旧志賀町は、古代からの交通の要衝であり、都の鬼門としての比良山や
多くの遺跡や寺社仏閣、そして比良山系と琵琶湖の自然を直に味わえる
地域でもある。二十四節気、七十二候の万物風習が垣間見られもする。
時代の流れ、季節の移ろい、これらが渾然一体となって訪れる人々を
慈しみ、癒す。更には、万葉集、俳句などから古代からの美しさを
それらの歌とともに感じていく。ここでは「自然の水、生命の水、農の水、
漁の水、工の水、生活の水をそれぞれに味わう。
「我々は、この地域の資産を単なる勧賞物以上に仕立て、これを自然と
人間との調和」として時間を超えたストリーを提供する。
小野から和邇へ
1)小野妹子神社と唐臼山古墳
小野妹子の墓といわれている唐臼山古墳の上に祀られています。
祭神:大徳冠位小野妹子
推古天皇の時代、遣隋使として中国隋に聖徳太子より国書を託された小野妹子
は大国隋へ対等の外交交渉を拓り開き日本の力を示されました。
現在も神社へは外交官、駐在員の参拝者があり、華道の創始者でもあります。
華道関係の訪問者も多い様である。社殿裏の石垣の跡は、古墳の巨大な箱型
石棺状の石室が露出したものです。
http://katata.info/2013/09/ohmisangasyo-038/
白洲正子「近江山河抄」より
国道沿いの道風神社の手前を左に入ると、そのとっつきの山懐の丘の上に、
大きな古墳群が見出される。妹子の墓と呼ばれる唐臼山古墳は、この丘の
尾根つづきにあり、老松の根元に石室が露出し、大きな石がるいるいと
重なっているのは、みるからに凄まじい風景である。が、そこからの眺めは
すばらしく、真野の入り江を眼下にのぞみ、その向こうには三上山から
湖東の連山、湖水に浮かぶ沖つ島もみえ、目近に比叡山がそびえる景色は、
思わず嘆息を発していしまう。その一番奥にあるのが、大塚山古墳で、
いずれなにがしの命の奥津城に違いないが、背後には、比良山がのしかかるように
迫り、無言のうちに彼らが経てきた歴史を語っている。
2)大塚山古墳とゼニワラ古墳
曼陀羅山北古墳群(小野朝日の西側)、大塚山北古墳群(曼陀羅山の北側)、
ゼニワラ古墳(大塚山の北側)がこの地域に点在しています。
http://katata.cocolog-nifty.com/blog/2013/09/post-44d8.html
http://katata.cocolog-nifty.com/blog/2013/09/post-8b46.html
3)小野道風神社と石神古墳群
小野神社飛地境内社の小野道風神社本殿は、小野篁神社や天皇神社と同じ、切妻造平
入(国の重要文化財)で南北朝時代・歴応四年(1341)に建てられ、小野篁神社より規模は
少し小さいですが、重量感があふれています。
祭神:小野道風(おののとうふう)
小野道風は、平安時代中期の書家で小野篁の孫。醍醐、朱雀、村上三朝に歴任。柳に
飛付く蛙の姿を見て発奮努力して、文筆の極地に達せられ、藤原佐理、藤原行成と共に
日本三大文筆、三跡の一人として文筆の神として崇められています。
小野津大明神に対して大般若経600巻によって五穀豊穣を願う転読を上品寺
(じょうぽんじ)の住職によって横の建物(華達院はなついん)で行います。
小野道風神社からは、竹林を抜けていく途中に石神古墳群があります。
多くの古墳は既に散逸し石室の一部が見えます。ただ、私有地であるため、通常は
入れませんが、ほぼ完全に残る石室が右手竹林の中にあります。天井、床とも
縦横3メートルほどの一枚岩で出来ています。
5世紀ぐらいには前方後円が春日山や曼陀羅山に一つづつあるぐらいで、多くは
渡来系の古墳とは違い、6世紀前後の地元の有力豪族の小さな古墳であり、この古墳群
もその時期に当たります。
http://katata.info/2013/09/ohmisangasyo-037/
4)小野神社と小野篁神社
祭神:天足彦国押人命(あまたらしひこくにおしひと) ・米餅搗大使主命(たかねつき
おおおみ) ・小野妹子命
旧道に接した上品寺の塀角に小野神社の石碑が建っています。その横は小野篁神社
へ向う幅広い参道です。しかし、ここで言う「たかね」は鉄のことも指しており、
この辺一体が、鉄を生産していたことに関係があるのかもしれません。
参道右脇に生育するムクロジは、胸高周囲4・19mもの大樹で県下最大です。
樹勢もあり、秋には多くの実をつけます。参道左脇にある川溝には、山から染み出した
清らかで、指がきれそうな冷たい水が流れ、昔から生活用水として使われています。
鳥居をくぐりさらにすすむと、途中、左側に小野神社へ向う細い参道があらわれます。
右側には石塔が建ち、鳥居をくぐると本殿が正面に見えます。狛犬と燈籠が建つ
のみである。横には小野篁神社の本殿が建ています。
しどき祭
11月2日 7代目米餅揚大使主命(たがねつきおおみかみのみこと)は餅つくりの始祖
とされ、毎年秋に全国の菓子製造業者が集まり、餅を形作った御輿を巡幸します。
境内の神田で穫れた新穀の餅米を前日から水に浸して、生のまま木臼で搗き固め、
それを藁のツトに包み入れます。納豆のように包まれたこれを「しとぎ」と
呼んでいます。
そして他の神饌とともに神前に供え、祭典が終わると、注連縄を張り渡した青竹を
捧げ持ち、小野地区(神座)を北、中、南の順で廻り、各地点で「しとぎ」を吊り
下げて礼拝し、五穀豊穣・天下泰平を祈念します。
小野篁神社は、小野神社の境内社として小野神社本殿の前に位置します。
建築年代を示す史料はなく、様式の切妻造平入(国の重要文化財)から小野道風神社
本殿と同じ南北朝時代前期の歴応年間(1338~1342)の建築と考えられています。
祭神:小野篁(おののたかむら)
小野篁は、平安時代初期の公卿で漢詩文「令義解(りょうのぎげ」の撰修に参画
した漢詩人で、学者・歌人としても知られています。
他に、小野篁の孫にあたる平安時代前期の女流歌人六歌仙・三十六歌仙の一人
である小野小町の供養塔もあります。
http://katata.info/2013/09/ohmisangasyo-037/
5)天皇神社(和邇中)
社伝によれば、創建は康保3年(966)と伝えられ、元は天台宗寺院鎮守社として京都
八坂の祇園牛頭天王を奉還して和邇牛頭天王社と呼ばれていましたが、明治9年(1876)
に天皇神社と改称されました。
祭神は、素盞嗚尊(スサノオノミコト)。
三宮神社殿、樹下神社本殿、若宮神社本殿もあります。
近世では、五か村の氏神となっています。
現在の本殿は、隅柱や歴代記等から鎌倉時代の正中元年(1324)に建立されと考えら
れており、本殿は流造の多い中、全国的にも稀な三間社切妻造平入の鎌倉時代の作風を
伝える外観の整った建物で、滋賀県内では隣接の小野篁神社本殿、小野道風神社本殿の
3棟にすぎません。5月8日には旧六か村の和邇祭が行われます。これは近世の
和邇庄の成り立ちに関係します。庄鎮守社としてこの天皇神社(天王社)の境内には、
各村の氏神が摂末社としてあります。天王社本社(大宮)は和邇中、今宿、中浜は樹下
(十禅師権現)、北浜は三之宮、南浜は木元大明神、高城は若宮大明神があり、
夫々の神輿を出します。
http://11.pro.tok2.com/~kazuo/m20-192.html
http://nishioumi.ct-net.com/00-05.shtml
http://www.photoland-aris.com/myanmar/oumi/44/
また、10世紀以前の神像があります。像の由来は分かっていません。和邇豪族の
昔は和邇川の中に神輿を入れて御旅所に向かったとそうです。
なお、天皇神社の少し手前には「いぼの木」の碑があります。これは和邇祭の際に
神輿を担ぎ出す時の合図のための竹を入れたとのことです。
6)榎の宿の顕彰碑
JR湖西線の和邇駅から南へ西近江路を歩いて行くと十字路の真ん中に石垣の上に注
連縄が巻かれ「榎」と彫られた大きな石があります。この場所は、古代北陸道・和邇の
宿駅として平安朝以降、湖西の交通の要拠でした。
江戸時代、徳川幕府は全国の街道に一里塚を設けるように指示し、ここの一里塚にも
榎の木を植えられ、「榎の宿」と呼ばれ、また近くの「天皇神社」ご神木として噂宗さ
れていましたが、樹齢360年余で朽ち、昭和43年に神木榎と榎の宿を偲ぶ有志によ
り「榎の顕彰碑」として建立されたとのことです。 この石碑の横には、少し前まで
木下屋という宿屋(和邇の陣屋?)がありましたが、今は取り壊され何もありません。
また、この碑の中には維持管理に関する古文書があったとも言われています。
7)西岸寺
阿弥陀物像があります。天台宗です。
8)和邇中の高札所や年貢米の倉庫
今の和邇中の公民館にありました。和邇中村絵図に描かれています。
江戸時代は郷帳というもので、石高、支配者などが書かれています。旗本領や三上藩
などが分けて支配していた場合もあります。
このため、領主ごとに庄屋がいました(あいきゅう)。
9)中井家の門構え
市橋領の庄屋であった。そのときの陣屋の門であったとも言われています。
なお、直ぐ横に流れる和邇川は水の管理に関して争論が多くあったそうです。
「和邇川争論絵図」と言うものがあった。またこの争いをなくすため、関係文書、
絵図を保存のための箱と鍵を別に持って輪番管理をしています。これは今も
管理運用されています。
10)ころもさんの松
中浜の一角に樹齢三百年といわれる黒松があります。松の根元には、「渋谷金王丸
之墓」と記された塚があります。金王丸は源義朝の忠臣で、主君の死を弔うため、
仏門に入り、義朝の霊を守ったとされ、和邇から途中越えで京都に向う中で、
ここで休んだとされます。
11)蕃山堂跡
今は、湖西道路の道の駅「妹子の里」の横の県道をあがり、栗原の町並みを
比良山に向かい歩いていくと石碑があります。熊沢蕃山は藤江藤樹と並び江戸
時代の学者ですが、娘がこの栗原の地に嫁いできたこともあり、蕃山文庫が
建てられました。
http://lycaste621.shiga-saku.net/e14898.html
http://www.burat.jp/members/blog/entry_disp.200610041000-3000023.200610182113-
3000022.201205151903-3000020
12)水分神社(みくまり)
http://blog.goo.ne.jp/pzm4366/e/479be87f99072ae7df9d18e84aed240c
御祭神は、天水分神アメノミクマリノカミ。
当社は康元元年の創祀と伝えられ、元八大龍王社と称して、和邇荘全域の祈雨場
であった。応永三十五年畑庄司藤原友章が栗原村を領した際采地の内より若干の
神地を寄進した。元禄五年社殿改造の記録がある。尚和邇荘全体の祈雨場であった
のが、後に和邇荘を三つに分けて、三交代で祭典を行い、更に後世栗原村のみの
氏神となって現在に及んでいる。また当社には古くから村座として十人衆があり、
その下に一年神主が居て祭典、宮司が司る。この為古神事が名称もそのままに
残っています。
その主なものを記すと、神事始祭(一月十日)日仰祭(三月六日)菖蒲祭(六月五日)
権現祭(七月二十日)八朔祭(九月一日)ヘイトウ祭(九月二十八日)等があり、
八朔祭には若衆による武者行列がありました。
御田植え祭が6月10日にある。
http://www.eonet.ne.jp/~oumimatsuri/610bunsui.htm
13)栗原の棚田
比叡山の麓、琵琶湖を見下ろす山腹に、多くの棚田が作られています。琵琶湖西南部
の湖畔には、昔ながらの里山風景が残されています。
http://blog.goo.ne.jp/j86ku86uk01/e/5f0ca503bcb251b731d2c8b99937d64a
美しい日の出の写真です。
http://miz.yu-yake.com/thema/tanada/kurihara-09-hinode.html
冬の棚田からは遠く三上山など対岸の山並も良く見えます。
http://miz.yu-yake.com/thema/tanada/kurihara-yuki-08.html
なお、栗原にはもう一つ棚田があります。山並みに隠れるように幾重にも水路が通り、
比良の懐に抱かれるような気持になります。
14)住吉神社(北浜)
花山天皇の皇子清仁親王が比良山景勝時へ参詣の帰りに御座船にのり沖に出たとき、
凄まじい突風が吹き船が転覆しそうになったが、皇子が「住吉大明神」に祈願すると、
風が収まったという。この事に感謝された天皇が北浜湊に住吉神社と神餞田を下されま
した。
15)燈籠場地蔵(とろば 中浜)
昔若狭街道沿いに立てられいた地蔵さんです。地元の信仰を集め毎年8月二十四日には
地蔵菩薩を奉る行事があります。今は公民館の横にお堂が建てられ祀られています。
その他多くの神社
・慶福寺(天台真盛宗 栗原)
・報恩寺(天台真盛宗 高城)
・真光寺(天台真盛宗 北浜)
・千手院(北浜)
・慶専寺(浄土真宗 南浜)
・西岸寺(浄土宗 和邇中)
・上品寺(天台真盛宗 小野)
・住吉神社(北浜)
祭神は、底筒男命、中筒男命、表筒男命
・大将軍神社(中浜)
祭神は、中浜神
・樹元神社(南浜)
祭神はククノチノカミ
参考として小野、和邇の古墳(志賀町史第4巻)を簡単にまとめます。
①北小松古墳群
写真では石室などはしっかりとしている。
②南船路古墳群
③天皇神社古墳群
④石神古墳群
小野神社と道風神社の中間、形は残っていない
⑤石釜古墳群
和邇川沿いの井の尻橋付近
⑥ヨウ古墳群
ゴルフ場と和邇川の中間
⑦前間田古墳群
⑥の隣り
⑧曼陀羅山北古墳群
小野朝日の西側
⑨大塚山北古墳群
⑧の北側
⑩ゼニワラ古墳
⑨の北側。玄室の写真あり
⑪唐臼山古墳
小野妹子公園の中にある。
和邇の湖岸は古歌に平浦、湊と詠われたところとも当たられて今の中浜、北浜、
南浜一帯を言われまた、南北比良あたりともされているが、南浜の樹元神社は
天暦8年創建ともいわれ北浜の住吉神社は寛政7年創始といい、南船路の八所
神社は神護景雲二年(768)創建と伝えられ真宗慶専寺は元天台で恵心の
創立といい北浜の真光寺は伝教大師の創立と言え早くから開け北国街道、
龍華街道の和邇駅への湖上の湊として比良とはすこし隔たっているが相応しく
想定される。
わが船は比良の湊に漕ぎ泊てむ沖へな離りさ夜ふけにけり 万葉集 高市連黒人
ふゆゆけば嵐やさえて漣(つれづれ)の比良の湊に千鳥なくなり
新拾遺集 宗尊
ふねとむる比良の湊に浮きねして山郭公(ほととぎす)枕にぞきく
家集 頓阿
他には、
におの海霞める沖に立つ波を花にぞ見する比良の山風 藤原為忠
嵐吹く比良の高嶺の嶺わたしにあはれしぐるる神無月かな 道因法師
桜咲く比良の山風吹くなべに花のさざ波寄する湖 藤原長方
比良山の小松が末にあらばこそわが思ふ妹に逢はずなりせば 柿本人麻呂
子の日して小松が崎を今日見れば遥かに千代の影ぞ浮かべる 藤原俊成
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