2016年1月30日土曜日

蓬莱から志賀へ

蓬莱から志賀
1)八所神社(大津市北船路)
祭神は、大己貴命、 白山菊理姫命の二座です。
JR湖西線蓬莱駅下車直ぐにあります。国道161号線が鳥居の前を走っています。
八所神社(南舟路)の北方に社地を接しています。
鳥居にかかる大きな注連縄が目に入るでしょう。
織田信長が比叡山を焼き討ちした折り、日吉神社の禰宜祝部行丸が類焼を避けて
日吉七社の御神体をこの地に遷し日吉神社再興までこの地で奉祀したと伝えています。
日吉大社七座と地主神白山菊理姫神一座とを併せて八所神社と称するとしています。
日吉大社が再興されるまで日吉祭りはこの八所神社で実施されたため、現在、日吉山王
と書かれた菊入りの高張りがあり、五か祭には使用されます。
祝部行丸の墓もあります。
更には、周辺の守山には同じく祝部行丸の墓や愛宕さんの石灯篭、山ノ神を祀る
石像などが点在します。
天正6年(1578)の再建とされました。例祭は、5月5日で木戸の樹下神社の例祭と
あわして行われ、湖岸を朝早く木戸の樹下神社に渡御し、夕方還御します。
拝殿は、間口二間 奥行二間 入母屋造りで、柱間を桁裄三間、梁間二間とした
木割の太い建物です。
http://japan-geographic.tv/shiga/otsu-hatsushojinja.html


2)八所神社(大津市南船路321)
祭神は八所大神 住吉大神の二座です。
JR湖西線蓬莱駅の近くで、北船路の八所神社鳥居の左側にある参道を進みます。
社殿の西側に、タブイキの優先する立派な林が広がり、林内には胸高周囲4m以上
のタボノキ・コジイの巨木が多数生育します。拝殿が中央に鎮座しています。
創祀年代不詳ですが、神護景雲2年(768)に良弁(ろうべん 689~773)によって
創建されたと伝えられています。良弁は、奈良時代の学僧として名高いが、南船路
辺りの出身とする伝承があります。
斎明天皇5年比良行幸の際、当社にも臨幸ありと伝えられます。
又良弁僧正と深い関係があり、天平宝字6年(762)社宇を改造し社側に一字一石経塚
を建て(此経塚現存す)法楽を修しました。又足利将軍が安産の神として崇め、
和邇金蔵坊が郷の産土神と崇敬し社領若干を寄進されたともあります。
拝殿は、間口二間 奥行二間 入母屋造りです。

中には、伝良弁納経の石塔があり、良弁が書いた経文を納めたものと伝えられます。
層塔の残欠で、厚さ6~7cmの自然石の上に三層の笠を置き、その上に宝珠形の石
をのせ、良弁が一石一字の法華経を納めた塚であると伝えます。高さは67cm。
例祭は、5月5日、神輿二基が湖岸の御旅所へ渡御します。
    
良弁(689~773)については、奈良時代に活躍した僧。石山寺の建立に
尽力しました。出自について諸説ありますが、良弁は南船路辺りの出身とする伝承
があり、また近江国志賀里の百済氏とする説もあります。
また、良弁の古宅といわれるものが南船路にあります。現在の天川彦右衛門氏の
宅地がそうだと言われています。
残された伝承によると、良弁が2歳の頃、大きな鷹が良弁をつかんで飛び去り、
行方不明になり、奈良の春日社で義淵(ぎえん)という僧が鷹につかまった
子どもを見つけ自分の弟子とし、「良弁」と名づけ大切に育てたとのことです。
その後、良弁は成長して僧正にまでなり、母親は奈良まで出向き、30数年ぶりに親子の
再会がかないました。良弁の師匠の義淵は、飛鳥の岡寺の創健者と知られる高僧で、
弟子に行基や玄昉(げんぼう)などの著名人が多くいます。良弁は聖武天皇や
光明皇后とのつながりも深く、東大寺の初代別当にもなっています。
http://japan-geographic.tv/shiga/otsu-hatsushojinja.html

また、南船路には、山側に円墳横穴式石室の古墳がありましたが、入り口が
塞がれ、見ることが出来ません。

3)蓬莱駅から松の浦までの湖岸の道
琵琶湖の直ぐ近くを通り、砂浜や比良山の遠景を見ながらのノンビリと里山と琵琶湖の
四季を勧賞できます。

4)志賀清林の碑
木戸村出身の奈良時代の力士、志賀清林を記念して作られたものです。志賀清林
(生没年不詳、8世紀頃の人)を記念して作られた相撲公園が、国道161号線沿いにある
志賀清林相撲公園です。園内には清林を讃える記念碑があり、昭和39年(1964)当時の
横綱栃ノ海(とちのうみ)の土俵入りによって方屋開(かたやびら)きが
行われました。
志賀清林は、奈良時代の滋賀郡木戸村出身の力士で最手役(今の横綱)として活躍する
とともに聖武帝の時、御行事(今の行司・日本で最初)に召しかかえられ、
相撲四十八手の基礎を創案した功績者です。
http://www.biwako-visitors.jp/spot/detail/2853

5)樹下神社(木戸)
御祭神は、玉依姫命タマヨリヒメノミコトです。
創祀年代不詳であるが、木戸城主佐野左衛門尉豊賢の創建と伝えられます。
永享元年社地を除地とせられ、爾来世々木戸城主の崇敬が篤く、木戸庄
(比良ノ本庄木戸庄)五ヶ村の氏神として崇敬されてきました。ところが
元亀二年織田信長の比叡山焼打の累を受け、翌三年社殿が焼失しました。
当時織田軍に追われて山中に遁世していた木戸城主佐野十乗坊秀方が社頭
の荒廃を痛憂して、天正六年社殿を再造し、坂本の日吉山王より樹下大神を
十禅師権現として再勧請して、郷内安穏貴賤豊楽を祈願せられました。
日吉山王の分霊社で、明治初年までは十禅師権現社と称され、コノモトさん
とも呼ばれていました。しかし類推するところ、古記録に正平三年に創立と
あるのは、日吉山王を勧請した年代で、それ以前には古代より比良神を産土神
として奉斎して来たもので、その云い伝えや文献が多く残っている。
当社境内の峰神社は祭神が比良神で、奥宮が比良山頂にあったもので今も
「峰さん」「峰権現さん」と崇敬されている。この比良神は古く比良三系を
神体山として周辺の住民が産土神として仰いで来た神であるが、この比良山
に佛教が入って来ると、宗教界に大きな位置をしめ、南都の佛教が入ると、
東大寺縁起に比良神が重要な役割をもって現れ、続いて比叡山延暦寺の勢力
が南都寺院を圧迫して入って来ると、比良神も北端に追われて白鬚明神が
比良神であると縁起に語られ、地元民の比良権現信仰が白山権現にすり
替えられるのである。(比良神は貞観七年に従四位下の神階を贈られた)
当社の例祭には五基の神輿による勇壮な神幸祭があり、庄内五部落の立会の
古式祭で古くより五箇祭と称され、例年5月5日に開催され、北船路の
八所神社の神輿とあわせ五基の神輿が湖岸の御旅所へ渡御する湖西地方
で有名な祭です。
本殿は、一間社流造 間口一間 奥行一間の造りです。
http://www.shiga-jinjacho.jp/ycBBS/Board.cgi/02_jinja_db/db/ycDB_02jinja-pc-de
tail.html?mode:view=1&view:oid=126


また、この樹下神社より南へ二百メートル行った所に大行事社(日吉山王二十一社
の内の一社)の本尊である「石造毘沙門天坐像」があります。
像はやや不鮮明となっていますが、花崗岩の表面に、甲冑に身を固め、右手に宝剣、
左手に宝塔を持ち、半肉彫に刻出されています。

昔の木戸樹下神社跡には、木元神社がある。
祭神は、木花咲也姫命であり、昔の木戸部落はこの神社を中心に生活していた。
天正5年12月に遷座ありとされて、そこにこの神社が建てられた。

6)毘沙門天(木戸)
比良山が荒廃した時代、毘沙門天が道端に棄てられていた。村人が祠を建て、
現在に至っている。北の方位を守る神として祀られ、地域の氏神とともに
ある。祭日は毎年1月の寅の日となっている。

7)寺屋敷遺跡(木戸)
打見山にあり、昔の比良三千坊の寺院の1つといわれます。この寺跡に
大正12年ごろ不動尊が安置されました。

なお、木戸には「臼摺りうた」と言う、ちょっと小粋な歌があります。
東山から出やしゃる月は
さんしゃぐるまの花のような
高い山には霞がかかる
わたしゃあなたに気がかかる
あなた何処行く手に豆のせて
好きなとのごの年とりに

8)打見山遺跡
打見山山頂にあり、昔は、経塚谷といわれ、比良三千坊の寺院の1つといわれます。
西方寺野遺跡と言われ、僧が読経様に使ったとされる巨石があります。現在でも
西方寺で法要があるときには、法要札をここに納めています。木戸の観音講衆に
よって護持されています。

9)法華塔と地蔵菩薩
箱崎文応阿じゃ梨により蓬莱山山頂に建立安置されました。比良山中には七十体
ほど祀られています。これは箱崎阿じゃ梨開祖の天台比良修験道の霊場であり
回峰行者道の要所に祀られています。

7)比良天満宮(北比良)と樹下神社(南比良)
JR比良駅から徒歩、約800m。湖畔から真直ぐに比良山に続く道は、山麓で
天満宮に当たり、その背後には宮山(早坂山)がそびえています。
国道161号線に面して建つ神社で境界もなく、参道が深い森の中へ導いていきます。
参道入口に樹齢300年の大きな神木・スジダイがあり、その左参道が樹下神社、
右の鳥居が天満宮です。境内に入ると二社の社殿がほぼ平行に並び建っています。
両社が並び建つ経緯は以下によります。
比良庄は南比良村と北比良村の二ケ村でしたが、この二ケ村は南北朝期に分村し
近世初期の村切りで全く別々の村になりました。比良庄の庄鎮守社十禅師社・天満宮は
そのまま両村共同の氏神として残り、両社はそれぞれ十禅師社が南比良村の、天満宮
は北比良村の支配となり、両社の神格は対等でありまた村格も対等であったため
両社両村間の対立が激しかったとの事です。
天満宮の祭礼は、北比良村が天満宮の御輿、南比良が十禅師社の御輿を担ぎ、神事の
執行は、両村の社役が交互で務めていました。しかし、この社役が着用する装束を
めぐり、相論が起こり、繰り返し起こり、二つの村が、一つの社を維持してゆくことは
困難として、明治5年(1872)に両社を分離し、それぞれの氏神とすることが
定められた。なお、比良天満宮の祭神は、菅原道真です。鳥居の前左右には、
天明4年(1784)建立の銘文が入った燈籠が建っていますし、樹木が囲む参道を進むと
「えま堂」や社務所、牛像に出合います。えま堂には神将形立像が安置されています。
例祭は4月25日小松地区の例祭と同時に行われ、一基の神輿は湖岸の御旅所へ
渡岸します。
http://japan-geographic.tv/shiga/otsu-hira-tenmangu.html
http://www.shiga-bunkazai.jp/%E6%96%B0%E8%BF%91%E6%B1%9F%E5%90%8D%E6%89%80%E5%
9C%96%E4%BC%9A%E3%80%80%E7%AC%AC195%E5%9B%9E%E3%80%80%E7%82%B9%E3%81%A8%E7%82%
B9%E3%82%92%E7%B5%90%E3%81%B6%E3%80%80%EF%BC%8D%E5%A4%A7%E6%B4%A5/

8)田園の広がりと琵琶湖の眺望を味わう
琵琶湖バレイへの山麓駅からロープウェイに揺られながら標高1100メートルの
山頂へ向います。山頂には、30万株の水仙や高山で咲くしゃくなげを勧賞できます。
冬はスキーも出来ますが、四季折々の比良の山並の変化や琵琶湖の変化を楽しむのも
良いのではないでしょうか。
渓流沿いを歩き、森の奥にある滝を目指す夫婦滝コースや、びわ湖の絶景を眺めながら
尾根道を歩き6,000年の歴史と伝説をもつ古池を目指す小女郎ヶ池コース、森林浴と
絶景・小鳥のハミングに癒されながら歩く比良岳コースなど場外トレッキング
も豊富です。
http://www.biwako-valley.com/index_02.html

また、文学でも「比良のしゃくなげ(井上靖)詩集北国」がこの地域の
情景を描き出しています。
「むかし写真画報と言う雑誌で、比良のしゃくなげの写真を見たことがある。
そこははるか眼下に鏡のような湖面の一部が望まれる北比良山系の頂で、
あの香り高く白い高山植物の群落が、その急峻な斜面を美しくおおっていた。
その写真を見たとき、私はいつか自分が、人の世の生活の疲労と悲しみを
リュックいっぱいに詰め、まなかいに立つ比良の稜線を仰ぎながら、
湖畔の小さな軽便鉄道(若江鉄道だが既に廃線となっています)にゆられ、
この美しい山嶺の一角に辿りつく日があるであろう事を、ひそかに心に
期して疑わなかった。絶望と孤独の日、必ずや自分はこの山に登るであろうと。
それから恐らく10年になるだろうが、私はいまだに比良のしゃくなげを
知らない。忘れていたわけではない。年々歳々、その高い峯の白い花を瞼に
描く機会は私に多くなっている。ただあの比良の峯の頂き、香り高い花の群落
のもとで、星に顔を向けて眠る己が眠りを想うと、その時の自分の姿の
持つ、幸とか不幸とかに無縁な、ひたすらなる悲しみのようなものに触れると、
なぜか、下界のいかなる絶望も、いかなる孤独も、なお猥雑なくだらなぬものに
思えてくるのであった。」。
更には,山麓に棚田(八屋戸北船路)があり、ここからの琵琶湖の眺望も
素晴らしいです。
http://www.soc.ryukoku.ac.jp/~wakita/komeken/?x=cat:1

8)光明寺、薬師堂(北船路)
江戸時代には京都誓願寺の末寺であったが、現在は浄土宗鎮西派の末寺で、
ご本尊は阿弥陀如来です。安政年間(1854~1859)に再建されました。
遍照山光明時といい、浄土宗の「光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨」
から来ています。幻誉信窮上人によって開基されました。木戸の安養寺や和邇の
西岸寺も開かれました。
寺内には、薬師堂があります。本尊は僧最澄の作といわれる薬師如来があります。
楠で彫られ。真っ黒な肌に眉間にはきらりと光るものがあり、右手は天に、左手には
薬壷を持っている立像です。毎月地元民のお勤めがあります。
蓬莱の駅から北船路の登山道を二キロほど上ると、薬師滝もありますが、当初は
難を逃れるため、この仏像を滝の裏に隠したそうです。

9)百体のおじぞうさま
造成中に出てきた約百体ほどのお地蔵様が並んでいます。琵琶湖が望める静かな
場所で一休みするのも楽しみです。

10)金毘羅神社(守山)
今から200年ほど前に農家の老婦が柴刈をしていると金毘羅さんの御神符が
ひらりと落ちてきてこの地に祀って欲しいとのお告げがあり、村人はこの景勝の
場所に祀った。当時は湊も活気があり、漁師や船頭が海の守り神として信仰し、
毎月の例祭に加え、百年祭、百五十年祭も行われた。昔は、大祭の日には猿の
飾りをつるした大きな幟が立てられた。三月の大祭には、地元の人がお神酒や
御餅をもって参詣したといます。麓には金毘羅神社の石碑もあります。

11)こうもり穴
農業用水を集めるために作られたトンネルですが、ある人が木戸川の水を守山へ
引き込もうと考えたが、完成せずに終わったとのことです。取り入れ口は5つ
あったといわれているが、今は1つのみ残っています。
JR蓬莱駅から県道558号を北に進み、八屋戸の交差点を左折して山手(西側)の守山
集落に入ります。玄関先に守山石(蓬莱産付近でのみ産出する縞模様を持つチャート)
の庭石が据えられた民家が並ぶ細い道路をぬけ、やがて蓬莱山への登山道となる車道を
進みます。集落を抜けると、車道は山腹を横断する湖西道路の下をくぐり抜け、山腹の
山荘住宅に向かう道と山頂に向かう山道に分かれます。この山道の右手に「こうもり穴
」とよばれるトンネルがあります。湖西道路の建設工事に先立ち、昭和59年(1984)に
周辺の発掘調査が行われました(滋賀県教育委員会・財団法人滋賀県文化財保護協会
1986『国道161号線バイパス・湖西道路関係遺跡調査報告Ⅲ 木戸・荒川坊遺跡 
こうもり穴遺跡』)。山道にそって斜面をさかのぼるように、長さ約310mのトンネル
が見つかりました。そのうちの約245m分は完全なトンネルで、ひと1人がかろうじて
立って歩けるほどの幅と高さです。トンネルの内部は所々にロウソクを立てたと
思われる穴や窪みもありますが、土器などの人工遺物は見つかっていません。
地元の住民もこの「こうもり穴」の存在は知っていましたが、いつ掘られたのか、そ
の由来や何のためトンネルなのか、地元の古文書にも残されていませんでした。現在で
は、山腹を貫く長さ300m以上のこの謎のトンネルは、江戸時代終わり頃に水不足を解
消するために掘られた隧道と推定されています。『志賀町むかし話』には、「水不足の
守山の、水探し事業のために掘られたもの」と記されています。平成4年(1992)頃まで
は中を歩くことができたようですが、現在ではトンネル入口(西側)は埋まってしまっ
たようです。唯一、トンネル出口(東側)の痕跡が、湖西道路の下に残されています。

12)扇の間
守山の子字野山、海抜600メートル付近の尾根の水平部に『扇の間』があった
と言われています。
野り子川の砂防ダム堰堤を横切り棺の植林地帯を徒歩で登り、ジグザグの整備
された林道かつづき、北斜面のためキノコが多い。秋も深まり、サルノコシカケ類、
カワラタケ、ニカワタケ、クリタケ、ニガクリタケ。植物は、シャクナゲ、
ショウジョウバカマ、ヒカケシキミのつぼみ、イワカガミのピンクの花が美しい。
動物は、イノシシ、シカによる栓の皮矧ぎが激しく見られます。
場所は、窪地で水がたまっており、直ぐ横にこんもりと土をもったようを高地が
あります。その周囲に人工的にカットしたような角のある花崗岩の石塊がぐるっと
取囲むようにあります。ここに鐘廓があったと思われます。


12)百間堤
大物の山手、四ツ子川が谷間を抜けた所に、直進する流れを南に流すよう石積の
堤が築かれています。洪水ごとに何度も決壊した場所で、現在の石積は、嘉永5年
(1852)の洪水後、6年近い歳月を費やして完成したと伝えられます。
堤の上巾15m、長さ200mの堤です。
湖西道路志賀バイパスの下をくぐり抜けます。山手の別荘地帯には進まず、右折
して志賀バイパスの側道を高島市方向に進み、左折して山に向かう林道に入ります。
坂道をしばらく登ると突然左手に巨大な石塁群が姿を現します。
この石塁が四ツ子川の百間堤(ひゃっけんつつみ)です。
「大物区有文書」や『近江国滋賀郡誌』(宇野健一1979)・『志賀町むかし話』
(志賀町教育委員会1985)などによると、四ツ子川が嘉永5年(1852)7月22日卯刻
(現在の暦でいうと9月6日朝6時頃)に暴風雨で大規模に氾濫し、下流の田畑や
人家数戸が流失する被害が出ました。四ツ子川は集落の上側(西側)で左折して
流れているため、それまでも暴風雨や大雨でしばしば洪水を起こしていて、
下流の集落や田畑に被害をもたらしていました。そのため、住民は藩への上納米
の減額をたびたび役所に願い出ていました。そこで、当時大物村を治めていた
宮川藩(現在の長浜市宮司町に所在)の藩主堀田正誠は、水害防止のために一大
石積み工事を起こすことにしました。若狭国から石積み名人の「佐吉」を呼び寄せて
棟梁とし、人夫は近郷の百姓の男女に日当として男米1升、女米5合で出仕させました。
1m前後の巨石を用いて長さ百間(約180m、ただし実測では約200mあります)、
天場幅十間(約18m)、高さ五~三間(5.5~9m)の大堤を、5年8ヵ月の歳月を
かけて完成させました。
百間堤は崩壊することなく現在でも当時の姿をとどめ、その迫力には驚かされます。
また、下流の生活用水や水田の水源用に堤を横断して造られた水路は、石造建築の
強さと優しさが表れています。百間堤に続く下流部の堤は女堤(おなごつつみ)と
よばれ、女性でも運べる程度の石で造られています。
http://www.shiga-bunkazai.jp/%E6%96%B0%E8%BF%91%E6%B1%9F%E5%90%8D%E6%89%80%E5%
9C%96%E4%BC%9A%E3%80%80%E7%AC%AC170%E5%9B%9E/

13)中村淡水の墓
書家・詩人。近江湖西南比良の人。名は耕、字は興業、別号に飛鸞山樵。明治維新に
活躍し、奥羽県、若松県などで奉職した。滋賀県の地租改正にも尽力し、その後子女の
教育の必要性を感じ、京都に住し、63歳で没した。

14)荒川堤防と猪垣
この地域の猪垣は、昭和12年に修復されたものですが、獣害対策に加え水害、土石流
対策の役割もかねています。
http://blog.goo.ne.jp/kkkk_015/e/e9cc6a6b067df4c28362c41d51a85f32
しし垣ネットワーク
http://homepage3.nifty.com/takahasi_zemi/sisigaki/shishinetwork.html

15)湯島神社
荒川の大谷川を三キロほど遡ると、湯島の地に弁財天が祀られた社があります。
昔この地域は大谷川の氾濫があり、竹生島の宝厳寺から弁財天の分霊をいただき、
祀ったとされます。
また、この社には地域の貯水をまかなうほどの水が多く出ています。

15)昔の西近江路と道標
西近江路は大津の札の辻から穴太、和邇、木戸、小松、三尾(高島)へと続き、
海津から敦賀へ越える道があった。また、北陸と畿内を結ぶ交通の要路でもあり、
様々な人が行きかった。このための道標も多く残っています。近江の街道と言う
本にも、「道は、八屋戸守山の集落の手前で、左に入り右へ曲がるが、その角には
「左京大津」と刻まれた自然石の道標がある。」と記述されています。
主に神社、寺院、部落に入り口のありかを教え、白髪神社への道程を示すものも
特に多いようです。
木戸、守山、大物などに多く残っています。北小松楊梅の滝に向うための道標も
小松駅の近くに建っています。
・木戸  宿駅跡と石垣近くに常夜燈とともにあります。
・守山  旧街道の横に地蔵菩薩とともに道標があります。
・大物  旧街道横に二つほど残っています。
かつて近江の湖西地方を通っていた西近江路は別名北国海道と呼ばれている
そうですが、なぜ「街道」ではなく「海道」の字が使用されたのか。
『図説滋賀県の歴史』によりますと、「江戸時代の古絵図をはじめ街道筋に
散在する石造道標のほとんどに「北国海道」と刻まれているところから海の字
を用いている。」とあります。『近江の街道』でも、同じく石造道標の記載を
あげたうえで、「それだけこの道が、北国の海へのイメージが強かったので
あろう。」とあり、『図説近江の街道』でも同様の見解が示されています。
しかし、『近江の道標』には、「街道でなくて、海道という名前がついたのは、
北国の海をさす道か、あるいは、びわ湖に沿うてあるからか明確ではない。」
とあります。
http://kaidouarukitabi.com/rekisi/rekisi/nisioomi/nisioumi2.html
http://members.e-omi.ne.jp/eo2320539/5michishirube/5signpost.html

15)超専寺
浄土真宗本願寺派、親鸞聖人所縁のお寺。本堂は、天明年間に火災となったが、
直ぐに修復された。「二十四輩順拝図会」にもある。この上には観喜寺薬師堂がある。
http://yaokami.jp/1255331/

16)歓喜寺薬師堂(大物)
百間堤のある四ツ子川の谷をはさんだ西の尾根の中腹に、平安時代に最澄が開基
したと伝えられている歓喜寺(かんきじ)の薬師堂がひっそりとたたずんでいます。
ご本尊は薬師如来です。一時超専寺に安置されていたが、現在の地に遷座した。
毎年8月7日宵に薬師祭があり、23年ごとにご開帳法要が行われます。
お堂に向かって左手には斜面を切り開いて平地を造成し、石垣や堀切で区切られた
いくつかの郭や庭園跡が残されていて、繁栄した様子がうかがえます。
歓喜寺は、元亀3年(1572)の元亀争乱で焼失してしまいますが、文禄元年(1592)
に村人が薬師像を土中から見つけたため、薬師堂が建立されたとされ、今日に
至っています。歓喜寺遺跡は法蔵寺として残っています。
また、薬師堂の東側山頂には歓喜寺城跡も残されています。
http://www.shiga-bunkazai.jp/%E6%96%B0%E8%BF%91%E6%B1%9F%E5%90%8D%E6%89%80%E5%
9C%96%E4%BC%9A%E3%80%80%E7%AC%AC170%E5%9B%9E/

城跡については、志賀町史第4巻に記載があります。
17)木戸城跡
木戸の北、小谷にあり、鐘楼谷の名を残した鐘堂があり、時や非常時の知らせを
したといわれます。場所は木戸と荒川の中間の県営林のある場所と言われています。
東西にどれくらいの大きさであったか、不明ですが平城で荒川付近に砦もあった
とされます。砦は今は田畑になっており、山門の士、木戸十乗坊、木戸秀資などの
故居とも言われます。


18)比良城跡
比良城は北比良の森前に存在したと伝えられます。湖西地域を南北にはしる北国街道
がこの場所で折れ曲がっています。街道を挟み、樹下神社が隣接しています。在所の
古老にもこの場所に城があったとの伝承が残っています。北比良村誌によると
「元亀二辛未年九月織田信長公延暦寺を焼滅の挙木村の山上山下に之ある全寺の別院
より兵火蔓延して」とあり、この時期他の城郭と同様破滅したしたものであろう。

19)歓喜寺城跡
大物の集落より西の比良山の山中に天台宗の古刹天寧山歓喜寺跡があります。
今ではそこに薬師堂だけが残り、わずかに往時ここが寺であった事を偲ばせます。
歓喜寺城は比良山麓に営まれた比良三千坊の1つである天寧山歓喜寺跡の前面
尾根筋上に営まれた「土塁持ち結合型」平地城館です。
この遺構は三条のとてつもなく大きい深い堀切によって形成され、北側の中心主郭
はきり残された土塁を基に四周を囲郭し、この内側裾部や内側法面に石垣積みが
認められる南側の郭は北に低い土塁が残り、近世になって修復、改造がなされた
と思われます。また、背後、前面の歓喜寺山に山城が築かれており、L字状の土塁や
北東を除く三方には掘り切りなどが認められます。

20)荒川城跡
荒川城は荒川の城之本と言うところにあったとされます。この城に関しての
文献資料はほとんど見当たらないが、絵図が残っており、それには城之本の地域の中に
古城跡と書かれています。また、ここの城主が木戸十乗坊という記録があり、
同氏は木戸城の城主でもあり、木戸城の確定とともに確認をする必要があります。

21)木戸山城跡
現在の木戸センターより西北西の比良山中腹の尾根部分にあったとされます。
この地域は古くから大川谷に沿って西に向かい、木戸峠より葛川の木戸口や坊村
にいたる木戸越えの道が通り、このため、この城の役目は木戸越えの道の確保で
あったとも推測されます。城としては、堀切りを設け、東を除く三方に土塁を
築いていました。
しかし、この城も「元亀三年信長滅ぼす、諸氏山中に隠れる」とあり、その時に
破壊されたのかもしれません。


城跡としては以下のものがある。
④ダンダ坊城(北比良、山腹、林)
⑤田中坊城(北比良、湖岸、福田寺)
⑥比良城(比良、平地、宅地)
⑦南比良城(南比良、湖岸、宅地)
⑧野々口山城(南比良、山頂、林)
⑨歓喜寺城(大物、山腹、林)
大物の集落より西の比良山の山中に天台宗の古刹天寧山歓喜寺跡がある。今では
そこに薬師堂だけが残り、わずかに往時ここが寺であった事を偲ばせる。
歓喜寺城は比良山麓に営まれた比良三千坊の1つである天寧山歓喜寺跡の前面
尾根筋上に営まれた「土塁持ち結合型」平地城館である。
この遺構は三条のとてつもなく大きい深い堀切によって形成され、北側の中心主郭
はきり残された土塁を基に四周を囲郭し、この内側裾部や内側法面に石垣積みが
認められる南側の郭は北に低い土塁が残り、近世になって修復、改造がなされた
と思われる。また、背後、前面の歓喜寺山に山城が築かれており、L字状の土塁や
北東を除く三方には掘り切りなどが認められる。

⑩歓喜寺山城(大物、尾根、林)
⑪荒川城(荒川、平地、宅地や墓地)
荒川城は荒川の城之本と言うところにあったとされる。この城に関しての
文献資料はほとんど見当たらないが、絵図が残っており、それには城之本の地域の中に
古城跡と書かれている。また、ここの城主が木戸十乗坊という記録があり、
同氏は木戸城の城主でもあり、木戸城の確定とともに確認をする必要がある。

⑬木戸山城、城尾山城とも言う(木戸、尾根、林)
現在の木戸センターより西北西の比良山中腹の尾根部分にあったとされる。この地域は
古くから大川谷に沿って西に向かい、木戸峠より葛川の木戸口や坊村にいたる木戸
越えの道が通る。このため、この城の役目は木戸越えの道の確保であったとも推測され
る。城としては、堀切りを設け、東を除く三方に土塁を築いていた。
しかし、この城も「元亀三年信長滅ぼす、諸氏山中に隠れる」とあり、その時に
破壊されたのかもしれない。
http://www.oumi-castle.net/bunrui/ootu.html

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