2016年1月30日土曜日

比良では、

比良地区では、

1)中鳥居、鳥居浜
貞永2年2月(1233年)鎌倉幕府将軍朝経の命により天満宮が修復され、併せて
鳥居3基が建てられた。しかし、正中年間(1324~26)に湖水が氾濫して2基が
湖中に没したため、鳥居のあった所を中鳥居、浜鳥居と言う名を残したと
言われています。
鳥居浜の名はこの付近に浜鳥居があったことに由来します。

2)比良湊と蓮如橋
志賀町史にも以下の様な記述があります。
「古来、比良の湊がおかれ、北陸地方との交易を中心に水運にも従事。
中世には比良八庄とよばれ、小松荘と木戸荘がその中心であったという。
、、、比良湊は万葉集にも見られる。ほかにも、「比良の浦の海人」が
詠まれ、「日本書紀」斉明天皇5年三月条には、「天皇近江の平浦に幸す」
ということがあった。
比良湊、比良浦の所在を想定するよりどころは、いまのところ地名しかない。
すなわち今日の北比良、南比良の周辺、そして比良川の河口周辺に可能な
場所を探すしかない。」
更には、
万葉集巻三(二七四)には、
わが船は比良(ひら)の湊(みなと)に漕ぎ泊(は)てむ沖へな離(さか)り
さ夜更(よふ)けにけり
(わが乗る船は比良の湊に船泊りしよう。沖へは離れてゆくな。
夜も更けて来たことだ。)
高市連黒人(たけちのむらじくろひと)が旅先で詠んだ八首の歌のうちの一首
があります。
この時代、海は異界との境目だと信じられていました。
また、夜は悪しき魔物たちが最も活発に活動する時間だとも考えられていたようです。
そんな魔物たちの活発に活動する夜の時間が近づいてくる前に「湊に船泊りしよう
(湊へ戻ろう)」と言霊として詠うことで、黒人は夜を前に動揺する自分自身
の心を鎮めようとしたわけです。
また港近くの福田寺(浄土真宗 北比良)との関係で、蓮如が北陸に向かうため
にここに立ち寄った時に渡った橋を蓮如橋と呼びます。近くには、比良観音堂
があり、天満天神の本地仏十一面観音があリます。

3)比良観音堂
天慶(938~46年)、比良宮の禰宜であった神(三和)良種によって、天満天神の
本地仏十一面観音を祀る寺として創建された。現在は、北比良三十人講が給仕
にあたり、毎月17日には西福寺住職により供養が行われています。

4)福田寺(ふくでんじ)
また港近くの福田寺(浄土真宗 北比良)との関係で、蓮如が北陸に向かうため
にここに立ち寄った時に渡った橋を蓮如橋と呼びます。近くには、比良観音堂
があり、天満天神の本地仏十一面観音があリます。
北比良城跡の石碑があります。
http://www.oumi-castle.net/second_page/kitahira.html


5)本立寺(真宗 南比良)
本寺が湖畔に移ったときに残された約200体の地蔵がありますが、その地蔵跡
もあります。昔、時を知らせるための太鼓櫓があります。この移設前は、
蓮華寺遺跡として残っています。

6)そぐら浜の常夜灯
そぐら浜から北へ延びる浜辺一帯を「ジョネンバ」と呼び、かっては石屋小屋
(石きり加工場)が軒を連ね、浜辺では氷魚、ハス、モロコなどの地引網が
盛んに行われていました。今はその面影はなく一部を児童公園にしたりしています。
ジョネンバから南側のそぐら浜辺りは上納する年貢米や特産の石材、木材、
薪、および壁土、葦、瓦などの集積場で、これらの保管する蔵が集まっていました。
そぐら浜 という地名は、当時、交易で運ばれて来た物資を保管・保存する
ための蔵が、立ち並んでいたことから付けられたようです。
ちなみに、そぐら は、「総蔵」からきていると言われています。
常夜灯は、湖上が交易に使われていた頃に、船主や船頭衆によって航行の安全を
祈願して建てられたものです。
昔は毎年、当番が四国の金比羅宮に、航行の安全祈願に参拝したことから、
常夜灯のびわ湖側には、「金比羅大権現」とう文字が、刻まれています。
http://blogs.yahoo.co.jp/aozora8482/63369500.html
http://www48.tok2.com/home/skyland141/sub25.html

7)ダンダ坊跡
ダンダ坊遺跡は、比良川が支流を集める出会橋の北側に、幅約150m、
奥行約550mの範囲で広がる、比良山中最大の寺院遺構です。
遺跡は大きく4つに分れ、寺院部は石垣で区画された広い伽藍の中に、
山門跡・本坊跡・他の跡などが明瞭に残っています。また館跡は一番谷奥にあり、
人目にはますがたこぐち枡形虎口を配し、寺院とは異なった景観を見せています。
さらに山中の寺院には珍しい庭園の遺構が、ほぽ完全に残り、この遺跡の謎を
一層、深めています。
この遺跡の歴史的な経緯はいまだ不明ですが、平安時代に始まり、天台僧の
修行の場として、今も石垣で区画された伽藍が残っています。三尊石を置いた
庭園もあり、元亀年間に近江で繰り広げられた信長と連合軍との対抗勢力との抗争
「志賀の陣」で、延暦寺と共に破壊され忘れ去られた寺院の1つです。
http://www.geocities.jp/yamajirooumi/2530104.html
http://blog.goo.ne.jp/kkkk_015/e/d446e81d4d3de812b12c53f8a60deb4a


ダンダ坊遺跡(だんだぼういせき)       

館跡の桝形虎口館跡の庭園

城郭の概要                  
別  名 :
所在地 : 志賀町北比良
築城年 : 平安時代
形  式 : 寺院城郭
遺  構 : 桝形虎口、庭園遺構、土塁、堀、
訪城日 : 平成26年5月26日

歴   史
比良連峰は、平安時代中期以降、天台宗の勢力拡大と伴に、天台僧の修業の場となり、多くの寺院が山中に営まれた。江戸時代には、この様子を「比叡山三千坊、比良山七百坊」と称された。
ダンダ坊もそうした寺院の一つで、横川恵心院の別院として平安時代に始まり、元亀3年(1572)に織田信長との抗争で延暦寺とともに破壊され、焼滅したと考えられている。
             (本坊跡の石垣)   →  

構造と感想
ダンダ坊遺跡は、比良川が支流を集める「いんだにはし」と「出会橋」の北側に巾約150m、奥行約550mの範囲に広がる比良山中最大の寺院遺跡である。遺跡は大きく寺院跡、坊跡、館跡などの四つのブロックに分かれ、特に寺院跡と館跡の遺構が明瞭に残っている。
寺院遺構は、北から南に張出す尾根の先端に位置している。尾崎を削平した広い敷地に石垣で築かれた参道、階段、山門、本坊、開山堂、池、礎石などの遺構が明瞭に残っている。尾根の東側の谷筋には、下から坊跡が並び、谷筋の一番奥に館跡があり、前面を石垣で区画し、右手背後は築山を兼ねた土塁と堀で遮断している。一番の見所は、正面の左端に開口する石垣で築かれた桝形虎口である。直角に折れた石垣が見事である。屋敷の北奥には、築山を築き、中心に三尊石を置き、この裾から滝が落ち、築山裾の池へと流れる。伊吹町上平寺に残る京極氏館の庭園と同じ様な造りで、武家儀礼のための庭園と思われているが、なぜ山岳寺院に造られたのか解明されていない。
車を横付けでき、山道もなだらかで、訪れ易く、これから注目が集まる遺跡に思える。

道 案 内
湖西道路および志賀バイパスの比良ランプを下りた県道322号との交差点を山側の西方向に曲り、県道322号を750m程山に向かい登って行くと「いんだにはし」に至る。付近に駐車可。バス停の西側(基礎の残骸が残る)宅地の北西隅から山道に入ると直ぐに遺構となる。一本道で途中に本坊跡への案内板が建てられている。館跡へは、案内板の所を直進し山裾を行き止まりまで行く。




                     
駐車場・・・元比良スキー場へ 期間限定バス停
 道案内
161号(湖西)バイパス終点を左に折れ比良山中に入ると、出会橋があります。さらに川沿いに進むと昔の比良リフトの乗り場となり、この一帯がダンダ坊です。数多くの石垣が残り「比良七百坊」を彷彿させます。
 また、ここからは比良山への登山口にあたり、落差81mある神爾滝を見に行っても良いかもしれません。
 そして、帰りには天然温泉「比良とぴあ」によって、疲れをとってリラックスするのもよいかも



8)はしご谷の穴黒
別名「カマグロ」とも呼ばれ、花崗岩に囲まれた岩穴で、前面は岩の上から
落ちる小滝によって見えなません。また少し下った先にある巨大な花崗岩の
岩は滑り石とも呼ばれ、近くによるとそこ大きさがわかります。

9)石の里
旧志賀町は、石の街でもあります。神社の狛犬、石灯篭、家の基礎石、
車石など様々な形で使われて来ました。小野にある古墳には縦横3メートル
以上の一枚岩の石版が壁や天井に使われていますし、古代から近世まで石の産地
として頑張ってきています。例えば、南小松は江州燈籠と北比良は家の基礎石等
石の切り出し方にも特徴があったようで、八屋戸も守山石の産地でも有名で
ありました。木戸は石の産地としても知られ、江戸時代初期の「毛吹草」にも
名産の一つに木戸石が出てきます。比良湊からは、対岸の草津などを含め
舟で運ばれたのでしょう。その名残として、石場という名前が今も残っています。
http://ameblo.jp/kokusan-shiga/entry-12059160242.html
その一つ、南小松八幡神社の狛犬は、明治15年に雌(右)、明治 17 年に雄(左)
が作られ、県下では一番大きいといわれています。体長180センチ弱ですが、
そのたてがみや大きな眼が印象的です。
http://shigajinja.shiga-saku.net/e953628.html
http://kanjiruhira.org/category/%E3%81%8B%E3%82%93%E3%81%98%E3%82%8B%E6%AF%94%
E8%89%AF2013/
「滋賀郡北部(旧志賀町域)の石工たち」の記述があります。
明治十三年(1880)にまとめられた『滋賀県物産誌』に
は、県内の各町村における農・工・商の軒数や特産物など
が記録されている?。明治時代の資料であるとはいえ、産
業革命によって生産流通体制に大きな変化が生じる以前の
記録であり、江戸時代後期の様相を類推する手がかりにな
るものである。ただし、『滋賀県物産誌』の記述は、たと
えば長浜町のような戸数の多い町については「百般ノ工業
ヲナセリ」と「工」の業種の内訳がまったく不明な場合も
あって、滋賀県内の石工を網羅的に記録している訳ではな
い点には留意しておく必要がある。
『滋賀県物産誌』の石工に関する記述の中で特筆すべき
は、滋賀郡北部の状況である。この地域では「木戸村」の
項に特産物として「石燈籠」「石塔」などが挙げられてい
るなど、石工の分布密度は他地域に比べて圧倒的である。
木戸村・北比良村では戸数の中において「工」の占める比
率も高く、明治時代初めにおける滋賀県の石工の分布状況
として、この地域が特筆されるべき状況であったことは疑
いない。
江戸時代の石造物の刻銘等の資料を見てみても、当該地
域の優位性を窺い知ることができる。管見に触れた資料を
表1に記したが、その中で比較的よく知られている資料と
して、『雲根志』などを著した木内石亭が郷里の大津市幸
神社に、文化二年(1805)に奉納した石燈籠の「荒川村石
工 今井丈左衛門」という刻銘がある。
滋賀郡から琵琶湖を隔てた湖東地域においても、東近江
市五個荘川並町の観音正寺への登山口に建てられている常
夜燈に「石工 南比良 孫吉」という刻銘があり、「享保
二十乙卯歳(1735)正月」という紀年は、近江における石
工銘資料としては、比較的早い段階のものである。この
「孫吉」は、享保十五年(1730)に八幡堀の石垣が築き直
された際の施工業者としても「石屋比良ノ孫吉」として名
前が見える?。また、『近江神崎郡志稿』には、寛政五年
(1793)に滋賀郡南比良村の「石や七右衛門」が、東近江
市五個荘金堂町の大城神社の石鳥居再建を請け負ったこと
が記録されている?。
湖北地域でも、安永十年(1781)に「志賀郡荒河村 石
屋 嘉右衛門」が長浜市早崎所在の竹生島一の鳥居の注文
を受けたことが、竹生島宝厳寺文書から確認できる?。な
お、居住地が明示されていない刻銘資料であるが、野洲市
三上山中腹の妙見宮跡地に残る文化六年(1809)建立の石
燈籠に刻銘のある「石工 志賀郡 嘉右衛門」や、大津市
建部大社の文政九年(1826)建立の石燈籠に刻銘された「石
工 嘉右衛門」も、同一人物もしくはその家系に連なる石
工である可能性がある。
また、明治時代に下る資料では、野洲市永原の朝鮮人街
道沿いにある「明治十三年(1880)九月」建立の大神宮常
夜燈に「製造人 西江州木戸村 仁科小兵ヱ」と刻銘され
た事例などが挙げられる。
これらの資料から、少なくとも江戸時代中期以降には、
滋賀郡北部は石造物の製作において近江を代表する存在で
あり、石鳥居のような大規模な製品を中心に、琵琶湖を隔
てた遠隔地の村々からも、この地域の石工に発注すること
が多かったものと考えられるのである。
なお、江戸時代に東海道の京・大津間に敷設された車石
については、文化二年(1805)の工事に際して、主として
木戸石が使用され、これにかかわった人物として「南小松
村治郎吉」と「木戸村嘉左衛門」が連名で石運送に関する
請状を提出したことが紹介されている?。また、日野町大
窪に所在する南山王日枝神社には、豪商として著名な「京
都 中井良祐光武季子 中井正治右門橘武成」が寄進した
「文化十二年(1815)乙亥三月建」の石燈籠に「斯奇石所
出江州志賀郡南舩路村獲之以造 京都石工近江屋久兵衛」
と刻まれた例もあり、京都の石工が滋賀郡北部で石材を得
たケースがあったことが分かる。
以上のように、滋賀郡北部は「木戸石」に代表される良
質な花崗岩産地として、近世における石造物の一大産地だ
ったのである。(2009年3月大津市域における近世の
石工たち 田井中洋介 作より)

この地域は、花崗岩が中心の地域、ただ同じ花崗岩でも様々な種類があります。
司馬遼太郎の湖西の道で、北小松の古びた石積みの波防ぎに多いに惹かれたと
いうのも面白いです。古地図にも守山のしし垣の場所が示されており、この
地域と石の文化は切り離せないものです。
百間堤、荒川堤防などの大きな石造りの遺構はありますが、湧水を流すための
三面石組水路、しし垣、家々にある石灯篭などをゆっくりと巡ることも出来ます。
八屋戸、大物、南小松などの集落をゆっくりと散策すると彼方此方で様々な
石の姿に会えます。
百間堤は当然として、しし垣が地域を囲んでいる(荒川)、神社社殿の下の石の土台、
北小松のかわと、各地域での石積みの水路、家々にある灯篭、棚田の石積み、
湖岸の防波堤、石の三面水路など、これからはこれらの石造りのものを調べ、その背景
や物語を知ることが重要と思います。



9)比良の麓の里
画家、陶芸家、木造作家など多くの移住者がいます。このような作家さんたちと
木洩れ日の下でゆっくりと話しが出来ます。

http://ohminet.shiga-saku.net/e1159241.html
その冒頭の記述、「大津市の北に位置する比良は、琵琶湖と比良山系にはさまれ、
人々の暮らしと自然が融合した地域である。また、古代から交通の要衝でもあり、
多くの古墳や城跡が点在もする歴史や文化が息づいている地域でもある。
そのような中に、先祖伝来からこの地に暮らしその伝統や田園を守り続けてきた人、
この地に魅せられ移住してきた人、ギャラリー・工房を構え創作活動する人など
様々な人々が思い思いの暮らし方で住んでいる。」

10)八幡神社
南小松の山手にあり、京都の石清水八幡宮と同じ時代に建てられたとされます。
木村新太郎氏の古文書によれば、六十三代天皇冷泉院の時代に当地の夜民牧右馬大師
と言うものが八幡宮の霊夢を見たとのこと。そのお告げでは「我、機縁によって
この地に棲まんと欲す」と語り、浜辺に珠を埋められる。大師が直ぐに目を覚まし
夢に出た浜辺に向うと大光が現れ、夢のとおり聖像があり、水中に飛び込み
引き上げ、この場所に祠を建てて祀ったのが始まりです。
祭神は応神天皇です。
創祀年代は不明ですが、古来、南小松の産土神であり、往古より日吉大神と
白鬚大神の両神使が往復ごとに当社の林中にて休憩したと云われ、当社と
日吉・白鬚三神の幽契のある所と畏敬されています。
春の祭礼(四月下旬)には、神輿をお旅所まで担ぎ、野村太鼓奉納や子供神輿
が出ます。また、この辺りは野村と呼ばれ、特に自家栽培のお茶が美味しいようです。
八朔祭(9月1日)が行われ、夜7時ごろからは奉納相撲が開催されます。
八幡神社の狛犬は、明治15年に雌(右)、明治 17 年に雄(左)(名工中野甚八作)
が作られ、県下では一番大きいといわれています。体長180センチ弱ですが、
左右違う、そのたてがみや大きな眼が印象的です。
また、神社の横を流れる水は裏の念仏山の湧水を引き入れたものです。
http://shigajinja.shiga-saku.net/e953628.html
http://nishioumi.ct-net.com/99-09.shtml
途中には,国道を渡る形で天井川、家棟(かとう、ともいう)川があります。
http://toutan1999.blog72.fc2.com/blog-entry-89.html?m2=form

11)弁天神社
八幡神社から山手に歩いて15分ほどの山裾にあります。起源は弁財天が南小松
大仙寺開基の守護神として祀られた事によります。その後、織田信長の比叡山攻め
によって荒廃しましたが、明治43年8月に現在の地に祀られました。
入り口には石の蛇があり、静寂の中に神々しさが漂います。地元では、「みーさん」
の愛称で呼ばれています。この裏には滝行の場所やモリアオガエルの生息地
ともなっています。さらに、境内には、白光大神の社もあります。
そこを更に登ると両脇から湧水が染み出し、昔は池があったと言います。
更にそこから3百メートルほどの念仏山の頂上を目指すとやや勾配の厳しい道も
ありますが、近江舞子の内湖や八幡山が遠望できます。

12)白髪神社の道標
古来白鬚神社への信仰は厚く、京都から遙か遠い当社まで数多くの都人たちも参拝
されました。その人たちを導くための道標が、街道の随所に立てられていました。
現在その存在が確認されているのは、7箇所(すべて大津市)です。
・大津市八屋戸(守山)  JR湖西線「蓬莱」駅下の湖岸通り
・大津市木戸       木戸公民館上の道を少し北へ入ったところ
・大津市大物       大谷川北の三叉路国道の東側
旧志賀町では、4箇所です。
建てられた年代は天保7年で、どの道標も表に「白鬚神社大明神」とその下に距離
(土に埋まって見えないものが多い)、左側面に「京都寿永講」の銘、右側面に
建てられた「天保七年」が刻まれています。
二百数十年の歳月を経て、すでに散逸してしまったものもあろうと思われますが、
ここに残されている道標は、すべて地元の方の温かい真心によって今日まで受け
継がれてきたものです。その最後の道標が八幡神社の参道の手前にあります。
http://shirahigejinja.com/douhyou.html
http://kaidouarukitabi.com/map/rekisi/nisioomi/nisioomimap1.html

13)観世菩薩堂と一本杉
念仏山の麓、南千堂の一角に樹齢何百年の一本杉があります。その根元にあります
観世音菩薩は、昔洪水に流されてきたのを先祖の人々が拾い、この地に祀った
と言われてます。日照り続きの時はこの観音様に雨乞いをしたといわれています。
観音様は、いまも古木のお姿で祀られ、毎年お盆には有志による般若心経とともに
昔をしのんでいます。一本杉は10メートル以上の大木であり、その裏には
人が入れるほどの木穴があります。古来より天狗の話もあり、昔話としても
色々と言われています。また、この周辺は大きな杉が弥生時代からあったとのことで、
近くの南小松公民館には、その切り株が残っています。この切り株で
数珠を作り、地域の人に配ったと言われています。

14)御霊社
この社には幾つかの説があります。
・菅原道真公の御霊社
道真公は仏生寺野北のヤブの近くに住んでいたとも言われ、その死後一族が
御霊社として祀った。無実の罪で太宰府へ左遷された道真公は、それでも天皇
への敬愛と京への強い想いを抱きながら失意と困窮の中、死去しました。
その死後、道真公の霊が怨霊となり、その一つが比良の地まで飛来し、それを
祀ったのがこの社であると言われています。
・堪慶阿じゃりの御霊
比良には、古来より比良の神が存在し、天智天皇(668~671)時代には、
比良の神を守護する寺として景勝、妙法、仏性の三箇精舎が創設されました。
これらの比良の山寺を舞台に活躍した慈覚大師の弟子堪慶阿じゃりの御霊を
比良に祀った。これが南は景勝寺勝野の還来神、北は仏生寺の御霊神と
言われています。弘安3年(1280)に作られた比良荘絵図に描かれている
御霊神は現在の今在家辺りと見られるが,尺度の精度も不明であり、
また久安4年(1148)、御霊社は比良郷柊原に戻されたとの記述もあり、
正確な位置は不明です。北比良の船橋家には御霊社の掛け軸が残されており、
毎年天満宮の例大祭の日には掛け軸が出されます。当日の朝には当主が
神供物を供え、紋付に紙草履で御霊社へ参拝するが、その場所は秘密に
されています。御霊社への参拝が済んだ後、宮司以下祭りに関係するモノは
すべて船橋家で御神酒を頂いて御輿渡御が行われます。

15)比良とぴあ(源泉風呂)
泉質は単純温泉弱アルカリ泉で、効能は神経痛、筋肉痛、五十肩などに効きます。
比良山でのハイキングで疲れた後、夏の水泳で楽しんだ後に、
スノボ・スキー帰りに、温泉でゆっくりリラックスできます。
http://www.hiratopia.com/

16)雄松崎の白汀と内湖の景観
雄松崎の松林は、樹齢100年を超える古木などが1,500~1,600本もあり、比良山系
を背景に白砂青松が続く眺めが素晴らしく、風光明媚な地として知られます。
また、雄松崎は琵琶湖八景(「涼風雄松崎の白汀)の1つに数えられるほど美しい
砂浜で、全長約3kmの白砂青松の浜は、夏には水泳やウィンドサーフィンなどで賑わい
ます。
現在は一部マツクイムシの被害を受けていますが、地元の懸命な防除によって
景観が保護されています。
「松は緑に 砂白き 雄松が里の 乙女子は 
赤い椿の森蔭に はかない恋に 泣くとかや
(「琵琶湖周航の歌」より)」
http://www.pref.shiga.lg.jp/kokoro/area_otsu/details/1198_details.html

比良周辺は、神社仏閣が多くあるが、
旧志賀町内の寺院宗派には、天台真盛宗、浄土宗、浄土真宗、臨済宗、日蓮宗
などがある。いずれも寺院の規模は小さく、本堂と門、鐘楼、庫裏などの付属
建築物で構成される。

主な寺院建築には次のようなものがある。
⑪西福寺(浄土真宗 北比良)
⑫福田寺(浄土真宗 北比良)
 比良湊の近くにあり、蓮如が北陸に向かうためにここに立ち寄った時に渡った橋を
 蓮如橋と呼ぶ。近くには、比良観音堂があり、天満天神の本地仏十一面観音がある。

⑬本立寺(真宗 南比良)
真宗大谷派東本願寺の末寺で、山号は法持山本立寺と号す。
承和元年(834)天台宗の彗達により創始され、文徳天皇の快癒を喜び、法華経の
「我本立誓願今者己満足」から寺号を本立寺とした。その後、蓮如の教化により、
真宗に転承した。顕如上人より親鸞の「三狭間の真影」を賜り比良山中から現在の
地に移り、500年以上を受け継いでいる。
本寺が湖畔に移ったときに残された薬200体の地蔵があるが、その地蔵跡もある。

⑭超専寺(浄土真宗 大物)
真宗東本願寺の末寺でご本尊は阿弥陀如来、山号は念仏山宝積院超専寺と号す。
三浦荒治郎義忠入道の創始である。
親鸞ゆかりの旧跡であり、上人が越後に流罪になったときにこの地の三浦義忠
が上人の盛徳に感じ入り、弟子となる事をねがった。
この時、「咲きぬべき時こそきたれ梅の花、雲も氷もとけてそのまま」と詠まれ
彼に明空と言う法名を与えた。その後、覚如上人や蓮如上人がこの寺を参詣された。
二十四輩の旧跡でもある。「二十四輩順拝図会」にもある。
この上には観喜寺薬師堂がある。

⑮長栄寺(日蓮宗 大物)
日蓮宗本長寺に属している。元和年に創立された。感応院日安(この地の代官小野
宗左衛門といわれる)によって創立された。

⑯萬福寺(真宗 荒川)
真宗大谷派東本願寺の末寺でご本尊は阿弥陀如来、山号は宝積山萬福寺と号す。

⑰西方寺(浄土宗 木戸)
浄土宗鎮西派知恩院の末寺であり、ご本尊は聖観世音菩薩、山号を比良山西方寺
と号す。
慶雲4年(707)行基菩薩の創立で承知5年(838)静安法師を開祖としている。
古来は比良山嶺経塚谷にあったが、比叡山焼き討ちによって木戸の今の地に移設した。
天正12年(1584)に佐野下総守により再興した。

⑱安養寺(浄土宗 木戸)
浄土宗鎮西派知恩院の末寺であり、ご本尊は阿弥陀如来、山号を宝国山安養寺と号す。
天正12年(1584)に佐野下総守により再興し幻寒誉上人を中興として
現在に至る。

⑲正覚寺(真宗 木戸)
真宗大谷派東本願寺の末寺でご本尊は阿弥陀如来、山号は法力山正覚寺と号す。
創始年はふめいであるが、覚春を開基として現在に至ります。

⑳光明寺(浄土宗 北船路)
江戸時代は京都誓願寺の末寺であったが、現在は浄土宗鎮西派の末寺である。
安政年間に再建された。
薬師如来のある薬師堂がある。近くに百数体のお地蔵様がある。

21)西福寺(天台真盛宗 守山)
天台真盛宗西教寺の末寺でご本尊は阿弥陀如来、天徳山西福寺と号す。
天正5年(1577)3月創建で僧真源を開祖としている。


町内の神社はいずれも規模が小さく、本殿と鳥居、拝殿、御輿庫、
などの付属建物で構成される。とくに、拝殿は三間もしくは二間
の正方形平面で入母屋造り、桧皮葺(ひわだぶき)である。
なお、補足に「びわ湖街道物語」(西近江路の自然と歴史を歩く)を活用。
主な神社建築は、
①樹下神社(北小松)
十禅師社と天満社の二棟。
祭神は、鴨玉依姫命カモノタマヨリヒメノミコト
②八幡神社(南小松)
祭神は、応神天皇。境内には日本一の狛犬
なお、少し山側には「弁天神社」(大仙寺開基の守護神)がある。
少し下ると、観世音菩薩と一本杉、御霊社がある。
③天満神社(北比良)
祭神は、菅原道真公。比良天満宮でもあり、京都北天満宮よりも古い。
また、比良天神宮として北比良の氏神となっている。祭神は天大戸道尊、
大戸辺尊の二神。
④天満神社お旅所(北比良)
⑤樹下神社(南比良)
十禅師神社と妙義神社がある。妙義神社は比良三千坊と称され、この地が山岳信仰の
中心地の1つであった事を偲ばせる神社。
⑥湯島神社(荒川)
祭神は、市杵島姫命イチキシマヒメノミコト
⑦樹下神社(木戸)
樹下、宇佐宮、地主の三棟がある。
祭神は、玉依姫命タマヨリヒメノミコト
十禅師権現社と称し、コノモトさんとも呼ばれていた。五か村の氏神。
大行事社の本尊で、石造毘沙門天坐像がある。
⑧若宮神社(守山)
近くには、金毘羅神社が山麓にある。
⑨八所神社(北船路)
ご神体を預かり日吉神社再建後、日吉大社例祭の4月に祭儀がある。
⑩八所神社(南船路)
祭神は、八所大神、住吉大神

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