2016年1月30日土曜日

里の四季

■志賀町の四季
本町は木と緑に恵まれた自然景観の美しいまちであり、古代以来、多くの歌人
によって、歌われてきた。
「恵慶集」に旧暦10月に比良を訪れた時に詠んだ9首の歌がある。

比良の山 もみじは夜の間 いかならむ 峰の上風 打ちしきり吹く
人住まず 隣絶えたる 山里に 寝覚めの鹿の 声のみぞする
岸近く 残れる菊は 霜ならで 波をさへこそ しのぐべらなれ
見る人も 沖の荒波 うとけれど わざと馴れいる 鴛(おし)かたつかも 
磯触(いそふり)に さわぐ波だに 高ければ 峰の木の葉も いまは残らじ
唐錦(からにしき) あはなる糸に よりければ 山水にこそ 乱るべらなれ
もみぢゆえ み山ほとりに 宿とりて 夜の嵐に しづ心なし
氷だに まだ山水に むすばねど 比良の高嶺は 雪降りにけり
よどみなく 波路に通ふ 海女(あま)舟は いづこを宿と さして行くらむ

これらの歌は、晩秋から初冬にかけての琵琶湖と比良山地からなる景観の微妙な
季節の移り変わりを、見事に表現している。散っていく紅葉に心を痛めながら
山で鳴く鹿の声、湖岸の菊、波にただよう水鳥や漁をする舟に思いをよせつつ、
比良の山の冠雪から確かな冬の到来をつげている。そして、冬の到来を予感させる
山から吹く強い風により、紅葉が散り終えた事を示唆している。これらの歌が
作られてから焼く1000年の歳月が過ぎているが、現在でも11月頃になると
比良では同じ様な景色が見られる。
このほかに、本町域に関する歌には、「比良の山(比良の高嶺、比良の峰)」
「比良の海」、「比良の浦」「比良の湊」「小松」「小松が崎」「小松の山」
が詠みこまれている。その中で、もっとも多いのが、「比良の山」を題材に
して詠まれた歌である。比良山地は、四季の変化が美しく、とりわけ冬は
「比良の暮雪」「比良おろし」で良く知られている。「比良の山」「比良の
高嶺」を詠んだ代表的な歌を、春夏秋冬に分けて紹介する。

春は、「霞」「花」「桜」が詠まれている。
雪消えぬ 比良の高嶺も 春来れば そことも見えず 霞たなびく
近江路や 真野の浜辺に 駒とめて 比良の高嶺の 花を見るかな
桜咲く 比良の山風 吹くなべに 花のさざ波 寄する湖
 
夏は、「ほととぎす」が詠まれている。
ほととぎす 三津の浜辺に 待つ声を 比良の高嶺に 鳴き過ぎべしや

秋は、「もみじ」と「月」が詠まれている。
ちはやぶる 比良のみ山の もみぢ葉に 木綿(ゆふ)かけわたす 今朝の白雲
もみぢ葉を 比良のおろしの 吹き寄せて 志賀の大曲(おおわだ) 錦浮かべり
真野の浦を 漕ぎ出でて見れば 楽浪(さざなみ)や 比良の高嶺に 月かたぶきぬ

冬には、「雪」「風」が詠まれている。
吹きわたす 比良の吹雪の 寒くとも 日つぎ(天皇)の御狩(みかり)せで
止まめやは
楽浪や 比良の高嶺に 雪降れば 難波葦毛の 駒並(な)めてけり
楽浪や 比良の山風 早からし 波間に消ゆる 海人の釣舟

また、藤原俊成が悠紀方の屏風歌を勤め、梅原山、長沢池、玉蔭井と
ともに小松崎を詠んでいる。

子ねの日して小松が崎をけふみればはるかに千代の影ぞ浮かべる

子の日の遊びをして小松が崎を今日みると、はるかに遠く千代までも
栄える松の影が浮かんでいる。というのが、和歌の主旨で、天皇の千代の
代を言祝いだ和歌である。子の日の遊びと言うのは、正月の初の子の日に
小松を引き、若葉を摘んだりして、邪気を避け、長寿を祈った行事である。
小松崎と小松引きとが上手く掛けられている。松を含む地名自体、めでたい
とされたのであろう。
平安時代後期の歌人としても、似顔絵の先駆者としても著名な藤原隆信も
小松崎を

風わたるこすえのをとはさひしくてこまつかおきにやとる月影

と詠んでいる。この和歌には、
こまつというところをまかりてみれは、まことにちいさきまつはらおもしろく
見わたされるに、月いとあかきをなかめいたして
という詞書が記されており、隆信が実際に小松崎を訪れて詠んだ歌であることが
察せられる。
隆信の和歌が小松を訪れて詠んだ和歌ならば,小松に住む人にあてた和歌もあった。

人のこ松というところに侍りしに、雪のいたうふりふりしかば、つかしし、
朝ほらけおもひやるかなほどもなくこ松は雪にうづもれぬらむ

作者の右馬内侍は平安時代中期の歌壇で活躍した女流歌人なので、当卷で扱う
には少し時代が古いが、小松に近づく雪の季節に対して、そこに住む友人を
おもんばかる気持がよくあらわれている。小松あたりの冬の厳しさは有名で
あったと察せられる。
このように、比良の山々は、古代の知識人に親しまれ、景勝の地として称賛
されていたのである。
 
そのほか
志賀町史P450より
町内の寺院宗派には、天台真盛宗、浄土宗、浄土真宗、臨済宗、日蓮宗などがある。
いずれも寺院の規模は小さく、本堂と門、鐘楼、庫裏などの付属建築物で構成される。
主な寺院建築には次のようなものがある。
①徳勝寺(浄土真宗 北小松)
 枝垂桜が有名。
②徳善寺(真宗 北小松)
③法泉寺(真宗 北小松)
④種徳寺(臨済宗東福寺派 北小松)
 お寺からの景観が素晴らしい。
⑤正覚寺(浄土真宗 北小松)
⑥大仙寺(天台真盛宗 南小松)
⑦西方寺(浄土真宗 南小松)
⑧専徳寺(浄土真宗 南小松)
⑨徳浄寺(浄土真宗 南小松)
⑩聞名寺(真宗 南小松)

小松から比良、木戸にかけては、城跡が多いが、城跡として景観を保つものはなく、
歴史遺構として見せられるか、不明。参考として、
志賀町域の城郭遺構としては15箇所ある。
①寒風峠の遺構(北小松、山腹にあり、現在林)
②涼峠山城(北小松、山腹、林)
③伊藤氏城または小松城(北小松、平地、宅地や田、堀切土塁あり)
④ダンダ坊城(北比良、山腹、林)
⑤田中坊城(北比良、湖岸、福田寺)
⑥比良城(比良、平地、宅地)
⑦南比良城(南比良、湖岸、宅地)
⑧野々口山城(南比良、山頂、林)
⑨歓喜寺城(大物、山腹、林)
⑩歓喜寺山城(大物、尾根、林)
⑪荒川城(荒川、平地、宅地や墓地)
⑫木戸城(木戸、湖岸、宅地)
⑬木戸山城、城尾山城とも言う(木戸、尾根、林)
⑭栗原城(栗原、不明、宅地)
⑮高城(和邇、不明、宅地)

志賀町史より
本町地域での陸路と水路の集落にも、役割が出てくる。
陸路でもあり、各荘園の中心集落としては、
南小松、大物、荒川、木戸、八屋戸、南船路、和邇中、小野があった。
これらの中でも、木戸荘は中心的な荘園であった。
水路、漁業の中心としては、
北小松、北比良、南比良、和邇の北浜、中浜、南浜があった。
和邇は、天皇神社含め多くの遺跡があり、堅田や坂本と並んで湖西における
重要な浜津であり、古代北陸道の駅家もあった。古代の駅家がその後の
中心的な集落になる事例は多くある。現在の和邇今宿が和邇宿であったことが
考えられる。

・本町地域を眺望する絵図
地域をより具体的に見ていくには、地図の存在が大きい。
中世に書かれた比良荘絵図が3点ほどある。
北小松図、北比良図、南比良図である。
こられの裏書などからその地域を領有していたものが分かる。多くは、比叡山
の山徒であった。また、これら絵図の目的の多くは、各荘との境界を明確に
するものであったようで、直接関係が少ない山の名前では、違いがある場合が
少なくない。境界争いや水利権争いでは、どの時代でも、これらの絵図を基本
として、使っているようであり、境界近くの正確性が求められていた。
境界争いでは、「小松荘と音羽、比良荘」との争いや「木戸荘と比良荘との葛川」
「和邇荘と龍華荘との境界争い」など多くあるようであり、幕府や延暦寺など
に残る古文書からもそれが覗える。

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