2016年9月28日水曜日

秋分の夜

二十四節気「秋分(しゅうぶん)」となった。
光り輝くような月、冴えわたる虫の声、夜が楽しみな季節でもある。
・雷乃収声(かみなりすなわちこえをおさむ)9月23日頃
雷が鳴らなくなる頃。春分に始まり夏の間鳴り響いた雷も、鳴りをひそめるという。
彼岸花が赤く群れ咲き、松茸があのかぐわしい香りを漂わせる。
・蟄虫坏戸(むしかくれてとをふさぐ)9月28日頃
虫たちが土にもぐり、入口の戸をふさぐ頃。冬ごもりの支度をする時期となる。
紫苑の紫の花びらが高くのびのびと咲き誇り、里芋が美味しい。
葦場が茶色に色づきその原を風に揺らしている。なお紫苑しおんは中秋の名月頃に
良く咲き、別名、十五夜草ともいわれる。
・水始涸(みずはじめてかるる)10月3日頃
田んぼの水を抜き、稲刈りが始まる頃、井戸の水が枯れ始める頃との説もあるが。
金木犀、銀杏の香りが強烈な濃さとなって周辺を覆う。

八幡の山からのぼった月はその光を弱め、丸い球体の端が欠け始めている。蒼き
空に深く浮いていた日も、比良の山並みに吸い込まれるのがずい分早くなった。
月光は山麓を白く貫いている道を浮き立たせこの内湖の水面をを海のように
照らしている。更に、その光りはいまは人の腰まで伸びた稲穂の一つ一つにその影
を落とし、暗闇の先まで続く松林を青白く光らせ、やがて湖の湖面まで届いていた。
その稲穂の中に悄然と立つ福田寺の本堂が湖を見守るかのように周囲からひときわ
高く傘を広げたような甍が光って見えた。
残暑が和らぎ、稲穂も黄金色に色づけば、それはお月見の合図であろうか。
気が付けば、蒼く澄んだ空に黄色と朱色の色帯びた幾多の鱗雲が足早に三上山の
先へと流れ消えつつあった。それを追うかのようにまだ残る赤白い光の中に
月がその姿を見せ始めていた。

今年は9月17日が満月であった。 月は信仰の対象でもあったので、お供え物
をして収穫の感謝をする。特に芋類の収穫に感謝するという意味合いから「芋名月」
とも呼ばれ、里芋料理や満月に見立てた月見団子を、窓辺や縁側の月の見えるところ
にお供えした。十五夜と十三夜の両日を祝うのは平安から伝わる風習で、旬の食べ物
を供えることから、十五夜は「芋名月」、十三夜は「栗名月」と呼ばれる。
いわゆる「十五夜」は一年で最も美しい月が見られるとされており、旧暦では
8月は一年の中で最も空が澄みわたり、月が明るく美しく見えた。そのため
「中秋の名月」と呼ばれ、平安時代から観月の宴も開催されていた。

鰯雲はなやぐ月のあたりかな   高野素十
秋の田の穂の上に置ける白露の
  消ぬべくも吾は思ほゆるかも   詠み人知らず

蓬莱の山頂から見れば、目の下には、白く続く砂浜とその砂浜を守るような姿勢で
何百の松が数列になってこれも長く長く続いて、暗闇の中に消えていく。
少し先に黒く重く小さなざわめきを発しながら、比良の山々がこれもどこまでも
続いている。湖と山々の間には、何十という光りが紅く時には橙色に輝き、
点在しているのが見え、時折、白い線がそれらの間を流れて行く。ふと
思った。古き昔、これら眼下に広がる世界には、光りはなく、漆黒の世界が支配
していたのだろう。周囲を見渡せば、空にうがつ星たちは、何者にも邪魔されず、
伸び伸びとした光りを発しているが、先ほどの砂浜からではその光りは弱く縮み
頼りない力しか見せていない。
月明かりに映える比良の山並はトカゲの背びれの様に北へと伸び、尾根伝いの細い道
は黒々とした木々の間を走り抜けていく。更には、トカゲの横腹のような山麓が
湖との間にある平地まで降りて、わずかばかりの田畑を人間に分け与えている風に
見える。横腹からは、幾筋もの水の流れが湖に向かって月の光りを反射しながら
伸びて行き、3つほどある三角に突出した浜辺には、白く輝くさざなみが押し
寄せては消え、また新しい波を見せている。黒い水面に灯火をつけた舟が数艘、
わずかな揺れを見せながら漂っている。その揺れに合わすかのように右手を見れば、
黄色と赤の帯が間断なく湖を渡って、ゆるやかな弧を描きながら対岸の林や建物に
消えて行く。その細く赤い帯は、昼間見た曼珠沙華のつづれを思い起こさせた。
つづら折りにのびる山道の両側を赤く染め、スギ林の向こうに消えていた。
足元のその花は、紅く細い花びらを幾重にも白い茎から四方へと伸ばし、夕日の
中で、その色を一段と強めている。草原で塊となって咲いている曼珠沙華の
力強さとは違い、数本が細い筋となって赤茶けた山道を縫うように伸びていく様には、
可憐さが似合っていた。

「瓔珞品ようらくぽん」という大正の時代の作家が書いた本には、この琵琶湖の
特に満月の中の情景の素晴らしさが描かれていた。
琵琶湖の夜の美しさに魅了された主人公が何度となく琵琶湖を訪れて、
天人石を探したり、夢の中で鮒になったり、無限の世界を体感する話のだ。
「水を切る船端の波の走るのが、銀を落とすと、白い瑠璃の階きざはしが、
星を鏤めてきらきらと月の下へ揺れかかって、神女の、月宮殿に朝する
姿がありありと拝まれると申します。」とか、
「霜のように輝いて、自分の影の映るのが、あたらしいほど甲板。湖水はただ
渺茫として、水や空、南無竹生島は墨絵のよう。御堂の棟と思い当たり、影が差し、
月が染みて、羽衣のひだをみるような、、、」と夜の湖水を表現している。
これ日本語の極めだね、と思う自分がいる。今、坂の上から見るその光景も
月に映える湖面からその光を少しづつ弱め、濃淡の帯となり、しじまを作り
ながらやがて黒い湖面に同化していく、それが一枚の画枠のごとく眼前にあった。

更には、松尾芭蕉と言う人が短い文で、このあたりの情景を詠ったいるのが
今の雰囲気に合うな、と独り言。月夜におかしくなるのは、ドラキュラや
狼人間だけではないようだ。もっとも、秋分以外の詩もあるが。
「鎖(じょう)明けて月さしいれよ浮御堂(堅田)」
「やすやすと出でていざよう月の雲(堅田)」
「病雁の夜寒(よさむ)に落ちて旅寝かな(堅田本福寺)」
「比良三上雪さしわたせ鷺(さぎ)の橋(本堅田浮御堂)」
「海晴れて比叡(ひえ)降り残す五月かな(新唐崎公園)」

2016年9月8日木曜日

北国海道支道

栗原の水分神社を出発する参加者地図
途中で岩神神社ホコラを見る一行
[交通メモ] JR和邇駅からバスで栗原へ。歩いて八屋戸まで約5キロ。
 北国海道は、その名の通り北国への道。湖北を通る北国街道(東近江路)と区別され、古代・中世の北陸道(西近江路)を通る道を北国海道と呼ばれてきた。志賀町和邇今宿を過ぎて高城への道の常夜灯のそばにある道標などにも「北国海道」と刻まれている。
 この道は、平安時代に入ると平安京と北国をつなぐ最短距離の道、京道として脚光を浴びるようになる。志賀町の山手を通る、この「京道」は志賀町史にも全く記述はなかったが、昨年秋、志賀町歴史・科学研究会(昭和62年設立、代表・中西昭氏、会員43人)が、この古道を独自に調査し、その結果を11月の町文化祭で発表。同5日には一般人も一緒に現地散策に加わり、志賀町内の京道(北国海道支道)の存在を確認し合った。
 調査を行った吉田敏孝・志賀町文化財専門委員(県文化財保護指導員)によると、この道は志賀町八屋戸から山手に向かい、湖西道路をくぐって岩神神社のホコラ近くから栗原の妙道会を通り、比叡霊園地を経て伊香立の龍華道へ抜ける。裏付け史料としては、栗原に伝わる民話「龍華夫人・八畳岩」や、比叡山天台密教の寺院由来歴などをあげ「いずれも、この道を通らなければ行けない場所にある」と検証している。
 昨年11月5日に行われた「古道・志賀の京道を歩く会」には、文化祭での発表を見て集まった一般の人と研究会員ら約30人が参加。室町時代に建立された水分みくまり神社前を出発、底なしと言われたナリカマの穴の残存を確認したり、源為朝が京より逃れて馬を止め、一夜を過ごしたと言われる岩神神社の小さなホコラを見たりして、コースの探索を終えた。(2001年1月号掲載)

2016年8月24日水曜日

比良の自然、思うがままに書き綴る

楽浪(さざなみ)志賀の里では、湖水を見て、鳥の声を聞き、野辺の草花を触り、
森の匂いを嗅ぎ、せせらぎの水を味わう、五感がフルに活かせる。
見慣れた風景ではあるが、朝日の中で、少しづつ輝いているようでもある。

春の季節では、自然界に新たな成長の季節が訪れるころである。
松尾芭蕉も詠んでいる。
山々にかこまれた春の琵琶湖の大観を一句に納めたものとして、
「四方より花吹き入れて鳰の海」、春の琵琶湖である。
木々や草花はいっせいに華やかな色彩とかおりをまき散らし、トチノキの
枝は小刻みに震えながら、円錐形の花キャンドルを支えていた。
白いヤマニンジンの花笠が道端をびっしりと覆っている。つるバラが
庭塀を這いあがり、深紅のシャクヤクがテッシュペパーのような花弁
開いている。りんごの木は花びらを振り落としはじめ、その後にビーズ
のような小さな実をのぞかせている。
また、少し奥へと入れば、比良山系の自然の作品、精神風土の名残にもにも会える。
比良山系は、千メートル以上の山々が連なっており、冬の雪景色
(比良の暮雪と言われているが)、春のみずみずしい青さ、秋の紅葉と常緑の緑
のパッチワーク的な山肌、夏の深い緑と多面的な顔を持っている。
ここは、山岳信仰の場でもあり、今は廃墟と化しているが、比良三千坊と呼ばれた
寺院、修行場の跡も含め、修養の場としても最適であったのだろう。
森に入れば、その一端を味わえるのではないだろうか。  

比良山系に「日本の滝百選」にも選ばれている名瀑である八淵(やつぶち)
の滝がある。比良最高峰・武奈ヶ岳の北東に端を発する鴨川源流にかかる名瀑
として有名。その名前のとおり、八つの淵(滝)があり、下流から、魚止の滝、
障子の滝、唐戸の滝、大摺鉢、小摺鉢、屏風の滝、貴船の滝、七遍返しの滝と
なっている。八つの中でも、障子の滝と貴船の滝は大きくスリルに富んでおり、
夏には、その滝めぐりは清涼感の漂う、気持ちのよい山歩きとなる。
だが、冬には違う味わいもできる。真冬には数10センチとなる雪の中の
雪白な美しさと身を絞める寒さが生きていることへの証左を見せてくれる。
夏から秋の初めに集落を歩くと、細い石畳が続き、石で囲まれた3面水路を
水が踊りながら下へと流れていく情景によく出会う。

側壁の石にその煌めくしぶきがはね何十という黒い水あとを残すが、それは
暑さの中で、すぐに消える。苔にかかりその緑色を一段と輝かせるが、
それも一瞬のこととて、すぐに黄色味を帯びた苔の帯に変わる。
黒い水跡と苔の色の変身、これらが私たちの前で幾重にも重なり繰り返される。
一か月近く雨が降らないこの季節であっても、この水の流れは信じられない
くらい早くそして澄み切っている。どこからこのような水が湧き出てくるのか、
そんな疑問を頭の片隅で反芻しながら何軒か連なる家々を通り過ぎる。
木戸、八屋戸は昔から石材を対岸の寺や神社、城の石垣造りのため送り出していた。
通り過ぎる庭には、様々な形の庭石が置かれ、家々に一つのアクセントを
もたらしている。さらには、平板の石をいくつかまっすぐにに立てて、囲い
としている家もある。石畳の道、石を敷き詰めた庭など、今も石の街である。

井上靖が描いた「夜の声」という小説がある。
この退廃していく社会を憂い、交通事故で神経のおかしくなった主人公を通して
その危機を救える場所として近江を描いている。
神からのご託宣で文明と言う魔物と闘うが、自分はそのために刺客に狙われている
と思い込んでいる。魔物の犯してない場所を探して、近江塩津、大浦、海津、
安曇川から朽木へと向う。朽木村でその場所を見つける。
「ああ、ここだけは魔物たちの毒気に侵されていない、と鏡史郎は思った。
小鳥の声と、川瀬の音と、川霧とに迎えられて、朝はやってくる。漆黒の
闇と、高い星星に飾られて、夜は訪れる。、、さゆりはここで育って行く。
、、、レジャーなどという奇妙なことは考えない安曇乙女として成長していく。
とはいえ、冬は雪に包まれてしまうかもしれない。が、雪もいいだろう。
比良の山はそこにある。、、、さゆりは悲しい事は悲しいと感ずる乙女になる。
本当の美しいことが何であるかを知る乙女になる。風の音から、川の流れから、
比良の雪から、そうしたことを教わる。人を恋することも知る。季節季節
の訪れが、木立ちの芽生えが、夏の夕暮れが、秋白い雲の流れが、さゆりに
恋することを教える。テレビや映画から教わったりはしない」
舞台は朽木としているが、この比良地域も同じであろう。井上靖が願望する
自然がまだ多くみられる。

さらには、比良のしゃくなげ(井上靖)詩集北国からもその情景が読み取れる。
「むかし写真画報と言う雑誌で、比良のしゃくなげの写真を見たことがある。
そこははるか眼下に鏡のような湖面の一部が望まれる北比良山系の頂で、
あの香り高く白い高山植物の群落が、その急峻な斜面を美しくおおっていた。
その写真を見たとき、私はいつか自分が、人の世の生活の疲労と悲しみを
リュックいっぱいに詰め、まなかいに立つ比良の稜線を仰ぎながら、
湖畔の小さな軽便鉄道にゆられ、この美しい山嶺の一角に辿りつく日が
あるであろう事を、ひそかに心に期して疑わなかった。絶望と孤独の日、
必ずや自分はこの山に登るであろうと。
それから恐らく10年になるだろうが、私はいまだに比良のしゃくなげを
知らない。忘れていたわけではない。年々歳々、その高い峯の白い花を瞼に
描く機会は私に多くなっている。ただあの比良の峯の頂き、香り高い花の群落
のもとで、星に顔を向けて眠る己が眠りを想うと、その時の自分の姿の
持つ、幸とか不幸とかに無縁な、ひたすらなる悲しみのようなものに触れると、
なぜか、下界のいかなる絶望も、いかなる孤独も、なお猥雑なくだらなぬものに
思えてくるのであった。」
多くの開発と言う行為の中には、自然への畏敬と尊敬の念が欠落していることが
多く、我々の知らないうちに自然がその生命を終えて行くことが見られる。
比良と琵琶湖の織り成す清々しい魅力を次代へと伝えて行く必要がある。

この里山を、さらに比良の山端に近づく。途中道案内に加わった老人が
ぽつりと言った。
「今日は満月だ。夜見る湖はとぎすましたような晴れた空を水面に沈め、
森閑と横たわっている。ここからのぞむ対岸の島々とその山の連なりは湖の
南から北に走りながらくっきりと空をかかげ、圧倒的に力強く、生命力に
みちあふれている。琵琶湖と中天の月は渾然と一体化して、それを切り離す事
の出来ない完璧な1つづきの風景を形成している。一度見るよい。
さらに、冬には湖に薄く舞い落ちる雪が満月の光に染められ、金粉をまいている
ように湖水の面に映っている。湖面も月光に染められ金波がひろがる上に雪が
休みなく降り続いている。それは不思議なこの世ならぬ幻想的な光景だ。
琵琶湖は私たちに色々な姿を見せてくれるよ」

里山の道々では、目を潤すような草花、樹々にはあまり出会わない。
せまる比良の山並みがその緑をここまで押し流してきているようだ。
愛想のない小道を湖から吹き渡ってくるわずかの風のすずとした装いを
感じながら歩を進める。大谷川の水音が聞こえるほどになると、道の集落側に
堤防のような5段ほどの石積みをなして、数100メートルほど続いていた。
苔むした石の1つ1つが時代の流れを感じさせる。この地域では、昔は
あちらこちらにこのような堤防があり、集落の出入り口にもなっていたが、
往時の姿は今はない。しし垣の役目もになっていたのであろう。2メートル
の高さで集落の周囲を囲むような形になっている。大谷川などの氾濫に
備えて江戸時代には水防ぎの石垣としてその役目を果たしていた。
この大谷川を三キロほど遡ると、湯島の地に弁財天が祀られた湯島神社があり、
昔この地域は大谷川の氾濫が多々あり、竹生島の宝厳寺から弁財天の分霊を
いただき、祀ったという。少し奥にある百閒堤と合わせ、この辺は水との
戦いの場所でもあったのだろう。自家製のお茶の栽培でもしているのだろう、
茶畑からひょっこり老婆が顔を出し、にこりと笑ってまた消えた。

黒ずんだ茶の葉と千地たる光こもれる林、神社を押し込むような小さな森、
野辺の草叢、色調豊かな緑の世界だが、それ以外は石が主役のようだ。
川に沿って、下り始めると今まで目はじにあった琵琶湖が正面に来た。
平板とした青の中に3筋ほどの白い線が右から左へと航跡を残し、沖島の
上には櫛で引いたような薄雲が数条航跡に合すかのようにたなびいている。
道野辺の濃い緑が目に届き、左の水田や右の竹藪の青さばかりが目立った。
畑のひしめく緑の煩瑣な葉は、日を透かした影を重ねていた。さらに進むと
日は下草の笹にこぼれるばかりで、そのうちの一本秀でた笹だけが輝いていた。
その横には幼さがまだ残る地蔵さんが紅い首かけをかけて小さな石の祠の中で
笑っていた。その先にこの辺でも見られなくなった茅葺きの家が強い日差しに
萱の一筋一筋を細かく見せながらあった。久しぶりに見る茅葺きの家だった。
ガラスの引き戸を開けると、中は黒く光る土間の中に外からの光を受けて
様々な陰翳を見せていた。黒ずんだ梁には右手からの光と左手の庭に通ずる
入り口からの光が光の濃淡をつけている。奥の居間には左手の廊下から差し込む
光が黒い陰となって畳の上に2筋の線を作っている。ここに住むという
女性の顔も左右からは入り込む光を浴びてその陰翳に深さが増し、髪もまた
弱い光を帯びて白く混じる白髪が黒髪の中に消えていた。梁や天井の煤による
黒き光映えがこの家の200年以上という古さをさらに古くさえ見せている
ようでもある。
庭の横にあるかわとの水のきらめきが薄黄色の暖簾を通して家の中まで
届いている。庭から土間へそして裏庭へと抜ける風が涼しい。これが
先人たちの知恵なのであろう。冷房のいらない生活、今は遠い昔のような
気がしていたが、ここは違った。
境があるとは言えない野菜畑や茶畑が切れると小さく区切られた水田が現れ、
左手に大きな寺の瓦屋根が日を浴びて光っている。少し歩けば、超専寺、長栄寺、
本立寺等寺が多くある。さらには、比良城、南比良城、北比良城跡が
あったとされるが、この暑さに歩を止める。

白洲雅子の「近江山河抄」の比良の暮雪にある冬の季節もまた味わいがある。
ちょっと長いが、味わってほしい。

ある秋の夕方、湖北からの帰り道に、私はそういう風景に接したことがあった。
どんよりした空から、みぞれまじりの雪が降り始めたが、ふと見上げると、薄墨色
の比良山が、茫洋とした姿を現している。雪を通してみるためか、常よりも一層大きく
不気味で、神秘的な感じさえした。なるほど、「比良の暮雪」とは巧い事をいった。
比良の高嶺が本当の姿を見せるのは、こういう瞬間にかぎるのだと、その時
私は合点したように思う。
わが船は比良の湊に漕ぎ泊てむ沖へな離りさ(さかりさ)夜更けにけり
比良山を詠んだものには寂しい歌が多い。
今もそういう印象に変わりはなく、堅田のあたりで比叡山が終わり、その裾に
重なるようにして、比良山が姿を現すと景色は一変する。比叡山を陽の山とすれば、
これは陰の山と呼ぶべきであろう。、、、、

都の西北にそびえる比良山は、黄泉比良坂を意味したのではなかろうか。、、、、
方角からいっても、山陰と近江平野の間に、延々10キロにわたって横たわる
平坂である。古墳が多いのは、ここだけとは限らないが、近江で有数な大塚山
古墳、小野妹子の墓がある和邇から、白鬚神社を経て、高島の向こうまで、大
古墳群が続いている。鵜川には有名な四十八体仏があり、山の上までぎっしり
墓が立っている様は、ある時代には死の山、墓の山、とみなされていたのではないか。
「比良八紘」という諺が出来たのも、畏るべき山と言う観念が行き渡って
いたからだろう。が、古墳が多いということは、一方から言えば、早くから
文化が開けたことを示しており、所々に弥生遺跡も発見されている。小野氏が
本拠を置いたのは、古事記によると高穴穂宮の時代には早くもこの地を領していた。
、、、、、

小野神社は2つあって、一つは道風、1つは「たかむら」を祀っている。
国道沿いの道風神社の手前を左に入ると、そのとっつきの山懐の丘の上に、
大きな古墳群が見出される。妹子の墓と呼ばれる唐臼山古墳は、この丘の
尾根つづきにあり、老松の根元に石室が露出し、大きな石がるいるいと
重なっているのは、みるからに凄まじい風景である。が、そこからの眺めは
すばらしく、真野の入り江を眼下にのぞみ、その向こうには三上山から
湖東の連山、湖水に浮かぶ沖つ島もみえ、目近に比叡山がそびえる景色は、
思わず嘆息を発していしまう。その一番奥にあるのが、大塚山古墳で、
いずれなにがしの命の奥津城に違いないが、背後には、比良山がのしかかるように
迫り、無言のうちに彼らが経てきた歴史を語っている。

小野から先は平地がせばまり、国道は湖水のふちを縫っていく。
ここから白鬚神社のあたりまで、湖岸は大きく湾曲し、昔は「比良の大和太」
と呼ばれた。小さな川をいくつも越えるが、その源はすべて比良の渓谷に
発し、権現谷、法華谷、金比羅谷など、仏教に因んだ名前が多い。、、、、
かっては「比良3千坊」と呼ばれ、たくさん寺が建っていたはずだが、いまは
痕跡すら止めていない。それに比べて「小女郎」の伝説が未だに人の心を
打つのは、人間の歴史と言うのは不思議なものである。

白鬚神社は、街道とぎりぎりの所に社殿が建ち、鳥居は湖水のなかに
はみ出てしまっている。厳島でも鳥居は海中に立っているが、あんな
ゆったりした趣きはここにない。が、それははみ出たわけではなく、祭神が
どこか遠くの、海かなたからきたことの記憶に止めているのではあるまいか。
信仰の形というものは、その内容を失って、形骸と化した後も行き続ける。
そして、復活する日が来るのを域を潜めて待つ。と言うことは、
形がすべてだということができるかもしれない。
この神社も、古墳の上に建っており、山の上まで古墳群がつづいている。
祭神は猿田彦ということだが、上の方には社殿が3つあって、その背後に
大きな石室が口を開けている。御幣や注連縄まで張ってあるんのは、ここが
白鬚の祖先の墳墓に違いない。小野氏の古墳のように半ば自然に還元
したものと違って、信仰が残っているのが生々しく、イザナギノ命が、
黄泉の国へ、イザナミノ命を訪ねて行った神話が、現実のものとして
思い出される。山上には磐座らしいものが見え、明らかに神体山の様相を
呈しているが、それについては何一つ分かっていない。古い神社である
のに、式内社でもなく、「白鬚」の名からして謎めいている。猿田彦命
は、比良明神の化身とも言われるが、神様同士で交じり合うので、信用は
おけない。

白鬚神社を過ぎると、比良山は湖水すれすれの所までせり出し、打下
(うちおろし)という浜にでる。打下は、「比良の嶺おろし」から起こった
名称で、神への畏れもあってか、漁師はこの辺を避けて通るという。
そこから左手の旧道へ入った雑木林の中に、鵜川の石仏が並んでいる。
私が行った時は、ひっそりとした山道が落椿で埋まり、さむざむした風景に
花を添えていた。入り口には、例によって古墳の石室があり、苔むした
山中に、阿弥陀如来の石仏が、ひしひしと居並ぶ光景は、壮観と言う
よりほかはない。四十八体のうち、十三体は日吉大社の墓所に移されているが
野天であるのに保存は良く、長年の風雪にいい味わいになっている。この
石仏は、天文22年に、近江の佐々木氏の一族、六角義賢が、母親の
菩提のために造ったと伝えるが、寂しい山道を行く旅人には、大きな慰めに
なったことだろう。古墳が墓地に利用されるのは良く見る風景だが、
ここは山の上までぎっしり墓が立ち並び、阿弥陀如来のイメージと重なって、
いよいよ黄泉への道のように見えてくる。

さらに、正法眼蔵という道元の書いた本の中に「渓声山色の巻」がある。
この中で道元は
 「峯の色 谷のひびきもみなながら わが釈迦牟尼の 声と姿と」
と山水の功徳を詠っている。峯の色も、谷川を流れる水の音もみなことごとく、
天地自然の道理の体現であり、自己本来の面目であり、わが釈迦牟尼の
声であり、姿であるという。
これは宋の蘇東坡居士の詩を思い浮かべられて詠まれた詩である。
蘇東披居士の詩は
「渓声便是広長舌 山色豈非清浄身 夜来八萬四千偈 他日如何挙似人」
であり、谷川の水の流れる音も仏の声であり、姿である。清浄身とは法身の仏
さまということであり、法をもって身とする仏さまである。
それが山であり川であるという。
私たちは自然の中にあるとき、自分の生命が自然の生命の本質と一致し
一体化する瞬間がある。
「正修行のとき、渓声渓色、山色山声、ともに、八万四千褐げをおしまざるなり。
自己もしく名利身心を不借すれば、渓山もまたいんもの不借あり」
正しく修行していれば、谷川のせせらぎの音も、谷川の姿、景色も、山の景色も、
山の声、山の音、風の音、様々な音、あるいは静けさそのもの、それらのものは
皆すべて八万四千げを惜しまない。八万四千はありとあらゆるものものであり、
褐げは詩句の説法を言い、すべてが数知れぬ説法の詩を語っている。
さらに、自分が名声や利益を捨て、体や心を惜しまずなg出せば、谷川や山もまた
同じように真理を語ることを惜しまない。利欲、エゴなどを捨てることことで、
初めて本当の自分というものが見えてくる。
真の自分が谷や山と一致してくる。人間が天地自然と一体化するのには、死力を
尽くして自分を捨て去ったときに向こうから訪れてくるもの、その瞬間がある。

これらを体現できる環境がここにある。比良とはそう言う処だ。

2016年8月14日日曜日

立秋、ある朝の情景

早いもので、既に立秋である。初めて秋の気配が現れてくる頃とされる。
「暦便覧」では「初めて秋の気立つがゆゑなれば也」と説明している。
夏至と秋分の中間で、昼夜の長短を基準に季節を区分する場合、この日から
立冬の前日までが秋となる。暦の上ではこの日が暑さの頂点となる。
翌日からの暑さを「残暑」といい、手紙や文書等の時候の挨拶などで用いられる。
秋の気配を感じ始めるとは言うものの、実際は1年で一番暑い日が続くこの頃である。
京都では精霊送り五山の送り火が催される。街の灯りが消え、夜空の黒を彩る。
この頃食されるのが、水羊羹。寒天に奈良県吉野産の「吉野葛」を加えて、
より滑らかさを増している。そのみずみずしい質感とほんのりした舌触りがこの
暑さを忘れるひと時かもしれない。
しかしながら、最近の天候不順は、それが定着したか如く、季節の移ろいが
二十四節気のいう季節よりも早いか極端な天候となって現われる。
今も、残暑どころではなく、正に夏真っ盛りの暑さである。人も猫も、ついでに
犬もこの暑さには閉口気味。
琵琶湖も比良の山々も、そして田畑の稲や野菜たちも、今暑さにあるものは、
燃え立つ空気の中に立ちすくみ、あるものは頭を垂れ、緑の中に黄色の斑点
なぞも目立ち始めている。
彼は、一瞬自分の目がおかしくなったのか、と思った。いつもは、紺青の水を
静かにたたえている琵琶湖が見えない。朝日を浴びながら、坂をゆっくりと
下りつつこの強烈な暑さで、身体も頭もおかしくなったのでは、と思った。
春霞ならぬ夏霞の朝であった。道路には影一つ無く、まるで砂漠が如き様相である。
汗が容赦なく顔に幾筋もの流れをつけていく。2ヶ月ほど前に味わっていた
朝の清清しさは影を潜め、灼熱と化した太陽が中天にどっしりと居座っている。
後ろを振り返れば、比良の緑の稜線が透き通った青さの中に、まるで太い毛筆の
線で引いたように描かれている。
孫娘のような犬のルナを息子が飼ってから約1年、そのルナを家に連れてくるのが
毎朝の日課となった。やや寒さの残った3月から正に百花繚乱の春の草花を
味わいながらの4月から6月、そして時は確実に過ぎ行きて、今は暑さの真っ盛り、
連日の猛暑である。秋の気配が忍び寄るころというが、全くそんな気配は微塵もない。
志賀周辺は比良の山並みが湖までせり出していることもあり、多くは山麓を切り崩した
り
して家々が並んでいる。そのため、多くの家々にたどり着くには、急な坂を上がる
しかない。それでも、若いルナは彼を先導するかのようにどんどん先に行く。
若さの違いであろうか、彼が衰えたのか、いずれにしろ、後ろから刺し込むように
朝日が2人を押し包んでいる。
ふと、見れば淡いピンクの色を付けた百日紅の木々が彼を和ましてくれる。
彼はいつも思う、志賀の夏は全く愛想がない、と。
だが、味気ない緑一色の中にそのピンクの花は、真珠の粒のごとききらめきと優しさを
道行く人に与えている。一段と増した汗の流れが顔全体を覆っているが、
先行するルナの影を見る形で、右の足をだし、そして左の足を出すという単純な行為
に更ける彼であった。ルナはこの暑さを感じているのか分からないほどに
歩く先々の様々な匂いを感じ取ろうと一生懸命である。顔見知りの老人が
花に水をやりながらこちらに挨拶を送っている。彼もルナもそれに応えるが、
暑さがその間を裂くがごとく、会話もなく、一段と増す暑さに我が身を委ねる。
角を曲がった先に長く白く光る道が続いている。この一番先に我が家があるのだが、
まるで数キロもあるように、彼には見えた。街は静かである。いつも聞こえる
子供たちの声は聞こえない。皆が押し黙ってこの暑さから逃れようとしている様に思え
る。
これが明日も続く、そして明後日も、人生とは終わりのない道、そんな思いで
我が家の扉を開き、元気なママの声を聞く。

2016年7月23日土曜日

木戸の周辺

比良は比良の山端が琵琶湖の間近まで伸びてきており、多くの集落は
そのわずかの場所に散在している。集落の間には、わずかな水田や畑が初夏の
緑に埋もれ、残った空間は林や神社や寺の森の緑に占有されている。
夏は愛想がない、春のような多種多様な色、匂いは消え去り、緑1つと草草の
放つ草いきれだけが支配する世界だ。これらに加えて、肌を塗り込めるような
湿気と絶え間ない雨の雫、大粒の水滴の続く日々、愛想のなさに、やりきれなさ
が各人の気持ちをとめどなく押しつぶしていく。
だが、初夏の緑に囲まれた湖面は、藍を溶かしたように美しく輝いている。
これが小暑の季節だ、植物たちの成長の中、人はただ黙ってそれに耐えていく。
この時期、木戸や荒川の山端近くの集落を歩くといつも思うことだ。

二十四節気「小暑(しょうしょ)」については、
この頃から暑さがだんだん強くなっていくという意味であり、例年では
小暑から3~7日くらい遅れて梅雨明けすることが多いようだ。
これを七十二候では、さらに細かく言っている。
・温風至(あつかぜいたる)7月7日頃
熱い風が吹き始める頃。温風は梅雨明けの頃に吹く南風のこと。
日に日に暑さが増す。
・蓮始開(はすはじめてひらく)7月12日頃
蓮の花が咲き始める頃。優美で清らかな蓮は、天上の花にたとえられている。
・鷹乃学習(たかすなわちがくしゅうす)7月17日頃
春に生まれた鷹の幼鳥が、飛び方や獲物を捕らえる技を覚え、巣からの旅立ちを迎える
頃。日本では古今タカといえば「大鷹」をさすことが多く、優れたハンターであること
から「鷹狩り」などに使われた。
この頃、近くの森には親子連れの鷹が悠然と青空を舞っている。

彼はこのような日に出かけたのを後悔していた。
台風が過ぎたとはいえ、夏の顔にならない。陽射しもまだそれほど強くはないし、
なんと言っても、この蒸し暑さはなんなのだ。
体の隅々に水が染み渡るように湿気が私の身体を被いつくす。毛穴からは
その湿気が逆流するかのように汗が染み出してくる。首筋と額から頬にかけて
一筋、二筋と汗が流れて行く。まるで私のけだるさと憂うつな気分を声なき
声として洗い出しているようだ。
黒い雲が駆けていく。その間を縫うように白い雲を突き抜けるかのように
陽射しが私の顔に届く。白い雲の上にはさらに高層の雲が秋の天空を
思い出させるかのように霞み光る太陽のまわりにゆっくりと一筆を描くか
のごとく流れ過ぎ行く。それは蜘蛛なのであろうか、視界の端にうごめく
黒いものがいる。
季節は少暑、梅雨明けが近付き、暑さが本格的になるころである。
「暦便覧」には「大暑来れる前なればなり」と記されている。蝉が鳴き始め、
そのまま夏空になり、梅雨入りの発表が特定できなくなる年もある。
小暑あるいは大暑から立秋までの間が暑中で、暑中見舞いはこの期間内に送る。

小暑の終わりごろに夏の土用に入る。そんなどうでもよいことを考えながら、
目はじに平板な青さを持った湖を感じながら、
木戸の公民館からやや勾配のある道を樹下神社に向かっていた。
石の鳥居をくぐり蓬莱の山に向かう形で小さく盛り上がった森へと進んでいく。
杉木立が比良の山を隠すかのように立ちふさがり、杉と杉のあいだには、
端正な黒い沈黙が漂っている。生き物の気配はどこにもない。
さらに歩くと、そこからわずかに明るくなる雑木の疎林に入った。
すると、石垣と鳥居が彼を迎えた。奥に桧原葺きの本殿が見える。
その説明文によると、
「御祭神は、玉依姫命タマヨリヒメノミコトです。
創祀年代不詳であるが、木戸城主佐野左衛門尉豊賢の創建と伝えられます。
永享元年社地を除地とせられ、爾来世々木戸城主の崇敬が篤く、木戸庄
(比良ノ本庄木戸庄)五ヶ村の氏神として崇敬されてきました。ところが
元亀二年織田信長の比叡山焼打の累を受け、翌三年社殿が焼失しました。
当時織田軍に追われて山中に遁世していた木戸城主佐野十乗坊秀方が社頭
の荒廃を痛憂して、天正六年社殿を再造し、坂本の日吉山王より樹下大神を
十禅師権現として再勧請して、郷内安穏貴賤豊楽を祈願せられました。
日吉山王の分霊社で、明治初年までは十禅師権現社と称され、コノモトさん
とも呼ばれていました。しかし類推するところ、古記録に正平三年に創立と
あるのは、日吉山王を勧請した年代で、それ以前には古代より比良神を産土神
として奉斎して来たもので、その云い伝えや文献が多く残っている。

当社境内の峰神社は祭神が比良神で、奥宮が比良山頂にあったもので今も
「峰さん」「峰権現さん」と崇敬されている。この比良神は古く比良三系を
神体山として周辺の住民が産土神として仰いで来た神であるが、この比良山
に佛教が入って来ると、宗教界に大きな位置をしめ、南都の佛教が入ると、
東大寺縁起に比良神が重要な役割をもって現れ、続いて比叡山延暦寺の勢力
が南都寺院を圧迫して入って来ると、比良神も北端に追われて白鬚明神が
比良神であると縁起に語られ、地元民の比良権現信仰が白山権現にすり
替えられるのである。(比良神は貞観七年に従四位下の神階を贈られた)
当社の例祭には五基の神輿による勇壮な神幸祭があり、庄内五部落の立会の
古式祭で古くより五箇祭と称され、例年5月5日に開催され、北船路の
八所神社の神輿とあわせ五基の神輿が湖岸の御旅所へ渡御する湖西地方
で有名な祭です。本殿は、一間社流造 間口一間 奥行一間の造りです」
とあった。白山信仰や富士信仰などの山を神として崇める自然信仰が
此処にも残っている。

しかし、今回は神社手前の道を北へと進む。
琵琶湖を横に見ながら小道を行けば是も林が隠すかのような形で木元神社がある。
昔の木戸樹下神社の跡地であり、祭神は、木花咲也姫命、昔の木戸部落はこの
神社を中心に生活していたという。木造りの鳥居が木立の中に姿を見せ、
周囲を石垣と若い杉の木立でおおわれた小さな本殿が小屋の中に納まり、
鎮座していた。
その小ささが奥ゆかしさを漂わせている。千地と揺れるくぬぎやブナやクロモジの
葉陰に守られるように砂利道を進む。右手には、猪垣と呼ばれる1メートル
ほどの石垣が続いている。その上には、金網が石垣の上に設置され、なんとも
不格好な姿と見えた。だが、私たちは部外者、この地域の人々にとって鹿や猪
の侵入を防ぐためのなくてはならない存在なのであろう。ここ2年ほどで増えた
田畑の周りの鉄柵は人と動物の共生を許さな程になっていることの現われ
なのだろうか。
萬福寺の白壁が小道の先に見えた。石の門をくぐると石畳の先に
黒く光る瓦屋根の本堂が天を突き、数本の松に守られる様な趣でこちらに向いていた。
真宗大谷派東本願寺の末寺でご本尊は阿弥陀如来、山号は宝積山萬福寺という。
横には鐘つき堂と蓮如上人が休息しあという石碑が見えた。
相変わらず目を潤すような草花、樹々にはあまり出会わない。せまる比良の
山並みがその緑をここまで押し流してきているようだ。愛想のない小道を
湖から吹き渡ってくるわずかの風のすずとした装いを感じながら歩を進める。
大谷川の水音が聞こえるほどになると、道の集落側に堤防が5段ほどの石積みを
なして、数100メートルほど続いていた。苔むした石の1つ1つが時代の
流れを感じさせる。この地域では、昔はあちらこちらにこのような堤防があり、
集落の出入り口にもなっていたが、往時の姿は今はない。しし垣の役目も
になっていたのであろう。2メートルの高さで集落の周囲を囲むような形
になっている。大谷川などの氾濫に備えて江戸時代には水防ぎの石垣として
その役目を果たしていた。
この大谷川を三キロほど遡ると、湯島の地に弁財天が祀られた湯島神社があり、
昔この地域は大谷川の氾濫が多々あり、竹生島の宝厳寺から弁財天の分霊を
いただき、祀ったという。少し奥にある百閒堤と合わせ、この辺は水との
戦いの場所でもあったのだろう。自家製のお茶の栽培でもしているのだろう、
茶畑からひょっこり老婆が顔を出し、にこりと笑ってまた消えた。
黒ずんだ茶の葉と千地たる光こもれる林、神社を押し込むような小さな森、
野辺の草叢、色調豊かな緑の世界だが、それ以外は石が主役のようだ。
川に沿って、下り始めると今まで目はじにあった琵琶湖が正面に来た。
平板とした青の中に3筋ほどの白い線が右から左へと航跡を残し、沖島の
上には櫛で引いたような薄雲が数条航跡に合すかのようにたなびいている。
道野辺の濃い緑が目に届き、左の大根畑や右の竹藪の青さばかりが目立った。
大根畑のひしめく緑の煩瑣な葉は、日を透かした影を重ねていた。さらに進むと
日は下草の笹にこぼれるばかりで、そのうちの一本秀でた笹だけが輝いていた。
その横には幼さがまだ残る地蔵さんが紅い首かけをかけて小さな石の祠の中で
笑っていた。その先にこの辺でも見られなくなった茅葺きの家が強い日差しに
萱の一筋一筋を細かく見せながらあった。久しぶりに見る茅葺きの家だった。
ガラスの引き戸を開けると、中は黒く光る土間の中に外からの光を受けて
様々な陰翳を見せていた。黒ずんだ梁には右手からの光と左手の庭に通ずる
入り口からの光が光の濃淡をつけている。奥の居間には左手の廊下から差し込む
光が黒い陰となって畳の上に2筋の線を作っている。ここに住むという
女性の顔も左右からは入り込む光を浴びてその陰翳に深さが増し、髪もまた
弱い光を帯びて白く混じる白髪が黒髪の中に消えていた。梁や天井の煤による
黒き光映えがこの家の200年以上という古さをさらに古くさえ見せている
ようでもある。
庭の横にあるかわとの水のきらめきが薄黄色の暖簾を通して家の中まで
届いている。庭から土間へそして裏庭へと抜ける風が涼しい。これが
先人たちの知恵なのであろう。冷房のいらない生活、今は遠い昔のような
気がしていたが、ここは違った。
境があるとは言えない野菜畑や茶畑が切れると小さく区切られた水田が現れ、
左手に大きな寺の瓦屋根が日を浴びて光っている。
超専寺は真宗東本願寺の末寺でご本尊は阿弥陀如来、山号は念仏山宝積院
超専寺と号され、三浦荒治郎義忠入道の創始である。
親鸞ゆかりの旧跡であり、上人が越後に流罪になったときにこの地の三浦義忠
が上人の盛徳に感じ入り、弟子となる事をねがい、この時「咲きぬべき時こそ
きたれ梅の花、雲も氷もとけてそのまま」と詠まれ、彼に明空と言う法名を
与えた。その後、覚如上人や蓮如上人もこの寺を参詣されたという。
二十四輩の旧跡でもある。「二十四輩順拝図会」にもある。
小さな芝の庭が、比良の山並みを背景にして、烈しい初夏の陽にかがやいている。
芝の切れたあたりに楓を主とした庭木があり、裏の雑木林へみちびく枝折戸も見える。
門の横には、初夏というのに紅葉している楓もあって、青葉の中に炎を点じている。
庭石もあちこちにのびやかに配され、石の際に花咲いた撫子がつつましい。
左方の一角に大きな庭石が見え、また、見るからに日に熱して、腰掛ければ
肌を焼きそうな青緑の陶の椅子が本堂の手前に据えられている。さらに比良の山並み
が続きに沿って透かしたような青空には、夏雲がまばゆい姿を見せている。
これといっててらいのない、閑雅な、明るく開いた庭である。数珠を繰るような
蝉の声がここを支配している。このほかには何1つ音とてなく、寂莫を極めている。
寺を少し山側に上れば、杉の木立に囲まれた観喜寺薬師堂がある。
この周辺を歩くといつも思うが、寺も多い。この近くだけでも木立寺、長栄寺
さらには、正覚寺、安養寺などなど。
比良三千坊の名残り香は消えていない。
>木戸公民館出発(11時)、木元神社(シシ垣)、万福寺道標、万福寺(昼食休憩)、 水防ぎ石垣、 >白鬚神社道標、超專寺となりの茅葺の家、力士の墓(?)、樹下神社遙拝所、国土地理 院標準点 15)昔の西近江路と道標 西近江路は大津の札の辻から穴太、和邇、木戸、小松、三尾(高島)へと続き、 海津から敦賀へ越える道があった。また、北陸と畿内を結ぶ交通の要路でもあり、 様々な人が行きかった。このための道標も多く残っています。近江の街道と言う 本にも、「道は、八屋戸守山の集落の手前で、左に入り右へ曲がるが、その角には 「左京大津」と刻まれた自然石の道標がある。」と記述されています。 主に神社、寺院、部落に入り口のありかを教え、白髪神社への道程を示すものも 特に多いようです。 木戸、守山、大物などに多く残っています。北小松楊梅の滝に向うための道標も 小松駅の近くに建っています。 ・木戸  宿駅跡と石垣近くに常夜燈とともにあります。 ・守山  旧街道の横に地蔵菩薩とともに道標があります。 ・大物  旧街道横に二つほど残っています。 かつて近江の湖西地方を通っていた西近江路は別名北国海道と呼ばれている そうですが、なぜ「街道」ではなく「海道」の字が使用されたのか。 『図説滋賀県の歴史』によりますと、「江戸時代の古絵図をはじめ街道筋に 散在する石造道標のほとんどに「北国海道」と刻まれているところから海の字 を用いている。」とあります。『近江の街道』でも、同じく石造道標の記載を あげたうえで、「それだけこの道が、北国の海へのイメージが強かったので あろう。」とあり、『図説近江の街道』でも同様の見解が示されています。 しかし、『近江の道標』には、「街道でなくて、海道という名前がついたのは、 北国の海をさす道か、あるいは、びわ湖に沿うてあるからか明確ではない。」 とあります。 http://kaidouarukitabi.com/rekisi/rekisi/nisioomi/nisioumi2.html http://members.e-omi.ne.jp/eo2320539/5michishirube/5signpost.html 12)白髪神社の道標 古来白鬚神社への信仰は厚く、京都から遙か遠い当社まで数多くの都人たちも参拝 されました。その人たちを導くための道標が、街道の随所に立てられていました。 現在その存在が確認されているのは、7箇所(すべて大津市)です。 ・大津市八屋戸(守山)  JR湖西線「蓬莱」駅下の湖岸通り ・大津市木戸       木戸公民館上の道を少し北へ入ったところ ・大津市大物       大谷川北の三叉路国道の東側 旧志賀町では、4箇所です。 建てられた年代は天保7年で、どの道標も表に「白鬚神社大明神」とその下に距離 (土に埋まって見えないものが多い)、左側面に「京都寿永講」の銘、右側面に 建てられた「天保七年」が刻まれています。 二百数十年の歳月を経て、すでに散逸してしまったものもあろうと思われますが、 ここに残されている道標は、すべて地元の方の温かい真心によって今日まで受け 継がれてきたものです。その最後の道標が八幡神社の参道の手前にあります。 http://shirahigejinja.com/douhyou.html http://kaidouarukitabi.com/map/rekisi/nisioomi/nisioomimap1.html ⑬本立寺(真宗 南比良) 真宗大谷派東本願寺の末寺で、山号は法持山本立寺と号す。 承和元年(834)天台宗の彗達により創始され、文徳天皇の快癒を喜び、法華経の 「我本立誓願今者己満足」から寺号を本立寺とした。その後、蓮如の教化により、 真宗に転承した。顕如上人より親鸞の「三狭間の真影」を賜り比良山中から現在の 地に移り、500年以上を受け継いでいる。 本寺が湖畔に移ったときに残された薬200体の地蔵があるが、その地蔵跡もある。 ⑮長栄寺(日蓮宗 大物) 日蓮宗本長寺に属している。元和年に創立された。感応院日安(この地の代官小野 宗左衛門といわれる)によって創立された。 6)毘沙門天(木戸) 比良山が荒廃した時代、毘沙門天が道端に棄てられていた。村人が祠を守る神として祀 られ、地域の氏神とともに ある。祭日は毎年1月の寅の日となっている。 7)寺屋敷遺跡(木戸) 打見山にあり、昔の比良三千坊の寺院の1つといわれます。この寺跡に 大正12年ごろ不動尊が安置されました。 なお、木戸には「臼摺りうた」と言う、ちょっと小粋な歌があります。 東山から出やしゃる月は さんしゃぐるまの花のような 高い山には霞がかかる わたしゃあなたに気がかかる あなた何処行く手に豆のせて 好きなとのごの年とりに 頭上には黄や赤の入り混じった葉が残光を透かしていた。そこからのぞかれる 憂わしい夕空に、煌めく緑のきわめて重たい冠が一瞬掛かったように、静止して見えた 刹那があった。この放り上げられ冠は、羽ばたきによって解体され、栄光は散乱した。 攪拌する羽ばたきが、空気の重たくなった、母乳のように濃くなり、忽ちも モチのように翼にまつわりつく力を語っている。鳥は、自分でもわからぬながら、 突然、鳥である意味を失ったのだ。翼のあがき、それを思わぬ方向へ横滑りさせる。 いくら見透かしても見透かせぬあたりで、鳥は急激に落ちた。 勲は雑木林から竹藪のほうへ駆け下りた。竹藪の中には水のような光が漂っていた。 鳥は固く目をつぶっていた。赤い毒キノコのような斑に満ちた羽毛が閉じた眼を囲んで いる。 ふっくらした金属の光彩、ふくよかな鎧、暗鬱に肥った、夜の虹のような鳥だ。 のけぞった部分の羽毛が疎になって、そこがまた別の光彩をひらいている。 首のあたりは黒に近い葡萄紫の麟毛である。胸から腹にかけて、前垂れのような濃緑の 羽毛が重複して、光をこもらせている。 湖面は大溝の出鼻をとりまいて、半紙を敷いたように白かった。 いつみても変わりないはずの琵琶の水が、今日は冷たく沈んでいるような気がした。 陽の輝きはじめた湖面は朱をとかしたような色の中で、こまかいちりめん 皺を光らせ はじめた。 湖面へ桟橋がつき出ていて、いま、暮色になずみはじめた水面に点々と?の さし竹が ういてみえる。 琵琶湖は山の奥の暗い湖じゃと思うておった 高次は、整然とひろがる町並みを眺めたあと、遠い湖面を見やった。 冬の朝である。 清澄な空気は、陽を受けて、いま橙色に湖面の小波を輝かし、 遠い山影をくっきりとう かべている。

2016年6月25日土曜日

春の比較、雪国の春より

「立春の頃」
風景は画巻や額のようにいつでも同じ顔はしておらぬ。まず第一に時代が
これを変化させる。我々の一生涯でも行き合わせた季節、雨雪の彩色は
勿論として、空に動く雲の量、風の方向などはことごとくその姿を左右する。
事によるとこれに面した旅人の心持、例えば、昨晩の眠りと夢、胃腸の加減まで
が美しさに影響するかも知れぬ。つまりは個々の瞬間の遭遇であって、
それだからまた生活と交渉することの濃やかなのである。
いかにも狭い主観の、断独的個人的の記述であることは、既に心づいた
者が多いのであるが、名ある古人を思慕することが、無名の山川を愛する
情より勝っている国柄では、風景の遇不遇ということに大きな意味を持つ。
水陸大小の交通路はもとより、絵葉書も案内記も心を含ませて、今古若干の
文人足跡ばかりを追従させ、わけもない風景の流行を作ってしまった。

しかし、時は人、そして猫も待たずして、そろそろ立春と呼ばれる季節へと
進んでいる。我が家の庭の梅の木には、小さな大豆のようなピンクの蕾
がひしめき合あい始めている。
少し前に手を入れた夫々の木々は、夫々の想いと姿で、春の匂いを嗅ごうと
している。春の仄かな香りがヒタヒタと近づいているのだ。
まだ、比良の山並には、白い雪が、頑固に張り付いているが、立ち込める
霞が春になったんだよ!言わんばかりに、白いベールの世界を造っている。
比良山が霞んで遠景の隠れる点では、あるいは秋の中ごろに劣るという人も
あろうが、その代わりには山麓の下を覆いつくす若い木々の緑がある。
黒木に映ずる柔らかな若葉の色が見え始める。全体にこの地の人々は、
まだ山の花を愛する慣習がないのか、あれだけの樹林と広がる家々と比べても
見渡したところ天然の彩色が少し寂しい。これから咲くさくらなどもかって
山修行が最も盛んな時代に植えておいたらしい数株の老木があるのみである。
山の斜面はほぼ正東に向いている。そこから直線的に琵琶湖に落ちていく山並
が、登るにつれて少しづつその色を変え琵琶湖の光を受けて光ってくる。
それが半腹を過ぎるとほとんど全部、寒風の峰を覆うように見えるのである
が、蓬莱山や武奈岳の姿やはりこのあたりから見るのが良いようである。
細やかに観察したならば、美しいと言うともいうべきものが分かるであろう。
山の傾斜と直立する常緑木との角度、これに対する展望者の位置等が
あたかもころあいになっているのではなかろうか。

「まだ少し冬が残る頃」
既に2月も終わりである。季節は雨水から春分へと移りつつある。
まだ寒い日もあるが、少しづつ暖かさの断片が周りを覆うような日も
増えてきた。
灰色の空を後景にして、これも灰色の比良山が幾筋かの雪影を合わせて
佇んでいる。モノクロ一色の世界に少し赤みが差し始める。天空を
覆いつくしている雲をこじ開けるが如く僅かな朝陽がその峰を照らす。
しかし、それも一瞬の事とて、またもとの静寂の白と黒の世界にもどる。
その静寂を破るように、それは四十雀であろうか、その尾を小刻みに
震えさせながらまだ硬く寒さにこらえている梅の芽のうえを飛んでいく。
この庭から見る比良は毎日、その顔を変える。昨日は薄青いカーテン
が引かれた様な空を背景に、斑模様の雪がへばりついた顔を見せていた。
その下を一筋の薄き羽衣のような雲がゆっくりと湖の方へ流れて行く。
よくみれば、その下には真綿のような雲の塊りが黒い木々に変わり、
全体を覆い隠していた。
今日は雨になるのであろう。幾筋かの雨足が見えるが、それは地面に
着く前に消えるが如く弱いものである。すこし温かみを含んだ弱い風が
頬を撫ぜながら左から右へと流れている。
春の予感はそこからは感じられない。

「春の兆しが足元まで来ている」
長く白い砂地が左から右へと大きな湾曲を描きながら延びている。
湾曲に沿ってまばらではあるが松林も続いていた。沖にはえり漁の仕掛け棒が
水面から何十本となく突き出し、自然の中のくびきでもしているようだ。
私のいる砂浜に向かってゆっくりとした波長をもってさざなみが寄せていた。
春は浪さえも緩やかにさせるのであろうか、冬に見たときのそれとは大きく違う。
私の10メートルほど先には、数10羽の鳥たちが青白い空とややくすんだ
色合いの青を持つ湖面の間に浮かんでいる。あるものはえり漁の仕掛け棒の上で
羽を休め、何羽かの鳥たちは遊び興じているようでもある。2羽のコガモが
連れ立って水面をゆっくりと進んでいる。やがて彼らもここを離れ、次の住まいへと
向かうのであろう。春は出発と別れのときでもある。
遠く沖島と少し黒く霞んだ山並を背景にして数艘の釣り船が浪に揺られ、釣り人が
その上で釣り糸を垂れている。そのモノトーンのような光景を見ながら、私は、
春がその辺に来ている事を感じた。
砂浜の切れるところに港がある。港には朝の漁を終えたのであろうかノンビリと
とした風情で浮かんでいる。時折かもめが船の舳先を飛び、また離れて行った。
古来よりこの地域は魚を取る事を生業とした和邇氏と呼ばれる部族が住んでいた。
このため、ここから北へ向けても幾つかの漁港がある。多分、古代人が見た風景も
私が見ているこの春に手をかけたような風景も同じであったのであろう。

「春が姿を現し始めた」
朝から茜色の朝陽が小さな雲と一緒に見えていた。
比良の山は白い雪帽子が頂上の稜線と空の間に残っているが、少し前の黒々とした
木々のまといとは違う姿を見せている。薄ぼんやりと薄いベールを被ったような
山並がこれもやや薄れた蒼さの見える空とそれを取り巻く春の陽光の中に悄然と
立っている。今年初めて見せるその姿は、それだけで春の訪れを告げている様
でもある。
少し視線をずらせば、いつも見えるはずの湖の蒼さも対岸にある山並もその
ベールの中に消えている。存在するはずのものがそこに見えないと言う感触は、
自分の存在さえ否定されているようでなにか不思議な思いに駆られた。
しかし、この身体にまとわりつく心地よき温かさと柔らかな日差しは間違いなく
春が我が身にもにじり寄ってきている事を感じさせ、家の前を行きかうお年寄り
の顔にも冬の間見られた固く黒ずんだ陰りが柔らかく赤みを帯びたそれに変って
いた。皆が新しい光の中で、生きていた。
この街は風の街でもある。
特に春の訪れとともに、「比良おろし、比良八荒」が吹き荒れる。
比良山地南東側の急斜面を駆け降りるように吹く北西の風である。
強い比良おろしが吹くときには、比良山地の尾根の上に風枕という雲が見られる。
その風に合わすかのように「比良八講(ひらはっこう)」という法要が行われる。
周辺の琵琶湖で僧りょや修験者らが、比良山系から取水した「法水」を湖面に注ぎ、
物故者の供養や湖上安全を祈願するのだ。


山が霞んで遠景の隠れる点では、あるいは秋の中ごろに劣るという人もあろうが、
その代わりには峰の桜がある。黒木に映ずる柔らかな若葉の色がある。
全体にこの地の人々は、まだ山の花を愛する慣習がないとみえて、あれだけの
樹林と村居と比べては、見渡したところ天然の彩色が少し寂しいと思った。
今あるさくらなどもかって山詣での最も盛んな時代に、植えておいたらしい
数株の老木のみである。、、、、、、
山の斜面はほぼ正東に向いている。最初は前に立つ寒風山に隔てられて、
ただ想像するだけの八郎潟が、登るにつれて少しづつその両肩の上に光ってくる。
それが半腹を過ぎるとほとんど全部、寒風の峰を覆うように見えるのであるが、
その見晴らしの最も優れた地点で路を曲げ、曲がり角にはチャント桜があるのは、
疑うところもなく心あっての設けであった。以前この辺まで一帯の林であった
ころには、かんらず、木の花の陰に息を入れて振りかえってはじめて三方の海を
眺めた事と思う。
本山の若葉山の姿やはりこのあたりから見るのが良いように思った。
細やかに観察したならば、美しい理由と言うともいうべきものが分かるであろう。
山の傾斜と直立する常盤木との角度、これに対する展望者の位置等が、
あたかもころあいになっているのではないか。画を描く人たちに考えて
もらいたいと思った。
その上に昔もこの通りであったととも言われぬが明るい新樹の緑色に混じった
杉の樹の数と高さが、わざわざ人が計画したもののように好く調和している。
自分などの信仰では、山の自然に任せておけば、永くこの状態は保ちえられると
思っている。北海の水蒸気はいつでも春の常盤木を紺青ににし、これを取り囲む
色々の雑木に、花なき寂しさを補わしめるような複雑な光の濃淡を
与えるであろう。そうすれば、旅人は、単によきときに遅れることなく、
静かに昔の山桜の陰に立って、鑑賞しておりさえすればよいのであって、
自然の画巻きは季節がこれを広げて見せてくれるようになっているのだ。

2016年5月1日日曜日

各地区の祭、琵琶湖八珍

旬のもの
・もろこ 早春に取れる体長10センチほどの子持ちモロコは最も味がよい。
・手長海老 9月から11月頃に琵琶湖で取れる手長海老とのかき揚げは美味しい。
・竹の子ご飯 4月から5月にかけて取れる新芽の竹の子のご飯は美味しい。
・わけぎ  別名3月ものといわれ、ねぎより細く柔らかでぬめりが少ないので
      扱いやすい食材です。
・イタドリ 4月末から5月初めにかけて取れるイタドリは皮をはぎ、節の部分を
      つぶして加工すると美味しい。
・ハス   琵琶湖原産の魚であるが、味噌炊きや煮つけにして夏の食材として使う。
・ごり   夏にごり汁や佃煮にすると美味しい。
・小あゆ  5月から川を遡上する鮎はてんぷらなどで食べると美味しい。
・干しズイキ 里芋の茎を天日干ししたもの。
・あめうお  ビワマスが10月ごろ、産卵のため川を遡上する時は、体の色が変わり
       これを「あおうめ」と読んでいます。
・むかご  やまいもの葉の付け根にできる珠芽です。秋の季節にはむかごご飯として
      食べます。
・いさざ煮  イサザは体長5センチほどの小魚。冬の季節、てんぷら、すき焼きなど
に
       食材として使われます。
・氷魚    鮎の幼魚ですが、細く白く味も淡白であっさりとしています。
・クレソン  クレソンは繁殖生があり、冬でもあり、これと鴨のクレソン鍋は美味し
い。

1)祭り
①小野
小野神社のしとぎ祭り
小野神社は、古代氏族である小野一族の始祖を祀り、飛鳥時代の創建と伝わる。
小野妹子・篁(たかむら 歌人)・道風(書家)・などを生んだ古代の名族小野氏の氏
神である。推古天皇の代に小野妹子が先祖を祀って創建したと伝える。
境内に小野篁神社(本殿:重文)がある。また近くの飛地境内に道風神社(本殿:重文
)がある。道風は、書道家として、当時は著名3人の1人に数えられた。埼玉の春日井
も関係がある。平安時代には、小野氏同族の氏神として春秋に祭祀が行われており、
平安京内に住む小野氏や一族がこの神社に参向していた。
境内から石段で高くなった本殿前の空いたスペースに、この神社の祭神・米餅搗大使主
命にちなんで、お餅が飾られている。
毎年10月20日には、全国から餅や菓子の製造業者が自慢の製品を持って神社に集まり
「しとぎ祭」が行われる。米餅搗大使主命は応神天皇の頃、わが国で最初に餅をついた
餅造りの始祖といわれ、現在ではお菓子の神様として信仰を集めている。
参道入口に「餅祖神 小野神社」と刻まれた道標がある。
②和邇
和邇祭り
5月8日には旧六か村の和邇祭が行われます。これは近世の和邇庄の
成り立ちに関係します。庄鎮守社としてこの天皇神社(天王社)の境内には、
各村の氏神が摂末社としてあります。天王社本社(大宮)は和邇中、今宿、
中浜は樹下(十禅師権現)、北浜は三之宮、南浜は木元大明神、高城は
若宮大明神があり、夫々の神輿を出します。

③守山
金毘羅神社の大祭
毎年3月10日に行われます。今から二百年前に守山の農家に金毘羅さんの
御神符が落ちてきて、その後海の守り神として祀ったといわれています。
数十年前までは大祭の日には村の辻辻に猿のぬいぐるみを吊るしたそうです。

④栗原
水分神社(みくまり)の祭り
当社は康元元年の創祀と伝えられ、元八大龍王社と称して、和邇荘全域の祈雨場
であった。応永三十五年畑庄司藤原友章が栗原村を領した際采地の内より若干の
神地を寄進した。元禄五年社殿改造の記録がある。尚和邇荘全体の祈雨場であった
のが、後に和邇荘を三つに分けて、三交代で祭典を行い、更に後世栗原村のみの
氏神となって現在に及んでいる。また当社には古くから村座として十人衆があり、
その下に一年神主が居て祭典、宮司が司る。この為古神事が名称もそのままに
残っています。
その主なものを記すと、神事始祭(一月十日)日仰祭(三月六日)菖蒲祭(六月五日)
権現祭(七月二十日)八朔祭(九月一日)ヘイトウ祭(九月二十八日)等があり、
八朔祭には若衆による武者行列がありました。
御田植え祭が6月10日にある。
八朔祭り
農作物の実りを祈願し、別名「たのみ節句」とも呼ばれています。
毎年9月一日に行われ、午後8時半ごろから行列を組み、氏神に
参拝します。
  
5)木戸
樹下神社の例祭
この比良神は古く比良三系を神体山として周辺の住民が産土神として
仰いで来た神であるが、この比良山に佛教が入って来ると、宗教界に大きな
位置をしめ、南都の佛教が入ると、東大寺縁起に比良神が重要な役割を
もって現れ、続いて比叡山延暦寺の勢力が南都寺院を圧迫して入って来ると、
比良神も北端に追われて白鬚明神が比良神であると縁起に語られ、
地元民の比良権現信仰が白山権現にすり替えられるのである。
(比良神は貞観七年に従四位下の神階を贈られた)
当社の例祭には五基の神輿による勇壮な神幸祭があり、庄内五部落の立会の
古式祭で古くより五箇祭と称され、例年5月5日に開催され、北船路の
八所神社の神輿とあわせ五基の神輿が湖岸の御旅所へ渡御する湖西地方
で有名な祭です。

6)比良
比良天満宮(北比良)と樹下神社(南比良)
国道161号線に面して建つ神社で境界もなく、参道が深い森の中へ導いていきます。
参道入口に樹齢300年の大きな神木・スジダイがあり、その左参道が樹下神社、
右の鳥居が天満宮です。境内に入ると二社の社殿がほぼ平行に並び建っています。
天満宮の祭礼は、北比良村が天満宮の御輿、南比良が十禅師社の御輿を担ぎ、神事の
執行は、両村の社役が交互で務めていました。しかし、この社役が着用する装束を
めぐり、相論が起こり、繰り返し起こり、二つの村が、一つの社を維持してゆくことは
困難として、明治5年(1872)に両社を分離し、それぞれの氏神とすることが
定められた。なお、比良天満宮の祭神は、菅原道真です。鳥居の前左右には、
天明4年(1784)建立の銘文が入った燈籠が建っていますし、樹木が囲む参道を進むと
「えま堂」や社務所、牛像に出合います。えま堂には神将形立像が安置されています。
例祭は4月25日小松地区の例祭と同時に行われ、一基の神輿は湖岸の御旅所へ
渡岸します。

7)南小松
八幡神社の祭礼
南小松の山手にあり、京都の石清水八幡宮と同じ時代に建てられたとされます。
木村新太郎氏の古文書によれば、六十三代天皇冷泉院の時代に当地の夜民牧右馬大師
と言うものが八幡宮の霊夢を見たとのこと。そのお告げでは「我、機縁によって
この地に棲まんと欲す」と語り、浜辺に珠を埋められる。大師が直ぐに目を覚まし
夢に出た浜辺に向うと大光が現れ、夢のとおり聖像があり、水中に飛び込み
引き上げ、この場所に祠を建てて祀ったのが始まりです。
春の祭礼(四月下旬)には、神輿をお旅所まで担ぎ、野村太鼓奉納や子供神輿
が出ます。また、この辺りは野村と呼ばれ、特に自家栽培のお茶が美味しいようです。
八朔祭(9月1日)が行われ、夜7時ごろからは奉納相撲が開催されます。
八幡神社の狛犬は、明治15年に雌(右)、明治 17 年に雄(左)(名工中野甚八作)
が作られ、県下では一番大きいといわれています。体長180センチ弱ですが、
左右違う、そのたてがみや大きな眼が印象的です。

8)北小松
樹下神社の例祭
創祀年代は不詳であるが、天元5年(982年)に佐々木成頼により日吉十禅師
(現日吉大社摂社樹下宮)を勧請したのに創まるとの伝えがあります。
明治3年(1870年)に十禅師社と称していた社号を、樹下神社に改めた。
境内社には、天滿宮、金比羅宮、大髭神社があります。
例祭は4月25日に行われます。



琵琶湖八珍
琵琶湖にはこの豊かな湖の魚を扱った特有の食文化がある。
琵琶湖にいる約80種の魚が生息していると言う。その湖魚のブランド
「琵琶湖八珍」に、ビワマス、コアユ、ニゴロブナなど8種の魚介類が選ばれた。
ほかにハス、ホンモロコ、イサザ、ビワヨシノボリ、スジエビが入った。
選ばれた8種のうち5種が琵琶湖固有種で料亭から家庭料理まで広く親しまれている。
なお、人気投票で上位だったウナギ、アユ(大アユ)、シジミなどは供給量や独自性
などの観点から外されたとのこと。
この志賀周辺でも和邇や北小松、さらに堅田の港では、数が少なくなったものの、
これら八珍のいくつかを今でも獲っているので、湖魚の専門店もあり、様々な
料理でそれを味わう事が出来る。
また、琵琶湖八珍の中で、「コアユ」「イサザ」「ビワヨシノボリ」「ハス」
「スジエビ」などは、佃煮(甘露煮)などとして、全国に流通している。
「鮒鮨」の材料としての「ニゴロブナ」は加工品としても有名でもある。
「ニゴロブナ」や「ビワマス」に「ホンモロコ」は、滋賀県に住んでいても
滅多に口に入らない高級魚になっています。
こうした地域の魚料理を定めたものに、「宍道湖七珍」があり有名であり、島根県
が宍道湖(しんじこ)の魚の「宍道湖七珍」が選定された。現在の七珍は
「スズキ」「モロゲエビ」「ヨシエビ」「シラウオ」「コイ」「シジミ」である。
しかし、「ニゴロブナ」、「ビワマス」、「ホンモロコ」は、中々に口に入らない
高級魚になっている。

少しこれらを紹介すると、
1)「ニゴロブナ」は鮒鮨(ふなずし)に使われるが、近年は産卵場所の減少や
ブラックバスやブルーギルなど外来魚の食害によって稚魚が食べられ漁獲高
は激減している。
鮒鮨はなれずし(現在のお寿司の元)であり、その匂いで受けつけにくい。
現に滋賀県に来て求めたものを、途中駅で開けて「腐っている」と捨てられた
という、笑えない話がある。
食べ慣れれば、日本酒にこれだけ合う肴はないと思うほど、深みのある味をして
いるが、贈答用だと30cmほどの子持ちで1万円ほどと結構高い。

2)「ビワマス」は「ヤマメ」の陸封タイプで、海に出ると「サクラマス」になる。
成魚になると70cm以上になり、その刺身はトロのように舌に絡まる味わいがある。
今が最盛期であるが、「ニゴロブナ」と同じく、中々漁で確保するのは、難しく
養殖されたものが主流となっている。今日はあるところで久しぶりにビワマス
を食した。刺身は相変わらず美味しかったが、燻製風にするとまた違う味
になると言う。

3)「ホンモロコ」は京料理に用いられる高級魚になっており、琵琶湖の貴婦人
の名に恥じことなく、その白焼きは絶品と評判である。
昔は、バケツにいっぱい釣れていたが、外来魚の食害のため最盛期の1/10以下
になっているとのこと。

4)「いさざ」。これは少し詳しく書こう。
イサザは、琵琶湖固有のハゼの一種で、昔からなぜか獲れなくなる時期が
あることから、漢字も「魚」偏に「少」と書いて「いさざ」と読ませている。
佃煮の他「じゅんじゅん」という鍋で食べられることが多く、白身でありながら
濃い味付けに負けない独特の風味があり、湖魚のなかでもファンが多数いる。
主な漁場は、琵琶湖でも水深が深い湖北が中心であり、長浜市にある尾上(おのえ)
漁港、竹生島(ちくぶしま)や琵琶湖の最北端に突き出た葛籠尾(つづらお)
半島が間近に迫る風光明媚な港で結構獲れる。
琵琶湖は、竹生島の南あたりで深くなっていますが、イサザの漁場もそのあたり。漁港
から船で5分ほど走ったところ、葛籠尾半島の先端である葛籠尾崎のすぐ近くにある。
イサザ漁は、主に冬季に沖(ちゅう)びき網で行われる。これは、長いロープの先端
に取り付けた網で底を引きずり、イカリで固定した船へ巻き上げるという、底びき網の
一種。湖底から獲られたイサザは、水面に出ると水圧の関係で、お腹を上にした状態で
浮き上がってくるので、それをすばやく網ですくいとる。
イサザ漁は、朝の6時頃に港を出発するが、最近はイサザも少なく、2回操業程度。
「昔は1回で50~60kgは獲れたが、概ね12~3kgぐらい」。
一時はまるでとれなかった時期があり、「幻の魚」といわれていたほどであり、
ここ数年で少し漁獲が盛り返してきましたが、最盛期にはまだまだ及ばない。
湖北名物、イサザの「じゅんじゅん」
イサザは、大豆と煮た「イサザ豆」や佃煮のほか、湖北地域では、すき焼き風に煮た
「じゅんじゅん」という料理でよく食べられる。「ネギと油あげ、麩を入れ、醤油と
砂糖で甘辛く煮る」のもよい。「イサザは、白身の淡泊な味でおいしく、特に秋から
1月頃のものは、骨も柔らかくておいしい」と言われている。

5)氷魚(ひうお)
冬だけにとれる特産品であり、氷魚(ひうお)と言われる鮎の稚魚で、大きさは
3~6cmくらい。体が氷のように透き通っているため、「氷魚」と呼ばれている。
氷魚は、釜揚げにするのが一般的。「しらす」のように熱を加えると白くなり、
身はしっとりしていて、舌触りは滑らか。そこはかとなく鮎とわかる繊細な味わいは、
琵琶湖の冬の味覚として愛されている。釜揚げのほかにも、かき揚げや佃煮など
でも食されている。
氷魚が主に水揚げされるのは、12月から3月頃まで。透き通っている氷魚は、
やがてウロコができ、体型も変化し、5月頃には小鮎(コアユ)と呼ばれる
ようになる。以前に近くの和邇漁港に行った時は、料理店などの専門業者に交じり、
近所の主婦数人が氷魚漁から帰る船を待ちわびている。自宅で釜揚げにするの
だそうだ。湖近くに住む人だけの贅沢な楽しみであろう。
漁船が帰港し、甲板に設けられた水槽の中には透明な氷魚が元気に泳いでいる。
すぐに漁港でハカリにかけられ、次から次へ、キロ単位でまたたくまに引き取ら
れていく。「3月のいまの時期は例年通りの漁獲量だが、今年の1月と2月は氷魚
は不漁だった。天候が悪く、船の出る日数が少なかった。でも、30年くらい前
とは比べ物にならないそうだ。当時は、船いっぱいにとれた」と言う。

琵琶湖独特の漁法のエリ漁。
「琵琶湖の漁には、季節や魚の種類によりさまざまな方法があるが、この時期の
氷魚は主にエリ漁」とのこと。
エリとは琵琶湖の伝統的な漁法で、定置網の一種で、湖岸沿いを走っていると岸
から沖合に向けて杭が並んでいるのが見られる。これを上から見ると、矢印のような
形をしており、これがエリ。湖岸近くに来た魚を矢印の両側に張出した「ツボ」と
呼ばれる部分に誘導し、ツボに仕掛けておいた網を引きあげて捕獲する漁法。志賀
町漁業協同組合では、丹出川(たんでがわ)から高島市の白鬚(しらひげ)浜あたり
までの湖岸22kmの間で15のエリがあるという。
氷魚漁の船は、水槽のある本船1隻が小舟2隻を伴って朝の6時くらいに港を出発し、
エリのツボに着いたら底網を機械であげ、残りの網を小舟に乗った漁師さんが手で
繰りながら引きあげていく。
「ゆで氷魚(ひお)」の作り方があり、塩分を効かせて固めにゆでた氷魚を陰干しで
2日間干す。「ちりめんじゃこの味の濃いようなものになり、旨い」とのこと。
また、生の氷魚をすき焼き風にして食べてもおいしい。

郷土料理としての存在
琵琶湖には、このように素晴らしい湖魚に対する食文化があり、これを支える食材
としての魚が生息している。まさに琵琶湖にしかない独特の食文化でもある。
全国、画一的な食文化と冷凍品による土地固有の味わい文化の衰退が進んでいる中、
その土地にしかない、しかも、その土地に行かなければ味わえない食べ物など、
稀な存在である。琵琶湖の湖性が生み出した、食文化の発信は、湖の湖と共に生きる
誇りを、外向けには琵琶湖に対するあこがれを醸しだすことになる。
更には、地域の野菜とのコラボレーションも郷土料理として多い。
琵琶湖では、畑の産物と琵琶湖の産物を併せた料理が多数伝えられている。
よくあるのが、スジエビと大豆を甘辛く煮き合わせた「エビ豆」であろう。
この他に、大豆と魚を炊き合わせた料理には「イサザ豆」「ウロリ豆」「ヒウオ豆」
等が広く食されている。米どころ近江では、水田の畔に豆を植えることが広く
行われていた。「**豆」は、この豆と、琵琶湖の魚が合わさり生まれた料理
なのだろう。
この食文化は、琵琶湖の漁師の多くが農業にたずさわり、農民が漁業を行うという
伝統に根ざしている。更には、野菜との組み合わせでは、「ジュンジュン」と称される
料理が広く食されている。「ジュンジュン」とは「すき焼き」のことである。
「牛のジュンジュン」は無論「カシワのジュンジュン」のような肉類の他に、ウナギ、
イサザ、ナマズ、コイ等々、多くの湖魚がジュンジュンとして食され、多量の野菜
と共に煮込まれる。
また他の地域に比して、琵琶湖では、コアユの仔魚である「ヒウオ」、「ビワ
ヨシノボリ」の仔魚である「ウロリ」、ハスの稚魚である「ハスゴ」等が盛んに
捕られ消費される。
さらに、イサザ、スゴモロコ、コアユのような小型の魚も盛んに漁獲され利用
されている。このような小型の魚を集中的に利用する食文化も、琵琶湖の特徴で
あろうし、伝統的な調理技術に「ナレズシ」がある。塩漬けした魚を御飯に合わせて
乳酸発酵させた食品で、現在の日本人が愛してやまない「スシ」の原型の食である。
そしてその代表がフナズシである。 
以上のように、
琵琶湖には、実に多様な湖魚に対する食文化が生まれ、継承され、商品として売られ
たり、一般家庭の郷土料理として生きている。
しかし、「琵琶湖の魚が泳いでいる水は、我々近畿圏の多くの人たちが飲んでいる水
である」という事実であり、魚が気持ちよく育つ琵琶湖であり続けることが重要
となる。琵琶湖八珍はそれを知ってもらう一つの手段でもある。

ハス魚田
みそ炊きや煮付け料理が美味しい。
ハス (魚偏に時)
 分 類  コイ目・ コイ科・ダニオ亜科・ハス属
 学 名  Opsariichthys uncirostris
 英 名  Three-lips
 分 布  日本や朝鮮半島、アムール川水系、中国の長江水系より南など
 生息地  遊泳性が強い
 全 長  30~35cm 程度
 別名・地方名  ケタ、ケタバスなど
 備 考  背びれ・3棘7軟条、しりびれ・3棘9軟条、側線鱗数・46~62
 保護状態  環境省レッドリスト・絶滅危惧Ⅱ類
  
ハスはコイ科に属する淡水魚で、日本のほか、朝鮮半島や中国の湖沼や大きな遊水池な
どのほか、河川の中流から下流にかけて生息している。

体は側扁していて細長く、側線は中央より下に湾曲して縦走している。
しりびれが大きく、幼魚ではオイカワと似ているが、ハスの口は特徴的な「へ」の字形
に曲がっているので見分けることが出来る。
この口は吻端に上を向いて開いているが、下顎は吻端で突出していて、両側にはくぼみ
があり上顎とかみ合っている。
また、口ひげはない。

体色は背側では青みを帯びているが、体側と腹側は銀白色で、雄は雌よりも大きくなる
。
繁殖期にはオイカワやカワムツに似た婚姻色が現れ、雄では頭部や腹部、各ひれが赤っ
ぽくになり、しりびれ前方の軟条が伸びて大きくなる他、頭部と尾柄部、しりびれには
多くの追星が現れる。

仔稚魚では動物プランクトンや底生の小動物を食べるが、ハスは成魚になるにつれて、
コイ類やハゼ類などの小魚を食べ、コイ科の中では珍しく魚食性である。

警戒心が強く、群れを成して生活しているが、移動・遊泳能力に優れていて動きも素早
く、同じ魚食性の淡水魚であるナマズやドンコなどとは違って、獲物を追いかけて泳ぎ
回る。
また、琵琶湖などでは沖合いの表層近くを泳ぎ、小魚などを追って水面を飛び跳ねるの
が見られるが、ハスは昆虫なども捕食する。

普通は5月下旬から8月中旬頃にかけて、水の澄んだ湖岸や流入河川の流れの緩やかな水
深5~20cm程度の砂や砂礫底に産卵する。
産卵は昼間に行われるが、1年程で体長6㎝、2年で13㎝、3年で20㎝程に成長し、完全に
成長すると体長30~35cm程になる。

国内での分布域は琵琶湖・淀川水系と福井県三方湖に在来分布しているが、ワタカなど
と同様、琵琶湖産アユの放流種苗に混入して、利根川などの関東地方や長良川・木曽川
などの濃尾平野のほか、中国地方や九州地方にも分布を広げている。
ハスは魚食性のため、移入による在来魚類への影響が懸念されているが、近年はブルー
ギルなどの外来種の脅威も取り上げられている

白身で初夏に美味しいとされ、投網や刺し網、釣りなどで獲り、塩焼きやみそ焼き、天
ぷらなどにして食べられるが、食用魚としての価値は低い。

また、ハスは朝鮮半島やアムール川水系、中国の長江水系より南や海南島、また台湾な
どにも亜種が分布しているが、在来のものは近年生息数が減少していて、環境省のレッ
ドリストに絶滅危惧種・Ⅱ類として指定されている。