2016年1月30日土曜日

小松では、

小松地区では、

志賀町史にも、記述があります。
「比良の山嵐が吹き降りる湖岸に眼をやると、近江国與地志略には、
比良北小松崎 則比良川の下流の崎なり。往古よりふるき松二株有り。
湖上の舟の上下のめあてにす。
と、その由緒を記す小松崎がある。現在の近江舞子、雄松崎付近にあたる
のであろうか。この小松崎も大嘗祭の屏風歌に詠みこまれるほどの
歌枕であった。大嘗祭とは天皇が即位の後,初めておこなう新嘗祭
のことで、大嘗祭に際しては、あらかじめ占いで定められた悠紀、主基ずき
の二国から神饌が献じられるのが決まりであった。そして、平安時代の
宇多、醍醐天皇の頃には、悠紀は近江国、主基は丹波ないしは備中国に
固定していた。また、神饌とともに悠紀、主基の名所を織り込んだ
屏風歌の風俗歌が詠進されるのも恒例となっていた。仁安元年(1166)
六条天皇の大嘗祭の折には、平安時代後期の代表的な歌人である藤原俊成
が悠紀方の屏風歌を勤め、梅原山、長沢池、玉蔭井とともに小松崎を
詠んでいる。
子ねの日して小松が崎をけふみればはるかに千代の影ぞ浮かべる
子の日の遊びをして小松が崎を今日みると、はるかに遠く千代までも
栄える松の影が浮かんでいる。というのが、和歌の主旨で、天皇の千代の
代を言祝いだ和歌である。子の日の遊びと言うのは、正月の初の子の日に
小松を引き、若葉を摘んだりして、邪気を避け、長寿を祈った行事である。
小松崎と小松引きとが上手く掛けられている。松を含む地名自体、めでたい
とされたのであろう。
また、平安時代後期の歌人としても、似顔絵の先駆者としても著名な藤原
隆信も小松崎を
風わたるこすえのをとはさひしくてこまつかおきにやとる月影
と詠んでいる。この和歌には、
こまつというところをまかりてみれは、まことにちいさきまつはらおもしろく
見わたされるに、月いとあかきをなかめいたして
という詞書が記されており、隆信が実際に小松崎を訪れて詠んだ歌であることが
察せられる。
隆信の和歌が小松を訪れて詠んだ和歌ならば,小松に住む人にあてた和歌もあった。
人のこ松というところに侍りしに、雪のいたうふりふりしかば、つかしし、
朝ほらけおもひやるかなほどもなくこ松は雪にうづもれぬらむ
作者の右馬内侍は平安時代中期の歌壇で活躍した女流歌人なので、当卷で扱う
には少し時代が古いが、小松に近づく雪の季節に対して、そこに住む友人を
おもんばかる気持がよくあらわれている。小松あたりの冬の厳しさは有名で
あったと察せられる。」
http://8tagarasu.cocolog-nifty.com/sakamitisannpo/2013/04/post-91e5.html

1)樹下神社
御祭神は、鴨玉依姫命です。水を守る神様です。
創祀年代は不詳であるが、天元5年(982年)に佐々木成頼により日吉十禅師
(現日吉大社摂社樹下宮)を勧請したのに創まるとの伝えがあります。
以来、近江国守護佐々木氏の崇敬を受け、社頭は発展しました。
元亀の争乱時(16世紀後葉)に、織田信長軍により壊滅的な打撃を受けたが、
続く天正年間に規模は小さくなったが再建されました。明治3年(1870年)
に十禅師社と称していた社号を、樹下神社に改め、明治9年には村社に列し、
同41年には神饌幣帛料供進社に指定されました。
境内社には、比較的大きな社務所もあり、天滿宮、金比羅宮、大髭神社があります。
また、石造りの社があり、天保時代の石燈籠など8基ほどあり、この神社への信仰
の篤さを感じます。珍しいのは大きな石をくり抜いたであろう石棺や緑の縞が
明瞭に出ている2メートルほどの守山石など石文化の一端が感じられます。
湧水も豊富であり、3箇所ほどの湧き口からは絶えることなくなく流れています。
竜神の像の口からも出ています。また、この神社を少し山側に行くと、修験堂の
登り口の前に「生水(しょうず)」と呼ばれている湧水の場所があります。
ほぼ16度ほどの温度を保っているようです。


http://www.shiga-jinjacho.jp/ycBBS/Board.cgi/02_jinja_db/db/ycDB_02jinja-pc-de
tail.html?mode:view=1&view:oid=131
http://achikochitazusaete.web.fc2.com/chinju/otsu2/juges15/kkomatu.html
http://achikochitazusaete.web.fc2.com/chinju/otsu2/otsu.html

2)伊藤城跡(小松城跡)その石の水路の織り成す城下の面影
戦国期の土豪である伊藤氏の館城、平地の城館跡です。現在の北小松集落の中
に位置し、「民部屋敷」「吉兵衛屋敷」「斎兵衛屋敷」と呼ばれる伝承地が残ります。
当該地は町内でも最北端の集落で、湖岸にほど近く、かっては水路が集落内をめぐり
この城館も直接水運を利用したであろうし、その水路が防御的な役割を演じて
いたであろうと思われます。街を歩くと、幾重のも伸びている溝や石垣の作りは
堅牢で苔生したその姿からは、何百年の時を感じます。
旧小松郵便局の前の道は堀を埋めたもので、その向かいの「吉兵衛屋敷」の道沿い
には、土塁の上に欅が6,7本あったと言われています。また、民部屋敷にも、
前栽の一部になっている土塁の残欠があり、モチの木が植えられています。
土塁には門があり、跳ね橋で夜は上げていたと伝えられます。
http://www.oumi-castle.net/second_page/komatu.html


3)「かわと」の風情
「かばた」とも言われるが、家の中に湧き水や琵琶湖の水、川の水を引き込み
生活用水として利用した。高島の針江のかばたが、最近有名である。小松では、
山からの湧水が川となり、それを生活用水として利用していました。まだ、
彼方此方に残っていは居ますが、多くは数段の石段が川に延びた状態で、
昔の面影を残すのみとなっています。


4)紅殻格子の家並み
司馬遼太郎の「街道をゆく」でも紹介されています。
「北小松の家々の軒は低く、紅殻格子が古び、厠の扉までが紅殻が塗られて、
その赤は須田国太郎の色調のようであった。それが粉雪によく映えて
こういう漁村がであったならばどんなに懐かしいだろうと思った。
、、、、私の足元に、溝がある。水がわずかに流れている。
村の中のこの水は堅牢に石囲いされていて、おそらく何百年経つに
相違ないほどに石の面が磨耗していた。石垣や石積みの上手さは、
湖西の特徴の1つである。山の水がわずかな距離を走って湖に落ちる。
その水走りの傾斜面に田畑が広がっているのだが、ところがこの付近
の川は眼に見えない。この村の中の溝を除いては、皆暗渠になっている
のである。この地方の言葉では、この田園の暗渠をショウズヌキという。」
街の中を歩くと、その痕跡が残ります。

5)小松漁港
志賀町史より
「北小松、北比良、南比良、和邇の北浜、中浜、南浜があった。
和邇は、天皇神社含め多くの遺跡があり、堅田や坂本と並んで湖西における
重要な浜津であった」
http://8tagarasu.cocolog-nifty.com/sakamitisannpo/2013/04/post-91e5.html
この漁港も石造りの防波堤や港周辺の様々な造りに石が上手く使われています。
先ほどの集落内の水路の石垣やかわとの造りを味わうとまた楽しいのでは。

6)比良元気村
http://genkimura.blog.eonet.jp/
星と琵琶湖の良く見える場所です。

7)湖西焼きの体験
昔から伝わる湖西焼きの復活を目指して頑張っています。
http://en-koubou.jp/

8)徳勝寺(しだれ桜)
徳勝寺(大津市北小松)の境内に咲く枝垂桜が見事です。
エドヒガン桜の種類で樹齢は150年。このお寺は地元では北の寺(きたのてら)と
親しまれています。薬師堂があり、地元ではお薬師さんと呼ばれ、薬師如来が
祭られています。
http://kawasuso.exblog.jp/17813753

9)種徳寺
種徳禅寺:臨済宗東福寺派龍王山)
応安4年(600余年前)足利義満、伊藤丹後守祐義により創建され、
応仁の乱の頃京都相国寺より節叟松公禅師を開山に迎え種徳寺誕生しました。
一時海蔵庵と称したが、元文元年8月3日元の種徳寺に戻ります。
前に琵琶湖、後ろに比良山を背した境内、母の慈愛の心を持ち「母と子」子供と
地蔵さまの出合い永遠に幸せを守る地蔵尊です。
ここの「弘法大師堂」は安産祈願を司ります。庭園は、大きな坐禅台があり、
枯れ池と大きな石橋、池端の雪見灯篭、小ぶりの山灯篭が配置されています。

琵琶湖の景観が素晴らしいです。

10)滝見台と楊梅の滝
この滝は、天文23年(1554年)に足利13代将軍義輝が比良小松に遊んだ時に
「楊梅の滝」と名付けたと伝えられています。「楊梅」とは、高さ十数mにもなる
「ヤマモモ」の木を意味し、山中を堂々と流れ落ちる滝の水柱をその大木にたとえて、
「楊梅の滝」と名付けられたといわれています。この「楊梅の滝」は、県下一の落差
を誇る滝です。雄滝、薬研滝、雌滝の三段に分かれ、落差は雄滝で40m、薬研の滝で
21m、雌滝で15mほどあり、合わせて76mになります。湖上船やJR湖西線の
車窓など遠くからでも眺める事が出来、その遠景は白布を垂れかけたように見える事
から「白布の滝」や「布引の滝」とも呼ばれています。
この滝の少し手前に滝見台があります。また、この滝を更に登ったところには、昔
氷室があり、冬に切り出した氷を保存していたとも言われています。
http://kusahato.web.fc2.com/soukyuan-2/walking/uo-17youbainotaki/youbainotaki.
html

鎌倉時代以降になると、京都と東国を往還する人々も多くなってくる。
京都の公家たちも、鎌倉幕府の要請やみずから鎌倉幕府との人脈を求めて
鎌倉へ下向していった。
また、東国への旅が一般化すると、諸国の大寺社や歌枕を実際に見聞しに行く
者たちも増えていった。
「宋雅道すがらの記」を記した飛鳥井雅縁もそんな一人である。宋雅とは出家後の
号、飛鳥井家は和歌,蹴鞠の家として知られ、家祖雅経の頃から幕府、武家との
関係が親密であり、雅縁も足利義満の信任が非常に厚かった。そんな雅縁が
越前国気比大社参詣に出立したのが、応永三十四年2月23日、70歳の時である。
実は、この紀行文も旅から帰った後、将軍義教より旅で詠んだ和歌があるだろと
まとめの要請があって記したものである。旅の路順は湖西を船で進んでいたようで、
日吉大社を遥拝し、堅田を過ぎて、真野の浦、湖上より伊吹山を眺め、比良の宿に
宿泊している。そこで、
比良の海やわか年浪の七十を八十のみなとにかけて見る哉
と自分の年齢をかけた和歌を詠んでいる。翌日は小松を通っている。小松の松原を
目の当たりにして、

小松と言う所を見れば名にたちてまことにはるかなる松原あり
我が身今老木なりとも小松原ことの葉かはす友とたに見よ

同じく長寿を保つ松原に呼びかけるような和歌である。次は、白鬚、ここでも、
神の名もけふしらひけの宮柱立よる老の浪をたすけよ

と、長寿をまもるという白鬚神社に自分の老いを託している。そして、竹生島を
船上より眺め、今津、海津、そこから山道をとって、29日には気比大社
に詣で、参籠して3月17日に帰京している。
将軍などの見聞旅行に随行の記録もある。
冷泉為広が細川政元の諸国名所巡検の同行記録では、
出立は延徳3年京を山中越えで坂本へ、比叡辻宝泉寺に宿泊。翌日は船に乗り
湖上を行った。東に鏡山、三上山、西に比良山,和邇崎を見ながらの通航
であった。そして、船中であるが和邇で昼の休みを取っている。
次に映ったのが、比良あたりの松である。
ヒラノ流松宿あり向天神ヤウカウトテ松原中に葉白き松二本アリ
「向天神」とは現在も北比良に鎮座する天満神社のことであろう。「ヤウカウ」は
影向で、「近江国與地志略」などにいう、社建立の際に生じたという神体的な要素
を持つ松のことである。また、小松のところでは、「コノ所ニワウハイノ瀧ト伝瀧
アリ、麓に天神マシマス」として「ワウハイ、楊梅瀧」について記している。
コノ瀧については、「近江国與地志略」でも、
・楊梅瀧  小松山にあり、小松山はその高さ4町半あり。瀧は山の八分より流る。
瀧つぼ五間四方許、たきはば上にて三間、中にては四間,下にては亦三間ばかり、
この瀧、長さ二十間、はばは三間許、水は西の方より流れて東へ出、曲折して
南へ落、白布を引きがごとし、故にあるひは布引の瀧といふ。瀧の辺り,岩に
苔生じ,小松繁茂し、甚だ壮観なり。
とみえ、近世には名所となっていたことがわかるが、冷泉為広のじだいにもすでに
注目に値する名勝であったらしいことがうかがえる。そして、一向は湖上の旅
を続け陸路で敦賀,武生と進み、越中,越後をめぐり4月28日に京都へ帰っている。

北小松には、柴刈の時に唄う囃し歌があります。
昔は、柴と米とは生活するのに一番大切なもので、「米炭の資」と言って生活に
大切なものと言う喩えもありました。
「柴刈りうた」
山へ行くならわし誘とくれ
山はよいとこ気が晴れて
涼みむき上げて花一越えて
どんどと下がれば畑の小場
大滝小滝は唄で越す
どんどと下がればしたえ松
したえ松からかきの小場までも
まだも待つのか弁当箱

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