2016年1月30日土曜日

旬なものから琵琶湖八珍

旬のもの
・もろこ 早春に取れる体長10センチほどの子持ちモロコは最も味がよい。
・手長海老 9月から11月頃に琵琶湖で取れる手長海老とのかき揚げは美味しい。
・竹の子ご飯 4月から5月にかけて取れる新芽の竹の子のご飯は美味しい。
・わけぎ  別名3月ものといわれ、ねぎより細く柔らかでぬめりが少ないので
      扱いやすい食材です。
・イタドリ 4月末から5月初めにかけて取れるイタドリは皮をはぎ、節の部分を
      つぶして加工すると美味しい。
・ハス   琵琶湖原産の魚であるが、味噌炊きや煮つけにして夏の食材として使う。
・ごり   夏にごり汁や佃煮にすると美味しい。
・小あゆ  5月から川を遡上する鮎はてんぷらなどで食べると美味しい。
・干しズイキ 里芋の茎を天日干ししたもの。
・あめうお  ビワマスが10月ごろ、産卵のため川を遡上する時は、体の色が変わり
       これを「あおうめ」と読んでいます。
・むかご  やまいもの葉の付け根にできる珠芽です。秋の季節にはむかごご飯として
      食べます。
・いさざ煮  イサザは体長5センチほどの小魚。冬の季節、てんぷら、すき焼きなど
に
       食材として使われます。
・氷魚    鮎の幼魚ですが、細く白く味も淡白であっさりとしています。
・クレソン  クレソンは繁殖生があり、冬でもあり、これと鴨のクレソン鍋は美味し
い。



琵琶湖八珍
琵琶湖にはこの豊かな湖の魚を扱った特有の食文化がある。
琵琶湖にいる約80種の魚が生息していると言う。その湖魚のブランド
「琵琶湖八珍」に、ビワマス、コアユ、ニゴロブナなど8種の魚介類が選ばれた。
ほかにハス、ホンモロコ、イサザ、ビワヨシノボリ、スジエビが入った。
選ばれた8種のうち5種が琵琶湖固有種で料亭から家庭料理まで広く親しまれている。
なお、人気投票で上位だったウナギ、アユ(大アユ)、シジミなどは供給量や独自性
などの観点から外されたとのこと。
この志賀周辺でも和邇や北小松、さらに堅田の港では、数が少なくなったものの、
これら八珍のいくつかを今でも獲っているので、湖魚の専門店もあり、様々な
料理でそれを味わう事が出来る。
また、琵琶湖八珍の中で、「コアユ」「イサザ」「ビワヨシノボリ」「ハス」
「スジエビ」などは、佃煮(甘露煮)などとして、全国に流通している。
「鮒鮨」の材料としての「ニゴロブナ」は加工品としても有名でもある。
「ニゴロブナ」や「ビワマス」に「ホンモロコ」は、滋賀県に住んでいても
滅多に口に入らない高級魚になっています。
こうした地域の魚料理を定めたものに、「宍道湖七珍」があり有名であり、島根県
が宍道湖(しんじこ)の魚の「宍道湖七珍」が選定された。現在の七珍は
「スズキ」「モロゲエビ」「ヨシエビ」「シラウオ」「コイ」「シジミ」である。
しかし、「ニゴロブナ」、「ビワマス」、「ホンモロコ」は、中々に口に入らない
高級魚になっている。

少しこれらを紹介すると、
1)「ニゴロブナ」は鮒鮨(ふなずし)に使われるが、近年は産卵場所の減少や
ブラックバスやブルーギルなど外来魚の食害によって稚魚が食べられ漁獲高
は激減している。
鮒鮨はなれずし(現在のお寿司の元)であり、その匂いで受けつけにくい。
現に滋賀県に来て求めたものを、途中駅で開けて「腐っている」と捨てられた
という、笑えない話がある。
食べ慣れれば、日本酒にこれだけ合う肴はないと思うほど、深みのある味をして
いるが、贈答用だと30cmほどの子持ちで1万円ほどと結構高い。

2)「ビワマス」は「ヤマメ」の陸封タイプで、海に出ると「サクラマス」になる。
成魚になると70cm以上になり、その刺身はトロのように舌に絡まる味わいがある。
今が最盛期であるが、「ニゴロブナ」と同じく、中々漁で確保するのは、難しく
養殖されたものが主流となっている。今日はあるところで久しぶりにビワマス
を食した。刺身は相変わらず美味しかったが、燻製風にするとまた違う味
になると言う。

3)「ホンモロコ」は京料理に用いられる高級魚になっており、琵琶湖の貴婦人
の名に恥じことなく、その白焼きは絶品と評判である。
昔は、バケツにいっぱい釣れていたが、外来魚の食害のため最盛期の1/10以下
になっているとのこと。

4)「いさざ」。これは少し詳しく書こう。
イサザは、琵琶湖固有のハゼの一種で、昔からなぜか獲れなくなる時期が
あることから、漢字も「魚」偏に「少」と書いて「いさざ」と読ませている。
佃煮の他「じゅんじゅん」という鍋で食べられることが多く、白身でありながら
濃い味付けに負けない独特の風味があり、湖魚のなかでもファンが多数いる。
主な漁場は、琵琶湖でも水深が深い湖北が中心であり、長浜市にある尾上(おのえ)
漁港、竹生島(ちくぶしま)や琵琶湖の最北端に突き出た葛籠尾(つづらお)
半島が間近に迫る風光明媚な港で結構獲れる。
琵琶湖は、竹生島の南あたりで深くなっていますが、イサザの漁場もそのあたり。漁港
から船で5分ほど走ったところ、葛籠尾半島の先端である葛籠尾崎のすぐ近くにある。
イサザ漁は、主に冬季に沖(ちゅう)びき網で行われる。これは、長いロープの先端
に取り付けた網で底を引きずり、イカリで固定した船へ巻き上げるという、底びき網の
一種。湖底から獲られたイサザは、水面に出ると水圧の関係で、お腹を上にした状態で
浮き上がってくるので、それをすばやく網ですくいとる。
イサザ漁は、朝の6時頃に港を出発するが、最近はイサザも少なく、2回操業程度。
「昔は1回で50~60kgは獲れたが、概ね12~3kgぐらい」。
一時はまるでとれなかった時期があり、「幻の魚」といわれていたほどであり、
ここ数年で少し漁獲が盛り返してきましたが、最盛期にはまだまだ及ばない。
湖北名物、イサザの「じゅんじゅん」
イサザは、大豆と煮た「イサザ豆」や佃煮のほか、湖北地域では、すき焼き風に煮た
「じゅんじゅん」という料理でよく食べられる。「ネギと油あげ、麩を入れ、醤油と
砂糖で甘辛く煮る」のもよい。「イサザは、白身の淡泊な味でおいしく、特に秋から
1月頃のものは、骨も柔らかくておいしい」と言われている。

5)氷魚(ひうお)
冬だけにとれる特産品であり、氷魚(ひうお)と言われる鮎の稚魚で、大きさは
3~6cmくらい。体が氷のように透き通っているため、「氷魚」と呼ばれている。
氷魚は、釜揚げにするのが一般的。「しらす」のように熱を加えると白くなり、
身はしっとりしていて、舌触りは滑らか。そこはかとなく鮎とわかる繊細な味わいは、
琵琶湖の冬の味覚として愛されている。釜揚げのほかにも、かき揚げや佃煮など
でも食されている。
氷魚が主に水揚げされるのは、12月から3月頃まで。透き通っている氷魚は、
やがてウロコができ、体型も変化し、5月頃には小鮎(コアユ)と呼ばれる
ようになる。以前に近くの和邇漁港に行った時は、料理店などの専門業者に交じり、
近所の主婦数人が氷魚漁から帰る船を待ちわびている。自宅で釜揚げにするの
だそうだ。湖近くに住む人だけの贅沢な楽しみであろう。
漁船が帰港し、甲板に設けられた水槽の中には透明な氷魚が元気に泳いでいる。
すぐに漁港でハカリにかけられ、次から次へ、キロ単位でまたたくまに引き取ら
れていく。「3月のいまの時期は例年通りの漁獲量だが、今年の1月と2月は氷魚
は不漁だった。天候が悪く、船の出る日数が少なかった。でも、30年くらい前
とは比べ物にならないそうだ。当時は、船いっぱいにとれた」と言う。


郷土料理としての存在
琵琶湖には、このように素晴らしい湖魚に対する食文化があり、これを支える食材
としての魚が生息している。まさに琵琶湖にしかない独特の食文化でもある。
全国、画一的な食文化と冷凍品による土地固有の味わい文化の衰退が進んでいる中、
その土地にしかない、しかも、その土地に行かなければ味わえない食べ物など、
稀な存在である。琵琶湖の湖性が生み出した、食文化の発信は、湖の湖と共に生きる
誇りを、外向けには琵琶湖に対するあこがれを醸しだすことになる。
更には、地域の野菜とのコラボレーションも郷土料理として多い。
琵琶湖では、畑の産物と琵琶湖の産物を併せた料理が多数伝えられている。
よくあるのが、スジエビと大豆を甘辛く煮き合わせた「エビ豆」であろう。
この他に、大豆と魚を炊き合わせた料理には「イサザ豆」「ウロリ豆」「ヒウオ豆」
等が広く食されている。米どころ近江では、水田の畔に豆を植えることが広く
行われていた。「**豆」は、この豆と、琵琶湖の魚が合わさり生まれた料理
なのだろう。
この食文化は、琵琶湖の漁師の多くが農業にたずさわり、農民が漁業を行うという
伝統に根ざしている。更には、野菜との組み合わせでは、「ジュンジュン」と称される
料理が広く食されている。「ジュンジュン」とは「すき焼き」のことである。
「牛のジュンジュン」は無論「カシワのジュンジュン」のような肉類の他に、ウナギ、
イサザ、ナマズ、コイ等々、多くの湖魚がジュンジュンとして食され、多量の野菜
と共に煮込まれる。
また他の地域に比して、琵琶湖では、コアユの仔魚である「ヒウオ」、「ビワ
ヨシノボリ」の仔魚である「ウロリ」、ハスの稚魚である「ハスゴ」等が盛んに
捕られ消費される。
さらに、イサザ、スゴモロコ、コアユのような小型の魚も盛んに漁獲され利用
されている。このような小型の魚を集中的に利用する食文化も、琵琶湖の特徴で
あろうし、伝統的な調理技術に「ナレズシ」がある。塩漬けした魚を御飯に合わせて
乳酸発酵させた食品で、現在の日本人が愛してやまない「スシ」の原型の食である。
そしてその代表がフナズシである。 
以上のように、
琵琶湖には、実に多様な湖魚に対する食文化が生まれ、継承され、商品として売られ
たり、一般家庭の郷土料理として生きている。
しかし、「琵琶湖の魚が泳いでいる水は、我々近畿圏の多くの人たちが飲んでいる水
である」という事実であり、魚が気持ちよく育つ琵琶湖であり続けることが重要
となる。琵琶湖八珍はそれを知ってもらう一つの手段でもある。



琵琶湖八珍のロゴマークは、8つの食材を8つの円形で表現。円は大切な宝を意味する「玉」でもあり、ご馳走をのせる「皿」も想起させます。
全体は末広がりの「八」の形。8つの食材が、それぞれ支え合いながら、共に高みを目指す姿をイメージしています。
上部には金色の輝きを配し、ブランドのステイタスを表現しています。

8つの魅力

  • ビワマス
    ビワマスサケ科
    旬:夏
    琵琶湖の固有種。体長は30~60cm、体重は300g~2kg。 琵琶湖に注ぐ河川で産卵・ふ化した後、稚魚は琵琶湖へ下って成長し、およそ2~3年で成魚となると、再び生まれた川へ戻って産卵します。琵琶湖沖合の深みに生息し、コアユやエビ類を食べています。コアユを多く食べる個体の身は脂が乗って色が薄くなり、エビ類を多く食べているものは朱色が濃くなります。主な漁期は6月~9月で、この頃に脂が乗って旬を迎えます。
  • ニゴロブナ
    ニゴロブナコイ科
    旬:冬・春
    琵琶湖の固有種。体長20~40cm、体重200~500g。 発酵食品である「ふなずし」の原料として利用されています。「ふなずし」の材料としては、卵を抱えたメスが重宝されていますが、オスの身は旨味が多く、刺身や煮付けに向いています。一時期は漁獲量が激減していましたが、稚魚の放流事業などにより資源そのものの量は増加の兆しが見えてきています。
  • ホンモロコ
    ホンモロココイ科
    旬:秋・冬・春
    琵琶湖の固有種。体長7~15cm、体重4~20g コイ科の魚類では最もおいしいと言われ、特に春先に獲れるホンモロコは子持ちであるため、高い人気を誇ります。一方、夏から秋頃の時期には、沿岸から沖合へ向かって移動するホンモロコが刺網などで漁獲されます。この秋に獲れるホンモロコは非常に脂が多く乗っており、七輪などで焼くと滴る脂に火が付くほどです。
  • イサザ
    イサザハゼ科
    旬:冬・春
    琵琶湖の固有種。体長3~8cm、体重1~4g。 琵琶湖北部の沖合に生息するハゼの仲間です。非常に出汁がでる魚で、濃い味付けにも負けない強い旨味が特徴です。大型のものは頭の骨が硬い場合がありますが、揚げ物などに調理すると骨を気にせず食べることができます。資源量の年変動が大きく、多く獲れる年と非常に少ない年があります。
  • ゴリ
    ゴリ(ウロリ・ヨシノボリ)ハゼ科
    旬:夏
    体長1~3cm、体重1g以下。 琵琶湖では夏に沖曳網(底曳網)でシラス様の稚魚が漁獲されます。この稚魚は、一般に河川で獲れるゴリとは別に扱われています。しょう油と砂糖で甘辛く炊いた佃煮がポピュラーですが、獲れて直ぐのものを釜揚げにするとほんのりとした甘みが楽しめます。
  • コアユ
    コアユアユ科
    旬:冬・春・夏
    体長10cm前後で体重はおよそ5~20g。 琵琶湖のコアユは、春に成長の良いものが河川へ遡上しますが、大部分の個体は琵琶湖で成長し、小型のまま成魚となります。海産のアユに比べて鱗が細かく滑らかで、口当たりが良いと言われています。冬季に獲れる稚魚は、ウロコが生えそろわず透き通った体をしているため氷魚(ひうお)と呼ばれています。冬の僅かな時期にしか獲れない氷魚をさっと塩ゆでにした釜揚げは、琵琶湖ならではの贅沢な味覚です。
  • スジエビ
    スジエビテナガエビ科
    旬:秋・冬・春
    体長2~4cm、体重1~2g。 主に琵琶湖北部の沖合で沖曳網(底曳網)によって漁獲されます。夏に沖曳網が禁漁となる時期には、「エビタツベ」と言われるカゴで漁獲することもあります。生きている時は透き通った飴色をしていますが、熱を加えて調理するとエビらしい赤色になります。まれに体の表面に3mm程度の甲殻類(エビノコバン)が付着していることがありますが、流水で強く洗うかボイルすると容易に取り除くことができます。
  • ハス
    ハスコイ科
    旬:(小型)冬・春 (大型)春・夏
    体長10~30cm、体重5~500g。 体長10cm程度の小型のものはハスゴと呼ばれています。コイ科の中では珍しく魚食性の強い性質を持ち、琵琶湖では主にコアユを捕食しています。小型のものと大型のものでは獲れる時期が異なります。湖東地域では夏に獲れる大型のハスを塩焼きにしたものが好まれています。

冬ー立冬から大寒まで

薄灰色のとばりが湖面まで垂れ下がり、灰色の水面を覆う形で琵琶湖がいた。
その上には、わずかに残る力を振り絞るが如き姿で朝日がわずかな形を見せている。
既に比良山には、頂上を雪の切れ切れが白く大きく被っている。こちらも薄墨の
背景に浮かぶ山々の山水画の風情をしている。
その寒さは一段と厳しくなり、全ての動作を油の切れた機械の様で、見せている。
夏、秋と華麗な姿を見せていた家々の草花もすでに、茶色に変色し、人々の気持を
一段と寂しくする。志賀を詠う歌には、冬の頃のものが多いと言う。無常観を誘う
この情景が都人の心の襞に響くのかもしれない。

二十四節気「立冬(りっとう)」
立冬(11月8日頃)
本格的な冬の始まり。「立」には新しい季節になるという意味があり立春、立夏、立秋
と並んで季節の大きな節目となる。
・山茶始開(つばきはじめてひらく)11月7日頃
山茶花(さざんか)の花が咲き始める頃。椿と混同されがちだが、先駆けて咲くのは
山茶花。
・地始凍(ちはじめてこおる)11月12日頃
大地が凍り始める頃。サクサクと霜柱を踏みしめて歩くのが楽しみな時期。
・金盞香(きんせんかさく)11月17日頃
水仙が咲き芳香を放つ頃。キク科のキンセンカとは異なる。昔、中国で水仙の花の
黄色い部分を黄金の杯に、白い花弁を銀の台にたとえ「金盞銀台(きんせんぎんだい)」
と呼んだことが別称の由来だそうだ。

二十四節気「小雪(しょうせつ)」
小雪(11月23日頃)
気象庁の天気予報用語での「小雪」は「数時間降り続いても、降水量として1mmに達し
ない雪」だそうです。
・虹蔵不見(にじかくれてみえず)11月22日頃
陽の光も弱まり、虹を見かけなくなる頃。「蔵」には潜むという意味がある。
・朔風払葉(きたかぜこのはをはらう)11月27日頃
北風が木の葉を吹き払う頃。「朔風」は北の風という意味で、木枯らしをさす。
・橘始黄(たちばなはじめてきばむ)12月2日頃
橘の実が黄色く色づき始める頃。常緑樹の橘は、永遠の象徴とされている。

二十四節気「大雪(たいせつ)」
大雪(12月7日頃)
山だけでなく平野にも降雪のある季節。寒さが日増しに厳しくなってゆく。
・閉塞成冬(そらさむくふゆとなる)12月7日頃
空が閉ざされ真冬となる。空をふさぐかのように重苦しい空が真冬の空。
琵琶湖の水もその重苦しさを増す。
・熊蟄穴(くまあなにこもる)12月12日頃
熊が穴に入って冬ごもりする頃。何も食べずに過ごすため、秋に食いだめをする。
・さけ魚群(さけのうおむらがる)12月17日頃
鮭が群がって川を上る頃。川で生まれた鮭は、海を回遊し故郷の川へ帰り来る。

二十四節気「冬至(とうじ)」
冬至(12月22日頃)
日照時間が減り、夏至と反対に夜が最も長く昼が短い日。冬至にかぼちゃを食べるのは
風邪を引かない、金運を祈願するというような意味があるそうだが。
・乃東生(なつかれくさしょうず)12月22日頃
夏枯草が芽をだす頃。夏至の「乃東枯」に対応し、うつぼ草を表している。
・麋角解(さわしかのつのおつる)12月27日頃
鹿の角が落ちる頃。「麋」は大鹿のことで、古い角を落として生え変わる。
雪下出麦(ゆきわたりてむぎのびる)1月1日頃
雪の下で麦が芽をだす頃。浮き上がった芽を踏む「麦踏み」は日本独特の風習。

二十四節気「小寒(しょうかん)」
小寒(1月5日頃)
寒さが最も厳しくなる前、これから寒さが加わる頃という意味で、いわゆる「寒の入り
」である。小寒から節分までの30日間を「寒の内」といい、寒さが厳しくなり冬本番を
迎える。最近は、この頃、大雪が多い。
・芹乃栄(せりすなわちさかう)1月5日頃
セリが盛んに生育する頃。冷たい沢の水辺で育つセリは春の七草のひとつとしてもよく
知られている。1月7日に無病息災を願って食べる「七草粥」にも入れられる。セリ
には鉄分が多く含まれ、増血作用が期待できるとも言われている。
・水泉動(しみずあたたかをふくむ)1月10日頃
地中で凍っていた泉が動き始める頃。かすかなあたたかさを愛おしく感じる時期。
・雉始なく(きじはじめてなく)1月15日頃
雉が鳴き始める頃。雄がケーンケーンと甲高い声をあげて求愛する。

二十四節気「大寒(だいかん)」
大寒(1月20日頃)
冬の最後の節気、一年で最も寒い時期です。
・款冬華(ふきのはなさく)1月20日頃
雪の下からふきのとうが顔をだす頃。香りが強くほろ苦いふきのとうは早春の味。
・水沢腹堅(さわみずこおりつめる)1月25日頃
沢に厚い氷が張りつめる頃。沢に流れる水さえも凍る厳冬ならではの風景であろう。
・鶏始乳(にわとりはじめてとやにつく)1月30日頃
鶏が鳥屋に入って卵を産み始める頃。本来、鶏は冬は産卵せず、春が近づくと卵を
産んだそうだ。


山眠る
二十四節気「立冬(りっとう)」

・山茶始開(つばきはじめてひらく)11月7日頃
山茶花(さざんか)の花が咲き始める頃。椿と混同されがちですが、先駆けて咲くのは
山茶花です。
→みかん。ひらめ。
・地始凍(ちはじめてこおる)11月12日頃
大地が凍り始める頃。サクサクと霜柱を踏みしめて歩くのが楽しみな時期です。
→ほうれんそう、茶の花。毛蟹。
・金盞香(きんせんかさく)11月17日頃
水仙が咲き芳香を放つ頃。「金盞」は金の盃のことで、水仙の黄色い冠を
見立てています。
→れんこん、水仙。甲いか。まひわ(冬を告げる鳥)

二十四節気「小雪(しょうせつ)」
小春日和(旧暦10月を小春、暖かな陽射し包まれ陽気になる日がある)

・虹蔵不見(にじかくれてみえず)11月22日頃
陽の光も弱まり、虹を見かけなくなる頃。「蔵」には潜むという意味があります。
→りんご、野茨。くえ。新嘗祭
・朔風払葉(きたかぜこのはをはらう)11月27日頃
北風が木の葉を吹き払う頃。「朔風」は北の風という意味で、木枯らしをさします。
→白菜、やつで。かわせみ。かます。
・橘始黄(たちばなはじめてきばむ)12月2日頃
橘の実が黄色く色づき始める頃。常緑樹の橘は、永遠の象徴とされています。
→橘(常緑樹で黄色の実)、セロリ。ぼら(はく、すばしり、おぼこ、いな、ぼら、と
ど)。

二十四節気「大雪(たいせつ)」

・閉塞成冬(そらさむくふゆとなる)12月7日頃
空が閉ざされ真冬となる。空をふさぐかのように重苦しい空が真冬の空です。
→ふろふき大根。ぶり。大鷺。
・熊蟄穴(くまあなにこもる)12月12日頃
熊が穴に入って冬ごもりする頃。何も食べずに過ごすため、秋に食いだめをします。
→ねぎ、椿。牡蠣。
・鮭魚群(さけのうおむらがる)12月17日頃
鮭が群がって川を上る頃。川で生まれた鮭は、海を回遊し故郷の川へ帰ります。
→にら。鮭。むみらさきしじみ。

二十四節気「冬至(とうじ)」
冬至梅がある。
・乃東生(なつかれくさしょうず)12月22日頃
夏枯草が芽をだす頃。夏至の「乃東枯」に対応し、うつぼ草を表しています。
→柚子、千両、万両。まぐろ。こげら。
・麋角解(さわしかのつのおつる)12月27日頃
鹿の角が落ちる頃。「麋」は大鹿のことで、古い角を落として生え変わります。
→かぼちゃ。鯉。おなが。
・雪下出麦(ゆきわたりてむぎのびる)1月1日頃
雪の下で麦が芽をだす頃。浮き上がった芽を踏む「麦踏み」は日本独特の風習です。
→百合根。イセエビ
初茜(初日直前の茜空。夜の暗がりから白み、明るみ、茜に染まる東雲しののめの空。

二十四節気「小寒(しょうかん)」

・芹乃栄(せりすなわちさかう)1月5日頃
芹が盛んに育つ頃。春の七草のひとつで、7日の七草粥に入れて食べられます。
→春の七草(せり、なずな、ごぎょう(ははこぐさ)、はこべら(はこべ)、
ほとけのざ(こおにたびらこ)、すずな(蕪)、すずしろ(大根)。鱈。
・水泉動(しみずあたたかをふくむ)1月10日頃
地中で凍っていた泉が動き始める頃。かすかなあたたかさを愛おしく感じる時期です。
→春菊、柊。こまい(氷下魚)。寒九の雨。
・雉始?(きじはじめてなく)1月15日頃
雉が鳴き始める頃。雄がケーンケーンと甲高い声をあげて求愛します。
→蕪、蝋梅(蝋月)。雉。鮟鱇。

二十四節気「大寒(だいかん)」

・款冬華(ふきのはなさく)1月20日頃
雪の下からふきのとうが顔をだす頃。香りが強くほろ苦いふきのとうは早春の味。
→小松菜、南天。赤貝。あおじ。
・水沢腹堅(さわみずこおりつめる)1月25日頃
沢に厚い氷が張りつめる頃。沢に流れる水さえも凍る厳冬ならではの風景です。
→水菜、福寿草。わかさぎ。じょうびたき。
・鶏始乳(にわとりはじめてとやにつく)1月30日頃
鶏が鳥屋に入って卵を産み始める頃。本来、鶏は冬は産卵せず、春が近づくと卵を産み
ました。
→金柑。めひかり。

俳句  冬
湖の鏡にさむし比良の山     支考
春遅し敦賀の津まで比良の雪   素堂
比良三上雪さしわたせ鷺のはし  芭蕉
寒梅やさす枝に白き比良嶽    巴人

和歌  冬
・楽浪の比良の山風の海吹けば
 釣する海人あまの袖反かえる見ゆ 
・吹き迷う雲をさまりし夕なぎに
 比良の高ねの雪を見るかな   為美
・夕づく日比良の高ねを眺むれば 
 くるるともなき雪の白妙    元恒
・近江路や北より冬はきにけらし
 比良の大山まづしくつつ    公朝

秋ー立秋から霜降まで

右を見れば、遠く微かに鈴鹿の山並がどこか頼りなげに薄く延びている。
さらに眼を左へと緩やかに転じていく。三上山の形のよい山姿が静かな湖面の
先に浮かび上がる。その横には八幡山と沖島が深い緑の衣に包まれるように
横たわっている。更にその横奥には、御嶽山を初めとする木曾の山並が
薄く横長に伏せており、その前にはその削られた山肌が痛々しい伊吹の
山が悄然と立っている。全てが琵琶湖の蒼さを照らし出すように薄明るさの
中にあった。よく見る光景だ。だが、一転空に眼を向ければ、秋にしか見られない
素晴らしい舞台があった。遥か上には、櫛を引いたような雲が幾筋も
その軽やかな形を見せている。その下には、繭がその固い形を
ほぐすような雲がふわりと浮き伊吹の上からゆっくりと比良の山に向って流れ来る。
さらに、しっかりとした二本の飛行機雲を切り取る様に、その下をやや黒味
のある雲がこれも比良に向かい素早い流れでこちらに向うように流れ来る。
ここから見える空は平板としてその奥深さを知る事は出来ない。しかし、
いくつもの雲の流れがその空の深さを示すようにお互いを遮ることなく流れ
すぎていく。久しぶりに見る、感じる空の景観であった。足下では、
かさかさと枯れ葉の奏でる音が幾重にもなってこの身に迫る。

二十四節気「立秋(りっしゅう)」
立秋(8月7日頃)
暦の上では秋になるが、まだまだ残暑が厳しく気温の高い日が続く時期である。
・涼風至(すずかぜいたる)8月7日頃
涼しい風が吹き始める頃。まだ暑いからこそ、ふとした瞬間に涼を感じること
ができる。
・寒蝉鳴(ひぐらしなく)8月12日頃
カナカナと甲高くひぐらしが鳴き始める頃。日暮れに響く虫の声は、一服の清涼剤。
・蒙霧升降(ふかききりまとう)8月17日頃
深い霧がまとわりつくように立ち込める頃。秋の「霧」に対して、春は「霞」
と呼ぶ。

二十四節気「処暑(しょしょ)」
処暑(8月23日頃)
暑さが和らぐという意味。長く厳しかった夏もようやく暑さの峠を越し、朝夕は涼風が
吹き始める。身体に強さがわいてくる。
・綿柎開(わたのはなしべひらく)8月23日頃
綿を包むガクが開き始める頃。綿の実がはじけ白いふわふわが顔をのぞかせた様子。
見ているだけで軽やかな気持になる。
・天地始粛(てんちはじめてさむし)8月28日頃
天地の暑さがようやくおさまり始める頃。「粛」は縮む、しずまるという意味。
・禾乃登(こくものすなわちみのる)9月2日頃
いよいよ稲が実り、穂を垂らす頃。「禾」は稲穂が実ったところを表した象形文字。

二十四節気「白露(はくろ)」
白露(9月8日頃)
夜の間に大気が冷え、草花の上に朝露が宿るという意味。本格的な秋の訪れを
感じる頃となる。
・草露白(くさのつゆしろし)9月7日頃
草に降りた露が白く光って見える頃。朝夕の涼しさが際立ってくる。涼しさよりも
寒さの方が似合ってくる。
・鶺鴒鳴(せきれいなく)9月12日頃
せきれいが鳴き始める頃。せきれいは日本神話にも登場し、別名は「恋教え鳥」。
・玄鳥去(つばめさる)9月17日頃
春先に飛来した燕が日本で夏を過ごし子育てを終え、南へ帰っていく。
越冬先である東南アジアやオーストラリアまでは数千キロメートルにも及ぶ旅が待って
いる。
電線に数10羽並んでいた燕の群れもいつの間にか消えている。

二十四節気「秋分(しゅうぶん)」
秋分(9月23日頃)
春分と同じく真東から昇った太陽が真西に沈み、昼と夜の長さがほぼ同じになる。
「暑さ寒さも彼岸まで」ということわざもあるように、この日を境にだんだんと
寒さが増していく。
・雷乃収声(かみなりすなわちこえをおさむ)9月23日頃
雷が鳴らなくなる頃。春分に始まり夏の間鳴り響いた雷も、鳴りをひそめる。
俳句の季語では「雷」は夏、「稲妻」は秋に分類されている。
・蟄虫坏戸(むしかくれてとをふさぐ)9月28日頃
虫たちが土にもぐり、入口の戸をふさぐ頃。冬ごもりの支度をする時期。
・水始涸(みずはじめてかるる)10月3日頃
田んぼの水を抜き、稲刈りの準備をする頃。井戸の水が枯れ始める頃との説も。

二十四節気「寒露(かんろ)」
寒露(10月8日頃)
寒露とは、文字の示す通り晩夏から初秋にかけて野草に宿る冷たい露のことを言う。
しんしんと深まりゆく秋、大気も安定して青く高い空、秋晴れの日が多くなる頃。
・鴻雁来(こうがんきたる)10月8日頃
雁が渡ってくる頃。清明の時期に北へ帰っていった雁たちが、再びやってくる。
・菊花開(きくのはなひらく)10月13日頃
菊の花が咲き始める頃。旧暦では重陽の節供の時期で、菊で長寿を祈願した。
・蟋蟀在戸(きりぎりすとにあり)10月18日頃
戸口で秋の虫が鳴く頃。昔は「こおろぎ」を「きりぎりす」と呼んでいた。

二十四節気「霜降(そうこう)」
霜降(10月23日頃)
朝晩の冷え込みがいっそう厳しくなり、朝霜が見られる頃。山や街も紅葉で美しく彩ら
れる季節の訪れ。
・霜始降花(しもはじめてふる)10月23日頃
山里に霜が降り始める頃。草木や作物を枯らす霜を警戒する時期となる。
・霎時施(こさめときどきふる)10月28日頃
ときどき小雨が降る頃。「霎」をしぐれと読むことも。ひと雨ごとに気温が下がり
寒さが一段と増す。
・楓蔦黄(もみじつたきばむ)11月2日頃
楓(かえで)や蔦の葉が赤や黄色に色づく季節。紅葉という言葉は、霜や時雨の冷たさ
に、葉が揉み出されるようにして色づくことから「揉み出づ」~「もみづ」~
「もみじ」と転訛したという説もある。

小野地区では、

小野神社のしとぎ祭り
小野神社は、古代氏族である小野一族の始祖を祀り、飛鳥時代の創建と伝わる。
小野妹子・篁(たかむら 歌人)・道風(書家)・などを生んだ古代の名族小野氏の氏
神である。推古天皇の代に小野妹子が先祖を祀って創建したと伝える。
境内に小野篁神社(本殿:重文)がある。また近くの飛地境内に道風神社(本殿:重文
)がある。道風は、書道家として、当時は著名3人の1人に数えられた。埼玉の春日井
も関係がある。平安時代には、小野氏同族の氏神として春秋に祭祀が行われており、
平安京内に住む小野氏や一族がこの神社に参向していた。
境内から石段で高くなった本殿前の空いたスペースに、この神社の祭神・米餅搗大使主
命にちなんで、お餅が飾られている。
毎年10月20日には、全国から餅や菓子の製造業者が自慢の製品を持って神社に集まり
「しとぎ祭」が行われる。米餅搗大使主命は応神天皇の頃、わが国で最初に餅をついた
餅造りの始祖といわれ、現在ではお菓子の神様として信仰を集めている。
参道入口に「餅祖神 小野神社」と刻まれた道標がある。

南小松地区では、

八幡神社の祭礼
南小松の山手にあり、京都の石清水八幡宮と同じ時代に建てられたとされます。
木村新太郎氏の古文書によれば、六十三代天皇冷泉院の時代に当地の夜民牧右馬大師
と言うものが八幡宮の霊夢を見たとのこと。そのお告げでは「我、機縁によって
この地に棲まんと欲す」と語り、浜辺に珠を埋められる。大師が直ぐに目を覚まし
夢に出た浜辺に向うと大光が現れ、夢のとおり聖像があり、水中に飛び込み
引き上げ、この場所に祠を建てて祀ったのが始まりです。
春の祭礼(四月下旬)には、神輿をお旅所まで担ぎ、野村太鼓奉納や子供神輿
が出ます。また、この辺りは野村と呼ばれ、特に自家栽培のお茶が美味しいようです。
八朔祭(9月1日)が行われ、夜7時ごろからは奉納相撲が開催されます。
八幡神社の狛犬は、明治15年に雌(右)、明治 17 年に雄(左)(名工中野甚八作)
が作られ、県下では一番大きいといわれています。体長180センチ弱ですが、
左右違う、そのたてがみや大きな眼が印象的です。



山装う
二十四節気「立秋(りっしゅう)」

・涼風至(すずかぜいたる)8月7日頃
涼しい風が吹き始める頃。まだ暑いからこそ、ふとした瞬間に涼を感じること
ができます。秋隣。
→露草、桃。しじみ。
・寒蝉鳴(ひぐらしなく)8月12日頃
カナカナと甲高くひぐらしが鳴き始める頃。日暮れに響く虫の声は、一服の清涼剤。
→ほおずき。めごち。ひぐらし。
・蒙霧升降(ふかききりまとう)8月17日頃
深い霧がまとわりつくように立ち込める頃。秋の「霧」に対して、春は「霞」と呼びま
す。樹雨きさめ
→水引、新しょうが。真たこ。

二十四節気「処暑(しょしょ)」

・綿柎開(わたのはなしべひらく)8月23日頃
綿を包むガクが開き始める頃。綿の実がはじけ白いふわふわが顔をのぞかせた様子。
→すだち、綿花。かさご。
・天地始粛(てんちはじめてさむし)8月28日頃
天地の暑さがようやくおさまり始める頃。「粛」は縮む、しずまるという意味です。
野分のわき。
→ぶどう。ぐち。
・禾乃登(こくものすなわちみのる)9月2日頃
いよいよ稲が実り、穂を垂らす頃。「禾」は稲穂が実ったところを表した象形文字。
→無花果いちじく、きんえのころ。まつむし。鰯。

二十四節気「白露(はくろ)」

・草露白(くさのつゆしろし)9月7日頃
草に降りた露が白く光って見える頃。朝夕の涼しさが際立ってきます。
→秋の七草(萩、すすき、葛、なでしこ、おみなえし、藤袴、桔梗)。島鯵。
秋の野に咲きたる花を指および折り かき数ふれば七種ななくさの花 山上憶良
・鶺鴒鳴(せきれいなく)9月12日頃
せきれいが鳴き始める頃。せきれいは日本神話にも登場し、別名は「恋教え鳥」。
→梨、オシロイバナ(夕化粧ともいう)。あわび。鶺鴒せきれい チチィとなく。
・玄鳥去(つばめさる)9月17日頃
燕が子育てを終え、南へ帰っていく頃。来春までしばしのお別れです。
→鶏頭、なす。昆布。

二十四節気「秋分(しゅうぶん)」

・雷乃収声(かみなりすなわちこえをおさむ)9月23日頃
雷が鳴らなくなる頃。春分に始まり夏の間鳴り響いた雷も、鳴りをひそめます。
→彼岸花、松茸。はぜ。
・蟄虫坏戸(むしかくれてとをふさぐ)9月28日頃
虫たちが土にもぐり、入口の戸をふさぐ頃。冬ごもりの支度をする時期です。
→紫苑、里芋。さんま。茅場(ススキの野原)芋茎ずいき、里芋の茎。
・水始涸(みずはじめてかるる)10月3日頃
田んぼの水を抜き、稲刈りの準備をする頃。井戸の水が枯れ始める頃との説も。
→金木犀、銀杏、稲の実り。とらふぐ。

二十四節気「寒露(かんろ)」

・鴻雁来(こうがんきたる)10月8日頃
雁が渡ってくる頃。清明の時期に北へ帰っていった雁たちが、再びやってきます。
→ななかまど、しめじ。ししゃも。鴈渡し(晩秋に吹く北風)
・菊花開(きくのはなひらく)10月13日頃
菊の花が咲き始める頃。旧暦では重陽の節供の時期で、菊で長寿を祈願しました。
→栗。はたはた。菊晴れ(菊の花が咲くころに青空が晴れ渡る)
・蟋蟀在戸(きりぎりすとにあり)10月18日頃
戸口で秋の虫が鳴く頃。昔は「こおろぎ」を「きりぎりす」と呼びました。
→柿。鯖。

二十四節気「霜降(そうこう)」

・霜始降花(しもはじめてふる)10月23日頃
山里に霜が降り始める頃。草木や作物を枯らす霜を警戒する時期です。
→紫式部。ほっけ。ひよどり ヒーヨとなく。
・霎時施(しぐれときどきふる)10月28日頃
ときどき小雨が降る頃。「霎」をしぐれと読むことも。ひと雨ごとに気温が
下がります。初時雨、片時雨、横時雨
→山芋。きんき。
・楓蔦黄(もみじつたきばむ)11月2日頃
楓(かえで)や蔦の葉が色づく頃。晩秋の山々は赤や黄に彩られ、紅葉
狩りの季節です。
→さつまいも。かわはぎ。

俳句 秋
風雲や時雨をくばる比良おもて  大草
夕焼けの比良を見やりつ柿赤し  惣之助
楊梅の瀧見失う船の秋      虚子
有明や比良の高根も霧の海    白堂
名月やひそかに寒き比良が嶺   歌童

和歌  秋
・ち早ふる比良の御山のもみぢ葉に
 ゆうかけわたすけさの白雲    安法
・宿りするひらの都の仮庵に
 尾花みだれて秋風ぞ吹く     光俊朝臣
・小浪や比良の高嶺の山おろしに
 紅葉を海の物となしたる     刑部卿範

里の四季

■志賀町の四季
本町は木と緑に恵まれた自然景観の美しいまちであり、古代以来、多くの歌人
によって、歌われてきた。
「恵慶集」に旧暦10月に比良を訪れた時に詠んだ9首の歌がある。

比良の山 もみじは夜の間 いかならむ 峰の上風 打ちしきり吹く
人住まず 隣絶えたる 山里に 寝覚めの鹿の 声のみぞする
岸近く 残れる菊は 霜ならで 波をさへこそ しのぐべらなれ
見る人も 沖の荒波 うとけれど わざと馴れいる 鴛(おし)かたつかも 
磯触(いそふり)に さわぐ波だに 高ければ 峰の木の葉も いまは残らじ
唐錦(からにしき) あはなる糸に よりければ 山水にこそ 乱るべらなれ
もみぢゆえ み山ほとりに 宿とりて 夜の嵐に しづ心なし
氷だに まだ山水に むすばねど 比良の高嶺は 雪降りにけり
よどみなく 波路に通ふ 海女(あま)舟は いづこを宿と さして行くらむ

これらの歌は、晩秋から初冬にかけての琵琶湖と比良山地からなる景観の微妙な
季節の移り変わりを、見事に表現している。散っていく紅葉に心を痛めながら
山で鳴く鹿の声、湖岸の菊、波にただよう水鳥や漁をする舟に思いをよせつつ、
比良の山の冠雪から確かな冬の到来をつげている。そして、冬の到来を予感させる
山から吹く強い風により、紅葉が散り終えた事を示唆している。これらの歌が
作られてから焼く1000年の歳月が過ぎているが、現在でも11月頃になると
比良では同じ様な景色が見られる。
このほかに、本町域に関する歌には、「比良の山(比良の高嶺、比良の峰)」
「比良の海」、「比良の浦」「比良の湊」「小松」「小松が崎」「小松の山」
が詠みこまれている。その中で、もっとも多いのが、「比良の山」を題材に
して詠まれた歌である。比良山地は、四季の変化が美しく、とりわけ冬は
「比良の暮雪」「比良おろし」で良く知られている。「比良の山」「比良の
高嶺」を詠んだ代表的な歌を、春夏秋冬に分けて紹介する。

春は、「霞」「花」「桜」が詠まれている。
雪消えぬ 比良の高嶺も 春来れば そことも見えず 霞たなびく
近江路や 真野の浜辺に 駒とめて 比良の高嶺の 花を見るかな
桜咲く 比良の山風 吹くなべに 花のさざ波 寄する湖
 
夏は、「ほととぎす」が詠まれている。
ほととぎす 三津の浜辺に 待つ声を 比良の高嶺に 鳴き過ぎべしや

秋は、「もみじ」と「月」が詠まれている。
ちはやぶる 比良のみ山の もみぢ葉に 木綿(ゆふ)かけわたす 今朝の白雲
もみぢ葉を 比良のおろしの 吹き寄せて 志賀の大曲(おおわだ) 錦浮かべり
真野の浦を 漕ぎ出でて見れば 楽浪(さざなみ)や 比良の高嶺に 月かたぶきぬ

冬には、「雪」「風」が詠まれている。
吹きわたす 比良の吹雪の 寒くとも 日つぎ(天皇)の御狩(みかり)せで
止まめやは
楽浪や 比良の高嶺に 雪降れば 難波葦毛の 駒並(な)めてけり
楽浪や 比良の山風 早からし 波間に消ゆる 海人の釣舟

また、藤原俊成が悠紀方の屏風歌を勤め、梅原山、長沢池、玉蔭井と
ともに小松崎を詠んでいる。

子ねの日して小松が崎をけふみればはるかに千代の影ぞ浮かべる

子の日の遊びをして小松が崎を今日みると、はるかに遠く千代までも
栄える松の影が浮かんでいる。というのが、和歌の主旨で、天皇の千代の
代を言祝いだ和歌である。子の日の遊びと言うのは、正月の初の子の日に
小松を引き、若葉を摘んだりして、邪気を避け、長寿を祈った行事である。
小松崎と小松引きとが上手く掛けられている。松を含む地名自体、めでたい
とされたのであろう。
平安時代後期の歌人としても、似顔絵の先駆者としても著名な藤原隆信も
小松崎を

風わたるこすえのをとはさひしくてこまつかおきにやとる月影

と詠んでいる。この和歌には、
こまつというところをまかりてみれは、まことにちいさきまつはらおもしろく
見わたされるに、月いとあかきをなかめいたして
という詞書が記されており、隆信が実際に小松崎を訪れて詠んだ歌であることが
察せられる。
隆信の和歌が小松を訪れて詠んだ和歌ならば,小松に住む人にあてた和歌もあった。

人のこ松というところに侍りしに、雪のいたうふりふりしかば、つかしし、
朝ほらけおもひやるかなほどもなくこ松は雪にうづもれぬらむ

作者の右馬内侍は平安時代中期の歌壇で活躍した女流歌人なので、当卷で扱う
には少し時代が古いが、小松に近づく雪の季節に対して、そこに住む友人を
おもんばかる気持がよくあらわれている。小松あたりの冬の厳しさは有名で
あったと察せられる。
このように、比良の山々は、古代の知識人に親しまれ、景勝の地として称賛
されていたのである。
 
そのほか
志賀町史P450より
町内の寺院宗派には、天台真盛宗、浄土宗、浄土真宗、臨済宗、日蓮宗などがある。
いずれも寺院の規模は小さく、本堂と門、鐘楼、庫裏などの付属建築物で構成される。
主な寺院建築には次のようなものがある。
①徳勝寺(浄土真宗 北小松)
 枝垂桜が有名。
②徳善寺(真宗 北小松)
③法泉寺(真宗 北小松)
④種徳寺(臨済宗東福寺派 北小松)
 お寺からの景観が素晴らしい。
⑤正覚寺(浄土真宗 北小松)
⑥大仙寺(天台真盛宗 南小松)
⑦西方寺(浄土真宗 南小松)
⑧専徳寺(浄土真宗 南小松)
⑨徳浄寺(浄土真宗 南小松)
⑩聞名寺(真宗 南小松)

小松から比良、木戸にかけては、城跡が多いが、城跡として景観を保つものはなく、
歴史遺構として見せられるか、不明。参考として、
志賀町域の城郭遺構としては15箇所ある。
①寒風峠の遺構(北小松、山腹にあり、現在林)
②涼峠山城(北小松、山腹、林)
③伊藤氏城または小松城(北小松、平地、宅地や田、堀切土塁あり)
④ダンダ坊城(北比良、山腹、林)
⑤田中坊城(北比良、湖岸、福田寺)
⑥比良城(比良、平地、宅地)
⑦南比良城(南比良、湖岸、宅地)
⑧野々口山城(南比良、山頂、林)
⑨歓喜寺城(大物、山腹、林)
⑩歓喜寺山城(大物、尾根、林)
⑪荒川城(荒川、平地、宅地や墓地)
⑫木戸城(木戸、湖岸、宅地)
⑬木戸山城、城尾山城とも言う(木戸、尾根、林)
⑭栗原城(栗原、不明、宅地)
⑮高城(和邇、不明、宅地)

志賀町史より
本町地域での陸路と水路の集落にも、役割が出てくる。
陸路でもあり、各荘園の中心集落としては、
南小松、大物、荒川、木戸、八屋戸、南船路、和邇中、小野があった。
これらの中でも、木戸荘は中心的な荘園であった。
水路、漁業の中心としては、
北小松、北比良、南比良、和邇の北浜、中浜、南浜があった。
和邇は、天皇神社含め多くの遺跡があり、堅田や坂本と並んで湖西における
重要な浜津であり、古代北陸道の駅家もあった。古代の駅家がその後の
中心的な集落になる事例は多くある。現在の和邇今宿が和邇宿であったことが
考えられる。

・本町地域を眺望する絵図
地域をより具体的に見ていくには、地図の存在が大きい。
中世に書かれた比良荘絵図が3点ほどある。
北小松図、北比良図、南比良図である。
こられの裏書などからその地域を領有していたものが分かる。多くは、比叡山
の山徒であった。また、これら絵図の目的の多くは、各荘との境界を明確に
するものであったようで、直接関係が少ない山の名前では、違いがある場合が
少なくない。境界争いや水利権争いでは、どの時代でも、これらの絵図を基本
として、使っているようであり、境界近くの正確性が求められていた。
境界争いでは、「小松荘と音羽、比良荘」との争いや「木戸荘と比良荘との葛川」
「和邇荘と龍華荘との境界争い」など多くあるようであり、幕府や延暦寺など
に残る古文書からもそれが覗える。

小松では、

小松地区では、

志賀町史にも、記述があります。
「比良の山嵐が吹き降りる湖岸に眼をやると、近江国與地志略には、
比良北小松崎 則比良川の下流の崎なり。往古よりふるき松二株有り。
湖上の舟の上下のめあてにす。
と、その由緒を記す小松崎がある。現在の近江舞子、雄松崎付近にあたる
のであろうか。この小松崎も大嘗祭の屏風歌に詠みこまれるほどの
歌枕であった。大嘗祭とは天皇が即位の後,初めておこなう新嘗祭
のことで、大嘗祭に際しては、あらかじめ占いで定められた悠紀、主基ずき
の二国から神饌が献じられるのが決まりであった。そして、平安時代の
宇多、醍醐天皇の頃には、悠紀は近江国、主基は丹波ないしは備中国に
固定していた。また、神饌とともに悠紀、主基の名所を織り込んだ
屏風歌の風俗歌が詠進されるのも恒例となっていた。仁安元年(1166)
六条天皇の大嘗祭の折には、平安時代後期の代表的な歌人である藤原俊成
が悠紀方の屏風歌を勤め、梅原山、長沢池、玉蔭井とともに小松崎を
詠んでいる。
子ねの日して小松が崎をけふみればはるかに千代の影ぞ浮かべる
子の日の遊びをして小松が崎を今日みると、はるかに遠く千代までも
栄える松の影が浮かんでいる。というのが、和歌の主旨で、天皇の千代の
代を言祝いだ和歌である。子の日の遊びと言うのは、正月の初の子の日に
小松を引き、若葉を摘んだりして、邪気を避け、長寿を祈った行事である。
小松崎と小松引きとが上手く掛けられている。松を含む地名自体、めでたい
とされたのであろう。
また、平安時代後期の歌人としても、似顔絵の先駆者としても著名な藤原
隆信も小松崎を
風わたるこすえのをとはさひしくてこまつかおきにやとる月影
と詠んでいる。この和歌には、
こまつというところをまかりてみれは、まことにちいさきまつはらおもしろく
見わたされるに、月いとあかきをなかめいたして
という詞書が記されており、隆信が実際に小松崎を訪れて詠んだ歌であることが
察せられる。
隆信の和歌が小松を訪れて詠んだ和歌ならば,小松に住む人にあてた和歌もあった。
人のこ松というところに侍りしに、雪のいたうふりふりしかば、つかしし、
朝ほらけおもひやるかなほどもなくこ松は雪にうづもれぬらむ
作者の右馬内侍は平安時代中期の歌壇で活躍した女流歌人なので、当卷で扱う
には少し時代が古いが、小松に近づく雪の季節に対して、そこに住む友人を
おもんばかる気持がよくあらわれている。小松あたりの冬の厳しさは有名で
あったと察せられる。」
http://8tagarasu.cocolog-nifty.com/sakamitisannpo/2013/04/post-91e5.html

1)樹下神社
御祭神は、鴨玉依姫命です。水を守る神様です。
創祀年代は不詳であるが、天元5年(982年)に佐々木成頼により日吉十禅師
(現日吉大社摂社樹下宮)を勧請したのに創まるとの伝えがあります。
以来、近江国守護佐々木氏の崇敬を受け、社頭は発展しました。
元亀の争乱時(16世紀後葉)に、織田信長軍により壊滅的な打撃を受けたが、
続く天正年間に規模は小さくなったが再建されました。明治3年(1870年)
に十禅師社と称していた社号を、樹下神社に改め、明治9年には村社に列し、
同41年には神饌幣帛料供進社に指定されました。
境内社には、比較的大きな社務所もあり、天滿宮、金比羅宮、大髭神社があります。
また、石造りの社があり、天保時代の石燈籠など8基ほどあり、この神社への信仰
の篤さを感じます。珍しいのは大きな石をくり抜いたであろう石棺や緑の縞が
明瞭に出ている2メートルほどの守山石など石文化の一端が感じられます。
湧水も豊富であり、3箇所ほどの湧き口からは絶えることなくなく流れています。
竜神の像の口からも出ています。また、この神社を少し山側に行くと、修験堂の
登り口の前に「生水(しょうず)」と呼ばれている湧水の場所があります。
ほぼ16度ほどの温度を保っているようです。


http://www.shiga-jinjacho.jp/ycBBS/Board.cgi/02_jinja_db/db/ycDB_02jinja-pc-de
tail.html?mode:view=1&view:oid=131
http://achikochitazusaete.web.fc2.com/chinju/otsu2/juges15/kkomatu.html
http://achikochitazusaete.web.fc2.com/chinju/otsu2/otsu.html

2)伊藤城跡(小松城跡)その石の水路の織り成す城下の面影
戦国期の土豪である伊藤氏の館城、平地の城館跡です。現在の北小松集落の中
に位置し、「民部屋敷」「吉兵衛屋敷」「斎兵衛屋敷」と呼ばれる伝承地が残ります。
当該地は町内でも最北端の集落で、湖岸にほど近く、かっては水路が集落内をめぐり
この城館も直接水運を利用したであろうし、その水路が防御的な役割を演じて
いたであろうと思われます。街を歩くと、幾重のも伸びている溝や石垣の作りは
堅牢で苔生したその姿からは、何百年の時を感じます。
旧小松郵便局の前の道は堀を埋めたもので、その向かいの「吉兵衛屋敷」の道沿い
には、土塁の上に欅が6,7本あったと言われています。また、民部屋敷にも、
前栽の一部になっている土塁の残欠があり、モチの木が植えられています。
土塁には門があり、跳ね橋で夜は上げていたと伝えられます。
http://www.oumi-castle.net/second_page/komatu.html


3)「かわと」の風情
「かばた」とも言われるが、家の中に湧き水や琵琶湖の水、川の水を引き込み
生活用水として利用した。高島の針江のかばたが、最近有名である。小松では、
山からの湧水が川となり、それを生活用水として利用していました。まだ、
彼方此方に残っていは居ますが、多くは数段の石段が川に延びた状態で、
昔の面影を残すのみとなっています。


4)紅殻格子の家並み
司馬遼太郎の「街道をゆく」でも紹介されています。
「北小松の家々の軒は低く、紅殻格子が古び、厠の扉までが紅殻が塗られて、
その赤は須田国太郎の色調のようであった。それが粉雪によく映えて
こういう漁村がであったならばどんなに懐かしいだろうと思った。
、、、、私の足元に、溝がある。水がわずかに流れている。
村の中のこの水は堅牢に石囲いされていて、おそらく何百年経つに
相違ないほどに石の面が磨耗していた。石垣や石積みの上手さは、
湖西の特徴の1つである。山の水がわずかな距離を走って湖に落ちる。
その水走りの傾斜面に田畑が広がっているのだが、ところがこの付近
の川は眼に見えない。この村の中の溝を除いては、皆暗渠になっている
のである。この地方の言葉では、この田園の暗渠をショウズヌキという。」
街の中を歩くと、その痕跡が残ります。

5)小松漁港
志賀町史より
「北小松、北比良、南比良、和邇の北浜、中浜、南浜があった。
和邇は、天皇神社含め多くの遺跡があり、堅田や坂本と並んで湖西における
重要な浜津であった」
http://8tagarasu.cocolog-nifty.com/sakamitisannpo/2013/04/post-91e5.html
この漁港も石造りの防波堤や港周辺の様々な造りに石が上手く使われています。
先ほどの集落内の水路の石垣やかわとの造りを味わうとまた楽しいのでは。

6)比良元気村
http://genkimura.blog.eonet.jp/
星と琵琶湖の良く見える場所です。

7)湖西焼きの体験
昔から伝わる湖西焼きの復活を目指して頑張っています。
http://en-koubou.jp/

8)徳勝寺(しだれ桜)
徳勝寺(大津市北小松)の境内に咲く枝垂桜が見事です。
エドヒガン桜の種類で樹齢は150年。このお寺は地元では北の寺(きたのてら)と
親しまれています。薬師堂があり、地元ではお薬師さんと呼ばれ、薬師如来が
祭られています。
http://kawasuso.exblog.jp/17813753

9)種徳寺
種徳禅寺:臨済宗東福寺派龍王山)
応安4年(600余年前)足利義満、伊藤丹後守祐義により創建され、
応仁の乱の頃京都相国寺より節叟松公禅師を開山に迎え種徳寺誕生しました。
一時海蔵庵と称したが、元文元年8月3日元の種徳寺に戻ります。
前に琵琶湖、後ろに比良山を背した境内、母の慈愛の心を持ち「母と子」子供と
地蔵さまの出合い永遠に幸せを守る地蔵尊です。
ここの「弘法大師堂」は安産祈願を司ります。庭園は、大きな坐禅台があり、
枯れ池と大きな石橋、池端の雪見灯篭、小ぶりの山灯篭が配置されています。

琵琶湖の景観が素晴らしいです。

10)滝見台と楊梅の滝
この滝は、天文23年(1554年)に足利13代将軍義輝が比良小松に遊んだ時に
「楊梅の滝」と名付けたと伝えられています。「楊梅」とは、高さ十数mにもなる
「ヤマモモ」の木を意味し、山中を堂々と流れ落ちる滝の水柱をその大木にたとえて、
「楊梅の滝」と名付けられたといわれています。この「楊梅の滝」は、県下一の落差
を誇る滝です。雄滝、薬研滝、雌滝の三段に分かれ、落差は雄滝で40m、薬研の滝で
21m、雌滝で15mほどあり、合わせて76mになります。湖上船やJR湖西線の
車窓など遠くからでも眺める事が出来、その遠景は白布を垂れかけたように見える事
から「白布の滝」や「布引の滝」とも呼ばれています。
この滝の少し手前に滝見台があります。また、この滝を更に登ったところには、昔
氷室があり、冬に切り出した氷を保存していたとも言われています。
http://kusahato.web.fc2.com/soukyuan-2/walking/uo-17youbainotaki/youbainotaki.
html

鎌倉時代以降になると、京都と東国を往還する人々も多くなってくる。
京都の公家たちも、鎌倉幕府の要請やみずから鎌倉幕府との人脈を求めて
鎌倉へ下向していった。
また、東国への旅が一般化すると、諸国の大寺社や歌枕を実際に見聞しに行く
者たちも増えていった。
「宋雅道すがらの記」を記した飛鳥井雅縁もそんな一人である。宋雅とは出家後の
号、飛鳥井家は和歌,蹴鞠の家として知られ、家祖雅経の頃から幕府、武家との
関係が親密であり、雅縁も足利義満の信任が非常に厚かった。そんな雅縁が
越前国気比大社参詣に出立したのが、応永三十四年2月23日、70歳の時である。
実は、この紀行文も旅から帰った後、将軍義教より旅で詠んだ和歌があるだろと
まとめの要請があって記したものである。旅の路順は湖西を船で進んでいたようで、
日吉大社を遥拝し、堅田を過ぎて、真野の浦、湖上より伊吹山を眺め、比良の宿に
宿泊している。そこで、
比良の海やわか年浪の七十を八十のみなとにかけて見る哉
と自分の年齢をかけた和歌を詠んでいる。翌日は小松を通っている。小松の松原を
目の当たりにして、

小松と言う所を見れば名にたちてまことにはるかなる松原あり
我が身今老木なりとも小松原ことの葉かはす友とたに見よ

同じく長寿を保つ松原に呼びかけるような和歌である。次は、白鬚、ここでも、
神の名もけふしらひけの宮柱立よる老の浪をたすけよ

と、長寿をまもるという白鬚神社に自分の老いを託している。そして、竹生島を
船上より眺め、今津、海津、そこから山道をとって、29日には気比大社
に詣で、参籠して3月17日に帰京している。
将軍などの見聞旅行に随行の記録もある。
冷泉為広が細川政元の諸国名所巡検の同行記録では、
出立は延徳3年京を山中越えで坂本へ、比叡辻宝泉寺に宿泊。翌日は船に乗り
湖上を行った。東に鏡山、三上山、西に比良山,和邇崎を見ながらの通航
であった。そして、船中であるが和邇で昼の休みを取っている。
次に映ったのが、比良あたりの松である。
ヒラノ流松宿あり向天神ヤウカウトテ松原中に葉白き松二本アリ
「向天神」とは現在も北比良に鎮座する天満神社のことであろう。「ヤウカウ」は
影向で、「近江国與地志略」などにいう、社建立の際に生じたという神体的な要素
を持つ松のことである。また、小松のところでは、「コノ所ニワウハイノ瀧ト伝瀧
アリ、麓に天神マシマス」として「ワウハイ、楊梅瀧」について記している。
コノ瀧については、「近江国與地志略」でも、
・楊梅瀧  小松山にあり、小松山はその高さ4町半あり。瀧は山の八分より流る。
瀧つぼ五間四方許、たきはば上にて三間、中にては四間,下にては亦三間ばかり、
この瀧、長さ二十間、はばは三間許、水は西の方より流れて東へ出、曲折して
南へ落、白布を引きがごとし、故にあるひは布引の瀧といふ。瀧の辺り,岩に
苔生じ,小松繁茂し、甚だ壮観なり。
とみえ、近世には名所となっていたことがわかるが、冷泉為広のじだいにもすでに
注目に値する名勝であったらしいことがうかがえる。そして、一向は湖上の旅
を続け陸路で敦賀,武生と進み、越中,越後をめぐり4月28日に京都へ帰っている。

北小松には、柴刈の時に唄う囃し歌があります。
昔は、柴と米とは生活するのに一番大切なもので、「米炭の資」と言って生活に
大切なものと言う喩えもありました。
「柴刈りうた」
山へ行くならわし誘とくれ
山はよいとこ気が晴れて
涼みむき上げて花一越えて
どんどと下がれば畑の小場
大滝小滝は唄で越す
どんどと下がればしたえ松
したえ松からかきの小場までも
まだも待つのか弁当箱

比良では、

比良地区では、

1)中鳥居、鳥居浜
貞永2年2月(1233年)鎌倉幕府将軍朝経の命により天満宮が修復され、併せて
鳥居3基が建てられた。しかし、正中年間(1324~26)に湖水が氾濫して2基が
湖中に没したため、鳥居のあった所を中鳥居、浜鳥居と言う名を残したと
言われています。
鳥居浜の名はこの付近に浜鳥居があったことに由来します。

2)比良湊と蓮如橋
志賀町史にも以下の様な記述があります。
「古来、比良の湊がおかれ、北陸地方との交易を中心に水運にも従事。
中世には比良八庄とよばれ、小松荘と木戸荘がその中心であったという。
、、、比良湊は万葉集にも見られる。ほかにも、「比良の浦の海人」が
詠まれ、「日本書紀」斉明天皇5年三月条には、「天皇近江の平浦に幸す」
ということがあった。
比良湊、比良浦の所在を想定するよりどころは、いまのところ地名しかない。
すなわち今日の北比良、南比良の周辺、そして比良川の河口周辺に可能な
場所を探すしかない。」
更には、
万葉集巻三(二七四)には、
わが船は比良(ひら)の湊(みなと)に漕ぎ泊(は)てむ沖へな離(さか)り
さ夜更(よふ)けにけり
(わが乗る船は比良の湊に船泊りしよう。沖へは離れてゆくな。
夜も更けて来たことだ。)
高市連黒人(たけちのむらじくろひと)が旅先で詠んだ八首の歌のうちの一首
があります。
この時代、海は異界との境目だと信じられていました。
また、夜は悪しき魔物たちが最も活発に活動する時間だとも考えられていたようです。
そんな魔物たちの活発に活動する夜の時間が近づいてくる前に「湊に船泊りしよう
(湊へ戻ろう)」と言霊として詠うことで、黒人は夜を前に動揺する自分自身
の心を鎮めようとしたわけです。
また港近くの福田寺(浄土真宗 北比良)との関係で、蓮如が北陸に向かうため
にここに立ち寄った時に渡った橋を蓮如橋と呼びます。近くには、比良観音堂
があり、天満天神の本地仏十一面観音があリます。

3)比良観音堂
天慶(938~46年)、比良宮の禰宜であった神(三和)良種によって、天満天神の
本地仏十一面観音を祀る寺として創建された。現在は、北比良三十人講が給仕
にあたり、毎月17日には西福寺住職により供養が行われています。

4)福田寺(ふくでんじ)
また港近くの福田寺(浄土真宗 北比良)との関係で、蓮如が北陸に向かうため
にここに立ち寄った時に渡った橋を蓮如橋と呼びます。近くには、比良観音堂
があり、天満天神の本地仏十一面観音があリます。
北比良城跡の石碑があります。
http://www.oumi-castle.net/second_page/kitahira.html


5)本立寺(真宗 南比良)
本寺が湖畔に移ったときに残された約200体の地蔵がありますが、その地蔵跡
もあります。昔、時を知らせるための太鼓櫓があります。この移設前は、
蓮華寺遺跡として残っています。

6)そぐら浜の常夜灯
そぐら浜から北へ延びる浜辺一帯を「ジョネンバ」と呼び、かっては石屋小屋
(石きり加工場)が軒を連ね、浜辺では氷魚、ハス、モロコなどの地引網が
盛んに行われていました。今はその面影はなく一部を児童公園にしたりしています。
ジョネンバから南側のそぐら浜辺りは上納する年貢米や特産の石材、木材、
薪、および壁土、葦、瓦などの集積場で、これらの保管する蔵が集まっていました。
そぐら浜 という地名は、当時、交易で運ばれて来た物資を保管・保存する
ための蔵が、立ち並んでいたことから付けられたようです。
ちなみに、そぐら は、「総蔵」からきていると言われています。
常夜灯は、湖上が交易に使われていた頃に、船主や船頭衆によって航行の安全を
祈願して建てられたものです。
昔は毎年、当番が四国の金比羅宮に、航行の安全祈願に参拝したことから、
常夜灯のびわ湖側には、「金比羅大権現」とう文字が、刻まれています。
http://blogs.yahoo.co.jp/aozora8482/63369500.html
http://www48.tok2.com/home/skyland141/sub25.html

7)ダンダ坊跡
ダンダ坊遺跡は、比良川が支流を集める出会橋の北側に、幅約150m、
奥行約550mの範囲で広がる、比良山中最大の寺院遺構です。
遺跡は大きく4つに分れ、寺院部は石垣で区画された広い伽藍の中に、
山門跡・本坊跡・他の跡などが明瞭に残っています。また館跡は一番谷奥にあり、
人目にはますがたこぐち枡形虎口を配し、寺院とは異なった景観を見せています。
さらに山中の寺院には珍しい庭園の遺構が、ほぽ完全に残り、この遺跡の謎を
一層、深めています。
この遺跡の歴史的な経緯はいまだ不明ですが、平安時代に始まり、天台僧の
修行の場として、今も石垣で区画された伽藍が残っています。三尊石を置いた
庭園もあり、元亀年間に近江で繰り広げられた信長と連合軍との対抗勢力との抗争
「志賀の陣」で、延暦寺と共に破壊され忘れ去られた寺院の1つです。
http://www.geocities.jp/yamajirooumi/2530104.html
http://blog.goo.ne.jp/kkkk_015/e/d446e81d4d3de812b12c53f8a60deb4a


ダンダ坊遺跡(だんだぼういせき)       

館跡の桝形虎口館跡の庭園

城郭の概要                  
別  名 :
所在地 : 志賀町北比良
築城年 : 平安時代
形  式 : 寺院城郭
遺  構 : 桝形虎口、庭園遺構、土塁、堀、
訪城日 : 平成26年5月26日

歴   史
比良連峰は、平安時代中期以降、天台宗の勢力拡大と伴に、天台僧の修業の場となり、多くの寺院が山中に営まれた。江戸時代には、この様子を「比叡山三千坊、比良山七百坊」と称された。
ダンダ坊もそうした寺院の一つで、横川恵心院の別院として平安時代に始まり、元亀3年(1572)に織田信長との抗争で延暦寺とともに破壊され、焼滅したと考えられている。
             (本坊跡の石垣)   →  

構造と感想
ダンダ坊遺跡は、比良川が支流を集める「いんだにはし」と「出会橋」の北側に巾約150m、奥行約550mの範囲に広がる比良山中最大の寺院遺跡である。遺跡は大きく寺院跡、坊跡、館跡などの四つのブロックに分かれ、特に寺院跡と館跡の遺構が明瞭に残っている。
寺院遺構は、北から南に張出す尾根の先端に位置している。尾崎を削平した広い敷地に石垣で築かれた参道、階段、山門、本坊、開山堂、池、礎石などの遺構が明瞭に残っている。尾根の東側の谷筋には、下から坊跡が並び、谷筋の一番奥に館跡があり、前面を石垣で区画し、右手背後は築山を兼ねた土塁と堀で遮断している。一番の見所は、正面の左端に開口する石垣で築かれた桝形虎口である。直角に折れた石垣が見事である。屋敷の北奥には、築山を築き、中心に三尊石を置き、この裾から滝が落ち、築山裾の池へと流れる。伊吹町上平寺に残る京極氏館の庭園と同じ様な造りで、武家儀礼のための庭園と思われているが、なぜ山岳寺院に造られたのか解明されていない。
車を横付けでき、山道もなだらかで、訪れ易く、これから注目が集まる遺跡に思える。

道 案 内
湖西道路および志賀バイパスの比良ランプを下りた県道322号との交差点を山側の西方向に曲り、県道322号を750m程山に向かい登って行くと「いんだにはし」に至る。付近に駐車可。バス停の西側(基礎の残骸が残る)宅地の北西隅から山道に入ると直ぐに遺構となる。一本道で途中に本坊跡への案内板が建てられている。館跡へは、案内板の所を直進し山裾を行き止まりまで行く。




                     
駐車場・・・元比良スキー場へ 期間限定バス停
 道案内
161号(湖西)バイパス終点を左に折れ比良山中に入ると、出会橋があります。さらに川沿いに進むと昔の比良リフトの乗り場となり、この一帯がダンダ坊です。数多くの石垣が残り「比良七百坊」を彷彿させます。
 また、ここからは比良山への登山口にあたり、落差81mある神爾滝を見に行っても良いかもしれません。
 そして、帰りには天然温泉「比良とぴあ」によって、疲れをとってリラックスするのもよいかも



8)はしご谷の穴黒
別名「カマグロ」とも呼ばれ、花崗岩に囲まれた岩穴で、前面は岩の上から
落ちる小滝によって見えなません。また少し下った先にある巨大な花崗岩の
岩は滑り石とも呼ばれ、近くによるとそこ大きさがわかります。

9)石の里
旧志賀町は、石の街でもあります。神社の狛犬、石灯篭、家の基礎石、
車石など様々な形で使われて来ました。小野にある古墳には縦横3メートル
以上の一枚岩の石版が壁や天井に使われていますし、古代から近世まで石の産地
として頑張ってきています。例えば、南小松は江州燈籠と北比良は家の基礎石等
石の切り出し方にも特徴があったようで、八屋戸も守山石の産地でも有名で
ありました。木戸は石の産地としても知られ、江戸時代初期の「毛吹草」にも
名産の一つに木戸石が出てきます。比良湊からは、対岸の草津などを含め
舟で運ばれたのでしょう。その名残として、石場という名前が今も残っています。
http://ameblo.jp/kokusan-shiga/entry-12059160242.html
その一つ、南小松八幡神社の狛犬は、明治15年に雌(右)、明治 17 年に雄(左)
が作られ、県下では一番大きいといわれています。体長180センチ弱ですが、
そのたてがみや大きな眼が印象的です。
http://shigajinja.shiga-saku.net/e953628.html
http://kanjiruhira.org/category/%E3%81%8B%E3%82%93%E3%81%98%E3%82%8B%E6%AF%94%
E8%89%AF2013/
「滋賀郡北部(旧志賀町域)の石工たち」の記述があります。
明治十三年(1880)にまとめられた『滋賀県物産誌』に
は、県内の各町村における農・工・商の軒数や特産物など
が記録されている?。明治時代の資料であるとはいえ、産
業革命によって生産流通体制に大きな変化が生じる以前の
記録であり、江戸時代後期の様相を類推する手がかりにな
るものである。ただし、『滋賀県物産誌』の記述は、たと
えば長浜町のような戸数の多い町については「百般ノ工業
ヲナセリ」と「工」の業種の内訳がまったく不明な場合も
あって、滋賀県内の石工を網羅的に記録している訳ではな
い点には留意しておく必要がある。
『滋賀県物産誌』の石工に関する記述の中で特筆すべき
は、滋賀郡北部の状況である。この地域では「木戸村」の
項に特産物として「石燈籠」「石塔」などが挙げられてい
るなど、石工の分布密度は他地域に比べて圧倒的である。
木戸村・北比良村では戸数の中において「工」の占める比
率も高く、明治時代初めにおける滋賀県の石工の分布状況
として、この地域が特筆されるべき状況であったことは疑
いない。
江戸時代の石造物の刻銘等の資料を見てみても、当該地
域の優位性を窺い知ることができる。管見に触れた資料を
表1に記したが、その中で比較的よく知られている資料と
して、『雲根志』などを著した木内石亭が郷里の大津市幸
神社に、文化二年(1805)に奉納した石燈籠の「荒川村石
工 今井丈左衛門」という刻銘がある。
滋賀郡から琵琶湖を隔てた湖東地域においても、東近江
市五個荘川並町の観音正寺への登山口に建てられている常
夜燈に「石工 南比良 孫吉」という刻銘があり、「享保
二十乙卯歳(1735)正月」という紀年は、近江における石
工銘資料としては、比較的早い段階のものである。この
「孫吉」は、享保十五年(1730)に八幡堀の石垣が築き直
された際の施工業者としても「石屋比良ノ孫吉」として名
前が見える?。また、『近江神崎郡志稿』には、寛政五年
(1793)に滋賀郡南比良村の「石や七右衛門」が、東近江
市五個荘金堂町の大城神社の石鳥居再建を請け負ったこと
が記録されている?。
湖北地域でも、安永十年(1781)に「志賀郡荒河村 石
屋 嘉右衛門」が長浜市早崎所在の竹生島一の鳥居の注文
を受けたことが、竹生島宝厳寺文書から確認できる?。な
お、居住地が明示されていない刻銘資料であるが、野洲市
三上山中腹の妙見宮跡地に残る文化六年(1809)建立の石
燈籠に刻銘のある「石工 志賀郡 嘉右衛門」や、大津市
建部大社の文政九年(1826)建立の石燈籠に刻銘された「石
工 嘉右衛門」も、同一人物もしくはその家系に連なる石
工である可能性がある。
また、明治時代に下る資料では、野洲市永原の朝鮮人街
道沿いにある「明治十三年(1880)九月」建立の大神宮常
夜燈に「製造人 西江州木戸村 仁科小兵ヱ」と刻銘され
た事例などが挙げられる。
これらの資料から、少なくとも江戸時代中期以降には、
滋賀郡北部は石造物の製作において近江を代表する存在で
あり、石鳥居のような大規模な製品を中心に、琵琶湖を隔
てた遠隔地の村々からも、この地域の石工に発注すること
が多かったものと考えられるのである。
なお、江戸時代に東海道の京・大津間に敷設された車石
については、文化二年(1805)の工事に際して、主として
木戸石が使用され、これにかかわった人物として「南小松
村治郎吉」と「木戸村嘉左衛門」が連名で石運送に関する
請状を提出したことが紹介されている?。また、日野町大
窪に所在する南山王日枝神社には、豪商として著名な「京
都 中井良祐光武季子 中井正治右門橘武成」が寄進した
「文化十二年(1815)乙亥三月建」の石燈籠に「斯奇石所
出江州志賀郡南舩路村獲之以造 京都石工近江屋久兵衛」
と刻まれた例もあり、京都の石工が滋賀郡北部で石材を得
たケースがあったことが分かる。
以上のように、滋賀郡北部は「木戸石」に代表される良
質な花崗岩産地として、近世における石造物の一大産地だ
ったのである。(2009年3月大津市域における近世の
石工たち 田井中洋介 作より)

この地域は、花崗岩が中心の地域、ただ同じ花崗岩でも様々な種類があります。
司馬遼太郎の湖西の道で、北小松の古びた石積みの波防ぎに多いに惹かれたと
いうのも面白いです。古地図にも守山のしし垣の場所が示されており、この
地域と石の文化は切り離せないものです。
百間堤、荒川堤防などの大きな石造りの遺構はありますが、湧水を流すための
三面石組水路、しし垣、家々にある石灯篭などをゆっくりと巡ることも出来ます。
八屋戸、大物、南小松などの集落をゆっくりと散策すると彼方此方で様々な
石の姿に会えます。
百間堤は当然として、しし垣が地域を囲んでいる(荒川)、神社社殿の下の石の土台、
北小松のかわと、各地域での石積みの水路、家々にある灯篭、棚田の石積み、
湖岸の防波堤、石の三面水路など、これからはこれらの石造りのものを調べ、その背景
や物語を知ることが重要と思います。



9)比良の麓の里
画家、陶芸家、木造作家など多くの移住者がいます。このような作家さんたちと
木洩れ日の下でゆっくりと話しが出来ます。

http://ohminet.shiga-saku.net/e1159241.html
その冒頭の記述、「大津市の北に位置する比良は、琵琶湖と比良山系にはさまれ、
人々の暮らしと自然が融合した地域である。また、古代から交通の要衝でもあり、
多くの古墳や城跡が点在もする歴史や文化が息づいている地域でもある。
そのような中に、先祖伝来からこの地に暮らしその伝統や田園を守り続けてきた人、
この地に魅せられ移住してきた人、ギャラリー・工房を構え創作活動する人など
様々な人々が思い思いの暮らし方で住んでいる。」

10)八幡神社
南小松の山手にあり、京都の石清水八幡宮と同じ時代に建てられたとされます。
木村新太郎氏の古文書によれば、六十三代天皇冷泉院の時代に当地の夜民牧右馬大師
と言うものが八幡宮の霊夢を見たとのこと。そのお告げでは「我、機縁によって
この地に棲まんと欲す」と語り、浜辺に珠を埋められる。大師が直ぐに目を覚まし
夢に出た浜辺に向うと大光が現れ、夢のとおり聖像があり、水中に飛び込み
引き上げ、この場所に祠を建てて祀ったのが始まりです。
祭神は応神天皇です。
創祀年代は不明ですが、古来、南小松の産土神であり、往古より日吉大神と
白鬚大神の両神使が往復ごとに当社の林中にて休憩したと云われ、当社と
日吉・白鬚三神の幽契のある所と畏敬されています。
春の祭礼(四月下旬)には、神輿をお旅所まで担ぎ、野村太鼓奉納や子供神輿
が出ます。また、この辺りは野村と呼ばれ、特に自家栽培のお茶が美味しいようです。
八朔祭(9月1日)が行われ、夜7時ごろからは奉納相撲が開催されます。
八幡神社の狛犬は、明治15年に雌(右)、明治 17 年に雄(左)(名工中野甚八作)
が作られ、県下では一番大きいといわれています。体長180センチ弱ですが、
左右違う、そのたてがみや大きな眼が印象的です。
また、神社の横を流れる水は裏の念仏山の湧水を引き入れたものです。
http://shigajinja.shiga-saku.net/e953628.html
http://nishioumi.ct-net.com/99-09.shtml
途中には,国道を渡る形で天井川、家棟(かとう、ともいう)川があります。
http://toutan1999.blog72.fc2.com/blog-entry-89.html?m2=form

11)弁天神社
八幡神社から山手に歩いて15分ほどの山裾にあります。起源は弁財天が南小松
大仙寺開基の守護神として祀られた事によります。その後、織田信長の比叡山攻め
によって荒廃しましたが、明治43年8月に現在の地に祀られました。
入り口には石の蛇があり、静寂の中に神々しさが漂います。地元では、「みーさん」
の愛称で呼ばれています。この裏には滝行の場所やモリアオガエルの生息地
ともなっています。さらに、境内には、白光大神の社もあります。
そこを更に登ると両脇から湧水が染み出し、昔は池があったと言います。
更にそこから3百メートルほどの念仏山の頂上を目指すとやや勾配の厳しい道も
ありますが、近江舞子の内湖や八幡山が遠望できます。

12)白髪神社の道標
古来白鬚神社への信仰は厚く、京都から遙か遠い当社まで数多くの都人たちも参拝
されました。その人たちを導くための道標が、街道の随所に立てられていました。
現在その存在が確認されているのは、7箇所(すべて大津市)です。
・大津市八屋戸(守山)  JR湖西線「蓬莱」駅下の湖岸通り
・大津市木戸       木戸公民館上の道を少し北へ入ったところ
・大津市大物       大谷川北の三叉路国道の東側
旧志賀町では、4箇所です。
建てられた年代は天保7年で、どの道標も表に「白鬚神社大明神」とその下に距離
(土に埋まって見えないものが多い)、左側面に「京都寿永講」の銘、右側面に
建てられた「天保七年」が刻まれています。
二百数十年の歳月を経て、すでに散逸してしまったものもあろうと思われますが、
ここに残されている道標は、すべて地元の方の温かい真心によって今日まで受け
継がれてきたものです。その最後の道標が八幡神社の参道の手前にあります。
http://shirahigejinja.com/douhyou.html
http://kaidouarukitabi.com/map/rekisi/nisioomi/nisioomimap1.html

13)観世菩薩堂と一本杉
念仏山の麓、南千堂の一角に樹齢何百年の一本杉があります。その根元にあります
観世音菩薩は、昔洪水に流されてきたのを先祖の人々が拾い、この地に祀った
と言われてます。日照り続きの時はこの観音様に雨乞いをしたといわれています。
観音様は、いまも古木のお姿で祀られ、毎年お盆には有志による般若心経とともに
昔をしのんでいます。一本杉は10メートル以上の大木であり、その裏には
人が入れるほどの木穴があります。古来より天狗の話もあり、昔話としても
色々と言われています。また、この周辺は大きな杉が弥生時代からあったとのことで、
近くの南小松公民館には、その切り株が残っています。この切り株で
数珠を作り、地域の人に配ったと言われています。

14)御霊社
この社には幾つかの説があります。
・菅原道真公の御霊社
道真公は仏生寺野北のヤブの近くに住んでいたとも言われ、その死後一族が
御霊社として祀った。無実の罪で太宰府へ左遷された道真公は、それでも天皇
への敬愛と京への強い想いを抱きながら失意と困窮の中、死去しました。
その死後、道真公の霊が怨霊となり、その一つが比良の地まで飛来し、それを
祀ったのがこの社であると言われています。
・堪慶阿じゃりの御霊
比良には、古来より比良の神が存在し、天智天皇(668~671)時代には、
比良の神を守護する寺として景勝、妙法、仏性の三箇精舎が創設されました。
これらの比良の山寺を舞台に活躍した慈覚大師の弟子堪慶阿じゃりの御霊を
比良に祀った。これが南は景勝寺勝野の還来神、北は仏生寺の御霊神と
言われています。弘安3年(1280)に作られた比良荘絵図に描かれている
御霊神は現在の今在家辺りと見られるが,尺度の精度も不明であり、
また久安4年(1148)、御霊社は比良郷柊原に戻されたとの記述もあり、
正確な位置は不明です。北比良の船橋家には御霊社の掛け軸が残されており、
毎年天満宮の例大祭の日には掛け軸が出されます。当日の朝には当主が
神供物を供え、紋付に紙草履で御霊社へ参拝するが、その場所は秘密に
されています。御霊社への参拝が済んだ後、宮司以下祭りに関係するモノは
すべて船橋家で御神酒を頂いて御輿渡御が行われます。

15)比良とぴあ(源泉風呂)
泉質は単純温泉弱アルカリ泉で、効能は神経痛、筋肉痛、五十肩などに効きます。
比良山でのハイキングで疲れた後、夏の水泳で楽しんだ後に、
スノボ・スキー帰りに、温泉でゆっくりリラックスできます。
http://www.hiratopia.com/

16)雄松崎の白汀と内湖の景観
雄松崎の松林は、樹齢100年を超える古木などが1,500~1,600本もあり、比良山系
を背景に白砂青松が続く眺めが素晴らしく、風光明媚な地として知られます。
また、雄松崎は琵琶湖八景(「涼風雄松崎の白汀)の1つに数えられるほど美しい
砂浜で、全長約3kmの白砂青松の浜は、夏には水泳やウィンドサーフィンなどで賑わい
ます。
現在は一部マツクイムシの被害を受けていますが、地元の懸命な防除によって
景観が保護されています。
「松は緑に 砂白き 雄松が里の 乙女子は 
赤い椿の森蔭に はかない恋に 泣くとかや
(「琵琶湖周航の歌」より)」
http://www.pref.shiga.lg.jp/kokoro/area_otsu/details/1198_details.html

比良周辺は、神社仏閣が多くあるが、
旧志賀町内の寺院宗派には、天台真盛宗、浄土宗、浄土真宗、臨済宗、日蓮宗
などがある。いずれも寺院の規模は小さく、本堂と門、鐘楼、庫裏などの付属
建築物で構成される。

主な寺院建築には次のようなものがある。
⑪西福寺(浄土真宗 北比良)
⑫福田寺(浄土真宗 北比良)
 比良湊の近くにあり、蓮如が北陸に向かうためにここに立ち寄った時に渡った橋を
 蓮如橋と呼ぶ。近くには、比良観音堂があり、天満天神の本地仏十一面観音がある。

⑬本立寺(真宗 南比良)
真宗大谷派東本願寺の末寺で、山号は法持山本立寺と号す。
承和元年(834)天台宗の彗達により創始され、文徳天皇の快癒を喜び、法華経の
「我本立誓願今者己満足」から寺号を本立寺とした。その後、蓮如の教化により、
真宗に転承した。顕如上人より親鸞の「三狭間の真影」を賜り比良山中から現在の
地に移り、500年以上を受け継いでいる。
本寺が湖畔に移ったときに残された薬200体の地蔵があるが、その地蔵跡もある。

⑭超専寺(浄土真宗 大物)
真宗東本願寺の末寺でご本尊は阿弥陀如来、山号は念仏山宝積院超専寺と号す。
三浦荒治郎義忠入道の創始である。
親鸞ゆかりの旧跡であり、上人が越後に流罪になったときにこの地の三浦義忠
が上人の盛徳に感じ入り、弟子となる事をねがった。
この時、「咲きぬべき時こそきたれ梅の花、雲も氷もとけてそのまま」と詠まれ
彼に明空と言う法名を与えた。その後、覚如上人や蓮如上人がこの寺を参詣された。
二十四輩の旧跡でもある。「二十四輩順拝図会」にもある。
この上には観喜寺薬師堂がある。

⑮長栄寺(日蓮宗 大物)
日蓮宗本長寺に属している。元和年に創立された。感応院日安(この地の代官小野
宗左衛門といわれる)によって創立された。

⑯萬福寺(真宗 荒川)
真宗大谷派東本願寺の末寺でご本尊は阿弥陀如来、山号は宝積山萬福寺と号す。

⑰西方寺(浄土宗 木戸)
浄土宗鎮西派知恩院の末寺であり、ご本尊は聖観世音菩薩、山号を比良山西方寺
と号す。
慶雲4年(707)行基菩薩の創立で承知5年(838)静安法師を開祖としている。
古来は比良山嶺経塚谷にあったが、比叡山焼き討ちによって木戸の今の地に移設した。
天正12年(1584)に佐野下総守により再興した。

⑱安養寺(浄土宗 木戸)
浄土宗鎮西派知恩院の末寺であり、ご本尊は阿弥陀如来、山号を宝国山安養寺と号す。
天正12年(1584)に佐野下総守により再興し幻寒誉上人を中興として
現在に至る。

⑲正覚寺(真宗 木戸)
真宗大谷派東本願寺の末寺でご本尊は阿弥陀如来、山号は法力山正覚寺と号す。
創始年はふめいであるが、覚春を開基として現在に至ります。

⑳光明寺(浄土宗 北船路)
江戸時代は京都誓願寺の末寺であったが、現在は浄土宗鎮西派の末寺である。
安政年間に再建された。
薬師如来のある薬師堂がある。近くに百数体のお地蔵様がある。

21)西福寺(天台真盛宗 守山)
天台真盛宗西教寺の末寺でご本尊は阿弥陀如来、天徳山西福寺と号す。
天正5年(1577)3月創建で僧真源を開祖としている。


町内の神社はいずれも規模が小さく、本殿と鳥居、拝殿、御輿庫、
などの付属建物で構成される。とくに、拝殿は三間もしくは二間
の正方形平面で入母屋造り、桧皮葺(ひわだぶき)である。
なお、補足に「びわ湖街道物語」(西近江路の自然と歴史を歩く)を活用。
主な神社建築は、
①樹下神社(北小松)
十禅師社と天満社の二棟。
祭神は、鴨玉依姫命カモノタマヨリヒメノミコト
②八幡神社(南小松)
祭神は、応神天皇。境内には日本一の狛犬
なお、少し山側には「弁天神社」(大仙寺開基の守護神)がある。
少し下ると、観世音菩薩と一本杉、御霊社がある。
③天満神社(北比良)
祭神は、菅原道真公。比良天満宮でもあり、京都北天満宮よりも古い。
また、比良天神宮として北比良の氏神となっている。祭神は天大戸道尊、
大戸辺尊の二神。
④天満神社お旅所(北比良)
⑤樹下神社(南比良)
十禅師神社と妙義神社がある。妙義神社は比良三千坊と称され、この地が山岳信仰の
中心地の1つであった事を偲ばせる神社。
⑥湯島神社(荒川)
祭神は、市杵島姫命イチキシマヒメノミコト
⑦樹下神社(木戸)
樹下、宇佐宮、地主の三棟がある。
祭神は、玉依姫命タマヨリヒメノミコト
十禅師権現社と称し、コノモトさんとも呼ばれていた。五か村の氏神。
大行事社の本尊で、石造毘沙門天坐像がある。
⑧若宮神社(守山)
近くには、金毘羅神社が山麓にある。
⑨八所神社(北船路)
ご神体を預かり日吉神社再建後、日吉大社例祭の4月に祭儀がある。
⑩八所神社(南船路)
祭神は、八所大神、住吉大神

蓬莱から志賀へ

蓬莱から志賀
1)八所神社(大津市北船路)
祭神は、大己貴命、 白山菊理姫命の二座です。
JR湖西線蓬莱駅下車直ぐにあります。国道161号線が鳥居の前を走っています。
八所神社(南舟路)の北方に社地を接しています。
鳥居にかかる大きな注連縄が目に入るでしょう。
織田信長が比叡山を焼き討ちした折り、日吉神社の禰宜祝部行丸が類焼を避けて
日吉七社の御神体をこの地に遷し日吉神社再興までこの地で奉祀したと伝えています。
日吉大社七座と地主神白山菊理姫神一座とを併せて八所神社と称するとしています。
日吉大社が再興されるまで日吉祭りはこの八所神社で実施されたため、現在、日吉山王
と書かれた菊入りの高張りがあり、五か祭には使用されます。
祝部行丸の墓もあります。
更には、周辺の守山には同じく祝部行丸の墓や愛宕さんの石灯篭、山ノ神を祀る
石像などが点在します。
天正6年(1578)の再建とされました。例祭は、5月5日で木戸の樹下神社の例祭と
あわして行われ、湖岸を朝早く木戸の樹下神社に渡御し、夕方還御します。
拝殿は、間口二間 奥行二間 入母屋造りで、柱間を桁裄三間、梁間二間とした
木割の太い建物です。
http://japan-geographic.tv/shiga/otsu-hatsushojinja.html


2)八所神社(大津市南船路321)
祭神は八所大神 住吉大神の二座です。
JR湖西線蓬莱駅の近くで、北船路の八所神社鳥居の左側にある参道を進みます。
社殿の西側に、タブイキの優先する立派な林が広がり、林内には胸高周囲4m以上
のタボノキ・コジイの巨木が多数生育します。拝殿が中央に鎮座しています。
創祀年代不詳ですが、神護景雲2年(768)に良弁(ろうべん 689~773)によって
創建されたと伝えられています。良弁は、奈良時代の学僧として名高いが、南船路
辺りの出身とする伝承があります。
斎明天皇5年比良行幸の際、当社にも臨幸ありと伝えられます。
又良弁僧正と深い関係があり、天平宝字6年(762)社宇を改造し社側に一字一石経塚
を建て(此経塚現存す)法楽を修しました。又足利将軍が安産の神として崇め、
和邇金蔵坊が郷の産土神と崇敬し社領若干を寄進されたともあります。
拝殿は、間口二間 奥行二間 入母屋造りです。

中には、伝良弁納経の石塔があり、良弁が書いた経文を納めたものと伝えられます。
層塔の残欠で、厚さ6~7cmの自然石の上に三層の笠を置き、その上に宝珠形の石
をのせ、良弁が一石一字の法華経を納めた塚であると伝えます。高さは67cm。
例祭は、5月5日、神輿二基が湖岸の御旅所へ渡御します。
    
良弁(689~773)については、奈良時代に活躍した僧。石山寺の建立に
尽力しました。出自について諸説ありますが、良弁は南船路辺りの出身とする伝承
があり、また近江国志賀里の百済氏とする説もあります。
また、良弁の古宅といわれるものが南船路にあります。現在の天川彦右衛門氏の
宅地がそうだと言われています。
残された伝承によると、良弁が2歳の頃、大きな鷹が良弁をつかんで飛び去り、
行方不明になり、奈良の春日社で義淵(ぎえん)という僧が鷹につかまった
子どもを見つけ自分の弟子とし、「良弁」と名づけ大切に育てたとのことです。
その後、良弁は成長して僧正にまでなり、母親は奈良まで出向き、30数年ぶりに親子の
再会がかないました。良弁の師匠の義淵は、飛鳥の岡寺の創健者と知られる高僧で、
弟子に行基や玄昉(げんぼう)などの著名人が多くいます。良弁は聖武天皇や
光明皇后とのつながりも深く、東大寺の初代別当にもなっています。
http://japan-geographic.tv/shiga/otsu-hatsushojinja.html

また、南船路には、山側に円墳横穴式石室の古墳がありましたが、入り口が
塞がれ、見ることが出来ません。

3)蓬莱駅から松の浦までの湖岸の道
琵琶湖の直ぐ近くを通り、砂浜や比良山の遠景を見ながらのノンビリと里山と琵琶湖の
四季を勧賞できます。

4)志賀清林の碑
木戸村出身の奈良時代の力士、志賀清林を記念して作られたものです。志賀清林
(生没年不詳、8世紀頃の人)を記念して作られた相撲公園が、国道161号線沿いにある
志賀清林相撲公園です。園内には清林を讃える記念碑があり、昭和39年(1964)当時の
横綱栃ノ海(とちのうみ)の土俵入りによって方屋開(かたやびら)きが
行われました。
志賀清林は、奈良時代の滋賀郡木戸村出身の力士で最手役(今の横綱)として活躍する
とともに聖武帝の時、御行事(今の行司・日本で最初)に召しかかえられ、
相撲四十八手の基礎を創案した功績者です。
http://www.biwako-visitors.jp/spot/detail/2853

5)樹下神社(木戸)
御祭神は、玉依姫命タマヨリヒメノミコトです。
創祀年代不詳であるが、木戸城主佐野左衛門尉豊賢の創建と伝えられます。
永享元年社地を除地とせられ、爾来世々木戸城主の崇敬が篤く、木戸庄
(比良ノ本庄木戸庄)五ヶ村の氏神として崇敬されてきました。ところが
元亀二年織田信長の比叡山焼打の累を受け、翌三年社殿が焼失しました。
当時織田軍に追われて山中に遁世していた木戸城主佐野十乗坊秀方が社頭
の荒廃を痛憂して、天正六年社殿を再造し、坂本の日吉山王より樹下大神を
十禅師権現として再勧請して、郷内安穏貴賤豊楽を祈願せられました。
日吉山王の分霊社で、明治初年までは十禅師権現社と称され、コノモトさん
とも呼ばれていました。しかし類推するところ、古記録に正平三年に創立と
あるのは、日吉山王を勧請した年代で、それ以前には古代より比良神を産土神
として奉斎して来たもので、その云い伝えや文献が多く残っている。
当社境内の峰神社は祭神が比良神で、奥宮が比良山頂にあったもので今も
「峰さん」「峰権現さん」と崇敬されている。この比良神は古く比良三系を
神体山として周辺の住民が産土神として仰いで来た神であるが、この比良山
に佛教が入って来ると、宗教界に大きな位置をしめ、南都の佛教が入ると、
東大寺縁起に比良神が重要な役割をもって現れ、続いて比叡山延暦寺の勢力
が南都寺院を圧迫して入って来ると、比良神も北端に追われて白鬚明神が
比良神であると縁起に語られ、地元民の比良権現信仰が白山権現にすり
替えられるのである。(比良神は貞観七年に従四位下の神階を贈られた)
当社の例祭には五基の神輿による勇壮な神幸祭があり、庄内五部落の立会の
古式祭で古くより五箇祭と称され、例年5月5日に開催され、北船路の
八所神社の神輿とあわせ五基の神輿が湖岸の御旅所へ渡御する湖西地方
で有名な祭です。
本殿は、一間社流造 間口一間 奥行一間の造りです。
http://www.shiga-jinjacho.jp/ycBBS/Board.cgi/02_jinja_db/db/ycDB_02jinja-pc-de
tail.html?mode:view=1&view:oid=126


また、この樹下神社より南へ二百メートル行った所に大行事社(日吉山王二十一社
の内の一社)の本尊である「石造毘沙門天坐像」があります。
像はやや不鮮明となっていますが、花崗岩の表面に、甲冑に身を固め、右手に宝剣、
左手に宝塔を持ち、半肉彫に刻出されています。

昔の木戸樹下神社跡には、木元神社がある。
祭神は、木花咲也姫命であり、昔の木戸部落はこの神社を中心に生活していた。
天正5年12月に遷座ありとされて、そこにこの神社が建てられた。

6)毘沙門天(木戸)
比良山が荒廃した時代、毘沙門天が道端に棄てられていた。村人が祠を建て、
現在に至っている。北の方位を守る神として祀られ、地域の氏神とともに
ある。祭日は毎年1月の寅の日となっている。

7)寺屋敷遺跡(木戸)
打見山にあり、昔の比良三千坊の寺院の1つといわれます。この寺跡に
大正12年ごろ不動尊が安置されました。

なお、木戸には「臼摺りうた」と言う、ちょっと小粋な歌があります。
東山から出やしゃる月は
さんしゃぐるまの花のような
高い山には霞がかかる
わたしゃあなたに気がかかる
あなた何処行く手に豆のせて
好きなとのごの年とりに

8)打見山遺跡
打見山山頂にあり、昔は、経塚谷といわれ、比良三千坊の寺院の1つといわれます。
西方寺野遺跡と言われ、僧が読経様に使ったとされる巨石があります。現在でも
西方寺で法要があるときには、法要札をここに納めています。木戸の観音講衆に
よって護持されています。

9)法華塔と地蔵菩薩
箱崎文応阿じゃ梨により蓬莱山山頂に建立安置されました。比良山中には七十体
ほど祀られています。これは箱崎阿じゃ梨開祖の天台比良修験道の霊場であり
回峰行者道の要所に祀られています。

7)比良天満宮(北比良)と樹下神社(南比良)
JR比良駅から徒歩、約800m。湖畔から真直ぐに比良山に続く道は、山麓で
天満宮に当たり、その背後には宮山(早坂山)がそびえています。
国道161号線に面して建つ神社で境界もなく、参道が深い森の中へ導いていきます。
参道入口に樹齢300年の大きな神木・スジダイがあり、その左参道が樹下神社、
右の鳥居が天満宮です。境内に入ると二社の社殿がほぼ平行に並び建っています。
両社が並び建つ経緯は以下によります。
比良庄は南比良村と北比良村の二ケ村でしたが、この二ケ村は南北朝期に分村し
近世初期の村切りで全く別々の村になりました。比良庄の庄鎮守社十禅師社・天満宮は
そのまま両村共同の氏神として残り、両社はそれぞれ十禅師社が南比良村の、天満宮
は北比良村の支配となり、両社の神格は対等でありまた村格も対等であったため
両社両村間の対立が激しかったとの事です。
天満宮の祭礼は、北比良村が天満宮の御輿、南比良が十禅師社の御輿を担ぎ、神事の
執行は、両村の社役が交互で務めていました。しかし、この社役が着用する装束を
めぐり、相論が起こり、繰り返し起こり、二つの村が、一つの社を維持してゆくことは
困難として、明治5年(1872)に両社を分離し、それぞれの氏神とすることが
定められた。なお、比良天満宮の祭神は、菅原道真です。鳥居の前左右には、
天明4年(1784)建立の銘文が入った燈籠が建っていますし、樹木が囲む参道を進むと
「えま堂」や社務所、牛像に出合います。えま堂には神将形立像が安置されています。
例祭は4月25日小松地区の例祭と同時に行われ、一基の神輿は湖岸の御旅所へ
渡岸します。
http://japan-geographic.tv/shiga/otsu-hira-tenmangu.html
http://www.shiga-bunkazai.jp/%E6%96%B0%E8%BF%91%E6%B1%9F%E5%90%8D%E6%89%80%E5%
9C%96%E4%BC%9A%E3%80%80%E7%AC%AC195%E5%9B%9E%E3%80%80%E7%82%B9%E3%81%A8%E7%82%
B9%E3%82%92%E7%B5%90%E3%81%B6%E3%80%80%EF%BC%8D%E5%A4%A7%E6%B4%A5/

8)田園の広がりと琵琶湖の眺望を味わう
琵琶湖バレイへの山麓駅からロープウェイに揺られながら標高1100メートルの
山頂へ向います。山頂には、30万株の水仙や高山で咲くしゃくなげを勧賞できます。
冬はスキーも出来ますが、四季折々の比良の山並の変化や琵琶湖の変化を楽しむのも
良いのではないでしょうか。
渓流沿いを歩き、森の奥にある滝を目指す夫婦滝コースや、びわ湖の絶景を眺めながら
尾根道を歩き6,000年の歴史と伝説をもつ古池を目指す小女郎ヶ池コース、森林浴と
絶景・小鳥のハミングに癒されながら歩く比良岳コースなど場外トレッキング
も豊富です。
http://www.biwako-valley.com/index_02.html

また、文学でも「比良のしゃくなげ(井上靖)詩集北国」がこの地域の
情景を描き出しています。
「むかし写真画報と言う雑誌で、比良のしゃくなげの写真を見たことがある。
そこははるか眼下に鏡のような湖面の一部が望まれる北比良山系の頂で、
あの香り高く白い高山植物の群落が、その急峻な斜面を美しくおおっていた。
その写真を見たとき、私はいつか自分が、人の世の生活の疲労と悲しみを
リュックいっぱいに詰め、まなかいに立つ比良の稜線を仰ぎながら、
湖畔の小さな軽便鉄道(若江鉄道だが既に廃線となっています)にゆられ、
この美しい山嶺の一角に辿りつく日があるであろう事を、ひそかに心に
期して疑わなかった。絶望と孤独の日、必ずや自分はこの山に登るであろうと。
それから恐らく10年になるだろうが、私はいまだに比良のしゃくなげを
知らない。忘れていたわけではない。年々歳々、その高い峯の白い花を瞼に
描く機会は私に多くなっている。ただあの比良の峯の頂き、香り高い花の群落
のもとで、星に顔を向けて眠る己が眠りを想うと、その時の自分の姿の
持つ、幸とか不幸とかに無縁な、ひたすらなる悲しみのようなものに触れると、
なぜか、下界のいかなる絶望も、いかなる孤独も、なお猥雑なくだらなぬものに
思えてくるのであった。」。
更には,山麓に棚田(八屋戸北船路)があり、ここからの琵琶湖の眺望も
素晴らしいです。
http://www.soc.ryukoku.ac.jp/~wakita/komeken/?x=cat:1

8)光明寺、薬師堂(北船路)
江戸時代には京都誓願寺の末寺であったが、現在は浄土宗鎮西派の末寺で、
ご本尊は阿弥陀如来です。安政年間(1854~1859)に再建されました。
遍照山光明時といい、浄土宗の「光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨」
から来ています。幻誉信窮上人によって開基されました。木戸の安養寺や和邇の
西岸寺も開かれました。
寺内には、薬師堂があります。本尊は僧最澄の作といわれる薬師如来があります。
楠で彫られ。真っ黒な肌に眉間にはきらりと光るものがあり、右手は天に、左手には
薬壷を持っている立像です。毎月地元民のお勤めがあります。
蓬莱の駅から北船路の登山道を二キロほど上ると、薬師滝もありますが、当初は
難を逃れるため、この仏像を滝の裏に隠したそうです。

9)百体のおじぞうさま
造成中に出てきた約百体ほどのお地蔵様が並んでいます。琵琶湖が望める静かな
場所で一休みするのも楽しみです。

10)金毘羅神社(守山)
今から200年ほど前に農家の老婦が柴刈をしていると金毘羅さんの御神符が
ひらりと落ちてきてこの地に祀って欲しいとのお告げがあり、村人はこの景勝の
場所に祀った。当時は湊も活気があり、漁師や船頭が海の守り神として信仰し、
毎月の例祭に加え、百年祭、百五十年祭も行われた。昔は、大祭の日には猿の
飾りをつるした大きな幟が立てられた。三月の大祭には、地元の人がお神酒や
御餅をもって参詣したといます。麓には金毘羅神社の石碑もあります。

11)こうもり穴
農業用水を集めるために作られたトンネルですが、ある人が木戸川の水を守山へ
引き込もうと考えたが、完成せずに終わったとのことです。取り入れ口は5つ
あったといわれているが、今は1つのみ残っています。
JR蓬莱駅から県道558号を北に進み、八屋戸の交差点を左折して山手(西側)の守山
集落に入ります。玄関先に守山石(蓬莱産付近でのみ産出する縞模様を持つチャート)
の庭石が据えられた民家が並ぶ細い道路をぬけ、やがて蓬莱山への登山道となる車道を
進みます。集落を抜けると、車道は山腹を横断する湖西道路の下をくぐり抜け、山腹の
山荘住宅に向かう道と山頂に向かう山道に分かれます。この山道の右手に「こうもり穴
」とよばれるトンネルがあります。湖西道路の建設工事に先立ち、昭和59年(1984)に
周辺の発掘調査が行われました(滋賀県教育委員会・財団法人滋賀県文化財保護協会
1986『国道161号線バイパス・湖西道路関係遺跡調査報告Ⅲ 木戸・荒川坊遺跡 
こうもり穴遺跡』)。山道にそって斜面をさかのぼるように、長さ約310mのトンネル
が見つかりました。そのうちの約245m分は完全なトンネルで、ひと1人がかろうじて
立って歩けるほどの幅と高さです。トンネルの内部は所々にロウソクを立てたと
思われる穴や窪みもありますが、土器などの人工遺物は見つかっていません。
地元の住民もこの「こうもり穴」の存在は知っていましたが、いつ掘られたのか、そ
の由来や何のためトンネルなのか、地元の古文書にも残されていませんでした。現在で
は、山腹を貫く長さ300m以上のこの謎のトンネルは、江戸時代終わり頃に水不足を解
消するために掘られた隧道と推定されています。『志賀町むかし話』には、「水不足の
守山の、水探し事業のために掘られたもの」と記されています。平成4年(1992)頃まで
は中を歩くことができたようですが、現在ではトンネル入口(西側)は埋まってしまっ
たようです。唯一、トンネル出口(東側)の痕跡が、湖西道路の下に残されています。

12)扇の間
守山の子字野山、海抜600メートル付近の尾根の水平部に『扇の間』があった
と言われています。
野り子川の砂防ダム堰堤を横切り棺の植林地帯を徒歩で登り、ジグザグの整備
された林道かつづき、北斜面のためキノコが多い。秋も深まり、サルノコシカケ類、
カワラタケ、ニカワタケ、クリタケ、ニガクリタケ。植物は、シャクナゲ、
ショウジョウバカマ、ヒカケシキミのつぼみ、イワカガミのピンクの花が美しい。
動物は、イノシシ、シカによる栓の皮矧ぎが激しく見られます。
場所は、窪地で水がたまっており、直ぐ横にこんもりと土をもったようを高地が
あります。その周囲に人工的にカットしたような角のある花崗岩の石塊がぐるっと
取囲むようにあります。ここに鐘廓があったと思われます。


12)百間堤
大物の山手、四ツ子川が谷間を抜けた所に、直進する流れを南に流すよう石積の
堤が築かれています。洪水ごとに何度も決壊した場所で、現在の石積は、嘉永5年
(1852)の洪水後、6年近い歳月を費やして完成したと伝えられます。
堤の上巾15m、長さ200mの堤です。
湖西道路志賀バイパスの下をくぐり抜けます。山手の別荘地帯には進まず、右折
して志賀バイパスの側道を高島市方向に進み、左折して山に向かう林道に入ります。
坂道をしばらく登ると突然左手に巨大な石塁群が姿を現します。
この石塁が四ツ子川の百間堤(ひゃっけんつつみ)です。
「大物区有文書」や『近江国滋賀郡誌』(宇野健一1979)・『志賀町むかし話』
(志賀町教育委員会1985)などによると、四ツ子川が嘉永5年(1852)7月22日卯刻
(現在の暦でいうと9月6日朝6時頃)に暴風雨で大規模に氾濫し、下流の田畑や
人家数戸が流失する被害が出ました。四ツ子川は集落の上側(西側)で左折して
流れているため、それまでも暴風雨や大雨でしばしば洪水を起こしていて、
下流の集落や田畑に被害をもたらしていました。そのため、住民は藩への上納米
の減額をたびたび役所に願い出ていました。そこで、当時大物村を治めていた
宮川藩(現在の長浜市宮司町に所在)の藩主堀田正誠は、水害防止のために一大
石積み工事を起こすことにしました。若狭国から石積み名人の「佐吉」を呼び寄せて
棟梁とし、人夫は近郷の百姓の男女に日当として男米1升、女米5合で出仕させました。
1m前後の巨石を用いて長さ百間(約180m、ただし実測では約200mあります)、
天場幅十間(約18m)、高さ五~三間(5.5~9m)の大堤を、5年8ヵ月の歳月を
かけて完成させました。
百間堤は崩壊することなく現在でも当時の姿をとどめ、その迫力には驚かされます。
また、下流の生活用水や水田の水源用に堤を横断して造られた水路は、石造建築の
強さと優しさが表れています。百間堤に続く下流部の堤は女堤(おなごつつみ)と
よばれ、女性でも運べる程度の石で造られています。
http://www.shiga-bunkazai.jp/%E6%96%B0%E8%BF%91%E6%B1%9F%E5%90%8D%E6%89%80%E5%
9C%96%E4%BC%9A%E3%80%80%E7%AC%AC170%E5%9B%9E/

13)中村淡水の墓
書家・詩人。近江湖西南比良の人。名は耕、字は興業、別号に飛鸞山樵。明治維新に
活躍し、奥羽県、若松県などで奉職した。滋賀県の地租改正にも尽力し、その後子女の
教育の必要性を感じ、京都に住し、63歳で没した。

14)荒川堤防と猪垣
この地域の猪垣は、昭和12年に修復されたものですが、獣害対策に加え水害、土石流
対策の役割もかねています。
http://blog.goo.ne.jp/kkkk_015/e/e9cc6a6b067df4c28362c41d51a85f32
しし垣ネットワーク
http://homepage3.nifty.com/takahasi_zemi/sisigaki/shishinetwork.html

15)湯島神社
荒川の大谷川を三キロほど遡ると、湯島の地に弁財天が祀られた社があります。
昔この地域は大谷川の氾濫があり、竹生島の宝厳寺から弁財天の分霊をいただき、
祀ったとされます。
また、この社には地域の貯水をまかなうほどの水が多く出ています。

15)昔の西近江路と道標
西近江路は大津の札の辻から穴太、和邇、木戸、小松、三尾(高島)へと続き、
海津から敦賀へ越える道があった。また、北陸と畿内を結ぶ交通の要路でもあり、
様々な人が行きかった。このための道標も多く残っています。近江の街道と言う
本にも、「道は、八屋戸守山の集落の手前で、左に入り右へ曲がるが、その角には
「左京大津」と刻まれた自然石の道標がある。」と記述されています。
主に神社、寺院、部落に入り口のありかを教え、白髪神社への道程を示すものも
特に多いようです。
木戸、守山、大物などに多く残っています。北小松楊梅の滝に向うための道標も
小松駅の近くに建っています。
・木戸  宿駅跡と石垣近くに常夜燈とともにあります。
・守山  旧街道の横に地蔵菩薩とともに道標があります。
・大物  旧街道横に二つほど残っています。
かつて近江の湖西地方を通っていた西近江路は別名北国海道と呼ばれている
そうですが、なぜ「街道」ではなく「海道」の字が使用されたのか。
『図説滋賀県の歴史』によりますと、「江戸時代の古絵図をはじめ街道筋に
散在する石造道標のほとんどに「北国海道」と刻まれているところから海の字
を用いている。」とあります。『近江の街道』でも、同じく石造道標の記載を
あげたうえで、「それだけこの道が、北国の海へのイメージが強かったので
あろう。」とあり、『図説近江の街道』でも同様の見解が示されています。
しかし、『近江の道標』には、「街道でなくて、海道という名前がついたのは、
北国の海をさす道か、あるいは、びわ湖に沿うてあるからか明確ではない。」
とあります。
http://kaidouarukitabi.com/rekisi/rekisi/nisioomi/nisioumi2.html
http://members.e-omi.ne.jp/eo2320539/5michishirube/5signpost.html

15)超専寺
浄土真宗本願寺派、親鸞聖人所縁のお寺。本堂は、天明年間に火災となったが、
直ぐに修復された。「二十四輩順拝図会」にもある。この上には観喜寺薬師堂がある。
http://yaokami.jp/1255331/

16)歓喜寺薬師堂(大物)
百間堤のある四ツ子川の谷をはさんだ西の尾根の中腹に、平安時代に最澄が開基
したと伝えられている歓喜寺(かんきじ)の薬師堂がひっそりとたたずんでいます。
ご本尊は薬師如来です。一時超専寺に安置されていたが、現在の地に遷座した。
毎年8月7日宵に薬師祭があり、23年ごとにご開帳法要が行われます。
お堂に向かって左手には斜面を切り開いて平地を造成し、石垣や堀切で区切られた
いくつかの郭や庭園跡が残されていて、繁栄した様子がうかがえます。
歓喜寺は、元亀3年(1572)の元亀争乱で焼失してしまいますが、文禄元年(1592)
に村人が薬師像を土中から見つけたため、薬師堂が建立されたとされ、今日に
至っています。歓喜寺遺跡は法蔵寺として残っています。
また、薬師堂の東側山頂には歓喜寺城跡も残されています。
http://www.shiga-bunkazai.jp/%E6%96%B0%E8%BF%91%E6%B1%9F%E5%90%8D%E6%89%80%E5%
9C%96%E4%BC%9A%E3%80%80%E7%AC%AC170%E5%9B%9E/

城跡については、志賀町史第4巻に記載があります。
17)木戸城跡
木戸の北、小谷にあり、鐘楼谷の名を残した鐘堂があり、時や非常時の知らせを
したといわれます。場所は木戸と荒川の中間の県営林のある場所と言われています。
東西にどれくらいの大きさであったか、不明ですが平城で荒川付近に砦もあった
とされます。砦は今は田畑になっており、山門の士、木戸十乗坊、木戸秀資などの
故居とも言われます。


18)比良城跡
比良城は北比良の森前に存在したと伝えられます。湖西地域を南北にはしる北国街道
がこの場所で折れ曲がっています。街道を挟み、樹下神社が隣接しています。在所の
古老にもこの場所に城があったとの伝承が残っています。北比良村誌によると
「元亀二辛未年九月織田信長公延暦寺を焼滅の挙木村の山上山下に之ある全寺の別院
より兵火蔓延して」とあり、この時期他の城郭と同様破滅したしたものであろう。

19)歓喜寺城跡
大物の集落より西の比良山の山中に天台宗の古刹天寧山歓喜寺跡があります。
今ではそこに薬師堂だけが残り、わずかに往時ここが寺であった事を偲ばせます。
歓喜寺城は比良山麓に営まれた比良三千坊の1つである天寧山歓喜寺跡の前面
尾根筋上に営まれた「土塁持ち結合型」平地城館です。
この遺構は三条のとてつもなく大きい深い堀切によって形成され、北側の中心主郭
はきり残された土塁を基に四周を囲郭し、この内側裾部や内側法面に石垣積みが
認められる南側の郭は北に低い土塁が残り、近世になって修復、改造がなされた
と思われます。また、背後、前面の歓喜寺山に山城が築かれており、L字状の土塁や
北東を除く三方には掘り切りなどが認められます。

20)荒川城跡
荒川城は荒川の城之本と言うところにあったとされます。この城に関しての
文献資料はほとんど見当たらないが、絵図が残っており、それには城之本の地域の中に
古城跡と書かれています。また、ここの城主が木戸十乗坊という記録があり、
同氏は木戸城の城主でもあり、木戸城の確定とともに確認をする必要があります。

21)木戸山城跡
現在の木戸センターより西北西の比良山中腹の尾根部分にあったとされます。
この地域は古くから大川谷に沿って西に向かい、木戸峠より葛川の木戸口や坊村
にいたる木戸越えの道が通り、このため、この城の役目は木戸越えの道の確保で
あったとも推測されます。城としては、堀切りを設け、東を除く三方に土塁を
築いていました。
しかし、この城も「元亀三年信長滅ぼす、諸氏山中に隠れる」とあり、その時に
破壊されたのかもしれません。


城跡としては以下のものがある。
④ダンダ坊城(北比良、山腹、林)
⑤田中坊城(北比良、湖岸、福田寺)
⑥比良城(比良、平地、宅地)
⑦南比良城(南比良、湖岸、宅地)
⑧野々口山城(南比良、山頂、林)
⑨歓喜寺城(大物、山腹、林)
大物の集落より西の比良山の山中に天台宗の古刹天寧山歓喜寺跡がある。今では
そこに薬師堂だけが残り、わずかに往時ここが寺であった事を偲ばせる。
歓喜寺城は比良山麓に営まれた比良三千坊の1つである天寧山歓喜寺跡の前面
尾根筋上に営まれた「土塁持ち結合型」平地城館である。
この遺構は三条のとてつもなく大きい深い堀切によって形成され、北側の中心主郭
はきり残された土塁を基に四周を囲郭し、この内側裾部や内側法面に石垣積みが
認められる南側の郭は北に低い土塁が残り、近世になって修復、改造がなされた
と思われる。また、背後、前面の歓喜寺山に山城が築かれており、L字状の土塁や
北東を除く三方には掘り切りなどが認められる。

⑩歓喜寺山城(大物、尾根、林)
⑪荒川城(荒川、平地、宅地や墓地)
荒川城は荒川の城之本と言うところにあったとされる。この城に関しての
文献資料はほとんど見当たらないが、絵図が残っており、それには城之本の地域の中に
古城跡と書かれている。また、ここの城主が木戸十乗坊という記録があり、
同氏は木戸城の城主でもあり、木戸城の確定とともに確認をする必要がある。

⑬木戸山城、城尾山城とも言う(木戸、尾根、林)
現在の木戸センターより西北西の比良山中腹の尾根部分にあったとされる。この地域は
古くから大川谷に沿って西に向かい、木戸峠より葛川の木戸口や坊村にいたる木戸
越えの道が通る。このため、この城の役目は木戸越えの道の確保であったとも推測され
る。城としては、堀切りを設け、東を除く三方に土塁を築いていた。
しかし、この城も「元亀三年信長滅ぼす、諸氏山中に隠れる」とあり、その時に
破壊されたのかもしれない。
http://www.oumi-castle.net/bunrui/ootu.html

小野から和邇へ

旧志賀町は、古代からの交通の要衝であり、都の鬼門としての比良山や
多くの遺跡や寺社仏閣、そして比良山系と琵琶湖の自然を直に味わえる
地域でもある。二十四節気、七十二候の万物風習が垣間見られもする。
時代の流れ、季節の移ろい、これらが渾然一体となって訪れる人々を
慈しみ、癒す。更には、万葉集、俳句などから古代からの美しさを
それらの歌とともに感じていく。ここでは「自然の水、生命の水、農の水、
漁の水、工の水、生活の水をそれぞれに味わう。
「我々は、この地域の資産を単なる勧賞物以上に仕立て、これを自然と
人間との調和」として時間を超えたストリーを提供する。

小野から和邇へ
1)小野妹子神社と唐臼山古墳
小野妹子の墓といわれている唐臼山古墳の上に祀られています。
祭神:大徳冠位小野妹子
推古天皇の時代、遣隋使として中国隋に聖徳太子より国書を託された小野妹子
は大国隋へ対等の外交交渉を拓り開き日本の力を示されました。
現在も神社へは外交官、駐在員の参拝者があり、華道の創始者でもあります。
華道関係の訪問者も多い様である。社殿裏の石垣の跡は、古墳の巨大な箱型
石棺状の石室が露出したものです。
http://katata.info/2013/09/ohmisangasyo-038/
白洲正子「近江山河抄」より
国道沿いの道風神社の手前を左に入ると、そのとっつきの山懐の丘の上に、
大きな古墳群が見出される。妹子の墓と呼ばれる唐臼山古墳は、この丘の
尾根つづきにあり、老松の根元に石室が露出し、大きな石がるいるいと
重なっているのは、みるからに凄まじい風景である。が、そこからの眺めは
すばらしく、真野の入り江を眼下にのぞみ、その向こうには三上山から
湖東の連山、湖水に浮かぶ沖つ島もみえ、目近に比叡山がそびえる景色は、
思わず嘆息を発していしまう。その一番奥にあるのが、大塚山古墳で、
いずれなにがしの命の奥津城に違いないが、背後には、比良山がのしかかるように
迫り、無言のうちに彼らが経てきた歴史を語っている。

2)大塚山古墳とゼニワラ古墳
曼陀羅山北古墳群(小野朝日の西側)、大塚山北古墳群(曼陀羅山の北側)、
ゼニワラ古墳(大塚山の北側)がこの地域に点在しています。
http://katata.cocolog-nifty.com/blog/2013/09/post-44d8.html
http://katata.cocolog-nifty.com/blog/2013/09/post-8b46.html

3)小野道風神社と石神古墳群
小野神社飛地境内社の小野道風神社本殿は、小野篁神社や天皇神社と同じ、切妻造平
入(国の重要文化財)で南北朝時代・歴応四年(1341)に建てられ、小野篁神社より規模は
少し小さいですが、重量感があふれています。
祭神:小野道風(おののとうふう)
小野道風は、平安時代中期の書家で小野篁の孫。醍醐、朱雀、村上三朝に歴任。柳に
飛付く蛙の姿を見て発奮努力して、文筆の極地に達せられ、藤原佐理、藤原行成と共に
日本三大文筆、三跡の一人として文筆の神として崇められています。
小野津大明神に対して大般若経600巻によって五穀豊穣を願う転読を上品寺
(じょうぽんじ)の住職によって横の建物(華達院はなついん)で行います。
 
小野道風神社からは、竹林を抜けていく途中に石神古墳群があります。
多くの古墳は既に散逸し石室の一部が見えます。ただ、私有地であるため、通常は
入れませんが、ほぼ完全に残る石室が右手竹林の中にあります。天井、床とも
縦横3メートルほどの一枚岩で出来ています。
5世紀ぐらいには前方後円が春日山や曼陀羅山に一つづつあるぐらいで、多くは
渡来系の古墳とは違い、6世紀前後の地元の有力豪族の小さな古墳であり、この古墳群
もその時期に当たります。

http://katata.info/2013/09/ohmisangasyo-037/

4)小野神社と小野篁神社
祭神:天足彦国押人命(あまたらしひこくにおしひと) ・米餅搗大使主命(たかねつき
おおおみ) ・小野妹子命
旧道に接した上品寺の塀角に小野神社の石碑が建っています。その横は小野篁神社
へ向う幅広い参道です。しかし、ここで言う「たかね」は鉄のことも指しており、
この辺一体が、鉄を生産していたことに関係があるのかもしれません。  
参道右脇に生育するムクロジは、胸高周囲4・19mもの大樹で県下最大です。
樹勢もあり、秋には多くの実をつけます。参道左脇にある川溝には、山から染み出した
清らかで、指がきれそうな冷たい水が流れ、昔から生活用水として使われています。
鳥居をくぐりさらにすすむと、途中、左側に小野神社へ向う細い参道があらわれます。
右側には石塔が建ち、鳥居をくぐると本殿が正面に見えます。狛犬と燈籠が建つ
のみである。横には小野篁神社の本殿が建ています。
しどき祭
11月2日 7代目米餅揚大使主命(たがねつきおおみかみのみこと)は餅つくりの始祖
とされ、毎年秋に全国の菓子製造業者が集まり、餅を形作った御輿を巡幸します。
境内の神田で穫れた新穀の餅米を前日から水に浸して、生のまま木臼で搗き固め、
それを藁のツトに包み入れます。納豆のように包まれたこれを「しとぎ」と
呼んでいます。
そして他の神饌とともに神前に供え、祭典が終わると、注連縄を張り渡した青竹を
捧げ持ち、小野地区(神座)を北、中、南の順で廻り、各地点で「しとぎ」を吊り
下げて礼拝し、五穀豊穣・天下泰平を祈念します。
小野篁神社は、小野神社の境内社として小野神社本殿の前に位置します。
建築年代を示す史料はなく、様式の切妻造平入(国の重要文化財)から小野道風神社
本殿と同じ南北朝時代前期の歴応年間(1338~1342)の建築と考えられています。
祭神:小野篁(おののたかむら)
小野篁は、平安時代初期の公卿で漢詩文「令義解(りょうのぎげ」の撰修に参画
した漢詩人で、学者・歌人としても知られています。 
他に、小野篁の孫にあたる平安時代前期の女流歌人六歌仙・三十六歌仙の一人
である小野小町の供養塔もあります。
http://katata.info/2013/09/ohmisangasyo-037/
 
5)天皇神社(和邇中)
社伝によれば、創建は康保3年(966)と伝えられ、元は天台宗寺院鎮守社として京都
八坂の祇園牛頭天王を奉還して和邇牛頭天王社と呼ばれていましたが、明治9年(1876)
に天皇神社と改称されました。
祭神は、素盞嗚尊(スサノオノミコト)。
三宮神社殿、樹下神社本殿、若宮神社本殿もあります。
近世では、五か村の氏神となっています。
現在の本殿は、隅柱や歴代記等から鎌倉時代の正中元年(1324)に建立されと考えら
れており、本殿は流造の多い中、全国的にも稀な三間社切妻造平入の鎌倉時代の作風を
伝える外観の整った建物で、滋賀県内では隣接の小野篁神社本殿、小野道風神社本殿の
3棟にすぎません。5月8日には旧六か村の和邇祭が行われます。これは近世の
和邇庄の成り立ちに関係します。庄鎮守社としてこの天皇神社(天王社)の境内には、
各村の氏神が摂末社としてあります。天王社本社(大宮)は和邇中、今宿、中浜は樹下
(十禅師権現)、北浜は三之宮、南浜は木元大明神、高城は若宮大明神があり、
夫々の神輿を出します。
http://11.pro.tok2.com/~kazuo/m20-192.html
http://nishioumi.ct-net.com/00-05.shtml
http://www.photoland-aris.com/myanmar/oumi/44/

また、10世紀以前の神像があります。像の由来は分かっていません。和邇豪族の
昔は和邇川の中に神輿を入れて御旅所に向かったとそうです。

なお、天皇神社の少し手前には「いぼの木」の碑があります。これは和邇祭の際に
神輿を担ぎ出す時の合図のための竹を入れたとのことです。

6)榎の宿の顕彰碑
JR湖西線の和邇駅から南へ西近江路を歩いて行くと十字路の真ん中に石垣の上に注
連縄が巻かれ「榎」と彫られた大きな石があります。この場所は、古代北陸道・和邇の
宿駅として平安朝以降、湖西の交通の要拠でした。
江戸時代、徳川幕府は全国の街道に一里塚を設けるように指示し、ここの一里塚にも
榎の木を植えられ、「榎の宿」と呼ばれ、また近くの「天皇神社」ご神木として噂宗さ
れていましたが、樹齢360年余で朽ち、昭和43年に神木榎と榎の宿を偲ぶ有志によ
り「榎の顕彰碑」として建立されたとのことです。  この石碑の横には、少し前まで
木下屋という宿屋(和邇の陣屋?)がありましたが、今は取り壊され何もありません。
また、この碑の中には維持管理に関する古文書があったとも言われています。

7)西岸寺
阿弥陀物像があります。天台宗です。

8)和邇中の高札所や年貢米の倉庫
今の和邇中の公民館にありました。和邇中村絵図に描かれています。
江戸時代は郷帳というもので、石高、支配者などが書かれています。旗本領や三上藩
などが分けて支配していた場合もあります。
このため、領主ごとに庄屋がいました(あいきゅう)。

9)中井家の門構え
市橋領の庄屋であった。そのときの陣屋の門であったとも言われています。

なお、直ぐ横に流れる和邇川は水の管理に関して争論が多くあったそうです。
「和邇川争論絵図」と言うものがあった。またこの争いをなくすため、関係文書、
絵図を保存のための箱と鍵を別に持って輪番管理をしています。これは今も
管理運用されています。

10)ころもさんの松
中浜の一角に樹齢三百年といわれる黒松があります。松の根元には、「渋谷金王丸
之墓」と記された塚があります。金王丸は源義朝の忠臣で、主君の死を弔うため、
仏門に入り、義朝の霊を守ったとされ、和邇から途中越えで京都に向う中で、
ここで休んだとされます。

11)蕃山堂跡
今は、湖西道路の道の駅「妹子の里」の横の県道をあがり、栗原の町並みを
比良山に向かい歩いていくと石碑があります。熊沢蕃山は藤江藤樹と並び江戸
時代の学者ですが、娘がこの栗原の地に嫁いできたこともあり、蕃山文庫が
建てられました。
http://lycaste621.shiga-saku.net/e14898.html
http://www.burat.jp/members/blog/entry_disp.200610041000-3000023.200610182113-
3000022.201205151903-3000020

12)水分神社(みくまり)
http://blog.goo.ne.jp/pzm4366/e/479be87f99072ae7df9d18e84aed240c
御祭神は、天水分神アメノミクマリノカミ。
当社は康元元年の創祀と伝えられ、元八大龍王社と称して、和邇荘全域の祈雨場
であった。応永三十五年畑庄司藤原友章が栗原村を領した際采地の内より若干の
神地を寄進した。元禄五年社殿改造の記録がある。尚和邇荘全体の祈雨場であった
のが、後に和邇荘を三つに分けて、三交代で祭典を行い、更に後世栗原村のみの
氏神となって現在に及んでいる。また当社には古くから村座として十人衆があり、
その下に一年神主が居て祭典、宮司が司る。この為古神事が名称もそのままに
残っています。
その主なものを記すと、神事始祭(一月十日)日仰祭(三月六日)菖蒲祭(六月五日)
権現祭(七月二十日)八朔祭(九月一日)ヘイトウ祭(九月二十八日)等があり、
八朔祭には若衆による武者行列がありました。
御田植え祭が6月10日にある。
http://www.eonet.ne.jp/~oumimatsuri/610bunsui.htm

13)栗原の棚田
比叡山の麓、琵琶湖を見下ろす山腹に、多くの棚田が作られています。琵琶湖西南部
の湖畔には、昔ながらの里山風景が残されています。
http://blog.goo.ne.jp/j86ku86uk01/e/5f0ca503bcb251b731d2c8b99937d64a
美しい日の出の写真です。
http://miz.yu-yake.com/thema/tanada/kurihara-09-hinode.html
冬の棚田からは遠く三上山など対岸の山並も良く見えます。
http://miz.yu-yake.com/thema/tanada/kurihara-yuki-08.html
なお、栗原にはもう一つ棚田があります。山並みに隠れるように幾重にも水路が通り、
比良の懐に抱かれるような気持になります。


14)住吉神社(北浜)
花山天皇の皇子清仁親王が比良山景勝時へ参詣の帰りに御座船にのり沖に出たとき、
凄まじい突風が吹き船が転覆しそうになったが、皇子が「住吉大明神」に祈願すると、
風が収まったという。この事に感謝された天皇が北浜湊に住吉神社と神餞田を下されま
した。

15)燈籠場地蔵(とろば 中浜)
昔若狭街道沿いに立てられいた地蔵さんです。地元の信仰を集め毎年8月二十四日には
地蔵菩薩を奉る行事があります。今は公民館の横にお堂が建てられ祀られています。


その他多くの神社
・慶福寺(天台真盛宗 栗原)
・報恩寺(天台真盛宗 高城)
・真光寺(天台真盛宗 北浜)
・千手院(北浜)
・慶専寺(浄土真宗 南浜)
・西岸寺(浄土宗 和邇中)
・上品寺(天台真盛宗 小野)
・住吉神社(北浜)
祭神は、底筒男命、中筒男命、表筒男命
・大将軍神社(中浜)
祭神は、中浜神
・樹元神社(南浜)
祭神はククノチノカミ

参考として小野、和邇の古墳(志賀町史第4巻)を簡単にまとめます。
①北小松古墳群
写真では石室などはしっかりとしている。
②南船路古墳群
③天皇神社古墳群
④石神古墳群
小野神社と道風神社の中間、形は残っていない
⑤石釜古墳群
和邇川沿いの井の尻橋付近
⑥ヨウ古墳群
ゴルフ場と和邇川の中間
⑦前間田古墳群
⑥の隣り
⑧曼陀羅山北古墳群
小野朝日の西側
⑨大塚山北古墳群
⑧の北側
⑩ゼニワラ古墳
⑨の北側。玄室の写真あり
⑪唐臼山古墳
小野妹子公園の中にある。

和邇の湖岸は古歌に平浦、湊と詠われたところとも当たられて今の中浜、北浜、
南浜一帯を言われまた、南北比良あたりともされているが、南浜の樹元神社は
天暦8年創建ともいわれ北浜の住吉神社は寛政7年創始といい、南船路の八所
神社は神護景雲二年(768)創建と伝えられ真宗慶専寺は元天台で恵心の
創立といい北浜の真光寺は伝教大師の創立と言え早くから開け北国街道、
龍華街道の和邇駅への湖上の湊として比良とはすこし隔たっているが相応しく
想定される。
わが船は比良の湊に漕ぎ泊てむ沖へな離りさ夜ふけにけり  万葉集 高市連黒人
ふゆゆけば嵐やさえて漣(つれづれ)の比良の湊に千鳥なくなり 
    新拾遺集  宗尊
ふねとむる比良の湊に浮きねして山郭公(ほととぎす)枕にぞきく
     家集  頓阿

他には、
におの海霞める沖に立つ波を花にぞ見する比良の山風   藤原為忠
嵐吹く比良の高嶺の嶺わたしにあはれしぐるる神無月かな  道因法師
桜咲く比良の山風吹くなべに花のさざ波寄する湖      藤原長方
比良山の小松が末にあらばこそわが思ふ妹に逢はずなりせば  柿本人麻呂
子の日して小松が崎を今日見れば遥かに千代の影ぞ浮かべる 藤原俊成


夏ー立夏から大暑まで

夏の朝、琵琶湖に向って歩いていると、その蒼さと水色の広がりが私を手招き
している。そして、いよいよ水の恵みをふんだんに受ける季節となる。

二十四節気「立夏(りっか)」
立夏(5月5日頃)
暦の上では立夏から立秋の前日までが「夏」とされており、「夏が立つ」夏の始まり。
・蛙始鳴(かわずはじめてなく)5月5日頃
蛙が鳴き始める頃。水田の中をスイスイ泳ぎ、活発に活動を始めます。
「かわず」は蛙の歌語・雅語。
・蚯蚓出(みみずいずる)5月10日頃
みみずが地上に出てくる頃。畑土をほぐしてくれるみみずは、動き始めるのが少し
遅めである。
・竹笋生(たけのこしょうず)5月15日頃
たけのこが出てくる頃。たけのこは成長が早く、一晩でひと節伸びると言われている。
「雨後の筍」というたとえもある。近くの竹林で採れる竹の子の柔らかい舌触りは特別
だ。

二十四節気「小満(しょうまん)」
小満(5月21日頃)
陽気が日増しに良くなり、万物が成長して天地に満ち始めることから小満と
言われれる。
・蚕起食桑(かいこおきてくわをはむ)5月21日頃
蚕が桑の葉を盛んに食べだす頃。蚕がつむいだ繭が美しい絹糸になる。
・紅花栄(べにばなさかう)5月26日頃
紅花の花が咲きほこる頃。紅花は染料や口紅になり、珍重された。
麦秋至(むぎのときいたる)5月31日頃
麦の穂が実り始める頃。「秋」は実りの季節を表し、穂を揺らす風は「麦の秋風」。
季節としては初夏ですが、麦にとっては収穫の「秋」であることから、名づけられた
季節が「麦秋」。「麦秋」は俳句の夏の季語の一つ。

二十四節気「芒種(ぼうしゅ)」
芒種(6月6日頃)
稲・麦など芒(のぎ)をもつ穀物の種をまく季節とされたことから、芒種と
呼ばれている。
実際の種まきはこれより早い時期に行われる。この頃、田圃は、緑の絨毯となり、
琵琶湖からの風のさざめきに揺れている。
・蟷螂生(かまきりしょうず)6月5日頃
かまきりが卵からかえる頃。ピンポン球ほどの卵から数百匹の子が誕生する。
・腐草為螢(くされたるくさほたるとなる)6月10日頃
草の中から蛍が舞い、光を放ち始める頃。昔は腐った草が蛍になると考えていた。
・梅子黄(うめのみきばむ)6月15日頃
梅の実が黄ばんで熟す頃。青い梅が次第に黄色みをおび、赤く熟していく。

これら季節の前後、ホタルの幻想的な光が風情ある夏の夜の風物詩を見せる。
蛍は、清涼の水より出でると思っていたが、やや濁ったような水がその生育
に良い、とのこと。知らなかった。

二十四節気「夏至(げし)」
夏至(6月21日頃)
夏至とは「日長きこと至る、きわまる」と言う意味だそうだ。一年で昼の長さが最も
長く、夜が短い日。正午の太陽の高さも一年で最も高くなる。
・乃東枯(なつかれくさかるる)6月21日頃
夏枯草の花が黒ずみ枯れたように見える頃。「夏枯草」(かごそう)はうつぼ草の異名。
・菖蒲華(あやめはなさく)6月26日頃
あやめの花が咲き始める頃。端午の節供に用いる菖蒲(しょうぶ)ではなく、
花菖蒲のこと。
・半夏生(はんげしょうず)7月1日頃
半夏が生え始める頃。田植えを終える目安とされた。「半夏」は「烏柄杓」(から
すびしゃく)の異名。梅雨の末期に、半夏(別名=烏柄杓<からすびしゃく>)という
毒草が生える、多湿で不順な頃のこと。農家ではこの日までに田植えを済ませ、
どんなに気候が不順でもこの後には田植えをしないという習慣があったという。

二十四節気「小暑(しょうしょ)」
小暑(7月7日頃)
この頃から暑さがだんだん強くなっていくという意味。例年では小暑から3~7日くらい
遅れて梅雨明けすることが多いようだ。
・温風至(あつかぜいたる)7月7日頃
熱い風が吹き始める頃。温風は梅雨明けの頃に吹く南風のこと。日に日に暑さが
増す。
・蓮始開(はすはじめてひらく)7月12日頃
蓮の花が咲き始める頃。優美で清らかな蓮は、天上の花にたとえられている。
・鷹乃学習(たかすなわちがくしゅうす)7月17日頃
春に生まれた鷹の幼鳥が、飛び方や獲物を捕らえる技を覚え、巣からの旅立ちを迎える
頃。日本では古今タカといえば「大鷹」をさすことが多く、優れたハンターであること
から「鷹狩り」などに使われた。
この頃、近くの森には親子連れの鷹が悠然と青空を舞っている。

二十四節気「大暑(たいしょ)」
大暑(7月23日頃)
梅雨明けの時期で、夏の土用もこの頃になる。最も暑い頃という意味だが、現代では
実際の暑さのピークはもう少し後になる。もっとも、ここ数年の暑さは異常と同時に、
いつがピークなのか、ちと不明。
・桐始結花(きりはじめてはなをむすぶ)7月23日頃
桐の花が実を結び始める頃。桐は箪笥や下駄など暮らしの道具に欠かせないもの。
・土潤溽暑(つちうるおうてむしあつし)7月28日頃
土がじっとりとして蒸し暑くなる頃。蒸し暑いことを「溽暑(じょくしょ)」と言う。
・大雨時行(たいうときどきふる)8月2日頃
ときどき大雨が降る頃。むくむくと湧き上がる入道雲が夕立になり、乾いた大地
を潤す。
ざあっと降る夕立より、近年では異常気象による大型台風やゲリラ豪雨のほうが強い
印象がある。
京都や大阪から帰ってくるとき、琵琶湖が眼下に広がると何故か、涼しさが身体を
包む。琵琶湖の優しい抱擁の中、自然の優しさを感じる。
 
 
和邇地区では、
和邇祭り
5月8日には旧六か村の和邇祭が行われます。これは近世の和邇庄の
成り立ちに関係します。庄鎮守社としてこの天皇神社(天王社)の境内には、
各村の氏神が摂末社としてあります。天王社本社(大宮)は和邇中、今宿、
中浜は樹下(十禅師権現)、北浜は三之宮、南浜は木元大明神、高城は
若宮大明神があり、夫々の神輿を出します。
栗原地区では、
水分神社(みくまり)の祭り
当社は康元元年の創祀と伝えられ、元八大龍王社と称して、和邇荘全域の祈雨場
であった。応永三十五年畑庄司藤原友章が栗原村を領した際采地の内より若干の
神地を寄進した。元禄五年社殿改造の記録がある。尚和邇荘全体の祈雨場であった
のが、後に和邇荘を三つに分けて、三交代で祭典を行い、更に後世栗原村のみの
氏神となって現在に及んでいる。また当社には古くから村座として十人衆があり、
その下に一年神主が居て祭典、宮司が司る。この為古神事が名称もそのままに
残っています。
その主なものを記すと、神事始祭(一月十日)日仰祭(三月六日)菖蒲祭(六月五日)
権現祭(七月二十日)八朔祭(九月一日)ヘイトウ祭(九月二十八日)等があり、
八朔祭には若衆による武者行列がありました。
御田植え祭が6月10日にある。
八朔祭り
農作物の実りを祈願し、別名「たのみ節句」とも呼ばれています。
毎年9月一日に行われ、午後8時半ごろから行列を組み、氏神に
参拝します。
木戸地区では、
樹下神社の例祭
この比良神は古く比良三系を神体山として周辺の住民が産土神として
仰いで来た神であるが、この比良山に佛教が入って来ると、宗教界に大きな
位置をしめ、南都の佛教が入ると、東大寺縁起に比良神が重要な役割を
もって現れ、続いて比叡山延暦寺の勢力が南都寺院を圧迫して入って来ると、
比良神も北端に追われて白鬚明神が比良神であると縁起に語られ、
地元民の比良権現信仰が白山権現にすり替えられるのである。
(比良神は貞観七年に従四位下の神階を贈られた)
当社の例祭には五基の神輿による勇壮な神幸祭があり、庄内五部落の立会の
古式祭で古くより五箇祭と称され、例年5月5日に開催され、北船路の
八所神社の神輿とあわせ五基の神輿が湖岸の御旅所へ渡御する湖西地方
で有名な祭です。


山滴る。
二十四節気「立夏(りっか)」

・蛙始鳴(かわずはじめてなく)5月5日頃
蛙が鳴き始める頃。水田の中をスイスイ泳ぎ、活発に活動を始めます。「かわず」は蛙
の歌語・雅語。
→藤、にんじん。金目鯛。
・蚯蚓出(みみずいずる)5月10日頃
みみずが地上に出てくる頃。畑土をほぐしてくれるみみずは、動き始めるのが少し遅め
です。
→苺。ほおじろ。いさき。
・竹笋生(たけのこしょうず)5月15日頃
たけのこが出てくる頃。たけのこは成長が早く、一晩でひと節伸びると
言われています。
→筍。あさり。

二十四節気「小満(しょうまん)」

・蚕起食桑(かいこおきてくわをはむ)5月21日頃
蚕が桑の葉を盛んに食べだす頃。蚕がつむいだ繭が美しい絹糸になります。
→そらまめ。きす。
・紅花栄(べにばなさかう)5月26日頃
紅花の花が咲きほこる頃。紅花は染料や口紅になり、珍重されました。
→しそ、紅花。車えび。
・麦秋至(むぎのときいたる)5月31日頃
麦の穂が実り始める頃。「秋」は実りの季節を表し、穂を揺らす風は「麦の秋風」。
刈り取りを待つ麦畑は一面の黄金色。この頃、降る雨を麦雨ばくうと呼ぶ。
→枇杷。べら。四十雀しじゅうから(ツィピーツィツィピーと啼く)。

二十四節気「芒種(ぼうしゅ)」

・蟷螂生(かまきりしょうず)6月5日頃
かまきりが卵からかえる頃。ピンポン球ほどの卵から数百匹の子が誕生します。
→ラッキョウ、苗代苺。あいなめ。
・腐草為螢(くされたるくさほたるとなる)6月10日頃
草の中から蛍が舞い、光を放ち始める頃。昔は腐った草が蛍になると考えていました。
→とまと。するめいか。蛍。
・梅子黄(うめのみきばむ)6月15日頃
梅の実が黄ばんで熟す頃。青い梅が次第に黄色みをおび、赤く熟していきます。
→梅が旬、すいかずら。すずき。

二十四節気「夏至(げし)」

・乃東枯(なつかれくさかるる)6月21日頃
夏枯草の花が黒ずみ枯れたように見える頃。「夏枯草」(かごそう)はうつぼ草
の異名です。その花穂は生薬として役立っています。
→ウツボグサ、夏みかん。鮎。
・菖蒲華(あやめはなさく)6月26日頃
あやめの花が咲き始める頃。端午の節供に用いる菖蒲(しょうぶ)ではなく、花菖蒲のこ
とです。青嵐、青時雨。
→菖蒲、茗荷。かんぱち。
・半夏生(はんげしょうず)7月1日頃
半夏が生え始める頃。田植えを終える目安とされました。「半夏」は「烏柄杓」(から
すびしゃく)の異名。半夏雨。
→おくら。はも。

二十四節気「小暑(しょうしょ)」

・温風至(あつかぜいたる)7月7日頃
熱い風が吹き始める頃。温風は梅雨明けの頃に吹く南風のこと。日に日に暑さが増しま
す。
→ほおずき。こち。
・蓮始開(はすはじめてひらく)7月12日頃
蓮の花が咲き始める頃。優美で清らかな蓮は、天上の花にたとえられています。
→蓮、とうもろこし。かれい。
・鷹乃学習(たかすなわちがくしゅうす)7月17日頃
鷹の子が飛ぶ技を覚え、巣立ちを迎える頃。獲物をとらえ一人前になっていきます。
→モロヘイヤ。鰻。ハチクマ。

二十四節気「大暑(たいしょ)」

・桐始結花(きりはじめてはなをむすぶ)7月23日頃
桐の花が実を結び始める頃。桐は箪笥や下駄など暮らしの道具に欠かせないものです。
→桐の花、きゅうり。そうめん。うに。
・土潤溽暑(つちうるおうてむしあつし)7月28日頃
土がじっとりとして蒸し暑くなる頃。蒸し暑いことを「溽暑(じょくしょ)」と
言います。
→八朔(八月一日の早稲の穂)、枝豆。あなご。
・大雨時行(たいうときどきふる)8月2日頃
ときどき大雨が降る頃。むくむくと湧き上がる入道雲が夕立になり、乾いた大地を潤し
ます。
→すいか。太刀魚。かぶとむし。

俳句 夏
十六夜の気色わけたり比良伊吹  
鳴神や幾度比良へ帰る雲     士朗
いかほども雲たくはへよ比良伊吹 千影
白雨や比良より雲の出来心    団室

和歌  夏
ほととぎす 三津の浜辺に 待つ声を 比良の高嶺に 鳴き過ぎべしや

 

2016年1月27日水曜日

春ー立春から穀雨まで

二十四節気(にじゅうしせっき)、七十二候(しちじゅうにこう)とは
「春分」「冬至」などよく耳にするのが「二十四節気」で1年を24等分して約15日ごと
に分けた季節のこと。実際の日本の気候とは若干のずれがあるが、季節を味わう
と言う点では、大いに参考となる。また、「七十二候」は半月ごとの季節変化を表す
「二十四節気」をさらに約5日おきに分け、気象の動きや動植物の変化を知らせる
もので、日本の気候や風土に合うよう江戸時代に入ってから何度か改定されている、
とのこと。
七十二候の名称は、気候の変化や動植物の様子が短い文で表されているが、
この志賀の里に生活していると、多くはその時期の「兆し」を伝え、繊細な季節の
うつろいを感じさせてくれる。言葉の深みと周りの景観との整合性に、ここに
住んでいることへの感謝に溢れる。

1.二十四節気「立春(りっしゅん)」
立春(2月4日頃)
立春は一年のはじめとされ、季節の節目はこの日が起点になっている。まだまだ寒い
ですが、暦上ではこの日から春となる。
・東風解凍(はるかぜこおりをとく)2月4日頃
春の風が川や湖の氷を解かし始める頃。「東風」(こち)とは春風を表す代名詞。
・黄鴬?睆(うぐいすなく)2月9日頃
山里で鴬が鳴き始める頃。春の訪れを告げる鴬は「春告鳥」(はるつげどり)とも
呼ばれるが、我が家の梅ノ木にもその姿が見え始める。
・魚上氷(うおこおりをいずる)2月14日頃
水がぬるみ、割れた氷の間から魚が飛び跳ねる頃。春先の氷を「薄氷」と呼ぶそうだ。

2.二十四節気「雨水(うすい)」
雨水(2月19日頃)
空から降るのが雪から雨に変わり、氷が溶けて水になるという意味。春一番が
吹くのもこの頃から。この里では、比良八荒と呼ばれる強風が琵琶湖に向って
吹き降ろし始める。
・土脉潤起(つちのしょううるおいおこる)2月18日頃
雪がしっとりとした春の雨にかわり、大地が潤い始める頃。「脉」は脈の俗字。
・霞始靆(かすみはじめてたなびく)2月23日頃
春霞がたなびき始める頃。春の霞んだ月を「朧月」(おぼろづき)と呼ぶ。
・草木萌動(そうもくめばえいずる)2月28日頃
寒さも和らぎ、日に日に暖かくなりはじめ草木が芽吹き始める頃(「草萌え」
(くさもえ)と言う)。長く寒い冬も終わり、いよいよ本格的に春がやってくる。
比良山もその白き衣を少しづつ脱ぎ捨て始める。

3.二十四節気「啓蟄(けいちつ)」
啓蟄(3月6日頃)
冬ごもりしていた虫が、地中からはい出る頃。
・蟄虫啓戸(すごもりのむしとをひらく)3月5日頃
戸を啓いて顔を出すかのように、冬ごもりをしていた生きものが姿を表す頃。
・桃始笑(ももはじめてさく)3月10日頃
桃の花が咲き始める頃。花が咲くことを「笑う」と表現、「山笑う」は春の季語。
・菜虫化蝶(なむしちょうとなる)3月15日頃
青虫が紋白蝶になる頃。「菜虫」は菜を食べる青虫のこと。菜の花が咲いて
まさに春本番。春山の明るい雰囲気をイメージさせてくれる。

4.二十四節気「春分(しゅんぶん)」
春分(3月21日頃)
太陽の中心が春分点に達し、全地球上の昼夜の長さがほぼ等しくなる日。
・雀始巣(すずめはじめてすくう)3月20日頃
雀が巣を作り始める頃。昼の時間が少しずつ伸び、多くの小鳥たちが繁殖期を迎える。
・桜始開(さくらはじめてひらく)3月25日頃
桜の花が咲き始める頃。桜前線の北上を日本中が待ち望む、お花見の季節の到来。
・雷乃発声(かみなりすなわちこえをはっす)3月30日頃
春の訪れを告げる雷が鳴り始める頃。「春雷」(しゅんらい)は「虫出しの雷」
とも呼ばれている。
琵琶湖も厚い冬着から春らしい着姿となり、灰色の湖面も涼やかな蒼さが増してくる。

5.二十四節気「清明(せいめい)」
清明(4月5日頃)
春のはじめの清らかで生き生きとした様子「清浄明潔」という語を略したもの。
・玄鳥至(つばめきたる)4月5日頃
燕が南の国から渡ってくる頃。「玄鳥」(げんちょう)とは燕の異名。
・鴻雁北(こうがんかえる)4月10日頃
雁が北へ帰っていく頃。雁は夏場をシベリアで、冬は日本で過ごす渡り鳥。
・虹始見(にじはじめてあらわる)4月15日頃
雨上がりに虹が見え始める頃。淡く消えやすい春の虹も次第にくっきりしてくる。
特に、比良山と琵琶湖の間をつなぐ大きな七色が見える頃でもある。

6.二十四節気「穀雨(こくう)」
穀雨(4月20日頃)
この時期に降る雨は「百穀春雨」、百穀を潤し芽を出させる春雨といわれている。
種まきなどを始めるのに適した時期として、農作業の目安になっている。
近くの田畑も黒く幾筋もの土お越しの畝があちらこちらで見られる。
・葭始生(あしはじめてしょうず)4月20日頃
水辺の葭が芽吹き始める頃。葭は夏に背を伸ばし、秋に黄金色の穂をなびかせます。
・霜止出苗(しもやみてなえいずる)4月25日頃
霜が降りなくなり、苗代で稲の苗が生長する頃。霜は作物の大敵とされています。
・牡丹華(ぼたんはなさく)4月30日頃
牡丹が大きな花を咲かせる頃。豪華で艶やかな牡丹は「百花の王」と呼ばれています。
牡丹は日本には遣唐使によってもたらされたともいわれ「富貴草」とも言われる。

守山地区では、
金毘羅神社の大祭
毎年3月10日に行われます。今から二百年前に守山の農家に金毘羅さんの
御神符が落ちてきて、その後海の守り神として祀ったといわれています。
数十年前までは大祭の日には村の辻辻に猿のぬいぐるみを吊るしたそうです。
比良地区では、
比良天満宮(北比良)と樹下神社(南比良)
国道161号線に面して建つ神社で境界もなく、参道が深い森の中へ導いていきます。
参道入口に樹齢300年の大きな神木・スジダイがあり、その左参道が樹下神社、
右の鳥居が天満宮です。境内に入ると二社の社殿がほぼ平行に並び建っています。
天満宮の祭礼は、北比良村が天満宮の御輿、南比良が十禅師社の御輿を担ぎ、神事の
執行は、両村の社役が交互で務めていました。しかし、この社役が着用する装束を
めぐり、相論が起こり、繰り返し起こり、二つの村が、一つの社を維持してゆくことは
困難として、明治5年(1872)に両社を分離し、それぞれの氏神とすることが
定められた。なお、比良天満宮の祭神は、菅原道真です。鳥居の前左右には、
天明4年(1784)建立の銘文が入った燈籠が建っていますし、樹木が囲む参道を進むと
「えま堂」や社務所、牛像に出合います。えま堂には神将形立像が安置されています。
例祭は4月25日小松地区の例祭と同時に行われ、一基の神輿は湖岸の御旅所へ
渡岸します。

南小松地区では、
八幡神社の祭礼
南小松の山手にあり、京都の石清水八幡宮と同じ時代に建てられたとされます。
木村新太郎氏の古文書によれば、六十三代天皇冷泉院の時代に当地の夜民牧右馬大師
と言うものが八幡宮の霊夢を見たとのこと。そのお告げでは「我、機縁によって
この地に棲まんと欲す」と語り、浜辺に珠を埋められる。大師が直ぐに目を覚まし
夢に出た浜辺に向うと大光が現れ、夢のとおり聖像があり、水中に飛び込み
引き上げ、この場所に祠を建てて祀ったのが始まりです。
春の祭礼(四月下旬)には、神輿をお旅所まで担ぎ、野村太鼓奉納や子供神輿
が出ます。また、この辺りは野村と呼ばれ、特に自家栽培のお茶が美味しいようです。
八朔祭(9月1日)が行われ、夜7時ごろからは奉納相撲が開催されます。
八幡神社の狛犬は、明治15年に雌(右)、明治 17 年に雄(左)(名工中野甚八作)
が作られ、県下では一番大きいといわれています。体長180センチ弱ですが、
左右違う、そのたてがみや大きな眼が印象的です。

北小松地区では、
樹下神社の例祭
創祀年代は不詳であるが、天元5年(982年)に佐々木成頼により日吉十禅師
(現日吉大社摂社樹下宮)を勧請したのに創まるとの伝えがあります。
明治3年(1870年)に十禅師社と称していた社号を、樹下神社に改めた。
境内社には、天滿宮、金比羅宮、大髭神社があります。
例祭は4月25日に行われます。

俳句 春
八講の比良山見ゆれ枯木原     青々
八講はすぎたしらせか鶴のこえ   楓下
春は京冬は残れリ比良の山     道加
八景は比良にかたまる桜かな    麦水
花野来て比良の横雲望みけり    華村

和歌 春
・桜さく比良の山風吹くままに
 花になりゆく志賀の浦なみ     御京極
・花さそうひらの山風ふきにけり
 こぎ行く船の跡見ゆるまで     宮内卿
・桜咲く比良の山風ふくなへに
 花のさざ波寄する水海       大納言定国
・さざ波の近江の海に船はてて
 比良の山桜ちるまで見む      荷田蒼生子

旬なものは?





二十四節気(にじゅうしせっき)は半月毎の季節の変化を示していますが、これをさら
に約5日おきに分けて、気象の動きや動植物の変化を知らせるのが七十二候(しちじゅ
うにこう)です。二十四節気と同じく古代中国で作られました。二十四節気が古代のも
のがそのまま使われているのに対し、七十二候は何度も変更されてきました。
日本でも、江戸時代に入って日本の気候風土に合うように改定され、「本朝七十二候」
が作られました。現在主に使われているのは、明治時代に改訂された「略本暦」のもの
です。
ちなみに「気候」ということばは、この「節気」と「候」からできています。
※二十四節気について詳しい説明はこちらをご覧ください。 → 二十四節気
七十二候の名称は、気候の変化や動植物の様子が短い文で表されています。私たちの暮
らしでは目にする機会の少ない事象もありますが、おおかたはその時期の「兆し」を伝
え、繊細な季節のうつろいを感じさせてくれます。

俳句 夏
十六夜の気色わけたり比良伊吹  
鳴神や幾度比良へ帰る雲     士朗
いかほども雲たくはへよ比良伊吹 千影
白雨や比良より雲の出来心    団室

和歌  夏
ほととぎす 三津の浜辺に 待つ声を 比良の高嶺に 鳴き過ぎべしや



山笑う
二十四節気「立春(りっしゅん)」

・東風解凍(はるかぜこおりをとく)2月4日頃
春の風が川や湖の氷を解かし始める頃。「東風」(こち)とは春風を表す代名詞。
→蕗のとう
・黄鴬?睆(うぐいすなく)2月9日頃
山里で鴬が鳴き始める頃。春の訪れを告げる鴬は「春告鳥」(はるつげどり)とも呼ば
れます。
→さやえんどう、梅
・魚上氷(うおこおりをいずる)2月14日頃
水がぬるみ、割れた氷の間から魚が飛び跳ねる頃。春先の氷を「薄氷」と呼びます。
→あまご、山女魚、岩魚。めじろ。明日葉。谷汲み踊り。

二十四節気「雨水(うすい)」

・土脉潤起(つちのしょううるおいおこる)2月18日頃
雪がしっとりとした春の雨にかわり、大地が潤い始める頃。「脉」は脈の俗字です。
→春キャベツ。
・霞始靆(かすみはじめてたなびく)2月23日頃
春霞がたなびき始める頃。春の霞んだ月を「朧月」(おぼろづき)と呼びます。
→辛子菜。
・草木萌動(そうもくめばえいずる)2月28日頃
草木が芽吹き始める頃。催花雨、草の芽が萌え出すことを「草萌え」(くさもえ)
とも言います。また、木々についても木の芽起こし、木の芽萌やしとも言います。
→緑繁縷(はこべ)、菜花。

二十四節気「啓蟄(けいちつ)」

・蟄虫啓戸(すごもりのむしとをひらく)3月5日頃
戸を啓いて顔を出すかのように、冬ごもりをしていた生きものが姿を表す頃。
→わらび、ぜんまい、菫(すみれ)。鰆。
・桃始笑(ももはじめてさく)3月10日頃
桃の花が咲き始める頃。花が咲くことを「笑う」と表現、「山笑う」は春の季語です。
→梅、桃、新たまねぎ。さより。
・菜虫化蝶(なむしちょうとかす)3月15日頃
青虫が紋白蝶になる頃。「菜虫」は菜を食べる青虫のこと。菜の花が咲いて
まさに春本番。
→かたばみ、葉わさび。やまとしじみ(小さな蝶)。

二十四節気「春分(しゅんぶん)」

・雀始巣(すずめはじめてすくう)3月20日頃
雀が巣を作り始める頃。昼の時間が少しずつ伸び、多くの小鳥たちが繁殖期を
迎えます。
→蕗、関東たんぽぽ。ひばり。
・桜始開(さくらはじめてひらく)3月25日頃
桜の花が咲き始める頃。桜前線の北上を日本中が待ち望む、お花見の季節の到来です。
→こぶし、アスパラガス。さくらえび。
・雷乃発声(かみなりすなわちこえをはっす)3月30日頃
春の訪れを告げる雷が鳴り始める頃。「春雷」(しゅんらい)は「虫出しの雷」とも呼
ばれています。
→うど、木蓮。真鯛。

二十四節気「清明(せいめい)」

・玄鳥至(つばめきたる)4月5日頃
燕が南の国から渡ってくる頃。「玄鳥」(げんちょう)とは燕の異名です。
→行者にんにく。初鰹。
・鴻雁北(こうがんきたへかえる)4月10日頃
雁が北へ帰っていく頃。雁は夏場をシベリアで、冬は日本で過ごす渡り鳥です。
→たらのめ(山菜)。ほたるいか。
・虹始見(にじはじめてあらわる)4月15日頃
雨上がりに虹が見え始める頃。淡く消えやすい春の虹も次第にくっきりしてきます。
→みつば、小楢(花が咲く頃)。雨前茶。

二十四節気「穀雨(こくう)」
瑞雨、甘雨、春琳、催花雨等春の雨には色々ある。
・葭始生(あしはじめてしょうず)4月20日頃
水辺の葭が芽吹き始める頃。葭は夏に背を伸ばし、秋に黄金色の穂をなびかせます。
→葦牙(あしかび)、新ごぼう。鯵。
・霜止出苗(しもやみてなえいずる)4月25日頃
霜が降りなくなり、苗代で稲の苗が生長する頃。霜は作物の大敵とされています。
→よもぎ。いとより。
・牡丹華(ぼたんはなさく)4月30日頃
牡丹が大きな花を咲かせる頃。豪華で艶やかな牡丹は「百花の王」と呼ばれています。
八十八夜。
→牡丹、こごみ。さざえ。

俳句 春
八講の比良山見ゆれ枯木原     青々
八講はすぎたしらせか鶴のこえ   楓下
春は京冬は残れリ比良の山     道加
八景は比良にかたまる桜かな    麦水
花野来て比良の横雲望みけり    華村

和歌 春
・桜さく比良の山風吹くままに
 花になりゆく志賀の浦なみ     御京極
・花さそうひらの山風ふきにけり
 こぎ行く船の跡見ゆるまで     宮内卿
・桜咲く比良の山風ふくなへに
 花のさざ波寄する水海       大納言定国
・さざ波の近江の海に船はてて
 比良の山桜ちるまで見む      荷田蒼生子