西側の景色とでは、全く趣が違う。天から降り落ちてくる水たちが、
山に沁み込んで森を育み、沢が出来るはじまりの場所出もあり、豊かな湧き水の
源でもある。ここは水を生み、育てる場所でもあるのだ。数は減ったものの、
ホンモロコやビワマス、手長エビが捕れ、9月ごろのホンもロコは「秋モロコ」
と言われ、美味しい。手長エビは料亭でも一品料理として出されたり、添え物として
珍重される。四季を通じた湖魚の味は清涼感を含み、舌の上で踊る。
昭和時代になっても砂浜では地引網の漁がおこなわれ、子供たちの声も響いていたという。

ふと、先日食べた料理グループの作った料理が浮かんできた。
今回は秋の収穫物が満載だった。落花生、カボチャ、ズイキ、アズキ、
ダイズ、シソ、もち米、等々すべて地元産。緑、黄色、褐色様々な彩が
テーブルに並び、野の香りを放っている。目まぐるしく立ち働く料理会の
メンバーの手で、それらが、落花生しょうゆおこわ、カボチャ羊羹、
干しズイキの巻き寿司、鶏つくねバーグ、なかよし豆、シソの実つくだ煮、
ズイキのすみそ和え、カボチャスープ、きゅうりの贅沢煮、に変身する。
さらには前日作ったという自家製パンもあった。特に落花生おこわは
秋の味がじっくりと口の中を支配し、しばしの幸せに包まれた。
その時の櫛を梳いた雲と比良の山並みのまだ深い緑が思い出された

2016年10月8日土曜日

寒露の里山風情

二十四節気「寒露(かんろ)」


今は、寒露(かんろ)のころ、定気法では太陽黄経が195度のときで10月8日ごろ。
期間としての意味もあり、この日から、次の節気の霜降前日までである。
露が冷気によって凍りそうになるころなのだ。雁などの冬鳥が渡ってきて、
菊が咲き始め、こおろぎなどが鳴き始めるころ。「暦便覧」では、
「陰寒の気に合つて露結び凝らんとすれば也」と説明している。
七十二候に言う。
・鴻雁来(こうがんきたる)10月8日頃
雁が渡ってくる頃。清明の時期に北へ帰っていった雁たちが、再びやってくる。
・菊花開(きくのはなひらく)10月13日頃
菊の花が咲き始める頃。旧暦では重陽の節供の時期で菊で長寿を祈願する。
・蟋蟀在戸(きりぎりすとにあり)10月18日頃
戸口で秋の虫が鳴く頃。昔は「こおろぎ」を「きりぎりす」と呼んだそうだ。

日が落ちるのも早くなり、風が冷たくなる頃。夕暮れに聞く虫の声も次第に
色を帯びてくる。チリリリリリリ・・・とヒゲシロスズの声、これは昼間も聞こえた。
リー 、リー 、リーと鈴虫の声、コロコロコロ、コロ、コロ、コロとそれは
エンマコオロギ。チッ、 チリリッと鳴くのはマツムシ。
比良の稜線も赤く描いていたが、すでに黒い薄墨の線となってこの里山も暗闇に
包まれはじめる。夕日に変わり、家々の灯が琵琶湖へと伸びている。
だが、猫我が家の達が一番輝くのがこの季節でもある。
夏の暑さにその精力を抜かれた猫、冬と春の寒さの中で眠り呆けてきた緊張力
の著しく欠けた猫、それぞれ猫としての美しさが発揮できない季節である。
秋は食べ物の美味しさと適温、清清しさの満ちた空気が否が応でも、猫たちに
その輝きを与えるのだ。我が家でも、毛並みが落ち歳を全面に感じさせている
19歳のナナでも身体全体から発する力が若い猫の如き輝きを見せている。

我が家のポーチには、リクラインの椅子がある。肘掛のところのニスは剥げ、
やや疲れきった風貌であるが、我が家の全員が愛する椅子でもある。四季を
感じつつ、二十四節気の音を聞きながらこの10年ほどを過ごしてきた。
そこに座ると二階のベランダと張り出した梅ノ木やさくらんぼの木々から蒼く
澄む空と櫛をすいたような軽やかな雲たち、時には厚く黒々とした雲、飛び交う
小鳥たちが一片の額の絵の様に広がり、そこに集う人を優しく包み込み、休息
と自然の優しさを与えてきた。その揺らすたびに鳴るギコギコという音とともに。

眼前の白い壁が薄く光り始め、橙色を帯び、徐々にその明るさを増し、やがて
純白の光となって周囲を照らし出す。その白さと対比する様に、主人のいる椅子
からは、薄青色の布をかけたかのように空の蒼さが天上に広がっている。
その蒼さを切り取るように四、五枚の枯れ葉が足下に落ちてきた。枯葉の音は
近くの家の金木犀の香りとともに彼を包む。ススキの和毛のような穂先が風に揺らいで
いる。
ふと、2年前、病院で見た雲清の変化を思い出す。ガラス窓の向こうで繰り
広げられる光と雲の協奏は、茜色から金色に変わり、やがて澄んだ青色へとその
世界を変えていった。静寂の中に広がる街の朝の顔がそこにあった。
活気に満ちた世界を繰り広げる前の静けさが街を覆っていた。
今、この椅子からみる情景もそれに似た空気を醸し出している。静けさの中に
ある一抹の希望。希望と言う言葉からは、以前のような心の躍動はないものの、
心は不思議と満たされている。頭の上では、ひつじやうろこ状の雲たちが広がり
始め、やがてその下を灰色の雄牛の如き灰色の雲が二つほど左から右へと
流れ去っていく。俺もあと何年かな、そんな想いが彼の心を過ぎる。

ふと、昨日、刈田の横で見た情景を思い出す。
朝の光が細く光る竹林の隙間からはじけ、刈田の表面をなめるように照らす。
茶色に支配された地面に、橙色の点がいくつも見えていた。柿の実があちこちに
落ちて散らばっていた。何のためらいもない様子で無造作に転がった柿の実
たちは熟れるにはまだ早い青い色のものもあれば、その橙色の中に黒く点描が
見える朽ち行くものもあった。柿の古木は、そんなことを気にもしない様子で、
その大きくくびれた腰回りを冷えた空気と光をうけてただ立っていた。
その踊っているような姿の柿の幹は、緑と白の苔をまとい、やや不細工な姿だ。
この木の年はどれほどなのだろうか、老い行く猫や私と同じような歳を重ねて
きたのであろう。多分、それ以上だ。そしてまた春の光を受けているのかもしれない。
足元の影が少し短くなった。果実の匂いにひかれてやってきたのだろうか、
ハチの羽音が聞こえはじめ、白いまだら模様の蝶の姿が舞っていた。

田んぼは、その一面黄金色から、ところどころ刈り取られたところがあって、
パッチワークのようになっている。それは金色の世界とは違う美しさがある。
刈田には藁が長い竹竿に等間隔に干してあって、それを見るのがまた楽しい。
少し先の刈田からは、薄い紫の煙が風にゆらめいている、この匂いを嗅ぐと
誰もが、秋を感じる。そして、あぜ道を赤く染め、彼岸花の炎のような花のつぼみ
と白い茎が続いている。小ぶりのトンボ、ナツアカネが数匹翅を休めている。
このとんぼは自分が全身真っ赤な色をしていて、よく見逃す。
彼岸花は、稲を刈り取る時期を教えてくれる大切な花だ、と古老が言って
いたのを思い出す。
確かに、あぜ道は赤い線に彩られ、すでに稲毛の消えた横に鮮やかな縞模様を
見せている。線香花火に似たその立ち姿は、秋の風情そのものだ。
華やかさと侘しさが混在している。黄色い胸と黒い体の鳥が、その華やかな色と
ピヨーピヨーという明るく少し甲高い鳴き声で赤みをました楓の木々へと飛んでいく。
キビタキなのだろうか、彼らの季節ももう終わったのかもしれない。



ーーーーーーー
展覧会
雑木林の中は、いろいろな植物たちの晴れの展覧会。赤、青、紫、結実した
作品の数々は、見事というほかはない。
実のなる植物は、どれもそうだが、雑木林のすみずみに均等にちらばっている。
よくこんなにうまく種がこぼれるものだと思っていたら、実は、鳥が運んでいる
のだという。ヒヨドリ、メジロ、ツグミなど、いろいろな鳥がついばんでは
飛び去り、離れたところで小休止して糞をすr。鳥の胃袋を通過して糞と
ともに排泄される種は、不思議と生命力を持っていて、地上に落下すると
勢いよく発芽する。植物たちは、そのことをお見通しで、鳥を呼ぶために
目の覚めるような美しさを披露する。

山は水の塊
山を仰ぐと、まぶしいばかりの紅葉。沢を伝って山の嶺まで上るにはもってこいの
季節だ。赤や黄色に染まった落葉樹の森と、深い緑が色褪せない杉の林を
ぬうようにして、山道は続く。山頂までたどり着けば、そこはブナの森。
今頃は、人里より紅葉が一段と進んでいるに違いない。
くねくねした尾根道は、ふった雨が山の背をさかいにわかれていく分水嶺。
青々とした湖面を見渡せる尾根道の左側と幾重にも重なる山の頂が遠望
出来る右側の景色とでは、全く趣が違う。そこは、天から落ちてくる
水が、山に沁み込んで森を育み、沢が出来る始まりの場所。
青空の下で堂々としている山面をながめていると、「山は水の塊」とだれかが
いったのをふと思い出した。


大切な時間
人家の外れの畑で紫苑の花を見つけた。あわい紫と黄色が、たおやかな風を誘う。
幾匹かの蝶が舞っては止まり、翅をゆっくりと開閉させている。黒褐色の地に
紅色と白斑、何ともシックなアカタテハと言う蝶である。この蝶は、夏場は
もっぱら雑木林にこもって樹液ばかり吸っているが、秋になると花の蜜を
もとめて日当たりのよい所に出てくる。翅は新鮮で傷1つ無いので、今日の朝
羽化したのだろう。もう2,3週間もすれば、冷たい北風が吹いてくるというのに、
なんというのんびり屋の蝶なのだろう。そのとき、アカタテハは、親の姿
のままで冬を越して、春になって卵を産み始めることに気が付いた。
えいようをたくわえて、過酷な季節に挑むこの蝶にとって、今はすごく
大切な時間なのだろう。

香りの渦
あぜ道を上っていくと、秋の匂いがした・見ると、農家の人が土手を焼いている。
草が焼ける匂いは、体をリラックスせてくれる。なぜだかわからないけど、
眼を閉じて香ばしい香りを吸い込むと、体の中の緊張感が急に溶けてしまう
ようである。何千年もの遠い昔に森を開き、鍬を振るって棚田を作ってきた
気の遠くなるような時間と労働。草の焼ける匂いは、自然の力に負けぬように
頑張ってきた人の汗の匂いなのかもしれない。
赤い炎は、土手の上を走り、枯草を炭にして白い煙をたちのぼらせる。
午後の光を浴びて刻々と白さを増す香りの渦は、大気の中に静かに浸透していく。


共存の知恵
彼岸花の炎のような花のつぼみにとまるのは、ナツアカネ。このとんぼは
自分が全身真っ赤な色をしていて、ここがお似合いであることをよく知っている
かのようだ。彼岸花は、稲を刈り取る時期を教えてくれる大切な花だ。
この花の成長にはそつがない。農家の人が土手を草刈りすると、植物たちの
背丈は一時的に低くなる。そんな時を見計らって竹のごとくまっすぐ生えてくるのが、
彼岸花だ。その後数日のあいだに花を咲かせ、ほかの植物たちが背比べに
挑んできたときには、すでに種子を実らせている。
こんなに完璧に農家の人の暮らしと歩調を合わせる植物が、大陸からやってきた
外来種だと聞くと意外な気がしてしまう。きっと彼岸花は、もともと共存の
智慧を授かっている植物なのだろう。土手の向こうから農家の人の笑い声が
聞こえてきた。いよいよ収穫がはじまる。


細い道
旧家のなかのほそい道は、なかなか風情があっていい。土壁の蔵や苔むした石積み、
そのどれもに歴史が感じられる。そういえば、この村は数年前に、稲作を始めてから
千年という節目を祝うお祭りがあったばかり。燻し色に輝く金箔の御神輿は、
あでやかで美しく、はるか昔の物語を今に伝えている。
道の角ごとにお地蔵さんがあったり、祭壇に花が生けられていたりするのもいい。
生け花は、旧家の庭に生えているものばかりで心が和む。これらのあつい信仰
もまた、長い歴史の中で確実に生き続けてきた。
ほおかぶりのお婆さんがこしをかがめながら、野菊をだきかかえて歩いてきた。
野仏に甘い香りが供えられると、村は一段と秋らしくなっていく。

演奏会
黄ばみかけた空を背に、あぜ道を歩く。普通ならそのまま家に帰ろうとする
ところだが、秋の日だけは寄り道をしてしまう。夕刻の時が刻まれるにつれて、
土手や刈田の草の茂みから虫の鳴き声が聞こえてくるからだ。たくさんの才能
豊かな演奏家たちに出会えるのは、一年の内でこの季節だけ。この叢の音色観賞が、
ちょっとした楽しみになっている。
チリチリチリ、ササキリの細かい声が闇に沈んでいくと、今度はジーンジーンという
脳の髄にしみるようなウマオイムシの声。それと同時に、チンチロリンというマツムシ
ガチャガチャというクツワムシ、リリリリリというカンタンなど、待ってましたと
いうように一斉に翅をふるわせはじめる。ススキの穂をそっと見上げると、
小さな黒い影。今日の演奏会はどうやらツユムシからはじまるらしいい。





春の梅ノ木を横目で見ながら冬の寒さから開放された喜びを感じつつ甘い香りに
包まれている主人の姿が多く見られ、猫たちは温かさがその陽射しとともに高まる
昼からは先ずハナコが寝そべり、そこへレトがハナコを追い出しに現れる。
その取り合いは、春から秋へと続く。ライはこの2人にお構いなく好きなときに
現れ、先住の猫たちを追い出し悠然とそこに納まる。ただ、夏は夕暮れ時にしか
その椅子にはだれも現れない。時が進み、空の蒼さと流れる風、さらに近くの
金木犀の甘い香りが庭を支配し始めると、主人とハナコ、レトの取り合いが
始まる。もっとも、最近のハナコは夜遊びが慣れたのか、夜抜け出し、朝
主人が雨戸を明けるとノンビリと椅子の上で御睡眠している。冬、雪の中で
端然とその冷たい空気に抗うかのように椅子は一人そこにいるときが多くなる。
やがて来る春の木々の音とそれに群れるほととぎすなどの鳥たちの合奏の日々
を待ち続けている。しかし、彼のあるべき姿も後数年であろう。無生物である
彼にも寿命はある。彼のそこにいる価値もやがて失われる。主人やチャトが
そうであるように忽然と消え、人々、猫たちの記憶からも消えて行く。

2016年10月7日金曜日

秋の情景

樹齢
朝の光は、土手の隙間からはじけ、刈田の表面をなめるように照らし出す。
ふと見ると、柿の実があちこちに落ちて散らばっている。無造作に転がった
柿の実たちは熟れるには少し早い色をしていて、傷がついたり穴が開いたり
して痛々しい。行儀の悪いカケスの仕業か、それともかぜのいたずらか。
柿の古木は、そんなことを気にもしない様子で、ゆっくりとのぼっていく
太陽の光をうけてただ立っている。
腰をふって踊っているような姿の柿の幹は、こけを宿してごつごつしている。
樹齢は何年だろう。まえに、老婆に尋ねたことがある。その答えは、
自分の小さなころからこの木は、ここで同じ大きさで立っていた、というのである。
となると、おそらくこの古木は、100歳を超えているだろう。
陽が少しづつ高くなり、果実の匂いにひかれてやってきたハチの羽音が聞こえ始める。

刈田
秋の田んぼは、一面黄金色というより、ところどころ刈り取られたところがあって、
パッチワークのようになっているのが一番美しいと思う。刈田には藁が干してあって
それを見るのがまた楽しい。藁は、農家の人によってまとめ方が違う。束ねた
藁を3つに割ってテントのように立てる人もいれば、頭をそろえて規則正しく
あぜ道に並べていく人もいる。ここの田んぼの持ち主は、又兵衛さんだったか、
それとも五平さんだったか。刈田を見ていると、人の顔が浮かんでくるから
面白い。小さい田んぼの味わいは、何といっても藁の匂いとともに農家の人の
個性がうかがえることだ。

展覧会
雑木林の中は、いろいろな植物たちの晴れの展覧会。赤、青、紫、結実した
作品の数々は、見事というほかはない。
実のなる植物は、どれもそうだが、雑木林のすみずみに均等にちらばっている。
よくこんなにうまく種がこぼれるものだと思っていたら、実は、鳥が運んでいる
のだという。ヒヨドリ、メジロ、ツグミなど、いろいろな鳥がついばんでは
飛び去り、離れたところで小休止して糞をすr。鳥の胃袋を通過して糞と
ともに排泄される種は、不思議と生命力を持っていて、地上に落下すると
勢いよく発芽する。植物たちは、そのことをお見通しで、鳥を呼ぶために
目の覚めるような美しさを披露する。

山は水の塊
山を仰ぐと、まぶしいばかりの紅葉。沢を伝って山の嶺まで上るにはもってこいの
季節だ。赤や黄色に染まった落葉樹の森と、深い緑が色褪せない杉の林を
ぬうようにして、山道は続く。山頂までたどり着けば、そこはブナの森。
今頃は、人里より紅葉が一段と進んでいるに違いない。
くねくねした尾根道は、ふった雨が山の背をさかいにわかれていく分水嶺。
青々とした湖面を見渡せる尾根道の左側と幾重にも重なる山の頂が遠望
出来る右側の景色とでは、全く趣が違う。そこは、天から落ちてくる
水が、山に沁み込んで森を育み、沢が出来る始まりの場所。
青空の下で堂々としている山面をながめていると、「山は水の塊」とだれかが
いったのをふと思い出した。


大切な時間
人家の外れの畑で紫苑の花を見つけた。あわい紫と黄色が、たおやかな風を誘う。
幾匹かの蝶が舞っては止まり、翅をゆっくりと開閉させている。黒褐色の地に
紅色と白斑、何ともシックなアカタテハと言う蝶である。この蝶は、夏場は
もっぱら雑木林にこもって樹液ばかり吸っているが、秋になると花の蜜を
もとめて日当たりのよい所に出てくる。翅は新鮮で傷1つ無いので、今日の朝
羽化したのだろう。もう2,3週間もすれば、冷たい北風が吹いてくるというのに、
なんというのんびり屋の蝶なのだろう。そのとき、アカタテハは、親の姿
のままで冬を越して、春になって卵を産み始めることに気が付いた。
えいようをたくわえて、過酷な季節に挑むこの蝶にとって、今はすごく
大切な時間なのだろう。

香りの渦
あぜ道を上っていくと、秋の匂いがした・見ると、農家の人が土手を焼いている。
草が焼ける匂いは、体をリラックスせてくれる。なぜだかわからないけど、
眼を閉じて香ばしい香りを吸い込むと、体の中の緊張感が急に溶けてしまう
ようである。何千年もの遠い昔に森を開き、鍬を振るって棚田を作ってきた
気の遠くなるような時間と労働。草の焼ける匂いは、自然の力に負けぬように
頑張ってきた人の汗の匂いなのかもしれない。
赤い炎は、土手の上を走り、枯草を炭にして白い煙をたちのぼらせる。
午後の光を浴びて刻々と白さを増す香りの渦は、大気の中に静かに浸透していく。


共存の知恵
彼岸花の炎のような花のつぼみにとまるのは、ナツアカネ。このとんぼは
自分が全身真っ赤な色をしていて、ここがお似合いであることをよく知っている
かのようだ。彼岸花は、稲を刈り取る時期を教えてくれる大切な花だ。
この花の成長にはそつがない。農家の人が土手を草刈りすると、植物たちの
背丈は一時的に低くなる。そんな時を見計らって竹のごとくまっすぐ生えてくるのが、
彼岸花だ。その後数日のあいだに花を咲かせ、ほかの植物たちが背比べに
挑んできたときには、すでに種子を実らせている。
こんなに完璧に農家の人の暮らしと歩調を合わせる植物が、大陸からやってきた
外来種だと聞くと意外な気がしてしまう。きっと彼岸花は、もともと共存の
智慧を授かっている植物なのだろう。土手の向こうから農家の人の笑い声が
聞こえてきた。いよいよ収穫がはじまる。


細い道
旧家のなかのほそい道は、なかなか風情があっていい。土壁の蔵や苔むした石積み、
そのどれもに歴史が感じられる。そういえば、この村は数年前に、稲作を始めてから
千年という節目を祝うお祭りがあったばかり。燻し色に輝く金箔の御神輿は、
あでやかで美しく、はるか昔の物語を今に伝えている。
道の角ごとにお地蔵さんがあったり、祭壇に花が生けられていたりするのもいい。
生け花は、旧家の庭に生えているものばかりで心が和む。これらのあつい信仰
もまた、長い歴史の中で確実に生き続けてきた。
ほおかぶりのお婆さんがこしをかがめながら、野菊をだきかかえて歩いてきた。
野仏に甘い香りが供えられると、村は一段と秋らしくなっていく。

演奏会
黄ばみかけた空を背に、あぜ道を歩く。普通ならそのまま家に帰ろうとするところだが
、
秋の日だけは寄り道をしてしまう。夕刻の時が刻まれるにつれて、土手や刈田の
草の茂みから虫の鳴き声が聞こえてくるからだ。たくさんの才能豊かな演奏家
たちに出会えるのは、一年の内でこの季節だけ。この叢の音色観賞が、
ちょっとした楽しみになっている。
チリチリチリ、ササキリの細かい声が闇に沈んでいくと、今度はジーンジーンという
脳の髄にしみるようなウマオイムシの声。それと同時に、チンチロリンというマツムシ
ガチャガチャというクツワムシ、リリリリリというカンタンなど、待ってましたと
いうように一斉に翅をふるわせはじめる。ススキの穂をそっと見上げると、
小さな黒い影。今日の演奏会はどうやらツユムシからはじまるらしいい。


萌木の国
157
ほんの30年前までは岸で洗濯をしたり、野菜を洗ったりしたもので、湖というのは、
地元のものにとってはそれこそ家の一部だといってもいいほど親しみのある存在だった
。
ところが、旧家と湖とのあいだに、幅の広い舗装道路が出来た。遠浅の砂浜は
ほかからもってきた土砂で埋められ、岸辺はコンクリートで固められてしまった。
そのことによって、湖と人々の間に深い溝が出来てしまった。別に工事によって
岸辺が何キロも、離れてしまったわけではない。距離で言うと、たった30メートル
ほど後退しただけだ。それなのに、湖岸に住んでいた私たちは、湖が全く手の届かない
ところへ行ってしまったような寂しい気持ちになってしまった。
「タップン、タップン」という波のささやきを失った私たちは、不安ですらある。
人の心のなかに溶け込んだ潤沢な湖は、早くも昔の語り草のようになってしまった。

割り木はよく使われていた。それは、お風呂をたくときにだ。そのころ、釜に割り木を
入れる仕事をさせられた。黄昏のほの暗い庭と、深い紺色をした空、そして、油煙
という黒い煤と、香ばしい割り木の香りをはっきりと覚えている。このとき、
大津界隈の家は、割り木をまとめて買っていた。毎年秋の終わりになるころ、何百、
いや何千束という割り木を大型トラックに積んで行商のおやじがもってきた。
割り木はすべてクヌギやコナラだった。

私は、眼を閉じて昔の湊風景を想像してみた。
木の桟橋がいくつも張り出した静かな港に、丸子舟が何艘モ停泊しており、長い
桟橋を人々がせわしなく行き来している。湖岸の際まで続く畑や水田にも人の姿
があり、黄緑色をしたセキショウモがなびく小川が音を立てて湖に流れ込んでいる。
その風景のそこここに、木造りの「にう」が狐色の屋根を光らせている。
採られた割り木は藁で屋根を作ったこの「にう」の中ニびっしりと並び、
しばらく乾燥されてから丸子舟であちこちに運ばれた。
湖の周辺の街で子供のころから親しんできた木の木片がこのような形で運ばれていた。
初めて知った心持だった。割り木は、帆を張って揺れる丸子舟に身を任せ、
青く澄んだ湖面を旅していたのだ。だが、そのような雑木林の最盛時代は、
湖周りの開発とともに終わった。

2016年10月1日土曜日

南小松、八朔祭

八朔(はっさく)とは八月朔日の略で、旧暦の8月1日のことである。
新暦では8月25日ごろから9月23日ごろまでを移動する(秋分が旧暦8月中なので、
早ければその29日前、遅ければ秋分当日となる)。
この頃、早稲の穂が実るので、農民の間で初穂を恩人などに贈る風習が古くから
あった。このことから、田の実の節句ともいう。この「たのみ」を「頼み」
にかけ、武家や公家の間でも、日頃お世話になっている(頼み合っている)
人に、その恩を感謝する意味で贈り物をするようになった。

比良の山並みが薄雲に隠れ、その稜線が橙色に染まり始めていた。
西近江路を少し外れ、更に小道を歩くと、石の道標がやや薄い闇が迫る中で、
出迎えた。地元の古老の話では、古来白鬚神社への信仰は厚く、京都から
遙か遠い神社まで数多くの都人たちも参拝したという。その人たちを
導くための道標が、街道の随所に立てられたが、現在その存在が確認されて
いるのは、七箇所ほど(すべて大津市)。建てられた年代は天保七年で、
どの道標も表に「白鬚神社大明神」とその下に距離(土に埋まって見えない
ものが多い)左側面に「京都寿永講」の銘、右側面に建てられた「天保七年」
が刻まれている。二百数十年の歳月を経て、すでに散逸してしまったものも
あろうが、ここに残されている道標は、すべて地元の方の温かい真心に
よって今日まで受け継がれてきたものだ。その最後の道標が八幡神社の参道の
手前にある。その道標の先にある家の庭には敷き詰められた石と淡然とした
趣のある石灯篭がこちらに向かってにこやかな笑いを帯びた風情で置かれていた。
子供連れの親子やはかま姿の古老たちが何人も脇を通り過ぎていく。見えない
靴音がやや朽ちた壁と石畳の道の間に強く響いていく。その先には、
八幡神社との刻銘がある常夜灯の大きな石の影が参道を寸断するかのように、
一直線に伸びていた。その常夜灯の先に提灯に照らされた八幡神社があった。
古老の話と説明文から、
「南小松の山手にあり、京都の石清水八幡宮と同じ時代に建てられたとされます。
木村新太郎氏の古文書によれば、六十三代天皇冷泉院の時代に当地の夜民牧右馬
大師と言うものが八幡宮の霊夢を見たとのこと。そのお告げでは「我、機縁
によってこの地に棲まんと欲す」と語り、浜辺に珠を埋められる。
大師が直ぐに目を覚まし夢に出た浜辺に向うと大光が現れ、夢のとおり聖像があり、
水中に飛び込み引き上げ、この場所に祠を建てて祀ったのが始まりです。
祭神は応神天皇です。
創祀年代は不明ですが、古来、南小松の産土神であり、往古より日吉大神と
白鬚大神の両神使が往復ごとに当社の林中にて休憩したと云われ、当社と
日吉・白鬚三神の幽契のある所と畏敬されています」と説明する。
大きな狛犬が、本殿を守るかのように鎮座していた。
右のそれのタテガミは、やや逆立つように大きな目は怒りを含んで本殿に向かう
ものへの畏敬を望んでいるようであり、左のそれは緩やかな鬣にあわすかのように
目や口の造作から穏やかな空気が流れ出てくるようだ。ともに180センチ
ほどの大きな体を悠然と台座の上に横たえ、周囲を圧した情感を発している。
静かな空気を剥ぎ取るようにどこからか水音がした。
本殿の横、石の水路からその音は出ていた。水路は小さいものの、水しぶきが
水路にそって伸びる苔の帯に降り注いでいる。小さな光の筋がその緑に絡み
つくように映え、水の強さをさらに深くしているように見えた。
水音をたどれば、後背の杉の群れの中に消え、念仏山といわれる比良の前面に
ある小山へと続いているのであろう。また下へとたどれば、神社の石垣に沿って、
正面の鳥居の下へとそれは続いている。小さいながらも、まるでこの神社を
守るかのように水音が周囲を覆っている。
春の祭礼(四月下旬)には、神輿をお旅所まで担ぎ、野村太鼓奉納や子供神輿
がこの地域を巡るという。拝殿の前には、土俵の堤があり、八朔祭(9月1日)
が行われ、夜七時ごろからは奉納相撲が開催される。子供たちが裸電燈の下で
勢いよくぶつかり合い、周囲からの声援で踏ん張り、そして投げを打つ。
そんな様が自身の少年時分の思い出と重なって古いトーキー映画のごとき
緩やかなモノクロの映像の流れにしばらく身を置く自分がいた。
昭和といわれた時代の名残香が一瞬鼻をつく、しかしそれは五十年以上の
古き香りなのであろう。
さらさらという水音に、沖天の光の中にいる自分、引き戻された。
狛犬の目が一瞬、お前はここで何してんねん、と言っているようでもある。
石と水の里、そんな想いがさらに強まった。


八朔(はっさく)とは八月朔日の略で、旧暦の8月1日のことである。新暦では8月25日
ごろから9月23日ごろまで。この頃、早稲の穂が実るので、農民の間で初穂を恩人など
に贈る風習が古くからあった。このことから、田の実の節句ともいう。今でも各地で八
朔祭としてある。南小松八幡神社では稲穂が実り始めた9月1日に、稲作豊年を祈願する
「奉納子供相撲」が行われます。神事では祝儀袋が土俵に投げ入れられ、小学生の男児
が真剣に戦う姿に大喝采でした。今年のお米の出来はどうでしょうか?新米が楽しみで
すね。


八朔(はっさく)とは八月朔日の略で、旧暦の8月1日のことである。
新暦では8月25日ごろから9月23日ごろまでを移動する(秋分が旧暦8月中なので、早け
ればその29日前、遅ければ秋分当日となる)。
この頃、早稲の穂が実るので、農民の間で初穂を恩人などに贈る風習が古くからあった
。このことから、田の実の節句ともいう。この「たのみ」を「頼み」にかけ、武家や公
家の間でも、日頃お世話になっている(頼み合っている)人に、その恩を感謝する意味
で贈り物をするようになった[1]。
目次  [非表示] 
1 各地の行事
1.1 熊本の八朔祭
1.2 福井の八朔祭
1.3 その他の地域の行事
2 ゆかりの食品
3 関連文献
4 脚注
5 外部リンク
各地の行事[編集]
[疑問点 ? ノート]
熊本の八朔祭[編集]
No-peacock.svg この節は大言壮語的な記述になっています。
Wikipedia:大言壮語をしないを参考に修正して下さい。(2014年8月)

八朔祭の大造り物(熊本県山都町)
熊本県上益城郡山都町の浜町では、野山の自然素材を豊富に使った巨大な「造り物」が
名物の「八朔祭(はっさくまつり)」が、毎年、旧暦8月1日の平均に近い、9月第1土曜
日日曜日の2日間にわたって開催されている。この祭りは江戸時代中期から始まったと
され[誰によって?]、田の神に感謝し収穫の目安を立てる日とされ、NHKなど全国ニュー
スにも毎年取り上げられているほど有名な祭りである。
町の中心街を高さ3?4m、長さ7?8mにもおよぶ大造り物(山車 他にお囃子隊が同行)
が数十基、引き廻される光景は実に壮観で、内外より多くの観光客や写真家を呼び込ん
でいる。
祭りに合わせて放水する国の重要文化財、通潤橋(つうじゅんきょう)の姿は見事で、
夜には通潤橋の近くで花火も打ち上げられ、日頃は閑散とした山の町が遅くまで大勢の
観光客で賑わう。
造り物には順位が付けられ、浜町内の各町や団体が長年培ってきた技術、作品のテーマ
や形にアイデアや知恵を絞り、競い合っている[2]。祭りの本格的な準備は約1ヶ月前か
ら始まり、町内各地に、造り物の山車を作る小屋や番屋が立つ。
福井の八朔祭[編集]
福井県美浜町の新庄区では、五穀豊穣と子孫繁栄を願っておこなわれる。太鼓や笛のお
はやしのなか、樽神輿をかついだ行列が田代公会堂を出発し、日吉神社まですすむ。こ
の行列に続いて、男性のシンボルをかたどったご神体を持ったてんぐが進み、見物客の
女性をご神体(長さ約60センチの木製)でつつく。このご神体でつつかれた女性は子宝
に恵まれるといういわれがある。 [3]。
その他の地域の行事[編集]
京都市東山区の祇園一帯など花街では、新暦8月1日に芸妓や舞妓がお茶屋や芸事の師匠
宅へあいさつに回るのが伝統行事になっている。
福岡県遠賀郡芦屋町では、「八朔の節句」として長男・長女の誕生を祝い、男児は藁で
編む「わら馬」、女児は米粉で作る「だごびーな(団子雛)」を家に飾る行事が行なわ
れており、300年以上続く伝統行事として、国の記録作成等の措置を講ずべき無形の民
俗文化財の選択を受けている。
香川県丸亀市では、男児の健やかな成長を祈り、その地方で獲れた米の粉で「八朔だん
ご馬」を作る風習がある。讃岐藩出身で馬術の名人として名高い曲垣平九郎に因んでい
る。
香川県三豊市の旧仁尾町や兵庫県たつの市御津町室津地区など、歴史的経緯によって本
来は旧暦3月3日に行われる雛祭りを八朔に延期する風習を持つ地域も存在する。
徳川家康が天正18年8月1日(グレゴリオ暦1590年8月30日)に初めて公式に江戸城に入
城したとされることから、江戸幕府はこの日を正月に次ぐ祝日としていた[4]。明治改
暦以降は、新暦8月1日や月遅れで9月1日に行われるようになった。
山梨県都留市では八朔祭りが行われている。都留市の八朔祭りは毎年8月1日の八朔に行
われていたが、現在では9月1日に実施されている。都留市四日市場の生出神社(おいで
じんじゃ)の例祭が発展した祭りで、本祭では神輿が渡御し、附祭では大名行列や屋台
が巡行する。江戸後期の天保年間にはすでに実施されており、現存する屋台後幕は浮世
絵師の葛飾北斎が手がけたとする伝承がある。

七十二候二、旬材、和歌など

二十四節気(にじゅうしせっき)は半月毎の季節の変化を示していますが、これをさら
に約5日おきに分けて、気象の動きや動植物の変化を知らせるのが七十二候(しちじゅ
うにこう)です。二十四節気と同じく古代中国で作られました。二十四節気が古代のも
のがそのまま使われているのに対し、七十二候は何度も変更されてきました。
日本でも、江戸時代に入って日本の気候風土に合うように改定され、「本朝七十二候」
が作られました。現在主に使われているのは、明治時代に改訂された「略本暦」のもの
です。
ちなみに「気候」ということばは、この「節気」と「候」からできています。
※二十四節気について詳しい説明はこちらをご覧ください。 → 二十四節気
七十二候の名称は、気候の変化や動植物の様子が短い文で表されています。私たちの暮
らしでは目にする機会の少ない事象もありますが、おおかたはその時期の「兆し」を伝
え、繊細な季節のうつろいを感じさせてくれます。

永楽屋の二十四節気
http://www.eirakuya.co.jp/ja/24sekki/

七十二候のもう少し詳細
http://cazag.com/381
西近江しんぶん
http://nishioumi.ct-net.com/index1.shtml

春
山笑う
二十四節気「立春(りっしゅん)」

・東風解凍(はるかぜこおりをとく)2月4日頃
春の風が川や湖の氷を解かし始める頃。「東風」(こち)とは春風を表す代名詞。
→蕗のとう
・黄鴬?睆(うぐいすなく)2月9日頃
山里で鴬が鳴き始める頃。春の訪れを告げる鴬は「春告鳥」(はるつげどり)とも呼ば
れます。
→さやえんどう、梅
・魚上氷(うおこおりをいずる)2月14日頃
水がぬるみ、割れた氷の間から魚が飛び跳ねる頃。春先の氷を「薄氷」と呼びます。
→あまご、山女魚、岩魚。めじろ。明日葉。谷汲み踊り。

二十四節気「雨水(うすい)」

・土脉潤起(つちのしょううるおいおこる)2月18日頃
雪がしっとりとした春の雨にかわり、大地が潤い始める頃。「脉」は脈の俗字です。
→春キャベツ。
・霞始靆(かすみはじめてたなびく)2月23日頃
春霞がたなびき始める頃。春の霞んだ月を「朧月」(おぼろづき)と呼びます。
→辛子菜。
・草木萌動(そうもくめばえいずる)2月28日頃
草木が芽吹き始める頃。催花雨、草の芽が萌え出すことを「草萌え」(くさもえ)
とも言います。また、木々についても木の芽起こし、木の芽萌やしとも言います。
→緑繁縷(はこべ)、菜花。

二十四節気「啓蟄(けいちつ)」

・蟄虫啓戸(すごもりのむしとをひらく)3月5日頃
戸を啓いて顔を出すかのように、冬ごもりをしていた生きものが姿を表す頃。
→わらび、ぜんまい、菫(すみれ)。鰆。
・桃始笑(ももはじめてさく)3月10日頃
桃の花が咲き始める頃。花が咲くことを「笑う」と表現、「山笑う」は春の季語です。
→梅、桃、新たまねぎ。さより。
・菜虫化蝶(なむしちょうとかす)3月15日頃
青虫が紋白蝶になる頃。「菜虫」は菜を食べる青虫のこと。菜の花が咲いて
まさに春本番。
→かたばみ、葉わさび。やまとしじみ(小さな蝶)。

二十四節気「春分(しゅんぶん)」

・雀始巣(すずめはじめてすくう)3月20日頃
雀が巣を作り始める頃。昼の時間が少しずつ伸び、多くの小鳥たちが繁殖期を
迎えます。
→蕗、関東たんぽぽ。ひばり。
・桜始開(さくらはじめてひらく)3月25日頃
桜の花が咲き始める頃。桜前線の北上を日本中が待ち望む、お花見の季節の到来です。
→こぶし、アスパラガス。さくらえび。
・雷乃発声(かみなりすなわちこえをはっす)3月30日頃
春の訪れを告げる雷が鳴り始める頃。「春雷」(しゅんらい)は「虫出しの雷」とも呼
ばれています。
→うど、木蓮。真鯛。

二十四節気「清明(せいめい)」

・玄鳥至(つばめきたる)4月5日頃
燕が南の国から渡ってくる頃。「玄鳥」(げんちょう)とは燕の異名です。
→行者にんにく。初鰹。
・鴻雁北(こうがんきたへかえる)4月10日頃
雁が北へ帰っていく頃。雁は夏場をシベリアで、冬は日本で過ごす渡り鳥です。
→たらのめ(山菜)。ほたるいか。
・虹始見(にじはじめてあらわる)4月15日頃
雨上がりに虹が見え始める頃。淡く消えやすい春の虹も次第にくっきりしてきます。
→みつば、小楢(花が咲く頃)。雨前茶。

二十四節気「穀雨(こくう)」
瑞雨、甘雨、春琳、催花雨等春の雨には色々ある。
・葭始生(あしはじめてしょうず)4月20日頃
水辺の葭が芽吹き始める頃。葭は夏に背を伸ばし、秋に黄金色の穂をなびかせます。
→葦牙(あしかび)、新ごぼう。鯵。
・霜止出苗(しもやみてなえいずる)4月25日頃
霜が降りなくなり、苗代で稲の苗が生長する頃。霜は作物の大敵とされています。
→よもぎ。いとより。
・牡丹華(ぼたんはなさく)4月30日頃
牡丹が大きな花を咲かせる頃。豪華で艶やかな牡丹は「百花の王」と呼ばれています。
八十八夜。
→牡丹、こごみ。さざえ。

俳句 春
八講の比良山見ゆれ枯木原     青々
八講はすぎたしらせか鶴のこえ   楓下
春は京冬は残れリ比良の山     道加
八景は比良にかたまる桜かな    麦水
花野来て比良の横雲望みけり    華村

和歌 春
・桜さく比良の山風吹くままに
 花になりゆく志賀の浦なみ     御京極
・花さそうひらの山風ふきにけり
 こぎ行く船の跡見ゆるまで     宮内卿
・桜咲く比良の山風ふくなへに
 花のさざ波寄する水海       大納言定国
・さざ波の近江の海に船はてて
 比良の山桜ちるまで見む      荷田蒼生子



夏
山滴る。
二十四節気「立夏(りっか)」

・蛙始鳴(かわずはじめてなく)5月5日頃
蛙が鳴き始める頃。水田の中をスイスイ泳ぎ、活発に活動を始めます。「かわず」は蛙
の歌語・雅語。
→藤、にんじん。金目鯛。
・蚯蚓出(みみずいずる)5月10日頃
みみずが地上に出てくる頃。畑土をほぐしてくれるみみずは、動き始めるのが少し遅め
です。
→苺。ほおじろ。いさき。
・竹笋生(たけのこしょうず)5月15日頃
たけのこが出てくる頃。たけのこは成長が早く、一晩でひと節伸びると
言われています。
→筍。あさり。

二十四節気「小満(しょうまん)」

・蚕起食桑(かいこおきてくわをはむ)5月21日頃
蚕が桑の葉を盛んに食べだす頃。蚕がつむいだ繭が美しい絹糸になります。
→そらまめ。きす。
・紅花栄(べにばなさかう)5月26日頃
紅花の花が咲きほこる頃。紅花は染料や口紅になり、珍重されました。
→しそ、紅花。車えび。
・麦秋至(むぎのときいたる)5月31日頃
麦の穂が実り始める頃。「秋」は実りの季節を表し、穂を揺らす風は「麦の秋風」。
刈り取りを待つ麦畑は一面の黄金色。この頃、降る雨を麦雨ばくうと呼ぶ。
→枇杷。べら。四十雀しじゅうから(ツィピーツィツィピーと啼く)。

二十四節気「芒種(ぼうしゅ)」

・蟷螂生(かまきりしょうず)6月5日頃
かまきりが卵からかえる頃。ピンポン球ほどの卵から数百匹の子が誕生します。
→ラッキョウ、苗代苺。あいなめ。
・腐草為螢(くされたるくさほたるとなる)6月10日頃
草の中から蛍が舞い、光を放ち始める頃。昔は腐った草が蛍になると考えていました。
→とまと。するめいか。蛍。
・梅子黄(うめのみきばむ)6月15日頃
梅の実が黄ばんで熟す頃。青い梅が次第に黄色みをおび、赤く熟していきます。
→梅が旬、すいかずら。すずき。

二十四節気「夏至(げし)」

・乃東枯(なつかれくさかるる)6月21日頃
夏枯草の花が黒ずみ枯れたように見える頃。「夏枯草」(かごそう)はうつぼ草
の異名です。その花穂は生薬として役立っています。
→ウツボグサ、夏みかん。鮎。
・菖蒲華(あやめはなさく)6月26日頃
あやめの花が咲き始める頃。端午の節供に用いる菖蒲(しょうぶ)ではなく、花菖蒲のこ
とです。青嵐、青時雨。
→菖蒲、茗荷。かんぱち。
・半夏生(はんげしょうず)7月1日頃
半夏が生え始める頃。田植えを終える目安とされました。「半夏」は「烏柄杓」(から
すびしゃく)の異名。半夏雨。
→おくら。はも。
古くから小豆には魔除けの力があるとされ、夏越祓にも外郎(ういろう)に小豆をのせ
た
「水無月」を食べる習慣がある。永楽屋の水無月には、丹波産大納言小豆を用いる。


二十四節気「小暑(しょうしょ)」

・温風至(あつかぜいたる)7月7日頃
熱い風が吹き始める頃。温風は梅雨明けの頃に吹く南風のこと。日に日に暑さが増しま
す。
→ほおずき。こち。
・蓮始開(はすはじめてひらく)7月12日頃
蓮の花が咲き始める頃。優美で清らかな蓮は、天上の花にたとえられています。
→蓮、とうもろこし。かれい。
・鷹乃学習(たかすなわちがくしゅうす)7月17日頃
鷹の子が飛ぶ技を覚え、巣立ちを迎える頃。獲物をとらえ一人前になっていきます。
→モロヘイヤ。鰻。ハチクマ。

二十四節気「大暑(たいしょ)」

・桐始結花(きりはじめてはなをむすぶ)7月23日頃
桐の花が実を結び始める頃。桐は箪笥や下駄など暮らしの道具に欠かせないものです。
→桐の花、きゅうり。そうめん。うに。
・土潤溽暑(つちうるおうてむしあつし)7月28日頃
土がじっとりとして蒸し暑くなる頃。蒸し暑いことを「溽暑(じょくしょ)」と
言います。
→八朔(八月一日の早稲の穂)、枝豆。あなご。
・大雨時行(たいうときどきふる)8月2日頃
ときどき大雨が降る頃。むくむくと湧き上がる入道雲が夕立になり、乾いた大地を潤し
ます。
→すいか。太刀魚。かぶとむし。

俳句 夏
十六夜の気色わけたり比良伊吹  
鳴神や幾度比良へ帰る雲     士朗
いかほども雲たくはへよ比良伊吹 千影
白雨や比良より雲の出来心    団室

和歌  夏
ほととぎす 三津の浜辺に 待つ声を 比良の高嶺に 鳴き過ぎべしや


秋
山装う
二十四節気「立秋(りっしゅう)」

・涼風至(すずかぜいたる)8月7日頃
涼しい風が吹き始める頃。まだ暑いからこそ、ふとした瞬間に涼を感じること
ができます。秋隣。
→露草、桃。しじみ。
・寒蝉鳴(ひぐらしなく)8月12日頃
カナカナと甲高くひぐらしが鳴き始める頃。日暮れに響く虫の声は、一服の清涼剤。
→ほおずき。めごち。ひぐらし。
・蒙霧升降(ふかききりまとう)8月17日頃
深い霧がまとわりつくように立ち込める頃。秋の「霧」に対して、春は「霞」と呼びま
す。樹雨きさめ
→水引、新しょうが。真たこ。

二十四節気「処暑(しょしょ)」

・綿柎開(わたのはなしべひらく)8月23日頃
綿を包むガクが開き始める頃。綿の実がはじけ白いふわふわが顔をのぞかせた様子。
→すだち、綿花。かさご。
・天地始粛(てんちはじめてさむし)8月28日頃
天地の暑さがようやくおさまり始める頃。「粛」は縮む、しずまるという意味です。
野分のわき。
→ぶどう。ぐち。
・禾乃登(こくものすなわちみのる)9月2日頃
いよいよ稲が実り、穂を垂らす頃。「禾」は稲穂が実ったところを表した象形文字。
→無花果いちじく、きんえのころ。まつむし。鰯。

二十四節気「白露(はくろ)」

・草露白(くさのつゆしろし)9月7日頃
草に降りた露が白く光って見える頃。朝夕の涼しさが際立ってきます。
→秋の七草(萩、すすき、葛、なでしこ、おみなえし、藤袴、桔梗)。島鯵。
秋の野に咲きたる花を指および折り かき数ふれば七種ななくさの花 山上憶良
・鶺鴒鳴(せきれいなく)9月12日頃
せきれいが鳴き始める頃。せきれいは日本神話にも登場し、別名は「恋教え鳥」。
→梨、オシロイバナ(夕化粧ともいう)。あわび。鶺鴒せきれい チチィとなく。
・玄鳥去(つばめさる)9月17日頃
燕が子育てを終え、南へ帰っていく頃。来春までしばしのお別れです。
→鶏頭、なす。昆布。

二十四節気「秋分(しゅうぶん)」

・雷乃収声(かみなりすなわちこえをおさむ)9月23日頃
雷が鳴らなくなる頃。春分に始まり夏の間鳴り響いた雷も、鳴りをひそめます。
→彼岸花、松茸。はぜ。
・蟄虫坏戸(むしかくれてとをふさぐ)9月28日頃
虫たちが土にもぐり、入口の戸をふさぐ頃。冬ごもりの支度をする時期です。
→紫苑、里芋。さんま。茅場(ススキの野原)芋茎ずいき、里芋の茎。
・水始涸(みずはじめてかるる)10月3日頃
田んぼの水を抜き、稲刈りの準備をする頃。井戸の水が枯れ始める頃との説も。
→金木犀、銀杏、稲の実り。とらふぐ。

二十四節気「寒露(かんろ)」

・鴻雁来(こうがんきたる)10月8日頃
雁が渡ってくる頃。清明の時期に北へ帰っていった雁たちが、再びやってきます。
→ななかまど、しめじ。ししゃも。鴈渡し(晩秋に吹く北風)
・菊花開(きくのはなひらく)10月13日頃
菊の花が咲き始める頃。旧暦では重陽の節供の時期で、菊で長寿を祈願しました。
→栗。はたはた。菊晴れ(菊の花が咲くころに青空が晴れ渡る)
・蟋蟀在戸(きりぎりすとにあり)10月18日頃
戸口で秋の虫が鳴く頃。昔は「こおろぎ」を「きりぎりす」と呼びました。
→柿。鯖。

二十四節気「霜降(そうこう)」

・霜始降花(しもはじめてふる)10月23日頃
山里に霜が降り始める頃。草木や作物を枯らす霜を警戒する時期です。
→紫式部。ほっけ。ひよどり ヒーヨとなく。
・霎時施(しぐれときどきふる)10月28日頃
ときどき小雨が降る頃。「霎」をしぐれと読むことも。ひと雨ごとに気温が
下がります。初時雨、片時雨、横時雨
→山芋。きんき。
・楓蔦黄(もみじつたきばむ)11月2日頃
楓(かえで)や蔦の葉が色づく頃。晩秋の山々は赤や黄に彩られ、紅葉
狩りの季節です。
→さつまいも。かわはぎ。

俳句 秋
風雲や時雨をくばる比良おもて  大草
夕焼けの比良を見やりつ柿赤し  惣之助
楊梅の瀧見失う船の秋      虚子
有明や比良の高根も霧の海    白堂
名月やひそかに寒き比良が嶺   歌童

和歌  秋
・ち早ふる比良の御山のもみぢ葉に
 ゆうかけわたすけさの白雲    安法
・宿りするひらの都の仮庵に
 尾花みだれて秋風ぞ吹く     光俊朝臣
・小浪や比良の高嶺の山おろしに
 紅葉を海の物となしたる     刑部卿範



冬
山眠る
二十四節気「立冬(りっとう)」

・山茶始開(つばきはじめてひらく)11月7日頃
山茶花(さざんか)の花が咲き始める頃。椿と混同されがちですが、先駆けて咲くのは
山茶花です。
→みかん。ひらめ。
・地始凍(ちはじめてこおる)11月12日頃
大地が凍り始める頃。サクサクと霜柱を踏みしめて歩くのが楽しみな時期です。
→ほうれんそう、茶の花。毛蟹。
・金盞香(きんせんかさく)11月17日頃
水仙が咲き芳香を放つ頃。「金盞」は金の盃のことで、水仙の黄色い冠を
見立てています。
→れんこん、水仙。甲いか。まひわ(冬を告げる鳥)

二十四節気「小雪(しょうせつ)」
小春日和(旧暦10月を小春、暖かな陽射し包まれ陽気になる日がある)

・虹蔵不見(にじかくれてみえず)11月22日頃
陽の光も弱まり、虹を見かけなくなる頃。「蔵」には潜むという意味があります。
→りんご、野茨。くえ。新嘗祭
・朔風払葉(きたかぜこのはをはらう)11月27日頃
北風が木の葉を吹き払う頃。「朔風」は北の風という意味で、木枯らしをさします。
→白菜、やつで。かわせみ。かます。
・橘始黄(たちばなはじめてきばむ)12月2日頃
橘の実が黄色く色づき始める頃。常緑樹の橘は、永遠の象徴とされています。
→橘(常緑樹で黄色の実)、セロリ。ぼら(はく、すばしり、おぼこ、いな、ぼら、と
ど)。

二十四節気「大雪(たいせつ)」

・閉塞成冬(そらさむくふゆとなる)12月7日頃
空が閉ざされ真冬となる。空をふさぐかのように重苦しい空が真冬の空です。
→ふろふき大根。ぶり。大鷺。
・熊蟄穴(くまあなにこもる)12月12日頃
熊が穴に入って冬ごもりする頃。何も食べずに過ごすため、秋に食いだめをします。
→ねぎ、椿。牡蠣。
・鮭魚群(さけのうおむらがる)12月17日頃
鮭が群がって川を上る頃。川で生まれた鮭は、海を回遊し故郷の川へ帰ります。
→にら。鮭。むみらさきしじみ。

二十四節気「冬至(とうじ)」
冬至梅がある。
・乃東生(なつかれくさしょうず)12月22日頃
夏枯草が芽をだす頃。夏至の「乃東枯」に対応し、うつぼ草を表しています。
→柚子、千両、万両。まぐろ。こげら。
・麋角解(さわしかのつのおつる)12月27日頃
鹿の角が落ちる頃。「麋」は大鹿のことで、古い角を落として生え変わります。
→かぼちゃ。鯉。おなが。
・雪下出麦(ゆきわたりてむぎのびる)1月1日頃
雪の下で麦が芽をだす頃。浮き上がった芽を踏む「麦踏み」は日本独特の風習です。
→百合根。イセエビ
初茜(初日直前の茜空。夜の暗がりから白み、明るみ、茜に染まる東雲しののめの空。

二十四節気「小寒(しょうかん)」

・芹乃栄(せりすなわちさかう)1月5日頃
芹が盛んに育つ頃。春の七草のひとつで、7日の七草粥に入れて食べられます。
→春の七草(せり、なずな、ごぎょう(ははこぐさ)、はこべら(はこべ)、
ほとけのざ(こおにたびらこ)、すずな(蕪)、すずしろ(大根)。鱈。
・水泉動(しみずあたたかをふくむ)1月10日頃
地中で凍っていた泉が動き始める頃。かすかなあたたかさを愛おしく感じる時期です。
→春菊、柊。こまい(氷下魚)。寒九の雨。
・雉始?(きじはじめてなく)1月15日頃
雉が鳴き始める頃。雄がケーンケーンと甲高い声をあげて求愛します。
→蕪、蝋梅(蝋月)。雉。鮟鱇。

二十四節気「大寒(だいかん)」

・款冬華(ふきのはなさく)1月20日頃
雪の下からふきのとうが顔をだす頃。香りが強くほろ苦いふきのとうは早春の味。
→小松菜、南天。赤貝。あおじ。
・水沢腹堅(さわみずこおりつめる)1月25日頃
沢に厚い氷が張りつめる頃。沢に流れる水さえも凍る厳冬ならではの風景です。
→水菜、福寿草。わかさぎ。じょうびたき。
・鶏始乳(にわとりはじめてとやにつく)1月30日頃
鶏が鳥屋に入って卵を産み始める頃。本来、鶏は冬は産卵せず、春が近づくと卵を産み
ました。
→金柑。めひかり。

俳句  冬
湖の鏡にさむし比良の山     支考
春遅し敦賀の津まで比良の雪   素堂
比良三上雪さしわたせ鷺のはし  芭蕉
寒梅やさす枝に白き比良嶽    巴人

和歌  冬
・楽浪の比良の山風の海吹けば
 釣する海人あまの袖反かえる見ゆ 
・吹き迷う雲をさまりし夕なぎに
 比良の高ねの雪を見るかな   為美
・夕づく日比良の高ねを眺むれば 
 くるるともなき雪の白妙    元恒
・近江路や北より冬はきにけらし
 比良の大山まづしくつつ    公朝


ーーーーーーーーー

七十二候
http://www.543life.com/season.html

暮らしの歳時記
http://www.i-nekko.jp/
http://www.i-nekko.jp/meguritokoyomi/shichijyuunikou/

イラスト
http://azukichi.net/season/09_september.html

二十四節気(にじゅうしせっき)、七十二候(しちじゅうにこう)とは
「春分」「冬至」などよく耳にするのが「二十四節気」で1年を24等分して約15日ごと
に分けた季節のこと。約2600年も前に中国の黄河地方で作られた暦のため、実際の日本
の気候とは若干のずれがあります。
「七十二候」は半月ごとの季節変化を表す「二十四節気」をさらに約5日おきに分け、
気象の動きや動植物の変化を知らせるもので、日本の気候や風土に合うよう江戸時代に
入ってから何度か改定されています。
出典: etherealvistas.com
「春分」「冬至」などよく耳にするのが「二十四節気」で1年を24等分して約15日ごと
に分けた季節のこと。約2600年も前に中国の黄河地方で作られた暦のため、実際の日本
の気候とは若干のずれがあります。
「七十二候」は半月ごとの季節変化を表す「二十四節気」をさらに約5日おきに分け、
気象の動きや動植物の変化を知らせるもので、日本の気候や風土に合うよう江戸時代に
入ってから何度か改定されています。
七十二候の名称は、気候の変化や動植物の様子が短い文で表されています。私たちの暮
らしでは目にする機会の少ない事象もありますが、おおかたはその時期の「兆し」を伝
え、繊細な季節のうつろいを感じさせてくれます。
出典:七十二候|暮らし歳時記
春
二十四節気「立春(りっしゅん)」
・東風解凍(はるかぜこおりをとく)2月4日頃
春の風が川や湖の氷を解かし始める頃。「東風」(こち)とは春風を表す代名詞。
・黄鴬?睆(うぐいすなく)2月9日頃
山里で鴬が鳴き始める頃。春の訪れを告げる鴬は「春告鳥」(はるつげどり)とも呼ば
れます。
・魚上氷(うおこおりをいずる)2月14日頃
水がぬるみ、割れた氷の間から魚が飛び跳ねる頃。春先の氷を「薄氷」と呼びます。
立春(2月4日頃)
立春は一年のはじめとされ、季節の節目はこの日が起点になっています。まだまだ寒い
ですが、暦上ではこの日から春となります。
初候:「東風解凍」(はるかぜこおりをとく)
次候:「黄鴬?睆」(おうこうけんかんす)
末候:「魚上氷」(うおこおりをいずる)
黄鶯?睆(おうこうけんかんす) 2月9日
「うぐいすなく」とも読みます。その名の通り、山里でウグイスが鳴き始める頃。ウグ
イスは別名「春告鳥」ともいい、その声で春の訪れを知る、とされています。
出典: monalisa15.blog54.fc2.com
「うぐいすなく」とも読みます。その名の通り、山里でウグイスが鳴き始める頃。ウグ
イスは別名「春告鳥」ともいい、その声で春の訪れを知る、とされています。

二十四節気「雨水(うすい)」
・土脉潤起(つちのしょううるおいおこる)2月18日頃
雪がしっとりとした春の雨にかわり、大地が潤い始める頃。「脉」は脈の俗字です。
・霞始靆(かすみはじめてたなびく)2月23日頃
春霞がたなびき始める頃。春の霞んだ月を「朧月」(おぼろづき)と呼びます。
・草木萌動(そうもくめばえいずる)2月28日頃
草木が芽吹き始める頃。草の芽が萌え出すことを「草萌え」(くさもえ)と言います。
雨水(2月19日頃)
空から降るのが雪から雨に変わり、氷が溶けて水になるという意味。春一番が吹くのも
この頃です。
初候:「土脉潤起」(つちのしょううるおいおこる)
次候:「霞始靆」(かすみはじめてたなびく)
末候:「草木萌動」(そうもくめばえいずる)
草木萠動(そうもくめばえいずる) 3月1日
寒さも和らぎ、日に日に暖かくなりはじめ草木が芽吹き始める頃。長く寒い冬も終わり
、いよいよ本格的に春がやってきます。
出典: ameblo.jp
寒さも和らぎ、日に日に暖かくなりはじめ草木が芽吹き始める頃。長く寒い冬も終わり
、いよいよ本格的に春がやってきます。
いかがでしたか?
現代の私たちの生活では目にする機会のない事象もありますが、「暮らしの歳時記」と
して時にはうつろいゆく季節の美しさをちょっと違う視点から眺めてみるのも面白いか
もしれません。
季節の移ろいを美しい日本語で。「七十二候(しちじゅうにこう)」をご存知ですか?
出典: yako1223.blog85.fc2.com


二十四節気「啓蟄(けいちつ)」
・蟄虫啓戸(すごもりのむしとをひらく)3月5日頃
戸を啓いて顔を出すかのように、冬ごもりをしていた生きものが姿を表す頃。
・桃始笑(ももはじめてさく)3月10日頃
桃の花が咲き始める頃。花が咲くことを「笑う」と表現、「山笑う」は春の季語です。
・菜虫化蝶(なむしちょうとなる)3月15日頃
青虫が紋白蝶になる頃。「菜虫」は菜を食べる青虫のこと。菜の花が咲いてまさに春本
番。

啓蟄(3月6日頃)
冬ごもりしていた虫が、地中からはい出る頃。
初候:「蟄虫啓戸」(すごもりのむしとをひらく)
次候:「桃始笑」(ももはじめてさく)
末候:「菜虫化蝶」(なむしちょうとなる)
桃始笑(ももはじめてさく) 3月11日
桃の花が咲き始める時期。花が咲くことを笑うと表現しています。ちなみに「山笑う」
とは俳句の春の季語で、春山の明るい雰囲気をイメージさせてくれます。
出典: blogs.yahoo.co.jp
桃の花が咲き始める時期。花が咲くことを笑うと表現しています。ちなみに「山笑う」
とは俳句の春の季語で、春山の明るい雰囲気をイメージさせてくれます。

二十四節気「春分(しゅんぶん)」
・雀始巣(すずめはじめてすくう)3月20日頃
雀が巣を作り始める頃。昼の時間が少しずつ伸び、多くの小鳥たちが繁殖期を迎えます
。
・桜始開(さくらはじめてひらく)3月25日頃
桜の花が咲き始める頃。桜前線の北上を日本中が待ち望む、お花見の季節の到来です。
・雷乃発声(かみなりすなわちこえをはっす)3月30日頃
春の訪れを告げる雷が鳴り始める頃。「春雷」(しゅんらい)は「虫出しの雷」とも呼
ばれています。


春分(3月21日頃)
太陽の中心が春分点に達し、全地球上の昼夜の長さがほぼ等しくなる日。
初候:「雀始巣」(すずめはじめてすくう)
次候:「桜始開」(さくらはじめてひらく)
末候:「雷乃発声」(かみなりすなわちこえをはっす)
桜始開(さくらはじめてひらく) 3月26日
桜の花が咲き始める頃。各地で桜の開花予想が発表され、待ちわびた春の到来と楽しい
お花見の予定にわくわくする季節です。
出典: yako1223.blog85.fc2.com
桜の花が咲き始める頃。各地で桜の開花予想が発表され、待ちわびた春の到来と楽しい
お花見の予定にわくわくする季節です。

二十四節気「清明(せいめい)」
・玄鳥至(つばめきたる)4月5日頃
燕が南の国から渡ってくる頃。「玄鳥」(げんちょう)とは燕の異名です。
・鴻雁北(こうがんかえる)4月10日頃
雁が北へ帰っていく頃。雁は夏場をシベリアで、冬は日本で過ごす渡り鳥です。
・虹始見(にじはじめてあらわる)4月15日頃
雨上がりに虹が見え始める頃。淡く消えやすい春の虹も次第にくっきりしてきます。
清明イメージ
清明(4月5日頃)
春のはじめの清らかで生き生きとした様子「清浄明潔」という語を略したもの。
初候:「玄鳥至」(つばめきたる)
次候:「鴻雁北」(こうがんかえる)
末候:「虹始見」(にじはじめてあらわる)
虹始見(にじはじめてあらわる) 4月15日
日増しに陽光が強くなり、雨上がりに美しい虹が見られるようになる、という意味です
。東京スカイツリーにダブルの虹、とても幻想的な風景ですね。
出典: blog.bot.vc
日増しに陽光が強くなり、雨上がりに美しい虹が見られるようになる、という意味です
。東京スカイツリーにダブルの虹、とても幻想的な風景ですね。

二十四節気「穀雨(こくう)」
・葭始生(あしはじめてしょうず)4月20日頃
水辺の葭が芽吹き始める頃。葭は夏に背を伸ばし、秋に黄金色の穂をなびかせます。
・霜止出苗(しもやみてなえいずる)4月25日頃
霜が降りなくなり、苗代で稲の苗が生長する頃。霜は作物の大敵とされています。
・牡丹華(ぼたんはなさく)4月30日頃
牡丹が大きな花を咲かせる頃。豪華で艶やかな牡丹は「百花の王」と呼ばれています。


穀雨(4月20日頃)
この時期に降る雨は「百穀春雨」、百穀を潤し芽を出させる春雨といわれています。種
まきなどを始めるのに適した時期として、農作業の目安になっています。
初候:「葭始生」(あしはじめてしょうず)
次候:「霜止出苗」(しもやみてなえいずる)
末候:「牡丹華」(ぼたんはなさく)
牡丹華(ぼたんはなさく) 4月30日
牡丹の花が咲く頃。牡丹は日本には遣唐使によってもたらされたともいわれ「富貴草」
、「百花の王」などの別名があります。
出典: www.yuushien.com
牡丹の花が咲く頃。牡丹は日本には遣唐使によってもたらされたともいわれ「富貴草」
、「百花の王」などの別名があります。

二十四節気「立夏(りっか)」
・蛙始鳴(かわずはじめてなく)5月5日頃
蛙が鳴き始める頃。水田の中をスイスイ泳ぎ、活発に活動を始めます。「かわず」は蛙
の歌語・雅語。
・蚯蚓出(みみずいずる)5月10日頃
みみずが地上に出てくる頃。畑土をほぐしてくれるみみずは、動き始めるのが少し遅め
です。
・竹笋生(たけのこしょうず)5月15日頃
たけのこが出てくる頃。たけのこは成長が早く、一晩でひと節伸びると言われています
。
立夏イメージ

立夏(5月5日頃)
暦の上では立夏から立秋の前日までが「夏」とされています。「夏が立つ」夏の始まり
です。
初候:「蛙始鳴」(かわずはじめてなく)
次候:「蚯蚓出」(みみずいずる)
末候:「竹笋生」(たけのこしょうず)
竹笋生(たけのこしょうず) 5月15日
タケノコが生えてくる頃。「雨後の筍」というたとえもある通り、雨の降った後は続々
と生えてくるそうです。
出典: chirotic.exblog.jp
タケノコが生えてくる頃。「雨後の筍」というたとえもある通り、雨の降った後は続々
と生えてくるそうです。

二十四節気「小満(しょうまん)」

・蚕起食桑(かいこおきてくわをはむ)5月21日頃
蚕が桑の葉を盛んに食べだす頃。蚕がつむいだ繭が美しい絹糸になります。
・紅花栄(べにばなさかう)5月26日頃
紅花の花が咲きほこる頃。紅花は染料や口紅になり、珍重されました。
麦秋至(むぎのときいたる)5月31日頃
麦の穂が実り始める頃。「秋」は実りの季節を表し、穂を揺らす風は「麦の秋風」。

小満(5月21日頃)
陽気が日増しに良くなり、万物が成長して天地に満ち始めることから小満と言われれる
そうです。
初候:「蚕起食桑」(かいこおきてくわをはむ)
次候:「紅花栄」(べにばなさかう)
末候:「麦秋至」(むぎのときいたる)
麦秋至(むぎのときいたる) 5月31日
麦の穂が実り始め、収穫するころ。季節としては初夏ですが、麦にとっては収穫の「秋
」であることから、名づけられた季節が「麦秋」です。「麦秋」は俳句の夏の季語の一
つです。
出典: www.couleure.jp
麦の穂が実り始め、収穫するころ。季節としては初夏ですが、麦にとっては収穫の「秋
」であることから、名づけられた季節が「麦秋」です。「麦秋」は俳句の夏の季語の一
つです。

二十四節気「芒種(ぼうしゅ)」
・蟷螂生(かまきりしょうず)6月5日頃
かまきりが卵からかえる頃。ピンポン球ほどの卵から数百匹の子が誕生します。
・腐草為螢(くされたるくさほたるとなる)6月10日頃
草の中から蛍が舞い、光を放ち始める頃。昔は腐った草が蛍になると考えていました。
・梅子黄(うめのみきばむ)6月15日頃
梅の実が黄ばんで熟す頃。青い梅が次第に黄色みをおび、赤く熟していきます。
芒種イメージ
芒種(6月6日頃)
稲・麦など芒(のぎ)をもつ穀物の種をまく季節とされたことから、芒種と呼ばれていま
す。実際の種まきはこれより早い時期に行われます。
初候:「蟷螂生」(かまきりしょうず)
次候:「腐草為蛍」(くされたるくさほたるとなる)
末候:「梅子黄」(うめのみきばむ)
腐草為蛍(かれたるくさほたるとなる) 6月11日
腐った草が蒸れて、蛍になるという意味。昔は腐った草が蛍になると考えられていたそ
うです。ホタルの幻想的な光は風情ある夏の夜の風物詩ですね。
出典: jp.pinterest.com
腐った草が蒸れて、蛍になるという意味。昔は腐った草が蛍になると考えられていたそ
うです。ホタルの幻想的な光は風情ある夏の夜の風物詩ですね。



二十四節気「夏至(げし)」

・乃東枯(なつかれくさかるる)6月21日頃
夏枯草の花が黒ずみ枯れたように見える頃。「夏枯草」(かごそう)はうつぼ草の異名で
す。
・菖蒲華(あやめはなさく)6月26日頃
あやめの花が咲き始める頃。端午の節供に用いる菖蒲(しょうぶ)ではなく、花菖蒲のこ
とです。
・半夏生(はんげしょうず)7月1日頃
半夏が生え始める頃。田植えを終える目安とされました。「半夏」は「烏柄杓」(から
すびしゃく)の異名。
夏至(6月21日頃)
夏至とは「日長きこと至る、きわまる」と言う意味だそうです。一年で昼の長さが最も
長く、夜が短い日。正午の太陽の高さも一年で最も高くなります。
初候:「乃東枯」(なつかれくさかるる)
次候:「菖蒲華」(あやめはなさく)
末候:「半夏生」(はんげしょうず)
半夏生(はんげしょうず) 7月2日
梅雨の末期に、半夏(別名=烏柄杓<からすびしゃく>)という毒草が生える、多湿で
不順な頃のこと。農家ではこの日までに田植えを済ませ、どんなに気候が不順でもこの
後には田植えをしないという習慣があったそうです。
出典: jp.pinterest.com
梅雨の末期に、半夏(別名=烏柄杓<からすびしゃく>)という毒草が生える、多湿で
不順な頃のこと。農家ではこの日までに田植えを済ませ、どんなに気候が不順でもこの
後には田植えをしないという習慣があったそうです。

二十四節気「小暑(しょうしょ)」
・温風至(あつかぜいたる)7月7日頃
熱い風が吹き始める頃。温風は梅雨明けの頃に吹く南風のこと。日に日に暑さが増しま
す。
・蓮始開(はすはじめてひらく)7月12日頃
蓮の花が咲き始める頃。優美で清らかな蓮は、天上の花にたとえられています。
・鷹乃学習(たかすなわちがくしゅうす)7月17日頃
鷹の子が飛ぶ技を覚え、巣立ちを迎える頃。獲物をとらえ一人前になっていきます。
小暑イメージ
小暑(7月7日頃)
この頃から暑さがだんだん強くなっていくという意味です。例年では小暑から3~7日く
らい遅れて梅雨明けすることが多いようです。
初候:「温風至」(あつかぜいたる)
次候:「蓮始開」(はすはじめてひらく)
末候:「鷹乃学習」(たかすなわちがくしゅうす)
鷹乃学習(たかすなわちがくしゅうす) 7月17日
春に生まれた鷹の幼鳥が、飛び方や獲物を捕らえる技を覚え、巣からの旅立ちを迎える
頃。日本では古今タカといえば「大鷹」をさすことが多く、優れたハンターであること
から「鷹狩り」などに使われました。
出典: claire-de-lune.jp
春に生まれた鷹の幼鳥が、飛び方や獲物を捕らえる技を覚え、巣からの旅立ちを迎える
頃。日本では古今タカといえば「大鷹」をさすことが多く、優れたハンターであること
から「鷹狩り」などに使われました。

二十四節気「大暑(たいしょ)」
・桐始結花(きりはじめてはなをむすぶ)7月23日頃
桐の花が実を結び始める頃。桐は箪笥や下駄など暮らしの道具に欠かせないものです。
・土潤溽暑(つちうるおうてむしあつし)7月28日頃
土がじっとりとして蒸し暑くなる頃。蒸し暑いことを「溽暑(じょくしょ)」と言いま
す。
・大雨時行(たいうときどきふる)8月2日頃
ときどき大雨が降る頃。むくむくと湧き上がる入道雲が夕立になり、乾いた大地を潤し
ます。
大暑(7月23日頃)
梅雨明けの時期で、夏の土用もこの頃にあたります。最も暑い頃という意味ですが、現
代では実際の暑さのピークはもう少し後になりますね。
初候:「桐始結花」(きりはじめてはなをむすぶ)
次候:「土潤溽暑」(つちうるおうてむしあつし)
末候:「大雨時行」(たいうときどきふる)
大雨時行(たいうときどきふる) 8月3日
「ときどき大雨が降る」の意。ざあっと降る夕立より、近年では異常気象による大型台
風やゲリラ豪雨のほうが強い印象がありますね。
出典: jp.pinterest.com
「ときどき大雨が降る」の意。ざあっと降る夕立より、近年では異常気象による大型台
風やゲリラ豪雨のほうが強い印象がありますね。

二十四節気「立秋(りっしゅう)」
・涼風至(すずかぜいたる)8月7日頃
涼しい風が吹き始める頃。まだ暑いからこそ、ふとした瞬間に涼を感じることができま
す。
・寒蝉鳴(ひぐらしなく)8月12日頃
カナカナと甲高くひぐらしが鳴き始める頃。日暮れに響く虫の声は、一服の清涼剤。
・蒙霧升降(ふかききりまとう)8月17日頃
深い霧がまとわりつくように立ち込める頃。秋の「霧」に対して、春は「霞」と呼びま
す。
立秋イメージ

立秋(8月7日頃)
暦の上では秋になりますが、まだまだ残暑が厳しく気温の高い日が続く時期。
初候:「涼風至」(すずかぜいたる)
次候:「寒蝉鳴」(ひぐらしなく)
末候:「蒙霧升降」(ふかききりまとう)
蒙霧升降(ふかききりまとう) 8月18日
深い霧がまとわりつくようにたちこめる頃。俳句の季語では秋は「霧」、春は「霞(か
すみ)」になります。
出典: jp.pinterest.com
深い霧がまとわりつくようにたちこめる頃。俳句の季語では秋は「霧」、春は「霞(か
すみ)」になります。

二十四節気「処暑(しょしょ)」
・綿柎開(わたのはなしべひらく)8月23日頃
綿を包むガクが開き始める頃。綿の実がはじけ白いふわふわが顔をのぞかせた様子。
・天地始粛(てんちはじめてさむし)8月28日頃
天地の暑さがようやくおさまり始める頃。「粛」は縮む、しずまるという意味です。
・禾乃登(こくものすなわちみのる)9月2日頃
いよいよ稲が実り、穂を垂らす頃。「禾」は稲穂が実ったところを表した象形文字。

処暑(8月23日頃)
暑さが和らぐという意味。長く厳しかった夏もようやく暑さの峠を越し、朝夕は涼風が
吹き始めます。
初候:「綿柎開」(わたのはなしべひらく)
次候:「天地始粛」(てんちはじめてさむし)
末候:「禾乃登」(こくものすなわちみのる)
禾乃登(こくものすなわちみのる) 9月2日
稲穂に米が実り、日に日に熟していきます。「禾」は稲穂が垂れることをあらわした象
形文字だそうです。
出典: blog.livedoor.jp
稲穂に米が実り、日に日に熟していきます。「禾」は稲穂が垂れることをあらわした象
形文字だそうです。

二十四節気「白露(はくろ)」
・草露白(くさのつゆしろし)9月7日頃
草に降りた露が白く光って見える頃。朝夕の涼しさが際立ってきます。
・鶺鴒鳴(せきれいなく)9月12日頃
せきれいが鳴き始める頃。せきれいは日本神話にも登場し、別名は「恋教え鳥」。
・玄鳥去(つばめさる)9月17日頃
燕が子育てを終え、南へ帰っていく頃。来春までしばしのお別れです。
白露イメージ
白露(9月8日頃)
夜の間に大気が冷え、草花の上に朝露が宿るという意味。本格的な秋の訪れを感じる頃
です。
初候:「草露白」(くさのつゆしろし)
次候:「鶺鴒鳴」(せきれいなく)
末候:「玄鳥去」(つばめさる)
玄鳥去(つばめさる) 9月18日
春先に飛来した燕が日本で夏を過ごし子育てを終え、南へ帰っていきます。越冬先であ
る東南アジアやオーストラリアまでは数千キロメートルにも及ぶ旅が待っています。
出典: blog.livedoor.jp
春先に飛来した燕が日本で夏を過ごし子育てを終え、南へ帰っていきます。越冬先であ
る東南アジアやオーストラリアまでは数千キロメートルにも及ぶ旅が待っています。

二十四節気「秋分(しゅうぶん)」
・雷乃収声(かみなりすなわちこえをおさむ)9月23日頃
雷が鳴らなくなる頃。春分に始まり夏の間鳴り響いた雷も、鳴りをひそめます。
・蟄虫坏戸(むしかくれてとをふさぐ)9月28日頃
虫たちが土にもぐり、入口の戸をふさぐ頃。冬ごもりの支度をする時期です。
・水始涸(みずはじめてかるる)10月3日頃
田んぼの水を抜き、稲刈りの準備をする頃。井戸の水が枯れ始める頃との説も。
秋分(9月23日頃)
春分と同じく真東から昇った太陽が真西に沈み、昼と夜の長さがほぼ同じになります。
「暑さ寒さも彼岸まで」ということわざもあるように、この日を境にだんだんと寒さが
増していきます。
初候:「雷乃収声」(かみなりすなわちこえをおさむ)
次候:「蟄虫坏戸」(むしかくれてとをふさぐ)
末候:「水始涸」(みずはじめてかるる)
雷乃収声(かみなりすなわちこえをおさむ) 9月23日
雷が鳴り響かなくなる季節。夏の間、夕立とともにゴロゴロと鳴り響いていた雷も鳴り
を潜めてくる頃です。俳句の季語では「雷」は夏、「稲妻」は秋に分類されています。

二十四節気「寒露(かんろ)」
・鴻雁来(こうがんきたる)10月8日頃
雁が渡ってくる頃。清明の時期に北へ帰っていった雁たちが、再びやってきます。
・菊花開(きくのはなひらく)10月13日頃
菊の花が咲き始める頃。旧暦では重陽の節供の時期で、菊で長寿を祈願しました。
・蟋蟀在戸(きりぎりすとにあり)10月18日頃
戸口で秋の虫が鳴く頃。昔は「こおろぎ」を「きりぎりす」と呼びました。
寒露イメージ

寒露(10月8日頃)
寒露とは、文字の示す通り晩夏から初秋にかけて野草に宿る冷たい露のことを言います
。しんしんと深まりゆく秋、大気も安定して青く高い空、秋晴れの日が多くなる頃です
。
初候:「鴻雁来」(こうがんきたる)
次候:「菊花開」(きくのはなひらく)
末候:「蟋蟀在戸」(きりぎりすとにあり)
菊花開(きくのはなひらく) 10月13日
菊の花が美しく咲き始める頃。各地で菊の品評会や菊まつりが開かれます。
出典: pixabay.com
菊の花が美しく咲き始める頃。各地で菊の品評会や菊まつりが開かれます。

二十四節気「霜降(そうこう)」
・霜始降花(しもはじめてふる)10月23日頃
山里に霜が降り始める頃。草木や作物を枯らす霜を警戒する時期です。
・霎時施(こさめときどきふる)10月28日頃
ときどき小雨が降る頃。「霎」をしぐれと読むことも。ひと雨ごとに気温が下がります
。
・楓蔦黄(もみじつたきばむ)11月2日頃
楓(かえで)や蔦の葉が色づく頃。晩秋の山々は赤や黄に彩られ、紅葉狩りの季節です
。

霜降(10月23日頃)
朝晩の冷え込みがいっそう厳しくなり、朝霜が見られる頃。山や街も紅葉で美しく彩ら
れる季節です。
初候:「霜始降」(しもはじめてふる)
次候:「霎時施」(こさめときどきふる)
末候:「楓蔦黄」(もみじつたきばむ)
楓蔦黄(もみじつたきばむ) 11月2日
楓(かえで)や蔦の葉が赤や黄色に色づく季節。紅葉という言葉は、霜や時雨の冷たさ
に、葉が揉み出されるようにして色づくことから「揉み出づ」~「もみづ」~「もみじ
」と転訛したという説もあります。
出典: jp.pinterest.com
楓(かえで)や蔦の葉が赤や黄色に色づく季節。紅葉という言葉は、霜や時雨の冷たさ
に、葉が揉み出されるようにして色づくことから「揉み出づ」~「もみづ」~「もみじ
」と転訛したという説もあります。

二十四節気「立冬(りっとう)」
・山茶始開(つばきはじめてひらく)11月7日頃
山茶花(さざんか)の花が咲き始める頃。椿と混同されがちですが、先駆けて咲くのは
山茶花です。
・地始凍(ちはじめてこおる)11月12日頃
大地が凍り始める頃。サクサクと霜柱を踏みしめて歩くのが楽しみな時期です。
・金盞香(きんせんかさく)11月17日頃
水仙が咲き芳香を放つ頃。「金盞」は金の盃のことで、水仙の黄色い冠を見立てていま
す。
立冬イメージ

立冬(11月8日頃)
本格的な冬の始まり。「立」には新しい季節になるという意味があり立春、立夏、立秋
と並んで季節の大きな節目となります。
初候:「山茶始開」(つばきはじめてひらく)
次候:「地始凍」(ちはじめてこおる)
末候:「金盞香」(きんせんかさく)
金盞香(きんせんかさく) 11月17日
水仙の花が咲き始める頃。キク科のキンセンカとは異なります。昔、中国で水仙の花の
黄色い部分を黄金の杯に、白い花弁を銀の台にたとえ、「金盞銀台(きんせんぎんだい)
」と呼んだことが別称の由来だそうです。
出典: carlos07.at.webry.info
水仙の花が咲き始める頃。キク科のキンセンカとは異なります。昔、中国で水仙の花の
黄色い部分を黄金の杯に、白い花弁を銀の台にたとえ、「金盞銀台(きんせんぎんだい)
」と呼んだことが別称の由来だそうです。

二十四節気「小雪(しょうせつ)」
・虹蔵不見(にじかくれてみえず)11月22日頃
陽の光も弱まり、虹を見かけなくなる頃。「蔵」には潜むという意味があります。
・朔風払葉(きたかぜこのはをはらう)11月27日頃
北風が木の葉を吹き払う頃。「朔風」は北の風という意味で、木枯らしをさします。
・橘始黄(たちばなはじめてきばむ)12月2日頃
橘の実が黄色く色づき始める頃。常緑樹の橘は、永遠の象徴とされています。
小雪(11月23日頃)
気象庁の天気予報用語での「小雪」は「数時間降り続いても、降水量として1mmに達し
ない雪」だそうです。
初候:「虹蔵不見」(にじかくれてみえず)
次候:「朔風払葉」(きたかぜこのはをはらう)
末候:「橘始黄」(たちばなはじめてきばむ)
朔風払葉(きたかぜこのはをはらう) 11月27日
北風が木々の枝から紅葉や枯葉を吹き払う頃。「朔風」とは北から吹く風、北風のこと
です。
出典: blog.livedoor.jp
北風が木々の枝から紅葉や枯葉を吹き払う頃。「朔風」とは北から吹く風、北風のこと
です。


二十四節気「大雪(たいせつ)」
・閉塞成冬(そらさむくふゆとなる)12月7日頃
空が閉ざされ真冬となる。空をふさぐかのように重苦しい空が真冬の空です。
・熊蟄穴(くまあなにこもる)12月12日頃
熊が穴に入って冬ごもりする頃。何も食べずに過ごすため、秋に食いだめをします。
・?魚群(さけのうおむらがる)12月17日頃
鮭が群がって川を上る頃。川で生まれた鮭は、海を回遊し故郷の川へ帰ります。
大雪イメージ
大雪(12月7日頃)
山だけでなく平野にも降雪のある季節。寒さが日増しに厳しくなってゆきます。
初候:「閉塞成冬」(そらさむくふゆとなる)
次候:「熊蟄穴」(くまあなにこもる)
末候:「?魚群」(さけのうおむらがる)
熊蟄穴(くまあなにこもる) 12月12日
クマが冬眠するために、穴に入る時期。クマは小型の動物とは異なり冬眠中は中途覚醒
や、排便・排尿もしないそうです。飼育されているクマは冬眠はしないのだとか。
出典: ameblo.jp
クマが冬眠するために、穴に入る時期。クマは小型の動物とは異なり冬眠中は中途覚醒
や、排便・排尿もしないそうです。飼育されているクマは冬眠はしないのだとか。

二十四節気「冬至(とうじ)」
・乃東生(なつかれくさしょうず)12月22日頃
夏枯草が芽をだす頃。夏至の「乃東枯」に対応し、うつぼ草を表しています。
・麋角解(さわしかのつのおつる)12月27日頃
鹿の角が落ちる頃。「麋」は大鹿のことで、古い角を落として生え変わります。
雪下出麦(ゆきわたりてむぎのびる)1月1日頃
雪の下で麦が芽をだす頃。浮き上がった芽を踏む「麦踏み」は日本独特の風習です。

冬至(12月22日頃)
日照時間が減り、夏至と反対に夜が最も長く昼が短い日。冬至にかぼちゃを食べるのは
風邪を引かない、金運を祈願するというような意味があるそうです。
初候:「乃東生」(なつかれくさしょうず)
次候:「麋角解」(さわしかのつのおつる)
末候:「雪下出麦」(ゆきわたりてむぎのびる)
麋角解(さわしかのつのおつる) 12月27日
鹿の角が落ちる頃。麋とは大型の鹿の一種でヘラジカ、オオジカのことと言われます。
北米ではムース、エルクなどと呼ばれる鹿ですが日本には生息していません。雄の巨大
な角がこの時期になると脱落し生え変わります。
出典: jp.pinterest.com
鹿の角が落ちる頃。麋とは大型の鹿の一種でヘラジカ、オオジカのことと言われます。
北米ではムース、エルクなどと呼ばれる鹿ですが日本には生息していません。雄の巨大
な角がこの時期になると脱落し生え変わります。

二十四節気「小寒(しょうかん)」
・芹乃栄(せりすなわちさかう)1月5日頃
芹が盛んに育つ頃。春の七草のひとつで、7日の七草粥に入れて食べられます。
・水泉動(しみずあたたかをふくむ)1月10日頃
地中で凍っていた泉が動き始める頃。かすかなあたたかさを愛おしく感じる時期です。
・雉始?(きじはじめてなく)1月15日頃
雉が鳴き始める頃。雄がケーンケーンと甲高い声をあげて求愛します。
小寒イメージ

小寒(1月5日頃)
寒さが最も厳しくなる前、これから寒さが加わる頃という意味で、いわゆる「寒の入り
」です。小寒から節分までの30日間を「寒の内」といい、寒さが厳しくなり冬本番を迎
えます。
初候:「芹乃栄」(せりすなわちさかう)
次候:「水泉動」(しみずあたたかをふくむ)
末候:「雉始?」(きじはじめてなく)
芹乃栄(せりすなわちさかう) 1月5日
セリが盛んに生育する頃。冷たい沢の水辺で育つセリは春の七草のひとつとしてもよく
知られています。1月7日に無病息災を願って食べる「七草粥」にも入れられます。セリ
には鉄分が多く含まれ、増血作用が期待できるとも言われます。
出典: megandsue.com
セリが盛んに生育する頃。冷たい沢の水辺で育つセリは春の七草のひとつとしてもよく
知られています。1月7日に無病息災を願って食べる「七草粥」にも入れられます。セリ
には鉄分が多く含まれ、増血作用が期待できるとも言われます。

二十四節気「大寒(だいかん)」
・款冬華(ふきのはなさく)1月20日頃
雪の下からふきのとうが顔をだす頃。香りが強くほろ苦いふきのとうは早春の味。
・水沢腹堅(さわみずこおりつめる)1月25日頃
沢に厚い氷が張りつめる頃。沢に流れる水さえも凍る厳冬ならではの風景です。
・鶏始乳(にわとりはじめてとやにつく)1月30日頃
鶏が鳥屋に入って卵を産み始める頃。本来、鶏は冬は産卵せず、春が近づくと卵を産み
ました。
大寒(1月20日頃)
冬の最後の節気、一年で最も寒い時期です。
初候:「款冬華」(ふきのはなさく)
次候:「水沢腹堅」(さわみずこおりつめる)
末候:「鶏始乳」(にわとりはじめてとやにつく)
水沢腹堅(さわみずこおりつめる) 1月25日
沢に厚い氷が張りつめる頃。沢を流れている水さえも寒さに凍りつく厳しい冬の情景で
す。
出典: www.bionet.jp
沢に厚い氷が張りつめる頃。沢を流れている水さえも寒さに凍りつく厳しい冬の情景で
す。


雪の名前
四季折々の美しさを「雪月花」というように、雪には独特の魅力があり、それを表す言
葉もたくさん生まれました。言葉ひとつで雪の世界が広がります。


雪イメージ01

降る時期によって変わる雪の名前


・初めて降る雪は「初雪」
・例年より早く降る雪は「早雪」
・その冬初めて山々に積もる雪は「初冠雪」
・冬に別れを告げる最後の雪は「終雪」(しゅうせつ)
 「雪の別れ」「雪の果て」「雪の名残」ともいわれます。
・もうすぐ春という頃に名残を惜しむように降る雪は「名残雪」(なごりゆき)
 有名な歌もありますね。
・春になっても残る雪は「残雪」「去年の雪」(こぞのゆき)
・なかなか溶けずに残る雪は「根雪」
・1年中溶けない雪は「万年雪」

雪の状態を表した名前


・雪の美しさを表す「白雪」「雪花」(せっか)「深雪」(みゆき)
・細やかに降る雪のことを「細雪」(ささめゆき)
 谷崎潤一郎の小説や、歌謡曲にもありますね。
・粉のように細やかな雪のことを「粉雪」「米雪」(こごめゆき)
スキーをするならこんなパウダー・スノーがよいですね。「粉雪」というヒット曲もあ
りました。
・灰のようにふわふわ舞う雪は「灰雪」
・うっすらと積もってすぐ溶けてしまう雪は「泡雪」「淡雪」「沫雪」(あわゆき)
・比較的あたたかい時期に降る、玉の形をした雪を「玉雪」
・雪のひとひらが大きな雪を「綿雪」「牡丹雪」「花びら雪」
ひとひらの雪のことを雪片(せっぺん)といいます。
・玉雪や綿雪がややとけている状態を「餅雪」
・餅雪よりも水分の多い雪は「べた雪」「濡れ雪」
・べた雪と雨の中間は「水雪」
・風上の降雪地から、風にのって流されてきた雪は「風花」

積もった様子を表した名前や言葉



・雪が降り積もった様子を「銀世界」「銀雪」「雪化粧」
・積もったばかりの雪は「新雪」
・おめでたいときの雪は「瑞雪」
・とけたり凍ったりを繰り返してできた粗い雪は「粗目雪」(ざらめゆき)
・一度にたくさん降り積もると「どか雪」
・積もった雪で薄明るくなる様子を「雪明かり」
・雪が枝や葉に積もっている様子を「雪持ち」
・樹木などに積もった雪の様子は「綿帽子」
・常緑の松の枝葉に積もった雪を「松の雪」
・枝や屋根などから落ちる雪は「垂り雪」(しずりゆき)


雪イメージ02


ひとつひとつの雪の名前をみているだけで、その情景が浮かんできます。
 雪は降り方を表す言葉も多彩で、絶え間なく降る様子は「こんこん」、ひるがえりな
がら降る様子は「ちらちら」、軽やかに降る様子は「はらはら」、空中に漂う様子は「
ふわりと」「ふわっと」などと表現し、木の枝や屋根から落ちる雪は「どさっ」。

「豪雪」では風情などといってはいられないかも知れませんが、雪は冬の使者。雪の降
る様子に美しい名前や言葉を与えた日本人の感性を、私たちも大切にしたいですね。
※参考文献『日本語使いさばき辞典』(あすとろ出版)



「食べつなぐ」記事より
1)春は、
・もろこ焼き
・せり
せり、なづな、御形、はこべら、仏の座、すずな、すずしろ、これぞ七草。七草粥
・たけのこ、ふき  たけのこご飯
・わらび
・わけぎ(二月から三月が食べごろ)
・しじみ(北小松でもよくとれた)しじみと大豆煮
・いたどり(四月から五月)いたどりの煮つけ
春は山菜の季節、4月、5月と色々な味が楽しめます。
お浸しでは、 カツオブシをまぶし醤油をかけるとサッパリ味で美味しい。
酢味噌和えや天ぷらにするのも1つ。
ノカンゾウ、クサソテツ(コゴミ)、たらの芽、ぜんまいなどはいかがですか。
「春の山菜と言えば?」のランキングでは、わらび、ぜんまい、つくし、
などに混じって、たらの芽が、堂々のランクイン入りしてます。

2)夏は、
・ハス(小骨の多い魚であり、みそ焼きなどが美味しい)
・こあゆ(北小松などでは昔から大地引網で捕っていた)天ぷらにするのが美味しい
・ごり(ハゼ科のこ魚の俗称)ごり煮といわれる佃煮が美味しい
この季節、きゅうり、枝豆、そら豆、にしんなす、などの野菜が美味しい。



伝統工芸のランキング
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社日
春分(3月21日頃)と秋分(9月23日頃)に最も近い戊(つちのえ)の日を「社日」とい
います。春の社日は「春社」、秋の社日は「秋社」とも呼ばれ、土地の神様をまつる日
とされています。

社日の由来

春の社日の頃は種まきの時期にあたり、秋の社日の頃は収穫の時期にあたります。その
ため社日は重要な節目と考えられ、春は五穀の種子を供えて豊作を祈り、秋は初穂を供
えて収穫を感謝するようになりました。
社日を祝う習慣は元々中国にあり、「土」という意味がある「戊」の日に豊作祈願をす
るもので、「社」とは土地の守護神のことを表しています。
この風習が日本に伝えられると、土地の神様を信仰する日本の風土に合い、重要な農耕
儀礼として全国に広まったようです。
地域で違う様々な行事

社日は「土の神」をまつるので、この日は農作業など、土をいじることを忌む風習が各
地に見られます。また、土地の守護神というよりも農耕の神様と捉える地域もあり、信
州の「お社日様」は春は神迎え、秋は神送りとして餅をついて祝ったといいます。
また、博多では古くから「お潮井」と呼ばれる箱崎浜の真砂を、「てぼ」という竹かご
に入れて持ち帰り、玄関先に下げておく風習があります。「災いを除き福を招くもの」
として、身を清めるお祓いに用いられたり、建物や土地のお祓いや田畑の虫よけなどに
もまいてお清めとします。
社日は、その土地ごとの神様を祝うので行事の形は様々です。


七十二候の最終候「鶏始乳」。からだを温める飲み物「たまご酒」。


1月30日から七十二候の「鶏始乳(にわとりはじめてとやにつく)」になります。春の
到来を感じた鶏が鳥屋に入って卵を産み始める頃という意味です。本来、鶏の産卵期は
春から夏にかけて。冬は産卵をしなかったのです。

鶏は、夜明けになると鳴いて朝を知らせます。天岩戸の神話では、岩屋に隠れてしまっ
た天照大神をなんとか外に出そうと様々なことが試されますが、その中のひとつが「長
鳴き鳥を鳴かせてみる」ということでした。この長鳴き鳥というのは鶏のこと。ただ、
神話では天照大神を岩屋から出すことはできなかったようです。

「鶏始乳」は七十二候の最後の候。次は、第一候の立春!いよいよ春ですね。
とはいうものの、寒さはまだまだ続くので風邪に注意しましょう。予防にはうがい、手
洗いはもちろんですが、からだを芯から温めてゆっくり休むのも大切です。そんな時に
おすすめなのは、昔ながらの「たまご酒」。

たまご酒補正DSC_3143.jpg

卵は良質のたんぱく質が豊富です。また、卵白に含まれる「リゾチーム」という酵素は
風邪薬にも使われている成分で、殺菌効果と免疫力を高める働きがあるそうです。卵は
半熟が最も消化の良い状態ですから、お酒に溶かして飲むたまご酒は、効率良く栄養成
分を摂取でき、日本酒の効果でさらにぽかぽか。
たまご酒のおいしい作り方をご紹介していますので、ぜひお試しください。

【季節のめぐりと暦】七十二候
http://i-nekko.jp/meguritokoyomi/shichijyuunikou/
【食の歳時記・旬の味】たまご酒
http://www.i-nekko.jp/shoku/2016-012710.html


「初午」は2月の最初の午の日。この日は稲荷神のお祭りで、全国各地の稲荷神社で豊
作、商売繁盛、開運、家内安全を祈願します。稲荷神のお使いといわれるキツネの好物
の油揚げや、初午団子を供える風習もあります。

初午の由来



稲荷神社は全国に約4万社。農業、漁業、商売、家庭円満にご利益があるとされ、京都
市伏見区の伏見稲荷大社が総本社です。伏見稲荷によると、和銅4年(711年)の2月の
最初の午の日に、祭神が稲荷山(伊奈利山)の三箇峰に降りたという故事から、稲荷神
を祭る祭事が行われるようになったとされます。


初午イメージ


旧暦2月の初午の日は今の3月にあたり、ちょうど稲作を始める時期だったため、農耕の
神様を祭るようになりました。稲荷の名は「稲生り」から来たともいわれています。
また、その日から習い事を始めるという風習もありました。

初午は伏見稲荷をはじめ大阪の玉造稲荷、愛知県の豊川稲荷など、各地の稲荷神社で盛
大に祭がとり行われます。ご近所のお稲荷さんにも赤いのぼりが立ち、賑やかになるで
しょう。初午の日には、赤飯や油揚げ、団子などを供えて祭ります。

初午のお供え物

いなり寿司



稲荷神社といえばきつねがつきもの。きつねは稲荷神のお使い役で油揚げが大好物。初
午の日には、油揚げや油揚げにすし飯を詰めたものを奉納しました。これが、いなり寿
司の始まりで、きつねの大好物の油揚げを人間もたくさん食べられるよう考案されまし
た。稲荷神社もいなり寿司も親しみを込めて「おいなりさん」と呼ばれています。
いなり寿司は、東日本では米俵に見立てた俵型ですが、西日本ではきつねの耳に見立て
た三角が主流です。


いなり寿司イメージ

しもつかれ


また、初午の行事食として有名なのが、栃木県を中心に北関東に伝わる「しもつかれ」
です。鮭の頭と、鬼おろしですった大根やにんじん、油揚げ、大豆、酒粕と煮る煮つけ
で、おせち料理や節分の豆の残りなどをうまく使った栄養満点の郷土料理です。

※しもつかれについて詳しくはこちらをご覧ください。 → しもつかれ

初午団子


初午には蚕の神様を祀る行事も行われました。養蚕をしている家では、繭がたくさんで
きるようにと願い、餅粉で繭の形に作った団子をお供えしました。地域によっては、団
子を繭玉に見立てて中に小豆を一粒入れたり、ざるの中にマブシ(わらのようなもの)
を入れて蚕が繭を作るように飾ったり、繭がシミにならないよう醤油をつけずに食べた
りします。
また、初午団子をたくさん振る舞うと、繭から毛羽をとる「繭かき」の作業が賑やかに
なってよいといわれ、近所の家に配る風習もありました。

十二支の中の「初」祭事


十二支には「初午」のほか、「初」をつけてその時期にふさわしい催事を行う風習があ
ります。

・初子(はつね):正月または11月の最初の子の日
 正月最初の子の日には、野に出て小松引きや若菜摘みなどの子の日遊びが行われ、11
月最初の子の日には、商家では大黒天を祀った。

・初丑(はつうし):夏の土用のうちの最初の丑の日
 鰻を食べたり、丑湯に入ったりする風習がある。

※初丑について詳しくはこちらをご覧ください。 → 土用

・初寅(はつとら):正月最初の寅の日
 福徳を願って毘沙門天に参詣する風習がある。

・初卯(はつう):正月最初の卯の日
 初卯詣が行われる。

・初辰(はつたつ):正月最初の辰の日
 防災のまじないをする日。
 大阪の住吉大社では、月の初めの辰の日に「初辰まいり」を行い、48回で四十八辰=
始終発達するとされている。

・初巳(はつみ):正月最初の巳の日
 弁財天に参詣する風習がある。

・初申(はつざる):旧暦2月の最初の申の日
 奈良の春日神社の祭典が行われる。

・初酉(はつとり):正月または11月の最初の酉の日
 浅草鷲神社の祭礼がある。酉の市も各所で開かれる。


※初酉について詳しくはこちらをご覧ください。 → 酉の市

・初亥(はつい):正月最初の亥の日
 摩利支天(まりしてん)の縁日がある。

二十四節気の最初の節気ということで、立春を基準にさまざまな節目が決められていま
す。
また、旧暦では立春のころに元日がめぐってきて、立春と正月はほぼ重なっていました
。必ずしも立春=元日にならないのは、二十四節気は太陽の動き、元日は月の動きで決
められていたからです。
いずれにしても、立春が新しい年の始まりであり、「新春」「迎春」などの言葉にその
名残がみられます。

春冬至と春分の中間にあたるのが立春。暦の上の春は、立春から立夏の前日までをさし
ます。
節分立春の前日。豆をまくなど、邪気を祓う風習があります。
八十八夜立春から数えて88日め。この日に摘んだお茶はよいお茶になるといわれていま
す。
二百十日立春から数えて210日め。台風が来ることが多いとされています。収穫間近の
ころにやってくる台風は、稲作の大敵です。
二百二十日立春から数えて220日め。二百十日とともに農家の厄日とされています。現
代ではこの日の方が台風と重なることが多いです。
立春正月

立春を華やかに祝う国としては中国が有名。横浜の中華街では毎年「春節(しゅんせつ
)」のイベントを開催し、獅子舞や爆竹で祝います。

立春大吉

立春の早朝、禅寺の門に貼り出される文字。「立春大吉」の文字は左右対称で縁起がよ
く、厄除けになるといわれています。

今日は2月8日、「事八日」の日。
実は2月8日は「事始め」の日でもあり、「事納め」の日でもある、「事」を始めたり納
めたりする大事な日とされてきました。
「事」とは、もともと祭りあるいは祀りごとを表す言葉で、コトノカミという神を祀る
おまつりの日です。そのおまつりが12月8日と2月8日の2回あり、「事八日」「事の日」
などといわれました。コトノカミが「年神様」か「田の神様」かで、事始めと事納めの
時期が逆転するのです。
詳しくはこちらをご覧ください。理由を知れば「なるほどね!」と納得がいきますよ。

【暮らしを彩る年中行事】事始め・事納め
http://i-nekko.jp/nenchugyoji/sonohoka/kotohajime/

また、事八日には「針供養」が行われます。
針供養とは、古くなった針や、折れたり曲がったりした針、さびた針などを神社に納め
て供養し、裁縫の上達を願う行事です。その昔、針仕事は暮らしに欠かせない仕事でし
た。針供養では、役目を終えた針に感謝して、こんにゃくや豆腐に刺して拝みます。針
供養は道具に感謝しながら大切に使ってきた日本人の心がうかがえる美しい風習です。
地方や神社によっては12月8日に針供養を行うところもあります。

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また、事八日には「お事汁」を食べるという風習もあります。お事汁とは、里芋、大根
、にんじん、ごぼう、こんにゃく、小豆などを入れた味噌汁で、これを食べて無病息災
を願います。地方によって入れる具材はいろいろあるようですが、野菜がたっぷりとれ
るので、ビタミン、ミネラル、食物繊維が豊富。寒い季節に体の芯から温まる伝統の健
康長寿食といえますね。作り方はこちらでご紹介しています。

【四季と行事食】お事汁
http://www.i-nekko.jp/gyoujishoku/fuyu/otoso/index.html

そして、明日からは七十二候の第2候「黄鴬?睆(うぐいすなく)」です。山里で鴬が
鳴き始める頃。春の訪れを告げる鴬は「春告鳥(はるつげどり)」とも呼ばれます。「
梅に鶯」とよくいいますが、梅の花も早春一番に開花するおめでたい花。このふたつの
取り合わせは人々の理想のイメージで、「取り合わせが良いふたつのもの。美しく調和
するもの」という意味があります。
各地で梅まつりも開かれる頃です。早春のお出かけ先にぴったりですね。




二十四節気「雨水」。大地に芽吹く「蕗の薹」はほろ苦い春の味。


2月19日は二十四節気の「雨水」。
「雨水」とは、雪が雨に変わり、氷が溶けて水になる頃という意味。実際にはまだ雪深
いところも多く、これから雪が降り出す地域もありますが、ちろちろと流れ出す雪溶け
水に、春の足音を感じます。草木が芽生える頃で、昔から農耕の準備を始める目安とさ
れてきました。

もうじきひな祭りを迎えますが、ひな祭りの由来には水が関係しているので、雨水にひ
な人形を飾り始めると、良縁に恵まれるといわれています。おひな様を飾る家はぜひ将
来の幸せを願って、雨水に飾ってあげましょう。ひな人形の飾り方にもいわれがあるの
で、イラスト付きで解説しています。飾るときの参考にしてくださいね♪

【暮らしを彩る年中行事】五節供とは/上巳:桃の節供
http://i-nekko.jp/nenchugyoji/gosekku/jyoushi/

また、七十二候では「土脉潤起」(つちのしょううるおいおこる)に入ります。これも
、雪がしっとりとした春の雨に変わり、大地が潤い始める頃という意味で、「雨水」と
同様、春はもうすぐそこまで来ているよ、と教えてくれます。

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そして、雪解けの大地からちょこんと顔をだすのが蕗の薹。春の兆しの象徴ともいえま
す。
春の山菜には独特の苦みがありますが、この天然の苦味や辛味が冬の間に縮こまってい
たからだに刺激を与えて目覚めさせ、活動的にしてくれるといいます。蕗の薹も独特の
香りや苦みがありますが、これが春を感じさせるおいしさともいえますね。

じつはこの苦みやえぐみがからだにはとても良いもの。この苦味成分は、抗酸化作用の
あるポリフェノール類で、新陳代謝も促進してくれます。
蕗の薹はスーパーなどの店頭でも手に入るので、早春の味を楽しんでみませんか?蕗の
薹の定番、「蕗みそ」や「天ぷら」、「蕗の薹ごはん」などをご紹介しています。

【季節のめぐりと暦】二十四節気
http://i-nekko.jp/meguritokoyomi/nijyushisekki/
【季節のめぐりと暦】七十二候
http://i-nekko.jp/meguritokoyomi/shichijyuunikou/
【食の歳時記・旬の味】蕗の薹
http://www.i-nekko.jp/shoku/2016-021710.html
【四季と行事食】春/山菜
http://www.i-nekko.jp/gyoujishoku/haru/sansai/index.html
【暮らしを彩る年中行事】五節供とは/上巳:桃の節供
http://i-nekko.jp/nenchugyoji/gosekku/jyoushi/

3月15日から七十二候では「菜虫化蝶(なむしちょうとなる)」。青虫がモンシロチョ
ウになる頃という意味です。「菜虫」とは大根やかぶ、アブラナなどの葉を食べる青虫
のことです。畑を荒らす害虫の青虫がさなぎとなって冬を越し、春になると優雅な蝶へ
と生まれ変わります。花から花へと飛び回り、今度は花粉を運んでくれるようになるの
は、何とも不思議な気がします。暖かな春の日差しを浴びてひらひらと蝶が飛ぶ姿は、
かわいくもあり、はかなげでもありますね。

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また、3月16日は「十六団子」の日。田の神様が山から里へ下りてきて、これから始ま
る農作業を見守り、秋の収穫が済むと山に帰っていくという信仰があり、田の神様が来
る3月と帰っていく10月または11月の16日には、16個の団子を作ってお供えをしました
。今でも東北地方の一部ではこの風習が続いています。

さて、春を迎えるこの時期、日本各地には「春告げ魚」と呼ばれる魚たちがいます。た
とえば、春の季語にもなっている「鰆(さわら)」。「魚」偏に「春」と書くように、
瀬戸内海を中心に春に旬を迎え、春の訪れを知らせる魚です。北国では、春告げ魚とい
えばかつては「鰊(にしん)」でしたが、不漁のため鰊に変わってメバルが春告げ魚と
呼ばれるようになってきました。この他にも兵庫県のイカナゴ、伊豆諸島のハマトビウ
オ、また、渓流釣りでは3月に解禁されることからアマゴやヤマメなども春告げ魚と呼
ばれます。
春先になるとぴちぴちと元気に集まってくる魚たちに、人は親しみを込めて「春告げ魚
」と呼んだのでしょう。詳しくはこちらをご覧ください。

【食の歳時記・旬の味】春告げ魚
http://www.i-nekko.jp/shoku/2016-031310.html
【季節のめぐりと暦】七十二候
http://i-nekko.jp/meguritokoyomi/shichijyuunikou/

3月20日は春分。春分の日は、昼と夜の長さがほぼ同じになり、この日を境に昼の時間
が少しずつのびていきます。春分の日を中日とした7日間が春の彼岸。「暑さ寒さも彼
岸まで」というように、春めいた日が多くなって来るでしょう。
また、七十二候では「雀始巣(すずめはじめてすくう)」になります。雀が巣を作り始
める頃で、多くの小鳥たちが繁殖期を迎えます。

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彼岸には先祖のお墓参りをする習慣がありますが、それは、仏教ではあの世(彼岸:ひ
がん)は西に、この世(此岸:しがん)は東にあるとされ、太陽が真東から昇って真西
に沈む春分の日と秋分の日は、あの世とこの世が最も通じやすい日と考えられたからで
す。お墓参りに出かけ、家族の元気な姿を見せるのも先祖供養のひとつですね。
お墓参りには厳格なしきたりなどはありませんが、基本的なマナーは押さえておきたい
もの。こちらを参考にしてくださいね。
【暮らしの作法】お墓参りの作法
http://www.i-nekko.jp/sahou/omairi/sahou/index.html

また、祝日法によると、春分の日は「自然をたたえ、生物をいつくしむ日」なんだそう
です。確かに、日差しも明るくなり、寒そうに枝を震わせていた木々に若葉が芽生え、
花の蕾もほころんで、生命の息吹を身近に感じる頃です。わが家の近くの公園の早咲き
の桜はもう満開。暖かくなって再開したウォーキングの楽しみのひとつです。

【季節のめぐりと暦】七十二候
http://www.i-nekko.jp/meguritokoyomi/shichijyuunikou/
【季節のめぐりと暦】雑節/彼岸
http://www.i-nekko.jp/meguritokoyomi/zassetsu/higan/index.html
【季節のめぐりと暦】二十四節気
http://www.i-nekko.jp/meguritokoyomi/nijyushisekki/
【暮らしの作法】お墓参りの作法
http://www.i-nekko.jp/sahou/omairi/sahou/index.html

3月25日から、七十二候では「桜始開(さくらはじめてひらく)」になります。
今年は3月19日に福岡と名古屋で、全国に先がけ桜の開花を発表。福岡は平年より4日、
昨年より3日早く、名古屋は平年より7日早く、昨年より2日早い開花となっています。
東京も21日に開花宣言が出され、桜前線は着々と北上中。日本中が待ち望む、お花見の
季節の到来です。

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都内ではこの週末頃が満開の時期と予想されているので、お花見の計画をしている方も
多いでしょう。
花見の歴史は古く、平安貴族たちは桜を春の花の代表格として愛で、歌を詠み、花見の
宴を開いて楽しんだそうです。江戸時代からは庶民の春の行楽としても親しまれるよう
になりました。江戸時代は、園芸が盛んになった時代でもあり、桜の品種改良が進んだ
ことで、身近な場所でお花見が楽しめるようになったのです。三代将軍家光が上野や隅
田河畔に桜を植え、八代将軍吉宗は飛鳥山を桜の名所にし、花見の場も増えました。こ
れらは今でも東京のお花見の名所になっています。

このように桜は古くから親しまれており、春の気候や情景を表すことばにも「桜」が使
われているものがたくさんあります。例えば、満開時期の「こぼれ桜」、散りゆく様の
「花筏」や「花吹雪」、夜桜見物では「花冷え」の中、幻想的な「花明かり」を楽しむ
なんてお花見はいかがですか。
桜にまつわる美しいことばやお花見の歴史などについてご紹介しています。

【季節のめぐりと暦】七十二候
http://i-nekko.jp/meguritokoyomi/shichijyuunikou/
【暮らしの中の歳時記】桜にまつわることば
http://www.i-nekko.jp/kurashi/2016-032310.html
【暮らしを彩る年中行事】お花見
http://www.i-nekko.jp/nenchugyoji/ohanami/
【暮らしを彩る年中行事】桜の種類
http://www.i-nekko.jp/nenchugyoji/ohanami/sakura/
【四季と行事食】桜餅
http://www.i-nekko.jp/gyoujishoku/haru/sakuramochi/index.html


月30日から、七十二候では「雷乃発声(かみなりすなわちこえをはっす)」に入ります
。冬の間は鳴りを潜めていた雷が、遠くの空でゴロゴロと鳴り始め、春の訪れを告げる
頃です。「春雷(しゅんらい)」は「虫出しの雷」とも呼ばれ、冬の間隠れていた虫た
ちも活動し始めます。

この頃に旬を迎える魚に真鯛があります。桜が咲く頃、産卵期を迎えて脂がのり、ひと
きわおいしい鯛としてこの時期は「桜鯛」という名で呼ばれています。「サクラダイ」
という魚もいるのですが、これはスズキ目ハタ科サクラダイ属に属している別の魚。食
用で出回っているのもあまり見かけません。

お祝いごとに付き物の真鯛は、その赤い色が美しく、姿かたちが立派で味も優れている
ということで、古来より日本人に親しまれてきました。「古事記」や「延喜式」にも登
場し、朝廷への貢物として使われていたことがうかがえます。江戸時代になると将軍家
に献上するため、江戸に鯛が集められるようになりました。

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「目の下一尺」といわれ、体長40~50㎝くらいのものがおいしいそうです。お刺身はも
ちろん、煮ても焼いてもおいしい真鯛。尾頭付きの真鯛はお祝い事でもないとあまり買
うことがありませんが、お刺身なら手軽です。ひと手間かけて鯛茶漬けなどにすると、
ちょっとぜいたくな気分になれます。真鯛の刺身を醤油とみりんに漬けこみ、お好みの
薬味とともにごはんにのせて熱い煎茶を注ぎます。お好みでだし茶漬けにしても良いで
すね。

【季節のめぐりと暦】七十二候
http://i-nekko.jp/meguritokoyomi/shichijyuunikou/


4月8日または月遅れの5月8日には「花祭り」が行われます。
正式には「灌仏会(かんぶつえ)」、「仏生会(ぶっしょうえ)」と呼ばれる行事で、
仏教の開祖お釈迦様の誕生日とされています。
花いっぱいの「花御堂」にお釈迦様の誕生の姿を表した「誕生仏」が飾られ、その頭上
から甘茶をかけてお参りしますが、この日に振る舞われた甘茶を飲むと、無病息災にな
るといわれています。なぜ誕生仏に甘茶をかけるのか。また、誕生仏の姿が表す教えに
ついてなど、詳しくはこちらをご覧ください。
【暮らしを彩る年中行事】灌仏会
http://www.i-nekko.jp/gyoji/2016-040510.html

誕生仏.jpg

多くの方が日常では仏教とあまり接点がないといいますが、実は身近な言葉の語源にな
っていることも多く、私たちの生活に深く根付いています。
例えば
「有頂天」=仏教の三界(無色界、色界、慾界)の頂点(無色界)を指し、調子に乗っ
て良い状態から落ちないように戒める言葉。
「ありがとう」=たくさんの生き物の中で人間に生まれるのは非常に確率の低い「有り
難い」ことなので、人として生まれたこと自体に感謝しなさいという教えによるもの。
「経営」=「自分自身をどう生かすか」という仏教用語。
「往生」=極楽浄土に往って生まれ変わるという意味。
「玄関」=奥深い仏の道への入り口という意味。
など、ちょっと意外ですね。

また、4月9日からは、七十二候の「鴻雁北(こうがんかえる)」です。燕が南からやっ
て来る季節には、北に帰って行く鳥もいます。雁もそういう渡り鳥で、夏場をシベリア
で過ごすため、渡って行きます。

青森県津軽の外ヶ浜付近では、浜に打ち寄せられた木片を集めて風呂を焚く風習があり
、「雁風呂(がんぶろ)」といいます。この地方に伝わる民話によると、秋に雁が海を
渡って来るとき、海面に浮かべて休むための小枝を1本くわえて来るそうです。浜に着
くと小枝を落とし、次の春、また北へ帰るとき、同じ小枝を拾って帰るのだそうです。
ところが、雁たちが小枝を落とした浜には、春になっても拾われない小枝が残ります。
それは冬の間に死んでしまった雁たちのもの。浜の人たちは供養のためにその枝で風呂
を焚き、旅人たちに振る舞ったということです。じんわりと心に残るお話ですね。
「雁風呂」は春の季語や、落語の一席にもなっています。

【暮らしを彩る年中行事】灌仏会
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【季節のめぐりと暦】七十二候
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「十三詣り」で知恵もらい。七十二候「虹始見」、虹は何色?


旧暦3月13日、現在は4月13日に行われる「十三詣り」は、子どもの健やかな成長を願う
行事のひとつです。数え年で13歳になる子どもたちが13番目に生まれた「虚空蔵菩薩」
に参拝します。13歳は干支が一回りして最初に戻った初めての年であり、子どもがここ
まで成長したことを祝い、感謝を捧げます。また、最初の厄年の厄を払い、無病息災を
願います。関東ではあまり一般的ではありませんが、関西では盛んに行われています。

虚空蔵菩薩は、知恵や福徳を司るので、参拝すると大人として必要な知恵を授かるとさ
れています。そのため十三詣りは別名「知恵詣」「知恵もらい」ともいいます。ただし
、参拝の後、途中で後ろを振り返ってしまうと、いただいた知恵を落としてしまうので
、鳥居を出るまで振り返ってはいけないと伝えられています。十三詣りで有名な京都の
法輪寺では、桂川にかかる長い橋、渡月橋を渡り終えるまで振り返るのはNG。大人にな
るための最初の試練かもしれませんね。

また、4月14日から七十二候の「虹始見(にじはじめてあらわる)」になります。冬の
間、乾燥していた大気が潤うようになり、雨上がりの空に虹がかかるようになるという
意味です。淡く、消えやすい春の虹も次第にくっきりとしてきます。

その虹の色ですが、何色あるかご存じですか?「虹は七色に決まっている。そんなの常
識」という声が聞こえてきそうですが、実は世界から見れば常識とはいえないようです
。

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ちなみに虹の色は「赤、橙、黄、緑、青、藍、紫」の7色と私たちは思っていますが、6
色、5色、さらにはたった2色というところもあるのです。
同じ虹を見ているのに、どうしてでしょうか。詳しくはこちらをご覧くださいね。
【暮らしの中の歳時記】虹は何色?
http://www.i-nekko.jp/kurashi/2016-041110.html

【暮らしの作法】人生の通過儀礼/十三詣り
http://www.i-nekko.jp/sahou/tsuukagirei/jyuusanmairi/index.html
【季節のめぐりと暦】七十二候
http://www.i-nekko.jp/meguritokoyomi/shichijyuunikou/
【暮らしの中の歳時記】虹は何色?
http://www.i-nekko.jp/kurashi/2016-041110.html

雑節「春の土用」。旬の味「アスパラガス」をおいしく。


4月16日から雑節の春の土用に入ります。立夏の前の18日間が春の土用です。
土用は立春、立夏、立秋、立冬前の18日間(または19日間)をさし、年に4回あります
が、これは中国の陰陽五行説からきています。万物の根源とされる「木火土金水」を四
季にあてはめると、春=木、夏=火、秋=金、冬=水になり、土が余ってしまいます。
そこで「土」を立春・立夏・立秋・立冬前の約18日間にあてはめ、土用としました。う
なぎでお馴染みの「土用の丑の日」は、立秋前の夏の土用となります。

今ではほとんど気にしなくなりましたが、昔は土用に土を掘り起こすようなことはして
はいけないと言われていました。土用は土を司る土公神(どくじん/どこうじん)とい
う神様が支配する期間なので、土いじりをして神様を傷つけてはいけないと考えられた
からです。
でも、18日間、年に4回も農作業や工事などができないのは困りもの。そこで、考えら
れたのが「土用の間日」です。土公神が天上にのぼっている日は土いじりをしても良い
とされ、春は巳・午・酉にあたる日が間日なので、今回は、4月17日、18日、21日、29
日、30日、5月3日が土用の間日です。雑節というのは農作業との関わりが強いので、季
節の変わり目にあたる土用の時期に、農作業で体調を崩さないようにするための戒めで
もあったようです。

花や野菜の苗を植えるのに良い季節ですね。間日を選んで植えてみてはいかがでしょう
か。花や実の付きがよくなったりすると良いですね。

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さて、今が旬の野菜にアスパラガスがありますね。グリーンアスパラガスは一年中出回
っていますが、生のホワイトアスパラガスは今だけしか出回らないので、毎年楽しみに
しています。このグリーンアスパラガスとホワイトアスパラガスは実は同じ種類のもの
。栽培方法の違いで、見た目も味も異なるアスパラガスになりました。アスパラガスの
調理のポイントなどをご紹介しています。

【季節のめぐりと暦】雑節/土用
http://i-nekko.jp/meguritokoyomi/zassetsu/doyou/
【食の歳時記・旬の味】アスパラガス
http://www.i-nekko.jp/shoku/2016-041410.html



 「食べつなぐ」記事より
1)春は、
・もろこ焼き
・せり
せり、なづな、御形、はこべら、仏の座、すずな、すずしろ、これぞ七草。七草粥
・たけのこ、ふき  たけのこご飯
・わらび
・わけぎ(二月から三月が食べごろ)
・しじみ(北小松でもよくとれた)しじみと大豆煮
・いたどり(四月から五月)いたどりの煮つけ
春は山菜の季節、4月、5月と色々な味が楽しめます。
お浸しでは、 カツオブシをまぶし醤油をかけるとサッパリ味で美味しい。
酢味噌和えや天ぷらにするのも1つ。
ノカンゾウ、クサソテツ(コゴミ)、たらの芽、ぜんまいなどはいかがですか。
「春の山菜と言えば?」のランキングでは、わらび、ぜんまい、つくし、
などに混じって、たらの芽が、堂々のランクイン入りしてます。

2)夏は、
・ハス(小骨の多い魚であり、みそ焼きなどが美味しい)
・こあゆ(北小松などでは昔から大地引網で捕っていた)天ぷらにするのが美味しい
・ごり(ハゼ科のこ魚の俗称)ごり煮といわれる佃煮が美味しい
この季節、きゅうり、枝豆、そら豆、にしんなす、などの野菜が美味しい。

 
4月25日から七十二候では「霜止出苗(しもやみてなえいずる)」になります。ようや
く霜が降りなくなり、苗代では種もみが芽吹いて青々とした苗に育っていく頃という意
味です。そろそろ田植えの準備が始まり、忙しくも活気に満ちた農家の様子が目に浮か
ぶようです。 

さて、この時期ならではの楽しみの一つに「潮干狩り」があります。
潮干狩りが庶民の娯楽となったのは江戸時代。以来、大人も子どもも楽しめる春のレジ
ャーとして人気です。
主に獲れるのはあさりですが、あさりが太るのは春と秋。海の水も温み始める今頃があ
さりの旬です。あさりは古代から食用とされており、どこの干潟でも漁ると手軽に獲れ
たから「漁る」が転じて「あさり」になったといわれています。運が良ければはまぐり
なども獲れるかもしれませんね。

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潮干狩りにベストなのは春から夏の大潮の日。干潮の2時間前から干潮までの時間帯で
楽しむのがポイントです。
海上保安庁では日本の各管区の「潮干狩り情報(カレンダー)」をHPで提供しています
。
http://www1.kaiho.mlit.go.jp/JODC/SODAN/shiohigari_calender/default.htm

ちなみに東京湾での次の大潮は5月の6日から10日の昼前後です。
せっかく出かけたならたくさん獲って帰りたいもの。持ち物などの準備や獲り方のコツ
をご紹介します。ゴールデンウィークは潮干狩りを楽しんでみてはいかがでしょうか?

【暮らしを彩る年中行事】ゴールデンウィーク
http://i-nekko.jp/nenchugyoji/sonohoka/gw/index.html
【暮らしの中の歳時記】潮干狩り
http://www.i-nekko.jp/kurashi/2015-042817.html

七十二候では明日から「牡丹華(ぼたんはなさく)」になります。花々が咲き乱れる中
、「百花の王」といわれる牡丹の花が開花する頃。全国各地の牡丹園では、艶やかな牡
丹の花が訪れる人の目を楽しませてくれるでしょう。

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牡丹は中国原産の落葉低木で、日本には奈良時代に伝わったという説があります。古く
から観賞用として栽培され、その美しさから昔から「立てば芍薬(しゃくやく)、座れ
ば牡丹、歩く姿は百合の花」と美人を表すことばにもなっています。この3つの花は容
姿だけはなく、立ち居振る舞いも美しい、そんな美人を表しているようです。容姿はと
もかく立ち居振る舞いだけでも、努力次第では美人に近づけるでしょうか......。

5月15日からは七十二候の「竹笋生(たけのこしょうず)」。筍が出てくる頃という意
味です。筍は古来よりまっすぐに育つとあって縁起の良いもの。生命力を凝縮したよう
な身はみずみずしく、野趣深いもの。シャキシャキとした食感も楽しめます。

竹冠に旬と書いて「筍」。旬は一旬、上旬、中旬、下旬などというように、10日ほどの
期間を表す言葉です。筍は成長が早く、10日ぐらいで竹になってしまうのでこの字が当
てられたそうです。

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竹にも種類があり、孟宗竹(もうそうちく)は3月中旬から5月にかけてが旬。その後、
淡竹(はちく)、真竹、根曲がり竹が旬を迎えます。孟宗竹は地面から穂先を出さない
うちに掘り出したものはアクがないそうですが、日にあたってしまうとアクが回ります
。

朝掘りといわれるように、朝掘ってすぐ食べるのが一番おいしい食べ方。朝掘り筍は穂
先をそのまま薄く切り、刺身にして食べられます。産地ならではのおいしい食べ方です
ね。
朝掘りとまではいかずとも皮付きの筍が手に入れば、甘みがあって香りの良い旬の筍料
理を家でも楽しめます。筍はアク抜きが肝心。最近は糠付きで販売していることも多い
ので、糠を加えて1時間ほどゆで、冷めるまでそのまま置きます。糠がないときはたっ
ぷりの米のとぎ汁で同じく1時間ほどゆでると良いでしょう。

筍といえば「筍ごはん」。筍を醤油、みりん、酒で煮たら、煮汁ごと炊き込みましょう
。
一口大に切った筍をだし汁と醤油、みりんで煮て大量のかつお節をかけた「土佐煮」や
、わかめと合わせた「若竹煮」なども定番中の定番。旬の味を楽しんでみてはいかがで
しょう。

また5月15日は、京都三大祭りである「葵祭」が行われます。
5月の葵祭(あおいまつり)、7月の祇園祭(ぎおんまつり)、10月の時代祭(じだいま
つり)が「京都三大祭り」といわれており、中でも「葵祭」は、平安貴族の姿そのまま
の優雅な王朝行列が、京都御所から下鴨神社を経て上賀茂神社へ向かう、京都三大祭り
を代表する祭りです。平安中期の貴族の間では「祭り」といえば「葵祭」を指しました
。
詳しくはこちらをご覧ください。
【季節の行事】京都三大祭り「葵祭」
http://www.i-nekko.jp/gyoji/2016-050210.html